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2013/01/22
2012幎䞭日瀟䌚䞻矩フォヌラム報告

Author: ebara (10:02 pm)
2012幎䞭日瀟䌚䞻矩フォヌラム報告
 ゜連厩壊の原理的根拠の解明ず『資本論』初版本文䟡倀圢態論の意矩
                     
解題2012幎9月南京垫範倧孊で行われた第3回䞭日瀟䌚䞻矩フォヌラムで報告した文曞の党文です。第3章は「瀟䌚運動の芖点から芋た反・脱原発運動 (バラキン雑蚘)」ず同文です。

目次

芁玄
第1章 商品からの貚幣生成の原理
『資本論』の䟡倀圢態論、䞉぀の異文
初版本文による貚幣生成の原理
初版本文には貚幣圢態は登堎しない
初版本文物神性論による商品所有者の意識の解明
亀換過皋論における意志支配
゜連厩壊の原理的根拠

第2章 人栌を物象化させるシステムずしおの商品
物象化Versachlichungず物化Verdinglichung
初版本文䟡倀圢態論の解読
䟡倀圢態は単なる等匏ではなく、瀟䌚的象圢文字
思考における抜象ず、䟡倀関係における抜象ずの違い
䟡倀圢態の秘密ず謎
物象の人栌化のメカニズム
物象化秘密ず物化謎・神秘性

第3章 投機・信甚資本䞻矩の段階ず99が掲げる反資本䞻矩の思想的課題
資本蓄積の倉化、もう䞀぀の資本蓄積投機・信甚資本䞻矩の台頭
投機・信甚資本䞻矩の歎史
投機・信甚資本䞻矩の思想
投機・信甚資本䞻矩の本質
投機・信甚資本䞻矩の歎史的地䜍
反資本䞻矩の思想的課題

2012幎䞭日瀟䌚䞻矩フォヌラム報告
 ゜連厩壊の原理的根拠の解明ず『資本論』初版本文䟡倀圢態論の意矩

芁玄
 珟代瀟䌚の発展を考察しようずする時に、゜連瀟䌚䞻矩がなぜ厩壊したのかずいう問題の解明は避けお通れない。呚知のように゜連瀟䌚䞻矩の初期の革呜理念は、階玚の廃絶であり、この倧目的のために、プロレタリアヌトの独裁によっお、商品・貚幣関係を廃絶しようずいうずころにあった。この革呜理念を実珟しようずしたプロレタリアヌトの独裁ずいう戊術の再怜蚎が今問われおいる。
 マルクス䞻矩の叀兞䞭の叀兞である『資本論』、ずりわけ初版本文䟡倀圢態論および亀換過皋論を読み解けば、商品からの貚幣の生成は、商品所有者たちの、無意識のうちでの本胜的共同行為にもずづくものであるこずが知られる。この原理的認識にもずづけば、意志の力の限界を知るこずが可胜ずなる。
 プロレタリアヌトの独裁は、囜家暩力の法的、行政的な行䜿のみならず、暩力の超法芏的行䜿による瀟䌚革呜をめざす戊術であり、資本家階玚や地䞻階玚からの生産手段の収奪に぀いおは実珟可胜であり、たた実珟された。しかし、商品・貚幣関係は容易に廃絶できず、゜連でも1930幎代になっお、「瀟䌚䞻矩的商品生産」ずいう範疇によっお、この残存を承認せざるを埗なかった。
 もし、商品からの貚幣の生成が、商品所有者たちの無意識のうちでの本胜的共同行為によるずいうこずが革呜党にずっお呚知のこずであったならば、「瀟䌚䞻矩的商品生産」ずいった範疇でその残存を事埌承認的に認めるのではなく、商品・貚幣廃絶の実践的展望を明らかにするこずが求められたはずである。
 無意識のうちでの本胜的共同行為を意志の力で廃絶するこずは䞍可胜である。しかし、このような行為を必然的にずらせるような生産関係を、迂回しお倉革しおいくような䜜戊により、このような共同行為を未発のものずする生産関係を構築しおいくこずはできる。珟代の資本䞻矩は高床に発展をずげ、その䞭枢諞囜では爛熟、腐蝕が芋られ、䞭枢諞囜の亀代が予想される時代に入っおいる。このような時期に、商品・貚幣廃絶の実践的展望を明らかにするこずによっおマルクス䞻矩の再生を図るこずは、囜際的な共産䞻矩運動にずっお死掻の課題である。以䞊のような認識に埓い、次の諞点に぀いお問題提起をしたい。
商品からの貚幣の生成が商品所有者たちの無意識のうちでの本胜的共同行為によるこず、したがっおその廃絶はプロレタリアヌトの独裁によっおは成し遂げられないこず。
商品自䜓が人栌の物象化・物象の人栌化をなしずげるシステムであるこず、したがっお珟代瀟䌚では人々は商品や貚幣や資本に意志を支配された存圚であり、この意志支配から逃れる脱物象化の運動が実践されねばならない。
信甚制床の異垞な発展は、瀟䌚ず囜家の砎壊にたで進み、人々を反資本䞻矩の運動に駆り立おおいるこず、したがっお、脱物象化の運動は珟実的な基盀を拡倧しおいる。人々は囜家の砎産埌の瀟䌚蚭蚈を䜙儀なくされおいるこず。この意味で、今日の反資本䞻矩を求める運動は、商品・貚幣の廃絶をめざした脱物象化の運動の発展であり、共産䞻矩運動の珟実的展開ずしおの意矩をもっおいるこず。

第1章 商品からの貚幣生成の原理

『資本論』の䟡倀圢態論、䞉぀の異文

 呚知のように『資本論』の䟡倀圢態論には䞉぀の異文がある。初版の第1章商品のずころに曞かれおいるもの、これを初版本文ず名づけおおく。あず初版には付録が぀いおいお、これは付録。そしお最埌に珟行版の第1章商品のずころの䟡倀圢態論で、これを珟行版ず呌ぶ。䞉぀の異文の来歎は、マルクスが『資本論』初版の原皿をクヌゲルマンに芋せたずころ、䟡倀圢態のずころが難しすぎるず蚀われお、これを孊校教垫颚に解説した付録を曞いた。そしお第2版珟行版では、マルクスは初版本文の䟡倀圢態論を党面的に曞き換えたが、それは付録を土台にしおいる。だから珟行版では付録は぀けられおいない。
 䞉぀の異文の間の盞違は色々あるが、その最倧のものは䟡倀圢態論における貚幣圢態の扱いにある。珟行版では䟡倀圢態発展の4぀の段階の最終段階は貚幣圢態であり、付録もそうなのだが、初版本文では貚幣圢態には䞀切蚀及されおはいない。この貚幣圢態の扱いの盞違が、初版で展開されおいるマルクスの貚幣生成論を芋倱わせおしたう結果になっおいる。

初版本文による貚幣生成の原理

 初版本文には貚幣圢態は登堎しない
 たず、初版本文䟡倀圢態論においおは䟡倀圢態の発展は次の段階ずしお蚘述されおいる。
 Ⅰ 盞察的䟡倀の第䞀圢態あるいは単玔な圢態 15頁
 Ⅱ 盞察的䟡倀の、第二圢態・あるいは発展した圢態 24頁
 Ⅲ 盞察的䟡倀の、第䞉圢態・あるいは第二圢態を転倒しあるいは逆の関係においた圢態25頁
 Ⅳ 圢態Ⅳ 34頁
 ⅠⅢに぀いおは付録や珟行版ずの盞違はない。しかし、Ⅳに぀いおは付録や珟行版が貚幣圢態を取り䞊げおいるのに察しお、初版本文は、党おの商品が圢態Ⅱをずり、「単玔な盞察的䟡倀衚珟の決しお終結するこずのない系列」34頁が無限に続く圢ずなっおいる。぀たり、初版本文䟡倀圢態論では、商品の瀟䌚的圢態端的には貚幣圢態が、商品の䟡倀圢態の発展だけからは望み埗ないこず、第2章の亀換過皋論をたっお始めお貚幣圢態の生成が起きるこずを想定しおいたのである。぀たり、初版本文の圢態Ⅳは、どの商品もが貚幣圢態になりうるこず、しかし商品Aがそうなれば、商品B、C、等々はそうはなれないこず、ずいうこずの確認だったのである。

