　吉川元忠の『マネー敗戦』（文春新書）の問題意識は、世界最大の債権国である日本が、90年代に入って何故経済危機にあえいでいるのか、という問題を「日米マネー戦争」という見地から検討するところにある。吉川によれば、この「『戦争』の意味を明確に意識していたのは、おそらくマネー経済優位の世界をつくり出そうとしていたアメリカ側だけであったろう。筆者の見るところ、日本の政策当局には、もともとマネー戦略と言う発想がなかった。そこに今日の苦境を招いた根本的な原因があった」（9頁）ということなのだ。
　吉川は、日本が保有する対外純資産の額は97年末で約8900億ドルで、GDPのほぼ2割に相当し、他方、アメリカは同時期に1兆3200億ドルというGDPの2割に相当する世界最大の対外純債務を抱えているという事実をあげて、次のように述べている。

「世界最大の債権国が経済危機に陥り、その債権国に膨大な債務を負う世界最大の債務国が、長期にわたる好景気を体験する?これは少なくともこれまでの国際経済の常識を逸脱した現象である。そこには何か経済的合理性とは別個の要因が作用していたとみるしかない。」（10頁）

　吉川はこの要因を、ドルという通貨が事実上の基軸通貨でありながら、アメリカ一国の経済政策と分かちがたく連動し、その意向を反映した価値の変動をほしいままにしている、という現実に求めている。この現実のわかりやすい例として、吉川は、80年代初めから、生保などの機関投資家を主力とするジャパン・マネーが、アメリカの国債の形で買いまくったドル資産が、85年以降の円高ドル安によって、円に換算したとき大きく減価してしまったことを上げている。80年代前半のアメリカの長期国債をそのまま保有しておれば、95年4月の円高のピーク時には、約7割も価値を失い、95年以降の相対的ドル高の期間においてさえ、4割も減価している計算になる、というわけだ。「為替差損と一言で片づけるにはあまりに巨額な国富の消失。これがポスト・バブル時代の日本経済に、いかに重いデフレ圧力となったかは説明するまでもない。日本の保有するアメリカの国債こそは、ある意味で究極の不良資産といえるのではあるまいか。」（11頁）
　吉川の説は単純明解である。まずマネー大国の興亡の歴史からマネー循環のモデルをつくり、それが1970年代半ばまでのアメリカにも妥当していたが、85年のプラザ合意以降、日本がマネー大国となることで、マネー循環にねじれが見られるようになり、このねじれは日本側のマネー敗戦の帰結だった、というのだ。

2）マネー大国の興亡

　吉川は国際経済学で通説化されているマネー大国興亡のモデルについて次のようにまとめている。

「外国資本の流入で工業化を推進していた経常赤字国は、経営収支の黒字化とともに債務の返済を始め、いずれ返済し終えたあとは未成熟の債権国となる。やがて年を追うごとに増加する経常黒字がそのまま資本流出に結びつき、やがては成熟債権国の段階にいたる。しかし成熟期は永遠には続かず、ピークを過ぎると、その後は経常収支の赤字化などによって債権をとりくずすようになる。
　債権がとりくずされ、成熟債権国の看板を降ろしたあとはどうなるのか。おそらくは債権小国として生き残る道が想定されているのであろう。」（90頁）

　もちろん、このモデルは単純化されていて、最初のマネー大国であったイギリスにも妥当しているとはいえないが、しかし、イギリスがマネー大国の座をアメリカにゆずることで、50年代から60年代にかけては、アメリカを中心としたマネー循環が見られていた。ところが、吉川は、アメリカが債権国から債務国へ転落し、日本が世界一の債権国になる、ということで、債権国の交替があったにもかかわらず、あいかわらずアメリカがマネー大国としてねじれた形でのマネー循環をつくりだしている、と言う点に注意をうながしている。

「80年代にはこの資本の流れが大きくねじれ、やがて覇権国のマネーのふるまいとは似ても似つかぬ姿に変質する。その結果姿を現した新しい資本循環の回路に、いつの間にか組み入れられていたのが日本であった。」（30頁）

