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現状分析: ハーヴェイ著『新自由主義』を読む(下)
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ハーヴェイ著『新自由主義』を読む(下)

第四章 地理的不均等発展

1)新自由主義化のムービングマップ

 新自由主義とは何か、イギリスとアメリカにおける新自由主義化の導入、新自由主義国家の諸問題、これらを考察したあとで、ハーヴェイは世界に目を転じて、70年代以降に進行した新自由主義化のムービングマップを描き出そうとしています。地理的不均等発展の章ではメキシコ、アルゼンチン、韓国、スウェーデン、そして次章では中国が取り上げられています。これらの個別の国々についての記述については言及せず、全体的な導入と纏めの部分を紹介していくことにしましょう。

 まず第二章で触れられたイギリスとアメリカのケースについて、1980年代のサッチャーとレーガンの新自由主義導入への評価から論を説き起こしています。「サッチャーは公営住宅や公益事業を民営化したが、無償の国民医療制度や公教育といった中核的サービスはほぼ手つかずのままであった。」(127頁)他方で、アメリカのケインズ主義的妥協はたいしたこともなかったので、レーガンへの反対は少なくレーガンは冷戦に夢中だった、という風に述べたあと、ハーヴェイは、イギリスもアメリカも80年代には経済成長をしたわけではないという事実を指摘しています。

「実際のところ、1980年代にグローバル経済における競争の推進力となったのは、日本であり、東アジアの『タイガー・エコノミー』であり、西ドイツであった。これらの諸国が全面的な新自由主義改革を経ることもなく経済的に成功を収めたのだから、新自由主義化が経済停滞に対する有効な処方箋として世界で進行したのだと主張するのは難しい。・・・・1980年代末までは、強力な新自由主義路線をとっていた国々は依然として経済的困難にあった。・・・多くのヨーロッパ諸国は新自由主義改革に抵抗し、西ドイツ・モデルを受け入れた。」(128~9頁)

 しかしこれらの諸国の成功は非常に短命で、とりわけ日本や西ドイツのモデルが階級権力の回復をもたらすものではなかったことにハーヴェイは注意を促しています。そしてイギリスとアメリカの新自由主義化のモデルが世界に普及していった根拠を階級権力の回復ということに求め、そのために役立った手段について4つを挙げています。順番に見ていきましょう。

「階級権力を変容させ回復させる手段は、1980年代に徐々にだが不均等に整えられ、1990年代に強化されていった。この点では四つの要因が決定的に重要であった。まず第一に、1970年代を起点とする金融自由化への転換が1990年代に加速したことである。海外直接投資と間接投資が資本主義世界のいたるところで急速に増加した。しかし、それは、たいていはビジネス環境が良好であるかどうかに応じて不均等に広がった。金融市場は国際的にイノベーションと規制緩和の強力な波に洗われた。各国の金融市場は、以前と比べてはるかに重要な調整手段となっただけでなく、富を調達し集中する強力な手段にもなった。すなわち、それは階級権力を回復する秘められた特殊な手段となったのである。1980年代には西ドイツと日本の経済成長に大きく貢献していた緊密な企業・銀行関係は掘り崩され、それに代わって企業と金融市場(証券取引所)とがますます強力に結びつくようになった。この方面では、イギリスとアメリカに優位性があった。1990年代になると、日本経済は投機的な土地・不動産市場の崩壊をきっかけとして急落し、銀行部門は破綻寸前の状態に陥った。ドイツの性急な再統一は社会的混乱をもたらしドイツ人がかつて享受していた技術的優位は消え去り、生き残るためにも自国の社会民主主義的伝統にいっそう深刻に挑戦しなければならなくなった。
 第二に、資本の地理的移動性が増大したことである。これは部分的に、輸送・通信コストの急激な縮小という平凡だが決定的な事実によって促された。」(130頁)

 ハーヴェイがまず挙げているのは金融の自由化です。80年代の日本と西ドイツの経済成長は、日本の銀行を世界のトップ企業へと押し上げ、一時的に日本を世界一の金融大国にしましたが、しかしすぐアメリカとイギリスの巻き返しにあって、凋落させられました。そしてその巻き返しの手段が金融自由化であり、アングロサクソンの基準をグローバルスタンダードとして各国に押し付けていくグローバリゼーションの動きでした。そしてハーヴェイの認識の特徴は、金融自由化によって作り出された国際金融市場を、階級権力を回復する特殊な手段と見ている点です。

 ハーヴェイが二つ目に挙げているのは資本の地理的移動ですが、これはむしろ多国籍企業の発展によるグローバルな生産・流通システムの開発という問題ではないでしょうか。

「第三に、クリントン政権時代にアメリカの経済政策を支配するにいたった『ウォールストリート‐財務省‐IMF』複合体が、説得や欺瞞によって、あるいはIMFに管理された構造調整プログラムの強制によって、多くの発展途上国に新自由主義路線を採用させることができたことである。・・・・・しかしながら、アメリカの成功の真の秘密は、他国での金融・企業活動から高収益を自国に汲み上げたことであった。他国からのこうした剰余金の流入こそがかなりな程度、1990年代にアメリカで実現された豊かさの基盤であった。」(132~3頁)

 90年代のアメリカの好況は、「ニューエコノミー」といわれましたが、それは労働市場のフレキシブル化と福祉給付の削減に裏付けられ、さらに他国からの剰余金の流入に支えられていたとハーヴェイは見ています。

「最後に第四に、マネタリズムと新自由主義という新たな経済的正当理論の世界的波及がますます強力なイデオロギー的影響を及ぼしたことである。早くも1982年に、ケインズ経済学はIMFと世界銀行の敷地内から一掃された。世界のエコノミストの大半は、アメリカの研究大学の経済学部で教育されてきた。ところが80年代末までにこれらの学部の大部分がそろって、経済政策の第一目標として完全雇用や社会的保護よりもインフレ抑制と健全財政に力点を置く新自由主義的政策目標にあからさまに忠実となった。
 これらすべての要素が、1990年代半ばのいわゆる『ワシントン・コンセンサス』のうちにまとめられた。そこでは、アメリカとイギリスの新自由主義モデルがグローバルな諸問題に対する解決策だとされた。」(132~3頁)

