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2011/05/25
「いた」「ここ」からの瀟䌚倉革論

Author: ebara (10:13 pm)
「いた」「ここ」からの瀟䌚倉革論

解題 この論文は『季報唯物論研究』114号に寄皿したものです。

はじめに

 09幎8月30日の衆議院総遞挙で政暩亀代が行われ、新自由䞻矩的政策を採っおきた自公政暩に代わっお、民䞻党が「囜民生掻が第䞀」ずいうスロヌガンで鳩山内閣を組織した。しかし、旧勢力である官僚、財界、マスコミが結蚗しお民䞻党の改革に敵察し、鳩山・小沢を攻撃しお退陣に远い蟌み、比范的埡しやすい菅内閣ずいうある皮の劥協内閣の実珟で、民䞻党が総遞挙で玄束した改革は行き詰たっおいる。
 問題は補造業䞭心に茞出立囜で成長しおきた日本経枈の改革が問われおいるのだが、旧勢力にはその回答なり凊方箋を打ち出せず、もっぱらアメリカからの幎次改革芁望曞を指針ずしお、これに沿っお日本経枈の改革を実斜し、結果ずしおアメリカの利益にかなうような経枈䜓制を䜜り出し、日本瀟䌚を砎滅させおきた。
 20䞖玀型瀟䌚・経枈システムから、21䞖玀型瀟䌚・経枈システムぞの転換が芁請されおいるのだが、旧勢力はそのシステムの蚭蚈すらなしえず、円高による囜際競争力の䜎䞋を始め、雇甚の厩壊、セヌフティネットの砎綻、自絊率の䜎䞋、医療の厩壊、幎金の厩壊、少子化、婚姻の枛少、などずいった話題が語られおいる。
埓来の日本の瀟䌚・経枈システムには、公的セクタヌず私的セクタヌ営利䌁業のセクタヌしか蚈算に入れられおおらず、事実䞊盞圓な勢力ずなっおいるサヌドサクタヌ非営利・協同セクタヌは䞍圓に無芖されおきた。しかし、21䞖玀型瀟䌚・経枈システムは、公的セクタヌ、私的セクタヌ、サヌドセクタヌのセクタヌ間バランスを前提するこずによっおしか蚭蚈できない。
 公的セクタヌは皎金によっお運営され、その組織は官僚制である。私的セクタヌは営利事業の担い手によっお圢成されるが、その組織は、資本や貚幣や商品に自己の意思を宿すこずで運営される。これに察しおサヌドセクタヌは、非営利・協同であるずか、共生であるずか、人間の経枈ずいった䜍眮づけがなされおいるが、そこにおける「資本」圢成や瀟䌚関係資本人々の経枈的関係も含むに぀いおの組織論は未開発である。
 実際にセクタヌ間バランスを圢成しようずすれば、事実䞊の巚倧勢力であるサヌドセクタヌに属する諞団䜓が、サヌドセクタヌの䞀員ずしお、独自のアむデンティティ圢成のために掻動するこずぬきには実珟しない。おりしも2012幎は囜連が提唱する協同組合幎であり、囜際的に様々なむベントが実行される。日本でも今幎の8月に内橋克人を代衚ずする実行委員䌚が開かれ、2011幎・12幎のむベント䌁画を怜蚎しおいる。
 このような珟状を螏たえ、サヌドセクタヌのアむデンティティ圢成のための基瀎的䜜業ずしお、今日における瀟䌚倉革の実践的展望ず、その実践における䞻䜓の芏定及び䞻䜓性の圢成に぀いお論じお芋たい。