　吉川によれば、こうなったのも、日本が中心的債権国となりながらも、資本流出をドル建てで行っていたことに原因があるのだが、それにしてもマネー大国であるアメリカが、対外純資産の最大を記録した81年からたった数年で債務国に転化し、あれよあれよ、という間に世界最大の債務国になったという裏面と合わせて考察しなければならないだろう。

3）マネ－敗戦の軌跡

　吉川はマネ－敗戦の端緒を80年代初頭のジャパンマネ－による大規模な対米直接投資に見ている。レ－ガン政権発足時1ドル200円だったのが84年には250円にまで切り上がった。レ－ガン政権の強いドル政策が功を奏したかに見えたが、吉川はこのドル高は、ジャパン・マネーが集中的にドル買いに向かった結果であって、決してアメリカの経済の経常収支の赤字が改善されたわけではなかったと見ている。

「アメリカという国に現実に赤字、あるいはそれを反映した経常収支の赤字拡大があるのに、ドル高が続いたのは、まったく別の理由による資本流入があったからである。すでに述べたように、その流入した資金の主力はアメリカの国債購入などに動いたジャパン・マネーである。そしてその正体はほかでもない、日本が対米貿易を中心にして手にした膨大な貿易黒字、経常黒字であった。これがドルを買い支え、為替レートをねじ曲げていた。マネー敗戦の端緒となる日本側の誤った第一歩は、80年代のはじめに、このようにして踏み出されたのである。」（43頁）

　吉川はひきつづいて日本が貿易黒字で得たカネをアメリカに注ぎ、それによってアメリカは日本からの輸入を増大させる、といった奇妙なカネの流れが何故おきたのか、と問い、その要因の一として、アメリカの高金利をあげている。82年のメキシコ債務危機以降金利は低下したが、今度はドル高への期待が対米投資の魅力となっていったと吉川は述べている。このような状況のなかで、レーガン政権は、双子の赤字を国債発行でファイナンスし、この国債を日本の機関投資家が争って購入した。日本のアメリカ国債購入総額は、76年の1億9700万ドルから、10年後の86年4月には、1380億ドルに達していた。
　吉川は、80年代前半の5年間は、アメリカの債務国への転落と、日本の大債権国化が起き、中心的債権国の交代がなされたにもかかわらず、この過程はきわめてスムーズに進行したように見えるとし、その要因を日米両国が対ソ冷戦下で「まことに奇妙な共同幻想にとらわれていた」（50頁）ことをあげている。
　それはともかく、85年の時点でアメリカの対外純債務が1000億ドル、しかも10％という高金利であったから、翌年には100億ドルの利子となり、債務と金利が雪ダルマ式に増殖すれば5年後に1兆ドルにまで達するだろうという推算もなされていて、これは高金利下で債務の自己増殖に悩む途上国のパターンだった。他方、日本に対しては金利ただ乗り論という批判が出かねないような状態だった。ところがプラザ合意以降の急激なドル安の進行によって、中心的債務国の日本は膨大な為替差損によって対米資産の価値を目減りさせていったのだった。

「80年代の初めから日米間の金利差やドル高の趨勢を誘因として、膨大なジャパン・マネーがアメリカに流入したが、急激な円高・ドル安で、それら日本のドル資産は四割も価値を失ってしまった。アメリカ国債を買いまくった生保などの機関投資家、証券会社の勧めるままにそれを購入した個人投資家に、巨大な為替差損が発生したのである。ドルの急激な減価は、日本がドル債を積み上げたところを見定めたようにやってきた。」（70～1頁）

　このようになった原因は、「中心的債権国」となった日本が対米投資をドル建てで行っていたからだった。「大規模な資本の流入が、流入国の通貨建てで行われるという例は、歴史的にも、また現代の国際社会の常識に照らしても、珍しい現象だといってよいだろう。」（71頁）日本は「中心的債権国」となったものの、基軸通貨をもてなかった。