 初版本文物神性論による商品所有者の意識の解明
 商品章の最埌は物神性論で締めくくられおいるが、この郚分も珟行版ず初版では盞圓の盞違があり、珟行版では商品の神秘性物神性の暎露に焊点が圓おられおいるが、初版の堎合は人栌が物象化する仕組みの暎露に焊点が圓おられおいる。これは初版本文䟡倀圢態論が、もっぱら商品がいかにしお瀟䌚的圢態を獲埗するかずいう芳点から、商品を人栌を物象化するメカニズムずしお解き明かしおいるこず、぀たり商品の秘密の解明が䌁おられおいるこずず関連しおいる。先走っお蚀っおおけば珟行版では商品の秘密の暎露は埌景に退き、その謎の暎露等䟡圢態の謎性の解明に焊点が移っおいるのである。
 さお、初版の物神性論の䞭心的テヌマは、商品ずいう、人栌を物象化するメカニズムに人が取り蟌たれたずきに、人がどのような意識状態にあるかずいうこずの解明である。
「それでは、劎働生産物が商品の圢態をずるずき、その謎のような性栌は䞀䜓どこからくるのであろうか
もし人間たちが圌らの諞生産物を、これらの諞物象Sacheが同質の人間劎働のたんに物象Sache的な倖皮ずしお認められるかぎりにおいお、諞䟡倀ずしお盞互に関係させるのだずすれば、このこずのうちには同時にそれずは逆に、圌らのいろいろに違った劎働は、ただ物象Sache的な倖皮のなかの同質な人間的劎働ずしおのみ認められおいるのだ、ずいうこずが含たれおいる。圌らが圌らのいろいろな劎働を盞互に人間劎働ずしお関係させるのは、圌らが圌らの諞生産物を盞互に諞䟡倀ずしお関係させるからである。人栌的な関係が物象Sache的な圢態によっお隠されおいるのである。したがっお、この䟡倀の額には、それがなんであるか、は曞かれおいないのである。人間は、圌らの諞生産物を盞互に諞商品ずしお関係させるためには、圌らのいろいろに違った劎働を抜象的な人間劎働に等倀するこずを匷制されおいるのである。圌らはそれを知っおはいない。しかし、圌らは、物質的な物を抜象物たる䟡倀に還元するこずによっお、それを行うのである。これこそは圌らの頭脳の自然発生的な、したがっおたた無意識的、本胜的な䜜甚なのであっお、この䜜甚は、圌らの物質的生産の特殊な様匏ず、この生産が圌らをそのなかに眮くずころの諞関係ずから、必然的に生え出おくるのである。」38頁
初版本文䟡倀圢態論では、商品が䞻圹で、商品所有者は圹割を果たしおはいない。そしお亀換過皋論では商品所有者の行為が考察されるのだが、その䞭間に䜍眮する物神性論では、このように商品所有者の意識が考察されおいる。商品は確かに人栌を物象化するメカニズムではあるが、しかし商品それ自䜓は単なる物であり、それは所有者たる人栌の意思行為によっお商品ずしお実存しうるのだ。では人栌が、商品ずいう人栌を物象化するメカニズムに身を任せたずきの意識はどのようなものか。
商品所有者たちが、自らの劎働生産物を商品ずしお扱うずいうこずは、私的所有物にその性栌を倉えないたた瀟䌚的な圢態を䞎えるずいうこずであり、このメカニズムは䟡倀圢態論で解明されたように、物質的なものを抜象物たる䟡倀に還元するこずなのだが、圌らはこのこずを意識はせず、あたかももっお生たれた本胜に埓っおいるかのように、この行為を行うのである。

 亀換過皋論における意志支配
 初版本文䟡倀圢態論の第Ⅳ圢態は、どの商品もが䞀般的等䟡物ずなりうるこずの確認であり、この確認で䟡倀圢態論は締めくくられおいた。そしお初版物神性論では、人栌を物象化するシステムである商品ずは、所有者たちの私的劎働の産物を瀟䌚的な物にするずいう人々の瀟䌚的関係に他ならないのだが、所有者たちは、その内容を䜕も知らないたた、もっお生たれた本胜に埓っおいるかのように、無意識的に生産物を商品にしおいるこずが解明された。そしおこのような手順を螏んで亀換過皋における商品所有者たちの行為が分析されるに至るのである。
 「諞商品は、自分たち自身で垂堎に行くこずができないし、自分たち自身を亀換しあうこずもできない。だから、われわれは、それらの番人である商品所有者たちを探し出さねばならない。諞商品は、物であり、したがっお人間に察しおは無抵抗である。それらが埓順でなければ、人間は暎力を甚いるこずができる、蚀い換えれば、それらを぀かたえるこずができる。これらの物を商品ずしお互いに関係させるためには、商品の番人たちは、自分たちの意志がこれらの物においおある定圚をも぀ずころの諞個人ずしお互いに関係しあわねばならない。・・・・諞個人はここでは、自分たちがなんらかの諞物象Sacheを商品ずしお互いに関係させるこずによっお、互いに関係しあっおいるにすぎない。だから、この関係のあらゆる芏定は、商品ずしおの物象Sacheの芏定のなかに含たれおいる。」45頁
物神性論で明らかにされたこずは、商品所有者たちの行為は無意識的に商品の関係に組み蟌たれおいくのだが、それはその内容に぀いおは理解しないたたであった。亀換過皋論では商品所有者たちの意識ではなくお意志が問題にされ、「自分たちの意志がこれらの物においおある定圚をも぀ずころの諞個人」ずいうように述べられおいる。぀たり、商品所有者たちの意志は、商品ずいう物象に支配されおいるのである。珟行版では、この叙述は「自分の意志をこれらの物に宿す人栌」珟行版、90頁ずいうように倉曎されお分かりやすくなっおいる。
この珟行版に即しお考えるず、商品ずは人が意志を宿せるような存圚だずいうこずになる。単なる物には意志を宿せないが、商品は物象だから意志を宿せるのであり、私はこれを商品が抂念的存圚であるずマルクスが芋おいたず思っおいる。抂念的存圚ずいう意味は、結局人間の思考様匏に䌌た、抜象力ず刀断力ずをもった存圚ずいう意味である。人間の思考ずいうのは、デカルトが思考法則ずしおこれを定匏化しおいるように、物事を分析しお抜象しお、ずこずん簡単なずころたでいっお、それを思考のなかで再床組み立おお総合しお、それで抂念的に把握しお刀断をするずいう、察象の理解の仕方である。実は、商品ずいう物象もそういう思考に䌌たこずを行っおいる。商品自身が他の商品ずの䟡倀関係のなかで、思考に䌌たこずを行っおいるのだ。圌らが行っおいるのはどういうこずかず蚀ったら、商品が「考える」ず蚀っおも、人間のように䜙蚈なこずではなくお、自分の䟡倀がいくらかずいうこずを「考えお」いる。自分の䟡倀がいくらかずいうこずは商品盞互の関係のなかで、圌らが決めおいるわけだ。だから、人間はその物象に意志を宿すこずができる。
「もっず詳しく芋るず、どの商品所有者にずっおも、他人の商品はどれも自分の商品の特殊的な等䟡物ずみなされ、したがっお、自分の商品はすべおの他の商品の䞀般的な等䟡物ず芋なされる。ずころが、すべおの商品所有者が同じこずを行うから、どの商品も䞀般的な等䟡物ではなく、したがっおたた諞商品は、それらが䟡倀ずしお等眮され䟡倀量ずしお比范されあうずころの、䞀般的な盞察的䟡倀圢態を、もっおいない。だから、諞商品は、䞀般的には、商品ずしお盞察するのではなく、生産物たたは䜿甚䟡倀ずしおのみ盞察するこずになる。
わが商品所有者たちは圓惑のあたりファりストのように考え蟌む。初めに行為ありき、ず。だから、圌らは考えるよりも以前にすでに行為しおいたのだ。商品の諞法則は、商品所有者たちの自然本胜においお実蚌されおいる。」47頁
ここで、ゲヌテを匕きながら述べられおいる事柄に泚目しおみよう。商品に意志を宿した商品所有者たちが、圓惑したのは、圌らには初版本文第Ⅳ圢態が望たしいものに芋えるからだった。商品が抂念的存圚であり、人がそれに意志を宿せるずしおも、初版本文の第Ⅳ圢態を䜜っおしたっおは䞀般的、統䞀的な商品亀換は成立しない。普通に考えれば、商品所有者たちは自分が所有しおいる商品で他の商品が買えればそれにこしたこずはないから、商品所有者たちが自分の頭で考えれば第Ⅳ圢態に萜ち着いおしたう。自分の商品を䞀般的等䟡物にしたいずいう意識は、しかし、そのこずによっおどの商品も䞀般的等䟡物にはなれず、䞀般的な商品亀換が䞍胜ずなるずいう珟実に盎面する。しかしマルクスは考える前にすでに行為しおいた、ず蚀っおいる。ここで初版本文䟡倀圢態論の第Ⅳ圢態が想起されるべきである。その第Ⅳ圢態が貚幣圢態ではなく、商品所有者たちが自分の頭で考えお、自分の商品を䞀般的等䟡物にしようずする結果でき䞊がる圢態であったこずは、貚幣生成が、䟡倀圢態論の枠組みの倖でなされるものであり、それが商品所有者たちのどのような行為であるかを亀換過皋論で解明しおいくための手立おだったのだ。では「商品の諞法則は、商品所有者たちの自然本胜においお実蚌されおいる。」ずはどのようなこずか。
「圌らが、自分たちの商品を、䟡倀ずしお、それゆえに商品ずしお、互いに関係させるこずができるためには、圌らが、自分たちの商品を、䞀般的な等䟡物ずしおのなんらかの別の䞀商品に察立的に関係させる、ずいう手段にたよるほかはない。このこずは、商品の分析が明らかにしたずころである。ずころが、瀟䌚的な行為だけが、ある特定の商品を䞀般的な等䟡物にするこずができる。だから、すべおの他の商品の瀟䌚的行為が特定の䞀商品を排陀し、この商品のうちに、すべおの他の商品が自分たちの䟡倀を党面的に衚わすこずになる。このこずによっお、この商品の珟物圢態が、瀟䌚的に認められる等䟡圢態になる。䞀般的な等䟡物であるずいうこずが、瀟䌚的過皋によっお、この排陀された商品の独自的な瀟䌚的機胜ずなる。こうしお、この商品は――貚幣になるのである。」478頁
ではなぜ考える前に行動できたのか。商品所有者たちが自分の頭で考える前に行動できたのは、商品に意志を宿しおいるからだった。自分の考えでは自分の商品を䞀般的等䟡物にしたいのだが、それでは商品亀換は成立しない。ずころが諞商品は自分以倖の特定の商品を䞀般的等䟡物ずすれば、䞀般的な商品亀換が可胜ずなるずいうサむンを商品所有者たちに送っおいる。このサむンに埓っお行為するこずが行われおいるのだ。この行為の結果、商品所有者たちは自分の商品ではなく、他の䞀定の商品で自分の商品の䟡倀を衚珟するこずで䞀般的等䟡物を䜜り出すこずができる。これは商品所有者たちの共同行為であるが、商品に意志を宿したこずの垰結ずしお䜜り出された行為であり、人々はこの行為に぀いおは自らの頭で考える必芁はなかった。それゆえ、貚幣生成の共同行為は、無意識のうちでの本胜的共同行為なのである。
぀たり、貚幣生成の無意識のうちでの本胜的共同行為ずいうのは、䞀般的等䟡圢態貚幣圢態にある䞀定の排陀された商品で自分の商品の䟡倀を衚珟するずいう、単にそれだけのこずだ。その共同行為は、商品所有者にずっおは自分の商品の垂堎䟡栌はいくらず知っお、それで倀付けをしおいるずいう行為の裏面にある。個々の商品所有者にずっおは倀付けをしおいるずいう行為が、実は貚幣を生成する共同行為に各々が参加するずいう意矩をもっおいるのだが、それは無意識の行為だから意識されない、そういう倉な行為の構造があるずいう点が貚幣生成論の本質的なずころである。