 このような状況の中で、新自由主義化は政権にとって選択の余地のない問題となり、レーガンとサッチャーのあとを継いだ対立党の政権であるクリントンとブレアが新自由主義の確立に大きく貢献したというのです。それはGATTを改組してWTOを形成したところに顕著に現われています

「WTOは計画にのっとって、グローバルな経済的相互関係に新自由主義的な基準とルールを設定した。だが、その主な目的は、制約なき資本移動に可能なかぎり多くの国を開放することであった。というのもこれこそがアメリカの金融権力のみならずヨーロッパや日本の金融権力にとってさえも、他国から剰余金を取り立てるための土台だったからだ。」(133頁)

 WTOはその閣僚会議をNGOや発展途上国の運動体によって包囲され、また次第に加盟国の意見を反映せざるを得なくなり、当初の目的を達成できず、アメリカは二国間貿易協定に活路を見出しています。

 さてこのように世界への新自由主義化の波及を述べる際にハーヴェイは金融危機の役割に注目しています。金融危機の事例としてハーヴェイが挙げているのは、1980年代の債務危機、1995年メキシコ通貨危機(ブラジルとアルゼンチンに波及)、1997年タイを震源地とするアジア経済危機(インドネシア、マレーシア、フイリピン、次に香港、台湾、シンガポール、韓国に波及、その後エストニアとロシア、ブラジル、アルゼンチンへと続いた)、です。IMFの介入は国民経済の復活には効果なく、拒否した国々が急速な経済的回復をするといった事例を紹介しつつ、しかし危機によって資産価値と通貨価値を下落させることが過剰資本にとっては再生産の道を開くことになること、そしてそれ自体が階級権力を強化するのに役立ったことを指摘することを忘れてはいません。

「スティグリッツは社会的不平等の拡大が新自由主義化の副産物だと繰返し嘆いているが、その副産物がそもそも新自由主義の存在理由であったかもしれないという考えは浮かびもしないようだ。」(139頁)

 このような批判にハーヴェイの階級的視点が鮮明に表明されています。さてこのようにイギリスとアメリカ発の新自由主義化の世界への波及を概観したあと、ハーヴェイは「新自由主義の最前線」ということで、メキシコ、アルゼンチン、韓国、スウェーデンの例を挙げて分析し、さらに次章では中国のケースをとりあげています。

2)地理的不均等発展のダイナミズム

 メキシコからスウェーデンまでの事例について考察したあと、ハーヴェイはその評価に移っています。

「ここに集められた種々の証拠が示唆しているのは、不均等な新自由主義化が、外部のヘゲモニー権力によって強制されたものであるだけでなく、それと同じくらいに、国や地域やさらには大都市の間でさえ何らかの統治モデルをめぐって分岐とイノベーションと競争(同時に独占的なそれ)が生じたことの結果であるということである。よりきめ細かく分析すれば、ここの事例において多くの諸要因が新自由主義化の度合いに影響を与えたことがわかる。」(159~60頁)

 このように総括したハーヴェイは、従来の分析について簡単に批評しています。それらは、イギリスやチリの場合には種々の新自由主義思想の組み合わせが与えた影響を考慮し、メキシコや韓国の場合にはさまざまなタイプの金融危機への対応の必要性をあげ、フランスや中国の場合にはグローバル市場における競争力を強化しようと国家機構の改革に取り組んだことを挙げていたりするのですが、ハーヴェイはこれらの分析に「階級的諸力が作用している可能性が何ら検討されていないのは、まったく驚くべきことだ。」(160頁)と批判的な評価を与えています。

 もちろん新自由主義化は強力な国家、強固な市場、法的諸機関などが存在しないところではうまく行かないですから、諸国におけるこの辺の違いがいろいろな相違を生み出していることを認めた上で、次のように結論付けています。

「しかし、不均等な新自由主義化のこうした歴史のうちには一つの厳然たる事実が存在する。それは、社会的不平等が拡大し、社会の最も不幸な人々が緊急政策の寒風や周辺化の進行という陰鬱な運命にさらされてきた――たとえばインドネシア、メキシコ、イギリスなどで――という普遍的傾向が見られることである。こうした傾向は国によっては社会政策で緩和されることもあったが、他方で、社会のもう一方の極に与えた効果はまったく絶大なものであった。今日、富や権力は、資本主義の上層部に途方もなく集中しており、これは1920年代以降初めて見られる事態なのだ。世界の主要な金融センターへの剰余金の流入量は実に驚くべきものだ。しかしさらに驚くべきは、このすべてを新自由主義化の単なる副産物――たとえ場合によっては不幸な副産物だとされていても――とみなす傾向が存在することである。このこと(富や権力の集中)こそが新自由主義化の本質であり、その根本的核心であったかもしれないという考えは――ただその可能性だけでも――思いつきもしないようだ。新自由主義理論の真髄の一つは、自立、自由、選択、権利などの聞こえのいい言葉に満ちた善意の仮面を提供し、剥き出しの階級権力の各国及び国際的な――とりわけグローバル資本主義の主要な金融中心国における――回復と再構築がもたらす悲惨な現実を隠蔽することなのである。」(164頁)

 このようなハーヴェイの結論は非常に分かりやすく、また貴重な提起です。このような提起に基づくことで、新自由主義化に対抗する運動のトータルなイメージを描き出すことが出来るでしょうし、現にハーヴェイは次章以降でその作業を開始しています。

第五章 審判を受ける新自由主義

 新自由主義化の実際を検討したうえでハーヴェイはその批判に移っています。とはいえハーヴェイの批判は単なる批判的批判ではなく、新自由主義化を階級権力の強化と見る視点にもとづいて、それがすでに実現してしまった事態の内に問題点を探っています。その問題の所在についてハーヴェイは次のように述べています。

「一方で資本主義を維持することと、他方で支配階級の権力を回復ないし再構築することとのあいだに一定の緊張関係が存在するという事実である。」(214~5頁)

 つまりあからさまな階級権力の回復が、社会的不公平を生み労働者や農民の悲惨な生活環境を作り出したことで、資本主義を維持するということ自体において問題点を抱えているという観点が採用されています。