「アメリカは、為替市場をドル安へ誘導することによって、ストック面においては、日本の保有するドル資産の価値をそぎ、モノ経済の面では、次章で詳しく見るように、輸出産業の競争力を増大させることができる。機軸通貨・ドルの魔術というべきであろう。」（73頁）

　ところが、こうした事態が予測されるようになって以降も、日本の機関投資家によるアメリカ国債の取得は続けられていた。その原因として、吉川は、プラザ合意後のドルの下げを、日本の当局者が200円前後までと読んでいたことをあげている。しかし、ドルが120円にまで落ち込んだ後の88、9年にも、再びアメリカ国債への投資が増えているのだ。この原因について、吉川は、大蔵省の行政指導もさることながら、バブルの含み益がバッファ（緩衝装置）となったと指摘している。

「購入継続をもたらしたのは、じつは金利差そのものより、低金利政策がもたらした価格・地価の急騰、それによる膨大な含み益であった。これが機関投資家にとって為替差損への隠れた緩衝装置となっていたのである。」（83～4頁）

　吉川は、金融法人が87年からの3年間に株式などであげた評価益は205兆円、当時のドル換算で1兆5000億ドルに達していて、これが為替差損を補ったとみている。
　それとともに、80年代の10年間のドル建ての対米投資によって、日米一蓮托生の経済構造が出来上がった。というのも、80年代前半の対米投資が、それなりに資産の最適運用をめざしていたのに対し、後半の対米投資は、対米資金供給を是とする「国策」に、民間資金が協力したという性格が色濃く現れていたからだった。

「日本側にとって、いったん深く足を踏み入れた以上、米国の経常収支赤字が続く限り、日本がこれを埋め続けなければ、ドルの暴落を引き起こす危険性がある。ドルが暴落すれば、それまでに投資され、ドルに姿を変えたジャパン・マネーはさらに大幅に減価する。そうならないようにと、ドル債投資を続けることが唯一の方策となってしまった。」（87頁）

　吉川は、日本で政策当局が、ウォール街を守る、という立場にとらわれて、独自の構想でもって国益を追求するという発想をもてなくなってしまった例として、87年のブラックマンデーに対する日本の金融当局の対応をあげている。吉川によれば、87年のアメリカは、経常赤字を続け、常に海外から資本の流入を必要としていた。流入が必ずしも保証されたものでない以上、ブラックマンデーもアメリカの金融・証券市場が内包する不安定性の一部と見るべきだった。だからドルが不安定であるからこそ、なるべくその影響を受けないようにする、というのが各国政府の考え方なのに、日本の金融政策当局は、「不安定性があるからこそ、ウォール街を安定させることは、国際政策協調の精神に沿った『債権国・日本の責務』でもあると言う具合に考えた」（89頁）のだった。
　日本が他にどういう道をとり得たか、これについて後知恵で色々考えても仕方がないが、日本が世界最大の債権国になったときに、世界最大の債務国アメリカの金融市場の安定を保証しようとアメリカ国債に投資した、これがどのような事態をもたらしたのか、節をあらためて、吉川の説を紹介していこう。

4）新しいマネー循環

　80年代後半のバブル期には、ドル安によるアメリカ国債への投資の為替差損があったとしても、株と不動産価格の上昇による含み益が、機関投資家によって為替差損の緩衝装置となっていた。ところが、80年代後半に、海外進出していた日本のメガバンクが預金高で世界のトップに登りつめたことで、アメリカ、西欧の金融機関との激しい競争と闘争が繰り広げられることになり、BISS規制や日米構造協議で、グローバル・スタンダードによるバブル潰しの外圧に直面して、日本政府自体がバブル潰しへと方向転換し、90年代初頭にこれを崩壊させたことにより、為替差損に対する緩衝装置を失った。吉川は次のように述べている。

「バブル崩壊後の、日本の対外資金収支の変化を概観しておこう。
　それまでの日本は、増大した経常黒字に、さらにドル資金調達を加え、その黒字幅を上回る長期資本収支の赤字を計上。アメリカを中心に据えた対外マネー供給を行ってきた。このパターンは、ブラックマンデーの87年には若干動揺したものの、80年代後半を通じて基本的には維持されてきたと言える。
　ところが、バブルの決定的崩壊が始まった90年代には、このパターンが大きく変わった。この年は、経常黒字が85～89年の年平均720億ドルから360億ドルへとほぼ半減するなかで、長期資本収支の赤字もこれをやや上回る440億ドル前後と、以前にくらべ約4割という水準に急減している。」（124頁）