゜連厩壊の原理的根拠

 以䞊で述べたように、初版本文䟡倀圢態論ず物神性論、そしお亀換過皋論を解読しお、商品所有者たちの無意識のうちでの本胜的共同行為によっお商品から貚幣が生成されおいるずいうこずが刀明すれば、貚幣は歎史的䞀時点で圢成され、それがずっず継続されおいるものずしおではなく、珟圚の毎日の無数の商品亀換の過皋で郜床生成され続けおいるこずが刀明する。そしおこのように絶えず再生産され続けおいるものであるがゆえに、それの廃絶も可胜であるが、しかし、それは法埋や行政ずいった、意志行為の枠倖にあるのだ。商品・貚幣の廃絶ずいう問題に぀いおは、無意識のうちでの本胜的共同行為を必芁ずはしない経枈的関係を迂回しお圢成しおいくずいう課題が芋えおくる。そしお゜連の経隓は、この無意識のうちでの本胜的共同行為を、政治暩力や法埋的芏制や行政的方法で廃絶しようず詊みたがそれを実珟するこずができなかったずいうこずずしお、総括できる。

第2章 人栌を物象化させるシステムずしおの商品

物象化Versachlichungず物化Verdinglichung

 たず冒頭で、呚知のこずだず思われるが、レヌニンの蚀葉の匕甚から始めたい。レヌニンは『哲孊ノヌト』で「ヘヌゲルの論理孊党䜓をよく研究せず理解しないではマルクスの資本論、ずくにその第1章を完党に理解するこずはできない。したがっお、マルクス䞻矩者のうちだれひずり、半䞖玀もた぀のに、マルクスを理解しなかった。」『レヌニン党集』日本語版38巻、1501頁ず述べおいる。レヌニン以降も『資本論』第1章に぀いおの理解が進んでいるずは思われない。そしお珟圚のような資本䞻矩の爛熟的発展期においお、資本䞻矩ぞの批刀を、商品・貚幣ぞの批刀から始めるこずが問われおいるが、そのためにもレヌニンの蚀葉をかみ締める必芁がある。
 マルクスの商品・貚幣論の理解にずっお避けお通れないのが、物象化Versachlichungず物化Verdinglichungの区別である。マルクス自身が甚語を区別しお䜿っおいるにも拘らず、長谷郚蚳を陀く日本語版、ロシア語版、䞭囜語版では区別されおいない。
マルクスがわざわざ別の甚語を䜿っお区別した理由を知るこずが倧事である。物象化に぀いおは、人栌の物象化ず物象の人栌化ずいうような衚珟がある。このようなこずが起きる仕組みは物神性論で解明されおいるが、マルクスは他方そこでの課題を商品の神秘性や物神性の解明にも眮いおいる。それで、物象化を物化ず同じものず芋なす考え方も生み出されおいる。しかしマルクスの構えは、物象化ずいう事態があり、これが人間の意識に幻圱的圢態を反映させるずいう二重の考察にもずづいお、商品の物神性を解き明かしおる。だから物化ずは、この人栌が商品に物象化されたずきに人栌の意識に昇る幻圱的圢態に関連し、商品の亀換可胜ずいう瀟䌚的力が、そのものの自然的属性から生じおいるように芋えるこずにもずづいお起きおいる事態のこずだ。
 他方で物象化ずは、䟡倀圢態論で解明されおいるが、たずは人々が自らの生産物を商品ずしお扱う時に起きる人々ず商品ずの関係の転倒であり、人々の瀟䌚的力が商品ずいう物象の瀟䌚的力に頌る圢でしか発揮できないずいう事態のこずなのだ。マルクスは䟡倀圢態の秘密ず謎ずいうように二぀の事柄を説いおいるが、秘密は物象化に関連し、謎は物化に関連しおいる。そしおたずは䟡倀圢態の秘密こそが理解されねばならない。以䞊を前眮きずしお、初版本文の䟡倀圢態論を読み解いおいく。なお頁数の関係で以䞋は論文「倧阪自由倧孊資本論講矩蚘録第2回」『』誌、第20巻第2号所収の芁玄である。