瀟䌚ずは䜕か、瀟䌚倉革論の課題

埓来の瀟䌚倉革論
 瀟䌚倉革をめざす以䞊、瀟䌚ずは䜕かに぀いおの理解が芁請される。埓来の巊翌の考え方は基本的に危機論であり、矛盟をはらんだ経枈過皋が危機に陥り、それが瀟䌚倉革を招き寄せるずいう理解を超えおはいなかった。このような考え方にもずづけば、日垞生掻はありのたたで、経枈危機に際しお囜家暩力を奪取するこずをめざしお革呜的運動を組織しようずいうこずになるが、しかし今回の経枈恐慌に盎面しおも革呜的運動の展望は明らかずはならなかった。
 このような理解を客芳䞻矩ず批刀し、䞻䜓性を匷調する考え方も登堎したが、情勢認識においおは危機論を共有し぀぀、党組織の内郚に共産䞻矩の母䜓を䜜り出すずいう理解に留たり、宗掟的団䜓を䜜り出したにすぎなかった。
これらの瀟䌚倉革論は経枈過皋の矛盟には泚目するが、瀟䌚それ自䜓に察する理解は䞍分明であり、資本䞻矩瀟䌚が経枈過皋における矛盟の爆発に察しおも、瀟䌚的な察応によっお瀟䌚革呜ぞの移行を阻止しおきた、ずいう歎史的過皋に泚意しおはこなかった。あらためお瀟䌚ずは䜕かずいう問いが問われるべきである。

瀟䌚ずは䜕かが解明されるべき
 瀟䌚ずは瀟䌚を構成する人々の関係そのものを実䜓ずしお成立しおいるもので、それ自䜓は物質的な実䜓を欠いおいる。ここでの関係ずは、人ず人ずの盞互関係ずいう抜象的なもので、実䜓ずいっおも䟋えば神のように瀟䌚の䞭で成立しおいる実䜓である。そのために、瀟䌚ずは䜕かずいう問いに䞀矩的な答えはない。
 手がかりずしお、野村䞀倫が『瀟䌚孊感芚』文化曞房博文瀟で述べおいる瀟䌚論を玹介しおみよう。野村は次の四点を瀟䌚の特城ずしおあげおいる2026頁。
 ① 察象である瀟䌚が、意識を持った人間から構成されおいる。ここから野村は、研究察象が調査・研究によっお倉容するこずをあげおいる。
 ② 察象である瀟䌚に芳察䞻䜓が既に含たれおしたっおいる。ここから野村は自己に類掚しおの他者理解の可胜性ず、意味の理解が可胜になるずいう。
 ③ 研究自䜓が、察象である瀟䌚を倉えおしたう可胜性がある。ここから野村は、研究・調査によっお、研究察象に介入しおしたうこずを指摘しおいる。
 ④ 人はみな醒めおいる分だけ瀟䌚孊者である。ここから野村は、プロの瀟䌚孊者だけでなく、誰でも瀟䌚孊感芚を持぀こずができるず䞻匵しおいる。
 野村はこのように、瀟䌚の自己蚀及性ずいうこずに泚目しおいるのだが、それは瀟䌚を研究察象ずしお措定し、研究者ず瀟䌚ずの関係に問題を限定しおいるからである。しかし別の芖点からの瀟䌚ぞの接近もあるはずだ。それは瀟䌚がどのように生成されおいるかずいう問題を立おるこずではなかろうか。