1)新自由主義化のバランスシート

 このような観点からハーヴェイはまず、新自由主義が経済成長にどれだけ貢献したかについての検討から始めています。

「では、新自由主義化は資本蓄積の促進にどの程度成功したのだろうか?その実際の成果はまったくみじめなものである。世界全体の成長率は、1960年代には3.5%程度であり、波乱の1970年代でも2.4%に落ちたにすぎない。しかし、つづく1980年代と1990年代の成長率は、1.4%と1.1%であった(2000年以降はかろうじて1%に達する程度)。この数字は、新自由主義化が全世界の成長を促進することに概して失敗していることを示している。」(216頁)

 ハーヴェイはこのような事実が広く知られていないことを指摘した上で、グローバリゼーションや新自由主義が非常にうまくいっている、と思い込んでいる人がこんなに多いのは、なぜだろうか?と自問し、二つの理由を挙げています。一つは地理的不均等発展のせいで、ある地域が他の地域を犠牲にしてめざましく発展した(80年代の日本、東南アジア、西ドイツ、90年代のアメリカとイギリス)こと、そしてもう一つは新自由主義の実際のプロセスが上層階級の観点からは大成功だったということです。実際に新たなビジネスで成功した人々が現れマスコミをにぎわし、社会的な不平等は自己責任にされ、競争が賞賛されてきました。その上経済の重心が何度も目覚しく移り代わり、見かけ上は途方もないダイナミズムが見られます。

「金融事業の大部分は、結局のところ金融それ自身の中をぐるぐる回っているにすぎない。投機的な利益が絶え間なく追求され、それが得られるかぎり、あらゆるパターンの権力移動が生じるだろう。」(220頁)

 見かけ上のダイナミズムとは、経済の根幹に金融取引が座り、それが投機を利殖のシステムとしていることから来るのでしょう。投機で利益を上げるために、金融事業はあらゆる領域に浸透し、それを自己の利益に従属させ、結果として社会の激変を生み出して行きます。

「これにともなって起こったのが、情報技術の途方もない爆発的発展である。1970年前後におけるこの分野への投資は、製造業と物的インフラのそれぞれの投資額の25%であった。しかし、2000年には、ITが全投資の約45%を占め、他方、製造業や物的インフラへの投資の割合は相対的に低下した。」(220頁)

 ハーヴェイによれば、この情報技術化は、生産やインフラ整備よりはむしろ市場主導の金融化へと向かい、金融取引の円滑化と新興の文化産業を生み出しました。そしてこれらの新部門における誇大宣伝が、基本的な物的・社会的インフラ投資の失敗から注意をそらすことになったと見ています。

2)「略奪による蓄積」

 このように新自由主義の「成功」の特徴をまとめてきたハーヴェイは、次にこのような投機による利殖についてそれを資本の蓄積様式という観点から分析し、「略奪による蓄積」としています。

「しかしながら、新自由主義化の主たる実績は、冨と収入を生んだことではなく再分配したことであった。これを実現する基本的なメカニズムについては、私は別の機会に『略奪による蓄積』という表題で説明したことがある。この言葉が意味しているのは、マルクスが資本主義勃興期における『原始的』ないし『本源的』と呼んだ蓄積行為の継続と拡大である。それには次のものが含まれる。土地の商品化・私有化と農民の強制排除。さまざまな形態の所有権を排他的な私的所有に転換すること。共有地への権利を抑圧すること。労働力の商品化。非資本主義的な生産・消費形態の抑圧。資産の植民地的・新植民地的・帝国主義的領有。交換と課税の貨幣化。とりわけ土地の貨幣化。奴隷貿易と人身売買。高利貸、国債、そして中でも最も破壊的で、『略奪による蓄積』の抜本的手段としての信用制度の利用。これらのプロセスを支え推進する上で決定的な役割を果たしているのが、合法性の定義と暴力とを独占している国家である。今日われわれはこのメカニズムの一覧に次のような多種多様なテクニックをつけ加えることができるだろう。特許や知的所有権から使用料を引き出すこと、何世代にもわたる階級闘争を通じて勝ち取られたさまざまな形態の共有財産(たとえば、公的年金、有給休暇、教育と医療に対する権利など)を縮小ないし廃止すること、である。」(222~3頁)

 ハーヴェイは著書『ニュー・インペリアリズム』(青木書店)の第四章で「略奪による蓄積」について詳しく述べています。その内容がここで要約されているのですが、そのポイントは資本の原始的蓄積の時代に用いられた略奪といった非経済的な方法が、いま、新自由主義によって蓄積の主要な方法とされているということです。従来の産業資本は搾取を蓄積の原資としてきましたが、新自由主義は非搾取階級からさらに略奪するさまざまな方法を開発したというのです。ハーヴェイはその方法を四つに分けて、「略奪による蓄積」の四つの主要な特徴を述べています。

1) 私有化と商品化

 資本の本源的蓄積の時代には、封建時代の公的・非私有的財産が私有化されました。資本主義の下でも、戦後の福祉国家の時代には、新たな形で公的な財が形成されていました。ハーヴェイは新自由主義を、この資本主義の下での公的な経済領域への略奪的な攻勢をかけたと見ています。

「これまで公共の資産であったものを企業のものにしたり、商品化したり、私有化したりすることは、新自由主義的プロジェクトの顕著な特徴であった。その主要目標は、今まで収益計算があてはまらないとみなされていた領域で、資本蓄積のための新たな領域を開拓することであった。」(223頁)

 ハーヴェイが挙げている公的領域とは、水道、電気通信、交通運輸などの公益事業、公共住宅、教育、医療、年金などの社会福祉給付、大学、研究所、刑務所などの公共機関、そして軍隊も例外ではありません。

 直接公的な領域を私有化することのほかに、知的所有権が遺伝子情報にまで拡大されて、「あらゆる形態での自然の全面的商品化」(223頁)による環境という公共財の汚染と収奪が進んでいるのです。また労働者を保護し労働環境悪化を防止するための規制枠組みを後退させてさまざまな権利を奪い、労働者が階級闘争によって勝ち取ってきた共有財産を私有化していったのです。このプロセスについてハーヴェイは「資産を、公共的で一般民衆的な領域から私的で階級特権的な領域へと移転させることに他ならない。」(224頁)と述べ、略奪の中でも最悪のものの一つに数え上げています。

2) 金融化

 このような公共財の私有化は、資本主義の蓄積様式が大きく変化したことに基づいています。その指標が経済の金融化にほかなりません。

「1980年以降に始まった金融化の強力な波は、その投機的・略奪的スタイルの点できわだっていた。国際市場における金融取引の一日の総出来高は、1983年には23億ドルであったが、2001年にはすでに1300億ドルにのぼっていた。2001年の年間総取引高は40兆ドルになるが、国際貿易と生産的投資フローを支えるのに必要な総額、推定8000億ドルと比べるならその巨大さがわかるだろう。」(224頁)