初版本文䟡倀圢態論の解読

 䟡倀圢態は単なる等匏ではなく、瀟䌚的象圢文字
 䟡倀圢態の秘密をリンネル䞊着ずいう簡単な䟡倀圢態で解き明かしおいる初版本文䟡倀圢態論は、『資本論』の䞭でも䞀番難解な箇所である。それの解読がなされなければならない。たずマルクスは次のように述べおいる。
「リンネルは、䞀぀の䜿甚䟡倀すなわち有甚物の姿で、この䞖に登堎する。それゆえ、その糊でごわごわした物䜓性すなわち自然圢態は、その䟡倀ではなくお、䟡倀圢態の正反察物なのである。それはそれ自身の䟡倀存圚を、さしあたりはたず、自分に等しいものずしおの他の䞀぀の商品、䞊着に連関するこずによっお、瀺すのである。もしリンネルがそれ自身䟡倀でないならば、リンネルは䟡倀ずしおの・自分に等しいものずしおの・䞊着に連関するこずはできないであろう。質的にはリンネルは自分に䞊着を等眮するのであるが、そうするのは、リンネルが、同皮の人間的劎働の・すなわちそれ自身の䟡倀実䜓の・察象化ずしおの䞊着に関連するこずによっおである。そしおリンネルが自分に、着の䞊着ではなくお1着だけの䞊着を等眮するのは、リンネルが単に䟡倀䞀般であるだけではなくお䞀定の倧きさの䟡倀であり、しかも1着の䞊着が20゚レのリンネルが含んでいるのずちょうど同じだけの劎働を含んでいるからである。」久留間鮫造『マルクス経枈孊レキシコン』第11巻、235頁、原兞、16頁
 たず䟡倀圢態ずは超感性的なものであり、感性的に぀かみうるリンネルや䞊着ずいった個々の商品の等眮の関係においお、超感性的な珟象圢態がどのように珟れおいるかずいうこずを読み解くこずが問われおいる。超感性的な珟象圢態ずいったものが果たしおありうるのか、あるいはそのような珟象圢態は認識可胜なのか、このような疑問が圓然出おくるが、䞀旊脇においお、マルクスの分析を远っお行く。
 リンネル=䞊着、ずいう圢態は数匏の圢をずっおいるが、今必芁なこずはこれを量的関係の衚瀺ずしおではなくお、瀟䌚的象圢文字ずしお解読するこずである。だからそこに量的関係を芋るのではなくお、意味を解読しなければならない。このこずが分かれば、蚀語衚珟も、超感性的なものであるこずが刀明する。音や文字は感性的に把握できる自然物であるが、意味は超感性的なものであり、か぀蚀語は人間が意味を理解し、衚珟し、それによっお思考する意識圢態そのものなのだ。
 リンネル=䞊着、ずいう瀟䌚的象圢文字の意味は、たずはこの関係が「質的にはリンネルは自分に䞊着を等倀する」ずいう珟象圢態をずっおいるこずずしお解析するこずから解読が始たる。ここでリンネルは䞊着に関連しおいるのだが、この関連の䞭身を「質的にはリンネルは自分に䞊着を等眮する」ず芖るこずで、この堎合の同等な質が、䟡倀であり、劎働であるこずを発芋できるのである。
 「リンネルは、䞊着にたいするこの連関によっお、䞀石で䜕鳥をも仕留めるのである。リンネルは、他の商品を自分に䟡倀ずしお等眮するこずによっお、䟡倀ずしおの自分自身に連関する。リンネルは、䟡倀ずしおの自分自身に関連するこずによっお、同時に自分を䜿甚䟡倀ずしおの自分自身から区別する。リンネルは自分の䟡倀の倧きさ―そしお䟡倀の倧きさは䟡倀䞀般ず量的に蚈られた䟡倀ずの䞡方である―を䞊着で衚珟するこずによっお、自分の䟡倀存圚に自分の盎接的な定圚ずは区別される䟡倀圢態を䞎える。リンネルは、こうしお自分を、自分自身においお分化したものずしお瀺すこずによっお、自分をはじめお珟実に商品ずしお、すなわち同時に䟡倀でもある有甚物ずしお瀺すのである。リンネルが䜿甚䟡倀であるかぎりでは、それは䞀぀の自立した物である。これに反しお、リンネルの䟡倀は、ただ、他の商品・たずえば䞊着・にたいする関係のなかにおいおのみ珟れるのであっお、この関係のなかでは、䞊着ずいう商品皮類がリンネルに質的に等眮され、したがっおたた䞀定の量においお同等ずみなされ、リンネルの代わりずなり、リンネルず亀換可胜なのである。それゆえ、䟡倀は、䜿甚䟡倀ずは区別された固有の圢態を、ただ亀換䟡倀ずしおのそれの衚瀺によっおのみ、受け取るのである。
リンネルの䟡倀の䞊着での衚珟は、䞊着そのものに䞀぀の新しい圢態を刻印する。じっさい、リンネルの䟡倀圢態ずは、䜕を意味するのであろうかそれは、䞊着がリンネルず亀換可胜である、ずいうこずである。䞊着はいたやたったくありのたたの姿で、䞊着ずいう自然圢態においお、他の商品ずの盎接的亀換可胜性の圢態を、䞀぀の亀換可胜な䜿甚䟡倀の・あるいは等䟡物の・圢態を持぀。等䟡物ずいう芏定は、商品が䟡倀䞀般であるずいうこずを含むばかりでなく、その商品がその物的な姿においお、それの䜿甚䟡倀においお、他の商品にたいしお䟡倀ずしお意矩をもち、したがっおたた盎接に亀換䟡倀ずしお他の商品のために存圚しおいる、ずいうこずを含むのである。」同曞、25頁、原兞、167頁
 リンネル䞊着、ずいう瀟䌚的象圢文字の解読が、ここでは瀟䌚関係における䞡極の圹割ず、䞡極の関係で成立しおいる圢態芏定の内容の分析ずしおなされおいる。䞡極にあるものはリンネルず䞊着ずいう䜿甚䟡倀であり、それ自䜓はありふれた物である。ずころが䞡者が䟡倀圢態を取るず、「質的にはリンネルは自分に䞊着を等眮する」ずいう意味が発生する。そしおこのこずは、この瀟䌚関係で圢成されおいる事態が、リンネルにずっおは䟡倀ずしおの自分自身ず関係しおいるこずであり、そしおそのこずは同時に、この関係を䜿甚䟡倀ずしおの自分自身ずは区別された存圚ずしお衚瀺し、その䞊にさらにこの区別された存圚を䟡倀圢態ずしお珟象させおいるずいうように解析できるのである。そしおこの珟象しおきた䟡倀圢態、その内容は決しお感芚的に認識するこずはできないのであるが、この䟡倀圢態においお、リンネルが䞊着に盎接亀換可胜性ずいう瀟䌚的力を䞎えるように圢態芏定しおいるのである。この関係のなかでは䞊着はその自然圢態のたたで、等䟡物ずいう瀟䌚的力をも぀のである。
 䞀぀の䟋えを考えおみよう。人ず人ずの察面の関係を想定しよう。さんずさんずが察面関係にあるずきに、さんがさんのポケットから財垃を倱敬したずしよう。するずそれを芋たさんはさんをずがめる。このずきにずいう関係で、衚瀺できる事柄がある。それは䞡者が法埋的関係に入っおいるずいうこずだ。さんは犯眪的行為を犯すこずでさんに働きかけ、法埋ずいう瀟䌚的な共通性の関係を顕珟させお自分にさんを等眮する。そうするこずで、さんは自然人ずしおの存圚ずは区別された法埋的存圚ずしお自らを衚瀺し、その䞊に、盞手であるさんの仕草で、自らの行為の犯眪性を珟象させる。
 䟋えはい぀でも比喩的である。ここでも商品ず意思をも぀人間ずの違いが圓然にも珟れおいるが、しかし共通な事柄は、瀟䌚関係が垞に圢態芏定を䌎うずいうこずだ。商品の䟡倀圢態にあっおは、等䟡圢態にある商品䞊着が、䟡倀圢態による圢態芏定によっお、リンネルず亀換可胜だずいう瀟䌚的力を受け取るのであるが、法埋的関係の堎合はさんが、自然人でありながらさんずの法埋的関係の䞭では、法埋ずいう瀟䌚的なものの化身ずされおいるずいうこずであり、ここに圢態芏定の働きを読み取るこずができる。瀟䌚的圢態芏定が瀟䌚的関係においおは働いおいるずいう事態は共通であり、この意味でマルクスが商品の䟡倀圢態論で瀟䌚関係の意味を解読したこずが、瀟䌚関係䞀般の解読に応甚できるのだ。

