「いま」「ここ」からの社会変革論

解題　この論文は『季報唯物論研究』114号に寄稿したものです。

はじめに

　09年8月30日の衆議院総選挙で政権交代が行われ、新自由主義的政策を採ってきた自公政権に代わって、民主党が「国民生活が第一」というスローガンで鳩山内閣を組織した。しかし、旧勢力である官僚、財界、マスコミが結託して民主党の改革に敵対し、鳩山・小沢を攻撃して退陣に追い込み、比較的御しやすい菅内閣というある種の妥協内閣の実現で、民主党が総選挙で約束した改革は行き詰まっている。
　問題は製造業中心に輸出立国で成長してきた日本経済の改革が問われているのだが、旧勢力にはその回答なり処方箋を打ち出せず、もっぱらアメリカからの年次改革要望書を指針として、これに沿って日本経済の改革を実施し、結果としてアメリカの利益にかなうような経済体制を作り出し、日本社会を破滅させてきた。
　20世紀型社会・経済システムから、21世紀型社会・経済システムへの転換が要請されているのだが、旧勢力はそのシステムの設計すらなしえず、円高による国際競争力の低下を始め、雇用の崩壊、セーフティネットの破綻、自給率の低下、医療の崩壊、年金の崩壊、少子化、婚姻の減少、などといった話題が語られている。
従来の日本の社会・経済システムには、公的セクターと私的セクター（営利企業のセクター）しか計算に入れられておらず、事実上相当な勢力となっているサードサクター（非営利・協同セクター）は不当に無視されてきた。しかし、21世紀型社会・経済システムは、公的セクター、私的セクター、サードセクターのセクター間バランスを前提することによってしか設計できない。
　公的セクターは税金によって運営され、その組織は官僚制である。私的セクターは営利事業の担い手によって形成されるが、その組織は、資本や貨幣や商品に自己の意思を宿すことで運営される。これに対してサードセクターは、非営利・協同であるとか、共生であるとか、人間の経済といった位置づけがなされているが、そこにおける「資本」形成や社会関係資本（人々の経済的関係も含む）についての組織論は未開発である。
　実際にセクター間バランスを形成しようとすれば、事実上の巨大勢力であるサードセクターに属する諸団体が、サードセクターの一員として、独自のアイデンティティ形成のために活動することぬきには実現しない。おりしも2012年は国連が提唱する協同組合年であり、国際的に様々なイベントが実行される。日本でも今年の8月に内橋克人を代表とする実行委員会が開かれ、2011年・12年のイベント企画を検討している。
　このような現状を踏まえ、サードセクターのアイデンティティ形成のための基礎的作業として、今日における社会変革の実践的展望と、その実践における主体の規定及び主体性の形成について論じて見たい。

１．社会とは何か、社会変革論の課題

（１）従来の社会変革論
　社会変革をめざす以上、社会とは何かについての理解が要請される。従来の左翼の考え方は基本的に危機論であり、矛盾をはらんだ経済過程が危機に陥り、それが社会変革を招き寄せるという理解を超えてはいなかった。このような考え方にもとづけば、日常生活はありのままで、経済危機に際して国家権力を奪取することをめざして革命的運動を組織しようということになるが、しかし今回の経済恐慌に直面しても革命的運動の展望は明らかとはならなかった。
　このような理解を客観主義と批判し、主体性を強調する考え方も登場したが、情勢認識においては危機論を共有しつつ、党組織の内部に共産主義の母体を作り出すという理解に留まり、宗派的団体を作り出したにすぎなかった。
これらの社会変革論は経済過程の矛盾には注目するが、社会それ自体に対する理解は不分明であり、資本主義社会が経済過程における矛盾の爆発に対しても、社会的な対応によって社会革命への移行を阻止してきた、という歴史的過程に注意してはこなかった。あらためて社会とは何かという問いが問われるべきである。

（２）社会とは何かが解明されるべき
　社会とは社会を構成する人々の関係そのものを実体として成立しているもので、それ自体は物質的な実体を欠いている。ここでの関係とは、人と人との相互関係という抽象的なもので、実体といっても例えば神のように社会の中で成立している実体である。そのために、社会とは何かという問いに一義的な答えはない。
　手がかりとして、野村一夫が『社会学感覚』（文化書房博文社）で述べている社会論を紹介してみよう。野村は次の四点を社会の特徴としてあげている（20～26頁）。
　①　対象である社会が、意識を持った人間から構成されている。ここから野村は、研究対象が調査・研究によって変容することをあげている。
　②　対象である社会に観察主体が既に含まれてしまっている。ここから野村は自己に類推しての他者理解の可能性と、意味の理解が可能になるという。
　③　研究自体が、対象である社会を変えてしまう可能性がある。ここから野村は、研究・調査によって、研究対象に介入してしまうことを指摘している。
　④　人はみな醒めている分だけ社会学者である。ここから野村は、プロの社会学者だけでなく、誰でも社会学感覚を持つことができると主張している。
　野村はこのように、社会の自己言及性ということに注目しているのだが、それは社会を研究対象として措定し、研究者と社会との関係に問題を限定しているからである。しかし別の視点からの社会への接近もあるはずだ。それは社会がどのように生成されているかという問題を立てることではなかろうか。

２．人と人との関係としての社会

　私はここで、社会とは固定した既成のもので、人々がそこに入っていけるようなものではなく、日々再生産されている柔軟で変動していくものと考えたい。このような視点からすれば、社会が個々の人びとの関係によってどのように生成されているかという問いが生み出される。この問いに接近している人にアダム・スミスがいる。スミスは『国富論』の著者として、経済学者として有名だが、もともとは法学者で、道徳に関心を持ち、最初に『道徳感情論』を上梓している。スミスの言うところを聞いてみよう。
　「もし、人間という被造物が、ある孤独な場所で、かれ自身の種とのなんの交通もなしに成長して、成年に達することが可能であったとすれば、かれは、かれ自身の顔の美醜についてとおなじく、かれ自身の性格について、かれ自身の諸感情と行動の適宜性または欠陥について、かれ自身の精神の美醜について、考えることができないだろう。これらすべては、かれが容易にみることができず、自然に注視することがなく、それらにたいしてかれが目をむけることができるようにする鏡をあたえられてもいない、諸対象なのである。かれを社会のなかにつれてこよう。そうすればかれは、ただちに、かれがまえにもたなかった鏡をあたえられる。それは、かれがともに生活する人びとの、顔つきと態度のなかにおかれるのであって、その顔つきと態度はつねに、かれらがいつかれの諸感情のなかにはいりこむか、いつかれの諸感情を否認するかを、表示するのである。そして、ここにおいてかれははじめて、かれ自身の諸情念の適宜性と不適宜性、かれ自身の精神の美醜を、眺めるのである。」（アダム・スミス『道徳感情論』岩波文庫、上、293～4頁）
　このような考えは容易に理解されるであろう。人は他者を鏡として、自分自身を知り、自分の行為を逸脱から守る。鏡といってもガラスの鏡のように自分の顔が映るのではなく、自分を見た他人の顔つきと態度が自分の像を描き出しているということであり、それを見ることで自分の行為の社会的正当性についての評価を知ることができるのである。
　ミードはスミスの考えを継承しつつ、自我の生成について、それを社会的なものと考えて、自我をIとmeの分裂と相互の闘争から説明した。自我の分裂についてはスミスも述べているが、ミードはmeを共同体から発せられる一般的他者の態度を取得したものと考え、社会的自我の成立の根拠とした。以降自我の社会学というジャンルが生まれていろいろな業績が蓄積されているが、私の問題関心に関わる提起はあまりないようだ。つまり自我の社会学は、その出自が社会心理学にあることからも知れるように、個人としての社会的人間の自我の生成を、心理学的に追及するといった問題関心となっている。そうではなく、人と人との関係そのものの考察が社会解明の鍵となる、という問題意識に導かれて人々の対面関係の分析からはじめたいのだ。

３．社会生成論の展開

（１）対面関係
　まず結論から言えば、人々は既成の社会を対面関係で都度生成している、ということだ。
　生命が遺伝子からなることと同様に、社会は対面関係からなる。対面関係での既存の社会の承認が社会を存続させている。ところが遺伝子における変化が生命体に変異を起こすように、対面関係での変化（不承認）が社会の変容をつくり出す。
　対面関係で起きていることは、見る側が鏡となり、生身のままの個人が一般的他者、つまり社会通念の化身となることだ。見られる側は、その他者の態度を見てそれに同化することで既成の社会を再生産している。見られる側が同化しないと、オルタナティブに向けての運動が始まる。ということは、既成の社会のオルタナティブの提起は見られる側のイニシアティブによることになる。見られる側のオルタナティブな態度によって、見る側と見られる側の地位の転倒がおきる。オルタナティブな態度をした見られる側が、今度はこのオルタナティブな態度についての相手の対応を見る側となる。この見る側が見られる側となり、オルタナティブに同化した時に、オルタナティブが社会的に成立し、社会変容が始まる。対面関係では見られる側が仕草や態度を発信する能動的立場に立ち、見る側はそれを受ける受動的立場にたつ。
　対面関係で都度社会が生成されているという社会の構成は、人という生物学的意味での自然素材が、対面という関係においては社会を形成するのだが、その際の二人の関係はお互いに違う役割を果たしていることに注意しなければならない。見られる側は自然素材としての人間、見る側は、同じ人間としての自然素材そのものでありながら、それが同時に社会の一般的通念の代表に化身しているのである。ここでは、見る側は、類としての個として規定されている。つまり人間は社会関係（対面関係）の中では、自然素材でありながら、それが社会性を帯びるという二重の存在である。（単なる役割分担論はこの二重性についての単純な見方で、社会生成が解けない。）
　この二重の存在は、ミードの言うように、自我の二重性となり、相手との外的対話と共に、自我の内部での内的対話を成立させる。そうなると、対面関係のうちで起きる一般的他者の態度の取得が、対面関係の存在しないところで、自身の思惟過程の内での倫理的・道徳的な問題として捉えられる。そのために、この一般的他者の態度は、対面関係というそれの現実的生成過程とは無縁な、人間社会に先験的な倫理や道徳といったものへと理念化される。こうして、対面関係で都度生成される社会が、個々人の意識の中では人間社会の先験的な理念として把握されてしまうのである。

（２）対話の関係
　この対面関係が対話関係に移行すると、見る側と見られる側の関係が展開される。話す側は能動的な立場となり、聞く側は受動的な立場にたつ。聞く側が一般的他者の態度を表明する。一方的な会話ではなく、対話は双方向のコミュニケーションであり、話し手と聞き手は相互に交代しあう。そうすると対話している二人は交互に一般的他者の立場を取り合うことになる。
　意思の伝達は、それを意図する話す側が、意思を伝えようとする能動的な立場にありながら、対話の関係では見られる側となり、受動的立場の聞き手が見る側に立って、一般的他者の態度で対応する。つまり合意のイニシアティブは話し手の側にあるのではなく、聞き手の側にある。この構造が理解されていないと、話し手の意思の伝達はうまくいかない。
　組織的上下関係があり、意思の伝達が一方的な会話に終始している場合は、聞く側はイニシアティブを発揮することを放棄し、ただ単にうなずくことになる。ここでは対話による合意形成話されていない。
　既存の社会関係においては、コミュニケーションは双方向ではなく、一方的な情報伝達となっている。働きかける側の都合が第一次的で、受け取る側の都合は無視されている。このような現実への批判として、レヴィナスの「顔」やデリダの「歓待」などの思想が提起されてきた。しかしいずれも働きかける側からの視点であり、働きかけられる側の主体性に目が届いてはない。

４．社会生成における困難

　対面関係では、見られる側に社会変容のイニシアティブがあることが判明すると、これは同時に新しい社会生成の困難の要因でもあることがわかる。というのも、今日の社会においては、見る側が社会通念における多数派であり、見られる側が少数派であるということだけではなく、また少数派が多数派の心理を内面化しているということだけではなく、もっと別の事態がそこにはあるからだ。
　ランシェールの言う感性的なものの分有がそれである。社会通念は、見る側の人々がその化身となることによって形成されている。だからそれは、社会の多数派が個々人を見ることによってしつらえられた自我の席という、ある種の強制力を発揮し、これが社会の人びとに感性的に分有されているという現実がある。少数派、つまり見られる側のイニシアティブは、多数派に対する異議申し立となり、それは現実の社会通念においては計算に入れられていない。
そうだとすれば、既成の社会において、見られる側にイニシアティブを発揮させることができるような、対面・対話関係の可能な場を形成しなければならない。その場がサードセクターにほかならない。

５．組織論としてのコミュニケーション

（１）コミュニケーション
　コミュニケーションは普通情報の伝達と考えられている。しかしそれは現実には相互関係であると考える研究者が増えている。この相互関係を、今まで述べてきた対面関係と対話関係を踏まえて展開するとどうなるであろうか。
　意思の伝達や合意は、それを意図している話す側のイニシアティブにもとづくのではなく、聞き手のイニシアティブにもとづく。聞き手にイニシアティブを発揮してもらうためには、話す側が問題提起をした後、聞き手に回って聞き手に話す側に回ってもらうことが必要である。
　話す側は気持ちがいいし、能動的で何か活動した気持ちになる。しかし相手の同意を得られなければ自己満足の世界に陥ることになる。コミュニケーションは意思の伝達方法ではなく、話し手に発したイニシアティブを聞き手に引き渡すことである。そうすることで対話者双方の合意が進む。
　ところが現実を振りかえれば、このようなコミュニケーションはなされておらず、マスコミは一方通行であり、行政や、企業も意思の伝達が中心である。メディアのなかにも双方向のメディアが生まれているが、それが社会システムの基盤となっているような現実はない。つまり公的セクターや私的セクターには、相互関係であるようなコミュニケーションは余計なものなのだ。このことは相互関係的なコミュニケーションは主体と主体との間に主体を形成するのであり、この意味で主体の主体性に関わっていることと関連している。

（２）主体
　主体という以上主体の変遷についてみておく必要がある。
20世紀の70年代までは階級が主体であった。個々人はこの階級の意識に同一化していくことで主体性を発揮できた。70年代から始まった新自由主義のイデオロギーによる社会変容は、階級意識の解体と個人意識の普及をもたらし、個々人は労働市場と消費市場の「主体」として個人化された。このような状況で、主体は存在しないというニヒリズムの価値観にもとづいたポスト・モダン思想が流行した。
　現在の主体はこのようにして形成されたが、その現実的基礎は労働市場と消費市場にある。個人化は本来類的存在であった人間を、物象的依存関係にもとづく人格的独立、つまりは人格的依存関係から切り離されたバラバラな個人に分解したのだ。これはある意味では貨幣の機能と概念を内面化した自己神格化した人間の成立である。
　神の実体が人間の類的存在の抽象化だとすれば、そして貨幣が商品世界の神であるとしたら、現代の個人は、自己神格化され、抽象的な主体として主体性から疎外されている。神はその能力を神話の世界で発揮できるだけであり、現実には貨幣で物を買うことしかできない現在の自己神格化した個人は、抽象的で非実在的な能力を付与されているに過ぎないのである。
ハーバーマスは生活世界の植民地化について警告を発したが、生活世界においては人格的依存の関係は個人化の中で変容しつつも自己神格化への歯止めを作り出している。ハーバーマスとは逆に、サードセクターにはこの生活世界を基盤にして、自己神格化を解毒する役割があることを認めなければならない。

（３）主体性
　自己神格化した個々人が対面し、対話関係に入るとそこで何が引き起こされるだろうか。それは万能的な主体の解体である。神の概念における能動性は、対話関係においては上滑りし、神的能力は崩壊させられる。
　その代わりに対面と対話は、社会を変容させ、二人の対話者という両極の外に新しい社会という主体を作り出す可能性を秘めている。対話による新しい社会の生成が可能になれば、対話者の主体性がそこに形成される。
　自己神格化を作り出した原因は資本主義社会における物象化の働きにあった。自己神格化の解体は脱物象化を実現する。この見地から対話者の主体性について検討しよう。
　対話者が対話を通じて新しい社会を作り出すことが可能なためには、対話者が事業の担い手であることを要請する。逆に言えば対話がその基本的骨格をなすような事業を要請する。サードセクターの事業はおおむねこのようなタイプとなっている。
　コミュニケーションを相互関係と把握し、それが新しい社会生成の組織論として生かされる事を通してサードセクターのアイデンティティの形成が日程に上る。

６．社会生成過程への介入

　新しい社会の形成といっても、その社会が既成の社会とまるごと交代できるわけではない。それは、既成の社会で計算に組み入れられていない問題の存在を示し、それを解決していけるシステムとしての役割を果たせるそのような社会の生成が課題なのである。
　今日の資本主義社会に全面的に取って代われる社会の構想は理念としては明確であるが、実践的にはその一挙的実現は望みようがなく、そうであれば、永続的な社会生成によって、既存社会における物象化の力を削いでいく脱物象化の道が切り開かれるべきである。
　その筋道を簡単に描いておこう。まず既成の社会通念に対する感覚的な違和感が、見られる側のイニシアティブに発する対話における合意として、社会変容に向けての主体性が成立する。対話における合意が事業遂行過程の合意としてなされることで、違和感をつなぐ利害関係集団が形成される。それがいまだ既成の社会通念では計算に入れられていない問題を、政治的空間に登場させ、政治的係争関係を作り出す。このような過程で「いま」「ここで」の社会生成過程への介入が成立する。

あとがき

　組織論としてのコミュニケーション、というテーマは、90年代初頭から考えてきたことで、今やっとサードセクターのアイデンティティの一つとして提案できる形となりました。従来は協同組合運動における協同の内実として問題提起してきましたが、その枠を取り払った方が現実性があることに気づきました。
　この提案はここ数ヶ月の実践的課題に直面して、少しずつ具体化してきたことで、関連文献を参照する余裕はありませんでした。すでにどこかで誰かが述べていることがあるかも知れません。ご教示くだされば幸いです。また、たたき台として使っていただければありがたいです。論争が起きることを期待しています。
（2010年10月17日）

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2011/02/09

韓国の福祉レジームに学ぶ（２）

Author: ebara (11:42 pm)

韓国の福祉レジームに学ぶ（２）　　　　
　　　　　　　　　　　　　　　　　　
2010年11月20日からの第2回日韓社会的企業セミナーが無事終わりました。報告をかねて、「韓国の福祉レジームに学ぶ」の続きを書きます。今回の問題意識は、韓国と日本との相違を示し、何を学ぶかということです。

韓国の福祉レジームに学ぶ
第一章　韓国の社会的企業育成法を手がかりに
１．アジアで初めての法制化
２．社会的企業育成法の背景について
３．韓国の事例から学ぶために
第二章　韓国福祉国家性格論争
１．はじめに
２．危機以後に形成された福祉レジーム（キム･ヨンミョンの見解から）
３．韓国の福祉レジームの性格を巡って（チョ・ヨンフンの反論から）
４．韓国福祉国家性格論争を巡って（イ・ヘギョウン論文から）

第三章　社会的企業の現状（イ･ウネ報告より）

１．与野党ともに社会的企業育成へ舵を切る

　韓国の社会的企業の現状については、第2回日韓社会的企業セミナー（2010年11月20～24日）第二分科会での、イ・ウネ報告に詳しい（資料追加分1頁～19頁）。ここではイ・ウネ報告の内容を紹介しながら、同時代の日本と対比させ、日本側の課題を明らかにしていこう。
「社会的企業育成法制定の背景と内容そして制定以後の変化」と題する報告はまず序論で次のように述べている。
「2007年7月に施行された社会的企業育成法に基づき認証された社会的企業は、総417ヶ所であり、2010年10月現在運営中の企業は406ヶ所ある。この認証社会的企業が韓国経済に占める比重を見ると、経済活動人口のうちの雇用比重が0.03%、GDP対比売上額比重が0.01%であり統計的には、まだ不足しているといえる。一方、このような足踏み段階の社会的企業に関連し、政府雇用戦略対策会議や6月の地方自治体選挙の際、与野党候補が先を争い地域雇用と地域問題解決の有効な手段として提示するという奇現象(?)が現れている。また、保守進歩の区分なく主要報道機関も、国内外の社会的企業成功例の紹介と韓国社会の発展のため社会的企業家精神が必要という事実を新たに強調しつつある。これに力づけられ主務部署である労働部でも多様な政府の部署と地方自治体の参加によって、草の根社会的企業を育成しようというスローガンを掲げ法整備など環境造成に取り組んでいる。」（追、1頁）
　盧武鉉政府から李明博政府への政権交代後、従来の社会的企業育成施策が継承されず、2009年にソウルで行われた第一回日韓社会的企業セミナーでは、韓国の運動側から失望と不安感が報告されていた。しかしその後の経過において、与野党とも社会的企業育成という課題を、地域雇用と地域問題解決の有効な手段として提示するようになったということで、これは運動側から見れば「奇現象」といえなくもないがしかしそれ自体は歓迎すべきことだろう。
　このような新しい事態を踏まえて、イ・ウネ報告は、社会的企業という概念の紹介がたかだか10年前のことだったにも拘らず、急速に広まった政治･経済･社会的背景と、その過程におけるセクター別リーダーの態度、そして、社会的企業支援制度の核心事項及び評価、さらには法制定以後の社会的影響と、市民社会側と政府セクターの今後の課題について述べている。

２．韓国社会的企業の発展段階

①　サードセクターの自発的実験期（1980年代～1990年代半ば）
　この時期の試みについてイ･ウネ報告は次のように述べている。
「ヨーロッパと同様、韓国において社会的企業の胎動は第3セクター運動からその根元を探すことができる。２0年余りの歴史を持つ貧民運動陣営の生産者協同組合、貧民地域託児所および勉強部屋、育児協同組合、医療生活協同組合、消費者生協など自然発生的にできあがった組織が、多様な社会的企業の原形を作り主体を成してきた。もちろん、さらに広い意味では、過去農耕社会での農村共同体であるドゥレ、契、助け合いなどからその伝統を探したり、また日帝統治下では政治運動と共に成長した協同組合運動の歴史からその出発点を探す場合もあるが、このような歴史は解放以後、ほとんどが都市化や産業化過程で断絶され、その歴史的な根元を含んでいるとは言い難い。中でも特に生産者協同組合の場合は、建設業や縫製業など伝統的に貧困階層が持っている技術業種を中心に一般市場進入を目標に設立されたが、低価格の中国産の商品との競争が激しくなり、資本力および経営力量不足などの理由で多数が失敗する経験をすることになる。」（追、1頁）
　ここで述べておきたいことは、戦後の西欧の経済発展が、70年代で頭を打ったこと、だが東アジアの経済成長は、以降20年間続いたこと、しかし、90年代に入って、日本は失われた20年に向かうこと、対照的に中国、インドなどの大陸諸国の経済発展が急速に進んだこと、この基本的な要因を探っておくことが必要である。
　韓国の統計を見ると、小経営の分解は日本ほど進んではいない。これは90年代に入っての後進国の経済発展が、アメリカ主導で実現されたが、基軸国アメリカの資本蓄積様式の変化（信用資本主義段階）に規定されているように思われる。早い話、ロストーの離陸論や、雁行的発展論は、日本の経済発展にはマッチしており、第一次産業従業者を減らしながら、国民総体が中流化していく経済発展の道筋が主流と想定されていた。この観点からすれば、東アジア諸国はともかく、中国やインドなどの、人口が多く、貧富の差が激しい大国が離陸していくイメージはなかなか描き出せなかった。ところが信用資本主義段階は、アメリカに典型的なように、中流化した国民総体を新たに両極分解させながら経済発展を遂げていく蓄積様式であった。これはある意味では、極端な格差社会であった中国やインド社会での経済的発展に適合的な蓄積様式であり、実際にこれらの諸国の経済成長を可能にするものだった。
　中国やインドには、日本の人口に匹敵する富裕層がおり、それ以外の圧倒的多数の貧困層とは切り離された形での経済成長が、アメリカ資本主義の蓄積様式の変化によって可能となったのである。そしてこの一時代がリーマンショック以降終息し、新たな蓄積様式への模索が始まっている現段階では、日本のように、第一次産業が徹底的に分解された社会よりも、それがいまだ中途段階にある韓国社会や、中世と近代と現代とが同居しているような中国社会の方が、次世代の経済モデルである持続可能な経済の設計が容易であるように思われる。
　韓国の運動家の中には韓国の市民運動が未熟で、民主主義的課題の追求も不十分だという意識があるようだが、これは国民総体が中流化していく経済発展をある種の前提において思考することの帰結であるように思われる。日本の現状からすれば、持続可能な経済に向けて、韓国の方がはるかに近い地平に到達しているように思う。

②　貧困、失業解消のための福祉政策の策定時期（1996年～2003年上半期）
　後進国の経済発展の様相が、80年代以降変化してきていることを確認したうえにたって、韓国と対比しながら、日本のこの時代の変遷について見ておこう。まず、イ・イネ報告は次のように述べている。
「生産者協同組合運動を主導した失業貧困団体が中心となり、1996年保健福祉部（現：保健福祉家族部）の自活共同体創業支援事業に大挙参加しながら、協同組合方式の貧民自活共同体設立が制度圏内で実験され始めた。また、外貨危機を迎え、失業貧困層を対象とした政府の公共勤労民間委託事業、失業克服国民運動委員会(現ハムケイラヌン財団＜前共に働く財団＞)の市民社会主導型の働き口創出支援事業などがモデル事業として推進される中、働く場の持続性が担保できる制度的装置を要求する一方、2001年社会的企業国際シンポジウムを通じて、国内に社会的働き口と社会的企業に対する概念が紹介されるようになる。その後2002年の国民基礎生活保障法施行を契機に、自活共同体の創業が拡大するも、自活共同体事業が生計給与受領のため条件付き参加という限界がある中で、営利市場進入型の事業が急激に萎縮することとなり、貧民層を対象に資本出資と高い水準の民主的参加を要求する生産者協同組合設立という単一な発展経路の限界が表れ、ヨーロッパなどで注目されている社会的企業の概念に関心が集まり始める。」（追、1～2頁）
　日本は、2009年夏の政権交代まで、一次的な変動はあったものの、自民党政権が継続された。政権交代後も自民党政権を支えてきた権力構造（官僚支配）は揺るがず、政権についた民主党は迷走しているという現実がある。これに比べて韓国の政権をめぐる抗争は、はるかに流動的であり、かつ徹底的であった。1987年の民主化宣言以降、92年には金泳三が大統領になり、97年の経済危機時には金大中が大統領に選ばれた。経済危機と政権交代で、韓国はIMFから突きつけられた新自由主義的改革を実施しつつ、同時に社会福祉の改革と整備をなしとげたのである（詳しくは、本誌、17巻第5号参照）。
　また運動の主体も、日本は、60年安保世代と70年の団塊世代は独自の政治的基盤を作り出せないままであったのに、韓国の場合は、民主化運動が10年から20年のタイムラグがあって、年齢が10歳から20歳若いということとともに、自分たちの力で政権交代を実現させたり、政策立案をしたりという経験を持っている。
　サードセクターの現実を見ても、日本の場合、一つは官僚の天下り団体が公益法人や財団法人として設立されて、公共的サードセクターの活動領域を属領化しているとともに、二つ目にはサードセクターの諸団体に対して許認可権に基づいて縦割りで統制している。他方サードセクターの巨大組織も、農協は自民党、連合は民主党、生協は共産党、というように影響力を持つ政党が異なり、民も縦割りという現実がある。その結果サードセクターが、社会的経済というアイデンティティを持つには至っていない。
　ところが韓国では、共同連と交流のある障碍友権益問題研究所が、社会的企業について共同連と一緒にイタリアから学んですぐ、2001年に韓国で社会的企業国際シンポジウムを実施すると、それがたちまち運動体と政府関係者に広まり、社会的企業育成法制定に向けて動き出すのである。
　このような経過を見ると日本の政治の動きの緩慢さにどうしようもない嫌悪感をもつ。80年代から日本農業の担い手の高齢化と跡継ぎの消失は語られ、また年金制度の崩壊も予測されていた。さらに90年代半ばになれば、労働者の給与が半減して、ワーキングプアが巷にあふれるという予測も立てられていた。しかし自民党政府は有効な手立てを何も打てず、為すがままに流されてきた。また官僚はこのような現状に対する知識だけはあるのだが、縦割り行政の枠組みの中での施策しか提起できず、根本的解決策にはほど遠い取組みしかしてこなかった。2009年の政権交代は国民の鬱積した自民党政治への批判が物質化したものであるが、民主党も根本的解決策を実施できてはいない。この期にいたってどうするのか、このことが今問われている。

③　新貧困層の雇用創出政策の活用期（2003年7月～2006年半ば）
　韓国の大企業は、経済危機以降立ち直り、自動車や電機やIT産業では国際競争力で日本を凌ぐまでになった。日本の大企業が国際競争というお題目で利益を国民に還元せず、正社員のリストラと非正規雇用の増大に向けて舵を切った90年代後半以降、日本社会の格差構造の拡大の中で、日本の大企業の国際競争力は、優れた労働力の縮小再生産という事態によって削がれて行ったのではないかと思われる。
　韓国も日本以上の競争社会で受験地獄となっているという話は聞くが、しかしその一方、社会のセーフティネットの構築は粛々と進められていたのだ。競争社会でありながら、椅子取りの失敗者には再出発の道が開けている、という仕組みが構築されつつあったことが、日本の現状と違っており、日本のように社会総体が閉塞感に囚われるような事態は回避できていたのではなかろうか。
「参与政府の人受委員会から始まった、新貧困層に対する積極的な雇用政策樹立の議論が、2003年労働部の社会的雇用創出政策を通じて表面化される中、労働部の社会的雇用創出事業から社会的企業への発展展望が初めて提示された。市民社会団体を対象とする公募事業の形態を取り、毎年急成長した社会的雇用創出事業に力を得、教育・文化・環境などの専門性を持ったNPOの参加と社会的企業に対するインキュベーティングが成立し始める。民間レベルでも、社会連帯銀行と失業克服国民財団の社会的起業家への貸付が始まるなど、社会的企業に対する支援インフラも共に成長し始め、2004年、ハムケイラヌン財団の‘教保ダソミケアサービス事業’のような「企業-NPO-政府協力型の社会的企業創業モデル」が開発され、社会的企業に対するマスコミのキャンペーンなども展開する中、2005年、社会的企業法制定のためのTaskforceチームが運営され始めた。
　それに伴い、社会的企業内の主導勢力も変化を見せるが、過去には自活後見機関、失業克服団体が絶対的な主導グループを形成していたが、この頃には、社会サービス領域別の市民社会団体、大学生青年層のsocial venture創業など主体が多様化し、専門性と多様な資源ネットワークを活用することで、成功可能なモデルが現れ始めた。また、社会的企業の事業分野も、看病などのサービス中心から環境に優しいローカルフードの流通、農村の観光、代案エネルギー、フェアトレード、地域開発、多文化家庭支援など急速に拡大するに至る。」（追、2頁）
　日本でも、官僚はソーシャル･ビジネスやソーシャル･キャピタルの研究をし、政策提言に結びつけようとしてきたが、韓国がこのような過程を経てきたのに比べ、微々たる試みしか為されていない。日本での世代間対立は高齢者が優位で、若者がしわ寄せを受けてきて、まさに若者が社会的弱者に転落しているのだが、その若者に対する施策は、韓国の施策に比べればままごとの様なものだった。
　西欧では若者に対する施策は70年代から始められていたのだが、日本ではやっと03年からであり、まず、「若者自立･挑戦プラン」が策定され、04年にはアクションプランが決められたが、その中身はジョブ･カフェ、ヤングジョブスポット、若年者トライアル雇用事業の拡充、日本版デュアルシステムの推進、若者自立塾の設立推進、フリーター再教育プラン、などであった（リーディングス日本の教育と社会、第19巻、本田由紀・筒井美紀編『仕事と若者』、14頁）。
　その後リーマンショックを受けて緊急雇用対策が打ち出された。これも失業者への訓練が中心となっていてその場しのぎの施策となった。また、政府の資金がもっぱら中間支援団体を潤すだけで、雇用拡大に使われる真水はたかが知れていた。
　これらの施策に特徴的なものは、社会的弱者に転落した若者の再教育ということしか念頭においておらず、既成の労働市場や企業の雇用システムが若者を社会的に排除して行っているという現実には完全に頬かむりしたもので、決して成果の上がるようなものではなかったのだ。若者をいくら教育しても、それを受け入れる雇用がなければ意味はない。企業側の雇用の多様化こそが問われていたのだ。そのためには例えば官僚が天下る公益法人のリストラとそれを若者雇用の受け皿とするくらいのことはやるべきだった。政権交代なしにはこのようなことは出来ないだろうが、政権交代後もこのような見通しは立っていない。新しい公共円卓会議が終了し、新しい公共推進会議が持たれているが、従来の公共の担い手たる公益法人の見直しこそが課題とされるべきだと思われる。

④　社会的企業育成法制定及び社会サービスの育成と拡大期（2006年以後～現在）
　韓国の社会的企業育成法は、法制定の後、政権交代となり、支援の継続が危ぶまれた時期もあったが、リーマンショック以降現政権も社会的企業育成へと舵を切っているという。
「外貨危機以後、社会二極化がすすみ、失業貧困問題の解消策としての代案的社会サービス提供モデルとして社会的企業育成の必要性が官と民両方向から叫ばれ、その共感帯が形成されるようになり、2006年11月、社会的企業育成法が制定、翌年7月1日から施行される。2007年10月からは、社会的企業の1次認証が始まり、2010年10月現在406に及ぶ認証社会的企業が活動している。
一方、2006年に入って社会サービス関連の政策基調が変化するのだが、過去に自活事業や社会的働き口創出のようなサービス供給者育成の政策においては、サービス消費者の選択権を保障する消費者支援の拡大へと政策の重心が移ることとなる。社会的企業育成をより強固なものにする社会投資論も提示されるが、政権交代と同時に新政府へ政策が引き継がれずその連続性を失う。しかし2008年、世界的な経済危機の到来により、社会サービス働き口支援予算と関連政策が盛り返し、イ・ミョンバク政府の100代国政課題の一つとして選ばれるなど、その政策的重要度が高まる。今年6月の地方選挙以後は、全国広域地方自治体はもちろんのこと、基礎地方自治体においても社会的企業育成条例を制定し、専門担当チームを新設するなど、地域別に特化された育成政策を推進する取り組みがすすんでいる。また最近では、政府の各部署別に予備社会的企業の育成が可能な政策が開発され、施行されており、行政安全部の地域共同体働き口事業(年間5万人参加、4,688億ウォン規模),知識経済部のコミュニティビジネスモデル事業(3年間33億ウォン)、農林食品水産部の農漁村共同体会社育成などが進められている。」（追、2頁）
　2006年といえば、前年に行われたジャンテ氏招聘国際市民フォーラムの関西実行委員会を継続させて、共生型経済推進フォーラムを結成した年である。それ以降も社会的経済・社会的企業促進の日本の運動は本当に微々たるものであった。2007年の総会で政策提言の必要性を確認し、その作業に入ったのであるが、日本社会に適合した社会的経済・社会的企業促進のさしたる業績もなく、仕方なしに聞き取り調査から始めなければならなかった。幸い関西の社会的企業や、共同連、そして生活クラブのワーカーズ・コレクティブの皆さんから聞き取りが出来、前後のシンポジウムの記録とともに出版したのが『誰も切らない、分けない経済』（同時代社、2009年10月）で、丁度政権交代が行われた後で、ロビー活動に取り組むことが出来た。
　しかしそこで明らかとなったのは、日本政府は経済産業省のソーシャルビジネス研究会にしても、内閣府の新しい公共円卓会議にしても、アメリカ型の社会的企業（社会貢献型のビジネスの起業）を念頭においていて、社会的排除に対抗する労働統合型の社会的企業（ヨーロッパ型）の検討はなされていなかった。このような事態に直面して、フォーラムでは、緊急政策提言として2010年7月に『社会的事業所法制化に向けて』をまとめた。そして、11月に実施された第2回日韓社会的企業セミナーに備えたのである。
　セミナーは大阪と東京で行われたが、東京の国会内意見交換会では議員との意見交換もでき、韓国側からの報告もあって、労働統合型の社会的企業の必要性はやっと認知されてきたといえよう。それにしても韓国の取り組みと比較してえらい違いである。

３．社会的企業育成法の制定背景

　韓国の社会的企業の制度は「政府主導型モデル」と言われたりしている。確かに、認証制度によって、事実上の社会的企業として機能しているサードセクターの諸事業体が、育成施策から除外されているという現実があり、サードセクターからの批判もあった。
「ともあれ、このような主導権論争はさておき、この１0年間、韓国政府と市民社会側は社会的企業という革新的で社会統合的な組織の必要性と政策的地位向上に対し高い水準の共感を形成し協力してきたことは事実である。特に2008年初頭の政権交代期や、市場万能主義者による社会的企業無能論が起こる度、官・民が協力して成功モデルを導き出し社会的認識を改善しようと努めてきた。このような政府と市民社会側の協力を可能にした社会経済的背景は一体何だったのか？」（追、3頁）
　このように韓国の運動の特徴は、政府と市民社会側との間に協力関係があるということだが、それは社会的排除に対抗する社会的包摂の必要性という点での一致があるからのように思われる。
「1997年の外貨危機、2007年末の大統領選挙、2008年世界経済危機のような主要時期において韓国の1,2,3セクターが共通して強調した話題は、脆弱層の社会統合と地域経済を生かす新しい原動力を模索することであった。」（追、3頁）
「政府の立場では、このような社会的課題を遂行することにおいて政府の財政支出のみでは限界が明らかなため、多様な社会団体のパートナーシップを通じて、地域社会資源が動員可能な社会的企業モデルに注目することとなった。すなわち、より生産的で市場親和的な福祉モデルとして、社会的企業を選択した側面が強い。よって2007年、与党と野党の合意のもと、社会的企業育成法が制定され、政権交替以後も、社会的企業育成に向けた政策基調を維持することができたのである。」（追、3頁）
　先に指摘したように、日本政府側の取組みでは、社会的排除の問題が、若者に対する支援策も含め、完全に欠落してきた。それは官庁の縦割り行政のなせる業で、まさに政治主導が問われている。
「一方、市民社会の側は、1990年代の「文民政府」に入って、政治民主化運動の中心を担うことから草の根生活運動を担う組織へと性格を切り替え始める。この時、地域社会の雇用創出と生活問題を解決するため、持続可能で市民主導的な方法により社会的企業に似た代替の共同体運動を採択することになる。そして貧民層の生産者協同組合、貧民地域託児所および学童保育、生活協同組合などの自発的モデルを創り出す一方、福祉部の極貧層の貧困脱出自活政策と連携した生産共同体創業を実験的に行ったりもした。しかしながら、このような活動は、2001年の国際シンポジウムが行われる以前は、社会的企業という概念として取り組むことができなかったが、それをきっかけとして市民社会側に広がり始める。」（追、3頁）
　日本の場合、市民社会側もまとまりを欠いていた。社会的経済や社会的企業の推進が、巨大な規模に成長している農協や生協や労働組合の主要な課題となったことはなかった。これらの非営利セクターで、社会的経済と社会的企業の必要性を提起している人々はいるが、この人たちの意見が容れられてはいなかった。そして社会的に排除されている人々を支援している団体にあっても、共同して政策提言を行うようなことは今後の課題である。

４．社会的企業への支援制度の現状

　社会的企業育成法の概念と支援の内容については簡単に紹介しておくに留めよう。まずその概念についてイ・ウネ報告は次のように述べている。
「韓国の社会的企業育成法は、英国のCommunity Interest Companies (CIC)法をbenchmark(比較評価)し、認証制を導入した。認証基準は7項目で、営利または非営利法人登録後6ヶ月間で成果があがった法人、1人以上の有給勤労者雇用および社会保険加入などの勤労基準法遵守、社会的目的実現(脆弱階層の雇用または脆弱階層に対する実費社会サービス提供30%以上)、営業活動を通した収益が総労務費の30%以上、多様な利害関係者が参加する民主的支配構造、収益の2/3以上を地域社会のため再投資義務、定款を持つことなどである。
社会的企業として認証を受けると社会的企業育成法に基づき以下のような支援を受けられ、最近では、中小企業庁と協議し中小企業支援制度の支援の対象となることも検討中である。これまで政府が推進してきた支援制度の導入時期などまとめると以下のようである。」（追、3～4頁）
　支援策としてイ・ウネ報告は次の6点を挙げている。
「第一に、社会的企業に対する経営支援として、会計、労務、マーケティング広報など専門コンサルティング費用を提供することにより、社会的企業の市場競争力の向上および自立を誘導している。」（追、4頁）
「第二に、社会的企業の雇用創出を支援するため、社会的企業が市場で円滑に定着できるまで一時的に財政支援を実施する。」（追、4頁）
「第三に、社会的企業に友好的な環境を造成するため、法、条例、規定の整備および支援体系を構築した。」（追、4頁）
「第四に、社会的企業の多数が非営利組織形態であるため金融機関からの信用度が低く、資本調達に困難なため、資本市場の造成も支援している。」（追、5頁）
「第五に、社会的企業の核心的な価値を理解する専門経営者の育成、革新的な社会的起業家の発掘などのための人材養成事業とソーシャルベンチャーアイデア大会などを支援している。」（追、5頁）
「最後に、税制支援として社会的企業に対しては法人税法、租税特例制限法および地方税法に定めることにより租税を減免している。」（追、5頁）
　日本のNPOなどへの支援策としては、例えば若者自立塾では、初期投資補助1千万円の他は塾生一人当たり月額8万円の補助金だったが、これは訓練期間への補助で就労に対する支援ではないし短期のものだった。福祉的就労の場合、例えば障害者の作業所への支援も、建物や職員の給与を一定額補助するが、賃金補填はない。韓国の場合、期間限定で賃金補填を行ったが、これはこれで議論の種となっている。短期間の賃金補助では経営的に自立できず、補助金が切れれば経営危機に直面するという脆弱さをどうするかということが課題となっている。
　NPOの現場で補助の必要性が求められるのは、第一の経営支援である。これはかつて日本で実現されたことはない。助成金をとった場合に、経営コンサルが付くことがあったが、非営利事業についてのコンサルティングをコンサルが理解しているとは思えないケースがあった。ファンドレージングなどを理解しているコンサルは少ない。また種々の助成金は年限があり、しかもテーマ設定が恣意的で、一時しのぎになるか、起業のテコとなりえても、事業の継続性を保証できていない。
「このような政府の支援施策は全て、社会的企業育成法に基づいて推進される。ところが、各支援施策の導入の順番、予算の割合、今後の増減計画などを分析してみると、社会的企業の経営課題や政府の役割に対する政府の認識どの程度なのかがうかがえる。
　すなわち政府は、第3セクターや社会的企業の最も脆弱な部分は経営力量と技術不足であるとみなし、これに対して経営コンサルティング支援を最優先課題として導入したと見られている。また社会的企業を脆弱階層の生活安定と雇用対策として活用してきた政策背景により被雇用人の人件費支援を最も中心的なインキュベイティング手段として利用してきた。一方、政府の財政支援負担が増加し効率性の論争が続くようになると、社会的企業が自立可能な環境をつくる一方で政府の直接的財政支援を減らしていくための戦略を打ち立て、地方自治体と大企業の参加を通した友好的関係市場造成に取り組んでいる。最近では、同じ条件下でも、社会的企業の成功と失敗を左右する決定的要因が結局は社会的起業家にあるという点が事例を通じて確認されるようになり、少しずつ社会的起業家の発掘および教育、ネットワーク支援を強化する方向へと進んでいる。
　このような変化は、政府が5年ごとに発表することが義務付けられている社会的企業育成基本計画(2008～2012年)にも見られる。すなわち政府は重点課題に関連して、徐々に直接的財政支援を最小化し、セクター間協力を通じた社会的企業に親和的な環境造成と創意的社会的起業家養成、税制減免など、間接支援を拡大することを明らかにしている。これは、実際に育成制度を運用してみた結果、社会的企業のアイディア発掘から廃業に至る全段階にかけた総合的な支援が必要ということが分かったのだが、政府財政のみでは限界があることは明らかであるという認識に到達した結果ととれる。そこで、中央政府の支援と共に優秀な社会的企業家の発掘と参加誘引、地方自治体と民間セクターの協力という三拍子を整えることにより社会的企業の推進力量と持続可能な基盤を作ろうとする意志を覗かせている。」（追、6頁）
　日本では中間労働市場の形成をめざす動きが出ているが、これもまだ形にはなっていない。韓国は社会的企業育成法の制定後の認証社会的企業への助成のあり方を総括する中で中間労働市場形成へと向かっているようである。

5.社会的企業育成法制定以降の変化

　社会的企業育成法制定以降の動きについてイ・ウネ報告は次のように述べている。
「社会的企業育成法の制定を機に、政府と市民社会団体はもちろん、企業寄付者や一般市民にも社会的企業への関心が急増し、‘社会的企業=優しい企業’というブランドイメージが形成されている。すなわち社会的企業に対する認識向上が広範囲に成り立ったといえる。
　そして、韓国社会で受け入れ可能な社会的企業の概念と要件を整理し、政権交替とも関係して、政府の支援政策の推進可能な根拠を備えた点で意義は大きいと言えよう。特に、社会的企業の萌芽的組織形態を呈する自活共同体や社会的働き口事業団の場合、外貨危機の直後、政府が推進した公共勤労事業と同様‘経済危機時には与える式の運営、経済安定期には消耗的福祉と揶揄される’というような政治論争に巻き込まれる余地が大きかったが、社会的企業法の制定を通じ社会的有効性の可否に対する論争自体は払拭させることができた。
また社会的企業は、社会的価値と経済的価値を同時に追求する複雑なシステムを持つため一般市民はもちろん政策決定者からその運用原理や価値を認められるのに限界があり、政策支持者や後援者開発などの参加は低調であった。このような中、社会的企業育成法の制定を機にマスコミの広報活動が続き、認証企業に対する政府と大企業の友好的な購買が可能となり、社会的企業の売上向上と持続可能な経営の環境が備わりつつある。その上、政府の税制優遇・公有地無償賃貸・財政支援が可能となり社会的働き口創出事業の推進との関係で、多様な経路の社会的企業の育成資本が形成できるようになった。企業の社会的貢献も拡大しており、‘政府の財政・制度支援-企業の社会貢献活動の社会責任の投資的寄付および経営支援-NGOの専門的経営’が結びつき、同業種の勤労条件の改善と、企業としての持続可能性の効果が表れている。
　さらに社会的企業の教育訓練、労務管理、資源開発などを支援する中間組織体(intermediary)の多様化と成長が見られ、主流経営学者や一般市民プロポノの参加が増加するなど、主流社会との疎通と協力も充実しつつある。
しかし現在の社会的企業に対する関心と理解は肯定的側面のみを見せているわけではない。一方では‘社会連帯の原理に立った代案企業の育成’や‘疎外された地域と階層の社会統合を目指す働き口創出’レベルでは肯定的認識が拡大したかと思えば、社会的企業の拡がりを通じた公共サービスの市場化(民営化)の可能性、公共扶助の縮小と無理な勤労連携福祉政策のつなぎに対する憂慮、女性の低賃金雇用量産に対する憂慮も噴出しており、これもまた足踏み段階にある社会的企業界が十分に共感して改善していかなければならない課題であるといえる。」（追、6～7頁）
　この後、2008年末の251ヶ所の認証企業の経営成果がまとめられている。その数字を紹介しておこう。
　有給就業者数は、脆弱階層6千人を含んで11,177名である。これは一企業あたり平均で30名ということになる。
　月平均所得は1068,000ウォン（10万円）、これは中小企業の初任給が190万ウォンであるのと比べると相対的に低賃金である。ところが社会的企業が参入している清掃やリサイクルの業界と比較すると同種の企業よりは10％程度賃金は高い。
　有給就業者の69％が女性であるが、女性経営者の割合は35％で、また同じ労働に従事していても男性の賃金が高く、正規職員比率も男性が2倍となっている。
　認証社会的企業の有給者の45％が政府の人件費補助を受けていて、市場収入は不安定である。社会的企業の営業収入は、政府の財政支援総額の2.8倍で、社会的企業を通した社会サービス受給者数は19万7千名あまりで、このうちサービスの対価の支払能力にとぼしい脆弱階層の割合は67％に上る。この人たちへの費用補填やまた社会的企業への友好的市場提供と政府委託事業の拡大が望まれている。
　イ・ウネ報告はこの後、法制定の争点事項として､ハンナラ党と、ヨルリンウリ党の法制定時の論点を詳しく整理しているが、その紹介は省略する。