人ず人ずの関係ずしおの瀟䌚

 私はここで、瀟䌚ずは固定した既成のもので、人々がそこに入っおいけるようなものではなく、日々再生産されおいる柔軟で倉動しおいくものず考えたい。このような芖点からすれば、瀟䌚が個々の人びずの関係によっおどのように生成されおいるかずいう問いが生み出される。この問いに接近しおいる人にアダム・スミスがいる。スミスは『囜富論』の著者ずしお、経枈孊者ずしお有名だが、もずもずは法孊者で、道埳に関心を持ち、最初に『道埳感情論』を䞊梓しおいる。スミスの蚀うずころを聞いおみよう。
 「もし、人間ずいう被造物が、ある孀独な堎所で、かれ自身の皮ずのなんの亀通もなしに成長しお、成幎に達するこずが可胜であったずすれば、かれは、かれ自身の顔の矎醜に぀いおずおなじく、かれ自身の性栌に぀いお、かれ自身の諞感情ず行動の適宜性たたは欠陥に぀いお、かれ自身の粟神の矎醜に぀いお、考えるこずができないだろう。これらすべおは、かれが容易にみるこずができず、自然に泚芖するこずがなく、それらにたいしおかれが目をむけるこずができるようにする鏡をあたえられおもいない、諞察象なのである。かれを瀟䌚のなかに぀れおこよう。そうすればかれは、ただちに、かれがたえにもたなかった鏡をあたえられる。それは、かれがずもに生掻する人びずの、顔぀きず態床のなかにおかれるのであっお、その顔぀きず態床は぀ねに、かれらがい぀かれの諞感情のなかにはいりこむか、い぀かれの諞感情を吊認するかを、衚瀺するのである。そしお、ここにおいおかれははじめお、かれ自身の諞情念の適宜性ず䞍適宜性、かれ自身の粟神の矎醜を、眺めるのである。」アダム・スミス『道埳感情論』岩波文庫、䞊、2934頁
 このような考えは容易に理解されるであろう。人は他者を鏡ずしお、自分自身を知り、自分の行為を逞脱から守る。鏡ずいっおもガラスの鏡のように自分の顔が映るのではなく、自分を芋た他人の顔぀きず態床が自分の像を描き出しおいるずいうこずであり、それを芋るこずで自分の行為の瀟䌚的正圓性に぀いおの評䟡を知るこずができるのである。
 ミヌドはスミスの考えを継承し぀぀、自我の生成に぀いお、それを瀟䌚的なものず考えお、自我をIずmeの分裂ず盞互の闘争から説明した。自我の分裂に぀いおはスミスも述べおいるが、ミヌドはmeを共同䜓から発せられる䞀般的他者の態床を取埗したものず考え、瀟䌚的自我の成立の根拠ずした。以降自我の瀟䌚孊ずいうゞャンルが生たれおいろいろな業瞟が蓄積されおいるが、私の問題関心に関わる提起はあたりないようだ。぀たり自我の瀟䌚孊は、その出自が瀟䌚心理孊にあるこずからも知れるように、個人ずしおの瀟䌚的人間の自我の生成を、心理孊的に远及するずいった問題関心ずなっおいる。そうではなく、人ず人ずの関係そのものの考察が瀟䌚解明の鍵ずなる、ずいう問題意識に導かれお人々の察面関係の分析からはじめたいのだ。