 金融商品は一般の商品とは違って労働実体を含んではいません。それは資本が商品化したもので、その実体は将来の価値に対する請求権です。つまり金融商品はそれをただ所有しているだけで、利子や配当という形で自己増殖していくもので、一般の商品がそれを所有すれば価値が漸次的に失われていくのと対照的です。では利子や配当はどこから来るのかといえば、それは現実の生産や生活から搾り取る他はありません。つまり本来生産者や労働者に配分されるべき分け前の再分配という機能を発揮するのが金融商品で、ハーヴェイはここに略奪の原動力を見ているのです。

「規制緩和によって、金融システムは、投機、略奪、詐欺、窃盗を通じた再配分活動の中心の一つとなった。組織的な株価操作、ネズミ講型投資詐欺(ポンジー・スキーム)、インフレによる大規模な資産破壊、合併・買収(M&A)を通じた資産の強奪、先進資本主義諸国でさえ全国民が債務奴隷に追い込まれるほどの額の債務を支払わせること、そして言うまでもなく、会社ぐるみの詐欺行為や信用と株価操作による資産の略奪(年金基金の横領と、株価暴落や企業倒産によるその多くの破壊)。これらすべてが、資本主義的金融システムの中心的な特徴となった。金融システム内部で価値をすくい取る方法は無数に存在する。」(224頁)

 従来投資でお金を稼いでいる人はごく少数で、働くか会社を経営するかが稼ぎの王道でした。そこに突然、「お金を遊ばせてはいませんか」、「自分が働くよりもお金を働かせなさい」、「いい儲け口がありますよ」、といった誘いが始まりました。金融商品の取引が大衆化してきたのです。日本でも竹中が大臣の時代に、政府主導で大衆の預金を小口の金融商品へと流れていくように誘導しました。この数年間でかなりの額のマネーが大衆の手から少数の投資家の手に渡ったことでしょう。いまや民営化されたゆうちょ銀行がリスクの高い金融商品の窓口を開くまでになっています。金融資産はどのようにして利殖していけるのかが所有者にとっては明瞭ではありません。元金が吹っ飛んでしまっても誰も責任を負ってはくれません。

3) 危機管理とその操作

 国内での金融取引が詐欺や略奪まがいの行為をはやらせているとすれば、国際的にはもっと大掛かりな仕掛けが見られます。ハーヴェイは「危機が世界的レベルでつくり出され管理され操作されており、これは貧しい諸国から豊かな諸国へと富を再分配する芸術的手法にまで進化してきた。」(225~6頁)と述べています。スティグリッツが書いているように、1980年以来、マーシャルプラン50回分以上に相当する額が周辺諸国の人々から中心諸国の債権者たちに送られたと見積もられており、貧しい国々が最も豊かな国々を資金援助しているのです。このようなことが可能になったのは、投資した側がリスクを債務者に押し付けているからであり、その手段として、債務国家に押し付けられた新自由主義政策が機能しているのです。

4) 国家による再配分

 新自由主義は国家にも、下層階級から上層階級への再分配を行うように仕向けます。これは福祉国家とは全く逆方向の再分配であり、とりわけサッチャーの実施した賃貸住宅の持家化は都市部の住宅投機を引き起こし、貧しい人々は都市部の住宅を手放し、郊外へ移ったりホームレス化したりしました。つまり私有化とは略奪可能な経済的条件の設定を意味していたのです。その上に税制の逆進性を助長しています。

「新自由主義国家は、所得や賃金よりも投資に有利なように税制を改正し、税制の逆進性を助長し、受益者負担を押しつけ、企業に対しておびただしい種類の補助金や優遇税制を提供して、冨と所得の再配分を遂行している。」(229頁)

 あまりにも強烈な反動に対してようやく抵抗の兆しが見え始めてきています。しかし略奪というものは個別的であり、しかも半ばだまされたことの帰結でもあるのですから、運動は従来の階級闘争のようには進展していきません。

3)あらゆるものの商品化

 ハーヴェイはポランニーの、土地と労働と貨幣は本来商品ではなく、仮に労働力を商品として市場メカニズムのなすがままにすれば人間はやがて滅んでしまうという主張を引用しつつ、しかしこれら三要素の商品化と市場メカニズムによるそのコントロールが新自由主義によって実現されたと見なし、あらゆるものの商品化を新自由主義の特徴としてあげています。そしてとりわけ労働者を商品として扱い、それを単なる生産要素としてしか見ない新自由主義の労働政策について考察して行きます。

 新自由主義の労働者に対する総攻撃は二面的なもので、一方では労働組合や諸組織の解体、終身雇用の廃止、福祉の商品化、などであり、他方では、労働市場の空間的・時間的調整を変容させることのよって世界の低労賃の平準化をもたらします。その結果「新自由主義化のもとでは、『使い捨て労働者』が世界的規模で労働者の典型として現われる。」(234頁)のです。

 使い捨て労働者の生きる道として新自由主義が準備しているのは、商品化の中での偽りの満足の世界であり、それは欲望をもてあそぶだけで人間的な尊厳とは無縁の世界です。

「新自由主義は、労働は他のいかなるものとも同じ商品であると強調することによって、社会秩序における労働者・女性・先住民集団の位置づけを変えた。生きた民主主義的諸制度という保護の覆いをはぎ取られ、あらゆる種類の社会的解体に脅かされた使い捨て労働者は、社会的連帯を構築し集団的意志を表明するための別の制度的諸形態を頼みとせざるをえない。ギャングや犯罪集団、麻薬売買のネットワーク、地域マフィア、スラム街のボスから、コミュニティ、草の根組織や非政府組織、そして現世的カルトや宗教的セクトにいたるまで、あらゆるものがその対象となる。これらは、国家権力や政党やその他の制度的諸形態が集団的営為や社会的きずなの中心としては積極的に放逐され、あるいは単に衰退していった、その後に残された真空を代わりに埋める社会的諸形態である。」(237頁)