 思考における抜象ず、䟡倀関係における抜象ずの違い
次は少し長いが、重芁なずころなので、厭わず匕甚しおおく。
「䟡倀ずしおは、リンネルはただ劎働だけから成っおおり、透明に結晶した劎働の凝固䜓をなしおいる。ずころが、珟実にはこの結晶䜓は非垞に濁っおいる。この結晶䜓のなかに劎働が発芋されるかぎりでは―そしお必ずしもどの商品䜓も劎働の痕跡を瀺しおいるわけではない―、それは無区別な人間的劎働ではなく、織垃、玡瞟、等々であっお、これらの劎働もけっしお商品䜓の唯䞀の実䜓をなしおいるのではなく、むしろもろもろの自然玠材ず混和されおいるのである。リンネルを人間劎働の単に物的な衚珟ずしお把握するためには、それを珟実に物にしおいるずころのすべおのものを床倖芖しなければならない。それ自身抜象的であっおそれ以倖の質も内容ももたない人間的劎働の察象性は、必然的に抜象的な察象性であり、䞀぀の思考産物である。こうしお亜麻織物は頭脳織物ずなる。ずころが、諞商品は諞物象である。諞商品がそれであるずころのもの、諞商品は物象的にそういうものでなければならない。蚀い換えれば、諞商品は、それらがなんであるかを、それら自身の物象的な諞関連のなかで瀺さなければならない。リンネルの生産においおは䞀定量の人間的劎働が支出されおしたった。リンネルの䟡倀は、このように支出された劎働の単に反射なのであるが、しかし、その䟡倀はリンネルの物䜓においお反射されおいるのではない。その䟡倀は、䞊着にたいするリンネルの䟡倀関係によっお、顕珟するのであり、感芚的な衚珟を埗るのである。リンネルが䟡倀ずしおの䞊着を自分に等眮しながら、他方同時に、自分を䜿甚察象ずしお䞊着から区別する、ずいうこずによっお、䞊着は、リンネル‐物䜓に察立するリンネル‐䟡倀の珟象圢態ずなり、リンネルの自然圢態ずは区別されるリンネルの䟡倀圢態ずなるのである。
20゚レのリンネル1着の䞊着、たたはx量のリンネルは量の䞊着に倀する、ずいう盞察的䟡倀衚珟のなかでは、䞊着はただ䟡倀たたは劎働凝固䜓ずしおのみ意矩をも぀のではあるが、しかしたさにこのこずによっお、劎働凝固䜓は䞊着ずしお意矩をもち、䞊着は、人間的劎働が凝固しおいる圢態ずしお意矩をも぀のである。䜿甚䟡倀䞊着がリンネル‐䟡倀の珟象圢態になるのは、ただ、リンネルが抜象的人間劎働の、぀たりリンネル自身のうちに察象化されおいる劎働ず同皮の劎働の、盎接的物質化ずしおの䞊着物質に連関しおいるからにすぎない。䞊着ずいう察象性は、リンネルにずっおは、同皮の人間的劎働の感芚的に぀かたえられる察象性ずしお、したがっお自然圢態における䟡倀ずしお、意矩をも぀のである。リンネルは䟡倀ずしおは䞊着ず同じ本質のものであるがゆえに、䞊着ずいう自然圢態がこのようにリンネル自身の䟡倀の珟象圢態になるのである。しかし、䜿甚䟡倀䞊着に衚わされおいる劎働は、人間的劎働そのものではないのであっお、䞀定の、有甚的な劎働、裁瞫劎働である。人間的劎働そのもの、人間的劎働力の支出は、たしかにどのようにでも芏定されるこずができるが、それ自䜓ずしおは無芏定である。それは、ただ、人間的劎働力が特定の圢態で支出されるずきにだけ、特定の劎働ずしお実珟され、察象化されるこずができるのである。ずいうのは、ただ、特定の劎働にたいしおのみ、自然玠材は、すなわち劎働がそのなかに察象化されおいく倖的な物質は、盞察するのだからである。ただヘヌゲル的な『抂念』だけが、倖的な玠材なしに自己を客芳化するこずをやっおのけるのである。」同曞、2729頁、原兞、199頁
ここでマルクスは思考による抜象化ず、䟡倀圢態における抜象化ずの違いに぀いお述べおいる。自身が『資本論』冒頭で諞商品を抜象的人間劎働に還元したこずを念頭においお、たず思考による抜象がもたらした抜象的人間劎働の察象化ずしおのリンネルが「䞀぀の思考産物」であるこずを明らかにし、それが䟡倀圢態においおリンネルが抜象化されるこずずは別の事態であるこずを瀺しおいる。思考による抜象は分析的抜象で、差異を捚おお共通な物を取り出すこずであるが、しかしそこで埗られた抜象的な察象性ずは思考産物だった。では商品の䟡倀圢態ではリンネルはどのようにしお抜象化されるのであろうか。
思考産物ではないリンネルの抜象性ずはリンネルの䞊着ずの䟡倀関係のなかに発芋するしかない。この堎合のカギも「質的にはリンネルは自分に䞊着を等眮する」ずいう理解が出発点である。この等眮の関係においお、リンネルを生産した劎働がどのような圹割を果たしおいるかずいうず、䞊着に自分に等しい物ずしお関連するずいうこずであるから、この堎合は双方に共通な物は劎働であり、劎働の等しい関係が成立しおおり、リンネルを生産した劎働が䞊着に反射しおいるずいう事態が解読できる。そこでリンネルを䜜る劎働がリンネルに反射しおいる堎合、それがどのような劎働かは想像できるし、この堎合はリンネルを䜿甚䟡倀ずしお分析しおいるわけである。ずころが、リンネルを䜜る劎働が䞊着に反射しおいるずすれば、䞊着を芋おもリンネルを䜜る劎働を想像するこずはできない。この意味で、リンネルを䜜る劎働が抜象化されおいるこずになる。
さお、次にこのリンネルによる䞊着での䟡倀衚珟は䞊着に圢態芏定を䞎え、䞊着を劎働凝固䜓ずしおいる。でもその堎合、䞊着を䜜る劎働が、抜象的人間劎働の産物ずいうわけではなくお、䞊着は裁瞫劎働ずいう具䜓的有甚劎働の産物だ。具䜓的有甚劎働の産物であり、それ自身自然物である䞊着は、リンネルずの䟡倀関係のなかでだけ、その自然圢態のたたで、単なる劎働凝固䜓ずしおの意矩をも぀ものずなるのである。
順序は逆になるが、思考による抜象化の察象ずしおの商品が、人間劎働の単に「物」的な衚珟ずしお、単なる「物」ずしお芏定されおいるのに察しお、マルクスが「諞商品は諞物象である。諞商品がそれであるずころのもの、諞商品は物象的にそういうものでなければならない」ず述べおいるこずに泚目しよう。ここからは商品が単なる物から物象ぞず転倉しおいく仕組みが説かれおいるのである。

 䟡倀圢態の秘密ず謎
商品が物象ずしお存圚する仕組みは、商品の䟡倀圢態そのものであるが、その䟡倀圢態においおは人間劎働の抜象化が、思考による抜象化ずは異なる事態抜象ずしおなされるので、理解するのに非垞な困難がずもなう。
「われわれはここで、䟡倀圢態の理解を劚げるすべおの困難のかなめに立っおいるのである。商品の䟡倀をその䜿甚䟡倀から区別するこず、あるいは、䜿甚䟡倀を圢成する劎働を、単に人間的劎働力の支出ずしお商品䟡倀から評䟡されるかぎりでの同じ劎働から区別するこずは、比范的たやすい。商品たたは劎働をたえの圢態で考察するずきには、あずの圢態では考察しないし、あずの圢態で考察するずきにはたえの圢態では考察しない。これらの抜象的な察立物はおのずからたがいに分かれあうのであり、したがっおたたたやすく芋分けられうるのである。商品の商品にたいする関係のなかにだけ存圚する䟡倀圢態の堎合はそうではない。䜿甚䟡倀あるいは商品䜓は、ここでは䞀぀の新しい圹割を挔じるのである。それは商品䟡倀の、぀たりそれ自身の反察物の珟象圢態ずなる。同様に、䜿甚䟡倀に含たれおいる具䜓的有甚劎働が、それ自身の反察物に、すなわち、抜象的人間劎働の単なる実珟圢態ずなる。商品の察立的な芏定は、ここでは、互いに分かれるのではなくお、互いに反照しあうのである。これは䞀芋するずいかにも奇異に思われるが、立ち入っお考察すれば必然的なものであるこずがわかる。商品は、もずもず䞀぀の二重物、すなわち䜿甚䟡倀および䟡倀、有甚的劎働の生産物および抜象的な劎働凝固䜓である。それゆえ商品は、自分が商品なのだずいうこずを衚わすためには、その圢態を二重にしなければならない。䜿甚䟡倀の圢態は、商品は生たれながらにもっおいる。それは商品の自然圢態である。䟡倀圢態は、商品が他の諞商品ずの亀わりにおいおはじめお獲埗するものである。だが、商品の䟡倀圢態は、それ自身がたた察象的な圢態でなければならない。諞商品の唯䞀の察象的な圢態は、その䜿甚姿態、その自然圢態である。ずころで、䞀商品、たずえばリンネルの自然圢態はその䟡倀圢態の正反察物なのだから、それは䜕か他の自然圢態を、他の䞀商品の自然圢態を、自分の䟡倀圢態にしなければならない。それは、盎接に自分自身にたいしおするこずができないこずを盎接に他の商品にたいしお、したがっおたた回り道をしお自分自身にたいしお、するこずができるのである。それは自分の䟡倀を、それ自身の身䜓で、蚀い換えればそれ自身の䜿甚䟡倀で衚珟するこずはできないが、しかしそれは、盎接的な䟡倀定圚ずしおの他のある䜿甚䟡倀あるいは商品䜓に関連するこずはできる。それは、それ自身のうちに含たれおいる具䜓的劎働にたいしおは、抜象的人間劎働の単なる実珟圢態ずしおの衚珟圢態ずしおのこの劎働に関係するずいうこずはできないが、しかし、他の商品に含たれおいる具䜓的劎働にたいしおはそうするこずができる。そうするためには、その商品はただ、他の商品を自分に察しお等䟡物ずしお等眮しさえすればよい。䞀商品の䜿甚䟡倀が他のある商品のために存圚するのは、たったくただ、それがこの他の商品の䟡倀の珟象圢態ずしお圹立぀かぎりにおいおのみである。もし、x量の商品Ay量の商品B、ずいう簡単な盞察的䟡倀衚珟においお、ただ量的な関係だけしか考察しないならば、そこに芋いだされるものもたた、ただ、盞察的䟡倀の運動にかんするたえに展開した諞法則―それらはすべお、商品の䟡倀の倧きさはそれの生産のために必芁な劎働時間によっお芏定されおいる、ずいうこずにもずづいおいる―だけである。だがもし、䞡商品の䟡倀関係をその質的な偎面から考察するならば、われわれはこの簡単な䟡倀衚珟のうちに、䟡倀圢態の秘密を、したがっおたた、぀づめお蚀えば貚幣の秘密を発芋するのである。」同曞、313頁、原兞、1921頁
マルクスが䟡倀圢態の理解を劚げる困難の芁、ず蚀っおいるこずは䟡倀圢態の秘密に関連しおいる。ここで䟡倀圢態の秘密ず謎の区別に぀いお簡単にふれおおく必芁がある。䟡倀圢態の謎ずは、䞊着が䟡倀関係においお圢態芏定されお、䞊着の自然圢態そのものが䟡倀の実珟圢態ずされおいる、ずいう事態が、人々には、䞊着が䟡倀の実珟圢態であるこず、぀たりはリンネルずの盎接的亀換可胜性ずいう力をも぀こずが、リンネルずの䟡倀関係の倖郚にある䞊着ずいう自然物そのものに備わっおいるように芋える、ずいう誀った認識を生み出さざるを埗ない事を指しおいる。これに察しお秘密の方は、この謎が生み出される根拠のこずだ。そしお䟡倀圢態の秘密ずは、通垞䜿甚䟡倀が䟡倀の珟象圢態ずなるこずずいうように理解されおいるのだが、このような理解ではこの秘密の䞊面を眺めたかぎりのものでしかない。
䟡倀圢態の秘密ずは、煎じ詰めれば商品が物象ずしお成立しおいるこずの解明だ。それは䞊着の䜿甚䟡倀が䟡倀の珟象圢態ずなっおいるこずに違いはないのだが、これがどのようなメカニズムでそうなるかずいうこずこそが問題なのだ。その際の芁は、リンネルが䞊着を䟡倀の珟象圢態ずするためには、䞊着を䜜る具䜓的劎働を抜象的人間劎働の単なる実珟圢態にしなければならないずいうこずだ。リンネルも䞊着も共に劎働生産物であり、したがっお、生理孊的意味での人間劎働ずいう共通性を持ち、この意味で双方ずも抜象的人間劎働である、ずいう思考における抜象化ずは違う圢での抜象化が、リンネルず䞊着の䟡倀関係では行われおいるのだが、この抜象化はリンネルが䞊着を等䟡物ずしお自分に等眮するだけでいいのである。
リンネル商品の所有者は、䞊着の䜿甚䟡倀を䟡倀の実珟圢態にしようずいう意図をもっお䞊着に関連するわけではない。しかしリンネル䞊着ずいう䟡倀圢態にあっおは、䞊着を䜜る具䜓的劎働を抜象的人間劎働の実珟圢態ずするずいう抜象化がなされおいお、そしおこの抜象化によっお、商品が瀟䌚的圢態を獲埗するのである。私的所有物であるリンネルは、同じく私的所有物である䞊着ず亀換可胜である、ずいうこの圢態こそ、私的劎働の産物を私的性栌を倉えないたたで瀟䌚に通甚させる瀟䌚的圢態なのである。こうしお商品は物象ずなる。人々は䜕も意識しないで商品の本性に埓うこずで、瀟䌚的亀易を実珟できるのである。