瀟䌚生成論の展開

察面関係
 たず結論から蚀えば、人々は既成の瀟䌚を察面関係で郜床生成しおいる、ずいうこずだ。
 生呜が遺䌝子からなるこずず同様に、瀟䌚は察面関係からなる。察面関係での既存の瀟䌚の承認が瀟䌚を存続させおいる。ずころが遺䌝子における倉化が生呜䜓に倉異を起こすように、察面関係での倉化䞍承認が瀟䌚の倉容を぀くり出す。
 察面関係で起きおいるこずは、芋る偎が鏡ずなり、生身のたたの個人が䞀般的他者、぀たり瀟䌚通念の化身ずなるこずだ。芋られる偎は、その他者の態床を芋おそれに同化するこずで既成の瀟䌚を再生産しおいる。芋られる偎が同化しないず、オルタナティブに向けおの運動が始たる。ずいうこずは、既成の瀟䌚のオルタナティブの提起は芋られる偎のむニシアティブによるこずになる。芋られる偎のオルタナティブな態床によっお、芋る偎ず芋られる偎の地䜍の転倒がおきる。オルタナティブな態床をした芋られる偎が、今床はこのオルタナティブな態床に぀いおの盞手の察応を芋る偎ずなる。この芋る偎が芋られる偎ずなり、オルタナティブに同化した時に、オルタナティブが瀟䌚的に成立し、瀟䌚倉容が始たる。察面関係では芋られる偎が仕草や態床を発信する胜動的立堎に立ち、芋る偎はそれを受ける受動的立堎にた぀。
 察面関係で郜床瀟䌚が生成されおいるずいう瀟䌚の構成は、人ずいう生物孊的意味での自然玠材が、察面ずいう関係においおは瀟䌚を圢成するのだが、その際の二人の関係はお互いに違う圹割を果たしおいるこずに泚意しなければならない。芋られる偎は自然玠材ずしおの人間、芋る偎は、同じ人間ずしおの自然玠材そのものでありながら、それが同時に瀟䌚の䞀般的通念の代衚に化身しおいるのである。ここでは、芋る偎は、類ずしおの個ずしお芏定されおいる。぀たり人間は瀟䌚関係察面関係の䞭では、自然玠材でありながら、それが瀟䌚性を垯びるずいう二重の存圚である。単なる圹割分担論はこの二重性に぀いおの単玔な芋方で、瀟䌚生成が解けない。
 この二重の存圚は、ミヌドの蚀うように、自我の二重性ずなり、盞手ずの倖的察話ず共に、自我の内郚での内的察話を成立させる。そうなるず、察面関係のうちで起きる䞀般的他者の態床の取埗が、察面関係の存圚しないずころで、自身の思惟過皋の内での倫理的・道埳的な問題ずしお捉えられる。そのために、この䞀般的他者の態床は、察面関係ずいうそれの珟実的生成過皋ずは無瞁な、人間瀟䌚に先隓的な倫理や道埳ずいったものぞず理念化される。こうしお、察面関係で郜床生成される瀟䌚が、個々人の意識の䞭では人間瀟䌚の先隓的な理念ずしお把握されおしたうのである。

察話の関係
 この察面関係が察話関係に移行するず、芋る偎ず芋られる偎の関係が展開される。話す偎は胜動的な立堎ずなり、聞く偎は受動的な立堎にた぀。聞く偎が䞀般的他者の態床を衚明する。䞀方的な䌚話ではなく、察話は双方向のコミュニケヌションであり、話し手ず聞き手は盞互に亀代しあう。そうするず察話しおいる二人は亀互に䞀般的他者の立堎を取り合うこずになる。
 意思の䌝達は、それを意図する話す偎が、意思を䌝えようずする胜動的な立堎にありながら、察話の関係では芋られる偎ずなり、受動的立堎の聞き手が芋る偎に立っお、䞀般的他者の態床で察応する。぀たり合意のむニシアティブは話し手の偎にあるのではなく、聞き手の偎にある。この構造が理解されおいないず、話し手の意思の䌝達はうたくいかない。
 組織的䞊䞋関係があり、意思の䌝達が䞀方的な䌚話に終始しおいる堎合は、聞く偎はむニシアティブを発揮するこずを攟棄し、ただ単にうなずくこずになる。ここでは察話による合意圢成話されおいない。
 既存の瀟䌚関係においおは、コミュニケヌションは双方向ではなく、䞀方的な情報䌝達ずなっおいる。働きかける偎の郜合が第䞀次的で、受け取る偎の郜合は無芖されおいる。このような珟実ぞの批刀ずしお、レノィナスの「顔」やデリダの「歓埅」などの思想が提起されおきた。しかしいずれも働きかける偎からの芖点であり、働きかけられる偎の䞻䜓性に目が届いおはない。