６．社会的企業活性化のための今後の課題

　イ・ウネ報告はまとめにあたって、今後の課題について、それが一時期の流行や、過去の政府主導事業の失敗例に陥らないようにということに注意を促した後、6点の問題提起をしている。
「今年、各種報道機関のニュース欄に社会的企業を扱った記事を検討する。90%程度が政府と地方自治体の新しい支援施策発表に関する記事である。このように、現在の韓国における社会的起業家の養成のために、最も明確に、最も確実な手段を持ち、最も活発に動くセクターは、政府側であることは間違いない。これに対して、一部官僚さえ民間の自発性が萎縮してしまった状況を憂慮したりもしている。
　一方他の側面で考えてみると、韓国の政府主導によって発展してきた領域が社会的企業だけだとは言い難い。1960年代以後、韓国は、開発に対する独裁政権の主導で産業化と都市化が展開され、北朝鮮との体制競争過程の中で、社会保険の早期導入も達成した。アジア諸国に現れる国家責任第一主義式の儒教的福祉国家の像も持っているため、外貨危機直後には、政府主導でITベンチャーブームを起こし経済危機と青年失業を解消しようとしたが失敗に終わった。このように、韓国社会における政府の役割は、経済と社会発展の主要な動力になるものの、行き過ぎる場合には残りのセクターを対象化させてしまう両面性を含んでいる。
　社会的企業がこのような歴史的な経緯を踏んだり、一つの流行のように終わらないためには以下のような取り組みが必要である。」（追、18頁）
　同じ官僚主導社会といっても日本の場合韓国以上に行き過ぎている。しかも階級分化が進み、解体されつつある産業への産業政策が給付金つきで、それがなおかつ官僚組織を通した給付金で官僚組織が食いつぶしてしまうようなものであって、政策目標は一向に獲得されそうにない、という現実につける薬はあるのだろうか。実際次の6点の課題は日本ではまだ提起しようもない夢のようなものだ。
「第一に、社会的企業育成を推進する政府のビジョンは何であり、それに相応な推進原則は何かについてもう一度検討する必要がある。すなわち、今後、政府の政策基調における市民社会のempowermentに基づいた分権、自治的経済民主主義の成長という価値哲学を樹立し、中央政府と地方自治体・民と官の間・民と民の間のガバナンスの効用性に対し再認識する過程が、最優先的に用意されなければならない。」（追、19頁）
「第二に、社会的企業家の社会的役割をもう少し拡張して認識し、これを支援できる支援体系整備が必要である。すなわち、現在の政府が、社会的企業家に期待している役割は、短期的な新規働き口創出に絶対的な比重を置いているが、今後は、新規雇用創出のみではなく、創出された働き口の質と社会の持続可能性を高めるための革新性の発揮という社会的役割に注目し、支援するべきである。」（追、19頁）
「第三に、政府と市民社会界は、すでに韓国的社会的企業の成長動力の一つとして位置した政府の積極性と政策力量を活用する一方、弱点である市民の支持基盤をどのように形成するのかを共に解決していかなければならない。特に、社会的企業に対する市民の倫理的、かつ互恵的な資本投資、後援、ボランティア、購買、広報などの多様な役割を開発し、参加するための窓口を拡張していく過程を第3セクターが主導することによって、第3セクターの自律性と互恵的市民意識が共に成長することができるようにし、政府は、促進者の役割に満足しなければならない。」（追、19頁）
「第四に、最近、消費者生活協同組合法の改正によって医療生活協同組合の社会的企業における貧困層非組合員の診療が合法化された。また、労働部-環境部の間のMOUを契機に代案エネルギーなど、グリーン成長型社会的企業育成はもちろん、既存の産業退出労働者の正しい雇用転換という共同の政策課題の発見を遂げたりもした。このように、社会的企業家の養成は、社会的企業育成法という単一法律の体系の下で完成されることではなく、社会的企業の業種・組織形態・成長段階などにより、多様で相異な観点の関連法律と政策の影響力を受けるはずである。したがって、部署間の協力時には、このような政策環境の分析と共同の改善努力を通じて、実際的、かつ予測可能な政策環境造成を果たさなければならないだろう。」（追、19頁）
「第五に、今後社会的企業認証制を市民の自律的な登録制へ転換できる時期はいつであろうか？
　社会的起業家ネットワークが活性化して自浄作用を通したブランド管理が可能となる時期かもしれない。あるいは、社会的企業に対する社会的価値実現の報告書の発刊とマスコミを通した優秀モデルの宣伝、公益キャンペーンの展開等を通じて‘社会的起業家というのは、非常に魅力的で革新的であり、信頼できる次世代リーダー’という市民意識が形成された時期であるかもしれない。その結果、青年世代が新しい人生の価値と方式に挑戦しながら次世代の社会的起業家として関わる再生産構造がつくられ、これらが成功と失敗の中でも不断に再挑戦できる機会が提供される社会、このような社会的企業の内発的発展環境を造ることこそが政府が最後まで取り組まなければならない最善の役割であろう考えられる。」（追、19頁）
「最後に、市民社会側の課題も提起されるが、現世代のみならず未来世代の中で社会的起業家精神を発揮できるリーダーを発掘して養成していくべきであり、代案的な消費者運動の促進と社会的企業間の取引活性化、地域通貨運動との連携はもちろん、社会的企業労働者と消費者の生活向上のための社会安全網の強化に対する関心を持ち、参加する姿勢が要求されると言えよう。」（追、19頁）
　イ・ウネ報告は韓国の市民側、サードセクターは未熟だといっているが、まさに生み出されたばかりの社会的企業が、サードセクターのアイデンティティ作りに積極的な課題を提供している様子が伺われる。西欧ではサードセクターにおける社会的経済というアイデンティティから、社会的企業が求められてきたという感想を持つが、韓国では逆に社会的企業育成という課題が、サードセクターの凝縮力を高めていっているように見える。章を改めて、日本のサードセクターの課題について考察しよう。

第四章　日本におけるサードセクターの課題

１．研究課題

　日本におけるサードセクターの課題を明らかにするためには、公共を「従来は官が独占してきた」（内閣府「新しい公共」支援事業趣旨より）という現実について分析することが必要であり、サードセクターの領域に属する各分野への政府の施策とその問題点を明らかにすることが問われる。さし当たっては次の研究課題を挙げておく。
①　政府の施策と問題点
　介護保険（福祉改革）
　ホームレス支援
　障害者自立支援法
　若者自立
　緊急雇用対策
　新しい公共円卓会議
　新しい公共推進会議
　新しい公共支援事業
②　非営利組織への新自由主義的攻勢
　生協、農協、
③　公益法人の現状
以上にあげた課題は、すぐに調査できるものではない。しばらく時間をかけて準備していきたい。　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　（つづく）

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2011/02/09

韓国の福祉レジームの学ぶ（１）

Author: ebara (11:34 pm)

韓国の福祉レジームに学ぶ（１）

第一章　韓国の社会的企業育成法を手がかりに

１．アジアで始めての法制化
　2007年に成立施行された社会的企業育成法は、社会的企業についてのアジアでの始めての法制化であり、共同連は、障害者労働研究会などでいち早く韓国から講師を招いて何度か研究会を持ってきた。また育成法そのものについても翻訳解説がなされてきている。法律の特徴について簡単に述べると、社会的に不利な立場の人々を「脆弱階層」と規定し、その中に障害者や高齢者などの伝統的に社会的に排除されてきた人々だけでなく、世帯平均年収の6割に満たない人々をもこれに加えたことである。いわゆるワーキングプア層が法的措置の対象となっているのだ。次に法人格については様々な法人が参入できるようになっている。つまり法人を認証するシステムである。
　社会的企業育成法についてはさしあたって次の文献を参照のこと。
　姜　乃榮「韓国の社会的企業と市民運動」馬頭忠治他『NPOと社会的企業の経営学』（ミネルヴァ書房）所収
　法律そのものは、ネットから入手できる論文、白井京「韓国における格差問題への対応」に「社会的企業育成法」の翻訳が付けられている。

２．社会的企業育成法成立の背景について
　姜　乃榮によると社会的企業育成法の背景には2000年の国民基礎生活保障法の制度化があげられる。その前史として、貧民運動が70年代から展開してきた生産共同体運動の伝統と結びついた形で、金泳三政権時代に自活支援センターが5ヶ所設置されたが、これが韓国での社会的企業への制度的な支援の最初であったという。
　97年の通貨危機に際して、失業克服国民運動委員会（失業克服国民民財団、のちにともに働く財団に名称変更）が始動し、民間で巨額の寄付を集めて、失業家庭に対する生計費支援と就労の斡旋、各種相談事業を始めた。この運動が参与連帯が求めていた生活保護法改定運動と結びつき金大中政権の下での国民基礎生活保障法制定となった。
　法制定後、従来の自活支援センターは、自活後見機関（07年からは地域自活センターに改称）に名称変更し全国の自治体に広がり、70ヶ所を数えることになったという。「この自活後見機関の自活事業は、政府から人件費の支援を受け、保護された市場の中で経済的自立をはかる自活事業団と、競争市場の中で経済的自立を追い求める自活共同体とに分かれる。2007年12月末の時点で指定を受けた機関の数は全国的に242箇所にのぼる。」（馬頭、前掲書、91頁）
　国民基礎生活保障法の対象者のうち、労働能力のある人々で、就業者は労働部、非就業者は保健福祉部で自活後見機関が施行する自活事業に参加したが、自活成功者の割合が少なく、後に労働部主導で社会的仕事作り事業が始まり、この流れの中で社会的企業についての法制化が志向されるようになったという。以上は姜論文からの紹介で、法制定に関わる詳しい事情は直接姜論文を参照されたい。

３．韓国の事例から学ぶために
　社会的企業育成法の制定のいきさつや直接の背景については既存の文献に任せて、ここではもっと一般的な背景について考察してみる。
1960年代半ばからの、開発独裁による経済成長から、1993年の文民政府成立後の高度成長に至るまで、韓国は40年間にわたり経済成長を続けたが、1997年の経済危機で恐慌に見舞われた。このときにIMFからの融資を受けると共にIMFの管理の下での新自由主義政策の本格的導入がなされたのである。経済危機の直後大統領に当選した金大中大統領の下でなされた諸改革は、経済と社会の新自由主義化と共に、経済危機に伴う社会的危機への対応として、社会福祉制度の改革を伴っていた。そしてこの金大中政権の社会福祉政策が、新自由主義的なものか福祉国家的なものかという点を巡って韓国の社会学者の間で激しい論争が繰り広げられる事となった。この論争は「韓国福祉国家性格論争」と名づけられ、その最初の単行本が訳書『韓国福祉国家性格論争』（流通経済大学出版会）として出版されている。
　IMF危機に至る韓国の経済の事情を日本と比較してみよう。日本は、石油ショック以降も対外輸出の増大によって経済成長を持続し、80年代にはバブル経済の下で一瞬ではあったとはいえ世界一の金融大国にまで上り詰めた。しかしこれはほんの短期間のことで、90年代に入ると長期の不況に見舞われる。経済成長してきたことで80年代の日本は左翼も含め一貫して新自由主義に親和的であったが、新自由主義的政策が本格的に導入されはじめたのは90年代半ばであり、それは21世紀になってからの小泉構造改革で完成された。そして90年代半ばからの新自由主義政策による社会の荒廃が漸次的に進行し、2005年頃には誰の目にも明らかとなってきたのであった。
　このような両国の経過を見れば、韓国が経済危機で一夜にして社会的危機を迎え、危機の中で外圧によって新自由主義に舵を切ったのに対して、日本の場合は新自由主義導入の十数年間の帰結として今日社会的危機に直面しているという相違がある。韓国の場合は社会的危機への対応が新自由主義的改革と同時になされたのに対して、日本の場合現在直面している社会的危機が十数年かけてなし崩し的に醸成されてきたために、それへの処方箋が政権交代後の民主党によっても明示されていないという現実がある。今日、日本社会の社会的危機への処方箋を作り出していくためにも韓国の経験について学ぶことが必要である。

第二章　韓国福祉国家性格論争

１．はじめに
　1997年は韓国経済にとって転機の年であった。「漢江の奇跡」といわれた世界経済の優等生が、97年に入ると財閥企業に不渡りが発生し、それに伴う金融不安と企業倒産が多発していた。これに11月にはアジア経済危機が波及し、韓国ウオンが売られて通貨危機に陥りIMFへの融資を申請することとなったのである。
　98年2月には失業者は123万人となり、そのうちこの一年間での失業者が約94万人で、ソウル市での野宿者もそれまでは300人くらいであったのがまたたくまに2000～3000人に膨れ上がった。
　97年のIMF危機に直面した金大中政権は、IMFのガイドラインに沿った経済の新自由主義化を進めたが、同時に、韓国始まって以来の社会福祉制度の改革と確立をなしとげた。本来新自由主義的改革は国家による社会福祉の削減とその市場化であると理解されていたこともあり、一方でのIMFのガイドラインと他方での社会福祉制度の確立は研究者の間で様々な議論を呼ぶこととなった。
　この韓国福祉国家性格論争については邦語文献でもしばしば言及されている。武川正吾、キム・ヨンミョン（金淵明）編『韓国の福祉国家・日本の福祉国家』（東信堂）では、論争当事者が編集に当たっており、性格論争に収録されているキム論文が冒頭に掲載され、論争に言及した二つの論文が後に続いている。
　また、『東アジアの福祉システム構築』（東京大学社会科学研究所）には、株本千鶴「韓国の福祉国家形成戦略」、五石敬路「韓国における『生産的福祉』政策の特徴と矛盾」、キム・スヒョン「韓国・金大中政権の社会福祉政策」の三論文が掲載され、論争と関説している。
　さらに、キム・ヨンミョン編の前掲書で論争について直接に論評したキム・ソンウォン（金成垣）は後日、単行本『後発福祉国家論』（東京大学出版会）を纏めたが、そこでも改めて論争についての整理と総括を行っている。
　この論争に一応目を通してみて気づくのは、韓国の研究者が『福祉資本主義の三つの世界』（ミネルヴァ書房）で、エスピン・アンデルデンが打ち立てた周知の「三つの福祉国家レジーム」（自由主義レジーム：英米、保守主義レジーム：独仏、社会民主主義レジーム：北欧）という類型理論に忠実に従って、韓国の金大中政権の福祉政策について分析しようとしていることだ。論争自体は金成垣が単行本で述べているように、その政策が新自由主義的か、福祉国家的かという二者択一の議論となっていて、また論争の終わりにイ・ヘギョンが述べているように、あまりにもアンデルセンの枠組みにとらわれすぎているということはその通りのように思われる。しかし、ここでは論争について総括することが目的ではなく、韓国特有の社会福祉政策の内実を理解するためには、この論争の中に立ち入ることなしには不可能だと考えたために、論争について取り上げる。従ってあくまで韓国の福祉政策の実情理解という目的を持って論争に分け入りたい。

２．危機以後に形成された福祉レジーム（キム・ヨンミョンの見解から）
　金大中政府の福祉政策の内実について、分かりやすく述べているのはキム・ヨンミョン「韓国福祉国家の性格と類型」『韓国福祉国家性格論争』（以下『論争』と略記）第１編第3章である。この論文は、『論争』の冒頭に収められているチョン・ムグォン「国民の政府の社会政策」（『論争』第１編、第１章）と第2章、チョ・ヨンフン「生産的福祉論と韓国福祉国家の未来」を主要に批判の対象としているが、批判の中に金大中政権が作り出した福祉改革や制度についての具体像が明らかにされている。チョン・ムグォンもチョ・ヨンフンも、IMFのガイドラインに沿った金大中政権の政策が新自由主義的なもので、新たに作り出された社会福祉制度もそれを免れ得ないという主張を展開していた。これに対して、キム・ヨンミョンは、金大中政権の政策全般が新自由主義的なものであることは否定できないが、こと社会福祉政策に関してはそうではなく、逆に福祉国家化が進んだと主張したのであった。
　それは金大中政権の福祉政策が韓国の近代史において最もラディカルなものであり、韓国の社会福祉の根本的な変化をもたらしたという認識に裏付けられている。概括的に言えば医療保険の組合方式から統合方式への転換、公的扶助のパラダイム転換をなしとげた国民基礎生活保護法、さたに公的年金の適用対象を全国民に広げたことがその中身とされている。（『論争』、66頁）次に具体的なそれぞれの内容について、キムの説を紹介していこう。
　国民年金改革については次のように述べられている。
　「韓国の国民年金は、基礎年金と所得比例年金とが分離されていない所得比例の単一年金制度であり、『公的管理』『確定給付方式』『部分積み立て方式』を主な特徴としている。そして軍人、公務員など一部の職業を除けば、ドイツやフランスなどヨーロッパの大陸諸国で見られるブルーカラー、ホワイトカラー、農漁民が個別の制度によって分離されている職域別の年金制度ではなく、大部分の国民が一つの制度に属している統合的制度である。」（『論争』、73頁）
　キムはこのような統合されたシステムであることで、年金制度の差別的適用によって発生する地位の差別化あるいは社会保険の階層化効果が現れにくく、逆に階層間の所得再配分効果と世代間の再配分効果、つまり社会連帯の原理が強く現れるように設計されていると主張している。新自由主義的年金制度としては世銀が進めている3階建ての年金制度に似たような形が金泳三政権時に導入が進められようとしていたが、金大中政権はこれを拒否したというのである。また都市地域の自営業者にも適用し国民皆年金を実現した。もちろん国民年金加入対象者の60％しか保険料を払っていないという現実も認めている。
　次に医療保険であるがキムはこれが金大中政権において最も激しい変化を見せた制度であるとみなしている。
　「約420の健康保険組合から構成されていた過去の韓国医療保険制度では、既述したように社会保険における地位の差別化現象が見られた。この意味において社会構成員間の連帯が十分に貫徹されない制度であった。金大中政府は、まず第１に、420の個別組合を公的機関で管理する単一医療保険制度へと一元化した。つまり医療保険の行政管理機構のみならず、独立採算制で運営されていた数百の基金も一つの基金に統合した。第2に、組合別に異なる基準によって賦課していた保険料を一つの全国的基準に統一し、保険料の負担の公平を強化した。第3に、医療保険の給付範囲が以前より少し拡大した。」（『論争』、75頁）
　キムはこのようになされた韓国の医療保険改革は、市場の役割を強化するものではなく、社会医療保険の基本原理である社会連帯を強め国家の役割を強化するものであったと評価している。
　次に雇用保険と産災保険については次のように述べられている。
「韓国の雇用保険と産災保険は、年金や医療保険と同様に公的管理、所得比例醵出と給付など伝統的な社会保険制度の特性を持っている。またすべての賃金労働者が一つの制度に包摂されている単一制度であり、職業によって制度が分離適応されていない。金大中政府によって行われた産災保険と雇用保険の改革にはいくつかの特徴が見られる。第1に伝統的な社会保険制度の枠を維持しているという点である。金泳三政府の時代には財政経済部を中心として産災保険の民営化の試みがあったが、金大中政府においてはこのような試みはなかった。第2に雇用保険と産災保険の適用範囲が、きわめて早いスピードで拡大した点である。95年に施行した雇用保険制度は99年4月に5人未満の企業にまで拡大適用し、実施5年で全体の賃金労働者をカバーするようになった。また雇用保険から排除されていた臨時職、契約職など非正規労働者にも雇用保険の適用を拡大した。産災保険もまた2000年5月に5人未満の企業にまで適用拡大し、事実上、全賃金労働者が保険に包摂された。金大中政府以前の97年末、雇用保険の適用率は33.1％であったが2000年には55.1％へと急激に高くなり、産災保険の適用率も62.1％から67.2％へと高くなった。第3に。失業手当の給付期間の延長、給付額の引き上げなど雇用保険の水準がある程度高くなり、失業対策においては積極的労働市場政策の概念が導入されたという点である。」（『論争』、76頁）
　金泳三政権時代に導入され、もともと単一制度であった雇用保険について、金大中政権がなしとげた改革は、適用範囲を拡大し、全賃金労働者を包摂するようにした。
　さらに、国民基礎生活保障法については次のように述べている。
「韓国で経済危機の期間のなか、金大中政府が実施した社会的セーフティネット・プログラムのなかで最も特徴的で実質的改革として認められる政策は、既存の公的扶助制度に取って代わって2000年10月から施行された国民基礎生活保障法である。・・・・
　基礎法は公的扶助の『パラダイム転換』として評価されるほど、革新的改革を含んでいるが、その意味は次のようなものである。第1に、基礎法は貧困に対する責任を個人に転嫁するのではなく、依然として国家に帰しており、むしろ受給資格を緩和することによって貧困に対する社会的責任をより拡大した。第2に、以前の公的扶助制度は貧困層に対する国家的恩恵という性格が含まれていたが、基礎法では公的扶助に対する貧困者の権利と国家の義務が明示的に示されている。第3に、条件付の受給者、つまり労働能力のある人間には労働への参加を強制し、これを守らない場合、給付を制限するということである。」（『論争』、78頁）
　韓国の国民基礎生活保障法と日本の生活保護法とを対比してみると、キムが主張している「パラダイム転換」の意味がよく分かる。給付について恩恵から権利へと変更した点、さらに労働能力がある人々にも受給者とした点については日本ではまだ到達していない。また、労働能力のある人々には、労働参加を強制しているが、これが自立後見機関の設置と自活共同体の設立へと進み、社会的企業の土壌を形成して行ったのである。
　このように画期的な改革が行われたにもかかわらず、問題点も残った。これについてキムは次のように述べている
「金大中政府における社会福祉制度の改革の結果、韓国の社会福祉においてはコーポラティズム・レジームに見られる『地位の差別化』や自由主義レジームに見られる『二つの国民』のような現象ではなく、全く新たな形態の階層化現象が現れている。金大中政府において推進した急速な社会保険の拡大にも関わらず、数百万人の非正規労働者、5人未満の零細企業の労働者、そして零細農民は年金、産災保険、そして雇用保険から排除されている。つまり、社会保険に加入しリスク分散が可能な『内部者』と、社会保険から排除されリスク分散の恩恵を受けない『外部者』という階層化現象が現れている。社会保険において内部者・外部者が明確に区分される階層化現象は、先進国の福祉レジームの議論においてはほとんど言及されていない新たな韓国的現象である。」（『論争』、83頁）
　問題は、雇用保険や産災保険が、全賃金労働者へと拡大適用されているにもかかわらず、現実には、保険に加入していない人々が大勢いることだ。これはよく指摘される、制度上の枠組みによる階層化ではなく、同一制度のなかでの階層分化であり、キムはこれを新たな韓国的現象であるとみなしている。
　つまり、韓国の事例の特殊性について「経済危機とIMF救済金融を経験した国のなかで、韓国は、貧困層を主な対象とする社会的セーフティネットの拡大だけでなく、国家社会福祉制度が急速に拡大したという点で、特異な事例となっている。」（『論争』、85頁）ということであり、今後の研究課題として、「国家社会福祉の拡大の結果がなぜ全般的な福祉水準の向上にはつながらなかったのか。」（『論争』、86頁）という問題を投げかけている。

３．韓国福祉レジームの性格を巡って（チョ・ヨンフンの反論から）
　キム・ヨンミョンの見解に対してチョ・ヨンフンが反論している。『論争』第3編　第1章「金大中政府における福祉政策の性格」で、チョは「金大中政府の福祉政策が過去の政府のそれより進歩的でも、より拡大的でもないことを示したい。」（『論争』、189頁）と述べて自らの立場を明らかにしている。チョは韓国政府の社会保障支出を検討し、97年から2000年について「この期間における社会保障支出が増加した主たる要因は、政府財政の増加ではなく、社会保険加入者の保険料と使用者の保険負担である。」（『論争』、192頁）と分析し、国家責任はそれほど拡大されていないとみて、「生産的福祉論において社会保険制度の拡充と実質化を約束したが、まだ社会保障制度の外面的な拡大だけを追及している。」（『論争』、192頁）と評価している。
　また国民基礎生活保障法にはワークフェアの考え方があることから、「同政府の福祉政策は労働市場のフレキシブル化を促進し、そのことに起因する市場からの落伍者に最小限の生活保障を提供することだけに関心がある。」（199頁）と述べ「金大中政府の福祉政策は労働の脱商品化ではなく商品化を、そして国民生活における国家責任の強化ではなく市場の役割の強化を志向している点において『明らかに』新自由主義的である。」（『論争』、199頁）と述べている。
　次に、『論争』第1篇　第2章に掲載された自らの論文を批判的に回顧しつつ、チョン・ムグォンは改めて第第3編第6章で自説を展開している。
「金大中政府の福祉改革には、国家介入の拡大を志向しながらも国家財政の介入を最小化し、勤労福祉と労働の商品化を維持して、弱者階層を最小限保護しようとする意図が含まれている。そしてこれは産業化過程で形成された開発主義遺産が、現政府の福祉改革に対する認識を支配していたからである。
　このような意図の解釈は、福祉改革の主体が誰かという点とかかわる。金大中政府の福祉改革が過去の政権と大きな差異性をもつのは、民主主義の発展の結果として福祉改革を志向する進歩的市民団体と労働勢力など市民社会が改革過程に参加したことである。彼らは進歩的性向からできるかぎり国家福祉の拡大を通じて弱者階層を保護しようとする意図を持っていた。しかし、福祉改革の主体は彼らだけではない。金大中政府が過去の制度的遺産と保守的支配連合を克服しうる新たな進歩的政治基盤と統一した支配連合の性格をもっていたとは考えにくい。金大中政府の支配階層の性格は、一方では地域主義と縁故主義にもとづいた保守的性格と、他方では金大中大統領の大衆的リーダーシップと進歩的政策性向に伴う進歩的勢力とが相互に結合した複合的特徴を持っている。・・・・・金大中政府の福祉改革には、市民社会勢力の参加にもかかわらず、実質的な制度形成あるいは実施過程において依然として過去の開発主義的国家機構の制度的枠組みと保守主義的性格をもつ官僚層と政治圏の影響が決定的であったと思われる。」（『論争』、298～9頁）
　チョは、キムが、国家責任の強化と見ている点を、社会民主主義的な福祉国家への接近という意味ではなく、韓国の過去の開発主義的国家機構の残存とみなしている。そして、金大中政権において、市民団体が社会民主主義的福祉国家形成の意図でもって政策策定について関与し、それがある程度は反映されたものの、実質的には開発主義的国家官僚と保守的政治との影響のもとにあると判断している。
「金大中政府の福祉改革はIMF経済危機によって派生した低所得層と社会的弱者階層を社会保険の拡大と公的扶助制度の近代化を通じて制度的に保護ずる方向で推進された。
　この意味において福祉改革の性格が国家責任の強調であり、それは韓国福祉制度の発展において重要な転換点となったと解釈するキム・ヨンミョンの主張を否定するつもりはない。にもかかわらず再び協調したいのは、金大中政府の福祉改革の性格は、規制中心の国家介入に止まっており、依然として労働の商品化と勤労福祉を強調する新自由主義的性格を維持し、『パラダイム転換』という過去の開発主義的遺産の延長線上にあるということである。したがって単純に国家責任の強化と主張することは改革の性格がもっている本質的で複合的な側面を見逃すことになる。」（『論争』、300頁）
　チョは、制度は国家責任を強化する形で形成されてはいるが、国家財政の支出が多くはない点。民間の保険が発達している点、また、国民基礎生活保障法のワークフェアの組み込みなどを挙げて、金大中政権の福祉政策は本質的には新自由主義的なものであるという自説を再度繰り返したのであった。

４．韓国福祉国家性格論争を巡って（イ・ヘギョン論文から）
　韓国福祉国家性格論争で、金大中政権の福祉政策が、基本的には国家責任の強化か新自由主義的政策か、という論点を巡って争われたが、その際の判断の基準は労働力の商品化を促進するか脱商品化を促進するかという尺度から打ち立てられたエスピン・アンデルセンの三つのモデルであった。イ・ヘギョンは『論争』第３編　第７章「韓国福祉国家性格論争の含意と研究方向」で、このアンデルセンの枠組みで論争が行われたこと自体に対して検討を試みている。まず韓国の福祉改革の時代背景について次のように述べている。
「IMFと世界銀行の構造調整借款を受けながら新自由主義の経済改革を忠実に断行してきた金大中政権は、1999年に市場経済と民主主義の具現という国政哲学の2大軸に『生産的福祉』の具現という3番目の軸を追加設定することで、新自由主義的な構造調整と国家福祉の急速な拡大が並行する、グローバル資本主義の時代にこれまでに例を見ない実験を推進している。」（『論争』、313頁）
　一国の金融危機に対してIMFが融資と共にその国に押し付けた改革プランは新自由主義的なものであった。韓国もこの点では例外ではなく、イはIMFの改革計画を次の6点に要約している。
「IMFが韓国に提示した改革計画を六つに要約してみると、第1には、財政と金融における緊縮と高金利政策、第2に金融部門の構造調整、第3に金融資本市場の完全開放、第4に財閥改革、第5に貿易の自由化、第6に労働市場の柔軟化である。」（315頁）
　韓国の場合これらを受け入れただけではなく、IMFや世銀が想定しているセーフティネットとは異なる福祉政策を「生産的福祉」というスローガンのもとに展開したが、これがグローバル資本主義の時代に例を見ない実験であったというのである。このような捉え方はアンデルセンモデルの限界という問題意識に基づいている。イはアンデルセンモデルの限界について次のように述べている。
「その第1の理由は、彼の福祉レジームの類型論が、主に西欧の先進福祉国家の経験を基にした類型論であるためで、第2の理由は、彼が分析した福祉資本主義は、基本的に冷戦体制下で成長したケインズ主義的福祉国家のレジームであるためである。・・・・韓国の生産的福祉はポスト冷戦時代、その後のアジア金融危機を経験した韓国がグローバル資本主義を克服するために福祉の未来像を計画しているのに対して、エスピン・アンデルセンの類型論はケインズ主義的合意に基づく過去の福祉国家の政策を後から分析しているためである。」（『論争』、327～8頁）
　イによれば、アンデルセンが福祉資本主義の具体的分析を試みた時の対象がケインズ主義的合意に基づく福祉国家であり、ポスト冷戦後のグローバル資本主義の時代の分析のための基準としてはふさわしくないというのである。そしてこの新しい時代の分析の試みとして、ギデンズの第三の道論やジェソップのワークフェア国家論やギルバートの支援国家論についての紹介を試みている。ここではジェソップのシュンペンター主義的ワークフェア国家についてのイの解説を紹介しておこう。
「グローバル経済の影響のため、新コーポラティズムは大量生産、大衆連合による支配、完全雇用などに一次的な基礎を置くフォーディズム的コーポラティズムとは異なる。新コーポラティズムにおける主要な調整領域は、労働力と労働市場の異質性が増えることや革新的な調整などであり、革新と競争力の向上に適した政策共同体とネットワークの多様性を追求する。政策共同体には、使用者と労働組合以外に利益団体や各種団体、地域協議会などが主要な主体として関与する。柔軟性と脱中心性というポストフォーディズムの特性が反映されるほどに、新コーポラティズムの重点は中央集権化されたマクロ経済的な協調からミクロ水準の企業と地域に移動する。国家の活動は、国家的主導権や新自由主義的放任によるというよりも、むしろコーポラティズム的決定によって主導され、国家の行動は、コーポラティズム的妥協を通じて得た決定を支持し後押しすることである。これは、さらに、国家政策が自発的または公的、そして、自己調整的でコーポラティズム的な組織によって取られた行動に依存することを意味する。」（『論争』、334頁）
　ここにはワークフェアの新しい形が描かれている。国家主導の福祉国家レジームや市場に委ね、最小限のセーフティネットで済まそうとする新自由主義的福祉レジームに対してジェソップは自治体レベルでのコーポラティズムを構想しているようである。このような構想は、社会的企業育成に取り組んでいる韓国の福祉レジームに適合的なように思われる。イは「ケインズ主義的福祉国家に対する合意が瓦解して、ポスト冷戦時代における世界単一的な資本主義体制への移行が加速していることから、情報革命と知識社会化、新自由主義的ワシントン・コンセンサスに特徴づけられる21世紀とポスト産業社会における福祉を最適化するためには、既存の福祉レジームとの根本的な決別が必要である。」（『論争』、329頁）と述べた上で、「『国民の政府』の福祉改革は、経済危機がもたらした国民的危機感、政府の福祉重視の方針、市民団体の積極的な活動、労使政の合意構造の設定などの相互作用の産物だといえる。・・・・ただし、新自由主義改革と生産的福祉の同時進行という選択は、変化する21世紀の環境に韓国の社会福祉レジームを定着させるのに寄与したと評価できる。」（『論争』、336頁）というように金大中政権の福祉政策を評価している。
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　（続く）

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2010/10/03

サブ政治の時代の社会運動とは

Author: ebara (9:45 pm)

サブ政治の時代の社会運動とは

序章　政策提言という問題意識

１．政策提言活動の経過
　私は、05年に行われた、ジャンテ氏招聘国際市民フォーラムで、社会的経済・社会的企業促進の運動とはじめて出会いました。それまでは社会的経済という言葉は、ヨーロッパの事例を紹介している書籍は何冊か出版されていて知識の上のものでしたが、この事例をモデルに日本でもそれを促進して行こうという運動に合流したのです。ジャンテ氏招聘国際市民フォーラムは、東京、大阪、水俣でそれぞれ集会を持ちましたが、大阪の集会を準備した関西実行委員会が、フォーラム終了後も活動を継続しようということになり、06年に共生型経済推進フォーラムを結成し、その秋にはイタリアからボルザガ氏を招聘してシンポジウムを行っています。
　フォーラムの活動については、出版物を見ていただくとして、小規模のシンポジウムと運営委員会を重ねるなかで、07年7月の第2回総会で、社会的企業促進のための政策提言を2年間かけて準備することを確認しました。その担当が私に回ってきて、政策提言についての準備作業をとりあえずは大まかな見取り図として提案しましたが、しかし日本における社会的経済や社会的企業については情報が蓄積されていないことが分かり、結局は政策提言の前には調査が必要だという結論に達しました。
　それで、08年9月から社会的企業家聞き取り調査を開始、翌年2月まで継続し、09年2月21日に聞き取りに応じてくださった方々を招聘してシンポジウムを実施し、ひと区切りをつけました。そのご、09年6月のフォーラム第3回総会で聞き取り記録の出版が決定され、10月には『誰も切らない、分けない経済』（同時代社）を出版する運びとなりました。
本の校正中の09年夏に政権交代がなされたので、出版物を武器にロビー活動を本格化させ、社会的企業促進の議員連盟結成への働きかけなどを行ってきました。

２．政権交代による新しい事態の出現。
　政権交代によってそれまでの政治ではありえない事態ができてきました。私の知る限りですが、09年末には障害者制度改革推進本部の下に制度改革推進会議が発足しました。これは障害者自立支援法の廃止と総合福祉法の制定、及び国連の障害者権利条約の批准のための国内法の整備の二点を課題に活動を開始しましたが、委員の多数が障害者団体の代表で、事務方にも障害者団体の代表が、官僚と同数を占めています。またこの会議の下に、総合福祉部会が設けられ、障害者自立支援法に代わる総合福祉法の内容の検討が始まりました。総合福祉部会では、共同連も委員として参加し、共同連の主張していた社会的事業所が取り上げられています。
　この動きとは別に、内閣府の下に「新しい公共円卓会議」が開催され答申を行いましたが、ここでも社会的企業促進が謳われました。そしてこれに対応するかのように「新しい公共市民キャビネット」が立ち上がり、市民運動の側からの政策提言が始まりました。
　こうした事態を受けて、フォーラムは社会的経済・社会的企業促進の運動を、社会的事業所法制化に絞り込んで『緊急政策提言』を準備し10年7月25日に冊子を発行しました。というのも、政府側では新しい公共というイメージとの関連で社会的企業が企業の社会的貢献やベンチャービジネスの起業といったアメリカ型の意味で理解されて、これが振興されようとしていることに対して、社会的包摂をめざしたヨーロッパの労働統合型の社会的企業のイメージを社会的事業所という言葉で表現してこちらの法制化を実現しようとしたのでした。

３．鳩山・小沢つぶしと菅内閣の成立、参院選の敗北
　成立した鳩山内閣はまず「政治とカネ」でマスコミに揺さぶられました。さらにアメリカとの関係の再編も含んだ普天間基地移転での対応にマスコミはアメリカ目線で内閣を攻撃し外務省、防衛省も内閣に協力しないという事態が生じました。頻繁に行われるマスコミの世論調査での内閣支持率低下に、ついに鳩山は辞任します。
　鳩山の後を受けた菅内閣は、「第三の道」を提起しましたが、言葉だけでした。財務省の官僚の言いなりで消費税増税に踏み込み、参院選での敗北を招き寄せました。参院選では1人区で自公の選挙協力が復活しこれが民主党の敗北を決定付けました。こうして生まれたねじれ国会で、鳩山政権の下で始まった障害者制度改革本部などの変質が起きようとしています。

４．再び草の根ロビー活動へ
　この間のロビー活動の総括として、日本においてはサードセクターが存在しているにも拘らず、それがそれとして認知されていないばかりか、当事者にもその意識がないことが最大の問題であることを知りました。菅首相の「第三の道」に中味がなかったのもこれが原因でしょう。
今日の社会のセクターは、公的セクター、私的（営利）セクター、そしてサード（非営利民間）セクターというように想定されるのが普通ですが、日本では官僚がサードセクター（第三セクター）という言葉を自治体と民間の共同事業（ほとんどが巨大な赤字を抱えて立ち行かなくなっている）という特別な意味に使い、サードセクターの本来の意味を抹殺してきたのです。共生型経済推進フォーラムが定款や趣旨書で、サードセクターや非営利協同セクターという言葉を使用していたことに対して、大阪府の担当者はこれらの言葉の意味がわからないといって、別の言葉に置き換えるように要求してきたという事実が日本の現状を示しています。
このような日本の現状を知る時、事実上存在している日本のサードサクターの構成員に、サードセクターとしての意識と21世紀の社会システムにおけるその役割を自覚して行動できるようにしていくことが課題だと実感しています。協同組合基本法をテーマに生協、農協、労働組合、全労済、労福協、労金などをまとめきることが新たな課題となってきています。

（この論文は、2010年8月7日に行われた協同組合運動研究会での報告のレジュメを元に文章化したものです。序文は研究会参加の皆さんに向けて作成したもので、今回文章化した部分とはバランスを欠いていますが、あえて収録しておきます。）

第一章　サブ政治とは何か

１．個人化されたリスク社会
　ベックはその著書『リスク社会』（邦訳『危険社会』法政大学出版局、原書は1986年出版）でサブ政治（本来政治の領域に属してはいなかった科学・技術が政治的な力を発揮している事を指す）を提起しました。ベックは1970年代を過渡期として、西ドイツが「階級社会」から「リスク社会」へ移行したと見ています。リスク社会という考え方は、従来はリスクや危険が自然災害のように人間の社会の外からもたらされるものであったのに対して、現代では人間社会そのものが科学技術の発達とそれの産業への適用によって、たえずリスクを生み出すようになっているという事実にもとづいて提起されています。
　たとえば残留農薬や添加物による食品汚染は目に見えるものではなく、五感で感じられるようなものではありませんが、食べ続ければ中毒症状が出ます。しかしその因果関係はなかなか突き止められないばかりか、消費者が自分で分析できるものでもありません。食品分析の専門家に任せるしかないし、被害が出てきたところで、政府は許容値を決めて取り締まります。許容値について、ベックはそれが「大気、水、食品の中にあることを『許容される』有害かつ有毒な残留物の値」（『危険社会』、101頁）とみなし、これは「有毒物質の生産が許され公に認められる」（同書、101頁）ことだから汚染に許可を与えたことになるといって批判しています。つまり依然として消費者がリスクに曝されている状態は変わらないのです。
　農薬とか添加物は科学技術の産物です。それは生産性の向上という目的に沿って応用され、人びとをリスクに曝します。当初からリスクの発生が予想されたとしても、農作物を害虫や細菌から守ることや加工食品を長持ちさせるという誘惑には勝てません。こうしてリスクに曝されることで被害が出て、消費者が抗議するとこれが政治問題となり、始めて規制や使用禁止が決められます。
　このように産業に応用された科学技術は今日では政治問題化せざるをえないリスクを常に生産しており、これに注目してベックは科学技術をサブ政治と呼んだのでした。
　実際現在の、原子炉技術、電子工学技術、遺伝子技術、などの発達による技術の経済への適用はリスクを生み出し、環境問題も社会の外の問題ではなくて徹頭徹尾社会的な問題であるとベックは主張しています。このように科学技術がもたらすリスクとそのサブ政治化は実はリスク社会の一側面でしかありません。というのも人々の労働生活もリスクに曝される時代になっているからです。科学技術のもたらすリスクによるリスク社会への転化と軌を一にして労働生活における変化も進みました。
　ベックは西ドイツの1970年代に起きている変化を、労働市場過程の力学による個人化と、それによる社会的不平等の個人化と見て、福祉国家からリスク社会への転換を読み取りました。つまり社会そのものがリスクを生み出しているという先に述べた問題と、リスクに曝される主体が階級ではなく個人となっているという点がリスク社会の本質として捉えられているのです。
　労働市場過程の力学とは、労働市場のフレキシブル化のことです。製造業中心だった頃の労働市場が比較的安定していたのに対して、70年代にはサービス業が中心となり、労働市場での不安定な就労が占める位置が大きくなり、失業者の増大が起きてきました。この産業の変化による雇用制度が生み出したリスクが、個人化によって、個人の能力の問題として受け止められるようになっていることがリスク社会の特徴であるとベックは主張します。つまり、科学技術が生み出すリスクのほかに雇用制度の変化がもたらしているリスクが加わっているのです。
　この新しく出現した二重の意味でのリスク社会では、政治システムの様々な機関の機能麻痺が起きています。というのも今日リスクを作り出しているものは、科学や技術といった、従来では政治には数えられなかった分野での発達と、それが産業に適応された場合に生み出される新しいリスクで、そのリスクが生み出されてから政治問題となり，政治はあらかじめこのリスクの発生の原因を停止しえないという意味で、無力だからです。また雇用問題について言うなら、それは自己責任とされて公的保障の外にあるものと見なされているからです。

２．サブ政治とこれへの対抗
　ベックのサブ政治論は今日政治や階級闘争について考える時に避けて通れない問題提起をしています。そこでベックの議論を紹介しながら、少し詳しくサブ政治について解説してみましょう。
「政治システムのさまざまな機関（議会、政府、政党）にとっては、産業、経済、テクノロジー、科学というような生産の分野がシステムの機能上前提として必要になる。ところが、それによって、さまざまな社会生活領域を永久に変えてしまうような変化が、あらかじめ組み込まれる。そして、そのような変化は全て技術＝経済進歩の名の下に正当化されるのである。だが、このような形の変化は、民主主義の最も単純なルール――社会変化の目的を知っておくべきこと、話し合い、採決、同意の必要など――と相容れない。」（379頁）
ベックが概括したような、西ドイツにおける産業社会からリスク社会への移行は、民主主義にもとづく政治的機関の決定によるものではなく、もっぱら技術的経済的変化によるものでした。ということは、技術的経済的なものが社会生活領域を完全に変えてしまうような力として働いているのです。そしてこのような力は民主主義のルールに従って行使されているわけではないことにベックは注目しています。。
こうして、社会変化に関して言えば、「政治の停滞の一方で、技術＝経済システムの想像を絶するようなめまぐるしい変化が進行している。」（380頁）のであり、「政治と非政治の概念が曖昧になり、概念の体系的な修正が必要になる。」（380頁）とベックは問題提起をしています。まず従来の政治の枠がとり払われてしまいます。
「二つの事態が進展している。一つは、社会福祉国家という形の公的介入がその成功のゆえに色あせていくことである。もう一つは、大規模な技術革新の波とこれがもたらす未知のリスクである。この二つの事態が同時に進展していくことにより、政治の枠がとり払われることに至る。」（380頁）
これは結局は従来の福祉国家が予定していた国民の生存情況が、技術的経済的なものによって大きく変化させられるなかで、新しく生まれてきた国民の生存情況に対応できなくなってきたということでしょう。ちょうど今日の日本がその状況にありますが、日本の場合は、自民党政治がずっと継続していたこともあって、政権交代後の民主党の政治への期待が高まってきているという相違があります。それはともかく、ベックが政治の枠がとり払われるというのは、本来非政治的とみなされてきた技術的経済的なものの政治的役割を認めようとする見地からです。
「変化とそれに伴う潜在的なリスクが増大するのと並行して、技術＝経済的発展が、非政治としての性格を失うのである。新たな社会の輪郭は、もはや議会での話し合いや行政府の決定によって決められるのではない。それは、電子工学、原子炉技術、人間遺伝学の発展によって決まると考えられるようになる。・・・・技術＝経済的発展は、政治のカテゴリーにも非政治のカテゴリーにも入れられない、つまり何か第三の形の政治、いわばサブ政治という不確かでどっちつかずの存在となる。」（381頁）
技術的経済的なものは、本来政治的なものではないしまた政治のルールを持っているわけでもありません。しかし、そのようなものが、社会の変化を推し進める力を持ってきていることを認めるベックはこれにサブ政治と名づけたのでした。もともと経済発展は社会を変えていくというのはある種の常識ですが、しかし、これまでの理解は、資本主義の発展によって、二大階級からなる社会が形成されるという意味でした。ベックは二大階級が形成されて以降の社会の変化を個人化と位置づけ、個人化を推進する力を技術的経済的なものに見出して、これをサブ政治と規定したのです。
「今や社会を形成する潜在的可能性は政治システムから科学＝経済的近代化というサブ政治システムに移っている。政治と非政治との間の不明確な転換が生じる。政治的なものが非政治的となり、非政治的なものが政治的になる。」（382頁）
戦後の福祉国家の時代には、国家独占資本主義論が幅を利かせていましが、それは国家の経済過程への介入による社会形成という文脈でした。ベックは多分このような考え方との対比で、社会を形成する潜在的可能性の、政治システムからサブ政治システムへの移行を説いているのでしょう。サブ政治が主導的となったことで、「政治の機関は、自分が計画もしなかったし、形成することもできない発展の弁護人となり、どういうわけかそれの責任も持たなければならない。一方、経済と科学における決定は政治的内容を含まざるをえないが、この決定を下す当事者はいかなる正当な権限も持たないでそれを行う。社会を変える決定はどこかわからないところから無言で匿名で下される。」（382～3頁）という事態が現れます。
では、サブ政治が社会を変えていき、政治をリードするような時代にどのような運動が可能となるのでしょうか。
「政治＝行政システムはもはや政治が行われる唯一の場所、あるいは中心ではありえない。まさに民主化によって、形式的な権限や機能の規定にもかかわらずさまざまな形で政治への参加が生じ、政治的取引が生じ、法の解釈が変えられる。そして、これらに対する抵抗も生じる可能性がある。」（391頁）
一昔前の運動は政治運動であり、権力や政治機関に向けて闘われましたが、そのような運動のスタイルとは異なる運動が登場してきています。政治の場以外での運動であるがゆえに、社会運動を名付けられていますが、しかしベックはそのような運動にも、政治性を見ようとしています。「専門細分化した民主主義のほかに、新しい形態の政治文化が形成される。」（395頁）結果、「市民はこれまでのきまりきった形の政治活動の概念では、全く捉えられないような多様な形態で政治的活動をはじめた。例えば、市民運動であり、さらには、いわゆる『新しい社会運動』であり、そして最近では、オルタナティブで批判的な職業活動である。」（396頁）というのです。
ベックは新しい運動について、市民運動と社会運動、それにもうひとつ、市場経済と雇用労働とは別の働き方を挙げています。ベックがこのような新しい運動の政治性に注目するのは、それらが経済や科学といったサブ政治に対抗しうる運動だからです。
「これらのサブ政治（経済、科学）は実際は社会的生活の基盤を変化させているのであり、自分の手段を用いて政治を行っているのである。」（457頁）
　サブ政治とこれへの対抗について1980年代半ばに明らかにしたベックはその後グローバリゼーションについて研究し、2002年に『グローバル時代の世界政治経済学』（邦訳『ナショナリズムの超克』NTT出版、2008年）を発表しますが、そこではコスモポリタン（世界市民）的視点が提起されています。ベックが世界市民の力としてあげているのが国際的なNGOの活動と並んで消費者としての市民の不買運動です。理由はそれが多国籍企業に対する有効な打撃を組織できるからです。
　このようにベックが分析したグローバル化され、個人化されたリスク社会で、人びとはどのようにしてリスクから身を守ることができるのか、そしてこのようなリスク社会を変えていくことは可能なのか、このことについて考えてみましょう。まずは身近な遺伝子組み換え食品のケースから見ていきましょう。

第二章　サブ政治に対する対抗運動

　１．遺伝子組み換え食品とは
サブ政治に対抗する運動として、現在進行中の遺伝子組み換え作物・食品の表示を求める運動の事例を紹介しましょう。はじめに遺伝子組み換え技術の食品への応用の歴史を簡単にまとめます。
　1973年、カリフォルニア大学のバーグとコーエンらにより、初めての遺伝子組み換え実験が微生物を使って成功し、遺伝子工学がスタートしました。
　1894年、アメリカでタバコを用いて遺伝子組み換え植物第一号が作られました。以降次々と組み替え作物が開発されていきます。
　90年代に入って、開発企業は、人の遺伝子治療や食品に応用化を求めるようになってきます。
　1992年に米国食品医薬品局（FDA）はバイオ産業の意向を受けて遺伝子組み換え食品の従来の食品との「実質的同等性」という新しい安全性評価の基準を打ち出しました。この評価基準だと動物実験は必要ないし、表示の必要もないということになります。これがOECDの「バイオ食品の安全性評価レポート」に取り入れられ、日本の厚生省の安全性評価も同じ内容となりました。
　組み替え食品は、遺伝子の組成を人為的に組み替えたわけですから、全く新しい性質を持ったものであるにも拘らず、動物実験もされておらず、実験による安全性が立証されたから発売されているわけではありません。この安全評価基準によってアメリカ合衆国の住民は、そうと知らずに10年以上にわたって遺伝子組み換え食品を食べ続けてきたことになります。
1994年初めての組み換え食品である、日持ちを良くしたトマトが開発されました。以降大豆、ナタネ、トウモロコシ、ジャガイモ、棉花など次々と開発されていきます。
1996年2月日本政府はアメリカの要請を受けて安全性評価指針を策定、11月頃から輸入に踏み切りました。