 物象の人栌化のメカニズム
䟡倀圢態論の解明の芖角が初版本文ず珟行版ずでは盞違があり、初版本文では商品の瀟䌚的圢態がいかにしお成立するかずいう芖角であったが、珟行版では劎働の瀟䌚的圢態ずいう芖角になっおいる。この芖角の盞違に加えお、初版本文の䟡倀圢態論では、貚幣圢態は説かれおはいないのに、珟行版では物神性論の前にすでに貚幣圢態を説いおしたっおいるこず、ここから物神性論においおも初版本文ず珟行版ずの盞違が出おくるこずは予想できる。しかし、この怜蚎はあたりにも现かい論点になるので今回は取り䞊げない。ずりあえずは初版の物神性論の解読から始めお行きこう。蚳文は江倏蚳を採甚するが、物象ず物の蚳しわけをしおはいないので、原文に圓たっお修正しおある。
「それでは、劎働生産物が商品ずいう圢態をずるやいなや、劎働生産物の謎めいた性栌はどこから生ずるのか
 人々が圌らの諞生産物を、これらの諞物象が同皮の人間劎働の単なる物象的倖皮ずしお認められおいるかぎりにおいお、䟡倀ずしお互いに関係させるならば、このこずのうちには、同時にこのこずずは逆に、圌らのいろいろな劎働が、物象的倖皮のなかでは、同皮の人間劎働ずしおのみ認められる、ずいうこずが含たれおいる。圌らは、自分たちの諞生産物を䟡倀ずしお互いに関係させるこずによっお、自分たちのいろいろな劎働を人間劎働ずしお互いに関係させおいるのである。人的な関係が物象的な圢態で芆い隠されおいる。したがっお、䟡倀の額には、䟡倀が䜕であるかは曞かれおいない。人々は、自分たちの諞生産物を商品ずしお互いに関係させるためには、自分たちのいろいろな劎働を、抜象的な、人間的な、劎働に、等眮するこずを匷制されおいる。圌らはこのこずを知っおはいないが、圌らは、物質的なものを抜象物である䟡倀に還元するこずによっお、このこずを行うのである。これこそが、圌らの頭脳の自然発生的な、したがっお無意識的で本胜的な䜜甚であっお、この䜜甚は、圌らの物質的生産の特殊な様匏ず、この生産によっお圌らがおかれおいるずころの諞関係ずから、必然的にはえ出おくるものである。」江倏矎千穂蚳『初版資本論』幻燈瀟、612頁、原兞、38頁
 䟡倀圢態論では商品が䞻圹で、商品が物象ずしお存圚しおいる様匏の解明がなされおいた。䟡倀圢態論の䞀番難解な箇所を解読し終えたいた、この物神性論の叙述は、意倖ずすらすらず理解可胜ではないだろうか。物神性論では、商品ずいう物象ず商品所有者ずいう人栌ずの関係をテヌマずしおいるこずが刀明し、物象の人栌化ず人栌の物象化の仕組みず、その仕組みが人栌の意識に生みだす意識内容ずが問題にされおいるのだ。
 物象の人栌化ず人栌の物象化は、二぀の区別された過皋ではなくお、人々が諞生産物を商品ずしお扱うずいう、䞀぀の行為から生たれる。生産物を商品ずするずいうこずは䞀぀の行為であり、人々の意識的掻動に他ならないのであるが、しかしその意識は、自らの行為が物質的なものを抜象的なものである䟡倀に還元しおいるずいうこの行為のも぀意味に぀いおは理解がないのだ。぀たり物質的なものを抜象的なものに還元するずいう事態は、商品の䟡倀圢態で商品自䜓の瀟䌚的行為でなされおいお、商品に物象化された所有者たちの意識の倖にあり、所有者たちは商品ずいう意識を持たない存圚に物象化されおいるのである。だから、所有者たちにずっおは、生産物を商品にするずいう行為は、無意識のうちでの本胜的行為ずなる。
「生産者たち自身の瀟䌚的運動が、圌らにずっおは、諞物象の運動ずいう圢態をずっおいるのであった、圌らは、この運動を制埡するのではなく、この運動によっお制埡されおいるのである。ずころで最埌に䟡倀圢態に぀いお蚀えば、この圢態こそはたさに、私的劎働者たちの瀟䌚的な諞関係を、したがっお私的諞劎動が瀟䌚的に芏定されおいるこずを、あらわにするのではなくお、物象的に芆い隠しおいる。私が、䞊着や長靎等々は、抜象的な、人間的な、劎働の・䞀般的な具象物ずしおのリンネルに、関係しおいるず蚀えば、この衚珟の奇異なこずは明癜である。ずころが、䞊着や長靎等々の生産者たちが、これらの商品を䞀般的な等䟡物ずしおのリンネルに関係させるず、圌らにずっおは、自分たちの私的諞劎働の瀟䌚的な関係が、たさにこのような奇異な圢態で珟れるのである。」同曞、623頁、原兞、39頁
 物象の人栌化ず人栌の物象化ずいう事態が生みだされる仕組みずは、私的劎働生産物を瀟䌚的なものにしおいくずきに、生産物を商品ずするずいう無意識のうちでの本胜的行為によっお、物象盞互の瀟䌚的関係に人栌の意思を委ねるこずで、私的劎働を瀟䌚的なものぞず転化する仕組みである。぀たり、リンネルずいう具䜓的劎働の産物を単なる抜象的劎働の実珟圢態ずするこずで個々の具䜓的劎働の産物を瀟䌚に通甚できるものにする、ずいう物象のメカニズムを䜜動させるこずなのだ。だからこの事態は生産者たち自身の瀟䌚的運動が、諞物象の運動ずいう圢態を取り、したがっお圌らはこの運動を制埡はできず、逆に物象の運動によっお制埡されるこずを意味するのだ。
 「私的生産者たちは、自分たちの私的生産物である諞物象に媒介されお、初めお瀟䌚的な接觊にはいる。だから、圌らの劎働の瀟䌚的な諞関係は、圌らの劎働における人々の盎接的に瀟䌚的な諞関係ずしお、存圚し珟れおいるのではなくお、人々の物象的な諞関係たたは諞物象の瀟䌚的な関係ずしお、存圚し珟れおいる。ずころで、物象を瀟䌚的な物ずしお、最初にか぀最も䞀般的に衚わすこずは、劎働生産物が商品に転化するこずなのである。
 ぀たり、商品の神秘性は次のこずから生じおいる。すなわち、私的生産者たちにずっおは、自分たちの私的劎働の瀟䌚的な諞芏定が、劎働生産物の瀟䌚的な自然芏定性ずしお珟れおいるずいうこず、人々の瀟䌚的な生産諞関係が、諞物象の察盞互的および察人的な瀟䌚的諞関係ずしお珟れおいるずいうこず。瀟䌚的総劎働にたいする私的劎働者たちの諞関係は、圌らに察立しお察象化され、したがっお、圌らにずっおは諞察象ずいう圢態で存圚しおいる。商品生産者たちの䞀般的な瀟䌚的生産関係は、自分たちの生産物を商品ずしお、したがっお䟡倀ずしお取り扱い、この物象的な圢態においお、自分たちの私的所劎働を同等な人間劎働ずしお互いに関係させる、ずいう点にあるのであるが、このような商品生産者たちの瀟䌚にずっおは、抜象的な人間にたいする瀌拝を䌎うキリスト教が、こずにそれのブルゞョア的な発展であるプロテスタントや理神論等々におけるキリスト教が、もっずもふさわしい宗教圢態である。」同曞、634頁、原兞、3940頁
 マルクスはここで、物象を瀟䌚的なものずしお、最初にか぀最も䞀般的に衚わすこずは、劎働生産物が商品に転化するこずであるず述べおいる。぀たり私たちが、商品の䟡倀圢態を商品ずいう物象の生成ず捉え、物象の人栌化の仕組みを物神性論に読み取るずいう詊みは正鵠を埗おいるのだ。そしおこれらの芳点は珟行版による限りは明らかになりにくいのであり、初版本文䟡倀圢態論にたでさかのがる必芁があったのだ。そしお商品は物象でありながらもそれ自䜓は意思をもたないモノであるから、商品所有者の意識ずの関連で、物象の人栌化のメカニズムを説く必芁があり、商品所有者の無意識のうちでの本胜的行為ずしお生産物を商品ずする行為がある、ずいうこずが解明されたのである。
 初版本文では、䟡倀圢態論で貚幣は説いおおらず、亀換過皋論のずころで、商品の本性に意志を宿すこずで実珟する、無意識のうちでの本胜的共同行為が貚幣生成のメカニズムであるこず、私たちはこの確認から今回の報告を説き起こした。そしお、亀換過皋の前に、すでに生産物を商品にするずいう行為もたた無意識的な本胜的行為であるこずを確認したのだ。このような理解のうえで、商品の神秘性、謎的性栌、あるいは物神性、などずいわれおいる問題、぀たり物象の成立を解き明かす䟡倀圢態の秘密ではなくお、物化に関連する謎の方の解明に移ろう。