瀟䌚生成における困難

 察面関係では、芋られる偎に瀟䌚倉容のむニシアティブがあるこずが刀明するず、これは同時に新しい瀟䌚生成の困難の芁因でもあるこずがわかる。ずいうのも、今日の瀟䌚においおは、芋る偎が瀟䌚通念における倚数掟であり、芋られる偎が少数掟であるずいうこずだけではなく、たた少数掟が倚数掟の心理を内面化しおいるずいうこずだけではなく、もっず別の事態がそこにはあるからだ。
 ランシェヌルの蚀う感性的なものの分有がそれである。瀟䌚通念は、芋る偎の人々がその化身ずなるこずによっお圢成されおいる。だからそれは、瀟䌚の倚数掟が個々人を芋るこずによっおし぀らえられた自我の垭ずいう、ある皮の匷制力を発揮し、これが瀟䌚の人びずに感性的に分有されおいるずいう珟実がある。少数掟、぀たり芋られる偎のむニシアティブは、倚数掟に察する異議申し立ずなり、それは珟実の瀟䌚通念においおは蚈算に入れられおいない。
そうだずすれば、既成の瀟䌚においお、芋られる偎にむニシアティブを発揮させるこずができるような、察面・察話関係の可胜な堎を圢成しなければならない。その堎がサヌドセクタヌにほかならない。

組織論ずしおのコミュニケヌション

コミュニケヌション
 コミュニケヌションは普通情報の䌝達ず考えられおいる。しかしそれは珟実には盞互関係であるず考える研究者が増えおいる。この盞互関係を、今たで述べおきた察面関係ず察話関係を螏たえお展開するずどうなるであろうか。
 意思の䌝達や合意は、それを意図しおいる話す偎のむニシアティブにもずづくのではなく、聞き手のむニシアティブにもずづく。聞き手にむニシアティブを発揮しおもらうためには、話す偎が問題提起をした埌、聞き手に回っお聞き手に話す偎に回っおもらうこずが必芁である。
 話す偎は気持ちがいいし、胜動的で䜕か掻動した気持ちになる。しかし盞手の同意を埗られなければ自己満足の䞖界に陥るこずになる。コミュニケヌションは意思の䌝達方法ではなく、話し手に発したむニシアティブを聞き手に匕き枡すこずである。そうするこずで察話者双方の合意が進む。
 ずころが珟実を振りかえれば、このようなコミュニケヌションはなされおおらず、マスコミは䞀方通行であり、行政や、䌁業も意思の䌝達が䞭心である。メディアのなかにも双方向のメディアが生たれおいるが、それが瀟䌚システムの基盀ずなっおいるような珟実はない。぀たり公的セクタヌや私的セクタヌには、盞互関係であるようなコミュニケヌションは䜙蚈なものなのだ。このこずは盞互関係的なコミュニケヌションは䞻䜓ず䞻䜓ずの間に䞻䜓を圢成するのであり、この意味で䞻䜓の䞻䜓性に関わっおいるこずず関連しおいる。

䞻䜓
 䞻䜓ずいう以䞊䞻䜓の倉遷に぀いおみおおく必芁がある。
20䞖玀の70幎代たでは階玚が䞻䜓であった。個々人はこの階玚の意識に同䞀化しおいくこずで䞻䜓性を発揮できた。70幎代から始たった新自由䞻矩のむデオロギヌによる瀟䌚倉容は、階玚意識の解䜓ず個人意識の普及をもたらし、個々人は劎働垂堎ず消費垂堎の「䞻䜓」ずしお個人化された。このような状況で、䞻䜓は存圚しないずいうニヒリズムの䟡倀芳にもずづいたポスト・モダン思想が流行した。
 珟圚の䞻䜓はこのようにしお圢成されたが、その珟実的基瀎は劎働垂堎ず消費垂堎にある。個人化は本来類的存圚であった人間を、物象的䟝存関係にもずづく人栌的独立、぀たりは人栌的䟝存関係から切り離されたバラバラな個人に分解したのだ。これはある意味では貚幣の機胜ず抂念を内面化した自己神栌化した人間の成立である。
 神の実䜓が人間の類的存圚の抜象化だずすれば、そしお貚幣が商品䞖界の神であるずしたら、珟代の個人は、自己神栌化され、抜象的な䞻䜓ずしお䞻䜓性から疎倖されおいる。神はその胜力を神話の䞖界で発揮できるだけであり、珟実には貚幣で物を買うこずしかできない珟圚の自己神栌化した個人は、抜象的で非実圚的な胜力を付䞎されおいるに過ぎないのである。
ハヌバヌマスは生掻䞖界の怍民地化に぀いお譊告を発したが、生掻䞖界においおは人栌的䟝存の関係は個人化の䞭で倉容し぀぀も自己神栌化ぞの歯止めを䜜り出しおいる。ハヌバヌマスずは逆に、サヌドセクタヌにはこの生掻䞖界を基盀にしお、自己神栌化を解毒する圹割があるこずを認めなければならない。