２．反対運動
　1996年11月　「遺伝子組み換え食品いらない！キャンペーン」が立ち上げられ、表示を求める署名活動に取り組みます。日本消費者連盟、子孫基金、生協などが幅広い運動に取り組み、請願署名は120万筆集めました。
　EUは表示を義務付けた結果、遺伝子組み換え食品（GM食品）の輸入は進まず、アメリカは表示させないよう圧力を掛けています。
　表示を求める運動から出発し、さらに一歩進めた取り組みも始まりました。1998年、生活クラブ連合会は全農と提携してNONGMのコーンなどの飼料作物の輸入をはじめています。これが可能となったのは、全農がアメリカのニューオリンズに全農グレインという子会社を持ち、直接アメリカの生産者から買い入れるシステムを持っていたからでした。全農は1991年からポストハーベストフリーの飼料の輸入を手がけていましたが、これを土台にNONGMの輸入が可能となったのです。
　また遺伝子組み換え作物の花粉の飛散から作物を守るために、遺伝子組み換え食物のフリーゾーンを拡大していく運動も始まっています。
　生活クラブ連合会は、現在「遺伝子組み換え食品いらない！キャンペーン」と一緒に、次の三つの活動を展開しています。
　食品表示制度を抜本改正し、すべての食品・飼料にGM表示をさせる活動。
　GMなたねの国内自生を市民が監視する活動。
遺伝子組み換えから生物多様性を守る活動。

３．今日の時点から
　1992年に米国食品医薬品局（FDA）が定めた組み替え食品に対する「実質的同等性」という安全基準は、実はモンサントの上級顧問であったマイケル・テイラーをいう人物が役所（FDA）に入ってつくった事が暴露されました（ジェフリー・スミス『偽りの種子』、家の光協会、137頁）。またモンサントは秘密に動物実験をしており、結果はプシュタイの実験と同じ悪い結果が出ていました。その実験データが公開されています（安田節子HP論文「遺伝子組み換え作物の問題点」、11頁）。他に組み替え飼料で家畜に影響が出ているという事実もあり、アメリカでも新しい動きが出てきています。
　『偽りの種――遺伝子組み換え食品をめぐるアメリカの嘘と謀略』ジェフリー・スミス、を読めば、モンサントがベトナム戦争の枯葉剤の毒性で企業のイメージを低下させたにも拘らず、遺伝子組み換え技術による組み替え食品の独占的販売と、種子の独占を狙って巻き返しを図り、政府とマスコミを支配して遺伝子組み換え食品を氾濫させてきたことが分かります。そしてそれと知らずに食べ続けてきたアメリカ合衆国の住民たちも表示を求める運動に取り組み始めています。『The　future　of　food』という映画が作成され、上映運動が繰り広げられて、カリフォルニア州のメンドシーノ郡では遺伝子組み換え作物が禁止になったとのことです（安田論文、16頁）。この映画の日本語版DVD『食品の未来』が販売され日本でも上映運動がなされました。

４．サブ政治としての遺伝子組み換えとこれへの対抗運動
　遺伝子組み換え食品を開発した巨大バイオ企業モンサントは、種子の独占と特許権によって自らの独占的な利益を獲得しようとして政府機関に働きかけ、GM食品の商品化を押し進めてきました。
GM作物の栽培自体、組み替えられた遺伝子を持つ花粉を環境に排出し、他の植物と交雑して生物多様性を破壊します。特に風媒花であるトウモロコシの花粉は遠くまで拡散し、メキシコに自生している原種にも交配が進んでいます。この事態は一旦起きれば止めることは不可能です。また家畜や人が食べることでリスクにさらされています。
　未来に向けて永続的に汚染を拡大する遺伝子組み換え作物に対して既成の政党は対応し切れませんでした。自民党はバイオ企業の側であり、野党であった民主党も関心を持ってはいませんでした。新しい技術が生産に適用されて新種の食品が生み出されるということ自体が持っているリスクとそれに対する対応は、市場に流通している既成の食品について疑問を提起して共同購入している生協の組合員の「自分自身の人生」への不都合な干渉に抗議する日常的な取り組みが土台となってなされてきたのです。サブ政治への対抗と、問題点の政治空間への提起がこの運動によってなされてきたのでした。

第三章　伝統的政治の問題点

１．日本のノメンクラツーラ支配
　伝統的政治は、人びとに自らの政治を、政党と議員にお任せする代議制にもとづいていました。保守派だけでなく、左派も同じ政治観を持っていたのです。政党政治の限界がいかにして作り出されたのか、そしてその根拠はなにか、ということについて考察してみましょう。
　日本の現実の政治は、自民党時代は中央では官僚が仕切り、政治家は業界団体や運動団体などのプレッシャーグループの要求をくみ上げ官僚の政治に反映させるという仕組みでした。政党政治の中枢は中央官庁の官僚が握っていたのです。
　日本の場合政権交代がこれまでなかったことによって、中央官庁にはノメンクラツーラ制が敷かれ、官僚は天下りという共通の利害で一致して自己の利益と省益とを追求してきました。このような中央官庁の官僚任せの政治では、福祉国家からリスク社会への転換に際して政策的対応をなすことができません。ついに政権交代が実現されましたが、官僚のノメンクラツーラ制と記者クラブを通したマスコミ支配は継続されていて、民主党の新たな政策対応に抵抗しているのが現状です。
　ノメンクラツーラとはソ連共産党が使っていた任命職名表のことで、転じてソ連の特権階層を指します。日本の官僚制には江戸時代から続く「同期横並び昇進」という慣行があります。例えばある官庁に同期の人間が10名いるとすると、トップの事務次官になれるのは一人ですから、9名は昇進の過程で都度外に出て行かねばなりません。これを保証するのが天下りで、中途退任者には現役以上の待遇が用意されています。この官僚の天下り用に用意されているものが公益法人や特殊法人で、公益法人には12兆円の税金がつぎ込まれています。国が管理する公益法人は7000を超え、内2300の法人には6000人のキャリア官僚が天下っているといわれています。天下り官僚の待遇は現役時代と変わらず、渡りのたびに退職金がついて回ります。
日本の国家自体の財政的小ささに比べて国家に属する地下経済の巨大さには驚かされます。そしてこの地下経済が官僚の経済的基盤なのです。少し古いですが2000年度の国の予算は80兆円で国のGDPは500兆円でした。これに対して財政投融資残高は414兆円にのぼり、民間金融機関総貸付高の630兆円と遜色ありません。GDPの8割を占める巨額の資金（財政投融資）が国営事業会社に投資され事業を行っているのです。
国の特別会計等が115兆円、公庫等が145兆円、公団等が110兆円、地方公共団体が83兆円、特殊会社等が3兆円、という次第です。小泉改革による民営化は看板の掛け代えと官僚の焼け太りをもたらし、地下経済の実情がより分かりにくくなりました。（木屋与左右『誰がために国はある』ブイツーソリュージョン、参照）

２．サブ政治への対応ができず
　新たな政策対応の必要性は痛感されていますが、その道筋は指し示されてはいません。中央官庁は政党や業界団体からの情報は入りますが、社会が変化していっている時のその変化の実相は把握できないのです。サブ政治が主流となるなかでの中央官庁の政治的無力化が進みます。また、自民党支配の下で新たな政策対応の道筋を示せるような民間団体は育成されず、民主党にしても野党時代にはシンクタンクすら持ってはいなかったのです。
　食品表示制度の改革で地方議会での決議を取るために請願した生協の組合員は民主党をも含めこの問題にはほとんど関心を持っていなかったことに気づいています。サブ政治が市場での攻防で人びとの日常的抵抗を生み出しているのに、議会政党にはこの日常の攻防が目に入らず、その意義も理解してはいないのです。
　伝統的政治はサブ政治に対抗できなかったし、また個人化によって、労働組合などの既成の運動団体の力も半減してきています。サブ政治が横行している時代の個人化された社会での政治のイメージを提起することが問われています。

３．民主主義的制度の成熟
　まず注目すべきは、議会制民主主義という限りでの国家機関の民主主義的制度がすっかり完成してしまっていることです。この意味で、現代はポスト民主主義国家の時代と特徴付けることができます。日本の政治における官僚主導の問題は、制度問題ではなく別の切り口が必要でしょうが、政権交代に伴う高級官僚の入れ替えが不可欠でしょう。しかし、政権交代で3000人の高級官僚が入れ替わるアメリカで、モンサント関係者が官僚になってモンサントに有利な安全基準をつくるというような「回転ドア」的人事がなされていた、という問題もあり、国家機関が完全に営利企業に支配されているというアメリカの現実はポスト民主主義国家の具体像かもしれません。

第四章　国家論、民主主義論の見地から

１．ヒルシュの国民的競争国家
伝統的政治の批判を今度は国家論の見地から行ってみましょう。ヨアヒム・ヒルシュは『国民的競争国家』（ミネルヴァ書房）で現代の国家（と言ってもヨーロッパの国家）を、フォーディズム的国家から国民的競争国家への転化と特徴づけています。ますます巨大化する多国籍企業と、世界の金融市場のオンライン化で資本の国際的移動が簡単になったという変化の中で、国家も国民経済の総括者という立場に留まってはおれなくなっているというのです。
　まず大企業の多国籍化によって、国民経済の中で果たしていた大企業の役割が変化して行きます。
「大企業が国内の労働力、市場、インフラストラクチャーを特に拠り所にし、大企業の繁栄が国民国家の境界線内部の成長、雇用、豊かさと等しかった時代は、過ぎ去ってしまった。」（『国民的競争国家』、114頁）
それだけではなく、企業は資本の移動の法的・技術的自由を獲得して国民国家に脅しをかけることが出来るようになりました。
「多国籍コンツェルンは、『世界規模の部品最適調達』戦略に沿って、フレキシブルに、迅速に、企業の一部分を、賃金コスト、労働力の質、環境条件、国家の立法、あるいは市場関係から判断してそのときどきに最も有利であると判断される世界の場所へと移転するように変化することができる。」（同書、99頁）
こうして、今日の国家は「『経済戦争』へと国民を広範に動員することが問題となってい」（同書、122頁）る、という意味で国民的競争国家になっているとヒルシュは主張しているのです。国民経済がまとまりを欠き、多様な勢力が国内でも外国でも台頭してくる中で、国民国家の役割は大きく変わってきました。
「したがって、国家が議会によって制定された法律を基礎にして社会の発展を形作るという、つねにすでに誤解を招くイメージを最終的に放棄しなければならない。国民国家はもはや、多少とも形式的に制度化された超国家的政治の次元が国民国家と同じく大きな意義を有しているような複雑に分岐した政治装置の一部でしかない。さらに、地域の政治単位や地方の政治単位は、固有のダイナミクスをますます推し進めており、中央集権国家の単なる延びた腕であるとは理解されにくくなっている。同時に、とりわけ多国籍企業はグローバルな行動範囲をもつ独自の行為主体として確固とした地位を占めているので、政治は、多様な国家組織単位、企業、社会集団の間の多少にも形式化された『交渉』という形態しかとりえず、その結果がどうなるかは、あらゆる参加者の意見が一致するかどうかにかかっている。遠回しに表現すると、これは、国家の任務の『軽減』として叙述されている。いずれにせよ、国家は、自らの手段ではもはやその任務を片づけることはできないだろう。」（132頁）
国民国家の役割と機能が劣化してきているにも拘らず、国際競争はますます激しくなってきています。そしてこの国際競争に向けての国民国家の協力が、議会制を無力化し官僚制を強化してきていると言うのです。
「現在では、多国籍コンツェルンは、グローバルに移動する能力と、移転するかもしれないという単純な威嚇とによって、国家、労働組合、その他の社会集団に対してますます影響力を行使しうるような地位を獲得している。政治過程が地域的・地方的・超国家的機関の網状組織へと移動しており、その結果、議会はさらに権力を奪われ、国家官僚制はあらゆる水準で強化される。」（133頁）
ベックのサブ政治に通じるような考え方ですが、ヒルシュは科学技術というレベルではなく、多国籍企業の政治力という意味で、議会を経ない政治が横行していると見ています。
「議会の『機能喪失』という診断はこれまでも長きにわたって下されてきたが、政治的決定過程が国際化しており、また国家官僚制と支配的な社会的権力ブロックとのあいだのどちらかというと非公式の交渉システムにおいて本質的な政治的内容が決定されるという事実を考えると、この機能喪失はさらに継続している。」（160頁）
議会の機能喪失を促進しているのは、一つは政治的決定の国際化、もう一つは官僚制がもつ企業集団との非公式の交渉システムの強化、です。そしてこのような議会の機能喪失は議会政党の変質をもたらします。
「政党がその説得力や競争力を獲得しているのは、限られた決定的な投票者の利益を代表したり、あるいは社会的関係や環境に根を下ろしたりしているからというよりもむしろ、メディア能力と宣伝技術能力、すなわちさまざまな公共圏や選挙戦術上の『目標集団』に迅速に奉仕し、中央の戦略や選択について、いわば『ジャスト・イン・タイム』に幹部や党員に対して情報を提供できる能力のおかげである。」（163頁）
政党の変質と共にメディアの変化も顕著です。
「メディアは、伝達機関から固有の内容を有する公共圏へと変化している。」（174頁）そして公共圏的機能を持ちながら、情報の排除機能も広がっています。「広がっている情報消費市場の排除メカニズムは、かつて政治的検閲がなしえた以上に、持続的かつ完璧に作用している。」（175頁）メディアは私的資本それも巨大独占資本の支配下にあり、遺伝子組み換え問題で見たように、アメリカのマスコミの情報操作は完璧でした。
「政治がメディア化され、それとともに政党が商業的なメディア装置の権力構造とメカニズムへ従属するようになればなるほど、攻撃的ポピュリズムへの傾向がますますはっきりと現れていく。」（178頁）
　議会の機能喪失がおき、国民国家の役割が縮小しているにも拘らずナショナリズムが拡大するということはこのような事情によるのです。

２．ランシェールの根源的民主主義論
　ランシェールはソ連崩壊以降、それまで体制側が想定していた全体主義対民主主義というイデオロギー的枠組みが無効となる中で、今日の個人の際限なき欲望の支配を民主主義の帰結と見なし、民主主義への憎悪が体制側によって掻き立てられているという現実に対して、古代ギリシャ時代の民主主義を考察することにもとづいてラディカルな民主主義論を展開しています。
　ランシェールは民主主義を現代国家として制度化されたものとは考えず、したがって今日成立している民主主義を制度化した国家をポスト民主主義国家と名づけます。そしてこのポスト民主主義国家における民主主義の問題を、この制度においては無視されている人々による係争の提起による新たな政治的共同体の形成の問題として捉えているのです。
　その際にランシェールが提起するのが「感性的なものの分有」ということです。同じ人間として、言葉を話すにもかかわらず、奴隷は市民の政治活動からは排除されていて、奴隷の言葉は政治の世界では聞き入れられません。主人と奴隷といったような政治的関係がそれぞれの個人に配属されていることが人々の間に感性的に認められ、それが認識として人びとの間に分有されている、ということにランシェールは注目したのです。政治的紛争とは自らの政治的分け前（権利）を要求して、この既成の感性的なものの分有を打破するような新しい感性的なものの分有を構造化しようとするところに生まれ、この新たな感性的なものの分有を構造化するところに新しい政治的共同体が形成されるというのです。ランシェールは、社会主義的意識は労働運動それ自体からは生まれず、インテリゲンチャによって外部から注入されなけらばならないとするカウッツキー・レーニンの定式を継承しようとしたアルチュセールを引き合いに出して次のように述べています。
　「68年5月革命によって、大衆に科学をもたらすことを望んだアルチュセールの知識的図式は壊滅しました。そこから私は労働者の解放の歴史を研究して、労働者の解放が、気づかなかった搾取を意識するようになることであったことは一度もないということが分かりました。解放活動の根底に、直ちに平等を機能させようとする意志があったのです。彼らは、出生と使命に応じて労働者たちに割り当てられた身体や生活・思考・会話様式とは異なるものを、すぐにでも自分たちのために作り出したいと望みました。そこから私は、政治の美学的次元についての考えを導き出しました。それは、感性的なものの分有という権力や法の問題になる以前の、感性的所与そのものの構造化です。政治によって、別の時間と速度が制度化され、見えていなかったものが見えるようになり、それまで仕事をするだけでよいと見なされていた人々が、共に話したり活動したりすることのできる人間として姿を表す共通の場面が開かれるのです。美学という観念そのものが、とるに足らない人々に共有された経験の形式を、いわば名宛人が無名の思考を、芸術界におけるある種の肯定された無名の権力を含んでいます。これは最終的に、政治的なものの基盤にある無名の人間の権力に呼応します。」（『現代思想』08年1月号、163頁）
　このようにランシェールの感性的なものの分有に関わる問題提起は、労働者の解放闘争の発生が、社会主義的意識によるのではなくて「直ちに平等を機能させようとする意志」にあったという把握をさらに一歩進めるものとして提起されているということです。つまりはこれは現代の虐げられた者たちの解放闘争の組織論の根底に置かれるべき認識かもしれません。

第五章　政党政治を超えて

１．左派政党の組織論
　これまでの左派の政治は民主主義制度の要求でした。国家機関が民主化されると、もはや制度の問題ではなく、施策の問題となります。そしてソ連崩壊以降、多国籍企業の巨大化と共に、IT革命で資本の国際移動を容易にする国際金融市場のオンライン化が実現し、国家は国民的競争国家となり、民営化規制緩和が進みました。
　他方階級支配の道具という見地から国家を見れば、労働者階級を個人へと解体した時点での支配のあり方が変化したという問題となります。個人化にともない自己責任の要求がなされます。そして、国民を労働者も金持ちも同等と見なして、彼らの間の係争を調停するコーポラティズム国家としての側面は残ります。
　さらにその上に、サブ政治の登場という問題がつけ加わります。資本による科学技術の適用が、社会的なリスクを孕んでいて、それへの攻防が既成の政党政治の政治的空間の埒外で展開されています。
　このように変化した政治的空間において、伝統的左派の政治のリニューアルが求められていますが、ランシェールの提起に従って、左派の政党の組織論の再検討を試みてみましょう。
　ロシア革命を実現した共産党の組織の原型を作ったレーニンは、自然発生的な労働運動は、社会主義的意識に到達することはなく、社会主義的意識は労働運動の外部から持ち込まれなければならないと考え、ここに党の役割を求めました。もちろん政治権力を奪取して資本を収奪するという社会主義革命の目的からも党は不可欠のものでした。このロシア共産党を左の極として、議会内改革を求める社会民主主義の諸党派にまで、労働運動に対する党の前衛意識は残存しています。
　保守派の党の立ち位置が、資本家や持てる者たちが自己の既得権を守り拡大していくために議会政治を支配するという目的にもとづくものであるのに対して、左派は現実的利害よりも資本や国家の支配に対する抵抗運動を組織してきました。この左派の政党の問題は二つの観点から考察する必要があります。一つは政治権力を奪取することで社会革命が可能となるのかどうかという問題であり、もう一つは運動の外部に前衛としての党が必要かどうかという問題です。前者の問題については既に明らかにしていますので、ここでは後者の問題を取り上げることにします。

２．新しい組織論
　市田良彦『ランシェール　新＜音楽の哲学＞』（白水社）は、アルチュセールの外部注入論を批判したランシェールの説を紹介していますが、それに留まらず、外部からの教育という方法への反省として、ジャコトの「知らないことを教える」「知の解放」を紹介しています。「普遍的知性を起点かつ終点とする円環」（市田、231頁）を実現することがジャコトの教育でした。
　ランシェールの言うように、プロレタリアートの闘争が、社会主義的意識の外部注入によるのではなく「直ちに平等を機能させようという意志」にあり、かつそれが既成の感性的なものの分有に代わる、新たな感性的なものの分有を構造化する政治的共同体として組織化されていたと見なすなら、ここにジャコトの「普遍的知性を起点かつ終点とする円環」が描き出されているように思います。
　この問題は、外部の観察者の視点で運動を見るのか、内部の側からの内容を表現するのかということとも関連しています。外部からの観察は分析して総合するという思考の論理に合致していますが、内部からの表現はそのような形をとりません。ランシェールが感性的なものの分有というとき、これは内部観測に即した表現のように思われます。内部観測とは、内部について観測することや内部から観測するという意味ではなく、対象を分析するのではなくて、それを相互作用の過程として認識しようという方法です。
　この内部観測を文化知の方法で探ってみましょう。思考が対象の分析を続け、最も単純なものにまで掘り進んでしかる後に、そこから分析した諸概念を総合して対象の概念を思考の上で作り出すのに対して、内部観測の場合に、お互いが関係し、総合することを通して抽象化がなされるという形態規定の論理を用いてみるのです。
　現在の社会の人びとの感性的なものの分有がある内実として構造化されている場合、人びとは対面関係において他者を鏡としてこの分有を相互に承認しあいます。この構造化された分有とは異なる「直ちに平等を機能させようという意志」が感性的なものとして伝播していけるのは関係の継続が運動として機能する中での出来事となるほかはありません。しかもそのような過程は外部から見れば「知らないことを教える」ことであり、「普遍的知性を起点かつ終点とする円環」となるでしょう。
　関係の中での抽象は、人々が関係する中で同一性を感覚することであり、唯一性としてある諸個人の間に形成される同一性です。「直ちに平等を機能させようという意志」とは思考の産物としての概念の適用ではなくて、人々がお互いに出合い話し合う中で得られた感覚なのです。思考の場合抽象による同一性の概念の確定は同一化を迫る論理の暴力となりますが、内部観測を文化知から行えば、思考の暴力性とは異なる同一性の感覚がそこにはあることになります。思考による同一化の押し付けではなくて、関係から生じている同一性の感覚に注目し、これを大切にし、思考の自己批判を永続させることなしにはこの新しい感性的なものの分有は決して構造化されないでしょう。
　つまり社会主義的意識の労働運動の外部からの持ち込みは、政治権力を奪取するという目的での歴史的一時期の政党形成には役立ったものの、労働運動にとってはある種の同一化の持込であり、労働運動が「直ちに平等を機能させようとする意志」を構造化することを阻害してきたということになります。階級闘争が成熟してきた今日、外から持ち込まれる社会主義的意識は無用のものとなり、運動にとっては障害物となってきています。
　では、「直ちに平等を機能させようとする意志」にもとづいて形作られる感性的なものの分有を構造化していく組織論は可能でしょうか。人の出会い、会話、会議、学習会、今日日常的に行われている活動を内部観測の観点から評価しなおすことがまず求められます。このような日常活動でも、外部からの目的意識の持込の場として捉えられがちです。そうではなく、これらの日常活動を同一性を感覚できる場として、まさしくそれ自体を運動形態として位置づけるのです。
労働運動や社会運動の原点を「直ちに平等を機能させようという意志」においてみましょう。それは「いま」、「ここ」で現実化することが可能でしょう。仕事で働く場、会議の場、抵抗の場、そこで、人々の既成の感性的なものの分有が揺らぎ始めるでしょう。そしてそこに新しい感性的なものの分有が構造化されていくでしょう。デモや集会だけでなく、仕事で働く場や会議がそれ自体が運動形態であるということはこのような意味においてです。
既成の感性的なものの分有とはどんなものでしょうか。雇われて働くこと、福祉的就労、消費者、お金がすべて、そこには平等は機能していません。平等を機能させることが実現された時の感性的なものの分有は、各種の運動形態において、その時々の一瞬に実感されるところから始まるでしょう。それを積み重ねて構造化するという視点を共有することからコミュニズム運動は始まるのかもしれません。
　政治運動から事業へ、政治運動から文化へ、という経過をたどった新しい社会運動が、政治革命から社会革命・文化革命へと転じた後に、この日常から再度政治的なものを構想することが問われています。社会主義的意識の持込が無用になったとすれば、それに変わる組織論の確立が必要でしょう。そのためのたたき台として提起します。

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2010/07/31

新自由主義との決別のために（改訂版）

Author: ebara (9:11 pm)

新自由主義との決別のために（改訂版）

共生型経済推進フォーラムでは7月25日に『緊急政策提言、社会的事業所法制化に向けて』を出版しました。それに掲載した論文をUPします。5月25日にバラキン雑記に掲載したものの改訂版です。注を全面的に改稿し章にしました。第二章以降をご覧下さい。

序文
　昨年夏の政権交代によって、新自由主義的改革に一定の歯止めがなされたが、これと対抗していく政策提言はまだ十分になされているとはいえない。本章第一節では、新自由主義批判にもとづく政策提言のアウトラインを描くことにつとめた。また、新自由主義的改革への批判も不十分な現状を踏まえ、第二節、第三節では、ハイエク、フリードマンに立ち返って、その批判を試みた。そのうえで、第四節でケインズの投機批判を検討し、今日ではケインズが直面した1929年世界恐慌とは異なる機能を持つ金融市場が出現していることについて示唆した。そして、第五節で、この資本主義金融市場の変貌について分析したジャン・ペイルルヴァッドの説を紹介し、今日の政策提言が、この資本主義金融市場の変貌を踏まえてなされる必要があることに注意を促すこととした。今後の議論のたたき台として利用していただきたい。

第一章　新自由主義批判に基づく社会再生のプラン

１．はじめに
　政権交代以降の日本の政治は、マスコミによって翻弄されてきた。マスコミが、政・官・財が癒着した旧体制の既得権防衛の尖兵として、民主党の鳩山・小沢体制に対して退陣要求を突きつけ続けてきたからだ。旧体制は、政は自民党の崩壊状況で、官はサボタージュ、財は様子見という感じだが、官の改革を企てている民主党に対して、マスコミは官と一体となって既得権防衛のために一大キャンペーンを繰り広げてきたのだ。これはまさに持てる者たちと既得権者による階級闘争の展開とみなすことができる。
　1980年代に英・米をはじめとする主要国で政治権力に代表を送り込むことに成功した新自由主義の特徴は、マスコミや大学を買収して、イデオロギー的キャンペーンを張り、いわば支配階級の側から積極的に階級闘争を仕掛けてきたところにある。これに対して左翼やリベラル派はまともに対応してこれないままずるずると後退してきた、という経過がある。しかし新自由主義の政治は、そのイデオロギー的美辞麗句とは異なり、その達成が招きよせた現実は、貧富の格差の拡大による社会の解体であることを大多数の人々が身をもって体験するなかで、まずイギリスで政権交代がおき、アメリカがこれに続き、日本でも政権交代が実現した。そして今イギリスでは保守党が政権に就いたが、サッチャーのような新自由主義はもはや復活しそうにない。
　このような経過を踏まえれば、マスコミや、持てる者たち、既得権者たちが仕掛けている階級闘争に対してこれを無力にする闘いが取り組まれるべきであり、そのためには新自由主義とは何であったかを端的に明らかにして、新自由主義のイデオロギーの呪縛から人々を解き放つことが必要である。

２．新自由主義は市場原理主義ではない
　新自由主義は一般に市場原理主義だといわれている。これには二つの意味が込められている。市場には一切介入しない方がいいという考え方がひとつであり、もうひとつは公的セクターやサードセクターをも市場化しようという要求である。そして社会的にも個人的にも自由主義を絶対的価値とする。つまり自由市場主義といわれているのが新自由主義の中味であり、自由が市場の原理だというのがそのイデオロギーである。しかし市場原理は自由だけで成り立っているわけではない。新自由主義ははたして市場原理主義か、という問題を検討するところから、イデオロギー批判を始めよう。
　今日の新自由主義は、他人を出し抜いて自己の利益を求めるという投機市場の原理を、市場原理であるかのように擬制してきた。もともとの市場原理には取引相手の利益を第一とするものであり、これによって市場が取引関係者の相互互恵の関係を形づくってこれた。ハイエクは新自由主義の提唱者の1人だが、彼は計画経済に対する批判として市場の優位性を論証しようとしたが、その際に彼が依拠したのは市場のこの機能であり、ハイエクはこれに「社会それ自体がもっている自生的な力」と名づけ、それを「市場によるすべての個人を超えた非人格的規律によって支配される秩序」と特徴づけている（詳しくは第二章参照）。
　フリードマンは、新自由主義派の1人であるが、個人の競争を一義的に位置づけることで他のイデオローグからは批判されていたが、今日の新自由主義のイデオロギーはフリードマンに由来する。フリードマンは人間を経済価値の担い手に一元化した「自由人」をモデルに、彼らの自由な選択にもとづく「自発的協力」を実現できる場を「競争資本主義」とした。ハイエクが人間を超えた市場の自生的な力に期待したのに対して、フリードマンは個人の自由な競争を市場原理としたのだ（詳しくは第三章参照）。このようにフリードマンは個人の自由な競争を原理とすることで、公的セクターやサードセクターにも果敢に競争原理（今日の新自由主義）を持ち込むことを主張した。そして私的セクターの原理である市場原理も、競争原理を優位に置くことで歪めていった。そのあげくに投機取引が拡大していったとき、投機市場の原理こそが市場原理として位置づけられることになる。
　しかし投機市場の原理は市場原理とは異なることは、19世紀から知られていたことだった。シティでは投機市場での取引は一般市場とは区別された領域で特別の条件でなされていたし、より自由な金融市場であったウォール街でも投機取引が1929年の世界恐慌の直接のきっかけを作り出したことで、商業銀行の証券業務を禁止するグラス－スティーガル法が制定されたのである。ケインズの『一般理論』は、世界恐慌を総括した書としての一面を持っているが、世界恐慌の総括を投機取引批判の観点から行っている（詳しくは第四章参照）。これと対照的にフリードマンは、世界恐慌の原因を連邦準備制度の通貨政策の失敗に求め、銀行券を増刷することで何とかなったと言っているが、投機が金融市場と現実資本を破壊するというケインズの批判的見地がフリードマンにはみられない。
　投機市場の原理は他人を出し抜くことであり、投機取引の参加者は出し抜かれても異議申し立ては出来ない。これが、自己責任という言葉の本来の意味である。他人を出し抜く投機市場の原理が一般市場をも巻き込む今日の事態は、市場が相互互恵関係を形づくるのではなく、それを破壊するものとなり、市場原理の破壊へと向かった。貧困層の増大や、格差社会の出現はこの市場原理が破壊されたことの帰結として捉える観点からも考察されるべきだ。
新自由主義は取引相手の利益を第一とするという市場原理主義ではなく、他人を出し抜いて自己の利益を求めるという投機市場の原理を市場に押し付けることで相互互恵を形成するという市場原理を破壊してきた。新自由主義は市場破壊原理を社会に押し付けた。このことをこの間の金融恐慌から学ぶことができる。

３．世界不況を読む
　今日の世界不況は、08年のリーマンショック以降のバブル経済の崩壊に基づく金融恐慌から始まっている。バブル経済の原理は現実経済があげた富が金融資産（株式や社債、国債、預金など）として蓄積されたうえで、この金融資産の売買によって利ざやを稼ぐことだ。ここに投機市場の原理が生きている。
バブル経済は昔からあったが、今日のそれはIT技術の発達で、世界の金融市場がオンラインで結ばれたことによって、全く新しい段階を迎えている。取引のスピードが瞬間的となり、取引の費用も安く、また誰でも金融取引に参加できて、金融取引の額が現実の商取引の額をはるかに凌駕する額となった。
　投機市場は上位の国家のGDPをも上回って、金融市場のプレーヤー（投資銀行、各種ファンド、機関投資家など）が企業や国家を見下し、それを自分たちの投機取引の対象として、企業や国民経済を出し抜いて自己の利益を上げるようになってしまった（詳細は第五章参照）。
　他人を出し抜いて自己の利益を求める投機市場の原理は、金融恐慌を招き寄せ、市場社会を破壊する。投機市場はたえずバブル経済を生み出し、そして自己崩壊させて市場に負荷を与える。市場の機能が麻痺した時に、新自由主義者は国家に助けを求める。君たちの「自己責任」はどこに行ったのだ。
　前世紀末からのバブル経済は金融の証券化に成功し、余勢をかってグラス－スティーガル法を廃止して投機取引を野放しにしたアメリカを中心に膨れ上がったが、それがはじけて世界恐慌に直面し、各国政府は公的資金を投入して金融機関の連鎖倒産を防いた。巨額の金融資産が失われたが、これは実は架空資本が失われただけで、現実の生産や消費には直接の関係はない。
　ただし、架空資本の取引で儲けていた金融機関は痛手を受け、金融機関が連鎖倒産すると現実の企業や消費者にも影響が出て、文字通りの経済恐慌となる。その一歩手前で食い止められているのが現状だ。つまり公的資金による肩代わりという事態は最後のカードが切られていることを意味する。
　今の経済の現状は民間の金融資産の消失を公的資金で穴埋めして金融機関を蘇生させているという状況だ。しかし投機資本はバブル再生のチャンスを狙っている。いつバブルが膨れ上がるか、そしてそれは公的資金で支えられている脆弱な金融機関のもとではすぐはじける。こうして現在は、危機の持続する世界となっている。

４．現状と展望
　新自由主義はこの間、投機市場の原理を、私的セクター（市場部門）だけでなく、公的セクター（国家部門）やサードセクター（非営利協同部門）にまで拡張しようとしてきた。新自由主義が市場原理主義を僭称してきたことの暴露とともに、三つのセクターはそれぞれ原理を異にすることを知ろう。
　バブル経済の原理を全てのセクターに押し付けてきた結果が世界不況であるとすれば、今問われているものは、公的セクター、私的セクター、サードセクターがそれぞれの原理を取り戻すことで社会の再設計をなしとげ、持続可能な社会システムを作り上げていくことだ。
　公的セクターの原理は、全体の奉仕者であり、これまでの日本の公的セクターの驕りが改められるべきだ。私的セクターには、取引相手の利益を第一とするという本来の市場原理を復活させて、取引関係者の相互互恵を生み出すと共に、投機取引を規制していくことが問われる。
　また企業は株主主権（会社は株主のもの）という新自由主義の原理から決別して、社員と地域への貢献を改めて課題としていくことが必要だ。サードセクターの原理は非営利・協同だが、日本の場合、セクター間バランスを取るためには、サードセクターが一番未熟でその育成が必要だ。

５．日本に即してもう少し具体的に
　日本のバブル経済は土地バブルで、80年代後半に訪れ、90年代になるとバブルがはじけて、以降長期不況となった。今世紀に入って大企業の業績は回復したといわれてきたが、株主主権主義が定着した結果、国民経済の回復にはつながらず、少子化、高齢化で日本の将来像を描けなくなっている。あらためて、21世紀における社会のあり方について設計しなおすべきである。新自由主義的改革によって福祉国家の時代（ヨーロッパと違って、日本は雇用に福祉が内包されるという特殊な形だったが）が終息させられた今日、格差拡大と貧困の増大は、社会的排除が進められたことを意味する。この社会的排除に抗する社会的包摂の取組みが、その設計の中心におかれるべきである。
　私的セクターは一般の製造業、流通業、農業、消費者などから構成されて市場で取引する企業や個人からなる。過去の日本の市場原理は、バブル経済の原理とは異なるものだった。高度成長期には、日本の大企業は、従業員と地域経済にも気を配りながら、日本の経済成長をリードしてきた。しかし、株式会社は株主のものという新自由主義の原理を押し付けられることで、90年代後半から大企業は労働配分率を引き下げ、配当や内部留保を増やし、結果として利益を国民経済に還元することをやめた。会社が上げた利益は投機市場に吸い上げられて架空資本と化し、消失させられた。
　大企業による正規雇用の制限と非正規雇用の増大はあっという間に自治体や学校に波及し、ワーキングプアと呼ばれる人たちが1千万人を超え、被雇用者の4分の1近くを占める不安定な社会に変化した。雇用に福祉が内包されていた日本的福祉のシステムも同時に崩壊した。国際競争に勝ち残るという錦の御旗で進められた大企業の行動は、日本経済トータルを敗者にした。
　この間の趨勢は、国にも非営利団体にも，営利団体にも押しなべて、取引相手を出し抜いて自己の利益を追求する投機市場の原理が押し付けられてきた。それが「自己責任」という言葉の独り歩きをもたらした。投機市場で騙されて富を失っても訴えるところはない。既に指摘したように、これが自己責任の本来の意味だ。他人を出し抜くことを目指す投機取引の場に参加するには自己責任が問われるが、そうではない日常生活の場にまで「自己責任」が要求されることで殺伐とした格差社会が生み出されてきたことへの歯止めが失われていた。食品偽装、車の欠陥の隠蔽など市場でのモラルが低下した。
　いま問われているのは、日常生活における協同性の取り戻しから始まり、それを地域社会へと押し広めていく市民の日々の生活によって、投機取引の論理の社会全体への拡張に対抗していくことではないだろうか。いまこそソーシャル・ガバナンスが開始されなければならない。

６．各セクターの課題
　公的セクターに投機市場の原理が押し付けられると、民営化、規制緩和だ。しかし民営化とは一部企業家の私有化に他ならず、税金で作られたものをただ同然で一部企業家に売り渡すもので、政商の暗躍する場となった。政権交代が行われたことで、この間の民営化の動きの問題点が明るみに出た。
公的セクターは、民間の金融資産の消失を補填する公的資金の導入を梃子に、バブル経済の再現を規制によって不発にしていく責務がある。私的セクターでは株主主権を解消し、本来の社会貢献的な企業活動を取り戻すことが問われる。
　一番重要な課題がサードセクターの充実であり、経済領域としては広がっているものの、セクター間バランスを作り出せるような状態ではない。工業化を達成し、成熟した消費社会を迎えた日本では、新たに営利事業として成り立つ経済領域が縮約され、サードセクターの経済領域が広がっている。
　子育て支援や高齢者の介護や地域での助け合いなどはますます必要となり、これらのニーズを非営利・協同の事業として組み立てることが非営利事業体の課題だ。これらに取り組むことは、それ自体が社会的排除に抗する社会的包摂の取組みであり、サードセクターの充実を実現する社会運動としての意義を持ち、この運動が社会再生をリードしていくであろう。

第二章　ハイエクの市場論

１．市場のもつ非人格的な諸力
　ハイエクは、第二次世界大戦中に書いた『隷属への道』（春秋社、1992年）で、社会主義をファシズムの基礎としてとらえ、これらを全体主義として一括し、そして全体主義が形成された要因を自由主義の衰退に見た。つまり「全体主義はわれわれの思想的誤りから生まれてきた」（『隷属への道』、4頁）のである。この観点からハイエクは自由主義を次のように定義づけている。
「自由主義の基本原理には、自由主義は固定した教義であるとする考え方は、まったく含まれていない。またこの原理に、一度決めてしまえばもう変える必要のない厳密な理論的原則があるわけでもない。ここで最も基本となる原理は、われわれの活動を秩序づけるためには、社会それ自体が持っている自生的な力を最大限に活用すべきだということ、そして強制は最小限に抑えるべきだということである。その意味で、おおまかな経験的ルール、とりわけ『自由放任』の原則に凝り固まった自由主義者の融通のきかない主張ほど、自由主義にとって害をなしたものはない。」（前掲書、14～5頁）
　ハイエクは自由放任主義と自由主義とを区別し、前者を全体主義を招き寄せた一つの要因と考えている。彼によれば、自由主義のポイントは「社会それ自体が持っている自生的な力を最大限に活用する」というところにあり、このためには競争が効率よく働くシステムが必要で、この目的でなされる政策は承認しているのである。そして自由主義は成功し、大きな役割をはたしたが、そのことがかえって自由主義を衰退させることになり、市場を廃止して経済を意識的に管理、統制しようとする社会主義やファシズムを台頭させた、というわけだ。ハイエクの目からすれば、フリードマンらの唱える現代の新自由主義は自由放任主義と映り、再び全体主義を招きよせる危機を醸成しているとみなすかもしれない。
　ここでハイエクが社会それ自体がもっている自生的な力というとき、それは市場のもつ力のことだった。彼によれば自由主義か全体主義かという問題は「市場によるすべての個人を超えた非人格的規律によって支配される秩序を選ぶか、それとも少数の個人たちの意志によって支配される道を選ぶか」（前掲書、272頁）ということに帰着させられる。少し長くなるが、ハイエクの主張を引こう。
　「過去において文明の発展が可能になったのは、市場における個人を超えた非人格的な諸力に、人々が身を任せてきたからであり、このことなしに、今日のような高度な文明が発展することは決してありえなかった。言い換えると、われわれの中の誰一人として十分に理解することができないより偉大な何事かを築き上げていくのを、われわれは毎日助けているのだ、という考え方を人々が受け入れてきたからこそ、このように偉大な文明も初めて可能となったのである。過去の人々がそのような考えを受け入れてきたのは、一部の人が今日では迷信と見なしている何らかの信仰が基礎となっているのか、それとも宗教的な謙遜の精神によるものか、あるいは初期の経済学者たちによる原始的な教えを過大に尊敬したからであったのか、というようなことはここでは問うまい。決定的に大切なことは、細かい働きが誰にも理解できないような諸力に身を任せなければならないということを、合理的に理解することはきわめて困難だということである。それよりはむしろ宗教や経済的教義への尊敬から生まれる、謙虚な畏敬の念にしたがうことはずっとたやすいものである。
　必然性が理解できないようなことが多くあるということこそ、文明の基本的性質なのである。もしも、誰もがすべての必然性を知的に理解しなければならないのであれば、現代の複雑な文明を少なくとも維持していくには、現在いかなる人が持っているよりとてつもなく大きな知性が、すべての人に与えられなければならないだろう。自分たちには理解できない諸力や、誰か知的な人の意図的な決定に基づいていると認められない諸力に対して、身を任せるのを拒否するという態度は、不完全で、したがって誤った合理主義の産物である。なぜ不完全かといえば、複雑な社会で様々な個人的な努力を相互に調整させていくためには、どんな個人であっても完全には調べ上げることのできない多くの事実の存在を考慮に入れなくてはならないのに、その点をこの合理主義は理解できずにいるからである。また、この合理主義は次のことも理解できていない。すなわち、われわれの複雑な社会が崩壊してしまわないようにするためには、二つの道しかなく、一つは、市場における個人を超えた非人格的な、非合理にさえ思われる諸力に身を任せる道で、もう一つの道は、これを等しく人々にとっては制御不可能で、したがって恣意的なものにすぎない権力を、他の人々が振るうことに対して身を任せる道でしかない、ということである。」（前掲書、279～280頁）
　ハイエクは前半で、市場が個人を超えた非人格的な諸力をもち、諸個人はこれに順応することで（この順応は宗教を信じることよりはむつかしいとされる）文明を発達させてきた、ということを述べ、後半では、市場のシステムの下での人々の知識の特徴が部分的知識でしかないにもかかわらず、それでうまく事がはこぶと述べている。
　ハイエクの言う非人格的な力とは、マルクスが解明した物象化のことなのだが、ハイエクはこの力が何にもとづき、どのように発現されるかについては語っていない。彼はただそれを自明の事実として述べているだけである。
　次に知識論のところで述べられている「二つの道」については、もう一つの道とされた計画経済は、ソ連、東欧の実験が失敗した段階では、少なくとも生産手段の国有化にもとづく計画化は道としてゆきづまったとみなせよう。ハイエクの知識論は、計画化のためには必要な全ての知識を持たねばならないが、ソ連で行われた国有化にもとづく計画化の場合、その知識をもてなかったわけだから、ハイエクの理論を検証したことになると認めざるを得ない。
　とはいえ今日では市場の非人格的な諸力に任せたままでの「文明の発展」自体の意味が問われており、社会のいたるところでこの非人格的な諸力に対する批判や拒否や反乱が引き起こされている。ハイエクが想定した二つの道とは別の、第三の道が今切り開かれつつあるのではなかろうか。この第三の道を形成しようとするとき、ハイエクが次のように定式化した自然の諸力と市場の非人格的な力との相違についてどう考えるかが決定的であろう。
　「自然の諸力に対する支配の方法については、人類は驚くべき高い程度にまで学び取ったというのに、社会的な相互の共同の可能性を活用するという面では、悲しいことに立ち後れていると主張している人々は、この主張それ自体に関するかぎりではまったく正しい。だが、この二つの事柄の間における対比をさらにいっそう進めて、人類が自然の諸力を支配することを学び取ったのと同じやり方で、社会の諸力を支配していくことを人類は学び取らなければならないと主張する時、これらの人々は誤っている。この主張は、ただ単に全体主義へ向けての道であるだけでなく、今日の文明を破壊し、将来の進歩を不可能にしてしまうのが確実な道でもあるのだ。そもそもこのような主張をする人々は、まさにそのような主張をするという点で、ひとつの無理解を暴露している。それは、人類がすでに達成した文明を単に維持し続けていくということでさえ、様々な個人の努力が、個人を超えた非人格的な諸力によってはじめて相互調整されるということにどれほど大きく依存しているのか、まったく理解できていないのだ。」（前掲書、280～1頁）
　たしかに社会の諸力を支配することは、自然の諸力を支配するようなわけにはいかない。ハイエクはその根拠として、「個人を超えた非人格的な諸力」をあげた。しかしこの諸力が人類社会に今後永遠に残るものであるなら今日の社会の趨勢を見る限り、人類社会を滅亡させることになるだろう。
　今問われていることは、この諸力とは一体何かを明らかにし、この諸力の相互調整力を弱めていくことであり、ポランニーの言葉を借りるなら、市場を社会のなかに再びうめ込むことである。

２．ハイエクの自由論
　ここでフリードマンとの違いを浮き彫りにするために、ハイエクの自由論を紹介しておこう。ハイエクが市場がもつ個人を超えた非人格的な力について、経済学的にどう解明したかは興味のあるところだ。しかしハイエク研究者のノーマン・バリーによれば、「ハイエクの政治理論が彼の経済理論に由来するかどうかは、決してあきらかではない」（『自由の正当性』木鐸社、1990年、99頁）そうだ。ハイエクの発想からすれば、市場の機能を分析するのが経済学であって、この非人格的力の存在は経済学にとっては所与のものとして扱かわれているのだろう。
　『隷属への道』は政治理論と政治的提言の書だ。すでに見たように、ハイエクはこの書で政治の基本を自由主義に求め、そしてその原理を市場がもつ個人を超えた非人格的な力への信頼に置いた。とすれば彼の政治理論は、文明の発展は人々が市場の非人格的な力に順応した結果もたらされた、という歴史観を土台としていることになる。
　ノーマン・バリーによれば晩年のハイエクは「政治権力を封じ込めるための憲法上の諸制度を設計することに没頭してきた」（前掲書、106頁）とのことだが、この宿命論的な歴史観からすれば、市場の自動調整的システムに奉仕する国家の追求へとかりたてることは理解できる。そして、ハイエクのこの志向は、現代アメリカのリバータリアンの理論家たちに影響を与えているのである。
　そこで非人格的力の由来や、また、ハイエクの歴史観については問わず、ここでは自由主義の基礎にある自由論を検討しよう。ハイエクの『自由の条件』（ハイエク全集、5巻、春秋社）の第一部は自由の価値について論じられている。その第1章、自由と個別的自由、で自由の定義づけが試みられている。
　「自由とは強制がないこと」これがハイエクの出発点である。「この書物でとりあつかうことは、社会において、一部の人が他の一部の人によって強制されることができるかぎり少ない人間の状態のことである。この状態をわれわれは本書を通じて自由の状態として説いていく」（『自由の条件』、11頁）という出発点をひとまず認めよう。このあと彼は、自らの自由論を政治的自由や内面的自由や権力としての自由と比較し、個人的自由はこれらと共通するものではないと主張している。
　ハイエクによれば政治的自由とは政治への参加のことで、一種の集合的自由である。次に内面的自由とは知識は人を自由にする、といった形であらわれるが、これは自分のした決心に固執できるかどうかという問題で、他人の意志とはかかわりがない。さらに権力としての自由は欲することを実行する物理的能力のことで、これは逆に他人の個人的自由を破壊するもととなる。
　これでは消極的な表現になるので積極的に表現すべく古代ギリシャの奴隷制がひきあいに出される。奴隷解放の布告には四つの権利が印されていた。第一は、共同社会の一員として保護される法的地位、第二は、恣意的逮捕からの免除、第三に、本人の希望にしたがって働く権利、第四に、自身の選択に従って移転する権利、この四つの権利に財産を所有する権利を加えればハイエクの考える個人的自由が成立する。そして、これらの内容は先に見た三つの自由とは関係ない、というわけだ。
　このように個人的自由の領域（普通は基本的人権と呼ばれている）を明らかにしたハイエクは、その自由を「人と人との関係にのみかかわるのであり、自由に対する侵害は人々による強制だけである」（前掲書、23頁）ことを強調する。ところが他方で強制を説明する段になると次の見解が提示される。
　「『強制』とは、ある人の環境または事情が他人によって支配されていて、その結果、より大きな災いを避けるために、その人が自分自身の首尾一貫した計画にしたがうのではなくて、他人の目的に奉仕するように行動を強いられることをいう。」（前掲書、35頁）
　ここで「ある人の環境」を、労働の環境と想定しよう。そうすると今日では多くの人々は生産手段を支配できず、他人がそれを支配している。そうすると餓死という「より大きな災い」を避けるために自分の人生計画に従うのではなくで、他人の資本を増やすという目的に奉仕するよう働くことを強いられる、という事態が浮かび上がる。
　この関係では確かに、人と人との関係では強制的関係はない。しかし生産手段の所有関係にもとづく経済的強制がそこにはある。個人的自由の追求を徹底させるなら、この関係をも自由への侵害と捉えなければならない。
　ハイエクの自由論をここまで拡張したとき、市場における個人を超えた非人格的な諸力をどう捉え、これとどう対決するかが課題となってくる。もっとも人々を経済的に強制して労働を強いる力はハイエクにあっては非人格的な諸力の一つとして数え上げられているのかも知れないが。
ということで、個人の自由を「自由人」としての個人の属性とするフリードマンと比較してハイエクの自由論はるかに広い射程をもっている。ハイエクの自由論はさておき、いま、人々にとって本当に切実な自由とは、経済的強制からの自由ではなかろうか。自由放任や個人的自由に代わり、経済的強制からの自由への道が開拓されなければならない。