 階級的な基盤の同一性に基づいた運動というよりは、格差拡大により社会から弾き飛ばされてきた人々の無秩序な集合体、このような状態で起きるものは、国家や社会とは別の社会的ネットワークとならざるを得ないのではないかとハーヴェイは見ています。

 しかし私はハーヴェイの商品化論についてもう少し深めてみたいと思います。というのも今日商品といってもスタンダードとされているものは、一般商品とは違って金融商品となっているからです。しかもそのような考え方は単に上層にあるだけではなく下層の人々も、金融商品に商品の一般的属性を見出そうとしているからです。

 今起きていることは金融商品の属性をスタンダードとして一般商品を律しようとする動きにほかなりません。つまり絶えず利殖を繰り返している金融商品の機能が一般商品を律するわけですから、一般商品は商品としては格落ちとみなされ、不良在庫のように見なされざるを得ないのです。

4)環境の悪化

 ハーヴェイはアメリカと中国が世界の二酸化炭素排出増の原因となっていることを指摘し、新自由主義が短期契約の論理を環境の利用に押し付けることで、地球環境にとって、新自由主義化の実践は致命的であると見ています。とりわけ「天然資源の開発に関しては、新自由主義化の実績は惨憺たるもので」(240頁)あり、また、森林資源についても私有化のもたらす悪影響がみられます。これらについてもハーヴェイは丁寧に分析していますがここでは概略の紹介に留めておきましょう。

5)権利の両義性

 ハーヴェイは権利の両義性というテーマで新自由主義に対抗する運動について考察しています。

「新自由主義は、それ自身の内部に広範な対抗文化を生み出してきた。しかしこの反対潮流は、新自由主義の基本命題の多くを受け容れがちである。それは内部矛盾に焦点を当てる。たとえば、個人の権利や自由の問題を真剣に取り上げて、政治的・経済的な権力の権威主義的性格やそれが繰り返し恣意的に行使されることに異を唱える。」(242頁)

 これはたとえばWTOや世界銀行の政策に反対するのに、WTOの条約本文にある目的を取り上げてこれに違反しているというような方向性です。ハーヴェイにとっては、これらの目的自体が新自由主義的なもので、これの批判を避けるようではオルタナティブの方向性が見えてこないという意味で、このような運動の現状に批判的なようです。

 また人権侵害という観点からの対抗運動についても、それが個人の諸権利に焦点を当てる限りで新自由主義の作り出した枠組みを抜けられず、「新自由主義は個人を前面に押し立てることで、平等・民主主義・社会的連帯に対する社会民主主義的な問題関心を後景に押しやっている。」(243頁)と評価しています。さらに新しく生み出されてきたNGOなどの活動にも批判的です。

「ほとんどの貧しい人々には自分の権利を追求するための財力がないため、こうした理念を表現することができるのは、権利擁護団体の形成を通じてでしかない。権利擁護団体とNGOの台頭は、より一般的には権利言説の台頭と同じく、新自由主義への転換と同時に起こり、1980年前後からますます顕著になっていった。」(243頁)

 つまりハーヴェイは、新自由主義化によって国家が社会福祉の供与から手を引いたことによって取り残された社会的空白部分にNGOが進出していて、これはNGOによる民営化であり、国家が社会福祉の供与から手を引くのを促進しさえし、NGOは新自由主義のトロイの木馬と言われたりもしていることを指摘しています。そしてNGOは民主主義的な機関ではないし、善意で進歩的であってもエリート主義で説明責任を果たさないし、それが保護しようとする人々とは隔たりがあると見ています。とはいえこのような特殊な対抗文化の運動が魅力を獲得したことについて、その背景について次のように述べています。

「『略奪による蓄積』は断片化され個別化されている――こちらでは私有化、あちらでは環境悪化、はたまた債務による金融危機といった具合だ。普遍的な原理に訴えることなくして、これら特殊で個別的なものすべてに抵抗するのは困難である。略奪は権利の喪失をともなう。そこで人権、尊厳、持続可能なエコロジー的実践、環境権などの普遍主義的レトリックに転じることが、対抗政治を統一する基盤となる。
だがこのような権利の普遍主義に訴えることは、諸刃の刃である。」(245頁)

 福祉国家の時代の対抗文化は労働組合や労働者政党が担っていました。このような形とは異なった対抗文化運動がなぜ現在のような形をとるかについて、それはあまりにも断片化され個別化された形で社会問題が起きているので、かえって普遍主義に訴えるということになると言うのです。そしてこの普遍主義に訴えるということについて、ハーヴェイはそれを諸刃の刃と見ているのです。そして人権といった普遍的原理がいかにアメリカの外国への内政干渉の理由とされたかといったことなどをあげています。そこでハーヴェイの問題意識は次のようになります。

「個々の状況でどのような普遍的要素や何の権利に訴えるべきなのかをめぐって争うだけでなく、権利の普遍的原理や概念をいかにして構築すべきなのかをめぐっても、争うべきなのである。」(246~7頁)

 このようにハーヴェイは普遍的権利一般ではなく、それが現実の世界でどのように機能しているかというところにまで視野を広げ、そうすることで現実の側から権利を構築していくという方向性を打ち出しています。その具体的やり方についてもハーヴェイは大枠を示そうとしています。

「新自由主義のもとで生きるということは、資本蓄積に必要な一定の権利群を受け入れ服従するということを意味する。それゆえわれわれは、私的所有という個々人の不可譲の権利や利潤原理が、考えられうるあらゆる他の不可譲の権利概念に優先するような社会に生きている。」(248頁)

 新自由主義の下での権利体系は資本蓄積のために不可欠な私的所有に基づく利殖を根本原理としていますが、それだけではなく、言論と表現の自由や、教育と経済保障の権利や結社の自由などの派生的権利があります。ハーヴェイはこの基本的な権利と派生的な権利との関係を逆転させることを提案しています。

「これらの派生的権利を根本的権利とし、基本的な私的所有権や利潤原理を派生的なものにすることができれば、政治や経済の実践において大きな意義を持つ革命を実現することができるであろう。さらに、われわれが依拠することのできるまったく異なった権利概念も存在する――たとえば、地球の公共財を平等に享受する権利や、基本的な食料保証を享受する権利である。『同等な権利と権利との間では、力がことを決する』適切な権利概念をめぐる、さらには自由そのものの概念をめぐる政治闘争こそが、オルタナティブを探求する中で舞台の中心に進み出ることになるだろう。」(249~50頁)