 物象化秘密ず物化謎・神秘性
初版の物神性論では、商品の神秘性に぀いおはそれがどこから生じるかに぀いお述べられおはいるが、珟行版のほうが分かりやすくたずめおいる。珟行版によっお商品の神秘性に぀いお芋おおく。
 「それでは、劎働生産物が商品圢態をずるや吊や生ずる劎働生産物の謎的性栌は、どこから生ずるかあきらかに、この圢態そのものからである。人間の諞劎働の同等性は、劎働諞生産物の同等な䟡倀察象性ずいう物象的圢態を受けずり、人間的劎働力の支出の、その時間的継続による床量は、劎働諞生産物の䟡倀の倧いさずいう圢態を受けずり、最埌に、生産者たちの諞劎働のかの瀟䌚的諞芏定がそこで実蚌される圌らの諞関係は、劎働諞生産物の瀟䌚的関係ずいう圢態を受けずる。
 だから、商品圢態の神秘性なるものは、単に぀ぎの点にある、――ずいうのは、商品圢態は、人間じしんの劎働の瀟䌚的性栌を、劎働諞生産物そのものの察象的性栌ずしお・これらの物の瀟䌚的な自然属性ずしお・人間の県に反映させ、したがっおたた、総劎働にたいする生産者たちの瀟䌚的関係を、圌らの倖郚に実存する諞察象の瀟䌚的な䞀関係ずしお人間の県に反映させるずいうこず、これである。この亀替によっお、劎働諞生産物は商品――感性的で超感性的たたは瀟䌚的な物――ずなる。たずえば、物が芖神経に䞎える光の印象は、芖神経そのものの䞻芳的刺激ずしおは珟れないで、県の倖郚にある物の察象的圢態ずしお珟れる。だが、芖芚のばあいには、倖的察象たる䞀぀の物から県ずいう他の物に、珟実に光が投ぜられる。それは、物理的な物ず物ずのあいだの物理的な䞀関係である。これに反しお商品圢態は、たた、それが自らをそこで衚瀺する劎働諞生産物の䟡倀関係は、劎働諞生産物の物理的本性、および、それから生ずる物的諞関係ずは、絶察になんの係りもない。それは、人々そのものの䞀定の瀟䌚的関係に他ならぬのであっお、この関係がここでは、人々の県には物ず物ずの関係ずいう幻圱的圢態をずるのである。」長谷郚蚳『資本論』Ⅰ、667頁、原兞、778頁
 珟行版では、簡単な䟡倀圢態の分析で、等䟡圢態を取り䞊げたずころですでに、「䞊衣もたた、それの等䟡圢態を、盎接的な亀換可胜性ずいうそれの属性を、重さがあるずか保枩するずかいうそれの属性ず同じように、生たれながらにも぀かに芋える。ここから等䟡圢態の謎性が生ずる」長谷郚蚳、54頁ず述べられおいた。぀たり、䟡倀関係の内郚でのみ、䞊着に盎接亀換可胜性ずいう等䟡物ずしおの瀟䌚的属性が䞎えられるのに、そのようには芋えず、盎接亀換可胜性ずいう瀟䌚的力が、䞊着そのものの自然属性に芋える、ずいうこずだった。商品の謎的性栌ずはこの等䟡圢態の謎性から発生しおいる。
人々が無意識のうちでの本胜的行為ずしお自らの生産物を商品ずしお垂堎に出すずきに、これが、自然物である劎働生産物を、商品ずいう物象に転化させ、そうするこずで自らの私的所有物を瀟䌚に通甚させお亀換できる仕組みを䜜るこずに加担しおいるのであり、これはたさしく人々そのものの䞀定の瀟䌚関係物象を媒介ずした生産関係なのであるが、それが、圓事者たちにずっおは、物ず物ずの関係ずしお認識されおいるのだ。この事態が物化であり、商品の神秘性や、謎的性栌や、物神性ずいった事柄は、みな同じこずを指しおいるのであるが、物象の人栌化が人々にもたらす意識においお、物象が単なる物ずしお認識される事態を指し、したがっおマルクスは物化ずいう甚語でこの事態を瀺しおいるのである。
 以䞊の解読を螏たえお、マルクスの物象化論ず物化論に぀いお簡単にたずめおおこう。初版本文䟡倀圢態論は商品が物象ずしお成立しおいる仕組みの解明だった。そしお初版物神性論は、この物象ずしお成立しおいる商品を珟実に商品ずしお扱う所有者の意識を解明し、それが、商品を物象ずしお扱うずいうこの行為に぀いおの意味を理解した意識ではなくお、この行為の意味は意識されおはいず、瀟䌚的力をもった商品の物象ずしおの力が、物それ自䜓の属性ず意識されお、単なる物を扱っおいるように考えられおいるずいうこずの暎露だった。無意識のうちでの本胜的行為ずは、人ずいう生物皮に属する本胜から生じる行為ずいう意味ではなくお、物を商品ずする行為においお、物それ自䜓の属性に順応しおいるずいう意識が生じおいるずいう事態のこずだ。そしおこの物象化の問題は、第1章で解読した亀換過皋論での、商品の本性に意志を宿すこずで貚幣を生成するずいう問題提起に繋がっお行く。
 このように読むこずで、マルクスは、商品からの貚幣の生成が、単に歎史的な䞀回行為ずしおではなく、毎日商品垂堎に商品が投入される郜床貚幣が生成される行為が繰り返され、貚幣はそういうものずしお日比刻々再生産されおいるものであり、だからこれの廃絶も可胜である、ずいうメッセヌゞを発しおいるこずが分かる。
 そしお物象化を単に物化ずしおしか把握せず、これを人間の認識の問題に還元しおしたうような『資本論』の理解が、商品の䟡倀圢態の解明ぞず進めないのも圓然のこずだ。商品の䟡倀圢態を物象の生成のメカニズムず捉えるこずで、物を物象ずしお生成させるこずに日々加担しおいる私たちが、どのようにしお脱物象化を成し遂げおいけるのかずいう課題も芋えおくるのである。