第三章　フリードマンの政策提言

１．フリードマンという人
　ミルトン・フリードマンは、経済学者ではあるが、1935年にニューディール政策下の国家資源委員会に所属して以来、第二次大戦終結まで公的立場の研究員として政策提言を行っていた。1945年には大学に復帰し、1950年代には当時の主流のリベラル派（ケインズ主義）を批判する保守派の論客として頭角を現し、1962年に出版した『資本主義と自由』（日経ＢＰ社、2008年）で新自由主義の政策提言をまとめあげた。この書物は当時の学会では無視されたが、フリードマンはこの書物の出版以降政治活動を開始し、ゴールドウォーターの選挙を応援し、リバタリアニズム運動の立役者となった。（この項エーベンシュタイン『最強の経済学者ミルトン・フリードマン』、日経BP社を参照した。）

２．フリードマンの政策提言
　それではフリードマンの政策提言についてみてみよう。『資本主義と自由』では、全ての章で政策提言がなされているが、第２章自由社会における政府の役割、では次の14項目があげられている。
　「（１）農産物の買取保証価格（バリティ価格）制度。
（２）輸入関税又は輸出制限。現在行われている原油輸入割当、砂糖輸出割当などがこれに当たる。
（３）産出規制。政府による農作物の作付面積制限、テキサス鉄道委員会による原油の生産割当てなど。
（４）家賃統制、全面的な物価・賃金統制。前者はニューヨークで現在も実施されている。後者は第二次世界大戦中と戦争直後に行われた。
（５）法定の最低賃金制や価格上限。商業銀行の要求払い預金の法定最高利率はゼロである。また、貯蓄性預金・定期預金の最高金利は法律で定められている。
（６）細部にわたる産業規制。銀行に対する詳細な規制、州際通商委員会による輸送産業の規制など、当初鉄道に規制が導入されたときには技術的独占を防ぐという理由があったが、いまではどの輸送機関についてもそうした理由は見当たらない。
（７）連邦通信委員会によるラジオとテレビの規制。（６）と似た例であるが、検閲や言論の自由に関わるため、とくに言及すべきと考える。
（８）現行の社会保障制度、とくに老齢・退職年金制度、所得の一定比率を退職年金の購入充て、かつそれを公的機関が運用する年金基金から購入することを事実上強制している。
（９）事業・職業制度。州や市で実施されている。免許を得るために、その事業・職業に就きたい者が払ってもよいと考える課金以上の負担がかかる場合が問題である。
（10）いわゆる公営住宅および、住宅建設を奨励するための補助金制度。連邦住宅局（FHA）や復員軍人局（VA）による抵当保証などがこれに当たる。
（11）平時の徴兵制。自由市場にふさわしいのは、志願兵を募って雇う方式である。必要な人員を集めるコストがいくらかかるにせよ、それを払わずに済ますことは正当化できない。現在のやり方は不公平かつ裁量的で、若者が人生を設計する自由を大幅に阻害している。しかも市場で行うよりも高くつくと考えられる（戦時に備えて予備役を確保するための一般的軍事訓練はまた話が別であって、自由主義の立場からも認めてよかろうと思う）。
（12）国立公園。（すでに述べたとおり）
（13）営利目的での郵便事業の法的禁止。
（14）公有公営の有料道路。（すでに述べたとおり）」（『資本主義と自由』、85～7頁）
　この規制緩和の目録が、半世紀前の1962年に提起されていることは驚きである。当時は主流の経済学者からは異端視されたが、規制緩和で利益を得る人たちには支持され、アメリカでは1980年にレーガンが大統領になると、これが主流の政策となった。しかしこのようなリストが、アメリカでもすぐに実施されたわけではない。
　エーベンシュタインは前掲書で、これら14項目の政策提言がどのように実施されたかについて、2006年時点で検証している。少し長いが引用しておこう。
　「リストの（1）と（2）についてみてみよう。現在、連邦政府の農業対策費は、合計で国内総生産（GDP）の0.25％。輸入関税や輸入規制の多くは1962年以降、大幅に削減され、いまも削減が進んでいる。（3）の産出規制と（4）の家賃統制、全面的な物価・賃金統制は、『資本主義と自由』の第一版刊行以降、廃止・縮小が進んだ。
　（5）の法定最低賃金はまだ存続しているが、平均所得と比較すると、最低賃金は低下している。（6）の細部にわたる産業規制はまだ続いており、規制は増える傾向にある。環境、健康、安全、障害者、雇用に関する法律が極めて複雑になってきたことが背景だが、1970年代後半から80年代にかけては、一部の産業で規制緩和がかなり進んだ。
　（7）の連邦通信委員会によるテレビ・ラジオ規制もまだ続いているが、テレビチャンネル数の爆発的増加やインターネットの普及で、規制の影響力は低下している。（8）の社会保障制度はいまも存続しており、当時から拡大し、社会保障税の比率も高まっている。ただ、2004年のメディケア（高齢者向け医療保険制度）改革で、一部市場原理に基づく改革が導入された。（9）の免許制度は存続しているが、拡大傾向ではなさそうだ。（10）の公営住宅は、当時ほど問題になっていない。
　（11）の徴兵制は廃止され、（12）の国立公園は今も存続し、数は増えている。
　（13）の営利目的での郵便事業の法的禁止はまだ残っているが、フェデラル・エクスプレスなどの宅配便サービスやインターネットの普及で、影響力は低下している（14）の公営有料道路もまだあるが、増えてはいない。全体としてフリードマンが不適切と考えた14項目のうち、完全に廃止されたのは徴兵制だけだが、約10項目で進展がみられたといえる。」（『最強の経済学者ミルトン・フリードマン）』、222～4頁）
　このほかフリードマンの同書での政策提言について、エーベンシュタインは、変動相場制、k％ルール、負の所得税、税金の物価スライド制、税金・歳出の上限設定、連邦政府の均衡予算義務化、歳出削減のための財政赤字容認、所得税最高税率の引き下げ、教育バウチャー制度、麻薬の合法化、医療貯蓄口座の創設、をあげている。

３．フリードマンの政策提言の思想的背景
　一般に経済学者で専門以外のことについて語らせても的外れが多い。しかしフリードマンの政策提言はある意味では本業でもあることを確認しておくことは重要であろう。その特徴は経済学者の思いつきではなく、実務畑での調査研究による政策提言に、経済思想の裏づけがあるという点だ。フリードマンの経済思想はハイエクから多くを学んでいるが、それをさらに個人的自由主義へと純化したものだ。まず人間が「自由人」として捉えられている。フリードマンは自由人について次のように述べている。
　「自由人は、国が自分に何をしてくれるかを問わない。自分が国になにをできるかも考えない。その代わり、自分の責任を果たすため、自分の目標を達成するため、そして何よりも自分の自由を守るために、『自分は、あるいは仲間は、政府という手段を使って何ができるか』を考える。また、自由を守るためにつくったはずの政府が『自由を破壊する怪物と化すのを防ぐにはどうしたらいいか』ということも考える。」（『資本主義と自由』、23～4頁）
　フリードマンの「自由人」とは徹底して個人である。そして国家にしても社会にしても、さらには他人にしても、みな自由人の手段として捉えられているようだ。自由人とは、自分の責任を果たし、自分の目標を達成し、自分の自由を守るというように述べられているのだが、責任や、目標や、自由が完全に個人的なものとみなされている。人はみな社会の中で産み落とされて生を受け、長期にわたって扶養されて独立の人格として形成されるのだが、フリードマンの自由人は生まれながらのものとして措定されているのだ。責任や目標や自由は社会的なもので、個々人はそれぞれ歴史的に規定された諸条件の下でそれらを受け取るのだがフリードマンにあっては、それが全くの個人的な獲得物とされているのである。この自由人モデルがフリードマンの政策提言の土台にある経済思想に他ならない。この個人的自由主義の見地から一切の問題を理解しようとしているのだ。
　この自由人の見地からすれば、資本主義や市場はそれぞれ次のように特徴づけられる。まず資本主義は、競争資本主義でなければならない。
「競争資本主義とは、経済活動の大半が民間企業によって自由市場で行われるような仕組みをさす。このような自由競争による資本主義は、経済における自由を保障する制度であると同時に、政治における自由を実現する条件でもある。」（前掲書、28頁）
　自由競争が独占を生み、独占体が中小企業を支配するといった、資本主義の法則は全く度外視され、60年代当時のアメリカを、自由競争による資本主義と規定するのは、単に自由人モデルからする願望の吐露のようにしか思えない。次に市場については次のように述べられている。
　「何百万人もが関与する経済活動をうまく調整する方法は、基本的には二つしかない。一つは、強権を発動して上から命令する。軍隊や近代の全体主義国家のやり方である。もう一つは、個人が自発的に交換し助け合うやり方である。市場はこちらに当たる。
　自発的協力を通じた調整が可能なのは、双方が十分な情報を得たうえで自発的に行う限り、経済取引はどちらにも利益をもたらすという基本的な了解が（ときに覆されるとしても）存在するからである。」（前掲書、46頁）
　60年代にあってはまだ投機取引は今日のように実物経済を凌駕するようなこともなく、市場の自発的協力を阻害するものは独占であったが、フリードマンはこれについては触れようとしない。
　「次の二つの条件が満たされるなら、協力は個人のレベルで自発的に行われる。第一は、企業が私企業であって、最終的な契約当事者が個人であること。第二は、交換するかしないかを個人が自由に決められ、あらゆる契約が完全に自発的であることだ。」（前掲書、48頁）
　商品交換は資源配分の機能を持つが、投機取引の利ざや稼ぎはこの機能を持たない。とすれば、一般的商品交換と投機取引とは厳密に区別すべきであろう。しかしこのような見地は見られない。
　「だが自由市場が存在するからと言って、けっして政府が不要になるわけではない。それどころか、『ゲームのルール』を決める議論の場として、また決められたルールを解釈し施行する審判役として、政府は必要不可欠である。」（前掲書、49頁）
　個人の自由を保障する道具としての政府、というのがフリードマンの政府論だが、政府はそのようなものとして創設されたものではない。それは統治の機関なのだが、その機能は市場の管理に終わるものではない。しかしフリードマンは市場に統治の機能を見出しているようだ。それは、市場経済は「本来的に不安定」ではない、という認識に現れている。
　「政府の言い分はこうだ――市場経済は本来的に不安定である。放任しておくと好況と不況を循環的に繰り返すであろう。したがって、政府が介入して景気を安定させなければならない。」（前掲書、91頁）
　「こうした主張は全然正しくない。大恐慌も、他の時代に発生した大量失業も、実際には政府の経済運営の失敗が原因で発生したのである、けっして市場経済が本質的に不安定だからではない。」（前掲書、92頁）
　フリードマンは資本蓄積の過程を捨象した単なる交換の場としての市場、個人の交換の場としての市場を市場経済と見ている。一般的には市場経済は資本主義と一体として捉えられており、市場の不安定性は、資本主義が本質的に不安定ということであり、このことを他の人たちは言っているのに論点のすり代えとなっている。フリードマンからすれば市場経済はこのように抽象されたものとしては自由人の自由な交換の場なのだから、それ自体として安定しており、経済がうまくいかないのは政府の介入のせいだという事になる。しかし、政治と経済という区分は、政府と市場という区分ではない。経済を市場に限定し、その結果として資本蓄積による独占を免罪するフリードマンのずるさ。これは金持ちのやりたい放題の容認につながる。
　「アメリカで発生した大恐慌は、市場経済が本質的に不安定であることを示すものではない。大恐慌は一握りの人間が一国の通貨制度に強大な権限を振るうとき、そこで判断ミスがあったらどういうことになるかを示したのである。」（前掲書、111頁）
　資本蓄積によって独占が成立し過剰な貨幣資本が蓄積されてそれが投機に向かい、株式市場でバブルを形成した、といった要因は一切考慮されず、バブルの破綻の後始末の仕方が悪いというのはなんとも無責任な事で、これがフリードマン的自由人の本質なのだろう。市場の都合の悪いことが起きないようにするのが政府の役割というわけだ。これではフリードマン自体が市場経済は本質的に不安定だということを認めていることになる。フリードマン自身は大恐慌について研究していて株式市場の崩壊が恐慌の引き金となったことは認めているのだが、ケインズと違って投機についてはそれとして研究していないのはなぜなのか。これも自由人モデルのなせる業かもしれない。

４．フリードマン経済思想の問題点
　まず国立公園の民営化の提案からみてみよう。フリードマンは都市の公園は誰が恩恵を受けたかどうか、そして誰に利用料を請求するか、が至難の業であるのに対して、自然の中にある国立公園は入り口の数が少なく、訪れる人たちも公園に行くことを目的にしているのだから、入園料を取るのは容易であり、それでコストを払えるようになれば、民間業者に委託した方がいいといっている（前掲書、79頁）。つまりフリードマンは公園経営が成り立つかどうかという問題を金銭的な面から見ているだけで、その使用価値の保全という観点が完全に抜け落ちている。民間に委託して、国立公園の景観が保存できるかどうかなどは考えてもいない。商品には価値と使用価値とがあり、二つながら見落とせないのだが、自由人モデルが人間を価値視点からしかみていないのに対応して、公園民営化論もその使用価値が一切考慮されてはいないのだ。
　次に技術専門教育についても、使用価値の捨象というこの欠陥は免れていない。専門教育は「人的資本への投資」（前掲書、195頁）と見るフリードマンは次のような提案を行っている。
　「必要なのは所得の再配分ではなく、人的資本に投資する資金が、物的資本に投資する資金と同じ条件で調達できるようにすることである。自分自身への投資のコストは自分で負担し、見返りもすべて自分が受け取れるようにすべきだ。個人がコストを引き受けるようというときに、市場の不完全性に邪魔されてはならない。そのための一つの方法として、先ほど述べたが、ちょうど会社の株に投資するように、個人に持分投資する仕組みを政府が用意することが考えられる。」（前掲書、202頁）
　フリードマンの自由人とは経済人であり、教育というケアも個人への投資と考えて、個人は教育を受けたあとは投資を返済する債務者として現れるということだ。これはひょっとして自由人の定義と矛盾するのではなかろうか。他人に投資されて自分を金稼ぎマシーンとして教育しなければならない、という経過を踏まえなければ自由人にはなれないのか。そのような自由人とは不自由な金稼ぎマシーンにほかならない。
　要するに市場の不完全性をカバーするのに所得の再配分ではなく、すべて個人化してそれに貸し付けるという方法でカバーしようということだが、これが選択の自由ということか。しかし金銭に現れない無形の価値や、個人に切り離せない領域についてはどうするのか、あるいは人と人が市場を媒介にせずに関係する領域はどうするのか。個人を経済人に切り縮めているが、このような個人は不自由な個人にならざるを得ないだろう。自由の領域は経済的自由に限定されないし、この自由を第一原理とするような社会はフリードマンの想定とは逆に不自由な社会となるであろう。
　また株主主権論も所有権の拡大解釈に基づくもので、経済の実情を見ていない。
　「最近になって、企業経営者や労働組合の幹部は株主や組合員の利益を考えるだけでなく、『社会的責任』を果たすべきだとの見方が広まっている。だがこれは、市場経済というものを根本的に見誤った主張だと言わざるを得ない。市場経済において企業が負うべき社会的責任は、公正かつ自由でオープンな競争を行うというルールを守り、資源を有効活用して利潤追求のための事業活動に専念することだ。これが企業に課されたただ一つの社会的責任である。同じように組合幹部の社会的責任は、組合員の利益を追求することである。」（前掲書、248～9頁）
　「企業経営者の使命は株主利益の最大化であり、それ以外の社会的責任を引き受ける傾向が強まることほど、自由社会にとって危険なことはない。これは、自由社会の土台を根底から揺るがす現象であり、社会的責任は自由を破壊するものである。」（前掲書、249頁）
　「企業は株主の道具であり、企業の最終所有者は株主である。もしも企業が何か寄付をしたら、その行為は、株主が自分の資金の使い道を決める自由を奪うことになる。」（前掲書、252頁）
　使用価値の生産という見地からすれば、株式会社の経営者と労働者が役割を果たし、株主（投資家）は配当を受け取る権利を有するだけであるが、フリードマンは株主を株式会社の所有者と考えて、会社の一切をこれに帰属させようとしている。フリードマンは土地の所有について、その上空を飛行機が飛ぶことを拒否できるかどうか、といった議論をしているが（前掲書、72頁）会社を株主のものという議論は、土地を持てば上空の飛行機の飛来を拒否できるといった議論に等しい暴論である。土地所有はその土地に対する自由処分権以外ではなく、株式投資による所有権も配当請求権以外のものではない。また過半数支配できる株主は会社を支配できるが、その根拠は会社を私的に所有しているからではない。なお、株主主権論への批判については、第五節で取り上げる。

５．まとめ
　フリードマンの新自由主義の政策提言は、自由人をモデルとした彼の経済思想にもとづいて立案されたもので、ハイエクが危惧した「自由放任の原則に凝り固まった自由主義者の融通のきかない主張」（『隷属への道』、15頁）になってしまっている。
　日本の新自由主義的改革導入のテキストとなったアメリカの年次改革要望書も、私的セクターだけでなく、公的セクターやサードセクターにも、自由人モデルにもとづく価値視点からの経営方針を押し付けるものだった。たとえば、今日、保育園の改革にも、民間企業と競争させることで労賃を引き下げて、公的支出を削減させるといった提案が大学の研究者からなされたりもするのだが、ワーキングプアを増やして行ってどうするというのか。この手の提案には、当面の経営効率だけを追っていて、社会の保全は関心の外にある。
　フリードマンの政策提言の本質は、持てる者たちが自身の利益のために闘う階級闘争に目標と手段を与えたところにある。それが経済学をバックにしていることで、政策提言のためのシンクタンクだけでなく、大学での研究課題としても成立し、研究費の貸与によって、大学の研究者たちを組織し、多数派にまで仕立て上げて、持てる者たちの階級闘争をバックアップさせたことだ。
　大学の研究者なら、フリードマンの政策提言には付き合いきれない気分になると思われるが、仕掛けられた階級闘争には、反撃することが必要だ。新自由主義の経済思想と学問体系への批判が今ほど要請されている時はない。

第四章　ケインズの投機批判

１．ケインズの大恐慌総括
　ケインズの『雇用、利子および貨幣の一般理論』（以下一般理論と略記、引用は米倉訳と塩野谷訳と間宮訳を併用）は，1929年に勃発した世界恐慌をきっかけにした世界大不況下において、これをどう乗り切るかという問題意識から書かれた書物である。資本主義の不安定性に対する記述や投機に対する批判は、現在の金融恐慌の批判にそのまま当てはまっている。
　まず投機批判について、ボーグルも言及しているが（ジョン・ボーグル『米国はどこで道を誤ったか』東洋経済、156頁）、ケインズは次のように述べている。
　「投機家がエンタープライズ（資産の全存続期間にわたる予想収益を予測する活動）という静かな流れに浮かぶいくつかの泡である限り何の害も与えないだろう。しかし、資産の予想収益を予測する活動が、投機の渦巻きに浮かぶ一つの泡沫になると、事態は深刻となる。一国の資本形成が賭博場の活動の一つの添え物になった場合は、ことはまずくなるだろう。」（『佐賀大学経済論集』41巻1号、103頁、米倉茂訳、原書159頁）
これは1929年恐慌のときのケインズのウォール街批判であるが今日も全く同じ事態が進行している。このような事態を招いた原因についてケインズは、投機取引が持つ社会全体にとっての意味を明らかにすることから批判している。つまり投資のプロは、社会のために、投資対象についての長期の期待に基づいて行動しなければならないのに、投機に走る玄人筋は、大衆の短期の予想のわずか先を読むことに終始しているというのである。
　「これはいわゆる『流動性』に主眼において組織された投資市場の不可避な結果である。確かに正統派的金融の格率の中で、流動性の崇拝、すなわち『流動的な』有価証券の所有に資産を集中することが投資機関の積極的な美徳であるとみなす教義ほど反社会的なものはない。それは、社会全体にとっては投資の流動性というようなものは存在しないということを忘れている。」（塩野谷訳『雇用・利子および貨幣の一般理論』東洋経済新報社、153頁）
　このようにケインズが投機取引を批判する視角は現実資本と社会的生産の見地である。新自由主義を導入したサッチャーが「社会というものはない」といったのはこのようなケインズの見解を念頭に置いてであったのかもしれない。それはともかくケインズはあくまで社会的見地にこだわっている。
　「社会的に有益な投資政策が最も大きい利潤を生む投資政策と一致するという明白な証拠は、経験からは得られない。」（塩野谷前掲書、155頁）
　これは逆に投機で利益を上げることは，社会的に見て有益ではないということであり、このような見地から投機を封じ込めようとしているのである。
　「さらに、短期の変動を無視しようとする投資家は安全上、より多くの資金が必要となり、仮に資金を借りて投資する場合も大規模に借り入れて投資してはならない。元より知力と資金をある程度備えた遊戯の投資にはより多くの収益が与えられるもう一つの理由である。」（米倉前掲書、95頁、原書157頁）
　他人の金、つまり信用資本による投機が今や一般化しているが、ケインズはここで身銭を切れと言っている。しかしこのような批判では投機の勢いは収まらないことについてもケインズは承知している。
　「もしスペキュレイションという言葉を市場の心理を予測する活動として使用し、エンタープライズという言葉を資産の全存続期間にわたる予想収益を予測する活動として使用することが差し支えなければ、市場の心理を予測する活動が資産の全存続期間にわたる予想収益を予測する活動よりも優位を占めるということは必ずしも事実であるわけではない。しかし、投機市場の組織の発展につれて、市場の心理を予測して投資する投機活動が優位を占める危険は増大する。世界における最大の投資市場であるニューヨークにおいては市場の心理を予測して投資する投機活動の影響力は絶大である。」（米倉前掲書、100頁、原書158～9頁）
　29年恐慌の直接の原因を、ウォール街での投機取引にあるとみるケインズは、振り返ってロンドンのシティについては次のように述べている。
　「ロンドンの株式取引所における取引に付随するジョバーの『売買差益』、ブローカーの高い手数料、大蔵省に納める高い譲渡税により、ウォール街の特徴となっているような取引の大部分をなくすほど市場の流動性は十分に減少している（もっとも二週間決済制度はその反対に、流動性を増加させる、すなわち投機を助長させるのであるが）。市場の心理を予測して行われる投機活動の方が資産の全存続期間にわたる予想収益を予測する投資活動よりも優位にある合衆国のような状態を是正するためには、政府がすべての株取引に対してかなり高い譲渡税を導入することが実効的な手段として最も役に立つ改革となるであろう。」（米倉前掲書、105～6頁、原書159～60頁）
　今回の金融恐慌でアメリカの巨大投資銀行がなくなってしまった、という現実の中で、しかも民主党のオバマ勝利したことで、誰も彼もがケインジアンに転向しているようだが、そこからも知れるように、投機取引を規制するということは非常に現代的な課題である。ケインズは投機取引に対する経済的な規制のほかに国家の役割についても重視してる。
　「私は、資本財の限界効率を長期的な観点から、一般的、社会的利益を基礎にして計算することができる国家が、投資を直接に組織するためにますます大きな責任を負うようになることを期待している。なぜなら、上述の原理に基づいて計算される各種資本の限界効率に関する市場評価の変動があまりにも大きくなるので、利子率の実現可能な変化によってもはや相殺できないようになるかもしれないからである。」（塩野谷前掲書、162頁）
　しかしグローバリゼーションが進み、多国籍企業が中位の国民国家並みの売上高を誇り、また貸付可能な貨幣資本が集積している資本市場の規模が世界のＧＤＰの３倍もある（ジャン、『世界を壊す金融資本主義』、59頁）という今日、国家の手に負えない領域にあるのではなかろうか。

２．ケインズの社会哲学
　29年恐慌下での大失業を目の当たりにしたケインズは、完全雇用を経済政策の目標に設定した。「われわれが生活している経済社会の際立った欠陥は、それが完全雇用を与えることができないこと、そして富と所得の分配が恣意的で不公平なことである。」（間宮訳、岩波文庫版下、178頁）と見るケインズは、税制による緩和策として直接税を利用する所得の再配分を強調している。累進課税、相続税がその中心である。これらは経済外的な措置であるが、それにとどまらず、経済政策としては利子率の切り下げを提案している。
　「けれども、富の不平等の将来にかかわりをもつわれわれの議論すなわちわれわれの利子率理論から引き出される、第二のもっと重要な結論がある。従来、いくぶん高めの利子率が好ましいとされてきたのは、十分な貯蓄誘因を与える必要があるからであった。だがわれわれが示したところによれば、有効な貯蓄の大きさは必ず投資の規模によって決定され、その投資規模は、完全雇用点以上に投資を刺激しようとするのでないかぎり、低利子率によって促進される。だとしたら、利子率を、資本の限界効率表の完全雇用点まで引き下げるのが一番の利益だということになる。」（前掲書、182頁）
　ケインズによれば、高い利子率は貯蓄を呼び、低い利子率は投資を呼ぶという。それで低い利子率にすることで投資を促進しようというわけである。そして低い利子率には、金利生活者の安楽死という作用があるとして次のように述べている。
　「要するに、耐久財からえられるその耐用期間中の総収穫は、耐用期間の短い財の場合と同様、その財の生産に要する労働費用プラス危険費用および特殊技能や管理の費用をちょうど償うものになる、ということにほかならない。
　このような事態はある程度の個人主義があるところではどこででも起こりうるだろう。だがいまや、この事態から帰結するのは金利生活者の安楽死、それゆえ、資本の希少価値を搾り取るために累積された資本家の抑圧的権力の安楽死である。今日、利子は正真正銘の犠牲に報いる報酬ではない。この点は土地の地代の場合と同様である。資本の所有者は、土地の所有者が土地の希少性のゆえに地代を獲得することができるのと全く同様に、資本が希少だから利子を得ることができるのである。だが土地の希少性には本来的な理由があるかもしれないが，資本の希少性にはもともとそのような理由は存在しない。」（183頁）
　ケインズは資本家に貸し付けて利子を取る階級を金利生活者とみなし、資本が希少である限りにおいてこの階級の存在意義を認めているが、しかし資本蓄積にとっては金利生活者を抑圧的権力とみなしている。1929年恐慌において恐慌の引き金を引いた投機取引の規制をケインズが主張したのは、このような社会哲学に基づくものであった。
　「だから私は、資本主義の金利生活者的側面はその仕事を終えたら消え去る運命にある、資本主義の過渡的段階だと見ている。金利生活者的側面が消え去れば、資本主義の他の多くの側面も様相を一変させるだろう。」（184頁）
　資本の希少性が解消されれば、資本主義の金利生活者的側面は消え去るだろうというケインズの予測は今日見事に裏切られた。今日の事態は資本の過剰が架空資本を増大させ、投機取引が長期の投資活動をはるかに上回る投機、信用資本主義が生み出されたのだ。
　「こうして、われわれが実際に目指すべきは（ここには達成不可能なものは何もない）、無機能な投資家がもはや特別報酬を受け取ることがないよう、資本量を希少性がなくなるまで増やすこと、そして金融家、企業者、およびこれに類する人たち（彼らは間違いなく自分たちの仕事にとても愛着を感じているので、報酬が現在よりかなり下がっても、労働の提供が受けられないことはないだろう）の知力・決断力・実行力と妥当な報酬条件で社会のために活用することが可能になるような直接税の方式を確立すること、これである。」（184～5頁）
　1970年代に入って不況のもとでの物価上昇というスタグフレーションに悩まされた西欧諸国はケインズ政策に見切りをつけ、フリードマンらのマネタリストの政策を採用する。自由市場と競争資本主義を煽った結果、生み出されたものは金融市場の変容であり、架空資本の蓄積と他人の金で投機取引する信用資本の発達であった。一般の金融市場とは本質的に異なる投機市場が独立化し、従来の金融市場を従属させることで、架空資本による現実資本への支配がなされるようになったのだ。ケインズが推奨した低金利もその思惑とは逆に、今日では低金利政策によって、金融資産の貯蓄から投資へのシフトが狙われる時代となった。ケインズの予想とは違って株式会社が金利生活者により多く搾り取られる時代が到来してしまったのだ。しかしそれはそれで現実経済を荒廃させ、違った形での資本主義の危機を生み出している。
　「それゆえ、消費性向と投資誘因とを相互調整するという仕事にともなう政府機能の拡大は、19世紀の政治評論家や現在のアメリカの金融家の目には、個人主義への恐るべき侵害だと映るかもしれないが、私はむしろそれを擁護する。現在の経済体制が全面的に崩壊するのを回避するために実際に取りうる手段はそれしかないからであり、同時にそれは個人の創意工夫がうまく機能するための条件でもあるからだ。」（190頁）
　いま、G20では、金融規制を巡って、投機、信用資本と各国政府との間の綱引きが行われている。一国的対応ではなく国際協調という形での金融規制が問われており、これに対する投機、信用資本の抵抗も強い。しかし金融危機が現実資本の危機へと波及する瀬戸際にある今日の世界で、金融規制を実施するためには、今日の投機、信用資本主義の実態を明らかにしておくことが不可欠である。次章でジャンの分析を紹介しておこう。

第五章　ジャン・ペイルルヴァッドのトータル・キャピタリズム論

１）株主による革命
　ジャンは、フランスのブルデューなど左派の主張には全く耳を貸してはいず、またオルタナティブの提案も今ひとつ明確ではないが、現代の資本主義を株主による革命によってもたらされたと見る点で示唆的だ。
　「現代の資本主義とは、巨大株式会社のように組織され、所有権構造も、また不詳である。三億人の株主のうち、その90％が北アメリカ、西ヨーロッパ、日本に集中しており、彼らは世界中のほとんどの株式時価総額を掌握している。こうした株主の特徴としては、熟年層であり、高等教育を受けており、比較的高収入であることが挙げられる。彼らの金融資産の半分は、それを運用するファンド・マネージャーに信託されており、投資信託、ミューチュアルファンド、年金基金、生命保険といった金融商品で運用されている。こうした金融商品の唯一の目的は、グローバル化を利用して資金の出し手を儲けさせることである。儲けるためのテクニックはアメリカもヨーロッパも似通っている。『企業統治』、いわゆるコーポレート・ガバナンスを拠り所としているのだ。」（『世界を壊す金融資本主義（トータル・キャピタリズム）』、ジャン・ペイルルヴァッド、NTT出版、５頁）
　ジャンによれば、古典的金融資本とは、ドイツ型資本主義モデルでそれは間接金融を特徴としていた。銀行は貯蓄された資金を産業へと振り向ける金融仲介をしていたのだ。しかしこのやり方は、資本主義の変貌とともに行き詰まり、新たに直接金融の時代が始まる。この直接金融の特長についてジャンは次のように述べている。
　「従来の銀行家とは異なり、このような資産管理業務を行うファンド・マネージャーが金融の仲介的役割を担うことはない。こうした機関投資家たちは、自らはリスクを取らず、預かった資産を運用するだけである。機関投資家は投資方法についての責任は有するが、投資成績については関知しない。運用損益については信託者のリスクとなる。彼らは厳しい競争下において、運用実績が顧客獲得のための方便となったとしても、いわば無責任体制なのである。」（前掲書、19頁）
　たしかに人は慣用句に引きずられて、今日でも資本市場を金融市場と呼び、支配的資本を金融資本と呼んでいるが、ジャンによれば、このような名称は空洞化していることになる。というのも現代の機関投資家の役割は金融（お金をファイナンスする）とは関係がないからだ。つまりすでに投資されている金融資産の売買で、その取引高は現実に生産などに投資されている資本の増大ではなく、架空の資本に他ならないからだ。これはむしろ信用、投機の市場であり、機関投資家は、信用、投機資本主義とでも呼んだ方が正確だと思われる。
　「この直接金融がもたらした影響は甚大である。今後、本書で検証していくが、コーポレート・ガバナンスの発展とは、資本主義の内部機能のみを対象とし、外部への影響は決して考慮しない直接金融システム特有の教義のためのものであり株主に利益をもたらすように付加価値を創造していくという基本理念を尊重させるためのものなのである。・・・金融システム内部において公共の利益を表明する場はなくなった。市民と株主は相容れない二者となり、全く別の銀河系で生活することになったのである。」（前掲書、23頁）
　ここでジャンは株主と市民との間に対立をみているが、それは正確には産業と株主とが対立するようになったということのようだ。たまたまほら吹きのフリードマンの『選択の自由』（日本経済新聞社）を眺めていて、第八章に「労働者を守るものは誰か」とあるのに気づき読んでみると、労働者は自由競争すれば結果として自分たちの地位を守れると書いてあって驚いたが、彼らは市場といえばみんな同じで、労働市場、商品市場、金融市場、株式市場、資本市場などがそれぞれ異なるものであることをみてはいず、市場であれは何でも自由にしなければと考えているようなのだ。この間の新自由主義の成功は市場なら何でも自由に、という主張が通ったことによるが、そうであれば遅まきながらも、これら各市場の違いを明確にし、それぞれにおける規制の必要性を明らかにしていくことが必要だ。

２）世界の株主たち
　さてジャンは、第二章　株主が握る力、その理論と実践、で、株式所有者を国民になぞらえて、民主主義体制に擬制している株式擬似民主主義という理論が幻想であることについて論じているがそれは紹介せずに、アメリカでの直接金融の始まりについての説からみていこう。
　ジャンは、大恐慌時に実施されたグラス・スティーガル法（商業銀行と投資銀行の役割の分離）によってアメリカでは直接金融制度が発展したとみている。しかしそれはまだ今日見るようなものではなかったのだが、コーポレート・ガバナンスが誕生するなかで株主主権が出来上がってきたとみている。それは、1980年代のアメリカでの乗っ取り屋たちがくりひろげた敵対的買収を契機にはじまったもので、上場企業の資本所有者と経営陣との間の予定調和の不在がはじまり、企業経営者は従来の経営方針とは異なる方針を押し付けられることになったのだ。
　「効率的な市場が存在するという過程において、市場における企業価値の極大化を図ることに相当する。つまりこれは株式時価総額の極大化である。」（前掲書、41～2頁）
　従来大企業の経営者たちは、株主への配当を目的に事業を経営してきたのではなく、雇用している人たちへの生活権へも配慮し、また国民経済の成長にも貢献してきたが、このような企業のあり方とはまったく別の、株式時価総額の極大化という目的で会社を支配しようという意志が働くようになっていった。そのために重役制度を改変し、信用、投機資本の利害を代表する勢力と企業側の代表（受任者）のCEOとの関係を調整していったのだ。
　「受任者の報酬が委任者の儲けと並行して上昇するように両者の関係をデザインするのである。また、企業の成果にさまざまな指標を設けるのである。特に、ストック・オプションの導入は急速に広まり、株式価格の上昇を利用して双方に恩恵が行き渡るようにデザインしたのである。」（前掲書、44頁）
　株式会社とは何かという定義が、新たに株主のもの、ということになり、株式時価総額が会社の価値を計る価値尺度となった。その結果蔓延したのは、エンロンなどの不正会計だった。制裁とルールの厳格化、企業改革、取締役会の内部構成の変化、非執行役員による監査などを経てきはしたが、絶対化する株主の権力は変わらなかったとジャンはみている。
「大企業の経営陣は株主の使用人に過ぎず、株主は利益のみを追求している。」（前掲書、4頁）
「大企業の経営者とは、儲けさせろと要求する株主全員のために働く熱心な奉仕人に過ぎないのである。」（前掲書、54頁）
　CEOの収入は増大していきましたが、ジャンは彼らが、黄金でできた監獄生活のなかで采配を振るっているとさえ看做している。
　それではこのような支配権を揮うようになった株主とは何者か？とジャンは問うている。まず、世界の株主たちの概略が描かれている。
「2003年後半の時点で、世界の株式時価総額は31兆ドルであり、これは世界のGDP合計額36兆ドルの86％に相当する。」（前掲書、58頁）
この株式時価総額というもの自体は架空資本で、恐慌で株価が暴落すれば、あっという間に何割もの単位で失われてしまうものだ。これは実際に事業に投資されている金額をはるかに上回っている。また株式市場も含めた金融市場の規模はどうだろうか。
「金融資本市場の全体規模は世界のGDPの約三倍になるということを意味する。すなわち、世界全体の金融資本市場の規模は100兆ドルである。」（前掲書、59頁）
GDPのうちの何パーセントかを占める株式会社の投資額が、株式時価総額となるとGDPの総額に迫り、さらに株式や外国為替が取引されている金融市場の規模となるとGDPの3倍となるとジャンは述べている。しかも証券資産は少数の国に偏在している。
　アメリカの人口は世界の５％で、生産は25％を占め、さらに株式時価総額は46％を占めている。EU15カ国で株式時価総額は世界の25％、日本は15％で、人類の5％が世界の株式資産のほとんどを所有している。そして、0,2％が世界の株式資産の半分を持っているのだ。

３）株式による所得格差
　ジャンは、蔓延する国際的な格差社会化の進展の原因の一つに、株式が生みだすいびつな所得格差があると見ている。世界の労働者人口の半分に相当する14億世帯は一日2ドル以下の生活を強いられているのに、株で潤っている金持ちの数は人口増を上回る形で増えていっているのだ。
「株の高利回りと経済理論とのパラドックスとは、株の利回りが経済成長を大きく上回ってきたということである。」（前掲書、65頁）
　ジャンによればアメリカの過去半世紀の株式の利回りが7％であったのに対して、経済成長のほうは3.3％に過ぎなかった。これは国民経済が生み出した富の再配分において、株主に有利に働いているということであり、株主の経済的権力を増大させているということなのだ。
　このように力を貯えた株主たちは「万国の株主よ！団結せよ」とばかりに、金融市場に富を吸い上げるあれこれの方策を国家と企業に対して要求してきている。高齢化社会になって、年金基金を初めとする機関投資家が台頭し、すべてお金で解決という形で、社会的連帯感の喪失が始まっている。
　アメリカでは雇用主がリスクをとる確定給付型に代わり、リスクを個人化した確定拠出型年金基金が増大している。そして、年金基金はアメリカの株式の時価総額の30％以上を保有している。
「アメリカの株式市場の様相は様変わりしたのである。いわゆる世帯の金融資産を管理運営する機関投資家（年金基金、投資信託会社、生命保険会社）を通じた株式の間接保有が主流になろうとしているのである。」（前掲書、74～5頁）
　従来アメリカには大衆投資家の割合が多かったが、それも淘汰され、機関投資家を媒介者とした間接保有が主流となってきていている。このタイプの資本家は生産に従事するわけではなく、預かった大衆の資金を投機によって増やそうとしているのだから、寄生的存在に他ならない。しかし、もともとの資金がアメリカの労働者の年金基金であるというところに問題の深刻さがある。株式市場についてのこのような分析を踏まえ、その全体像についてジャンは次のように述べている。
「現在の資本主義は巨大な株式会社として形成されており、それは恐るべきピラミッド型構造であり、顔の見えない構造である。三億人の株主が資本主義を支えているのである。裕福な先進国の一般市民は、個人の蓄えを老後に備えて株式で運用している。こうした行為は政治的・社会的正当性を得ているのである。こうした資産の大半は、信託された資産を増やすことが職務である数万社のファンド・マネージャーによって運用されている。ゆえにファンド・マネージャーは集めた弾薬（15兆ドル）を武器にして、上場している数千社の企業の経営者に対し、自らの方針を押し付けるのである。もはや企業の経営者は株主に対して逆らうことが出来ない献身的な奉仕人に過ぎない。反逆する経営者は不信任決議でパージされるのである。」（前掲書、82頁）
　このような資本主義について、ジャンはトータル・キャピタリズムと名付けている（訳本では金融資本と訳されている）。そしてその特長について次のように述べている。
「現代の資本主義において決定権を握っているのは・ファンド・マネージャーをはじめとする資金の出し手をまとめ上げた組織であることは自明である。」（前掲書、84頁）
　この新たな資本主義の蓄積様式についてジャンは歴史的な視点から批判を試みている。まずその成長について、「先進国の年間経済成長率がおよそ2%から3%のときに、どうして株式市場は年間10％の成長を続けることができるのであろうか。」（前掲書、106頁）と疑問を提起している。そしてこれは株式市場が経済活動を破壊することによってのみ可能だとみているのだ。
「株式市場が企業をファイナンスするという理論とは反対に、企業が株主に資金を調達しているのだ。企業経営とは、いわば企業内の経営資源から利益を生み出し、これを企業外部に放出するのがその目的である。」（前掲書、114～5頁）
　従来株式市場を始めとする金融市場は、企業に資金を融通するためのものだった。しかし今では企業が株主に資金を貢ぐようになってきているとジャンはみている。そしてその将来について次のように予測している。
「こうした機能を持つ金融資本主義（トータル・キャピタリズム）は、長期的に反経済的となるのではないだろうか。・・・・失業の増大に加え、経済成長率は低迷し、事後的な全体の収益性は低下するであろう。」（前掲書、115頁）
　世界的規模で暴走する市場経済の行く末をこのように予測するジャンは、トータル・キャピタリズムに対抗する提言として、まずは「万国の市民よ！団結せよ」と述べている。いずれにせよ、このような現代の資本主義の特徴を理解するところから、施策を打ち出すことが問われている。ジャンによるその施策の基本は「経済的・社会的不均衡を修正することのできる政治を改めて創造することである。」（前掲書、序文、14頁）というものだ。
　以上政策提言のために必要な新自由主義の経済思想への批判や、現代の金融市場についての分析を紹介してきた。これらを踏まえて21世紀の社会像をスケッチすることが問われている。

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2010/07/17

ツイッターの可能性

Author: ebara (9:42 pm)

ツイッターの可能性

解題
ツイッターを始めてみました。私の位置づけは、10年前に「21世紀の社会運動の綱領草案（骨子）」を発表した時に補足に付けた以下の文章そのままです。
「新たな社会運動の綱領は、一枚の絵にして、街頭や居酒屋にかかげておくというのが私の夢です。人々は忙しく、生活に追われながらもそれぞれの分野で活動し、時々チラチラとこの絵をながめています。そのうち、現実の方がだんだんこの絵に近づいてきました。そこで突然、この絵に描いてあるように、人々が手を結び合うようになる。ここに、社会革命が実現される。」（『ASSB』誌7巻6号、21頁）
ツイッターは居酒屋というよりは街頭という感じであり、中国文化大革命のときの大字報（街頭の壁新聞）を書くような気分です（実際に大字報を書いたことはありませんが）。数ヶ月体験してみて、一番歯ごたえのあるのはジャーナリストの書き込みだとわかりました。後ツイッターでゼミをやっている宮台真司なども読み応えがあります。
現実のツイッターの表示は、書き込み順に表示されるので新しいものが頭に来ますが、これだと読みにくいので、ひっくり返しています。ハンドルネームが頭についているものは返信であり、末尾に「リツイート」と記入されているのは私がリツイートしたものです。なお一応内容別に見出しを付けましたが、関係ないツイートも削除せず、混じっています。臨場感を持ってもらえると思ってのことです。

１）ツイッターの開始

はじめまして。バラキンです。パソコンからなのでゆっくりです。 10:21 AM Feb 14th

今日はべてるの家の向谷地さんの近著『技法以前』（医学書院）のノート完成。この本は精神医療に対する偉大なる挑戦を企て、かつ非常に面白い本です。 8:21 PM Feb 14th webから

金友子『歩きながら考える』少し読みましたが、スユ+ノモの趣旨と理念はすごくハイテンション。コミューン主義は伊達ではない。全共闘の雰囲気。日本では難しいと感じた。 9:04

では日本ではどうするか。毛利『ストリートの思想』（NHKブックス）をもじれば「溜まり場の思想」か。ストリートの運動も溜まり場あってのもの。 9:35 PM Feb 15th webから

今から昨日の福祉サービス事業準備会の議事録づくりです。4月から高槻市富田のカフェコモンズは障害者自立支援法就労継続支援A型事業所として開所する予定です。皆様のご支援、ご協力をお願いします。 10:53 AM Feb 16th webから

福祉サービス事業所の認定について大阪府からゴーサインが出ました。福祉とは関係のなかったNPO法人日本スローワーク協会ですが、カフェコモンズ（高槻市富田）をメインの事業所として新しい試みに取り組みます。 11:20 AM Feb 17th webから

カフェコモンズですが、平日の昼は福祉サービス事業でランチを出し、夜は居場所、土日はイベントを考えています。いま、毎週金曜日午後7時からコモンズ大学（コモ大）が開講しています。 6:53 PM Feb 17th webから

北海道浦河の「べてるの家」についての紹介文を今から書き始めます。2005年ころ一度本を読んだことがありましたが、今回は福祉サービス事業開始を控えて切実な関心があります 11:16 AM Feb 18th webから

２）社会的企業の促進

国会議員の皆様に、お薦めです。共生型経済推進フォーラム『誰も切らない、分けない経済ー時代を変える社会的企業』（同時代社、2009年10月刊、2000円）。福田衣里子議員に帯を書いてもらいました。「命には一寸の差もない。懸命に生きる方々を支える社会的事業の試みに希望を感じます。」 11:13 AM Feb 19th webから

今夜は私も参加している、共生型経済推進フォーラムの運営委員会が大阪であります。05年から社会的経済、社会的企業促進に向けての活動が始まりましたが、本を出したこともあり、NPO法人化に向けて準備中です。 11:28 AM Feb 19th webから

共生型経済推進フォーラムは19日の運営委員会で、NPO法人化について、3月に設立総会を開催し、6月認証に向けて動き出すことを決めました。 11:44 AM Feb 20th webから

「協同労働の協同組合法」（働く人の協同組合）の立法化の動きが急速に動いています。素晴しいことです。私たちは社会的企業法の法制化運動を開始しており、先にお知らせした出版物に書いています。私たちは働く人の協同組合法だけでなく、社会的企業法も同時に法制化することが大切と考えています。 11:54 AM Feb 20th webから

協同組合はメンバーシップ制です。しかし今日の地域社会の現実はもっと広いオープンな事業活動が必要とされている。社会的企業とはより開かれた企業形態ですので、個別の企業の組織形態を問わない形での定義ができます。株式会社、NPO、協同組合、社会福祉法人、その他多くの事業体を含められます。 12:03 PM Feb 20th webから

日本で社会的企業というと、社会的ミッションを持った事業を展開する企業という意味で、法制化するという志向はないようです。私たちはこのアメリカ型のイメージとは別の、ヨーロッパ型の社会的企業が今日本に必要だと考えています。後者は社会的包摂をめざしていて、法制化による支えを伴っています。 12:10 PM Feb 20th webから

今日本で必要なことは、民主党も「新しい公共」と言っていますが、公、民、サードセクターのセクター間バランスを作り出すことで、そのためにはサードセクターの拡大が不可欠です。社会的企業は非営利・協同セクターと共に「新しい公共」を地域に作り出す主体としての意味を持っていると考えています。 12:15 PM Feb 20th webから

雇われて働くとワーキングプアになるしかないという現実があります。このような働き方とは別の新しい働き方が求められており、働く人の協同組合もそのひとつです。社会的企業も法制化することで、新しい働き方を実現できる場となりえます。それは社会的に不利な立場の人たちと共に働くということです。 12:22 PM Feb 20th webから

事業系NPOにとっては第一に出資金を集められないこと。第二に融資を受けることが困難。要するに法そのものがボランティア団体を想定していて、事業をしようとしている社会的企業向きではない。 11:08 AM Feb 21st webから

そうですね。最新情報を報告していただきました。@tt_oga barakinnさんの紹介していた「誰も切らない、分けない経済」読み始める。田中夏子さんのイタリア社会協同組合B型の話は興味深い 2:55 PM Feb 26th webから

３）『ASSB』誌読者との哲学論争

hirofreak Latest: @barakinn さん。絶対的他者との連帯において、同一性の契機は必要なのでしょうか。初期マルクスにおける類概念との関係で、レヴィナスのように同一性を完全に否定しうるのかという疑問を感じています。教えとしての他者の現前を理解するためには 2:35 PM Feb 27th webから

hirofreaksさん。同一性は思考の論理に属するもので、絶対的他性は多分思考で捉えた存在の、その彼方の問題ではないだろうか。その場合同一性に類似するものは関係性であるように思います。思考に基づく類概念は、思考の彼方にある事態抽象の世界では形態規定としてあると思われる。 2:52 PM Feb 27th webから