 ハーヴェイは自由の概念と諸権利の妥当性をめぐっての政治闘争がこれから舞台の中心に登るであろうことを予想しています。確かに新自由主義を支配階級による階級権力強化のための階級闘争と捉えれば、これに対する被支配階級の側の階級闘争の課題が見えてきます。これは相当長期にわたる準備と、他方今すぐに手をつけていくべき課題とを峻別してことに当たることが必要でしょう。

第六章 自由の展望

 最終章自由の展望で、ハーヴェイはまずフランクリン・ルーズベルト大統領の1935年の年頭教書演説の中の自由についての論説の紹介から始めています。それは市場の行き過ぎた自由をいさめ、国家と市民社会の目標を人々の生活保障に置き、それを欠乏からの自由と表現していました。この広い自由概念と比較して、市場の自由と市場倫理をより一層普遍化しているブッシュ大統領の自由概念は非常に狭隘であるというのです。

 自由は市場の自由に限られるものではなく、社会的・政治的権利の領域においても自由の概念で表現できるものはあり、この広い概念としての自由が今必要なのに、アマルティア・センすら、社会的・政治的権利を自由市場のとばりで被ってしまっているというのです。このような事態はアメリカ市民が、ブッシュらの新自由主義者が推進している特殊な自由こそが自由そのものであるというように受取っていることによるとハーヴェイは見ています。そしてマルクスに帰って自由概念の再構築に取り掛かります。

 ハーヴェイによればマルクスの自由論は「自由の王国は、実際、窮乏と外的合目的性とによって規定された労働がなくなるところではじめてはじまる」(258頁)というものであり「マルクスは、われわれは自然との物質代謝の関係、あるいは人間相互の社会的諸関係からは決して自由にはなれないが、少なくとも人類の個体的・類的潜在力の自由な探求が現実の可能性になるような社会秩序の建設を目指すことはできるということを十分に理解していた。」(258頁)と述べています。つまり個々人が窮乏化していくような現状は決して個々人の自由の探求を実現していくものではないというのです。

 アダムスミスの『道徳感情論』での自由の規定も含め、このような広い自由の概念からすれば、新自由主義が作り出したものは「市場制度の外部に取り残され打ち捨てられた人々――社会的保護や支えとなる社会制度を奪われた使い捨て労働者の膨大な貯水池」(258頁)であり、これは惨憺たる大失敗だということになります。そしてこのような新自由主義の失敗は個々人にとっての自由の領域を奪い、そうすることで新しい社会運動を生み出すことになっているということにハーヴェイは注目しています。

「市場システムの内部でも外部でも、新自由主義化の課す市場倫理とその実践を公然ないし隠然と拒否する多様な対抗文化運動が登場してきているが、以上の文脈を踏まえるならこのことの意味をより深く理解することができるであろう。」(259頁)
ハーヴェイは、アメリカ国内での環境保護運動や若者の間で台頭している新しいアナーキズム運動、地域通貨の運動など、そして諸外国でみられるいろいろな運動の実例を紹介しています。そしてそれは新自由主義に対抗する人々だけではなく、かつては新自由主義に熱中していた支配層の政策グループ内部の人たちの転向をも生み出しているのです。

 とはいうものの、福祉国家への回帰やケインズ政策への立ち返りは、今日の新自由主義国家と金融権力への対決を不可避としますが、そのような状況は見られず、現実的ではないということにハーヴェイは注意を促した上で次のように述べています。

「だからこそオルタナティブの探求は、われわれの置かれた時間と場所の現実をしっかりと踏まえつつも、この階級権力と市場倫理が定義する準拠枠の外部に向かうべきなのだ。そしてこの現実は、新自由主義秩序そのものの中心部に重大な危機の可能性が存在することを示している。」(262頁)

 ではこのような自ら打ち立てた観点からハーヴェイは問題をどのように解決しようとしたのでしょうか。

1)新自由主義の終焉?

 ハーヴェイはまず新自由主義が抱える危機の問題についての考察から始めます。「新自由主義化が国内の経済と政治に引き起こす諸矛盾は、金融危機を経ることなしには封じ込めることはできない。」(262頁)という考えに基づき金融危機の諸相について分析しているのです。まず現在グローバル経済の牽引車であるアメリカと中国の財政赤字の膨らみが、社会的経済的格差の拡大という経済的不均衡という条件の下で構造的危機を形成するのではないかという問題意識から危機の予測に移っています。その際に金融危機のモデルが必要です。それについてハーヴェイは次のように述べています。

「金融危機が起こると、たいていの場合、国民経済全体が強力な金融権力による略奪のえじきとなるが、その金融危機を特徴づけているのは一般に慢性的な経済不均衡である。その典型的な徴候は、国内の財政赤字が膨れ上がって制御不能になっていること、国際収支危機、通貨価値の急激な下落、不動産市場及び金融市場における国内資産価値の乱高下、インフレの昂進、賃金の下落をともなう失業率の上昇、資本逃避である。」(263頁)

 ここでハーヴェイは金融危機の特長について七つの指標を挙げています。そしてこれをすぐアメリカに当てはめています。「現在のアメリカは、これらの主要な七つの指標の中で最初の三つのスコアの高さが際立ち、四つ目に関しても深刻な懸念がある。現在の雇用なき景気回復と賃金の停滞は、六つ目の問題が頭をもたげはじめていることを示している。」(263頁)このようなアメリカの現状はまさにIMFが介入してもいい状況ですが、しかしIMF自体はアメリカが支配しているのですからそのようにはならないでしょう。そうだとするとハーヴェイが考察している最初の予想は、考えにくいとしながらも、2001年のアルゼンチンのようになるケースです。

 アルゼンチンのような危機に見舞われると、アメリカ一国のみならず、グローバル資本主義が破局的なダメージを受けることが分かっているから、他の諸国はアメリカを支えようとすると見るハーヴェイは、そうすることでアメリカの借入金が増えアメリカの利払いが増えて、アメリカの果てしない消費主義が停止を余儀なくされると予想しています。しかしこのような事態は、見方を変えて、金融危機で儲けたり支配力を強めたりする支配グループの立場からすれば、どうでもいいことで、むしろグローバルな財政金融危機をうまく乗り切って自らの支配力を一層強めていけるという方向性が見えてきます。このような考察のあと、ハーヴェイは問題を設定しなおします。「最も差し迫った問題は、一体どのような類の危機が、アメリカを取り巻く状況を打開する上で最も役に立つのか、」(267頁)という主体的な立場からの考察に移っているのです。その際まずアメリカが直面してきた危機について纏めることから始めています。