䞻䜓性
 自己神栌化した個々人が察面し、察話関係に入るずそこで䜕が匕き起こされるだろうか。それは䞇胜的な䞻䜓の解䜓である。神の抂念における胜動性は、察話関係においおは䞊滑りし、神的胜力は厩壊させられる。
 その代わりに察面ず察話は、瀟䌚を倉容させ、二人の察話者ずいう䞡極の倖に新しい瀟䌚ずいう䞻䜓を䜜り出す可胜性を秘めおいる。察話による新しい瀟䌚の生成が可胜になれば、察話者の䞻䜓性がそこに圢成される。
 自己神栌化を䜜り出した原因は資本䞻矩瀟䌚における物象化の働きにあった。自己神栌化の解䜓は脱物象化を実珟する。この芋地から察話者の䞻䜓性に぀いお怜蚎しよう。
 察話者が察話を通じお新しい瀟䌚を䜜り出すこずが可胜なためには、察話者が事業の担い手であるこずを芁請する。逆に蚀えば察話がその基本的骚栌をなすような事業を芁請する。サヌドセクタヌの事業はおおむねこのようなタむプずなっおいる。
 コミュニケヌションを盞互関係ず把握し、それが新しい瀟䌚生成の組織論ずしお生かされる事を通しおサヌドセクタヌのアむデンティティの圢成が日皋に䞊る。

瀟䌚生成過皋ぞの介入

 新しい瀟䌚の圢成ずいっおも、その瀟䌚が既成の瀟䌚ずたるごず亀代できるわけではない。それは、既成の瀟䌚で蚈算に組み入れられおいない問題の存圚を瀺し、それを解決しおいけるシステムずしおの圹割を果たせるそのような瀟䌚の生成が課題なのである。
 今日の資本䞻矩瀟䌚に党面的に取っお代われる瀟䌚の構想は理念ずしおは明確であるが、実践的にはその䞀挙的実珟は望みようがなく、そうであれば、氞続的な瀟䌚生成によっお、既存瀟䌚における物象化の力を削いでいく脱物象化の道が切り開かれるべきである。
 その筋道を簡単に描いおおこう。たず既成の瀟䌚通念に察する感芚的な違和感が、芋られる偎のむニシアティブに発する察話における合意ずしお、瀟䌚倉容に向けおの䞻䜓性が成立する。察話における合意が事業遂行過皋の合意ずしおなされるこずで、違和感を぀なぐ利害関係集団が圢成される。それがいただ既成の瀟䌚通念では蚈算に入れられおいない問題を、政治的空間に登堎させ、政治的係争関係を䜜り出す。このような過皋で「いた」「ここで」の瀟䌚生成過皋ぞの介入が成立する。

あずがき

 組織論ずしおのコミュニケヌション、ずいうテヌマは、90幎代初頭から考えおきたこずで、今やっずサヌドセクタヌのアむデンティティの䞀぀ずしお提案できる圢ずなりたした。埓来は協同組合運動における協同の内実ずしお問題提起しおきたしたが、その枠を取り払った方が珟実性があるこずに気づきたした。
 この提案はここ数ヶ月の実践的課題に盎面しお、少しず぀具䜓化しおきたこずで、関連文献を参照する䜙裕はありたせんでした。すでにどこかで誰かが述べおいるこずがあるかも知れたせん。ご教瀺くだされば幞いです。たた、たたき台ずしお䜿っおいただければありがたいです。論争が起きるこずを期埅しおいたす。
2010幎10月17日
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