@hirofreak さん「類概念は単に思考によるものではなく、存在の共通性として対象的なものでもある」という考え方をカントは超越論的仮像として批判しました。物それ自体も思考の様式と内容に一致しているという考え方です。レヴィナスはカントには言及しないのですが、同様の問題意識では。 9:37 AM Feb 28th webから hirofreak宛

@hirofreak さん「理性は、人間の類的性格＝共通の特性として、人間に内在している」という考え方に対してレヴィナスは「顔」を喩に論理的関係に倫理的関係が先立つことを主張し、ハイデガー批判を試みたと思います。倫理的関係は関係による形態規定によって成立する論理以前のあるもの。 9:44 AM Feb 28th webから hirofreak宛

@hirofreak さん。倫理は論理では捉えられず、思考の外にある超感覚的なあるものの訪問から開けてくるものとレヴィナスは言いたかったのでしょう。『存在の彼方へ』の「存在」は論理であり、「彼方」とは思考の外にある倫理的関係ではなかろうか。デリダの歓待も同じことのように思います。 9:50 AM Feb 28th webから hirofreak宛

思考の外の他者が倫理的関係にあってはなぜ超感覚的なものと化すか。これこそが思考が紡ぎだす論理とは別の、絶対的他者相互の関係がつくり出す形態規定の働きによるものです。顔は感覚には具体的顔でありつつ、それがそのままで「汝殺すなかれ」と語っている。これを論理に先行させることが彼の課題。 10:06 AM Feb 28th webから

@hirofreak さん。「同一性」という言葉自体が問題ですね。倫理的関係は人間以外のものとも成立するのではなかろうか。倫理は先方からの問いかけです。論理はこちらからの掬い取りで、「同一性」なるものは、この掬い取りの帰結では。論理と倫理の根源的な差異がここにあるように思う。 12:17 PM Feb 28th webから hirofreak宛

わかったようなことを書いていますが、倫理学はやったことがありません。レヴィナスを読んだくらいです。だから先の書き込みは、「レヴィナスに関しては」という注記つきと考えてください。デリダの『友愛のポリティックス』はレヴィナス的倫理を政治化しようとしている、というのは勝手な解釈か。 12:23 PM Feb 28th webから

@hirofreak さん、「私が同一性にこだわるのは、周りの人間に資本主義批判をしてもなかなか理解してくれないのはなぜか、という疑問があるからです。」そういうことなら簡単です。人は理性では口説けない。関心のない人に説得は無駄でしょう。関心を向けてもらえるような場づくりが大事。 2:20 PM Feb 28th webから

@hirofreak さん。理性とは？と問うよりも、知の一つの形態としてそれを考え、それ以外の知の形態の可能性について考えてみては。『モモと考える時間とお金の秘密』（書肆心水）ではエンデの「新しい思考」を紹介していますが、芸術知に学ぶことが近道ではないでしょうか。 10:41 PM Mar 1st webから hirofreak宛

@hirofreak 「全体化を回避する形での理性」はありえず、理性と全体化はセットだと見たのがレヴィナスだと思う。ヘーゲルのように感性から理性へ昇っていくのではなく、理性の自己批判が必要だと思う。感性に仕える理性という考え方も成立しうる。理性は自己目的ではなく、単なるツールだ。 10:51 PM Mar 2nd webから hirofreak宛

マルクスの言葉を一々思い出せないが、人間を社会関係の総体として捉えたとすれば、意識的存在に人間の本質を見ることにはならないと思う。理性と感性という区分そのものが、理性優位の立て方。五感に奉仕する理性が芸術知をもたらすのだと思う。昔は実践に奉仕する理論という問題提起であったが。 11:05 PM Mar 2nd webから

@hirofreak 「意識的存在が人間の本質的特徴である」というあなたの考えと「自由な意識的活動が人間の類的性格なのである」という『経哲草稿』からの引用文とはずいぶん内容が違うように思う。存在ではなく活動が問題にされ、本質規定ではなく性格が問題にされている。意識ではなく活動だ。 9:15 AM Mar 4th webから hirofreak宛

@hirofreakヘーゲルによれば、意識一般は自我と対象との関係だ。精神現象学は感性から理性へと展開し、へーゲルこそが感性を理性の根拠としている。感性に奉仕するツールとしての理性が本当に奉仕できるためには徹底して理性的でなければならないだろう。理性批判は最大級の理性を要求する。 10:58 PM Mar 4th webから hirofreak宛

@hirofreak 理性に基づく理論を唱えるだけならどんな理論でもかまいはしない。しかし理論をツールとして使いこなせば、結果によって検証される。理論をお題目にすれば、検証はなされない。今日の社会運動のツールになれる理論は生半可な研鑽では無理。同一化を結果しない理性の可能性とは。 4:57 PM Mar 5th webから hirofreak宛

@hirofreak 運動に関わっているかどうか、という問題ではなく運動の発展についての認識があるかどうかの問題。理論なしでも運動できるし，間違った理論でも運動できる。運動も様々。ただ物象化による人格への意思支配は様々な運動の前提条件としてあるのではないか。これを暴く理性に期待。 10:51 AM Mar 7th webから hirofreak宛

@hirofreak 理性の役割も大切だが、物象化による意思支配から逃れていける運動がもっと大事。実際このような運動が起きている。当事者が脱物象化をめざしているかいないかに関わらず、それを体現した運動は自ずから繋がっていける。この繋がり方についての実践的知恵を共同で作り出すこと。 11:00 AM Mar 7th webから hirofreak宛

資本主義批判は、今日では脱物象化の運動提起にまで至って初めて実践的になる。脱物象化の運動に問われるのは日常性であり持続性だ。脱物象化の運動を構想するときには、古代の都市文明が崩壊したときの地方での封建制に向けた社会の再編が参考になる。大都市の周辺やその内部から脱物象化運動が進む。 11:10 AM Mar 7th webから

@tater_Haya 他人から見られたとき自分は社会の代表者として振舞うことを見えない関係で強制される。デリダはこの社会関係がもたらす力学への反省を聴衆に促しているようだ。レヴィナスの顔は、社会の代表として振舞うことの暴力性を暴く。デリダとレヴィナスのすれ違い。勝手な解釈だが。 11:21 AM Mar 7th webから tater_Haya宛

４）脱物象化の運動と国家論

ニートは侮蔑用語だった。最近のニートは雇われない生き方＝自営という脱物象化の主体になっている。2月10日ニートの日にカフェコモンズで3日間のニートピアのイベントでの感想だ。脱物象化の肝は雇われないということだ。誰も雇われないで生活すれば、資本主義はなくなる。工業もこの原理で組織。 11:30 AM Mar 7th webから

@hirofreak 物象化は商品や貨幣や資本の存在様式から帰着するもので、「理性が物象化だ」とは主張していない。もちろん物象化を見抜けない理性というのはある。商品や貨幣や資本に意思支配されている、という現実を見据えられるかどうかが問題だ。感性的には多くの人が厭だと感じている。 5:59 PM Mar 7th webから hirofreak宛

@hirofreak 物象化とは人格の物象化と物象の人格化という転倒を指す。人間の類的力が疎外され、国家や神に宿ると観念されるのは物神性だが、商品と対比すると差異が明らか。商品は概念的存在で人格が商品に意思を宿して物象化し、商品は人格化する。国家は幻想的共同性で意思支配はない。 10:40 PM Mar 8th webから hirofreak宛

国家が幻想的共同性であるのは、徴税一つ取ってみても強制関係で、これがしかし共同性というイデオロギーで包まれている事を指す。神は人間の類的力がそれとして意識されない生産様式の段階において、それが外化されることで生みだされたもので、支配の様式だ。商品と違って国家や神に意思を宿さない。 10:51 PM Mar 8th webから

こんな区別にこだわるのは、同じ疎外といっても疎外される仕組みの違いを明らかにする必要からだ。商品も国家も神も疎外態だ。しかし物象化を先の意味に理解すれば、商品と国家や神の疎外の仕組みの違いが明らかとなる。せっかく違いが示されているのになぜ物象化ということで同一化するのか。 10:56 PM Mar 8th webから

国家は権力的支配関係であり、神はイデオロギー的支配関係だ。国家による支配が自由であり神の信仰は自由だというのは奴隷の思想だ。対して商品は、商品という物象に人格が意思を宿す関係であり、商品の価値法則を自然法則とみなしてこれに順応する関係だ。この関係は人々には自由と観念される。 11:06 PM Mar 8th webから

餓えの規律で資本に縛られることがこの社会の日常だ。資本の支配はそれ以外には生活の道がないという働く人の経済的隷属に基づく。これがいやだという考えが浮かんでも生活の道が他にないから従わざるを得ない。国家の国民として生を受けたからその支配下に置かれざるを得ない、ということとの差異。 11:12 PM Mar 8th webから

今日の国家が自由な民主主義国家として成立可能な根拠は、国民の多数が餓えの規律によって資本に縛られているからだ。資本による拘束は本質的に自由と観念される。国民の多数は資本に拘束されているから、国家の支配は赤裸々な強制力を必要とはしない。自由な国家は国民の資本への経済的隷属が土台だ。 11:20 PM Mar 8th webから

毎朝決まった時間に国民の大多数が出勤し、夕方の退社時間まで自分の労働力を資本の指揮下で支出する。退社した後は自分の労働力の再生産の時間だ。大多数の国民は政治に参加する時間を持てない。資本がこのように国民を拘束するので、国家には人身的な強制力は不必要で自由な国家を僭称できる。 11:29 PM Mar 8th webから

脱物象化とは、餓えの規律による資本への経済的隷属を厭だと感じて抜け出す試みを指す。雇われない生活は生産手段を奪われている今日の働く人々には至難の道だ。しかしＩＴ産業が発達したことで、生産手段を個人的に所有する道が開けてきている。農業の再生も課題だ。脱物象化の可能性は広がっている。 11:36 PM Mar 8th webから

@hirofreak ここで用いている意思支配とは、概念的存在である商品に意思を宿すことで意思支配されるケース。政治とは説得又は強制による、他人の意志の領有だ。これも意思支配だが、その様式が違う。こちらは自由な人格相互の間の支配隷属関係で国家なるものが支配するわけではない。 10:52 PM Mar 9th webから hirofreak宛

hirofreakbarakinnさんが紹介してくれたphaさんの記事を読んだ。仕事に人生のほとんどをとられている人間にとって、うらやましい話ではある。しかし、家庭をもっている身としては、なかなか同じ道に踏み出す勇気がでない。ニートになっても時間をもてあますことはないと思っているだけに無念である。 9:19 PM Mar 13th webからあなたがリツイート

hirofreak昨日表三郎さんの『問いの魔力』と『答えが見つかるまで考え抜く技術』を入手。予想していたとはいえ、自分にとっては反省をさまられることがいろいろ書いてあった。逡巡、躊躇し続ける人生ではたしていいのだろうか、など。いまさら外国語はちょっとむりかな、とか。時間がほしい。 9:29 PM Mar 13th webからあなたがリツイート

@yuji_nishiyama お疲れ様でした。『情況』誌に映画上映会について何か書くように言われました。とりあえず、デリダの『条件なき大学』（月曜社）を読んでみます。 8:44 AM Mar 14th webから yuji_nishiyama宛

昨夜ツイッターが止まったが、私の返信への返信も来ていない。フォローもメールが来ているのに、実現していない。相手のホームに記録はあるのに私のホームには存在しない。いまデリダなんか読んでいるせいか。痕跡とはこのことか。 10:32 AM Mar 15th webから

@taikuntai 生きているという主体性と、生かされているという現実の裂け目がヒントかも知れないよ。 9:53 AM Mar 16th webから taikuntai宛

５）条件なき大学の労働の終焉論とニートの言語革命
（注）この項については、後掲論文「デリダの『条件なき大学』」参照。

デリダ『条件なき大学』は不思議な本だった。デリダが理想とする大学を論じているのだが、その課題は「新しい＜人文学＞」で、そのテーマはなんと労働なのだ。「あたかも労働の終焉が世界の起源であるかのように。」（『条件なき大学』、22頁）という謎めいた言葉を起点に労働についての考察が続く。 9:32 PM Mar 20th webから

「労働の終焉」という言葉はリフキンの書名から取ったもので、リフキンは、IT技術の発達による製造現場の労働の減少を論じているのだが、デリダはリフキンの議論の限界について論じている。それだけではなく、マルクスやレーニンの名を記している。もちろんマルクスの思想については述べないのだが。 9:38 PM Mar 20th webから

マルクスにとっては「労働の終焉」とは賃労働の終焉で、これは即コミュニズムという新しい世界の起源のことだ。デリダはこれについては黙して語らない。しかし条件なき大学の原則について、「全てを公的に言う権利、全てを公にする権利」に求めている。確かに今の大学には全てを公的に言う権利はない。 9:45 PM Mar 20th webから

そこでデリダは、大学の外の力に期待をかける。「アカデミズムの外の力と調和しながら現実に抵抗するため、また、（政治的、経済的な）再我有化のあらゆる試みに抗して、主権のあらゆる別の形象に抗して、自らの営み〔＝作品〕によって創造的な攻撃布陣を張るためにです。」（72頁）とまで語る。 9:47 PM Mar 20th webから

映画「哲学への権利」の西山雄二監督はデリダの『条件なき大学』（月曜社）の訳者でもあるのだが、全国各地で映画の上映運動を繰り広げている。これ自体彼の今日の大学制度への批判が込められている。アカデミズムの外の世界との調和をめざして外に出て行く事が意識されているようだ。 9:53 PM Mar 20th webから

外の世界から言えることは、「労働の終焉」は賃労働の終焉としては、ニートという侮蔑用語として実在している。この侮蔑用語を言語革命によって、積極的意味をもたらす闘いがいま始まっている。ニートとは雇われて働くことへの嫌悪感から生じ、雇われて働くことではない働き方を求める社会運動なのだ。 9:57 PM Mar 20th webから

ニートは雇われて働くフリーターと同じ貧しさの中にあっても、世界の起源である「労働の終焉」という大儀、自らが、働く人を搾取し抑圧する資本を創り出すということから、自己責任の名において脱出し、そうとは知らずに、来るべきコミュニズムという名の世界の起源を今日の歴史に刻み込んでいるのだ。 10:00 PM Mar 20th webから

「私は不可能なものについてお話ししましたが、この不可能なものがおそらくいつか到来するとしても、その帰結を想像することをみなさん方に委ねるしかないからです。　時間をかけてください、しかし、急いでそうしてください。何があなた方を待ち受けているのか、あなた方は知らないのですから。」 10:01 PM Mar 20th webから

デリダが「不可能なものについて」話した98年には、まだニート革命は不可能なものだった。しかし、2010年というニートの年の2月10日にニート革命がどこかで成し遂げられ、いまやニート革命後の世界が開けてきている。アカデミズムの内のあなた方はこのことをまだ知らない。上映運動の宿題だ。 10:05 PM Mar 20th webから

情況誌への「哲学への権利」上映会についての寄稿はやっと完成。これまで数回西山訳『条件なき大学』（月曜社）についてコメントしてきたが、その内容が中心になっている。デリダを読んだことで、以前書いた『マルクスの亡霊たち』への批評を近々HPにUPすることを考えている。 3:26 PM Mar 28th webから

デリダ『マルクスの亡霊たち』は彼の資本論解釈ですが、それへの批評を試みてみました。2008年の作品ですが、http://www.office-ebara.org/　のブログ「バラキン雑記」にUPしました。 10:13 PM Mar 28th webから

６）若者の存在と意識についての調査

若者の存在と意識というテーマで調査を計画してもう半年近くたってしまった。焦点が定まらないまま、先日最初の聞き取りを行った。その結果、ずいぶん見えてきたものがあった。ポイントは主体形成なのだが、これは今日では政府の施策と切り離せないということがよく分かった。 10:10 AM Apr 2nd webから

政府の若者にたいする施策は、03年に出された「若者自立・挑戦プラン」と05年に出された「若者自立塾」だが、いずれも若者支援をしている民間の団体からすれば、的外れなものだった。中間で天下り団体に中抜きされ、具体的施策はNPOで臨時雇用されたワーキングプアたちによって担われる。 10:17 AM Apr 2nd webから

過去の自民党政権下での若者に対する施策の点検と、公的支援のあり方についての基本構想を打ち立てることが急務だと思う。その際に独自の若者の主体形成のイメージが問われるような気がする。それはポスト資本主義の社会のあり方についての一定の合意に基づくようだ。鍵はニートによる言語革命か？ 10:25 AM Apr 2nd webから

西ヨーロッパでは若者問題は1970年代から顕在化し、様々な支援施策がとられた。日本では若者問題での政府の施策の具体化は、今世紀に入ってからだ。日本政府の施策の検討は若手の研究者にとってはすごくいいテーマだと思う。自身の大学でのワーキングプア的処遇問題も含め。既に誰かやっているか。 10:47 AM Apr 2nd webから

高槻市全体がジャズの演奏に包まれる「高槻ジャズストリート」（www.0726.info）。今年は5月3日と4日です。有名無名のアーティストたちが集い、街頭でのジャズ演奏の他、屋内での演奏もあります。また広場でのフリーマーケットも設けられ、大勢のボランティアの手で運営されています。 11:03 AM Apr 7th webから

@T_Yoshimoto 気分いい隆明さんにフォローされ。ところで隆明が60年頃に主張した「自立」と、現在官僚や財界が主張している「自立」との違いはどこにあるのだろうか。 12:08 AM Apr 10th webから T_Yoshimoto宛
（注）吉本隆明のツイートは既刊書籍の引用ばかりで、本人がつぶやいているわけではないようだ。

７）新しい公共円卓会議へのコメント

鳩山首相が主催している新しい公共円卓会議についてつぶやきます。この会議に3月25日付けで作業チームが「社会事業法人（案）」というペーパーを提出しています。ネットで内閣府のHPで見れます。作業チームはもちろん経済産業省などの官僚によって構成されていると思われます。その内容がひどい。 9:51 PM Apr 11th webから

社会的企業の必要性と題する冒頭の一句でチームは「世界一の借金国日本は、もはや政府によって全ての社会的課題は解決できない」と述べている。世界一の借金大国にしたのは誰ですか。経済産業省にもその責任があるのでは、とまず突っ込みたくたくなります。この国の官僚の無責任体質は全然変わらない。 9:58 PM Apr 11th webから

チームは続いて「ゆえにスリムな政府・大きな公共へ」と書きます。しかし国の借金と家計の借金とは全然性質が違う。国の借金は実はそれに寄生している金融機関や利子生活者がいて、彼らは国民の税金から支払われる国債の利子で利殖活動をしている。国債発行額が増えるに従い彼らの利益も増大する。 10:04 PM Apr 11th webから

日銀のバランスシートを見ても、国債利子がなければ日銀の経常利益が△になるような状態で、利払いが安定している国債という金融資産が金融機関の収益の基幹となっているのだ。国が借金を増やすことで、これらの金融機関が延命できている。国の借金は金融資産を増大させる魔法の杖なのだ。 10:10 PM Apr 11th webから

つまり国の借金は金融資産を増大させ、金融取引を活発にさせる役割を果たしているわけだ。そして、利払いと借り換えで国債発行額は鰻登りに増えているのだが、だからといってこれで国の予算執行に制限を設けるということは全然お門違いの考えかただ。国の借入金は金融資産だからこれは架空資本なのだ。 10:17 PM Apr 11th webから

国の予算は現実資本だ。他方国の借金は金融資産であり、架空資本だ。架空資本が増えても現実資本の増減とは関係がない。架空資本の増大を根拠に予算支出の制限を考えることは錯覚であり、意図的にやっているならば詐欺だ。現に今回の金融危機で民間の金融資産が劣化したために国債が肩代わりしている。 10:23 PM Apr 11th webから

国の借金がなければ今日の金融システムは存続できなくなっている。要するに国は民間の金融資産の劣化に対してそれを肩代わりすることで今日の金融システムを維持している。それと現実の予算での支出増大とは無関係であり、国の均衡財政という理念も今日のような金融資産本位の世界では妥当性がない。 10:28 PM Apr 11th webから

この国の財政は一般会計以外の特別会計では巨額の資産があり、国民の金融資産も巨大だ。この国の借金は自民党政権下での政・官・財の癒着による無駄遣いや国への寄生によるので、これを整理すれば、経済成長なしでも借金地獄から抜け出すことは可能だ。官から民へは金融資産の世界でこそなされるべき。 10:39 PM Apr 11th webから

チームは政府が何もできないので、新しい公共の担い手として社会的企業に期待し、その活動を促進すべく、社会的事業法人という新しい法人格をつくることを提案している。これは新しい公共の創造を民に丸投げするということだ。しかし新しい公共の提起には、従来の公の仕組みの批判的検討が不可欠だ。 10:45 PM Apr 11th webから

今問われているのは、高度経済成長以降の停滞期に、国の舵取りを誤った官僚の自己批判であり、国の財政政策や経済政策の批判的検討だ。つまり公の組み換えということが新しい公共を提案する前提になければならない。公はそのままにして民に新しい公共の創造を丸投げするチームの提案は机上の空論だ。 10:51 PM Apr 11th webから

新しい公共という概念に、社会的排除の問題がきちんと位置づけられていず、社会的包摂の取組みが据えられていない。社会的排除とはポスト工業化社会における産業活動が社会的排除を伴っているということで、社会的包摂とはこの産業活動の排除的機能の是正ということだ。そのための新しい公共が問題だ。 10:57 PM Apr 11th webから

チームの考え方は公にも民にもサードセクターにも市場原理を適用するということだ。しかし新しい公共は、三つのセクターがそれぞれ別の原理で律されることで初めて具体化されよう。そして三つのセクターのセクター間バランスを形成しなければならず、そのためにはサードセクターの育成が急務だ。 11:01 PM Apr 11th webから

そもそも社会的企業はサードセクターの中核的存在としての意義を持つ。それはサードセクター育成という全体構想の中で考えられるべきで、チームが構想するような、政府が放棄した課題を担うお助け企業ではない。公の変革と市場原理とは異なる原理でのサードセクターの育成、これが新しい公共の課題だ。 11:06 PM Apr 11th webから

サードセクターの拡充という観点からすれば、社会的企業に新しい法人格を付与するというチームの提案は現実的ではない。むしろ韓国の社会的企業育成法のような認証制の方が現実的だ。いろいろな法人格の企業が一定の条件で社会的企業としての認定を受けられる制度、これが今求められている。 11:11 PM Apr 11th webから

８）告知とリツイート

論文「浦河べてるの家の紹介」をHPにUPしました。http://www.office-ebara.org/のバラキン雑記をご覧下さい。なお、NPO法人日本スローワーク協会の、障害者自立支援法就労継続支援A型事業所は、無事4月1日から始まっています。 10:51 PM Apr 15th webから

megumes P201に丸山さん―― 「商品の価値がもつように見える自己同一性ゆえに交換可能なのではなく、交換可能を保証する貨幣の出現によって関係が実体と錯視され商品の物神化が成立する状況は、････＜物象化＞の現象である．」 8:03 AM Apr 21st webからあなたがリツイート

megumesこれでは、等価形態上着が、価値形態をとるも、自然的形態として現象することで、物と物の関係として錯視されることが、批判されていない． 8:03 AM Apr 21st webからあなたがリツイート

megumes『言葉と無意識』丸山圭三郎を読んでいます．彼は価値形態論を物神性批判の視点から見ているために、既成の価値表現のメカにズム論を批判しえていないと思えます． 12:51 PM Apr 20th webからあなたがリツイート

デリダの「条件なき大学」ー映画「哲学への権利」上映会によせて、をHPにUPしました。http://www.office-ebara.org/のバラキン雑記です。西山監督の映画はパリの国際哲学コレージュの研究者を取材したものですが、デリダの『条件なき大学』も西山さんの訳です。 9:35 PM Apr 22nd webから

デリダの『条件なき大学』（西山雄二訳、月曜社）についての文章のうち「労働の終焉」を巡っては、その一部を既にツイートしています。友人からは労働論についてもっときちんと書くべきだとも言われていて資料を集めている段階です。ネットで見つけた桜井哲夫「今村労働論の今日的意味」が面白かった。 9:47 PM Apr 22nd webから

@patrasche_2010 高槻市富田のカフェコモンズでは、5月2日午後2時より「窯の会」があります。コモンズの石窯で持ち寄った食材を焼いて食べるイベントで、引きこもりサポートの企画です。この日の午後5時からはスペース研究会の読書会です。3日と4日は高槻ジャズストリートです。 11:08 AM Apr 23rd webから patrasche_2010宛

９）正規労働者の運動の可能性を探る

今5月2日の読書会の本の一つ『プレカリアートの詩　記号資本主義の精神病理学』（櫻田和也訳、河出書房新社）が私には目茶苦茶面白い。サイバー空間とサイバー時間（人間主体）との矛盾から現代の精神病理を説き、そこからの脱出を特異的自律ゾーンの文化的活動に求めている。コモンズはまさにそう。 5:11 PM Apr 23rd webから

デリダ『条件なき大学』に触れた拙文（HPのもの）の意見交換をした。ニートの運動は理解できるが、雇われて働いている者はどうすればいいのか？という疑問が出された。自分もニートだと意識して行動すればいいと言う意見が出たがそれでは資本の許容範囲でしかないと質問者はいう。名案を募集します。 12:37 PM Apr 24th webから

『プレカリアートの詩』ではこの問題について認知労働者に期待し、彼ら自身のオートノミーな自己組織化を予測している。そのような認知労働者は「コニタリアート」＝自己の認知能力と神経エネルギー以外に何も所有しない者、つまり子どもも作れない現実を知って、そのような自己組織化を始めるという。 1日前 webから

雇われて働くワーキングプアにとってはユニオンに入るなり作るなりして労働組合運動を始めることができる。問題は既成の正社員労働組合の人たちがどうすればいいのかということが質問者の意図だった。だから『プレカリアートの詩』の答えは質問者を納得させない。職場から脱出せずに何ができるのか。 about 24 hours ago webから

deschoolman自分の労働の意味をシステムが定義してその外に出られない。「勝ち組」とされる「正社員」が自殺に追い込まれる構造は労働観ばかりでなく文化全体の衰弱によるだろう。もう一つの社会の希望が消えるとき人は「原理主義」に寄りかかって己を癒そうとする。そういう安易な道をとらない人は狂い始めるかも about 20 hours ago webからあなたがリツイート

deschoolman自分が従事している仕事の意味を過剰に意味づけるのは危険である。その意味付けは職場のシステムと多少ともつながっているから、不幸にもその意味が自らの意に反して無意味や反意味に変化する。そのとき仕事に自己をかけてきたモウレツさんは燃え尽きてしまう。「さぼり」の積極的な意味はそこにある。 about 20 hours ago webからあなたがリツイート

deschoolman労働は快楽でなければならない。「いつかわれわれは芸術すなわち人生の快楽をとりもどすであろう。日々の労働に芸術を再び取り戻すであろう」（モリス「芸術と社会主義」）こういう未来を空想すらできなくなった想像力の貧困の責任の一端は「科学」にあるだろう。科学による夢の圧殺。文学の終焉。 about 20 hours ago webからあなたがリツイート

border1968「僕の会社員人生には悔いがある。それは、いろいろ失敗したこととか、無能なまま終わったことじゃない。あまりにも忠実に、言われたことをこなし、やらねばならない仕事を引き受けてきたことだ」――『たぬきちの「リストラなう」日記』 http://ow.ly/1CGmj about 3 hours ago HootSuiteからあなたと2人がリツイート

chibasports 日本の就職・採用活動システムに関して色々言いたい事がある。大手に入社してスーツを着て満員電車に揺られ上司のご機嫌を伺いながらストレスを溜めこみ週末死んだように眠り、月曜に死んだ魚のような目で出勤するのが幸福ではないはずだ。「働き方」には色々な景色がある。そんな提案を事業にします。 about 12 hours ago webからあなたと8人がリツイート

aruteri「非営利団体」が市場競争圧力に巻き込まれ、非正規労働等を容認せざるをえない現状と、それを痛切に「自己矛盾だと自覚」しないこと、そのものが「危機」ではないのでしょうか？脱出口は、市場ではなく「地域」なのですが、再度「新自由主義の内在的批判」が必要です。 about 7 hours ago webからあなたがリツイート

megumes @barakinn 第二組合を出立とする大企業労組、例えばトヨタでの過労死裁判。QCサークルの「自主的運動」をサービス残業で行うことでの憤死．他例、スカイラーク店長の過労死裁判二件――この件に対処した東部労組石川さんの『人のために生きよう！団結への道』。 about 2 hours ago webから barakinn宛あなたがリツイート

megumesここからは、派遣労働者と本工労働者の対立を組織した新自由主義的な労働者支配への対抗が、『人のために生きよう』の核心とする「反省規定」にあると思うのです． about 2 hours ago webからあなたがリツイート

megumes「人のために生きよう」のそこでの無意識な実践．商品形態が、価値形態を回り道とすることでの私的労働の社会的労働への転化でもたらされることへの批判。 about 2 hours ago webからあなたがリツイート

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2010/05/25

新自由主義との決別のために

Author: ebara (9:43 pm)

新自由主義との決別のために

１．はじめに
　政権交代以降8ケ月たったが、この間の日本の政治は、マスコミによって翻弄されてきた。マスコミが、政・官・財が癒着した旧体制の既得権防衛の尖兵として、民主党の鳩山・小沢体制に対して退陣要求を突きつけ続けてきたからだ。旧体制は、政は自民党の崩壊状況で、官はサボタージュ、財は様子見という感じだが、官の改革を企てている民主党に対して、マスコミは官と一体となって既得権防衛のために一大キャンペーンを繰り広げてきたのだ。
　1980年代に英・米をはじめとする主要国で政治権力に代表を送り込むことに成功した新自由主義の特徴は、マスコミや大学を買収して、イデオロギー的キャンペーンを張り、いわば支配階級の側から積極的に階級闘争を仕掛けてきたところにある。これに対して左翼やリベラル派はまともに対応してこれないままずるずると後退してきた、という経過がある。しかし新自由主義の政治は、そのイデオロギー的美辞麗句とは異なり、その達成が招きよせた現実は、貧富の格差の拡大による社会の解体であることを大多数の人々が身をもって体験するなかで、まずイギリスで政権交代がおき、アメリカがこれに続き、日本でも政権交代が実現した。そして今イギリスでは保守党が政権に就いたが、サッチャーのような新自由主義はもはや復活しそうにない。
　このような経過を踏まえれば、マスコミが仕掛けている階級闘争に対してこれを無力にする闘いが取り組まれるべきであり、そのためには新自由主義とは何であったかを端的に明らかにして、新自由主義のイデオロギーの呪縛から人々を解き放つことが必要である。

２．新自由主義は市場原理主義ではない
　新自由主義は一般に市場原理主義だといわれている。絶対的（社会的）自由主義、個人的自由主義、そして格差の承認、これがそのイデオロギーである。新自由主義ははたして市場原理主義か、という問題を検討するところから、イデオロギー批判を始めよう。
　今日の新自由主義は、他人を出し抜いて自己の利益を求めるという投機市場の原理を、市場原理であるかのように擬制してきた。もともとの市場原理には取引相手の利益を第一とするものであり、これによって市場が取引関係者の相互互恵の関係を形づくってこれた。ハイエクは新自由主義の提唱者の1人だが、彼は計画経済に対する批判として市場の優位性を論証しようとしたが、その際に彼が依拠したのは市場のこの機能であり、ハイエクはこれに「社会それ自体がもっている自生的な力」と名づけ、それを「市場によるすべての個人を超えた非人格的規律によって支配される秩序」と特徴づけている（注1参照）。
　フリードマンは、新自由主義派の1人であるが、個人の競争を一義的に位置づけることで他のイデオローグからは批判されていたが、今日の新自由主義のイデオロギーはフリードマンに由来する。フリードマンは人間を経済価値の担い手に一元化した「自由人」をモデルに、彼らの自由な選択にもとづく「自発的協力」を実現できる場を「競争資本主義」とした。ハイエクが人間を超えた市場の自生的な力に期待したのに対して、フリードマンは個人の自由な競争を市場原理としたのだ（注2参照）。このようにフリードマンは個人の自由な競争を原理とすることで、公的セクターやサードセクターにも果敢に競争原理（今日の新自由主義）を持ち込むことを主張した。そして私的セクターの原理である市場原理も、競争原理を優位に置くことで歪めていった。そのあげくに投機取引が拡大していったとき、投機市場の原理こそが市場原理として位置づけられることになる。
　しかし投機市場の原理は市場原理とは異なることは、19世紀から知られていたことだった。シティでは投機市場での取引は一般市場とは区別された領域で特別の条件でなされていたし、より自由な金融市場であったウォール街でも投機取引が1929年の世界恐慌の直接のきっかけを作り出したことで、商業銀行の証券業務を禁止するグラス－スティーガル法が制定されたのである。ケインズの『一般理論』は、世界恐慌を総括した書としての一面を持っているが、世界恐慌の総括を投機資本主義批判の観点から行っている（注3参照）。これと対照的にフリードマンは、世界恐慌の原因を連邦準備制度の通貨政策の失敗に求め、銀行券を増刷することで何とかなったと言っているが、投機が市場を破壊するというケインズの批判的見地がフリードマンには見られない。
　投機市場の原理は他人を出し抜くことであり、投機取引の参加者は出し抜かれても異議申し立ては出来ない。これが、自己責任という言葉の本来の意味である。他人を出し抜く投機市場の原理が一般市場をも巻き込む今日の事態は、市場が相互互恵関係を形づくるのではなく、それを破壊するものとなり、市場原理の破壊へと向かった。貧困層の増大や、格差社会の出現はこの市場原理が破壊されたことの帰結として捉える観点からも考察されるべきだ。
　新自由主義は取引相手の利益を第一とするという市場原理主義ではなく、他人を出し抜いて自己の利益を求めるという投機市場の原理を市場に押し付けることで相互互恵を形成するという市場原理を破壊してきた。新自由主義は市場破壊原理を社会に押し付けた。このことをこの間の金融恐慌から学ぶことができる。

３．世界不況を読む
　今日の世界不況は、08年のリーマンショック以降のバブル経済の崩壊に基づく金融恐慌から始まっている。バブル経済の原理は現実経済があげた富が金融資産（株式や社債、国債、預金など）として蓄積されたうえで、この金融資産の売買によって利ざやを稼ぐことだ。ここに投機市場の原理が生きている。
バブル経済は昔からあったが、今日のそれはIT技術の発達で、世界の金融市場がオンラインで結ばれたことによって、全く新しい段階を迎えている。取引のスピードが瞬間的となり、取引の費用も安く、また誰でも金融取引に参加できて、金融取引の額が現実の商取引の額をはるかに凌駕する額となった。
　投機市場は上位の国家のGDPをも上回って、金融市場のプレーヤー（投資銀行、各種ファンド、機関投資家など）が企業や国家を見下し、それを自分たちの投機取引の対象として、企業や国民経済を出し抜いて自己の利益を上げるようになってしまった（注4参照）。
　他人を出し抜いて自己の利益を求める投機市場の原理は、金融恐慌を招き寄せ、市場社会を破壊する。投機市場はたえずバブル経済を生み出し、そして自己崩壊させて市場に負荷を与える。市場の機能が麻痺した時に、新自由主義者は国家に助けを求める。君たちの「自己責任」はどこに行ったのだ。
　前世紀末からのバブル経済は金融の証券化に成功し、余勢をかってグラス－スティーガル法を廃止して投機取引を野放しにしたアメリカを中心に膨れ上がったが、それがはじけて世界恐慌に直面し、各国政府は公的資金を投入して金融機関の連鎖倒産を防いた。巨額の金融資産が失われたが、これは実は架空資本が失われただけで、現実の生産や消費には直接の関係はない。
　ただし、架空資本の取引で儲けていた金融機関は痛手を受け、金融機関が連鎖倒産すると現実の企業や消費者にも影響が出て、文字通りの経済恐慌となる。その一歩手前で食い止められているのが現状だ。つまり公的資金による肩代わりという事態は最後のカードが切られていることを意味する。
　今の経済の現状は民間の金融資産の消失を公的資金で穴埋めして金融機関を蘇生させているという状況だ。しかし投機資本はバブル再生のチャンスを狙っている。いつバブルが膨れ上がるか、そしてそれは公的資金で支えられている脆弱な金融機関のもとではすぐはじける。こうして現在は、危機の持続する世界となっている。

４．現状と展望
　新自由主義はこの間、投機市場の原理を、私的セクター（市場部門）だけでなく、公的セクター（国家部門）やサードセクター（非営利協同部門）にまで拡張しようとしてきた。新自由主義が市場原理主義を僭称してきたことの暴露とともに、三つのセクターはそれぞれ原理を異にすることを知ろう。
　バブル経済の原理を全てのセクターに押し付けてきた結果が世界不況であるとすれば、今問われているものは、公的セクター、私的セクター、サードセクターがそれぞれの原理を取り戻すことで社会の再設計をなしとげ、持続可能な社会システムを作り上げていくことだ。
　公的セクターの原理は、全体の奉仕者であり、これまでの日本の公的セクターの驕りが改められるべきだ。私的セクターには、取引相手の利益を第一とするという本来の市場原理を復活させて、取引関係者の相互互恵を生み出すと共に、投機取引を規制していくことが問われる。
　また企業は株主主権（会社は株主のもの）という新自由主義の原理から決別して、社員と地域への貢献を改めて課題としていくことが必要だ。サードセクターの原理は非営利・協同だが、日本の場合、セクター間バランスを取るためには、サードセクターが一番未熟でその育成が必要だ。

５．日本に即してもう少し具体的に
　日本のバブル経済は土地バブルで、80年代後半に訪れ、90年代になるとバブルがはじけて、以降長期不況となった。今世紀に入って大企業の業績は回復したといわれてきたが、株主主権主義が定着した結果、国民経済の回復にはつながらず、少子化、高齢化で日本の将来像を描けなくなっている。あらためて、21世紀における社会のあり方について設計しなおすべきである。新自由主義的改革によって福祉国家の時代（ヨーロッパと違って、日本は雇用に福祉が内包されるという特殊な形だったが）が終息させられた今日、格差拡大と貧困の増大は、社会的排除が進められたことを意味する。この社会的排除に抗する社会的包摂の取組みが、その設計の中心におかれるべきである。
　私的セクターは一般の製造業、流通業、農業、消費者などから構成されて市場で取引する企業や個人からなる。過去の日本の市場原理は、バブル経済の原理とは異なるものだった。高度成長期には、日本の大企業は、従業員と地域経済にも気を配りながら、日本の経済成長をリードしてきた。しかし、株式会社は株主のものという新自由主義の原理を押し付けられることで、90年代後半から大企業は労働配分率を引き下げ、配当や内部留保を増やし、結果として利益を国民経済に還元することをやめた。会社が上げた利益は投機市場に吸い上げられて架空資本と化し、消失させられた。
　大企業による正規雇用の制限と非正規雇用の増大はあっという間に自治体や学校に波及し、ワーキングプアと呼ばれる人たちが1千万人を超え、被雇用者の4分の1近くを占める不安定な社会に変化した。雇用に福祉が内包されていた日本的福祉のシステムも同時に崩壊した。国際競争に勝ち残るという錦の御旗で進められた大企業の行動は、日本経済トータルを敗者にした。
　この間の趨勢は、国にも非営利団体にも，営利団体にも押しなべて、取引相手を出し抜いて自己の利益を追求する投機市場の原理が押し付けられてきた。それが「自己責任」という言葉の独り歩きをもたらした。投機市場で騙されて富を失っても訴えるところはない。既に指摘したように、これが自己責任の本来の意味だ。他人を出し抜くことを目指す投機取引の場に参加するには自己責任が問われるが、そうではない日常生活の場にまで「自己責任」が要求されることで殺伐とした格差社会が生み出されてきたことへの歯止めが失われていた。食品偽装、車の欠陥の隠蔽など市場でのモラルが低下した。
　いま問われているのは、日常生活における協同性の取り戻しから始まり、それを地域社会へと押し広めていく市民の日々の生活によって、投機取引の論理の社会全体への拡張に対抗していくことではないだろうか。いまこそソーシャル・ガバナンスが開始されなければならない。

６．各セクターの課題
　公的セクターに投機市場の原理が押し付けられると、民営化、規制緩和だ。しかし民営化とは一部企業家の私有化に他ならず、税金で作られたものをただ同然で一部企業家に売り渡すもので、政商の暗躍する場となった。政権交代が行われたことで、この間の民営化の動きの問題点が明るみに出た。
　公的セクターは、民間の金融資産の消失を補填する公的資金の導入を梃子に、バブル経済の再現を規制によって不発にしていく責務がある。私的セクターでは株主主権を解消し、本来の社会貢献的な企業活動を取り戻すことが問われる。
　一番重要な課題がサードセクターの充実であり、経済領域としては広がっているものの、セクター間バランスを作り出せるような状態ではない。工業化を達成し、成熟した消費社会を迎えた日本では、新たに営利事業として成り立つ経済領域が縮約され、サードセクターの経済領域が広がっている。
　子育て支援や高齢者の介護や地域での助け合いなどはますます必要となり、これらのニーズを非営利・協同の事業として組み立てることが非営利事業体の課題だ。これらに取り組むことは、それ自体が社会的排除に抗する社会的包摂の取組みであり、サードセクターの充実を実現する社会運動としての意義を持ち、この運動が社会再生をリードしていくであろう。

７．私たちの立ち位置から
　今、政策策定の基本的観点を新自由主義原理の経済から人間を主体とする参加型の経済にし、切らない、分けない、支え合う経済を展望していくことが必要となってる。誰も野宿しなくてもいい社会、そして、誰もがそれなりに働いて、生きがいをもてる社会を創っていくことが求められている。障がい者の働く場については、福祉的就労でも一般就労でもない、福祉と雇用が一体となった第三の道の実現が求められている。今日の痛んだ社会を再生するためには、こうした視点が不可欠だと考える。
　こうした視点を現実としていくには、これらの担い手であるサードセクターを日本において拡充していくことが急務だ。それを実現していくためには、社会的事業所の育成と促進を進めるための新たな法制化が必要だと考える。基本法の整備からの出発でも、または自治体条例からの一歩でも、いずれにせよ、事業を通して社会的排除に向き合う社会的事業所を社会政策としてサポートしていくことが、再生の処方箋として必要になっている。

注1
ハイエクの市場のもつ非人格的な諸力

　ハイエクは、第二次世界大戦中に書いた『隷属への道』（春秋社、1992年）で、社会主義をファシズムの基礎としてとらえ、これらを全体主義として一括し、そして全体主義が形成された要因を自由主義の衰退に見た。つまり「全体主義はわれわれの思想的誤りから生まれてきた」（4頁）のである。この観点からハイエクは自由主義を次のように定義づけている。
　「自由主義の基本原理には、自由主義は固定した教義であるとする考え方は、まったく含まれていない。またこの原理に、一度決めてしまえばもう変える必要のない厳密な理論的原則があるわけでもない。ここで最も基本となる原理は、われわれの活動を秩序づけるためには、社会それ自体が持っている自生的な力を最大限に活用すべきだということ、そして強制は最小限に抑えるべきだということである。その意味で、おおまかな経験的ルール、とりわけ『自由放任』の原則に凝り固まった自由主義者の融通のきかない主張ほど、自由主義にとって害をなしたものはない。」（14～5頁）
　ハイエクは自由放任主義と自由主義とを区別し、前者を全体主義を招き寄せた一つの要因と考えている。彼によれば、自由主義のポイントは「社会それ自体が持っている自生的な力を最大限に活用する」というところにあり、このためには競争が効率よく働くシステムが必要で、この目的でなされる政策は承認しているのである。そして自由主義は成功し、大きな役割をはたしたが、そのことがかえって自由主義を衰退させることになり、市場を廃止して経済を意識的に管理、統制しようとする社会主義やファシズムを台頭させた、というわけだ。
　ここでハイエクが社会それ自体がもっている自生的な力というとき、それは市場のもつ力のことだった。彼によれば自由主義か全体主義かという問題は「市場によるすべての個人を超えた非人格的規律によって支配される秩序を選ぶか、それとも少数の個人たちの意志によって支配される道を選ぶか」（272頁）ということに帰着させられる。
　ここでフリードマンとの違いを浮き彫りにするために、ハイエクの自由論を紹介しておこう。ハイエクによれば政治的自由とは政治への参加のことで、一種の集合的自由である。次に内面的自由とは知識は人を自由にする、といった形であらわれるが、これは自分のした決心に固執できるかどうかという問題で、他人の意志とはかかわりがない。さらに権力としての自由は欲することを実行する物理的能力のことで、これは逆に他人の個人的自由を破壊するもととなる。
　これでは消極的な表現になるので積極的に表現すべく古代ギリシャの奴隷制がひきあいに出される。奴隷解放の布告には四つの権利が印されていた。第一は、共同社会の一員として保護される法的地位、第二は、恣意的逮捕からの免除、第三に、本人の希望にしたがって働く権利、第四に、自身の選択に従って移転する権利、この四つの権利に財産を所有する権利を加えればハイエクの考える個人的自由が成立する。そして、これらの内容は先に見た三つの自由とは関係ない、というわけだ。
　このように個人的自由の領域（普通は基本的人権と呼ばれている）を明らかにしたハイエクは、その自由を「人と人との関係にのみかかわるのであり、自由に対する侵害は人々による強制だけである」（23頁）ことを強調する。ところが他方で強制を説明する段になると次の見解が提示される。
「『強制』とは、ある人の環境または事情が他人によって支配されていて、その結果、より大きな災いを避けるために、その人が自分自身の首尾一貫した計画にしたがうのではなくて、他人の目的に奉仕するように行動を強いられることをいう。」（35頁）
　ここで「ある人の環境」を、労働の環境と想定しよう。そうすると今日では多くの人々は生産手段を支配できず、他人がそれを支配している。そうすると餓死という「より大きな災い」を避けるために自分の人生計画に従うのではなくで、他人の資本を増やすという目的に奉仕するよう働くことを強いられる、という事態が浮かび上がる。
　この関係では確かに、人と人との関係では強制的関係はない。しかし生産手段の所有関係にもとづく経済的強制がそこにはある。個人的自由の追求を徹底させるなら、この関係をも自由への侵害と捉えなければならない。
　ハイエクの自由論をここまで拡張したとき、市場における個人を超えた非人格的な諸力をどう捉え、これとどう対決するかが課題となってくる。もっとも人々を経済的に強制して労働を強いる力はハイエクにあっては非人格的な諸力の一つとして数え上げられているのかも知れないが。
ということで、個人の自由を「自由人」としての個人の属性とするフリードマンと比較してハイエクの自由論はるかに広い射程をもっている。