「一連の選択肢を呈示する上で重要なのは、アメリカがこの20年間というものの何度となく深刻な金融問題に直面してきたことを想起することだ。1987年の株式市場の崩壊は、ほぼ30%の資産価値を消失せしめ、そして1990年代後半のニューエコノミーバブル崩壊後の株価暴落では、元の水準に回復するまでに8兆ドル以上の金融資産が失われた。1987年の銀行と貯蓄貸付組合の破綻は、救済にほぼ2000億ドルが費やされ、その年の内に事態は、連邦預金保険公社総裁ウイリアム・アイザックスが『アメリカは銀行国有化の方向に向かっているかもしれない』と警告を発するまでに悪化した。そして『ロングターム・キャピタル・マネジメント』やオレンジ郡など、投機に失敗した会社や機関の大規模な破綻や破産が起こり、それに続いて驚くべき不正会計の真っ只中で2001~02年にはいくつかの大企業が倒産した。」(267~8頁)

 このような危機を何とか乗り切ってきたのですが、同様の危機がもっと強度を増して起きたときにアメリカが取るシナリオについて、ハーヴェイはハイパーインフレーションと長期デフレの二つの選択肢を挙げてそれぞれについて考察しています。まずハイパーインフレーションのケースについて。

「短期的に爆発するハイパーインフレが未払いの対外債務や消費者債務を消し去ってしまうというのが一つの道である。そうすればアメリカは、著しく価値が下落したドルで日本や中国や他の国々に債務を返済することができる。このような『インフレ誘発による資産収奪』は、他国にはおよそ受け入れがたいものだろう。またハイパーインフレは、アメリカ国内の貯蓄や年金などの多くのものにも壊滅的な打撃を与える。それはボルカーやグリーンスパンが大筋で従ってきたマネタリズムの路線を覆してしまうことにもなる。けれどもマネタリズムからの転換(新自由主義の事実上の死亡宣告)がほんのわずかでも察知されると、どの国の中央銀行もほぼ間違いなく大量のドル売りに走るだろうから、アメリカの金融機関だけでは対処できない資本逃避危機を尚早に誘発してしまうだろう。米ドルは国際準備通貨としての信用を失い、その支配的な金融力に由来する種々の特権(たとえば基軸通貨発行権――世界通貨を印刷する権力)を今後すべて失うはめになるだろう。」(268頁)

 急激なインフレはこのような帰結を予想させるので、よりゆるやかなインフレという手もあることに言及した上で次にデフレについての考察に移っています。

 デフレを選択した場合に、中国とインドが経済発展のダイナミズムの低下に耐えられるかどうかという問題が起きるとハーヴェイは見ています。これらの国々の問題とは別にアメリカでは長期デフレを政府や金融機関の債務問題をエリートの富を脅かすことなく解決するとすれば、資産収奪的デフレを実施せざるを得ず、そうすれば民衆の年金受給権や資産価値が犠牲にされることで、民衆との同意にほころびが見られるようになるだろうと考察しています。そうなると新保守主義的な権威主義を強化することが起こるだろうし、ナショナリズムに訴えることになるだろう。ハーヴェイによればアメリカのナショナリズムには二つの側面があり、一つは自由と解放と進歩の灯台たるアメリカ、もう一つは被害妄想的な暗い側面です。この後者の側面は反テロキャンペーンや人種差別、報道や出版の自由の抑圧などと容易に融合します。それはまた先制予防戦争とも結びついているとハーヴェイは見ています。

 ハーヴェイは今日の世界におけるアメリカの位置が、これまでになく孤立しており、この孤立の中で先制予防攻撃の準備に賭けざるを得ないということが、金融危機を迎えたときの解決策の中で非常に現実味を帯びてくるというように見ています。ではこのような破滅的で自滅的な支配者に対する有力な対抗運動は可能なのか、と問うてその可能性を探っています。

2)オルタナティブに向けて

1) 運動の現状

 オルタナティブということについてハーヴェイは、それを未来社会の青写真やそこへの道筋を描くことであるといった受け留め方に異議を申し立てるところから論を説き起こします。今必要なのは「実行可能なオルタナティブ、現実的な可能性を特定することにつながる政治プロセスを開始することである。」(274~5頁)と考えるハーヴェイは、そこには二つの道があることを指摘しています。一つはすでに存在している無数の対抗運動に従事し、対抗プログラムを引き出すことであり、もう一つは理論的・実践的に究明して、批判的分析を通してオルタナティブを引き出すことです。ハーヴェイは後者の道を進んでいるのですが大切なのは「二つの道を歩むもの同士の対話を促し、それによって、共同の認識を深め、より適切な行動方針を明確化することである。」(275頁)と提言しています。このような前置きのあと具体的な運動についての評価に移っています。

「新自由主義化は、その環境の内部にも外部にも多種多様な対抗運動を発生させる。こうした運動の多くは、1980年以前に支配的だった、労働者を基盤とした運動とは根本的に異なる。私は『多くの』と言っているのであって、『すべての』運動がそうだとは言っていない。労働者を基盤とした伝統的運動は、先進資本主義国では新自由主義の猛攻により力を弱めはしたが、決して死に絶えてはいない。」(275頁)

 このように述べたあと、ハーヴェイは労働運動と労働者党の可能性について一瞥し、大衆的な社会民主主義的政治の復活の可能性を否定することには批判的です。とはいえハーヴェイの分析はいわゆる新しい社会運動と呼ばれている動きが中心となっています。

「他方で、『略奪による蓄積』との闘争は、全く異なった社会的・政治的闘争の流れを形成しつつある。こうした運動は、それを生み出した諸条件が特殊であることも原因して、典型的な社会民主主義的政治とは政治目標や組織化の仕方でかなり異なる。」(276頁)

 新しい社会運動を「略奪による蓄積」への対抗運動と捉えているところがハーヴェイの独自性ですが、その運動の特徴が従来の社会民主主義的政治運動とは異なることについて、サパティスタの例を引いて説明しています。