　ジャパン・マネーがバブル崩壊後、アメリカへの投資の先細りとなるなかで、アメリカは93年頃から、ジャパン・マネーの肩代わりを、インド、マレーシア、ブラジル、といった、アジア、中南米諸国の中央銀行からの投資に求めた。

「形のうえでは、かっての日本に新興国が入れ替わった恰好になっているが、こうしたアジア・マネーは、それが中央銀行の投資行動であっても、あくまでもドルを支えようといった使命感とは無縁で、むしろドルの反動に応じた機敏な動きが特徴である。したがって、対米証券投資も、かってのジャパン・マネーとは違って、長期の安定的な投資ではなく、アメリカは、対外マネー収支において、この段階では、決して安定した基盤のうえにたち帰ったとはいえなかった。」（127ページ）

　93年に成立したクリントン政権は、このアメリカの金融の不安定性が、ドル・株の暴落をもたらさないようにしつつ、日本に対しては円高ドル安の政策をとり、日本の製造業の力をそぐ方向に出た。アメリカの製造業はドル安の追い風で復活し、そして、90年代後半からは、アメリカでのバブルが始まっていく。吉川はアメリカの株価の上昇のメカニズムについて、次のように述べている。

「94年末から96年8月までの1年8ヶ月の間に、米国民は国債保有を1000億ドル以上も純減させ、一方、株式投信向けに2000億ドル以上を純増させているが、これは外国の中央銀行などがアメリカ人の国債売却を肩代わりし、保有比率を上昇させてきた結果である。
　85、86年以降、ドル安に対抗するためのドル買い介入を原因とする外国人の米国国債保有比率は、上昇の一途をたどってきた。96年8月末には発行残高（米政府機関による保有分を除く）の三割、1兆ドルにも達している。このように、外国人による、アメリカの対外債務にも匹敵するほどの米国債保有が、結局はアメリカ全体としての株式シフトをもたらし、株価の上昇を継続させる構造的要因となったのである。」（143頁）

　クリントン政権は、95年にルービンを財務長官に就任させ、ウォール街の防衛のためのドル高政策を採用した。「このようにして10年に及ぶ趨勢的円高の時代は終わりを迎えることになった。降って沸いた相対的内容は、ドル資産の価値を少々戻し、　　　に幾ばくかの競争力を付与したかもしれないが、国内消費の低迷には何ら有効打とはなり得なかった。巨額の不良債権を抱え、長年の円高攻勢で体力を疲弊させた日本経済にとっては、むしろ株安と連動する悪循環を招く結果になってしまった。」（158頁）
　しかも円安になっているにもかかわらず、95年に日銀が公定歩合を0.5％に引き下げたため、国民経済から金利収入を奪ったうえに、余剰資金は、アメリカ国債の買いに向かわざるを得なくなっていた。96年に入ると、再びジャパン・マネーのアメリカへの流入が起きてくる。

「世界最大の経常赤字を続けている国が、異常な低金利という日本側の『自滅』にもたすけられて、赤字をはるかに上回る規模の外国資金を引き寄せ、結局は、これを原資として巨額の対外投資を行う。アメリカはふたたび『帝国』として世界マネー移動の中心軸を形成することになった。」（162頁）

　つまり、アメリカは、あたかも商業銀行のように、アメリカ国債に投資したジャパン・マネーを原資に対外投資を行い、利ざやを稼ぐようになったのだ。

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Author: admin Published: 2006/1/5 Read 4761 times

良書を読む 吉川元忠『マネー敗戦』

1）マネー敗戦ということ

2）マネー大国の興亡

3）マネ－敗戦の軌跡

4）新しいマネー循環

良書を読む　吉川元忠『マネー敗戦』