注2
フリードマン『資本主義と自由』（原書1962年、日経ＢＰ社、2008年）
自由人
　「自由人は、国が自分に何をしてくれるかを問わない。自分が国になにをできるかも考えない。その代わり、自分の責任を果たすため、自分の目標を達成するため、そして何よりも自分の自由を守るために、『自分は、あるいは仲間は、政府という手段を使って何ができるか』を考える。また、自由を守るためにつくったはずの政府が『自由を破壊する怪物と化すのを防ぐにはどうしたらいいか』ということも考える。」（23～4頁）
競争資本主義
　「競争資本主義とは、経済活動の大半が民間企業によって自由市場で行われるような仕組みをさす。このような自由競争による資本主義は、経済における自由を保障する制度であると同時に、政治における自由を実現する条件でもある。」（28頁）
　「何百万人もが関与する経済活動をうまく調整する方法は、基本的には二つしかない。一つは、強権を発動して上から命令する。軍隊や近代の全体主義国家のやり方である。もう一つは、個人が自発的に交換し助け合うやり方である。市場はこちらに当たる。
　自発的協力を通じた調整が可能なのは、双方が十分な情報を得たうえで自発的に行う限り、経済取引はどちらにも利益をもたらすという基本的な了解が（ときに覆されるとしても）存在するからである。」（46頁）
　「次の二つの条件が満たされるなら、協力は個人のレベルで自発的に行われる。第一は、企業が私企業であって、最終的な契約当事者が個人であること。第二は、交換するかしないかを個人が自由に決められ、あらゆる契約が完全に自発的であることだ。」（48頁）
政府の役割
　「だが自由市場が存在するからと言って、けっして政府が不要になるわけではない。それどころか、『ゲームのルール』を決める議論の場として、また決められたルールを解釈し施行する審判役として、政府は必要不可欠である。」（49頁）
市場経済は「本来的に不安定」ではない
　「政府の言い分はこうだ――市場経済は本来的に不安定である。放任しておくと好況と不況を循環的に繰り返すであろう。したがって、政府が介入して景気を安定させなければならない。」（91頁）
　「こうした主張は全然正しくない。大恐慌も、他の時代に発生した大量失業も、実際には政府の経済運営の失敗が原因で発生したのである、けっして市場経済が本質的に不安定だからではない。」（92頁）
　フリードマンは資本蓄積の過程を捨象した単なる交換の場としての市場、個人の交換の場としての市場を市場経済と見ている。資本主義が本質的に不安定ということを他の人たちは言っているのに。論点のすり代え。フリードマンからすれば市場経済はこのように抽象されたものとしては自由人の自由な交換の場なのだから、それ自体として安定しており、経済がうまくいかないのは政府の介入のせいだという事になる。政治と経済という区分は、政府と市場という区分ではない。経済を市場に限定するフリードマンのずるさ。その結果として資本蓄積による独占の免罪。金持ちのやりたい放題の容認。
　「自由主義が根本的に恐れるのは、権力の集中である。ある人の自由が他の人の自由を妨げない限りにおいて個々人の最大限の自由を守ることを、自由主義者はめざす。」（93頁）
商品本位制
　「信用貨幣とは、名目上は一定交換比率で物品貨幣に交換できるという取り決めの下に発行される貨幣である。」（95頁）
　「アメリカで発生した大恐慌は、市場経済が本質的に不安定であることを示すものではない。大恐慌は一握りの人間が一国の通貨制度に強大な権限を振るうとき、そこで判断ミスがあったらどういうことになるかを示したのである。」（111頁）
　資本蓄積によって独占が成立し過剰な貨幣資本が蓄積されてそれが投機に向かい、株式市場でバブルを形成した、といった要因は一切考慮されず、バブルの破綻の後始末の仕方が悪いというのはなんとも無責任な事でこれがフリードマン的自由人の本質なのだろう。市場の都合の悪いことが起きないようにするのが政府の役割というわけだ。これではフリードマン自体が市場経済は本質的に不安定だということを認めていることになる。
専門教育は「人的資本への投資」（195頁）
　「必要なのは所得の再配分ではなく、人的資本に投資する資金が、物的資本に投資する資金と同じ条件で調達できるようにすることである。自分自身への投資のコストは自分で負担し、見返りもすべて自分が受け取れるようにすべきだ。個人がコストを引き受けるようというときに、市場の不完全性に邪魔されてはならない。そのための一つの方法として、先ほど述べたが、ちょうど会社の株に投資するように、個人に持分投資する仕組みを政府が用意することが考えられる。」（202頁）
　他人に投資されて自分を金稼ぎマシーンとして教育しなければならないという経過を踏まえなければ自由人にはなれないのか。そのような自由人とは金稼ぎマシーンにほなからない。
　要するに市場の不完全性をカバーするのに所得の再配分ではなく、すべて個人化してそれに貸し付けるという方法でカバーしようということ。これが選択の自由ということか。しかし金銭に現れない無形の価値や、個人に切り離せない領域についてはどうするのか、あるいは人と人が市場を媒介にせずに関係する領域はどうするのか、個人を経済人に切り縮めている。
　「最近になって、企業経営者や労働組合の幹部は株主や組合員の利益を考えるだけでなく、『社会的責任』を果たすべきだとの見方が広まっている。だがこれは、市場経済というものを根本的に見誤った主張だと言わざるを得ない。市場経済において企業が負うべき社会的責任は、公正かつ自由でオープンな競争を行うというルールを守り、資源を有効活用して利潤追求のための事業活動に専念することだ。これが企業に課されたただ一つの社会的責任である。同じように組合幹部の社会的責任は、組合員の利益を追求することである。」（248～9頁）
　「企業経営者の使命は株主利益の最大化であり、それ以外の社会的責任を引き受ける傾向が強まることほど、自由社会にとって危険なことはない。これは、自由社会の土台を根底から揺るがす現象であり、社会的責任は自由を破壊するものである。」（249頁）
　「企業は株主の道具であり、企業の最終所有者は株主である。もしも企業が何か寄付をしたら、その行為は、株主が自分の資金の使い道を決める自由を奪うことになる。」（252頁）
＊　この思想は一片の土地を持ったら、その上空の飛行機の侵入も所有権の侵害だという考え方だ。私的所有権絶対主義。

注3
ケインズの投機批判
　
　ケインズの『雇用、利子および貨幣の一般理論』（岩波文庫）は，1929年恐慌をきっかけにした世界大不況下において、これをどう乗り切るかという問題意識から書かれた書物である。資本主義の不安定性に対する記述や投機に対する批判は、現在の金融恐慌の批判にそのまま当てはまっている。
　まず投機批判について、ボーグルも引用しているが、ケインズは次のように述べている。
　「投機家がエンタープライズ（資産の全存続期間にわたる予想収益を予測する活動）という静かな流れに浮かぶいくつかの泡である限り何の害も与えないだろう。しかし、資産の予想収益を予測する活動が、投機の渦巻きに浮かぶ一つの泡沫になると、事態は深刻となる。一国の資本形成が賭博場の活動の一つの添え物になった場合は、ことはまずくなるだろう。」（『佐賀大学経済論集』41巻1号、103頁、米倉茂訳、原書159頁）
　これは1929年恐慌のときのケインズのウォール街批判であるが今日も全く同じ事態が進行している。このような事態を招いた原因についてケインズは、投機取引が持つ社会全体にとっての意味を明らかにすることから批判している。つまり投資のプロは、社会のために、投資対象についての長期の期待に基づいて行動しなければならないのに、投機に走る玄人筋は、大衆の短期の予想のわずか先を読むことに終始しているというのである
　「こうしたことは、資本市場がいわゆる『流動性』を目的として組織されていることの不可避の結果である。正統的金融の格率の中でも、流動性信仰、すなわち投資機関においてはその資力を『流動的な』証券の保有に集中するのが絶対的であるとする教義ほど反社会的なものは断じて存在しない。それは、社会全体にとっては投資の流動性のごときは存在しないことを忘れている。」（間宮訳、214頁）
　このようにケインズが投機取引を批判する視角は現実資本と社会的生産の見地である。新自由主義を導入したサッチャーが「社会というものはない」といったのはこのようなケインズの見解を念頭に置いてであったのかもしれない。それはともかくケインズはあくまで社会的見地にこだわっている。
　「社会的に見て有益な投資政策が最も多くの利潤を稼ぐ投資政策でもあることを示す明確な証拠は経験上何一つ存在しない。」（間宮訳、216～7頁）
　これは逆に投機で利益を上げることは，社会的に見て有益ではないということであり、このような見地から投機を封じ込めようとしているのである。
　「さらに、短期の変動を無視しようとする投資家は安全上、より多くの資金が必要となり、仮に資金を借りて投資する場合も大規模に借り入れて投資してはならない。元より知力と資金をある程度備えた遊戯の投資にはより多くの収益が与えられるもう一つの理由である。」（米倉、95頁、原書157頁）
　他人の金、つまり信用資本による投機が今や一般化しているが、ケインズはここで身銭を切れと言っている。しかしこのような批判では投機の勢いは収まらないことについてもケインズは承知している。
　「もしスペキュレイションという言葉を市場の心理を予測する活動として使用し、エンタープライズという言葉を資産の全存続期間にわたる予想収益を予測する活動として使用することが差し支えなければ、市場の心理を予測する活動が資産の全存続期間にわたる予想収益を予測する活動よりも優位を占めるということは必ずしも事実であるわけではない。しかし、投機市場の組織の発展につれて、市場の心理を予測して投資する投機活動が優位を占める危険は増大する。世界における最大の投資市場であるニューヨークにおいては市場の心理を予測して投資する投機活動の影響力は絶大である。」（米倉訳、100頁、原書158～9頁）
　29年恐慌の直接の原因を、ウォール街での投機取引にあるとみるケインズは、振り返ってロンドンのシティについては次のように述べている。
　「ロンドンの株式取引所における取引に付随するジョバーの『売買差益』、ブローカーの高い手数料、大蔵省に納める高い譲渡税により、ウォール街の特徴となっているような取引の大部分をなくすほど市場の流動性は十分に減少している（最も二週間。決済制度はその反対に、流動性を増加させる、すなわち投機を助長させるのであるが）。市場の心理を予測して行われる投機活動の方が資産の全存続期間にわたる予想収益を予測する投資活動よりも優位にある合衆国のような状態を是正するためには、政府がすべての株取引に対してかなり高い譲渡税を導入することが実効的な手段として最も役に立つ改革となるであろう。」（米倉、105～6頁、原書159～60頁）
　今回の金融恐慌でアメリカの巨大投資銀行がなくなってしまった、という現実の中で、しかも民主党のオバマ勝利したことで、誰も彼もがケインジアンに転向しているようだが、そこからも知れるように、投機取引を規制するということは非常に現代的な課題である。ケインズは投機取引に対する経済的な規制のほかに国家の役割についても重視してる。
　「これからは、長期的視野に立ち社会の一般的利益を基礎にして資本財の限界効率を計算することのできる国家こそが、投資を直接組織化するのに、ますます大きな責任を負う、と私は見ている。というのも、各種各様の資本の限界効率を市場の評価――先に述べた原理にもとづいて計算される――に委ねた場合、その変動はあまりにも大きく、そのため、利子率を多少変化させたくらいでは限界効率の変動を相殺することはできそうにもないからである。」（間宮訳、227～8頁）
　しかしグローバリゼーションが進み、多国籍企業が中位の国民国家並みの売上高を誇り、また貸付可能な貨幣資本が集積している資本市場の規模が世界のＧＤＰの３倍もある（ジャン、『世界を壊す金融資本主義』、59頁）という今日、国家の手に負えない領域にあるのではなかろうか。

注4
ジャン・ペイルルヴァッド『世界を壊す金融資本主義』（NTT出版）
＊株主による革命の素描
　「現代の資本主義とは、巨大株式会社のように組織され、所有権構造も、また不詳である。三億人の株主のうち、その90％が北アメリカ、西ヨーロッパ、日本に集中しており、彼らは世界中のほとんどの株式時価総額を掌握している。こうした株主の特徴としては、熟年層であり、高等教育を受けており、比較的高収入であることが挙げられる。彼らの金融資産の半分は、それを運用するファンド・マネージャーに信託されており、投資信託、ミューチュアルファンド、年金基金、生命保険といった金融商品で運用されている。こうした金融商品の唯一の目的は、グローバル化を利用して資金の出し手を儲けさせることである。儲けるためのテクニックはアメリカもヨーロッパも似通っている。『企業統治』、いわゆるコーポレート・ガバナンスを拠り所としているのだ。」（５頁）
第一章ドイツ型資本主義モデルの終焉
１．貯蓄から投資へ
　ドイツ型モデルは間接金融方式、ヒルファーディングが描いた古典的金融資本主義のようだ。
２．護送船団方式の崩壊
　間接金融方式がなぜ行き詰まったのか。仲介コストの高さ。金融機関のリスク識別能力、不良債権問題を抱える。
３．カネがすべての金融資本主義
　「従来の銀行家とは異なり、このような資産管理業務を行うファンド・マネージャーが金融の仲介的役割を担うことはない。こうした機関投資家たちは、自らはリスクを取らず、預かった資産を運用するだけである。機関投資家は投資方法についての責任は有するが、投資成績については関知しない。運用損益については信託者のリスクとなる。彼らは厳しい競争化において、運用実績が顧客獲得のための方便となったとしても、いわば無責任体制なのである。」（19頁）
　「この直接金融がもたらした影響は甚大である。今後、本書で検証していくが、コーポレート・ガバナンスの発展とは、資本主義の内部機能のみを対象とし、外部への影響は決して考慮しない直接金融システム特有の教義のためのものであり株主に利益をもたらすように付加価値を創造していくという基本理念を尊重させるためのものなのである。・・・・金融システム内部において公共の利益を表明する場はなくなった。市民と株主は相容れない二者となり、全く別の銀河系で生活することになったのである。」（23頁）
直接投資：株式市場
第二章株主が握る力、その理論と実践
株式擬似民主主義という幻想
ヨーロッパの教義vsアメリカの神話
大恐慌時に実施されたグラス・スティーガル法：商業銀行と投資銀行の役割の分離、これによってアメリカでは間接金融制度が発展した。
コーポレート・ガバナンス誕生の舞台裏
1980年代のアメリカでの敵対的買収　カドバリー・レポート（1992年）
上場企業の資本所有者と経営陣との間の予定調和の不在へ
　「効率的な市場が存在するという過程において、市場における企業価値の極大化を図ることに相当する。つまりこれは株式時価総額の極大化である。」（41～2頁）
コーポレート・ガバナンス
　「受任者の報酬が委任者の儲けと並行して上昇するように両者の関係をデザインするのである。また、企業の成果にさまざまな指標を設けるのである。特に、ストック・オプションの導入は急速に広まり、株式価格の上昇を利用して双方に恩恵が行き渡るようにデザインしたのである。」（44頁）
株式会社とは何か
エンロンなどの不正会計、制裁とルールの厳格化。企業改革。
取締役会の内部構成の変化、非執行役員による監査。
絶対化する株主の権力
　「大企業の経営者とは、儲けさせろと要求する株主全員のために働く熱心な奉仕人に過ぎないのである。」（54頁）
CEOの収入の増大、黄金の監獄。
第三章株主とは何者か？
世界の株主たち
　「2003年後半の時点で、世界の株式時価総額は31兆ドルであり、これは世界のGDP合計額36兆ドルの86％に相当する。」（58頁）
　「金融資本市場の全体規模は世界のGDPの約三倍になるということを意味する。すなわち、世界全体の金融資本市場の規模は100兆ドルである。」（59頁）
証券資産は少数の国に偏在している
アメリカの人口は世界の５％、生産は25％、株式時価総額は46％。
EU15カ国　株式時価総額は世界の25％。日本は15％。人類の5％が世界の株式資産のほとんどを所有している。0,2％が世界の株式資産の半分を持つ。
蔓延する国際的格差社会
株式が生みだすいびつな所得格差
　「株の高利回りと経済理論とのパラドックスとは、株の利回りが経済成長を大きく上回ってきたということである。」（65頁）
万国の株主よ！団結せよ
高齢化社会、機関投資家の台頭、社会的連帯感の喪失
アメリカでは確定拠出型年金基金の増大、年金基金がアメリカの株式の時価総額の30％以上を保有している。
　「アメリカの株式市場の様相は様変わりしたのである。いわゆる世帯の金融資産を管理運営する機関投資家（年金基金、投資信託会社、生命保険会社）を通じた株式の間接保有が主流になろうとしているのである。」（74～5頁）
資本市場とコーポレート・ガバナンス
　「現在の資本主義は巨大な株式会社として形成されており、それは恐るべきピラミッド型構造であり、顔の見えない構造である。三億人の株主が資本主義を支えているのである。裕福な先進国の一般市民は、個人の蓄えを老後に備えて株式で運用している。こうした行為は政治的・社会的正当性を得ているのである。こうした資産の大半は、信託された資産を増やすことが職務である数万社のファンド・マネージャーによって運用されている。ゆえにファンド・マネージャーは集めた弾薬（15兆ドル）を武器にして、上場している数千社の企業の経営者に対し、自らの方針を押し付けるのである。もはや企業の経営者は株主に対して逆らうことが出来ない献身的な奉仕人に過ぎない。反逆する経営者は不信任決議でパージされるのである。」（82頁）
　「現代の資本主義において決定権を握っているのは・ファンド・マネージャーをはじめとする資金の出し手をまとめ上げた組織であることは自明である。」（84頁）
第四章市場と経済成長
拡大する資本主義が生みだす功罪
弱体化する国家、単一モデルを目指す世界
金融市場の権力構造
宣教師となった機関投資家
　「先進国の年間経済成長率がおよそ2%から3%のときに、どうして株式市場は年間10％の成長を続けることができるのであろうか。」（106頁）
株主資本利益率の罠
市場が経済活動を破壊する
　「株式市場が企業をファイナンスするという理論とは反対に、企業が株主に資金を調達しているのだ。企業経営とは、いわば企業内の経営資源から利益を生み出し、これを企業外部に放出するのがその目的である。」（114～5頁）
　「こうした機能を持つ金融資本主義は、長期的に反経済的となるのではないだろうか。・・・・失業の増大に加え、経済成長率は低迷し、事後的な全体の収益性は低下するであろう。」（115頁）
企業の寡占化とM&Aの真相金融専門家によるマネー・ゲーム
国家の役割を問う
第五章何をすべきか？
企業の社会的責任は単なる飾り　世界的規模で暴走する市場経済の行く末　トータル・キャピタリズムに対する提言　
結論　万国の市民よ！団結せよ　

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2010/04/22

デリダの「条件なき大学」映画「哲学への権利」上映会によせて

Author: ebara (9:22 pm)

デリダの「条件なき大学」
　映画「哲学への権利」上映会によせて

2010年3月作成

「哲学への権利」上映運動
　西山雄二監督の映画「哲学への権利」の上映運動が繰り広げられている。パリの研究教育機関「国際哲学コレージュ」に所属する７人の研究者たちへのインタビューを編集したもので、テーマごとに７人の発言が巧みに編集されており、コレージュの制度のみならず、現代哲学への招待のメッセージとなっている。フランス語の発話に字幕が付けられ、哲学者の息吹が伝わってくる。何度も見る価値があると同席した学生が言っていた。また、その上映方法にも特徴があり、受け入れの研究機関の関係者と西山監督が上映後シンポジウムを行い、そしてその後懇親会になだれ込む。３月にはパリで、取材した研究者たちと一緒に上映会を行ったとのことだ。上映会のスケジュールはネットで「哲学への権利」で検索すればいい。
　私はまず阪大での上映会に参加し、その後京大での上映会にも参加したが、若手の研究者たちとの交流ができて楽しませてもらっている。このたび『・・』誌で報告するに当たり、この半官半民の特色ある研究所の設立に関わったデリダの晩年の著作で、西山監督自身が翻訳している『条件なき大学』（月曜社）を素材にして、条件なき大学を創り出そうとしている上映運動に賛歌を捧げたい。

あたかも労働の終焉が世界の起源であるかのように
　デリダを紐解くのは久しぶりのことだ。1998年にアメリカのスタンフォード大学で話された講演を基にしたものだが驚くべきはそのテーマが「労働」であることだ。そしてその導入は「あたかも労働の終焉が世界の起源であるかのように。」（『条件なき大学』、22頁）という謎めいた一句なのだ。条件なき大学を考察する際になぜ労働が問題なのか、というと、デリダは大学での研究をも労働という範疇に入れているからなのだが、どうもそれだけではないようだ。
　デリダは条件なき大学の研究課題を「新しい＜人文学＞」としているのだが、その研究課題の中心を労働の考察に求めているようなのだ。「労働の終焉」という言葉自体は、リフキンの著作名から借用したもので、デリダはリフキンの説の限界について言及している。リフキンによる労働の終焉は、情報テクノロジーによる現場労働の衰退のことで、デリダはリフキンがアメリカでの教職志望者の失業や大学への非正規労働の導入、また一般労働市場での大失業，さらには技術の発展の動きに取り残されている世界の地域等々、を見ていないといって批判しているのだが、しかしそれだけではなく、マルクスやレーニンの名にも触れている。マルクスの名においては、労働の終焉とは賃労働の終焉であり、それはコミュニズムの起源となるものだった。デリダはマルクスの名を書き留めるだけで、この思想は伏せている。

条件なき大学とは何か
　では条件なき大学とは何か、その原則についてデリダは次のように述べている。
「条件なき大学は、原則的に、また、宣言された自らの使命に合致し、公言された自らの本質にしたがうならば、教条的で不正なあらゆる我有化の権力に対する批判的抵抗――そして、批判以上の抵抗――のための究極的な場であり続けなければならないでしょう。」（12頁）
デリダはこのような原則が実際世界のどこにも実現されてはいないことを認めたうえで、しかも信仰告白という形でこのように述べているのだが、もしこれが不可能だったとしても、不可能であるがゆえに、「労働」の考察に基づく「新しい＜人文学＞」を要請しているのだ。
「これこそが、私たちが『条件なき大学』と呼ぶことでそれに訴えようとしているものです。それはつまり、虚構や知の実験という形をとるにせよ、＜すべてを言う＞という原則的な権利、すべてを公的に言う権利、すべてを公にする権利です。こうした公共空間への準拠は、新たな＜人文学＞と啓蒙主義時代との親子関係的な絆であり続けるでしょう。」（13～4頁）
　すべてを言う権利、確かにこれは今の大学制度には保障されてはいない。マルクスの名やその思想も公にすることが躊躇われるような雰囲気があるに違いない。アカデミズムの外の世界にいる私には想像するしかないのだが。

「新しい＜人文学＞」の生成
　デリダも労働についての研究を課題のひとつとする「新しい＜人文学＞」がアカデミズムの内部で成し遂げられるとは見ていない。
「だとすれば、私たちは〔大学の〕内部と外部のあいだで限界そのものに触れており、とりわけ、大学それ自体の境界線に、大学における＜人文学＞の境界線に触れていることになります。」（71頁）
今回の上映会はこの境界線に触れる場を作り出している。大学における旧来の＜人文学＞がその外の世界の学識及び経験と出会う場だ。この場での相互浸透によって大学における「新しい＜人文学＞」が構想され、その外の世界と交流することで「新しい＜人文学＞」が生成される。
「アカデミズムの外の力と調和しながら現実に抵抗するため、また、（政治的、経済的な）再我有化のあらゆる試みに抗して、主権のあらゆる別の形象に抗して、自らの営み〔＝作品〕によって創造的な攻撃布陣を張るためにです。」（72頁）
　そうなのだ。デリダはアカデミズムの外にこのような期待をかけていたのだ。

労働の終焉とニートの言語革命
　デリダの期待に応えるべく、私たちは条件なき大学をめざした上映運動に対して、アカデミズムの外からの役割を果たさなければならない。いま言えることは、「労働の終焉」は賃労働の終焉としては、ニートという侮蔑用語として実在していることだ。この侮蔑用語を言語革命によって、積極的意味をもたらす闘いがいま始まっている。ニートとは雇われて働くことへの嫌悪感から生じ、雇われて働くことではない働き方を求める社会運動として自己を規定し始めている。フリーターとは今日では雇われて働くワーキングプアの意味となっている。ニートは同じ貧しさの中にあっても、世界の起源である「労働の終焉」という大儀とかかわっている。ニートは資本に雇われることで、自らが自身も含めた被雇用者を搾取し抑圧する資本を創り出すという現行の経済システムから、自己責任の名において脱出し、そうとは知らずに、来るべきコミュニズムという名の世界の起源を今日の歴史に刻み込んでいるのだ。
「私は不可能なものについてお話ししましたが、この不可能なものがおそらくいつか到来するとしても、その帰結を想像することをみなさん方に委ねるしかないからです。
　時間をかけてください、しかし、急いでそうしてください。何があなた方を待ち受けているのか、あなた方は知らないのですから。」（73頁）
　デリダが話した98年には、まだニート革命は不可能なものだった。しかし、2010年というニートの年の2月10日にニート革命が言語革命の名において、どこかで成し遂げられ、いまやニート革命後の世界が開けてきている。アカデミズムの内のあなた方はこのことをまだ知らない。

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2010/04/15

浦河べてるの家の紹介

Author: ebara (10:48 pm)

浦河べてるの家の紹介

　　　　　2010年3月発表

はじめに

　私が所属しているNPO法人日本スローワーク協会では、4月より高槻市富田にあるカフェコモンズで、障害者自立支援法に基づく就労継続支援A型の事業所を開所すべく準備中です。これまで精神科の病院の喫茶と売店を委託されて、障害者と一緒に働く場を作ってきたいきさつから、利用者の方々には精神障害をもつ人が多いのが特徴です。
　精神障害者の事業所といえば北海道の浦河にある「べてるの家」が有名です。私は数年前に、『べてるの家の「非」援助論』（医学書院）など数冊の本を読んだことがあり、その独自な取組みには注目していました。しかしまさか自分たちのNPOで、精神障害者の方々と一緒に事業所活動をすることになるとは考えてはいませんでした。しかしそれが現実化したことで、改めてべてるの家の出版物を読み始めました。
　そんな時にべてるの家の向谷地さんが大阪に講演に来られるということで、早速聞きにいきました。そのときに以前に松江で精神障害者中心に作業所をやり、現在は厚生労働省の専門官の職にある武田牧子さんのお話も聴くことができました。向谷地さんのお話は、既に本で得た知識で了解できましたが、松江のお話の方は、事業性のある事業所ならば、成功の可能性があるということで、元気付けられました。
　というのも、べてるの家のやり方は、面白いし、意義もあるとは思うのですが、とても真似することはできないという感想をもっていました。もしあのような形でやるしかないというなら、大変です。しかし他のやり方もあるという感触を得ることができて、有意義な講演会でした。私たちの事業所がどのような形で運営していけるかということについてはいろいろ構想はあるのですが、しかしとりあえずべてるの家の取組みについてまとめてみようと思い立ち、わずかな出版物を頼りに紹介することにします。

　依拠した文献

2002年4月　斉藤通雄『悩む力』（みすず書房）
2002年6月　浦河べてるの家『べてるの家の「非」援助論』（医学書院）、引用では『非援助論』と略記。
2002年11月　四宮鉄男『とても普通の人たち』（北海道新聞社）
2006年4月　向谷地生良『べてるの家から吹く風』（いのちのことば社）、引用では『吹く風』と略記。
2009年11月　向谷地生良『技法以前　べテルの家のつくりかた』（医学書院）、引用では『技法以前』と略記。
　文献は他にも沢山ありますが、今回はこのほかビデオ『ベリー　オーディナリー　ピープル』を参照するに留めました。

　年表

（出典）2010年1月24日講演会レジュメ、及び『べてるの家の「非」援助論』、ほか
1978年4月　向谷地、浦河の日赤病院にソーシャルワーカーとして赴任。
1978年7月　ソーシャルクラブ「どんぐりの会」発足、活動開始。
1979年4月　浦河教会旧会堂に向谷地入居。
1980年8月　旧会堂を正式に住居として借り受ける。佐々木実入居。
1980年8月　宮島牧師夫婦着任。
1982年　　　向谷地、結婚で共同生活の旧教会堂から転居。
1983年10月　日高昆布の袋詰め内職開始。
1984年4月　当事者、地域の有志により地域活動拠点「浦河べてるの家」設立。
1988年5月　宮島牧師夫妻離任。
1988年11月　昆布内職打ち切り。
1988年11月　「地域のために」を旗印に日高昆布の産地直送事業開始。
1990年　　　昆布製品製造・販売について、精神障害者地域共同作業所として町・道から補助金を受ける。
1991年5月　こころの集い　偏見・差別大歓迎！決して糾弾いたしません。
1992年3月　『べてるの家の本』発行。
1993年7月　有限会社「福祉ショップべてる」設立。
1995年3月　ビデオ「ベリー　オーディナリー　ピープル」撮影開始
1995年5月　第一回「幻聴＆幻想大会」開始。教会旧会堂：共同住宅べてる、道と町の補助対象となる。
1996年3月　介護用品のお店「ぱぽ」開店。
1999年5月　べてるの家の活動が日本精神医学会議第一回奨励賞を受賞。
1999年　　　共同住宅「しおみハイツ」道と町と国庫補助の対象のグループホームになる。
1999年10月　介護保険事業に進出（介護用品レンタル）。
2000年共同住宅「フラワーハイツ」、道と町と国庫補助の対象のグループホームにな
る。
2000年8月　精神分裂病者自助グループ「浦河SA」発足。
2001年共同住宅「べてる」、国庫補助の対象のグループホームになる。
「社会福祉法人　浦河べてるの家」設立準備会発足。
「有限会社　福祉ショップべてる」が活動拠点を移転。
地域共同作業所「ニューべてる」活動開始。
共同住宅「あざき荘」「リカハウス」オープン。
2001年6月　自主企画ビデオ『精神分裂病を生きる』発売開始。
2002年2月　「社会福祉法人　浦河べてるの家」設立。理事長に佐々木実。築地3丁目に移転。
　　　　　　　社会福祉事業である「小規模授産施設　浦河べてる」施設長に荻野仁就任。
　　　　　　　「小規模授産施設　ニューべてる」活動開始。
2003年　　　　大道り4丁目に、地域とべてるのお茶の間「4丁目ぷらぷらざ」開店。共同住宅「レインボーハウス」オープン。
2004年　　「浦河べてる」活動拡大、野外作業（農産・水産）開始。「新鮮組」と命名。
2006年　　「ぜんせいれん浦河大会」の事務局を「どんぐりの会」に置き、開催。
　　　　　　「べてるセミナーハウス」が築地2丁目にオープン。
　　　　　　　「小規模授産施設　浦河べてる」活動拠点をセミナーハウスに移転。
　　　　　　　グループホーム「しおみハイツ」がセミナーハウスの2階に移転。・共同住宅「みかん」スタート。
2007年「NPO法人　セルフサポートセンター浦河」発足。ピアサポート事業を展開。
2008年自立支援法施行に伴い、小規模通所授産所が就労継続支援B型事業所へ施設形態の移行。
2009年　　　就労移行支援事業、生活介護事業スタート。
グループホームが一体型（グループホーム・ケアホーム）支援となる。
「4丁目ぶらぶらざ」が「カフェぶらぶら」としてリニューアルオープン。

第一章　べてるの家の成り立ち（主として向谷地さんの文章から）

１．初心
　年表は向谷地さんのソーシャルワーカーとしての就任から始まっています。就任最初の感想について彼は次のように述べています。
　「私が浦河赤十字病院精神科病棟のソーシャルワーカーとして仕事をはじめて最初に脳裏に刻んだ言葉は、〈〈医学→「囲」学〉〉、〈〈看護→「管」護〉〉、〈〈福祉→「服」祉〉〉というものだった。つまり、『囲い込み』と、『管理』と、『服従』の構造を、精神医学の世界に垣間見たのである。」（『非援助論』、42頁）
　大学時代から仕送りを断り、特別養護老人ホームで夜間看護人として働いていたクリスチャンの向谷地さんは、精神病棟の現実をこのように批判的に受け止める立場にあり、この現実を何とか変えていきたいという思いでいっぱいだったようです（『吹く風』、15頁））。
　「ひと月、ふた月と仕事に慣れるにしたがって、『入院患者』の一人ひとりが人間として歩んできた実に個性的な暮らしの様が見えるようになってきた。『どんな苦労をしてきたか』が見えるようになると、その人の暮らしぶりが見えてくる。苦労という小さな窓から覗くと、その人の全体像が浮かび上がってくるのだ。
　はじめて精神科病棟に足を踏み入れた私にとって、精神障害者とは『人としての当たり前の苦労を奪われた人々である』と思えてならなかった。私は、深い山中で貴重な鉱脈を発見したような充実感を感じていた。」（『非援助論』43～4頁）
　日赤病院に入院している人たちの多くは、日高で生まれ育ち、都会に出て病を得て傷心をいだき故郷に帰ってきた人たち、あるいは10代半ばに病気になり、就職や進学をあきらめて、年老いた両親と一緒に暮らしながら入退院を繰り返し、働く場もなく人目を避けて暮らしてきた人たちでした。また民族差別が基で3代にわたってアルコール中毒が継承されているアイヌの人たちもいて、良心的に対応しようとすれば、体がいくつあっても足りない状況でした。
　この頃の向谷地さんの生活ぶりについては、ビデオを作成した監督の四宮鉄男さんが紹介していますが、身も心も僻地でのソーシャルワーカーとしての激務にささげていたようです（『とても普通の人たち』、118頁）。
　「『ソーシャルワーカーとは、精神科に通院する人たちと、どんな時でも近所づきあいができる能力をもった人である』というこだわりも私はもっていた。『公私一体』を標榜して名刺に自宅の住所や電話番号まで書き入れ、さらには当事者と同じ屋根の下、つまりべてるの家で暮らしはじめていた。」（37頁）
　全身精霊をささげて活動していても、困難は増え続けて行ったようです。何とかしたいという思いの空転状態とでもいうのでしょうか。のちに当時の状況が次のように回想されています。
　「このように当時のべてるの家は、当事者が暮らす住居としてはあっても、活動拠点の体をなすどころか展望さえもまったくなかったのである。あったのは、住みはじめたメンバーが地域で繰り広げるさまざまなアクシデントだけだった。」（25頁）
　さまざまなアクシデントへの対応に追われて次第にどん底状態に向かって行きます。

２．絶望
　自ら陥ったどん底状態について、向谷地さんは幾つか上げています。一つは入退院を繰り返す精神障害者に寄り添い、寝食を共にしながら援助する活動でトコトン自らの無力さに気づかされたことでした。二つはアルコール中毒の世代間連鎖を断ち切ろうと教会に子どもを呼んで援助しようとしたが必ずしもうまくいかなかったこと、さらにその上に、職場での人間関係も破綻し自分の身の上にも困難が降りかかってきたのです。
　牧師のいなかった浦河教会に、1980年8月に宮島牧師夫婦が着任します。すでに教会に住み込んでいた向谷地さんの周りには精神障害者やその家族たちが集まるようになっていましたが、牧師の着任でその活動は一層広がっていきました。にも拘らず向谷地さんは展望をもてないままでした。
　まず退院した精神障害者に寄り添うものの、改善が見られず、様々なアクシデントに見舞われ続けます。彼らの「爆発」に無力である自分たちの立ち位置が根本的に問われたのです。このことについて向谷地さんは、早坂さんとの出会いを通して気づかされます。
　「私は、一番つらかったのは彼自身だということを忘れていたのだ。彼自身が一番困惑し、苦悩しているというあたりまえの事実に気づかされたのである。
　今まで出会うことのなかった彼らの悩みを共に悩み、共に挫折し、共にとまどい、無力のなかでただ祈るしかない悩み多い教会の現状の前にひれ伏したとき、そこには『悩む教会』という新しい可能性と希望が与えられたのである。」（『吹く風』、22頁）
　精神病棟に入ったときの初心、現存する精神医療を変えていく試みについての体当たりの試行錯誤そのなかから「非」援助の思想が芽生え始めてきます。苦労を取り戻し、苦労を共にするという原点が定まってきたのです。そしてもう一つの活動の柱であったアルコール依存症に対する活動でも回心的転向を体験します。
　「様々な心の傷や苦労、差別的な体験を背負いながら大人になり、アルコールにおぼれていく、そのくりかえしを何十年も、何世代にもわたって生きてきた人々の現実に直面したとき、私は、何とかしてこの世代間伝播を断ち切りたいと思った。子どもたちに『酒害』教育を施し、勉強の遅れを取り戻すために土曜学校を開いた。そして、ソーシャルワーカーとして『いつでも、どこでも、いつまでも』というキャッチフレーズをかかげ、ＳＯＳを発する家族のもとに日夜駆けつけるという毎日を過ごしていた。」（『吹く風』25頁）
　しかしその思いは、親族間の暴力沙汰に臨場して止めに入ったときに自らも殴られるという事件で、根底的な反省を強いられることになります。
　「それまでは『アルコール依存症になれば最後、この子たちを“アル中”にしない』という強烈な目的意識を持っていた。しかし、世代を越えて続くアルコール依存症の問題は、避けることのできない現実だった。『“アル中”になってもいいよ。それでも共に生きていく』ということを私自身が受け入れられたとき、本当の意味でこの子どもたちと心が通じ合えたような気がした。」（『吹く風』、28頁）
　援助する側の心構えの転換をなしとげながらも、もう一つの困難が控えていました。職場の人間関係の破綻が続きます。
　「精神科病棟出入り禁止という『針のむしろ』は足かけ5年に及び、私は職場の人間関係のむずかしさをこころの底から痛感していた。」（『非援助論』、37頁）
　絶望感にとらわれざるを得ないような状況のなかで向谷地さんは実際に絶望を体験するのですが、実はそこでイエスの故事に託して「充実感」を感じたといいます。
　「教会の土台とは、まさにその混乱と疑いと、疑惑に駆られた人たちによってつくられてきた。それを思い、そして信じたとき、正々堂々と己に絶望し、あきらめている自分がいた。」（『吹く風』、33頁）
　こうして絶望のなかから回心的転向により希望が見えてきます。「精神障害をかかえた当事者の気持ちが分かるような気がした。」（『非援助論』38頁）向谷地さんは、ついに初心を実現していける展望をつかみとります。
　「このような体験のなかで、地域の厳しい現実と無関係に、精神障害者だけが治療や援助によって『社会復帰』をして生き生き暮らしていけるようになる――こんなことは幻想であり、それを期待することの無意味さを痛感するようになっていた。」（『非援助論』、39頁）
　まず、精神医療がめざしていた障害者の社会復帰というものが如何に無理で幻想に過ぎないものであるかが明確となり、別のやり方の取っ掛かりが獲得されたことです。
　「しかし、非常手段ともいうべき『病気』という逃げ場から抜け出して、『具体的な暮らしの悩み』として問題を現実化したほうがいい。それを仲間どうしで共有しあい、其の問題を生きぬくことを選択したほうがじつは生きやすい――べてるが学んできたのはこのことである。
　こうして私たちは、『誰もが、自分の悩みや苦労を担う主人公になる』という伝統を育んできた。だから、苦労があればあるほどみんなでこう言う。『それで順調!』と。」（『非援助論』、23頁）
　病院では苦労をさせないように援助するが、べてるでは当事者に苦労を取り戻させ、その苦労を皆で共有することを学んでいくことになる。こうして世間並みの競争社会に順応する生き方ではないもう一つの生き方に到達して行きます。
　「しかし元来、人間には人としての自然な生き方の方向というものが与えられているのではないか。その生き方の方向というのが、『右下がり』である。昇る生き方に対して『降りていく生き方』である。」（40頁）
　べてるの家は問題だらけといいつつ、三度の飯よりミーティングでお互いの苦労を出し合い笑いあって事業を進めていく、という基本的な構えがこのような経過の中で形づくられていったのです。

３．転機　地域に出て行く
　転機は1988年に訪れます。昆布の内職が、工場長との電話のやりとりが原因で引きあげられ、仕方なく、昆布の産地直送を始めたときです。転機までの最初の10年はアクシデントばかりということでしたが、実際に当事者同士の喧嘩も絶えなかったようです。しかし、1980年には教会に宮島牧師夫婦が着任し、向谷地さんが結婚して、足かけ3年いた共同住宅からとなりに引越し、それと入れ替わりに早坂さんが共同住宅に入った頃、おそらくべてるの家の原型が形づくられたように思われます。それは教会を中心とした大家族的な共同生活の出現でした。牧師婦人が母親役を担い、当事者に何くれと世話を焼くようになったのです。早坂さんにも昆布の袋詰めの内職を探し出し、一緒に仕事をしました。相変わらずアクシデントは続くのですが、苦労を共にするという風土が育って行きます（『悩む力』、46～55頁）。
　この時期が向谷地さんが絶望感にとらわれ始めたときと重なるのでしょうか。またそのどん底で希望を見出した時期には「商売」の種が蒔かれ、大家族的な共同生活が既に形づくられていたように思われます。
　昆布の内職は早坂さんの仕事時間が極端に短いことで、応援する仲間が増え、作業場はにぎわうようになります。しかし当時の展望はやはり障害者の社会復帰という従来の考え方に縛られていたようで、宮島牧師夫婦に重荷がのしかかるようになっていたようです。
　内職打ち切りにあった1988年は、5月に宮島牧師夫婦が離任するということになり、大家族の要が欠落することになり、教会と共同住宅も寂れることになりました。そして11月には内職打ち切りとなったのです。この危機的事態に際してべてるの家はミーティングで内職ではなく商売を始めることを検討していきます。
　「社会復帰のため、将来の自立のため、一人前になるため・・・・精神障害を体験した当事者は、じつにさまざまな言葉を周囲から投げかけられる。そのような励ましに一応はうなずきながらも、それにこたえられない現実に押しつぶされて、さらに自信を失っていくという経験を数多くしている。早坂さんもそんな一人だった。
　しかし不思議なことに、『金儲け』には、関心を示してくれた。早坂さんだけでなく、みんなが『オレ、金ほしい！』と目を輝かすのである。」（『非援助論』、44頁）
　このときに行政と連携して作業所をつくるという方向へは向かいませんでした。それには地域住民の理解が必要だからです。いろいろ検討した結果、交渉の練習もしたうえで、漁業協同組合へと出向きます。
　「しかしいま振り返ると、そのような地域の重圧と壁の厚さが効を奏したと思えてくる。『地域住民の理解』を得ることを早々に諦めて、早坂潔さんを先頭にメンバーが漁業協同組合に直接出向き、『浦河の昆布を全国の人たちに売りたいので昆布を分けてほしい』と頼みにいったのである。」（『非援助論』、49頁）
　漁業協同組合は、全国に昆布を販売するということに興味をもってくれて、協力するだけでなく役所の物産観光課まで連れて行って昆布をわけるように頼んでくれたそうです。精神科の川村医師は、作業所作るのに保険所に行かずに直接取引先へ行き、物産観光課を紹介してもらうなど想定外のことだとビデオで語っています。

４．発展
　昆布の産地直送事業は、まず内職時代にたまっていたはぎれの昆布を細かく刻んでお茶パックに入れた即席だし作りから始まります。売る事さえできれば事業は成立しますが、まず、早川さんが札幌で開かれる教会総会に出向いて売ることになりました。緊張する早川さんは入院してしまいますが、何とか説得して札幌に行ってもらいます。会場でも病気が出てしまった早川さんに代わって教会の婦人会の人たちが販売してくれて持っていった昆布は完売となりました。そんなことで販売経路はめどが立ちます。
　その後出産のために入院していた向谷地悦子さんが、入院中も経理事務に忙殺されている姿を見て声をかけてくれた、隣のベッドの小山さんが協力を申し出てくれて、これがまた地域に出て行く大きなきっかけとなります。
小山直・祥子夫婦の協力は最初は販売管理のためのパソコンの導入時に会社のパソコンを提供してくれたことに始まりますが、小山さんは自身がかかわっているパソコン教室MUG（町内の企業人の学習と交流の場）にべてるの家を紹介し向谷地さんが出向きますがそこで思わぬ歓待を受けます。それ以降べてるの家のメンバーが大勢で参加するようになり、受け入れてもらえました。
　「『病気が治る』ことや『社会復帰する』ことばかりが価値をもち、それ以外評価されない世界のなかで長いあいだ苦労してきたメンバーにとって、あいかわらず問題だらけで『商売』とはほど遠いような私たちの騒々しいありさまを『すばらしい』と評価してくれる人たちがいる!」（『非援助論』、51頁）
やがてMUGに参加している町の人たちがべてるの家の夕食会に参加するようになりました。こうして交流が深まるなかで出版の企画も進み始めます。話はさかのぼって、入院中に悦子さんはべてるの家の印刷物を小山さんに渡していましたが、それを小山直さんが読み、感激してこれを本にしようと、新潟の経営コンサルタントをやっていた知人の清水義晴さんに渡して相談し、清水さんも出版に賛成していました。地域の人たちとべてるの家とのつながりができるなかで、出版の計画も進み、まず1991年5月に「こころの集い」が計画されました。「偏見・差別大歓迎！決して糾弾いたしません」というサブタイトルのもとに計画されたこの集まりは、べてるの家のメンバーが町の人と一緒に精神障害に向き合う初めての試みでした。この集まりには予想以上の人たちが参加し、大いに盛り上がります。向谷地さんはこの集まりのあとでは、地域の人たちに対して次のように言うようになったと述べています。
　「偏見？ああ、あたりまえです。差別？みんなそうなんですよ。誤解？誤解もよくあることです。病気をした私たちでさえ、この病気になったらもうおしまいだなどという誤解をして、慣れるまでけっこう時間がかかりました。ですから、みなさん大丈夫です。あまり無理をして誤解や偏見をもたないように努力したり、自分を責めたりもしないほうがいいんです。体をこわしますから。」（『非援助論』、53頁）
　こころの集いが成功裏に終わり、そのあと出版の作業も進められ、1992年4月には『べてるの家の本』が出版されます。そのあと、ビデオ作成の話も持ち上がり、四宮鉄男さんが監督になり、1995年からべてるの日常を撮った8本のビデオ『ベリー　オーディナリー　ピープル』がコピーフリーで売り出され、引き続いて専門家むけのビデオ『シリーズ・精神分裂病を生きる』10本が作成されました。
　「『地域には偏見や差別が渦巻いている』と決めつけ、啓発活動をおこなってきた精神保健の専門化自身が、じつは地域を知らず、理解していないのではないか。
　地域のなかにこそさまざまな出会いの可能性が眠っている。その意味で『地域の人たちは誤解や偏見をもっている』という見方そのものが、じつは地域の人たちへの大変な『誤解や偏見』であったことに気づかされるのである。」（『非援助論』、54頁）
　このような事態の進展の中で向谷地さんは従来の精神保健福祉の限界をこう指摘しています。
昆布の産地直送事業に始まり、べてるの家の事業はどんどん拡大していきますが、其の具体的な経過は省略して、経営のコツのような事柄を紹介しておきましょう。べてるの家の経営のモットーは「利益のないところを大切に」、「安心してサボれる会社づくり」、「管理も配慮もありません」、「場の力を信じる」等といった言葉で表現されています。向谷地さんは次のように回想しています。
　「いまになって思えばそれは、『能率によって人を切り捨てない』ことと、『経済的な利益』を生み出すという相反するテーマへの挑戦でもあった。さらには、『努力の末に病気や障害を『克服』し『健常者』の社会に復帰する』という“物語”に切り捨てられてきた人たちが、無謀にも新しい価値観をもってその現実のなかに飛び込むことをも意味した。」（『非援助論』、45頁）
　精神障害者のありのままの状況で事業を始める、このことが可能な蓄積が最初の10年で作り出されていました。大家族的な共同生活がその土台であるように思われます。この土台についての研究がもっと必要なように思います。そして「商売」の魅力です。
　「『なぜ商売なのか』とよく聞かれる。それは『苦労が多い』からである。『生きる苦労』という、きわめて人間的な、あたりまえの営みをとりもどすために、べてるはこの地で商売をはじめた。」（45頁）
　「金儲け」をしたいという願いはみんな持っていますが、それを苦労と結び付け、しかもそれを精神障害者の苦労と関係付けたことに注目したいと思います。
　「かつて苦しんだ競争原理に支配された日常のなかに、ふたたび何事もなかったように舞い戻るような『社会復帰』はめざさない。一人ひとりが、あるがままに、『病気の御旗』を振りながら、地域のかかえる苦労という現実に『商売』をとおして降りていきたい。」（46頁）
　宮島牧師夫婦を中心に始められた旧教会堂での大家族的な共同生活、向谷地さんがどん底を体験する時の回心的転向によって獲得した、初心を実現していける展望、そして、内職から産地直送事業への転換、この三つがべてるの家の当事者たちの場の力を創り出したようです。91年5月の「こころの集い」で実を結ぶ町の人たちとの交流の成功も、すでにその時点で成立していたべてるの家の当事者たちが創り出す場の力によるもののように思われます。
さて、以降のべてるの家の多方面での活動のめざましい発展については追うことはせず、次に向谷地さんの既成の精神保健福祉への挑戦を、最近出版された『技法以前』に則して紹介していきましょう。

第二章　精神医療への挑戦　『技法以前』の世界（読書ノート）

解題

　私は精神保健福祉については全くの素人です。心理学は学問ではあっても科学としては成立しないと考えていることもあって、フロイトの心についての研究にもついていけません。交通事故などで脳の一部分に障害を受けた人たちにテストして、脳の機能について詮索するような研究には興味は持ちますが、知識があるわけではありません。向谷地さんの『技法以前』を興味深く読みましたが、実は肝心の精神保健福祉の「技法」については何も知らないのです。
　ただ、障害者自立支援法が、従来の障害福祉サービスを提供してきた団体だけではなく、私たちのような一般の団体にも障害福祉サービス事業の開始を可能にしている現状で、「技法」に通じていなくとも技法以前について知ることは大切なように思います。
　しかしこの本の副題は「べてるの家のつくりかた」です。これは私にとっては手に負えない問題ですが、しかし中身については共感できることが多いし、学んで実施していきたい事柄も多く書かれています。
　それでこの本をどのように紹介するかということですが、読書ノートに注記を挿入するという形にします。私の注記は「●」で示します。この本は小見出しを大きい字体で組んであります。その小見出しは「・」で示して引用括弧はつけません。また引用以外に要旨をまとめたところは括弧なしでメモしてありあます。読みにくいかと思いますが全体の流れをつかんでいただくためにはそうする他はありません。興味をもたれた方はぜひ直接原本をお読みください。

はじめに　何をしてはいけないか
「『当事者研究』に象徴されるような、精神障害を持つ人たちのユニークかつ混沌とした“経験”に潜む可能性に着目すること――これがソーシャルワーカーとしての私のスタンスである。」（『技法以前』、4頁。以下断りのない引用は同書）
「＜当事者＞と＜場＞のもつ可能性を信じているからである。」（5頁）
「多くの当事者は『人間として自分にぶっつかってきてくれた感覚』や『同じ人間だと実感できる現実感』こそを回復を促す条件として口にする。その大切な出会いを生み出すものは、おそらく『技法以前』にある何かである。」（5頁）
●　当事者研究についてはこれまで触れませんでした。「爆発」や幻聴体験について、それを当事者の内心の問題として探求するのではなく、大勢の当事者と一緒にそれを研究素材として提供し、共有しつつ進めていく研究です。人と問題を切り離すという問題意識と、自分の病気を研究するというその立ち位置と、さらに大勢での共有できる場の存在ということが、技法以前に準備されることが大切なのでしょう。