「メキシコのチアパスにおけるサパティスタの反乱は、国家権力の奪取や政治革命の実現を目指すのではなく、それに代わってより開かれた政治を追及した。この理念は、多様な社会集団の特定の諸要求に依拠し、彼らの運命の改善を可能とするオルタナティブをより開放的、流動的に探求することで、市民社会全体で機能することを目指す。組織形態としては、前衛主義を回避し、政党の形態をとることを拒否する傾向がある。代わりに国家の内部の社会運動にとどまることを志向し、先住民の文化が周辺ではなく中心に位置づけられるような政治ブロックの形成を試みる。環境保護運動の多くも、例えば環境的公正を求める運動のように、同じ道を歩んでいる。」(276頁)

 たしかにサパティスタの運動は、従来の民族解放運動とは違って、民族自決や独立を要求することなく、社会的・文化的メッセージを発信し、世界中の新しい社会運動との連帯を作り出しました。例えばヨーロッパでアウトノミア運動に従事していた活動家にとっては、自らが経験してきたものと全く同じ運動がチアパスで進行していると実感したに違いありません。

「こうした運動は、政治的組織化の部隊を、伝統的な政党や労働組合から、市民社会のすべての領域を横断する社会活動の脱中心化された政治的ダイナミズムへと移行させた。こうした運動は、中心を持たないことで、特定の問題や支持層との直接的な関わりを獲得している。これらの運動は日々の生活や闘争の現実に深く埋め込まれていることから力を引き出すのだが、他方では、彼らは、地域性や特殊性から脱却して新自由主義のマクロ政治を、すなわち『略奪による蓄積』の意味するところ、およびそれと階級権力の回復との関係を理解することが困難であることもしばしばである。」(276頁)

 ハーヴェイが挙げている運動は、発展途上国での略奪による蓄積に対する直接的な闘争に始まり、「50年でもうたくさんだ」運動、グリーンピース、ネグリ・ハートのマルチチュード、エコロジー的実践、地域通貨、などです。このような運動体の多くは「もう一つの世界は可能だ」というスローガンを掲げた世界社会フォーラムに結集しています。

2) 運動の展望

 今日の運動について述べた上でハーヴェイはその展望を描いています。まず強調しているのは、新自由主義化というものが支配階級による階級闘争の帰結であるということです。「階級闘争などは古くなった」という文句を流行らせた裏で支配階級は熾烈な階級闘争を展開していたというのです。武装解除されていたのは被支配階級の側だけだったというのがハーヴェイの評価です。ですからハーヴェイは支配階級から階級闘争を仕掛けられているときにはそれをはっきり階級闘争と呼び、階級的視点から反撃することの必要性を訴えています。といってもそれは昔の「単一のプロレタリアート」といった概念への回帰ではなく、今日の新しい階級関係の中での階級闘争で、民衆が自己自身を形成していかなければならないものです。それはおそらく人種的、ジェンダー的、エスニック的な諸差異から生じる複合性に満たされることになるとハーヴェイは見ています。

 次に民衆運動がなぜ分裂しているのかということについて、「略奪による蓄積」という新自由主義時代における資本主義の蓄積様式が、これに対抗する運動を分散化させていかざるを得ないという現実を生み出していることを受けて、地理的不均等発展によって特徴づけられる資本蓄積過程のダイナミズムをトータルとして追跡することによって全体像を描きだそうとし、そうすることで分裂を克服していく方向性を提起しています。

 さらに新自由主義についての分析が、それが掲げる理念と実践とのあいだには乖離があり、しかも新自由主義化によって現実がこの乖離をあからさまにしているという条件の下で、平等主義的な政治的要求、経済的公正、より豊かな生活保障を追及する民衆運動の復活を告げていることを指摘しています。

 また、権利の両義性のところで述べられた、新自由主義が唯一根本的権利としている特殊な個人的所有権や利潤原理とは異なる諸権利の復権もオルタナティブな運動にとって必要です。ハーヴェイは、基本的人権のほかに、平等なライフチャンスの権利、政治的結社とよき統治の権利、直接生産者による生産管理の権利、人身の不可侵性や尊厳に対する権利、報復の恐れなしに批判する権利、健康で文化的な生活環境に対する権利、共同所有の資源を集団的に管理する権利、空間を生産する権利、異なった存在でいられる権利、などを挙げています。

 新保守主義派が持ち出している高い道徳性という言葉に対しては、新自由主義化がもたらした社会解体の危機によって民衆の間に道徳的嫌悪観が蔓延しているという現実の表明として受取って、支配者側の巨大メディアを使った仕掛けに対する道徳における文化闘争によって支配階級の権力の途方もない強化の過程を逆転させることが必要だと述べています。

 新自由主義の根深い反民主主義的性質を政治闘争の主要な焦点とすることについてもハーヴェイは述べています。しかし名ばかりの民主主義国であるアメリカの民主主義の欠落ぶりは途方もないもので、その実体を暴いてはいますが、どのように民主主義闘争を進めていくかについての指針は未確定です。そこでハーヴェイが期待するのはグローバルな規模での運動の消長です。

「国内の一般市民からかなりの支持を受けているアメリカのリーダーたちは、アメリカの新自由主義的な意味での自由は普遍的で至高のものであり、この自由のために命を投げ出すべきだという思想を世界に押しつけてきた。だが、今では世界はこのような帝国主義的ジェスチャーを拒絶し、新自由主義的で新保守主義的な資本主義の中心地に、全く異なった価値体系を、すなわち、経済的・政治的・文化的公正と一体となった社会的平等の実現に献身する『開かれた民主主義』の価値体系を逆照射している。」(283~4頁)

 国家機構に対する民衆のコントロールを再獲得すること、これがハーヴェイの掲げる目標です。そしてその中身は自由についてのオルタナティブな提起とされています。

「新自由主義が説く自由よりもはるかに崇高な自由の展望は存在する。新保守主義のもとで可能となるよりもはるかに有意義な政治システムは存在する。われわれはそうした自由を獲得し、そうした統治システムを構築するべきなのだ。」(284頁)

 このようにハーヴェイの提起は課題の提起です。これをどう具体化していくかは、新自由主義についてのある種の共通認識をハーヴェイの分析を手がかりに形成しつつ、その共通認識を土台として、それぞれが具体化していくべき問題でしょう。



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Author: admin Published: 2008/1/31 Read 2631 times   Printer Friendly Page Tell a Friend