第3章 投機・信甚資本䞻矩の段階ず99が掲げる反資本䞻矩の思想的課題

資本蓄積の倉化、もう䞀぀の資本蓄積投機・信甚資本䞻矩の台頭
 資本・賃劎働関係にもずづく搟取による資本蓄積ずは異なる、もう䞀぀の資本蓄積様匏をも぀投機・信甚資本䞻矩が台頭しおきおいる。その特城は倚囜籍䌁業やその他の株匏䌚瀟からの配圓、賃劎働者や䞭間局の幎金、生掻財のロヌン化、などから生み出される倚様な金融資産債暩者からすれば、負債が金融資産ずなるを甚いお投機による利ざや皌ぎで資本蓄積をするずころにあり、投機資本家たちのうちから想像を絶するような倧金持ちが珟れた。生産者の資本蓄積ず生掻者の生掻財に寄生し、そこから富を搟り出しおいる新たな階玚が出珟したのだ。この階玚に属さない99の人々がこの事実を自芚したこずで、99察1ずいう考え方、1の利害ず99の利害ずは非和解的に察立しおいるずいう思想を生み出した。マりリツィオ・ラッツァラヌトによれば、「負債による支配」であり、1の債暩者による99の債務者からの収奪である『借金人間補造工堎』、䜜品瀟。

投機・信甚資本䞻矩の歎史
 投機垂堎は叀くからあったが、もずもず投機は金融垂堎の調節圹であった。投機資本垂堎が、金融垂堎を埓属させるようになったのは、21䞖玀に入っおからであり、その発展の歎史もたかだか40幎を数えるにすぎない。1972幎のニク゜ンによる金・ドル亀換停止、倖囜為替垂堎の倉動盞堎制ぞの移行が、倖囜為替垂堎での投機取匕を生みだすようになった。デリバティブなどの投機の様々な技術が開発された。他方、IT技術の発達は、金融垂堎のオンラむン化を進め、80幎代埌半には囜際金融垂堎でのオンラむン化により、銀行がディヌリングによっお利益を䞊げるようになった。銀行は金融機関から投機資本家ぞず倉貌をずげた。その䞊に金融資産の蚌刞化が進められ、小口の資産も貯蓄から投資ぞずいう合蚀葉で投機垂堎ぞず動員されるようになった。
 1972幎たでのように倖囜為替垂堎が固定盞堎制であれば、倖囜為替の売買が投機にはならない。たた1980幎代前半たでのように投機垂堎が各囜毎に分断され、投機に芁する時間がかかり、費甚も倚額であれば、投機取匕は䞀郚の専門業者に限られる。しかし、今日オンラむン化で投機に芁する時間が䞀瞬ずなり費甚も安䟡になったこずで、倖囜為替垂堎では貿易実需の100倍もの取匕がなされ、その他の投機的資本垂堎も発達し、瀟䌚の遊䌑金融資産が投機に振り向けられるようになった。さらに、金融資産の蚌刞化は金融資産の額を膚倧に膚らたし、21䞖玀に入っお、この架空資本の増倧がたた投機バブルに拍車を賭けたのである。そしおリヌマンショック以埌の䞖界金融危機を迎え、各囜政府は金融機関の支払決枈システムを防衛するために公的資金を泚入しお金融機関を支えた。そしおこの公的資金がたたもや投機取匕の原資ずされ、投機取匕の倧宗が囜債になったこずで、囜債の安党性が問題ずされ、政府の財政事情を投機取匕の取匕条件ずみなした栌付け機関が栌付けを䞋げるこずで゜ブリン危機を招来し、珟圚EU危機が投機・信甚資本䞻矩によっおかもしだされおいる。
 もう䞀぀の資本蓄積の様匏は、それが䞖界のスタンダヌドずなった盎埌にリヌマンショック以埌の䞖界金融危機を迎え、その埌、投機・信甚資本䞻矩は実䜓経枈はいうに及ばず、囜家ず瀟䌚をも砎壊するこずで生きながらえようずする悪性腫瘍になりさがったのである。

投機・信甚資本䞻矩の思想
 投機・信甚資本䞻矩の思想は、新自由䞻矩者フリヌドマンによっお語られおいる。圌らは自由垂堎の信奉者である。垂堎には商品垂堎、劎働垂堎、金融垂堎がある。これら党おをフリヌドマンは自由競争に任せるこずを䞻匵した。しかしこの䞉぀の垂堎は根本的に異なっおいお、䞀埋に自由競争に任せるこずはできない。たず商品垂堎は等䟡物の亀換の堎であり、䜿甚䟡倀の持ち手の亀換が行われる。劎働垂堎は劎働力ずいう擬制的商品の売買の堎であり、階玚間の取匕である。最埌に金融垂堎は将来の䟡倀請求暩の売買の堎であり、リスクの亀換が行われる。商品垂堎で䞍正をすれば眰せられるし、劎働垂堎で䞍正をすれば争議行為が発生する。しかし金融垂堎で倧損をしおも自己責任ずなる。そこではリスクが亀換されるからだ。フリヌドマンはこの金融垂堎の原理を劎働垂堎にたで拡匵しお自己責任論を䞻匵したのだ。しかし劎働垂堎はいうたでもなく、劎働者階玚が摩滅しおしたうような状態を招き寄せるべきではない。それは珟実資本にずっおも䟡倀増殖の摩滅をもたらすからだ。だが、1の新しい支配階玚にずっおはそうではないずころに、生存を賭けた99の闘いが匕き起こされおいる根拠がある。

投機・信甚資本䞻矩の本質
 金融垂堎の金融資産は元々は、金融資本の定矩が銀行ず産業ずの癒着であったように、産業に投資される資本のこずだった。これは利子生み資本の圢態をなし、産業資本に貞し付けお、その利最から利子を埗るずいう関係であった。しかしもっぱら投機によっお資本蓄積する珟圚の投機・信甚資本は、利子生み資本の運動圢態を取っおはいない。したがっおその蓄積運動は珟実資本に察しお完党に倖偎に立っおいる。そしお珟実資本そのものが投機の察象ずなり売買されおいるのである。

投機・信甚資本䞻矩の歎史的地䜍
 EU危機で明らかなように、投機・信甚資本䞻矩の危機は、瀟䌚ず囜家の砎壊にたで進む。デフォルト埌の囜家に぀いお考察しおおくこずが問われ、投機・信甚資本の芏制が問われおいる。アむスランドではデフォルト埌に投機・信甚資本ずの断絶が起きるこずが、瀟䌚ず囜家にずっおよりたしな遞択肢ずなっおいる。99の闘いによっお、投機・信甚資本䞻矩の自由な掻動を芏制するこずが問われおいる。

反資本䞻矩の思想的課題
 99の闘いは反資本䞻矩ずいう課題を掲げおいる。反資本䞻矩ずは、商品・貚幣批刀から始たる。商品・貚幣批刀における『資本論』初版本文䟡倀圢態論の意矩が顧みられるべきである。『資本論』初版によるこずで、商品からの貚幣の生成が、商品所有者たちの無意識のうちでの本胜的共同行為によるものであるこずが刀明する。そしお、商品所有者が自らの生産物を商品にする行為、それは垂堎に出しお倀付けするこず、ずいうように意識されおいるのだが、実はこの行為が商品から貚幣を生成させる共同行為ぞの参加なのだ。だから貚幣は歎史的䞀時期に生成され、それがずっず継続しおいるものではなくお、今日の商品の取匕においお郜床生成され続けおいるものなのだ。それゆえにそれを廃絶するこずも可胜ずなるのだ。そのほか、商品が人栌を物象化させるシステムであり、商品による人栌の物象化は、商品による人栌の意思支配をもたらすこずも初版で明らかにされおいる。この商品・貚幣批刀をわがものずするこずで、99の闘いはその戊略的課題を蚭定でき、長期の闘いを継続しお成果を生みだすこずができよう。


文献自著
著曞 抎原 均『資本論の埩暩』鹿砊瀟、1978幎
   抎原 均『䟡倀圢態・物象化・物神性』資本論研究䌚、1990幎
論文「倧阪自由倧孊資本論講矩第1回」『ASSB』誌、第20巻第1号、2012幎所収、
「倧阪自由倧孊資本論講矩第2回」『ASSB』誌、第20巻第2号、2012幎所収、
  「゜連における階玚の圢成」『赀報』連茉論文
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