第一章　形から入れ！
１．援助とは振る舞いである
・履物をそろえると心もそろう？
・拍手をやめないこと
・心の健康より行いの健康
・アクションメソッド大嫌い人間が・・・・
1991年SSTとの出会い
・練習すればいい――SSTとの出会い
「べてるの家では、『治療』を重視したアプローチから、『生きること』に軸足を移した。その象徴が「社会復帰から社会進出へ」というキャッチフレーズである。」（17頁）
●　ずっと以前に、友人の精神科医に治療可能かどうか聞いたことがあります。彼は難しいといっていました。またある精神科医は自分が死んだら患者さんたちは大変だろうなあとつぶやきました。しかし精神医療は医療である限り治療という目的を掲げるしかありません。障害を持ったまま生きていけることを示したのがべてるの家の実践であるように思います。この考え方には全く同感です。また、このやりかたは精神医療や精神保健福祉の枠内では実現不可能なように思います。
・無惨なデビュー
・当事者はアスリートだ
浦河でのSSTの導入1994年
当事者の運転技術の向上を目指す。
・あなたはどこに立つ？
２．「自分を助けること」を助ける
・当事者主権としての自助
自助の援助
自助は行政からの自立ではなく、施策を権利として捉える立場へ。当事者主権としての自助。
●　自助や自立を考える際に、施策を恩恵ではなく、権利として考えることが前提となるという指摘も当を得たものです。
・当事者不在はいつ起こるか
「当事者自身が自分を助けるのを助ける」（24頁）
●　これだけでは少しわかりにくいですが、自分の病状を自分を助けるものと考えて、自分と病気という問題とを切り離すことができるように助けるという意味です。
・自助の反対語は孤立
「助ける主体としての自分を見つける。」（25頁）
・話の聞きすぎは苦労の丸投げをもたらす
・「残念ながら百点満点」という立ち位置
・自分の苦労の主人公になる
・神の手への誘惑をいかに断ち切るか

第二章　専門家に何ができるか
１．「当事者が主人公」の時代
・爆発の原因は
・相談に来ました
相談に乗るのではなく、相談に来た。
・打つ手はある！
訪問活動で、「相談しに来た」と話しかける。
「精神障害をかかえるということは、浦河流にいうと『自分の苦労の主人公になる』チャンスを奪われるということである。」（37頁）
「自分の人生でありながら常に他人に心配され、管理され、保護される暮らしの可能性が高まるのである。」（37頁）
●　これは向谷地さんの初心でした。苦労を取り戻す、ということは病気という問題と自分を切り離すことなしには成立しません。そしてそのようなことが可能なのは、まさに技法以前に、場が必要なのです。そのような場を作ることが私たちにも課題としてあるように思います。
・つながるためのサイン
・苦労を取り戻す→自分を取り戻す→人とつながる
「それに対して『自分の苦労を取り戻す』とは、『自分の苦労が自分のものとなる』という経験であり、それは自分の人生を取り戻すことにほかならない。自分を取り戻してはじめて、人とつながることができる。このようにして、『苦労を取り戻す』ことと『人とつながる』ことが、同一の出来事として起きてくるのである。
爆発に陥った当事者を一方的に支配したり、保護・管理することは、人間誰しもがかかえながら生きている『苦労という経験』を奪い去ることを意味する。幻覚や妄想も、日常的な暮らしの心配も、そして『生きることの意味』というシンプルで深遠な人生課題も、すべては一人の人間にとってはかけがえのない経験であり宝物なのである。それはいまもむかしも精神医療の世界に最も欠落した部分であり、浦河での30年の歩みのなかで、私たちがいちばん大切にしてきたものなのである。」（38頁）
●　苦労を取り戻すことは自分を取り戻すことですが、そのためには他人が必要です。また生きることの意味も他人との関係でした実感できません。技法以前に場があるという提起は非常に重要だと思います。
２．「多材」と「多剤」の限界
・精神医療から精神保健福祉へ
・薬物療法への熱い視線
・良心的な精神科医ほど多剤大量に走る
・二つのタザイが見せてくれたもの
人材＝多材、薬剤＝多剤
３．二つの無力
・当事者主権と専門家無力
「精神医療における地殻変動を象徴する変化は、当事者が『自分の専門家になる』ということが日常化してきたことである。」（43頁）
・二つの無力という第三の立場
「自分のことは自分がいちばんわかりにくいことを知っている人」としての当事者。
・当事者――弱さの力をもつ人
「本当の意味での『当事者の力』とは、弱さの対極としての強さや、弱さを否定し克服された強さによって下支えされているのではない。むしろ、弱さと無力に裏付けられてこそ、当事者の力である。浦河における『専門家としての当事者』像を支える基盤は、『弱さの力』なのである。」（45頁）
●　自分のことは自分がいちばんわかりにくい、ということを知るにも、場が必要だし、「弱さの力」を人のつながりの媒介とすることで強みに転換できるためにも、場が必要です。そのようなことが可能な場、仕組み、これについて考えることが大事です。
・専門家――職業的に弱くなることを選択した人
・二つの権威から逃れるために

第三章　信じるということ
１．根拠なく一方的に信じてしまう
・爆発予防策に行きづまる
・信じると信用するは違う。
「信じるという態度は、目に見えず、将来的な好転や可能性を導き出すのは困難であるという状況のなかで、にもかかわらず私たちが希望をもって見ようとするような振る舞い方である。」（51～2頁）
・では彼の何を信じるのか
・灯台なしに航海はできない
「『信じる』という行為が私たちに要求するのは、この八方塞に思える状況のなかで『問題になっていること』ではなく、問題そのものの背後に見え隠れする『可能性の側面』を見通す力である。」（53頁）
●　援助者にとって、問題そのものの背後に見え隠れする可能性の側面を見通す力はどのようにして獲得されるのでしょうか。信じるという行為の延長にあるということでしょうか。逆に可能性が見えないときになおかつ可能性を信じるということが大事なのでしょうか。実践の経験に待つしかないようです。
２．私はなぜ信じることができるのか
・ドアを叩きつづける不思議な人
・身体の困難としての生きづらさ
「五感を含む異常知覚体験」
「ふだんの我々と同様に実際に身体的に知覚された体験として当事者のなかに取り込まれ、根を張り、その身体で知覚された“事実”を、実際にはありえない『幻』として識別しなければいけないという難しさを背負っていることになる。」（55頁）
・疲労困憊した当事者の姿を暗がりのなかに見出す
「援助者は、当事者の身体の五感に張りめぐらされた保護的で過敏さを増したバリアをくぐり抜けて、その暗がりの向こう側で疲労困憊する本人を見出さなくてはいけない。そして当事者の傍らにそっと腰を下ろし、その困難さに満ちた世界をともにため息をつきながら、見渡す。そんな現実感をもってその場にたたずむことだ。」（56頁）
・きみは偉いよ・・・という声が出るとき
「きみは偉いよ。本当によくがんばってきたね。これからは一人ではなく、一緒にこの苦労を生きていこうよ。そして君の経験は、同じ困難を生きている多くの仲間や家族にとっても、とても大切な経験だよ。」（58頁）
●　幻聴を幻聴として認識することの困難という認識は、精神障害をもつ人の困難の一半に触れたように思え、精神障害についての理解を一歩進められたような気がします。
３．突撃訪問と言葉
・まずは言葉を変えていく
「『信じる』ことの取り戻しの作業を進めるなかで、まず大切なことは『言葉を変えていく』ことだ。いままでの『行きづまりの構造』から『家族再生に向けた構造変革』への第一歩は、言葉を変革し、創造していく作業である。
何気ないことだが、私は両親との会話のなかでもそれを心がけた。たとえば『人と会いたがらない』という言葉を、『人と会いたいのに会えない』と変える。」（58～9頁）
●　場が違えば文化が異なり文化が違えば言葉が違う、という理解は私にとっては既知のものでした。ワーカーズ・コレクティブで働く人たちの言葉は雇われて働く人たちの言葉とは違っています。では逆に言葉を変えることで事態を変えていくことは可能なのでしょうか。べてるの家の場合はすでに場があるから、その場での言葉を発信すればいいと思われます。その場がないのに「べてる語」を話すことの意味はあるのでしょうか。変えた言葉から場を構想できるのでしょうか。対面関係でつど社会が作り出されるという私見に従えば、これは可能ですが、社会運動の伝播の法則として定式化できるのでしょうか。大切な問題提起です。
・お母さんと話がしたい
・その場で即席SST開始
「自分の苦しさをわかってもらえたという安心感が芽生えたら、爆発しなくなった。」（62頁）
・お邪魔で勝手な応援団
「いちばんやりたくないことが、いちばんやりたいこと」（63頁）
・自分を信じてあげることだよ
当事者研究　「仲間同士が、力をあわせて暮らし方や症状との付き合い方の研究をする活動」（64頁）
・BBサインの実験開始
BB（ビッグボックスサイン）幻聴が出たら親指を立てて知らせる。人とのつながりを確認できるサイン。
・「来たよ！」「ナイスキャッチ!!」
４．心配も期待もしない信じ方
・「よくなってきている」という実感はどこから来たか
・みじめさに直面できる偉大な人として
「大切なのは、彼自身が見出した『自分のみじめさ』は、実は統合失調症という病の現実や今回の暴力という忌まわしい出来事を越えて、人間誰しもがかかえている『根源的なみじめさ』に通じるものである、という認識である。つまり私たちは、もし病や人生の失敗がなくても、誰しもが十分に『みじめ』なのだ。」（70頁）
・期待の先取りではない
「ここでもう一つ大切なことがある。それは、『信じる』ことは期待をともなわない、ということである。・・・・目に見える困難な現実と、そこからおのずと予測されるさらなる行きづまりを越えて、そこを生きる一人の人間の存在の重さを見失わない眼差しが人を信じるということを可能にする。」（71頁）
●　信じるということは利害関係や援助－非援助関係を超えた、人間の存在の重さを見失わないということだとすれば、ベクトルで合力を作る（意思を同一化し束ねる）発想ではなく、存在の重さが意味を持つという新たな社会運動観、組織観の地平が開けてくるように思います。
５．「現聴」にもがく当事者を信じる
・行動化に苦しむ家族と出会う
・過去ではなく「いま」に着目する
「私は家族歴や生活歴ではなく、まずは『いま何が起きているか』と『いままで何が起きたか』を理解しようとする。特に着目するのは、そのことをめぐって繰り返されている『パターン』である。パターン化された生きづらさには、必ずパターン化された一つの対処方法がセットになっている。
　当事者や家族に話を聞くときに忘れてはいけないのは、第一にその困難のなかでもなんとか生きようとしている家族の絆を尊重することであり、第二に『そのなかでいちばん苦労しているのは当事者自身である』という本人への深い共感の姿勢である。そしてもっとも忘れてはならないのが、どんなに深刻な相談でも、その場に『笑い』があることである。」（73頁）
●　左翼の中には笑うと不謹慎だと受け取る人たちがいます。不幸なことです。深刻な困難の中でこそ笑いが必要なのです。笑いは感性を解放します。理性で統制したがる左翼は、感性の解放に戸惑い、不機嫌になるのでしょう。ベクトルをそろえようという志向が損なわれるからでしょう。存在の重みを力と認めるなら感性は解放され、日常が取り戻されることが前提となります。その日常はきっと言葉がおのずと変わるような日常であることでしょう。
・「それは言えません」
・困っている問題とは・・・・
・ジョーダンの誘い
「こういう話題で大切なのは、『そういうことはありえない』とか『否定も肯定もせず聞き逃す』のではなく、できるだけ大げさに、かつ前向きに話題に乗ることである。」（76頁）
・私がジョーダンになりますから練習しましょう
「“研究”という言葉には不思議な響きがある。『研究する』と口にすると、現実の困難を一時的に棚上げして眺めわたすような気分になってくる。さらに無為な毎日のなかに『研究する』という仕事が生み出される。つまり本人を“精神的な失業状態”から脱却させる力があるのだ。援助者に何より求められるのは、このような『前向きな無力さ』に立脚できる度胸とセンスなのである。」（77頁）
●　当事者研究は2002年から始まったといわれますが、その前史は1992年にSSTを導入したことにあると向谷地さんは述べています。『れっつ当事者研究1』（NPO法人コンポ）のあとがきで、向谷地さんは、「当事者のニーズ」に沿った治療という場合の「当事者のニーズ」が、家族や専門家が外から与えたもので、現実に当事者の中に存在するものではないにもかかわらず、それがあたかも当事者のニーズであるかのように仮像するとのべています。これはカントの超越論的仮像論と同じ仮像論です。
・ジョーダンより強敵が
・幻聴は現聴だ
・電話当事者研究の成果

第四章　「聴かない」ことの力
１．哲学とケア
・ケアの現場は聴きすぎていた
「聴くことが真のことばを封じ込める」（87頁）
・聴いてもらうことに飽き飽きしています
・私のひっかかり
２．話を聴いてくれない精神科医
・外来はゴミ捨て場じゃない
「当事者研究では、お題を出したメンバーがホワイトボードの前に立ち、半円に囲んだ参加者と議論を重ねる。」（90頁）
・河村先生には解決してから報告しよう
・病気という手土産はいらない
「人につながる手段としての死にたい願望」（93頁）
「死にたい願望の背後には、医師や看護士の尊い仕事の“やりがい”に奉仕するために患者は常に『病気という手土産』を持参し、その結果もたらされる聴くことや投薬や処置を含むケアを通じて『人とつながる』という水脈を確保してきたというパターンがある。彼女の研究の面白さは、そのメカニズムを明らかにしたところにある。」（93頁）
●　このくだりは当事者と交流するなかで確かめてみたい事柄です。
３．「聴かない」という聴き方
・5分で話が終わる方法
「①『聴きすぎない』こと
　②『つながり』の保障を明確にして、『誇り』を取り戻す手助けをすること
　③新しい経験をうながすこと」（94頁）
●　このようなことなら何とか実践できると思います。ただし援助者としての立ち位置にいない人間にこれができるのだろうか。
　ロールプレイで習得する。
・べてるにも暗殺集団が・・・・・
・「さあ行くよ！」と外に向かって走り出せ
「いままでそういうときには同情されて十分に話しを聴いてもらってきたのですが、浦河では誰も同情しないですね。会場に入れないと訴えているのに『一緒にいきましょう』って言われて、『え！入れないといったのに、これってどういうこと?』と戸惑い、最初は恐ろしかった。」（98頁）
「このような場面で大切なのは“勢い”である。」（98頁）
・まずは肩に触れ、握手をしてエネルギーをもらう
・“どんだけサイン”で執行猶予に!?
「いまや当事者研究を通じて“開発”された幾多のサインが、自分の助け方の一つの技として、統合失調症をかかえる人たちの生活を支える大切なツールとなっている。」（100頁）
「サインをすることによって、みんなとつながっている実感が伝わってきます。」（102頁）
●　このサインの開発は言葉を変えていくという提言と共に、先日議論した時に大いに盛り上がった論点です。言葉を発するということは、内言を発話することであり、外言に転化することです。このときに人は凄まじいエネルギーを必要とするのではないでしょうか。というのも空気を読むことが求められるからです。そこでこの「しんどい」とか「いやだ」といった内言を指を立てるなどのサインとして相互に確認しておいたうえで、しんどい時にはしんどいサインを出すという試みは、当事者から発話に要するエネルギーを奪わないように思われます。
　　　この発話の際に要求される凄まじいエネルギーは、人は対面関係で都度社会を生成しているということと関係しているでしょう。既存の社会に順応する形ではなく、それがなんとなくいやな場合とか、それに異議申し立てて変えようという場合はなおさらです。言葉を変えるという試みは、その変えた言葉が人々のつながりを志向している場合には、場を創ることが可能のように思われるし、サインの共有はつながりそのものです。
・「そばにいる」とは、量的な感覚ではないか
「そのような『誰かがそばにいる感覚』は、一対一でじっくりと対面する構造からだけでは生まれにくいと私は思っている。この感覚は、限りなく『量的』なものだからである。圧倒的な幻覚や妄想のエネルギーを反転させるためには、それを上回る具体性で実感できる人のつながりの『総量』を増やす必要がある。しかも大切なのは、できるだけ多様で『生活感』に満ちたパワフルなつながりの確保と蓄積である。」（103頁）
●　数人の人が黙ったままで一緒にいるという風景、これは昔の家族の普通の場面ですが、今は見られなくなっているのではなかろうか。おそらくこのような風景のなかにいることが耐えられないという人が多くなっていると思われます。それは繋がりが欠けているからでしょう。場を創るということは、黙ったままで一緒に居れるという心地よさかも知れません。
・うれしくて、つらい
・私が「聴かない」ことによって、仲間に「聴かれた」
「浦河では、聴くということは一対一のの関係を超えて『共に聴く』という共同的な行為としてある。」（105頁）
４．開かれた聴き方へ
・「聴かない」という聴き方について
「①まず、ケアの基本は『聴く』ところにある。
　②しかしその聴き方には『傾聴』というスタイルと『聴かない』という聴き方がある。特に、統合失調症をはじめとする精神障害をもった人たちのかかわりにおいては、場面によっては一対一の過度な傾聴はむしろ当事者にいっそうの不全感と孤立感を生じさせる可能性がある。
　③そこで浦河では、『聴く』ということは一対一の関係を超えて『共に聴く』という共同的な行為としてある。
　④つまり『一人だけで聴かない』というスタンスが重要であり、『共同体の入り口』として援助者との出会いがある、という考え方を大切にしている。」（106頁）
●　ここから聴き方について、多様な観点から繰り返し言及されています。共に聴くということはすぐにでもできることです。援助者と当事者だけでなく、それ以外の関係者もいる中で聴くことを実施します。しかも人と問題とを分けて、問題の検討について、本人も研究する側に回るという形で。これはぜひやってみたい試みです。
通常の聴かないやり方　過去の心の傷　浦河では逆。
・「閉じた」聴き方と「開かれた」聴き方
「＜閉じた聴き方＞は当事者とスタッフの両者の間で自己完結する聞き方だとするならば、＜開かれた聴き方＞は、新しい人とのつながりや出会いの可能性に開かれた聴き方ということができる。つまり、同じように聴かれても、＜閉じた聴き方＞では、当事者自身につかの間の充足感が得られるだけで、さらなる不安や孤立感をもたらすことがわかる。」（108頁）
●　閉じた聴き方は多分従来の精神保健福祉の技法のことでしょう。問題は当事者を開かれた場で、人との新しいつながりを作り出すような形で、問題について議論しあうことです。
・感情の受容はもういいんです
「＊統合失調症をもつ人との間に成立する『聴く』という行為には、閉じた聴き方と開かれた聴き方がある。
　＊閉じた聴き方は、形の上では『聴く』というスタンスを取りながらも、当事者自身が『聴かれた』という実感を得ることは難しい。
　＊お互いの『聴かれた』実感や手応えの乏しさが、『聴きすぎ』を招きやすい。
　＊一方、開かれた聴き方では、傾聴を基本としながらも、『聴くことの共同性』を重視している。
　＊その聴き方が志向しているのは、より身体的な実感――上手になった感覚、腕が上がった実感――を伴った、新しい肯定的な現実を共有する場の創出である。」（110頁）
●　福祉サービス事業所に、精神保健福祉の技法を持ち込むのではなく、事業の主体としての当事者どうしとスタッフどうしの関わりをつくり出すということがどのような効果をもたらすのか、チャレンジしてみたい課題です。
「統合失調症をもつ当事者のかかえる危機の本質は、存在そのものにあると考えるからである。」（110頁）
「統合失調症をもつ人たちの回復には、聴くことを最初の契機とした生命論的な“つながりの回復”が必要不可欠なのである。」（111頁）
●　もしこのことがその通りだとすれば、今の生き難い社会での生き方を当事者と共に模索するという課題は普遍的な意義を持つのではなかろうか。
５．「一緒に考える」ということ
・援助者は素性が見えにくい壁であってはいけない
・「一緒に考える」という聴き方
・宿題が手元に残ること
・対話に必要な三つの態度
「A　『一人ぽっちじゃない』ということがわかること
　B　『自分にも何かができるんだ』ということがわかり、実際にそれを行動に移せること
　C　自信がつくこと（自分で自分のことを考えて、自分で決めることができるようになること）
　そして、それを可能とする援助職としての必要条件は次の三つである。
　①それを見守っていてもらえること
　②終わったら報告できること
　③結果について否定せずにまた一緒に考えてくれること」（115頁）
●　これは対面関係で都度社会を生成するということを逆手にとって、生き易い社会生成に向けての社会運動の組織論として成立しているように思われます。
・一緒に考えてくれる人間と同時に自分が現れる
「一緒に考えてくれる相手が現れると、同時に自分が現れることになるのです。けっきょく人間は、人間がいないと、自分がいるということに気づかないのかもしれないと思います・・・・」（117頁）
●　対面関係での形態規定（相手の表情）に順応できない当事者に、当事者の側からの投げかけを可能とするような場、このような場は単に精神保健福祉の事業所だけに必要なものではないでしょう。色々な場で試みられるべき課題だと思います。

第五章　人と問題を分ける
１．生きる知恵としての「外在化」
・幻聴さんと名づけることの意味
「外在化とは一言でいえば、『人』と、その人がかえる『問題』を分けて捉える知恵、である。そのことを象徴する言葉に『人が問題なのではない。問題が問題なのだ』がある。」（120頁）
「この浦河で培われた外在化の文化を丹念に見ていくと、三つのタイプに分かれる。それは、自分のかかえた苦労を“外に出す”外在化と、自分のかかえた苦労の“外に出る”外在化、そして、自分のかかえた苦労を他のものに“置き換える”という外在化である。」（120頁）
●　この「外在化」とは、対面関係での形態規定（相手の表情）に順応するのではなく、逆に投げかけるということの実践のように思われます。投げかける側に社会を順応させていくという実践です。とりあえずは既成の精神保健福祉を変えていくことが念頭に置かれているのですが、社会一般の変革という課題にも光を投げかけています。
・アンパンマンに苦労を託す
・飴玉一つの外在化
・にもかかわらず、生きる
「外在化という言葉には、『内側にあるものを外に出す』という単純なイメージとは違う響きがある。ただ外に出すだけでなく、そこには常に現実に対する一貫した肯定が伴っているように思う。つまり、否定的で無意味にしか思えない内側に滞ったつらい事柄が、外に出すことを通じて肯定的な意味をもつ出来事へと変化するのだ。
それを別な言葉に置き換えると『生きる勇気を取り戻す作業』ということもできる。」（122～3頁）
●　ここで現実に対する一貫した肯定は、同時に既成の社会や精神保健福祉への批判を含むものとなるでしょう。　
・SSTで統合失調症者観が一変
・「患者が真ん中」ではない
「（SSTは）自然な形で当事者のかかえる現実の生きづらさを外在化してくれる有効なツールであった。
　SSTでは、従来のように自己洞察や環境調整によって問題を解決するのではなく、自分のかかえた生きづらさをセルフモニタリングして対処法を練習する。その時点ですでに『おきている問題』と、『その対処に困難をかかえている当事者』は分けられているのだ。」（125頁）
「SSTは『精神科医がどう治すか』という問題を、精神科医をはじめとする専門スタッフと病気をかかえる当事者・家族が、病気という問題を真ん中に置き、互いに連携しあう構造へと変わることを志向したプログラムなのである。
　ここで間違えやすいのだが、『当事者』と『問題』を一緒くたにして真ん中に置いて、周りの援助者たちが問題解決について話し合うのではない。病気という問題を真ん中に置いて、当事者も家族も専門スタッフと同じ立場で課題を担いあう――そんな関係を現場にもたらしたのだ。」（125頁）
●　起きている問題と当事者とを分離し、当事者も家族やスタッフと一緒の側に立って問題について考察する、これもぜひ実施してみたい課題です。
・幻覚・妄想に立ち入ることがタブーでなくなった
「『生きづらさ』というあいまいな生活課題が、目に見える練習課題に置き換わるようになると、援助者のほうも楽になる。対応が具体的で明確になり、練習結果を当事者と共有することも容易になってくるからだ。」（127頁）
・問題は豊かな可能性に満ちている
医学モデル　基本は原因の除去＜問題解決モデル＞　慢性疾患に対しては健康的な側面に注目＜希望志向モデル＞（SSTはこちらに属する）
「しかし、私たちが重視してきたモデルはそのどちらでもなく、問題自体の意味をも変えてしまうアプローチである。つまり『問題が問題のままで意味を持ち、それが可能性に変わる』ことに私たちは着目する。それは＜語りのモデル＞とも言うべきアプローチであり、現実をいかに物語るかによって、その風景はまったく違った装いを見せるのである。」（128頁）
●　問題自体の意味を変える、ということを言葉を変えることで実現するということだが、障害者との関係で出来るかどうかは、やってみないことにはわからないと思っています。
・問題があるとワクワクしてしまう理由
２．軽くていい、軽いからいい
・力動精神医学との葛藤
「その葛藤は、『クライアントとの距離』に如実に現れていたと思う。」（132頁）
・「白衣という境界線」がなくなる不安
・なぜ距離をとりたがるのか
フロイトの手法はあくまでの治療者として患者と対する。
・紙切れ1枚の軽さに救われる
「外在化とは、外部の人間がその人の内面に入りこんでいく作業でも、本人がそれをさらけ出すような作業でもない。当事者がかかえている＜問題＞を、新しい意味をもった経験として、目に見えるかたちで語りだすプロセスなのだ。それは自己否定的な『とらわれ』や『こだわり』を、もっと楽しい＜関心＞や＜探究心＞へと変えていく作業でもある。こうして内部に滞った問題が、新たな可能性をもった物語として立ち現れる。」（135頁）
●　ニートピアの試みもよく似ています。2月10日前後の3日間にわたって行われた、カフェコモンズでの「ニートピア」というイベントに出てみて感じたことです。そこでは従来は侮蔑語であった「ニート」に新しい意味を与えています。浮かび上がってきた意味は、ニート＝雇われて働くことを拒否し、自営で生活する人々、というイメージです。
３．ナラティヴ・アプローチとの出会い
・外在化という文化
「ナラティブ・アプローチとは『言葉が現実をつくりだす』という側面に注目し、“語り”を変えることによって新たな現実をつくりだそうとするアプローチとでもいえばよいだろうか。」（136頁）
●　言語革命はそれが可能な諸条件を必要とするように思われます。その言語が人とのつながりを紡ぎだせるようなものであること、このつながりが場としてしつらえられていること、価値観の転倒を体現していること、こんな事柄でしょうか。
べてるは「語りの共同体」「物語の共同体」（野口裕二『物語としてのケア』医学書院）
・SSTに広がるナラティヴな世界
「人のかかえる『問題＝弱さ』は、内在化されたままでは問題として深刻化するが、外在化され仲間と語りを通して共有された瞬間に、場を癒す力として人々のあいだに浸透していく。」（139頁）
　　●　この経験知もやってみないと腑に落ちません。

第六章　病識より問題意識
１．妄想は身体の知恵
・ある老夫婦の相談
「統合失調症をもつ当事者へのかかわりのなかで、もっともむずかしいのが『病識』の問題である。」（142頁）
「『妄想』への向き合い方の違い、『病識をもつ』ということへの受け止め方の違い、そして『当事者のもつ力』への信頼の違いである。」（143頁）
・「身体の知恵」としての妄想
「サトラレはサトラセだった。」（144頁）
・「自分」が「相手」になってしまう
・病識は一人では生まれない
「浦河でもあらゆるプログラムの基本に根ざしているのが、『あいだ』づくりだといって過言ではない。『あいだ』には、『人とのあいだ』『自分とのあいだ』そして、『病気とのあいだ』がある。」（148頁）
●　この「あいだ」を治療や社会復帰ということではなく事業という共通項で作り出したい。
２．困っていればOKだ
・大切なのは「なんとかしたい」という問題意識
病識への道
「なぜ語れないかといえば、当事者のプライドや、妄想を認めることの恐怖感があるからだ。そのとき、『弱さを共有しあう信頼関係』が、壁を乗り越える力となる。」（150～1頁）
●　弱さの共有には事業についてのミーティングだけでなく、夕食会のような家族的共同性も必要でしょう。
・電話に出たら第一関門突破！
・ぼくの場合は“さ”です

第七章　プライバシー、何が問題か
１．隠したいのは誰？
・一筋縄でいかないプライバシー問題
・最近広がるふしぎな光景
・暗転した晴れ舞台
２．サトラレはサトラセたい
・ネットに私を非難する書き込みが・・・・・
・A子さんとの出会い
・私はなぜ携帯番号を教えるのか
・じつはあれ、本当は・・・・・
・サトラレ＝サトラセと同じ構図
３．エンパワメントとしての「弱さの情報公開」
・人のいないところに行きたい
・引きこもりに来たはずが全国デビュー
・自分の言葉で話すと楽になる
・個人情報保護は誰のためか
「エンパワメントの構成要素には、次の三つの側面がある。
　A　個人の側面・・・自己効力感、自尊感情、権利の自覚、批判的思考
　B　対人関係の側面・・・主張する、援助を求める、問題解決、新しいスキルの実践、資源のアセスメント
　C　政治・地域の側面・・・政治的活動／参加、応酬、貢献、統制
　そして、これらを現実化する要素として重視されているのが、次の四点である。
①人間関係への参加が自尊心を促進すること。
②適切なカミングアウトが他者へ援助を求めていくことを可能にし、孤独を取り除くこと。
③当事者自身が、他者の回復（癒し）に貢献する力をもっていることの経験を促すこと。
④そのために日常的に、病気、薬物療法、対処技術、社会資源に関する情報に触れる場が用意されていること。」（172頁）
●　私たちに足りないものは、Cの④です。その準備が私たちには必要です。
・え、おまえも爆発か！
「べてるが大切にしてきた活動理念の一つに『弱さの情報公開』がある。精神障害という体験をみずからの業績と考え、それを多くの人たちと分かち合うことによって、真に生きた知恵として人を活かし、励ますことができる。このことは、べてるのもっとも大切な経験知、実践知となっている。」（173頁）
●　これはすぐには無理な課題です。当面当事者とスタッフの間での共有からはじめるしかないでしょう。
・隠せば隠すほど疎外感は強くなる

第八章　質より量の“非”援助論
１．キーワードは「仲間」
・日本人が好きになりました
・わきまえのなさに唖然
「だから浦河では、とにかくホームパーティが多い。スタッフも、当事者や家族も、いつも何かにつけて一緒に食事をしながら、睦まじく時間を過ごすという習慣が定着している。」（181頁）
・「仲間」は英語にできない
２．つながれるなら死んでもいい
・殻から出られないヒヨコ
「私は最近、精神障害をもつ当事者の生きづらさの中心にあって、本人の行動を方向づけているものは、『人とのつながり』であると考えるようになった。」（184頁）
・ふわふわ状態から降りられない
・壁にぽっかり穴があき、暖かい風が
・至福の24時間看護体制
「ここでむずかしいのは、『人と人とのつながり』を取り戻す行為が、かならずしもつながりを回復する形にはならないことである。というのは、つながりの取り戻しの欲求は、“破壊”というきわめてわかりにくい形でも起きるからである。」（187頁）
●　たぶん最初に直面するのはこの問題でしょう。スタッフでこの点についての認識の共有をしておく必要があります。
・つながるためなら死んでもいい
・ああ、この中にいたら治るかもしれない・・・・
３．援助における質と量
・勝手に治すな自分の病気
・純粋性vs多様性
・生命という制約を生きる
回復のステップ「私は、私を超えた偉大な力に自分の人生を委ねる決心をしました。今までの自分をありのまま委ねます。」について
「個人の力や、具体的な意図をもって組織化された力を超えた力がこの世には存在する。そのことを受け入れようというのが一つ。もう一つは、苦しかった過去も含めて、数え切れない人とのつながりの履歴を基盤とした『場に対する信頼』の表明がここにはあると考えている。」（194頁）
●　結局は場の問題に帰着します。新しい働き方を求めて、2002年から作り出してきた私たちの場の力が試されます。
・時代の病理としての統合失調症
４．量的世界の媒介者
・私って病気かな・・・・・
・良い人ばかりでは＜場＞は成り立たない
・「妄想の総量」を上回る現実の苦労を
・専門家は「量的な世界」への媒介者

第三章　資料

解題

　次に掲載するのは向谷地さんのHPに最近UPされた文章です。べてるの家の活動が、精神保健福祉活動の一環として位置づけられています。一般の事業所がこれから障害福祉サービス事業を始めるというときに、このような位置づけは出来ないように思います。病院の精神保健福祉活動があり、それとどのように協力関係を結んでいくか、ということは私たちにとっては新しい課題です。ということでコメントなしに資料として扱います。

当事者の力に支えられる精神科医療

浦河には、３０年の精神保健福祉活動の歴史が育んだ浦河ならではのユニークな理念や考え方がある。

1.「病気の半分は病院で、残りはべてるで治す」
　これは、精神科医や治療スタッフの大切にしているわきまえの一つである。そこには、治療や回復とは、精神科医と患者の間だけで行われてはいけないという拘りがある。
　精神障害をかかえる当事者の回復とは、人と人との〈つながり〉を回復することと同一なのだということを忘れず、病院はその関係を見失うような抱え込み方をしないことを大切にしている。従って「先生のお陰で病気が良くなりました」と本人や家族に言われたら、その予後は良くないとさえ考える。そこには、治療者も当事者も「勝手に治さない」「人の中で回復する」ことを重んじてきた伝統が生きている。

2.「〈苦労の取り戻し〉を助ける」
　浦河における精神科の治療は、病気を良くすると言うことより、〈悩めるように〉〈苦労できるように〉という点を重視している。べてるの家には「苦労を取り戻す」という理念がある。治療の場でも、精神障害が生きるという苦労を忌避した状態とも言える状況から、本人が現実に降りるための手助けをするということが基本的となっている。

3.「無力のアプローチ」
　〈「非」援助の援助〉とも言っているこの〈無力〉は、援助スタッフも当事者も共有している基本的な関係のイメージである。特に、プロの条件として「自分の専門性から降りることをする人」という発想がある。そこには、当事者が抱える現実に対する連帯の姿勢を重視し、回復を医師や関係スタッフの努力や治療・援助技術の成果と捉えず、共に探求し、見いだしていくなかで得られるものという立場がある。

4.「仲間を処方する」
　救急外来に来て不安症状を訴え、薬や注射を求めてくる場合、ときどき薬や注射に代わって〈仲間〉が処方される。「あなたが、今、一番必要なのは、薬ではなく、人のつながりであり、仲間の存在だと思うよ」と精神科医が〈仲間〉を処方するのである。そこで、力を発揮するのがべてるの家の仲間の存在である。〈仲間〉がピア・サポートを買って出てくれるのである。〈仲間〉の処方によって脅迫的な救急外来受診を脱した人は多い。

5.「自己病名をつける」
　浦河では、精神科医がつける医学上の病名よりも、自分の苦労の実感に沿った「自己病名」を大切にしている。自己病名を見いだすことが回復のはじまりと言ってもいいほど、それは、大切な自分との出会いをもたらす。しかも、その作業は、自分ひとりの作業ではなく、仲間と共にワイワイと行う「当事者研究」のプログラムを通じて見えてくるという体験をする。

6.「話すこと、語ることの回復支援」
　浦河の特徴は「三度の飯よりミーティング」に象徴されるように、〈言葉で語ること〉を中心としたプログラムが盛りだくさんだ。精神科医の治療も言葉を使った〈語り〉を促すことに力点が置かれ、薬がそれを邪魔しないことを大切にしている。

7.「病棟も地域の一部」
　浦河では、浦河赤十字病院で行う治療プログラムとべてるの家で実施される地域生活支援プログラムの整合性と、相互活用を重視している。そのために、べてるの家の支援スタッフやピア・サポーターが、いつも病棟にフリーパスで足を運ぶことが出来るようなオープンな雰囲気と、相談や情報交換を常に心懸けている。また、デイケアもショートケアを中心に行い、浦河で活動する当事者がべてると病院の双方のプログラムを利用できるように工夫している。デイケアでは、日常生活を送るための基本的な力を身につけ、べてるでそれを実践、応用するという役割分担をしている。

　精神医療に必要なのは、当事者の力を前提とした「わきまえ」のある治療であり、援助である。浦河にべてるの家をはじめとする「当事者の力」のネットワークがあることによって、その「わきまえ」は成り立ち、その「わきまえ」が、当事者の力を育んできたとも言える。

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2010/03/28

デリダ『マルクスの亡霊たち』によせて

Author: ebara (9:59 pm)

『資本論』における憑在論
デリダ『マルクスの亡霊たち』によせて

　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　2008年6月発表

はじめに
　デリダの『マルクスの亡霊たち』（藤原書店）は、マルクスの亡霊たちがまるでデリダに乗り移ったかのように書かれています。デリダはマルクスの遺産抜きには現代の社会運動を評価することが出来ないことを知り、正義の観点からマルクスの亡霊たちと語り、民主主義についての新たな提起と、新しいインターナショナルを構想し、現代社会のトータルな分析すら試みています。
　　（注）デリダは『生きることを学ぶ、終に』（みすず書房）で「当時、　　　1993年に問題だったのは、とりわけ『新らしいインターナショナル』であ　　り、」（21頁）と述べています。
　しかし私からすれば、デリダのこの本の最大の功績は『資本論』を亡霊論、憑在論の観点から読もうとしていることです。その際、デリダは、マルクスの亡霊論を、学位論文、『ドイツ・イデオロギー』、『共産党宣言』、『ルイ・ポナパルトのブリュメール18日』、『資本論』というように追っていて、そこに一貫したものを読みとろうとしています。これに対して疑問を提起することが本論の主要な目的です。
　私見によれば、亡霊論は『資本論』で新展開を見せています。『資本論』では亡霊的なものは人間の労働の社会性であり、価値であり、貨幣であり、資本ですから、それはどちらかといえば幽霊や亡霊というよりは、精神とでもいうべきものです。ただ従来の『資本論』研究において、精神的なものへの注目はほとんどなされてきませんでした。商品の形而上学的・神学的繊細さについて、それとして取り上げられることは、私の知る限り、デリダの著作まではなかったのです。デリダの著書以降、邦語文献でも中沢新一（『はじまりのレーニン』、岩波書店、1994年）が精神的な次元での『資本論』研究を行っています。
　私は『資本論』の精神的次元の諸問題を、80年代末に物象による人格の意志支配と捉え、以降その解明のための方法として、文化知を提起してきました。そして文化知の定式化と普及を目指し、「哲学の旅」を行い、ライプニッツに学んで、存在の形而上学的・神学的構成という問題があることを明らかにしてきました。この文化知の観点からデリダの業績を評価してみることにします。

第一章　デリダの亡霊論

１）亡霊に学ぶこと
　デリダは自らの幽霊学（デリダの本では亡霊のほかにここの箇所のように幽霊という言葉も出てきますが、区別せずに出来るだけ亡霊に統一して記すことにします）を開陳するに際して、「私は生きることを学びたい＝教えたい、終に」（デリダ『マルクスの亡霊たち』、10頁　以下同書からの引用はページ数のみとします）という問いかけから論を起こしています。そしてこの言葉を、自分自身で学び、自分自身に教える、というように置き換えてみて、これは不可能だと指摘しています。生きることはその定義からして、自ら学ぶことは出来ないのです。それが出来るのは、他者を通じてであり、しかも死によってであるとデリダは続けます。「それは、生と死の境の他者教育なのである」（11頁）と規定したデリダは、この知恵ほど必要なものはなく、それは倫理そのものだと述べています。
　では「終に」この言葉を考察することになったとき、デリダはここで次のように幽霊を導入します。
　「それ、すなわち生きることを学ぶ＝教えることは、生と死との境でしか起こりえない。それは、生のみのなかでも、死のみのなかでも、いずれかのなかだけでは起こりえない。二者のあいだで、そして人が望みうるあらゆる「二者」のあいだで起こることは、生死の境で起こることのように何らかの幽霊によってしか維持されることは出来ず、また何らかの幽霊を語ることしかできない。したがって、精神＝霊たちのことを学ばなければ＝教えなければならないだろう。たとえ、そしてとりわけ、それすなわち亡霊的なものが存在しないとしても。たとえ、そしてとりわけ、実体でも本質でも存在でもないそれが、そのものとしては決して現前しないとしても。」（12頁）
　生と死の境で、二者のあいだで起こること、これは何らかの幽霊によってしか維持されず、語ることは出来ないだろうとデリダは述べています。たとえ実体でも本質でも存在でもないそれが、また決して現前していなくとも、精神や霊のことについて学び＝教えることが必要だというのです。ではどのように学び＝教えるのでしょうか。
　「幽霊たちとの面談＝維持、交際、仲間づきあいのなかで、幽霊たちとの交流なき交流のなかで、幽霊とともに生きることを学ぶ＝教えることに。別様に、そしてよりよく生きることを。いや、よりよくではなく、より正しく生きることを。ただしあくまで彼らとともに。かつてはなかったほど共在なるもの一般を謎めいたものにするこの＜ともに＞なしには、他者との共在はありえず、仲間＝社会要素はありえない。そして、この亡霊との共在はまた、＜単に＞そうだというわけではないが、記憶の、相続の、世代＝生殖の政治学＜でも＞あることになるだろう。」（12～3頁）
　ここでデリダが念頭においている幽霊は、マルクス自身の幽霊のようです。マルクスという幽霊と共に、精神や霊のことについて学ぼうというのです。これ自体はデリダが追求している憑在論ではありません。むしろ憑在論の必要性を導き出すものとして、幽霊との付き合いの必要性が語られています。そして幽霊との付き合いはまた正義の問題と絡んでくるのです。
　「いかなる正義も、何らかの責任＝応答可能性の原理なしには可能ないし思考可能には思われない。一切の生き生きとした現在の彼方における責任＝応答可能性、生き生きとした現在の節合をはずすものにおける責任＝応答可能性、まだ生まれていない者もしくはすでに死んでしまった者たちの幽霊の前での責任＝応答可能性なしには、その彼らが、戦争や、政治的その他の暴力や、民族主義的、植民地主義的、性差別的その他の絶滅や、資本主義的帝国主義あるいはあらゆる形態の全体主義による圧制、それらの犠牲者であろうとなかろうと。」（13～4頁）
　マルクス自身の幽霊との間での責任＝応答可能性、これについてデリダは誠実に果たしていますが私はこの論点については取り上げません。この観点からの正義は、結局は倫理の問題に帰着し、例えば環境倫理では未来の世代に対する責任が語られます。政治を倫理から位置づける試みに関してはランシエールが批判していますが（「いかなる倫理もわれわれを破局から守ることはできなかった」ランシエール著『不和』、インスクリプト、218頁）、私としてはランシエールの肩を持ちたいと思っています。
　「生と死といったもの自体が、痕跡および痕跡の痕跡でしかないような痕跡、その生存の可能性があらかじめ一切の事実性の自己同一性と同じく、一切の生き生きとした現在の自己同一性を脱節させ、節合不全にさせにくる生存のことである。そのとき、何らかの霊＝精神があることになる。数々の霊＝精神が。そして、その霊＝精神たちを勘定に入れねばならない。彼らを勘定に入れなくてもよいことはなく、彼らを勘定に入れないことがありえてはならない。一つならずである彼らを。すなわち一つならずのものを。」（17頁）
　ここでも幽霊はマルクス自身のものであり、あるいはその他の人たちの幽霊が念頭に置かれているようです。しかしデリダの亡霊論はこの次元には止まりません。商品や貨幣や資本を亡霊的なものと看做すとすれば、単に死んだ人間の幽霊という次元にとどまることは出来ないのです。死者の幽霊から憑在論へどのように移行していくのでしょうか。とまれデリダの論考を追っていきましょう。

２）精神と亡霊との区別と知の限界
　デリダはヴァレリーの精神の精神についての記述を引用しながら、ヴァレリーが自己引用の際に「マルクス」の名を落としてしまったことを指摘したうえで、そこに三つの事柄を読み取って、精神と亡霊との区別について考察を始めています。
　「この三つのことは、まさしく精神と呼ばれるモノに関係している。人が亡霊と精神とを区別するのをやめるや否や、精神は、あくまで霊としてではあるが、身体をそなえた亡霊という形で受肉する。あるいはむしろ、後で触れるようにマルクス自ら詳述するごとく、亡霊は精神の逆説的な体内化なのであり、精神が＜身体となること＞であり、精神の現象的かつ肉体的な一形態なのである。むしろ精神は、命名しがたいある『モノ』となる。魂でも身体でもないと同時にその双方でもあるといった『モノ』になるのだ。それというのも、肉体と現象性こそは、精神が亡霊的な形で出現することを可能にするものでもあるが、まさしくその出現において、その再来霊の到来そのものあるいは幽霊の回帰において消滅してしまうものでもあるからである。」（27頁）
　ここでモノと呼ばれているものは、通常われわれが目にし、手に触れる物ではなく、形を現象させているにもかかわらず、その現象が示す実体を具えてはいない或るモノという意味です。精神も亡霊も、霊的なものですが、亡霊は身体を伴った精神であり、このときに身体として現われるその身体はモノとしてしか言いようのないものです。亡霊は誰かの姿をとって現われるというように認識されるからこそ亡霊なのであって、現われなければ亡霊ではないのでしょう。そしてこの亡霊は魂でも身体でもないがしかしその双方を具えているモノなのです。このように述べた後デリダは精神と亡霊の区別の問題に取り組んでいます。
　「精神と亡霊、それは同じものではなく、われわれは両者の差異を峻別しなければならない。しかしこの両者が共有するもの、それが何であるかは知られておらず、現に知られてはいない。それは、まさしく＝正しくは、何なのか知られていないものなのであり、それが正確にはあるのか、存在するのか、ある名に対応するのか、ある本質に相当するのか、知られてはいないものなのである。この知られてはいないことは、なにも無知ゆえではなく、むしろこの非‐対象、この非現在的な現前、この不在者あるいは失せたる者の現存在が、もはや知の管轄に属してはいないゆえである。少なくとも、人が知という名のもとに了解していると信じているものの管轄に属してはいない。それが生きているのか死んでいるのかは、知られてはいないのである。ここに――あるいはあそこに、彼方に、命名不可能なもの、あるいはほとんど命名不可能なものが見える。すなわち、＜何か＞と＜誰か＞のあいだの、＜何人＞でもあり＜何物＞でもあるような何かが。まさにこのモノ、このモノであって他のモノでないようなモノ、そうした、われわれを眼差すモノは存在論に対しても意味論に対しても、また哲学に対しても精神分析対しても、挑戦状をつきつけるものである。」（27～8頁）
　ここでデリダは自らのこれまでの哲学的取り組みにアポリアがあったことをあっさりと認めています。差異の分析の前には同一性が考察されるべきですが、この精神と亡霊との同一性について、デリダはそれが非‐対象であり、非現在的な現前であって、知の管轄には属してはいないことを指摘しているのです。したがってそれは、存在論、意味論、哲学、精神分析などの管轄に属してはいないのです。デリダ自らの取り組の対象から抜けてしまっていたもの、それをここで発見してしまったのです。
　逆に言えば、デリダがこれまで哲学的分析を進めてきて、それが効き目を失った境界線で、デリダは「アポリア」という言葉を発してきたのですが、それはアポリアではなく、デリダの知自身のアポリアであったことをここで認めているのです。このくだりは私が文化知と名づけ、社会関係の解明には従来の知の枠組みでは役には立たないと主張してきたことを裏付けるものとなっています。
　　（注）現象学は使用価値しか考察しないという根底的批判が見られます。　　「この現象学的良識は、もしかすると使用価値については妥当するかもし　　れない。もしかすると、使用価値に限ってそれは妥当すべく運命づけられ　　ているのかもしれない。」（312頁）

３）バイザー効果
　これまでデリダがアポリアと名づけて、知的探求を打ち切ってしまっていた「モノ」、つまり亡霊についてデリダは真正面から考察しています。
　「物ではないこの≪モノ≫、出現時を除いては眼に見えぬこの≪モノ≫、それは再び現われるときでさえ骨肉を具えた現し身として目撃されることはない。とはいえ、この≪モノ≫はわれわれを眼差し、そこにいる＜それ＞を見ることができずにいるわれわれを視ることができる。ここでは、ある亡霊的な非対称性がいかなる鏡像性＝思弁性をも遮断している。それは共時性を解体し、錯時性にわれわれをひきもどす。これを、バイザー効果と呼ぶことにしよう。われわれには、誰がわれわれを眼差しているのかが見えない。」（29頁）
　このバイザー効果とはアダム・スミスの人鏡論の解釈として読むと分かりやすいでしょう。スミスは人が人となるのは自分の行為を他人に映すことで他人を鏡とするといった意味のことを述べましたが（「かれを社会のなかにつれてこよう。そうすればかれはただちに、かれがまえにもたなかった鏡をあたえられる。」スミス著『道徳感情論』上、岩波文庫、293頁）、ここでは他人は精神が取り憑いた亡霊として機能したのであり、自分の行為の意味を指し示したのでしたが、そのときに自分は他人が意味を示すという事態についての理解はありません。また他人の方にも自分が何によって意味を表現しているのか、ということへの理解はないでしょう。それは物ではないモノ、他人の姿をとる時とき以外は目には見えないものですが、しかしこのモノはいつも自分と他人を眼差しているのです。
　「亡霊や再来霊を精神から――たとえこの精神が幽霊一般という意味での霊であるにせよ――区別するもの、それはなるほど超自然的で逆説的であるような現象性ではある。すなわち、不可視なものが見せる、束の間の捉えがたい可視性、もしくは可視的なあるXなるものの不可視性といったもの、つまりわれわれがもっと先で見るように、交換価値なるものをめぐって『資本論』が云々しているあの超感覚的な感覚であるだろう。また、それはなるほど、肉体なき固有身体の可蝕的な不可蝕性でもある。しかしそれは、常に別の誰かとしての、誰かの可蝕的な不可蝕性なのである。しかも、自我、主体、人格、意識、精神などと性急に限定してはならない別の誰かの。このことからしてすでに、亡霊をイコンや幻=偶像から区別するに十分であるばかりでなく、形象という譬喩、プラトン的なファンタスマ、そして何らかのもの一般の仮象、こうしたものから区別するのに十分である。これらが、あれほどまでに亡霊と親近感をもち、他の観点からするならば一つならず特徴を共有しているにもかかわらず。」（30頁）
　デリダは精神が亡霊として出現したときのバイザー効果を認識することで、亡霊をその身体あるいはその摸像としての偶像と区別することに成功しています。これらの具体的な現われから離れたところで亡霊を規定しなければならず、それは交換価値の規定と関わっているのです。
　「けれども、これがすべてではないし、最も還元不可能なことであるわけでもない。別の示唆をしてみよう。すなわち、この亡霊的な別の誰かはわれわれを眼差しておる、われわれは＜その者＞によって眼差されているのを感じている。その者は（一世代程度、あるいは一世代以上であることもある）絶対的な先行性および非対称性にしたがって、また統御することが絶対的に不可能であるような不均衡にしたがって、一切の共時性の外側から、われわれ側から向けることのできる一切の眼差し以前から、そしてその彼方から、われわれを眼差しているのだ。ここでは錯時性の法が支配している。眼差しを交えることが常に不可能であり続けるような眼差しによって見つめられていると感じること、これこそわれわれがそこから法を相続しているバイザー効果なのである。誰がわれわれを見、誰が法を制定しているのかわれわれには見えず、誰が厳命を――そもそも逆説的な厳命を――発し、誰が『誓え』と厳命しているかが見えないので、われわれはまったき確信をもってその＜誰か＞の正体を明らかにすることができず、ひたすらその声に身を委ねざるをえない。」（30～1頁）
　このようなことで亡霊論が結論付けられるとしたら、せっかく「バイザー効果」と名づけたものも「お天道様が観ている」というお説教と変わりはないのでは、と思ってしまいます。どうも亡霊論を正義との絡みで論じようとするデリダの発想そのものに規定されて、このような通俗的な結論が導き出されているようです。とはいえデリダはこのような亡霊論に止まらず、『資本論』の物神性論と絡めて積極的に憑在論を展開しようとしています。もう少し付き合ってみましょう。

４）亡霊化の様式
　精神と亡霊との区別を、後者が現われるところに求めたデリダは、引き続いて亡霊の出現様式について考察しています。後日挿入された文言でデリダは次のように強調しています。
　「亡霊の＜現存在＝そこにいる＞とはどういうことなのか。亡霊の現前の様態とは何なのか。これは、われわれがここで提起しようとしている唯一の問いである。」（94頁）
　この亡霊の現前の様態の解明が実は憑在論の目的に他なりません。しかしデリダの憑在論はまさに亡霊の側から追及されていて、そのこと自体に限界があるように思われます。例えば亡霊の出現について次のように述べています。
　「仮に亡霊性といった何かがあるのならば、もろもろの現在によって構成され、安心をもたらすこうした秩序を疑い、そして一方ではとりわけ現在、すなわち現在のアクチュアルなあるいは現前する現実と、他方ではそれに対置しうる一切のものとのあいだの境界線を疑ってみるいくつもの理由があることになる。すなわち、不在、非‐現前、非現実性、非アクチュアリティ、潜在性あるいは見せかけ一般さえといったもの等々とのあいだの境界線を。まず第一に、＜現在＞の自己同時性を疑ってみなければならない。過去の亡霊と未来の亡霊、＜過去の現在＞の亡霊と＜未来の現在＞の亡霊とのあいだの差異を規定できるかどうかを問う以前に、もしかすると亡霊性の効果とは、現実の現前性とその他者とのあいだのこうした対立の裏をかくことに、ひいてはこうした弁証法の裏をかくことにあるのではないかと問うべきかも知れない。」（97～8頁）
　亡霊の出現は人間の主観的な領域のなかで起きることです。ですから憑在論を亡霊の側から見ていくとどうしても人間の主観に立ち入ることになってしまいます。現存する秩序への疑問、といったことから問題を解き起こそうとしているところにそれは表れています。果たしてそれでいいのでしょうか。デリダ自身も別の問題系の存在に気づいています。それは受肉の効果といったものでしょう。
　「問題となっているのは、亡霊化の際の脱肉体化である。貨幣の身体なき身体の出現。だが、それは生命なき身体もしくは屍の出現ではなく、人格的生や個人的所有＝固有性なき生の出現である。それは、アイデンティティなき生ではない（幽霊は一個の『誰』なのであって、仮象一般ではない。それは一種の身体を持ってはいるが、その身体には所有＝固有性はなく、『現実的』もしくは『人格的』所有権＝固有性はない）。所有＝固有性に固有なものが何であるかを分析しなければならず、いかにして貨幣の一般的所有＝固有性が一切の人格的固有性＝所有を中性化し、肉体から超脱させ、差異を奪ってしまうかを分析しなければならない。この＜固有なもの＞の幽霊化を、シェークスピアの天才はすでに何世紀も前に理解し、しかも誰よりも見事に語っていたことになる。」（102頁）
　ここでデリダは亡霊だけでなく貨幣も亡霊的なものとして並列して論じています。だが、貨幣がモノに取り憑く場合にその物体性は感覚的・現実的なものです。しかし亡霊の場合は取り憑いたものそれ自体が幻想的なものです。この違いは亡霊と貨幣とを並列することを妨げる本質的な違いではないでしょうか。
　貨幣がモノに取り憑く場合は、価値形態における形態規定の働きによるもので、それは人間の主観的意識とは関係ありません。デリダはこの価値形態における形態規定に気づいているようですが、うまく概念化できていないようです。その結果、貨幣と亡霊とを並列して論じることになっているように思われます。デリダがなぜ形態規定について概念化できなかったのか、これがここでの問題点です。
　「よく知られていることだが、金を、さらには正確には貨幣記号を、マルクスはつねに見せかけあるいは仮象のもとに、さらに正確には幽霊の形象の下に記述した。・・・・その（貨幣記号）概念を形象として呈示する際に、その呈示は亡霊的な『モノ』を、すなわち『誰か』を記述しているように見えたのである。この形象的呈示の必然性は何なのか。概念に対するその関係は何なのか。それは果たして偶発的なものなのか。これこそが、われわれの問いの古典的な形式である。・・・この形式は、形象的な図式をまじめに受取っていながら、それを二次化し、あるいはそれから距離を置いているように見えるからである。」（109～10頁）
　とりあえずデリダの問題点は、貨幣についてのインスピレーションを、マルクスの『経済学批判』にある「鋳貨の身体はもはや影にすぎない」（110頁）という観点から得ていることに求められます。マルクスは『経済学批判』ではまだ価値形態論の秘密と謎については解明できていませんでした。価値形態論における困難が解決されたと見なした上での展開が、その貨幣論の限界を規定しています。デリダが解読したような、貨幣記号が亡霊的に取扱われているということは、価値形態の未解明と関わっているのです。実際に、価値形態論における困難を回避して叙述された『経済学批判』の貨幣論では亡霊的な存在としての貨幣を描き出すに止まっています。これに対して『資本論』は、価値形態論を展開し切ることで、亡霊化の様式を明らかにし、商品や貨幣が、単なる亡霊的存在とは別種の存在であることを解明しているのです。
　「投機＝思弁はつねに亡霊に魅惑されており、亡霊に取り憑かれている。この錬金術が亡霊の出現に、再来霊の憑在〔強迫観念〕や回帰へと運命づけられ続けるということはテクストの字義に現われているのだが、それはときとして翻訳によって看過されている。同じくだりにおいて、マルクスが〔金への〕変質について記述するとき、語られているのは憑在のことである。錬金術的に作用するのは再来霊の交換あるいは混淆であり、気違いじみて亡霊的な合成あるいは転換だとされている。憑在と再来霊の語彙が、舞台の前面を占めている。」（112頁）
　亡霊と貨幣との並列化、別の問題系の概念化の失敗は、貨幣をも人間の主観的な意識の問題として論じられることになります。憑在ということもこのように主観的な方面から論じられることになるとせっかくの問題提起が生きてはきません。
　せっかくデリダが文化知に接近し、「もしこう言ってよいならば、この別の知の思想は科学を排除するものではない。しかしそれは、科学の既成概念を転覆させ、そこからはみ出してしまう。」（86頁）といったことを構想しているにも拘らず、この貨幣と亡霊との並列化と、貨幣の主観化は決して別の知の思想へと導かないでしょう。実際このような観点からは憑在についても、「強迫観念＝憑在の社会的様態、」（218頁）というように強迫観念から説明しようとしてしまうのです。しかしもう少しデリダの作業に付き合ってみましょう。

第二章　デリダとマルクスとの差異

１）『共産党宣言』をめぐって
　デリダはこの本の元になった講演を準備する過程での亡霊についての評価について、マルクスの考えとは違っていたとして、次のようにその違いについて述べています。
　「訪れの際に、亡霊は現前するように見える。人は亡霊を再‐現前化＝表象化するが、しかし亡霊自体は現身で現前してはいない。亡霊のこの非‐現前性は、亡霊の時間と歴史、その時間性もしくは歴史性の特異な性質を考慮に入れるように要求する。マルクスが1847年から1848年にかけて共産主義の亡霊という名を口にしたとき、彼は、私が『マルクスの亡霊たち』というタイトルを提案した際に当初考えていた歴史的パースペクティブとはまさに正反対のパースペクティブのなかに、その亡霊を書き込んでいる。私は、ある過ぎ去った現在の執拗な持続、ある死者の回帰、世界的な喪の作業が厄介ばらいすることができず、やみくもに遭難をのがれようとし狩ろうとする（すなわち排除し追放すると同時に、その跡を追おうとする）幽霊的な再出現、それを亡霊という名であらわす誘惑に駆られてきた。しかしマルクスは、これから来るはずの現前性を予告し、呼び求めていたのである。」（218～9頁）
　これは『共産党宣言』冒頭の文言である共産主義という亡霊についての評価ですが、しかし私の見るところでは、違いはそれに止まりません。また後でデリダは、使用価値についてマルクスとは異なる意見を述べていますが、それは憑在の主観的把握と関わっているようです。「亡霊は精神的な何かであり、精神の特性を共有し、幽霊的な分身のようにそれにつきしたがっているときでさえそれに属している。」（264頁）というようにデリダが語るときに、貨幣を亡霊から切り離し、亡霊の領域ではなく、精神的なものの領域で起きる憑在の問題としてこれを捉える道が開かれるはずですが、その道の間近でデリダは佇んでしまっています。
　「一連の『手品』とは、マルクスが『聖マックス』の冒頭でもって種を明かしていると称するあの手品のことである。幽霊の生産、幽霊効果の構成とは、たんなる精神化＝霊化ではなく、ヘーゲルの観念論においてすぐれて生産されるような、精神、観念もしくは思惟の自律化でさえない。そうではなく、いったんそうした自律化が、それに相当する脱固有化や疎外とともにおこなわれ、おこなわれてからのみ、幽霊的な契機がその上にやって来て、それに代補的な一つの次元を、さらにある仮象を、ある疎外もしくはある脱固有化をつけ加えるのだ。すなわち、ある身体を！ある肉体を！というのも、少なくとも肉体の見せかけなしに幽霊などありえず、精神＝霊の亡霊化などけっしてないからだ。不可視的可視性の空間における、ある出現の脱‐出現としての現われなしには、である。幽霊的なものがあるためには、身体への回帰が、ただしかつてないほど抽象的な身体への回帰が必要である。したがって、亡霊発生のプロセスは逆説的な体内化に対応している。いったん観念や思惟をその基底から引き離した後で、それらに身体を与えて幽霊的なものを産み出すわけである。観念や思惟は生きた身体から引きはがされたわけだが、そこに戻ることによってではなく、観念や思惟を別の人工的な身体に、代替器官的な身体に、精神の幽霊に受肉させることによって、である。」（265～6頁）
　デリダがここで取り上げているのは『ドイツ・イデオロギー』であり、そこでのシュティルナー批判ですから、価値形態論の解明などは問題になってはいません。むしろマルクスは精神の作用としての亡霊化についてそこで展開しているといっていいでしょう。しかしデリダはすでに物神性論について知っており、ここでその内容を読み込む形で議論を展開しています。価値がテーブルに宿るためには、一旦テーブルという物的素材、使用価値を抽象化しなければなりません。それを念頭においてデリダは議論しているのですが、奇妙なことに、この亡霊が取り憑く身体を代替器官的なものと看做してしまいます。身体自体がそのままで新しい役割を演じるといった形態規定について気づきつつも、身体を亡霊の身体としてしか看做していないので、それは単に主観的なものと看做されてしまうのです。
　「イデオロギー論は、精神化のプロセスを、すなわち精神的な理念性の自律化を定式化するというよりは、体内化の矛盾に満ちた法則を定式化しているのである。すなわち、物神も、また必要な変化をくわえたならばイデオロギー的なものも、双方とも与えられた身体、あるいはむしろ貸与されたか借用された身体であり、最初の理念化に授けられた二次的な受肉であり、たしかに知覚可能でも不可能でもないが、ある肉体であり続けているような身体への体内化である。それは本性なしの、脱‐自然的＝脱‐身体的な身体であり、かりにこうした諸対立を信頼するならば、技術的身体あるいは制度的身体への体内化と言えるだろう。」（266頁）
　デリダは憑在の様式として、身体への体内化、受肉を挙げるのですが、それは精神や亡霊から見れば脱‐身体的な身体ということになりますが、貨幣の憑在論からすれば、それは肉体が肉体のままで、貨幣としての機能を果たすのですからそれは決して脱‐身体的な身体といって済ませるものではありません。ということで、いよいよデリダの『資本論』解読に即してデリダの読みの限界を指摘することにしましょう。

２）感覚的に超感覚的をめぐって
　デリダが解読に取りかかかるのは、『資本論』の第一章　第四節　商品の物神的性格とその秘密、いわゆる物神性論のところです。その節の冒頭のパラグラフが次のように解釈されているのです。
　「たとえば――そしてそこであのテーブルが舞台に登場するのだが――木でテーブルを作っても木は木のままである。それは五官で知覚できるごく普通の物である。しかし商品となり、市場なるものの幕が開き、テーブルが役者も人物も同時に演じ、マルクスが言うように商品としてのテーブルが舞台に登場し歩き出して商品価値としての価値を主張しだすと、事情はまったく異なってくる。どんでん返しが起こるのだ。普通の感性的なものは変質し、ある人物となり、形象を持つにいたる。この木質の頑固な濃密さは超自然的なものに、非感覚的な感覚物に、感覚的でありながら非感覚的なものに、感覚的に超感覚的なものに変貌する。そのとき、幽霊の図式は不可欠に思われる。商品は現象なき『物』であり、五官を超える失踪中の物である（それは見ることができず、触れることができず、聞くことができず、臭いをかぐこともできない）。しかしこの超越は完全に精神的＝霊的であるわけはなく、われわれが亡霊と精神＝霊の相違をなしていると認めたあの身体なき身体を保持している。五官を超える物は、まだわれわれの前を感覚的な身体の輪郭をまとって通りすぎるが、その身体はそれには欠けているかわれわれには到達不可能なままにとどまる。マルクスは感覚的かつ非感覚的と言っているのではなく、感覚的であるが非感覚的であると言っているのでもなく、非感覚的な感覚物、感覚的に超感覚的といっている。超越、＜－を超えて＞という運動、彼方への一歩はその過剰そのものにおいて感覚的となるのである。それは非感覚的なものを感覚的にするのだ。触れることなしに物に触れ、感じとることなしに感じ、苦痛が場を持たぬのに苦しみさえするのである。」（312～3頁）
　ここでのデリダの解釈には二つの問題点を指摘できます。一つは、どんでん返しのところで、「普通の感性的なものは変質し」と述べられている点です。もう一つは、マルクスが感性的で超感性的な物と述べている事柄に対する説明です。
　まず第一の点について検討しましょう。デリダはテーブルが商品として市場に登場するときに起きるどんでん返しを「普通の感性的なものは変質し、ある人物となり、形象を持つにいたる」と捉えていますが、そうであれば、商品化とはその使用価値が価値へと変質するというように把握されていることになります。使用価値が化ける、ということは亡霊化の論理ですが、それをそのまま商品の場合にも適用しているのです。しかしマルクスが苦労して解明した事柄は、このような、化けるということではありません。
　次に第二の点ですが、感覚的に超感覚的というマルクスの言葉を「非感覚的なものを感覚的にするのだ」と説明していることです。これは説明されている非感覚的なものと感覚的なものとの順序が逆になっています。感覚的な物、つまり使用価値がそのままで超感覚的なものに転化しているということをマルクスは指摘しているのであって、超感覚的な価値という質が感覚的なものとされるわけではありません。デリダの場合はまず価値（商品）ありきで、価値のほうから問題を見ようとしています。つまり価値を実体化してしまっているのです。亡霊論と貨幣論とを並列してきたことの原因がここに明らかになります。亡霊の「実体」は精神に他なりませんが、それと同じような発想で、貨幣の「実体」を価値に求めているようなのです。端的に言えばデリダは価値がテーブルに化けるというように読んだことになります。
　「商品はこうして物に憑在し、その亡霊は使用価値を苦しめる。この憑在は、主要人物であるかもしれない女性エキストラの匿名のシルエットもしくは形象のように移動する。商品は場所を変え、それが正確にどこにいるのかを人は把握できず、商品はまわり、ある足取りでもって舞台全体に蔓延する。そこにはある歩みがあり、その足取りはこのミュータント独特の物である。マルクスは演劇の言語に訴え、商品の出現を舞台への登場のように記述することを余儀なくされている。そして彼は、商品となったテーブルをたしかに交霊術の会の際のターニングテーブルのように記述することを余儀なくされているが、幽霊的なシルエットとしても、すなわち一人の役者もしくは舞踏家を演じる端役としても記述することを余儀なくされている。性別不明の神型‐人型形象であるテーブルは、足を持ち、頭を持ち、その身体は活気づき、まるである制度のごとくそれは立ち上がり、立ち上がって他の者たちに言葉をかける。まず第一に幽霊性の面では自分と同類である商品たちに言葉をかけ、それらに面と向かい、対立する。というのも亡霊は社会的なものであり、その最初の出現から競争もしくは戦争のなかに身を投じているからである。さもなければ、有効な社会要素も葛藤も、欲望も愛も平和もないだろう。」（314頁）
　使用価値が商品とされたときに起きるどんでん返しを、使用価値の変質と捉え、それを商品が物に憑在すると考えているデリダは、憑在ということを、亡霊化と同じ化けるということと看做しています。しかしマルクスが物神性論で明らかにしたことは単に化けるということではありません。もちろん人々の一定の社会関係が、物と物との関係という幻影的形態をとるということは指摘されています。しかし、これは商品が物に化けるということを述べているのではなくて、超感覚的なものが付着した感覚的な物を人が見るときに、幻影的形態が生じることを述べているに過ぎないのです。そしてデリダが提起した憑在論はそこにはなく、むしろどのようにして超感覚的なものが、感覚的なものに付着するのかということが憑在論のメインテーマとされねばなりません。

３）幻影的形態をめぐって
　マルクスとデリダの憑在論の差がだんだん明確になってきました。どうやらデリダは、『資本論』で展開されている幻影的形態に依拠して、自らの憑在論を提起しているようなのです。
　「木に命が宿り霊が宿る。啓蒙以前の軽信、秘術信仰、蒙昧主義、未熟さ、もしくは幼児的あるいは原始的な人間。しかし、市場なしの啓蒙はどうなるのだろうか。そして、交換価値なしではたして進歩なるものはありうるのだろうか。
　重大な矛盾。資本＝頭なるものの起源そのものにおける矛盾。即座にもしくは時間をおいて、あまたの差延的な中継点を経由しながら、その矛盾はあらゆる厳命にも見いだされる『プラグマチィックな』二重の拘束を課すことになる。自由に、みずから、頭の動きでありながら身体全体に、すなわち頭のてっぺんから足の先までに指令する動きによって、材木でありながら脱物質化された≪モノとしてのテーブル≫は、その原理からして、みずからの端緒かつ指令に位置するように見える。それは、みずからのイニシアティブによって自分を解放する。すなわち、一人で、自立しかつ自動的に、その幻想的なシルエットはみずから、自由に、拘束なく動くのである。それはトランスもしくは空中浮揚の状態に入り、すべての幽霊のように身体を取り除かれて軽くなり、いささか狂気じみ調子が狂ったようにもなり、故障したようにもなり、蝶番が外れ、錯乱し、気まぐれになり、予見不可能になる。それは自発的に運動を自分に与えているように見えるが、他者にも運動を与える。そう、それは、自分のまわりのすべてに運動を起こすのである。」（316～7頁）
　マルクスは先に述べた幻影的形態について、その類例を宗教的世界の妄想境に求めていますが、デリダはそれに倣って「木に命が宿り霊が宿る」と述べています。しかしこのことはマルクスにとっては、幻影的形態であって、実際にそのような事態が引き起こされているわけではありません。実際におきている事態が幻影的形態を生み出しているのであり、そうであれば実際におきている事態のほうに憑在論を見出さねばならないでしょう。ところがデリダは幻影的形態のほうに憑在論を求めてしまっています。そしてテーブルの踊りについて記述することで憑在の具体的イメージを描こうとしています。しかしこれはやはり妄想境の話しであって、この妄想を生み出す原因がそれとして突きとめられねばならないのです。
　「重大な矛盾は、単に同じ≪モノ≫における、感覚的なものと超感覚的なものとの結合に存するばかりではない。それは自動的自律、機械的自律、技術的生命の矛盾でもある。いかなる物もそうであるように、市場の舞台に登場した瞬間から、テーブルは自分自身の代替器官に似ることになる。この木製テーブルが具えているのは、自立的かつ自動的、自立性しかし自動性である。テーブルは、たしかに自発的に自ら動きを与え、それゆえ活性化し、動物化し、精神化し、霊化するように見える。しかしそれは、その踊りがあるプログラムの技術的な硬直性に従う人工的な物体に、自動機械に、端役に、機械的で硬直した人形にとどまる限りにおいてである。二つのジャンルが、運動の二つの生成がテーブルのうちに交叉しており、それゆえテーブルは、亡霊の出現の形象となっている。テーブルは、その不気味さにおいて、矛盾に満ちた述語を決定不可能なかたちで蓄積している。すなわち、生気のないものは突如として息＝命を吹き込まれ、たちまち気息なり魂なりに貫かれるようになる。生を与えられたかのごとく、テーブルは代替器官的な犬のようになり、すぐにでも自分の同類に立ち向かう準備ができているかのように、四本の脚で立ち上がる。一個のエイドラが自分の法を制定しようというのである。しかしその逆に、テーブルを賦活する精神、霊魂あるいは生は、ヒューレの不透明で重い物性のなかに、その木質の身体の生気なき厚みに捕らえられたままであり、自律はもはや自動性の仮面でしかなくなってしまう。仮面ひいては、兜の下にいかなる生きた眼差しも隠していないという可能性をつねに持った、バイザーでしかなくなってしまう。自動機械は、生者を擬態する。≪モノ≫は死んでもおらず、生きてもおらず、死んでいると同時に生きてもいる。それは、余生している。同時に狡知にたけ、発明の才を持ち、機械的であり、巧妙かつ予見不可能であるその戦争機械は、演劇的機械であり、mekhaneである。舞台上を通りすぎるのが見られたもの、それは――天から降ってきた、もしくは地から湧き出た――出現であり、準‐神であった。しかし、視像もまた余生する。その超‐冷静さは固執するのである。」（317~8頁）
　デリダは妄想境にこのようなイメージを抱いていますが、そこでの自立的な運動が実は自動運動に他ならないことを矛盾として指摘しています。しかしデリダが描き出したこのような妄想境が幻影的形態であることを知っている私たちとしては、これに付き合うのはこのくらいにして、デリダの盲点の中に侵入していかなければなりません。デリダの盲点はどうして形成されたのか。その理由は簡単で、マルクスが『資本論』で価値形態論を展開した後でその物神性について語っているのに、デリダは価値形態論を素通りして物神性論の解釈を行っているからです。そして価値形態論を素通りしたことが、初期マルクスの亡霊論と『資本論』のそれとを同じものと看做す原因になっているように思われます。
　そうであれば、デリダの思考に即して、価値形態論についての解明をデリダと共に行うことが今問われているのでしょう。少しこの試みに挑戦してみましょう。

第三章　マルクスの憑在論

１）価値形態論への遡行
　デリダは自ら描き出した妄想境のなかでふとわれに帰ったかのごとく、次のように述べています。
　「というのも、いかなる使用価値も自分だけでは商品のあの神秘性もしくは亡霊的効果を生産することはできず、そしてその秘密が深遠であると同時に表層的、不透明かつ透明、いかなる実体的本質もみずからの背後に隠していないだけになおさら秘められた秘密であるのは、それが一つの関係によって二重の関係、二重の社会的紐帯と言うべきであろうか、そうした関係によって生ずるからである。」（319頁）
　デリダはこのように商品の亡霊的効果が、一つの関係から生じていることに注意を促しています。この関係とは商品と商品との間に結ばれる価値関係であり、価値形態のことに他なりません。ではその関係とはどのようなものでしょうか。引き続いてデリダは述べています。
　「この同じ社会要素が、関係のこの同じ『社会的形態』が、他方では、商品どうしを結びつけている。＜他方では＞とは、どのようだろうか。そして一方で人間どうしのあいだで、時間の把握をめぐって場を持つことが、いかにして、他方で商品という亡霊どうしのあいだで場を持つことによって説明されるのだろうか。いかにして『人間』と呼ばれるもの、生きた人間、時間的かつ限りある存在は、その社会的諸関係において、商品どうしの、同じく社会的関係という亡霊たちに服従しているのだろうか。」（320頁）
　デリダは二重の関係が一つは人間どうしを結びつけるものであることについて指摘した後で、このように商品どうしの結びつけとしてあることを明らかにしています。その上で人間どうしの関係と、商品どうしの関係との関連、つまり生きた人間と、亡霊としての商品との間にある服従関係のなぜを問うています。しかし残念ながらデリダには解答は明らかではありません。そうであるなら再びマルクスの読み直しが必要となります。
　『資本論』の価値形態論には三つの異文があります。一つは初版本文のそれ、二つ目はエンゲルスに促されて初版につけた付録、そしてどちらかといえば付録の線で書き直された現行版で、それぞれ微妙な差があります。例えば初版本文では、人々の労働の社会的性格は、商品の社会的形態という点に求められていますが、現行版ではそれが労働の社会的形態というところに求められています。初版本文では、商品の直接的な社会的形態が獲得される過程が描かれているのに対して、現行版ではそこにおいて抽象的人間労働の関係が見出される労働生産物の関係の形態が描かれているのです。
　デリダがここで問題にしている人間どうしの関係と、商品どうしの関係との係わり合いを考える際には、商品の社会的形態をそれとして問題にしている初版本文の価値形態論に沿って読み直ししたほうがいいでしょう。価値形態の秘密について分析している箇所を『資本論』初版本文から引用しましょう。
　「商品の商品に対する関係のなかにだけ存在する価値形態の場合はそうではない。使用価値あるいは商品体は、ここでは一つの新しい役割を演じるのである。それは商品価値の、つまりそれ自身の反対物の現象形態となる。同様に、使用価値に含まれている具体的有用的労働が、それ自身の反対物に、すなわち抽象的人間労働の単なる実現形態となる。商品の対立的な規定は、ここでは、互いに分かれるのではなくて、互いに反照しあうのである。」（『マルクス経済学レキシコン』11巻、31頁・ｓ19頁、）
　デリダによれば商品は使用価値を変質させるのでした。しかしマルクスは使用価値が一つの新しい役割を演じると見ています。つまり商品体としての使用価値それ自身が変質することなく、抽象的人間労働の単なる実現形態となるのです。使用価値それ自体が変質しないがゆえに、それが新しい役割を演じるときに、その役割が社会的なものとしては表れずに幻影的形態を作り出すのでした。ここのところにまでデリダの理解が進んでいません。使用価値それ自体が商品によって変質されてしまうのでしたら、幻影的形態は生じることなく、すべては化けたモノの世界ということになってしまいます。まさしく商品は亡霊そのものとなってしまいます。そうではなく、使用価値が保存されたままで新しい役割を演じる、これが問題なのです。ところが商品を亡霊的に把握しているデリダは、幻影的形態の説明を次のように述べています。
　「鏡があり、そして商品形態もまたその鏡であるのだが、とつぜん鏡が自分の役割を演じるのをやめ、期待された鏡像を送り返すのをやめるので、自分の姿を捜す者たちは、そこに自分を認めることがもはやできなくなってしまうのである。人間はそこに『自身の労働』の『社会的』性格を認めることがもはやできなくなるというわけである。あたかも、こんどは彼らが幽霊化しているように。」（322頁）
この考え方だと価値鏡は人間の労働の社会的性格を送り返しているということ　になります。そうではありません。価値鏡の鏡像は等価商品の使用価値であって、それが実は抽象的人間労働の単なる実現形態であるということは決して映し出されないのです。ですからデリダの言い方を借りるならば、価値鏡は使用価値という鏡像しか送らないので、そこに人間労働の社会的性格を認めることはできないということになっているのです。鏡は使用価値という鏡像を送ることで、自分の役割を果たしているのです。デリダによれば、鏡が鏡として機能しないことに幽霊化の原因を求めていますが、価値鏡の意地悪さはそのようなレベルのものではありません。きっちり像を送り返すという仕事をしているのに、その像が人々の眼に幻影的形態を懐かせるのです。
　「幽霊が、自分の姿を鏡のなかに認めることができないという点で、である。ところで、それは商品が互いに取り交わす交易のなかで行われる。商品というこの幽霊たちは、生産者である人間を幽霊に変えてしまう。そして、この演劇的（視覚的、観照的）だが光学的、光学機械的なプロセス一切は、謎めいた鏡の作用を開始する。すなわち、その鏡が正しい像を送り返さず、対象を幽霊化するのは、まずそれが自然化するからだということである。社会的形態の推定された反映としての商品形態の『秘密』とは、その鏡が像を送り返す信じられぬ仕方である。それは人間に対して『自分の労働の社会的性格』の像を反映させると信じられているのに、そのような『像』は自然化することによって対象化する。そのとき――そしてこれこそがその真理なのだが――その像は隠しつつ見せ、その像はそれらの性格を、『それらのものの社会的な自然固有性として』、労働生産物そのものに書き込まれた『対象的な』性格として映し出すのである。）（322～3頁）
　一旦デリダは鏡が像を送り返さないようになると述べていましたが、それがここでは正しい像を送り返さないこととされます。つまり商品の幽霊的本性は鏡には映らず、別の像が映し出されるということをマルクスから読みとっているのです。そしてそれは商品形態の秘密とされています。デリダによればその秘密とは鏡が像を送り返す「信じられぬ仕方」であり、人間の労働の社会的性格が像としては送り返されず、使用価値という自然化された像が送り返されるというのです。
　たしかにここでデリダは先に紹介したマルクスによる価値形態の秘密の解明に接近しています。しかしやはり秘密についての把握の違いがあります。マルクスは簡単な価値形態で問題を解明していますが、デリダは商品の交易を想定し、そして商品を始めから人間の労働の社会的性格として位置づけた上で、それが鏡に映し出されないというように考え、そしてそれが映し出されない仕組みを像の自然化というところに求めています。つまり商品が人間の労働の社会的性格というその本性を現さないということ自体をその亡霊性の根拠としているのです。
　しかしマルクスは人間の労働の社会的性格が商品形態にあっては超感覚的なものとなっていることを指摘しているのであり、それは単なる使用価値をその実現形態としているということを指摘しているのであって、デリダのように見えるはずのものが見えなくなるといった亡霊的発想はありません。デリダに従えば、超感覚的なものが亡霊であり、それは使用価値という自然物に憑在するということになるのでしようが、このような考え方はマルクスの価値形態論にはないのです。

２）価値形態の秘密と謎
　デリダが『資本論』の価値形態論を素通りして、物神性論に依拠して憑在論を展開しようとしていること、どうやらデリダのすべての問題点がここから発しているようです。そして、このデリダの問題点は、価値形態の秘密とその謎との区別から浮かび上がってきます。
　「物にとっても、時間との関係における労働者にとっても、社会化、すなわち社会的な生成はこの亡霊化を経由する。ここでマルクスが丹念に記述している『幻影性』、物神崇拝と宗教的なものの問いを開くことになる幻影性とは、この社会的かつ亡霊的生成のエレメントそのものなのである。同時に、そしていちどきに社会的であり亡霊的である生成の。」（323頁）
　社会的な生成が亡霊化をもたらすというデリダの考え方は、ここに見られるように、幻影的形態にかかわるものであり、マルクスの物神性論に依拠しています。ここでの幻影的形態について起きることが価値形態の秘密に関しても想定されているのです。しかしマルクスが価値形態の秘密としたのは、幻影的形態についてではなく、価値関係のなかでは使用価値がそのままで価値の実現形態とされている、ということで、幻影的形態が引き起こす事柄は価値形態の謎とされているのです。デリダは価値形態の秘密の解明に、この謎の方の内容を持ち込んだことになります。
　さてデリダとマルクスとの間での価値形態の秘密と謎、物象化と物神性とのかかわりについての理解の相違について指摘して来ましたがいよいよ憑在についての相違に移りましょう。デリダは憑在について、交換過程論に依拠して次のように述べています。
　「彼らの『意志』は商品に『住まい』はじめる。住むと憑在するとのあいだの差異は、ここでかつてないほど把握しがたいものとなる。人格は、言うならば、その人格が物に住むことによって生産する対象的憑在の効果そのものによって憑在されるままになることによって、人格化する。人格（物の番人もしくは所有者）はそのお返しとして、そして構成上、物のなかに自分の言葉と意志を住まわせることによって物のなかに生み出す憑在によって憑在される。交換過程をめぐる『資本論』の言説は、憑在――そして憑在の反射の法則――に関する言説としてはじまっている。」（326～7頁）
　マルクスは交換過程論で商品所有者は自分の意志を商品に宿すと述べていますが、そのくだりを念頭において、デリダはそこに憑在を認めます。デリダの理解は、所有者が物に自分の意志を住まわせることによって物に憑在するのですが、この憑在がお返しとして所有者に憑在をもたらすというものです。
このような考えは、デリダが物象化と物神性とをごっちゃにして理解していることを示しています。所有者が自分の意志を商品に宿すことが憑在第一号、そしてこれによって所有者自身が憑在されるという憑在第二号、このような説明は商品を亡霊的なもの、幻影的形態をもつものとして捉えていることの帰結でしょう。
　私はマルクスの憑在論は商品による人格に対する意志支配というところから組み立てていくべきだと考えています。それは人格の物象化、物象の人格化というマルクスの指摘と関わっています。このことと人々に妄想境を生み出させる幻影的形態とは区別して論じられなければならないでしょう。このように考えると、商品所有者がなぜ商品という物に意志を宿せるのかということが解明されなければならないでしょう。このことは商品が意志を宿せる存在であることを明らかにしなければならない、ということの解明を求めるでしょう。そこで私は商品があたかも人間が思考する如く、抽象し判断する概念的存在であることをマルクスが解明したと考えています。人格の物象化は、商品が概念的存在であるからこそ起きることなのです。そして商品における憑在とはこの事態のことに他なりません。

３）デリダのマルクス批判の問題点
　デリダは自らの『資本論』解釈からマルクスが使用価値自体は幽霊的契機ではなく、幻影劇は交換価値と商品形態から始まると主張していると見ています。商品形態それ以前に亡霊はいないということです。そしてこのようなマルクスの説にたいしてデリダは疑問を提起します。
　「純粋な使用がないのと同様、交換とやりとりの可能性が或る使用価値の外部――不要なものには還元されぬ、使用をはみ出すという意味である――に書き込まぬ使用価値など存在しないのである。一つの文化は、文化――そして人類――以前に始まったのである。資本蓄積もそうである。」（330頁）
　フッサールの『幾何学の起源』への序説を髣髴させるような、デリダの亡霊性の起源への遡りが始まっています。『グラマトロジーについて』も実は起源の解明でした。起源にこだわってデリダは次のようにマルクスを批判します。
　「たしかに商品形態は使用価値ではない。その確認をマルクスに対して与え、その区別がわれわれに引き渡す分析力を考慮に入れなければならない。しかし、商品形態が現前として使用価値ではなく、たとえそこに現実的に現前していないにもかかわらず、それはあらかじめこの木のテーブルの使用価値に作用している。商品形態は、使用価値に作用し、それが後ほどなるところの幽霊のように喪に服させるが、まさにそこにおいて憑在が始まる。＜憑在する＞は＜現前する＞を意味するのではなく、一概念の構築のなかにさえ憑在を導入しなければならない。存在と時間の概念を手始めに、一切の概念の構築のなかに。これこそがわれわれがここで憑在論と呼ぼうとしているものである。それに対して、存在論は厄祓いの動きでもって対立するしかない。存在論は、厄祓いなのである。
　商品の『神秘的性質』は、書き込まれる以前に書き込まれ、商品の額もしくは遮蔽幕のうえにはっきりとかかれる以前に線描される。始まる前に一切が始まる。マルクスはどこで、正確にどの時点で、どの瞬間に幽霊が登場するのを知らせたがり、かつ知らせたがっている。そしてそれは、厄祓いの一流儀なのであり、幽霊を威圧する一つの仕方なのだ。その境界線以前には、幽霊はいなかった。それは力を持たなかった、というわけである。逆にわれわれが示唆しているのは、その劇的な瞬間以前に、『商品として現われるや否や、それは一つの感覚的であると同時に超感覚的であるものになってしまう』瞬間以前に幽霊が姿を現していたということである。」（330～2頁）
　デリダは『グラマトロジーについて』で言語の起源に原‐エクリチュールがあるとしていましたが、同じような発想で、商品になる以前の使用価値それ自体に亡霊性を見ようとしています。そしてマルクスが、使用価値それ自体には亡霊性を認めず、商品形態をまとう（市場に登場する）ときに神秘的性格が現れると論じている論の立て方を存在論として退けています。要するにデリダは初期から一貫して、存在論の批判を、存在の起源にまで遡ることで成し遂げようとしてきたのであり、それがデリダの現象学なのですが、しかし、現象学は使用価値しか問題にしえなかったと理解したはずのデリダは、なぜ初期の方法の再検討にまで至らないのでしょうか。むしろマルクスの議論を存在論とし、それが厄祓いとなっていることを存在論の限界と断じ、みずからの見解を憑在論として新たに再生させようとしているのでしょうか。引き続きデリダのマルクス批判を挙げましょう。
　「しかしそのとき、使用価値のなかに、頑固なテーブルの木のごとき頑固さのなかに、それなしにはいかなる使用さえもけっして限定されぬであろう反復（したがって、置き換え、交換可能性、反復、特異性の経験そのものとしての特異性の喪失、資本の可能性）がすでに穿たれていたのである。この憑在は経験的な仮説ではない。憑在なしには、使用価値の概念も、価値一般の概念も形成することさえできないし、いかなる素材に形を与えることも、いかなるテーブルも、それが使用に耐えようが販売可能であろうが、いかなる木のテーブルも、範疇表も限定することができないだろう。」（332頁）
　デリダは使用価値自体に憑在を認めようとしています。そこには交換可能性があり、資本の可能性があるというのです。そうでないと商品も資本も発生しないというのです。
　「いかなる使用価値も、他者の役に立つあるいは他の機会に役に立つという可能性によって標記されているので、この他者性もしくは反復可能性は、使用価値をアプリオリに等価性の市場に投げ入れることになる。その根源的反復可能性において、使用価値はあらかじめ前に進められ、交換に、さらには交換の彼方にゆだねられる約束をさせられている。それはあらかじめ、等価物の市場に投げ込まれている。」（333頁）
　存在論からすれば使用価値には交換可能性は認められはしないが、しかしデリダの憑在論では　使用価値それ自体に交換可能性と資本の可能性が約束として取り憑かれていることを明らかにしようというのです。デリダはその独自の憑在論を次のように展開します。
　「たとえば、ある芸術作品が商品となるとき、そのプロセスが宿命的だと思われるのは、商品が何らかの仕方で芸術の原理を作品化したからである。
　これは、批判的＝分別的な問いではなかった。むしろ、批判的＝分別的な諸限界、批判的＝分別的な問いかけの必要かつ正当な行使を保証する、安堵させる諸限界の脱構築であった。そのような脱構築は、カント以降のドイツイデオロギーに特有な二重化にのっとった、批判の批判ではない。そしてとりわけ、価格の等価性のなかで一切が等しなみに商品となるような一般的幻影化の方へと必然的に導くわけではない。われわれがそこここで示唆してきたように、商品形態や交換価値といった概念は、それらをはみ出す同じような汚染の作用をこうむるのでなおさらである。資本化は厳密な限界を持っていないということは、それ自体がはみ出されるものだからでもある。しかし幻影化の諸限界が、現前と不在、現実性と非現実性、感覚的なものと超感覚的なものという単純な対立によって制御されたり割り振られたままにもはやならないので、かくして再開された領野を諸々の差異をめぐる別のアプローチが（『概念的』かつ『現実的』に）構造化しなければならない。分析的諸差異および諸規定を抹消するどころか、この別の論理は別の諸概念を呼び求める。より洗錬され、より厳密な再書き込みがそれらについておこなわれることを期待してもよいだろう。いずれにせよ、それのみが、そもそも批判の進歩そのものを求めるのと同様に、絶えざる再構造化を求めることができるのである。そして、この〔脱‐〕限界化は宗教、イデオロギー、物神に関する言説にも作用することになるだろう。だが、幽霊がそこにいることを知らねばならない。たとえそれが、約束もしくは待機の開口、幽霊の初めての出現以前のことであるとしても。出現は予告されており、初回からして二回目だったことになる。」（334～5頁）
　初期デリダが提起した差延、この考え方を元にして使用価値の商品化が憑在論として組み立てられています。しかしここでも価値形態の秘密と謎の区別はなく、諸商品が価格を持つという等価性についてマルクスがあたかもそれを一般的幻影化と考えていたように捉えています。つまり幻影化というものを剥ぎ取れば、本質が顕現するといった発想、存在論的発想をそこに見ているのです。このように理解されたマルクスも含めた批判的＝分別的な問いに代わるものとして、デリダは商品形態や交換価値がその概念をはみ出す汚染の作用を蒙っていることに注意を促しています。この汚染が使用価値それ自体をも憑在していると言うのでしょう。そして、このはみ出した汚染を構造化するには別のアプローチが必要で、そのときそこに幽霊がいるというということを勘案しなければならないというのです。今ひとつ分かりにくい話ですがではなぜデリダはこのような憑在論を提起するのでしょうか。
　「われわれが今しがたそこで読んだ一切は、限られた錯乱をめぐるマルクスの視点であることを忘れないでおこう。それは、彼によるならば、終焉を迎えることを運命づけられた狂気に関する言説であり、抽象的な人間労働の一般的体内化に関する言説であり、その体内化については依然として、だがそれも限りある一時点まで、狂気の言語に、表現の錯乱に翻訳しているものにすぎないという。マルクスは、『この錯乱した形態で』現われるものを終わらせなければならず、かつ終わらせることができ、終わらせることができるはずだ、と宣言する。その錯乱と幽霊たちの終わりが見られるだろう、と明らかにマルクスは考えている。それは必要なのだ、というのもその再来霊たちはブルジョア経済学の諸範疇に結びついているのだから、と。
　この錯乱なのか。その幽霊たちなのか。それとも亡霊性一般なのか。これこそ、われわれの問いのおよそすべてであり、われわれの慎重さなのだ。マルクスが、この幽霊、すなわち『資本論』が対象として取り上げるこの幽霊的現象は商品経済の単なる効果であるとはっきり述べるとき、彼が幽霊一般とは決着がつくと考えていたのか、また本当にそうしたがっていたのかどうかさえ、われわれはうかがい知れない。さらに彼が、そのものとしては、幽霊が他の生産形態においては消滅するはずだ、消滅すべきだと述べるときに、である。」（336～7頁）
　マルクスの考えからすれば、『資本論』が対象としている亡霊的現象は、商品形態がなくなればなくなるということになります。マルクスの方法を存在論だと批判するデリダの論拠の一つは、亡霊的現象の終焉はそんなに簡単ではないという考えに基づいているのでしょう。だからデリダは商品経済の消滅後も亡霊性は存続すると見て、使用価値に憑在を見ているのです。マルクスは商品経済に限定した亡霊論を述べたがデリダはこれを人間社会の亡霊性一般にまで押し広げようというのです。その際にマルクスの憑在論を踏まえる必要性が次のように述べられています。
　「しかし他方で、技術をめぐる第一級の思想家であり続け、多かれ少なかれ技術がつねにそれであり続けた遠隔技術の断然の第一人者であり続けながらも、マルクスは亡霊的仮象に対する批判もしくは悪魔祓いの根拠を存在論に求め続けたがっている。それは、実際の現実かつ対象性としての現前の――批判的であるが前‐脱構築的な――存在論である。その批判的〔＝分別的〕存在論は、幽霊を霧散させること、またしてもはばからずに言うならば、主体の表象的意識のように幽霊を厄祓いすること、そしてその表象自身の条件に戻すために、労働、生産、交換の物質的世界へと導きなおす可能性を展開することを欲するのである。」（348～9頁）
　マルクスの存在論が悪魔祓いしようとしていることを認めつつ、しかしそれを前‐脱構築的な存在論であることを指摘したデリダはマルクスの批判的=分別的存在論を踏まえた脱構築を構想します。
　「存在論的なものと批判的＝分別的なものがここでは前-脱構築的なものであるということの政治的帰結は、もしかすると無視できぬものであるかもしれない。そして恐らく、あまりにも手っ取り早く言ってしまうならば、政治的なものの概念、政治的なものそのものに対する帰結は。」（350頁）
　ではマルクスの存在論と批判的=分別的分析を踏まえてデリダはどのような脱構築を行うのでしょうか。それはまだ輪郭に止まっていますが次のようなものです。
　「それは、外部の者を受け入れることなく受け入れる家政的歓待であるが、その外部の者はすでに内部にいる外部の者、自己自身よりも自己に親密な者、その力が特異でありかつ匿名である外部の者の絶対的至近性、命名不可能で中性的な力、すなわち決定不可能なもの、能動的でもなく受動的でもない、不可視的な形でしかも何もなさずに、結局はわれわれのものでも彼のものでもない諸々の場を占拠する没同一性なのである。ところでその一切、すなわちわれわれが何ら論理的に限定可能なことを言うことに失敗したそれ、かくも困難な形で言語に到来するそれ、何も言わんとしないように見えるそれ、われわれが何もいいたくない場から、われわれがはっきりと自分たちが言いたくないことを知っているが、自分たちが言いたいことを知らない場――あたかもそれが知の秩序、意志もしくは言わんとする意志の秩序には属してはいないかのように――われわれに規則正しく話させ、われわれの言わんとする意図を敗走させるそれ、そう、それは再来し、それは回帰し、それは切迫のなかで固執し、それは考えるべく与える。しかし、未来と死と同じぐらい不安を生み出すに充分なほどそのつど抵抗不可能で特異なそれ、それは『自動反復』に属すよりも、その一切を、すなわち反復強迫が属するまったく他なるものを考えるべく与える。」（353～4頁）
　デリダはこの本を楽しんで書いたとどこかで言っています。それは現象学が使用価値しか問題にしていないという、現象学の根本的欠陥の認識から出発して、ただの批判的＝分別的存在論を憑在論によって超えようとしているマルクスの受容によって、現象学者として自己規定してきたデリダにとっての新しい可能性の開けが見えてきたからではないでしょうか。しかしここで書かれているように、憑在論の脱構築という問題は、私にあっては物象による意志支配という事態の追認のように思われます。また起源への遡行というフッサールの発想を残したままでは、新しい可能性は開けては来ないように思われます。このことはデリダ自身うすうす感じていたのではないでしょうか。
　「憑在のこの偉大な問題系がなす星座はわれわれのものである。・・・・マルクスはいまだに受容されていないのだ。」（356頁）
　このように述べたデリダの提起を引き継ぎ、マルクスの憑在論を解明していくために、とりあえずは初期デリダの根本的発想の検討が必要かと思います。そしてそのためには丁度３回の講義の学生のノートが翻訳されたソシュールの言語学のアンチ・デリダ的読みが求められるでしょう。私自身にとっての経験から、文化知を価値形態論に即して展開してもあまり理解されないという現在の思想的危機を打破していくための作業として、デリダを手掛かりとした作業に今しばらく専念します。

（と約束はしてはみたのですが、全く果たせていません、2010年3月記）

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