　へーゲルの弁証法は、転倒されるべきだと述べたマルクスに従って、ヘーゲル弁証法を転倒しようとする努力を重ねた人たちが大勢いる。主として、弁証法的唯物論や史的唯物論の立場から転倒が試みられているのだが、これらの人たちに共通しているものは、ヘーゲルが論理学の対象としている意識を、ヘーゲルがどのようなものとして措定しているか、ということについての無理解である。
　たとえば、最もヘーゲルに内在していると考えられる見田石介は、晩年の講義（『ヘーゲル大論理学研究』1.大月書店）で次のように述べている。

「有・無のなかへはいりましょう。ヘーゲルが有から無へ、無から成へゆくときのゆきかたは、まったくこじつけだと思います。」（62頁）

　見田は、マルクスが商品を分析して、使用価値と価値をとりだし、後に、両方を綜合したことをひきあいに出して、成こそが現実的な、あらゆる運動の真理であって、有と無との抽象的な一致の方は、主観的に言えるだけで、有や無から成をみちびけない、と主張している。つまり、まず成の概念から出発して有と無を導き出したわけであり、それを思考の上で成を組たてていくプロセスと見れば合理的だが、有自身が発展して成となることはありえない、というわけである。
　このような批判は、ヘーゲルの有論や本質論を、ヘーゲル自身が「客観的論理学」と呼んでいることもあって、対象として存在しているものの論理を展開していると決め込んでいることにもとづいている。
　もちろん見田は「有とは、人間が頭脳でおこなった抽象の産物」（44頁）であることは認めているが、この有がヘーゲルのように概念の自己展開として論じられ、それが実は現実でもあるのだ、といった論じ方を退けて、成の構成要素として、有と無を捉えようと提案している。しかし、有が人間の頭の中のもの、つまり意識であることを認めるのならば、ヘーゲルが意識をどのようなものと捉えていたか、ということの把握なしにヘーゲルを批判しても、不毛な批判にしかなり得ない。
　ヘーゲル自身、『大論理学』の有論の冒頭で「学は何を端初としなければならないか」という有名な導入部を書いているが、そこでは最初のカテゴリーである有（存在）について次のように述べている。

「存在（有）を端緒にするという、ちょうどいまさきに述べられた第一の叙述では、知の概念が前提されている。したがってこの端初は絶対的ではなく、意識の先行する運動に由来する。知がそこから成果として出てくるこの運動の学が、いまや絶対的端初をもたなければなるまい。この学は直接的意識、すなわち或るものが存在するという知を端初とする。――〔或るものが存在するという場合のその〕存在が、こうしてここでも同様に端初をなしているが、しかしそれは意識という具体的形態の規定として〔の存在〕である。純粋知が、すなわち意識というその現象から解放されている精神がはじめて、自由な純粋存在を実際にまたその端初としてもつのである。――そして直接的意識というあの端初は、端的に他なるものへと関係づけられたものとしての自我を含んでおり、また逆に、自我へと関係づけられた対象を含んでいる。したがって一つの媒介を含んでいる。」（寺沢訳『大論理学』I.以文社、74頁）

　ここでヘーゲルは、論理学の始まりに置かれている有（存在）が直接的意識という意識形態にある知であると説明している。そして、この意識形態は当然にも、対象と関係づけられたものとしての自我と、自我に関係づけられた対象、つまりは意識のうちに取り込まれ、意識の契機とされている自我と対象とを含んでいるのである。
　だから、見田が有から無、無から成へと移行するのはこじつけだと批判するとき、ヘーゲルが有のうちに、自我と対象という媒介を含ませていることを理解していないからなのだ。ヘーゲルが有論で言いたかったことを解説すると次のようになろう。
　有（存在）という規定は、なるほど対象についての意識ではあるが、しかしそれは何の規定もない（無規定な）自我による直感作用の帰結であって、それは全く無内容な思考作用であるから、有は無以上でも無以下でもない。
　次に無は、それ自身のうちに区別をもたないが、有がなにものかが直感または思考されたものに比べ、何ものも直感または思考されないという無は、一つの意味をもつが、無内容な思考作用である、という点では無は有と同一である。
　有と無という二つの意識が同一であるということは、有が無に、無が有にそれぞれ消失している、ということを意味している。だから思考作用によって真なるものは、一方が他方のなかで直接に消失するというこの運動、すなわち成である。
　このように、ヘーゲルは思考作用における弁証法を展開しているわけだから、有が無に移行し、そして双方を綜合した成が、有から無へ移行することにもとづいて形成されてゆくと考えることは、こじつけでも何でもなく、まさに思考はそのように推移していくものなのだ。

2）島崎隆の場合

　ヘーゲルにあっては、論理学は思考作用についての学であるにもかかわらず、それを対象そのものの論理として読もうとする人達が後を絶たない。たとえば『ヘーゲル用語辞典』（未来社）の有―無―成の項目は、島崎隆が執筆しているが、そこでは端初（始元）の存在（有）について、次のように述べられている。

「始元としての『純粋有』はまったく無内容で、純粋な、ただ有るというだけの事態を表現する。」（79頁）

　このように島崎は、ヘーゲルが有という意識を問題にしているところに、対象的なものの方にこの規定を内属させ、そこに「有るというだけの事態」が表現されていると捉えてしまうのである。このよな捉え方は、島崎が自らの思考をヘーゲルが『精神現象学』で述べた、有る物をただ受けとる知覚のレベルでしかしようしていないことにもとづいているとみなせないだろうか。というのも、島崎は、対象についての意識の規定をそのまま、対象自身の規定と同一視しているからだ。そうするのではなく、有というのは、意識のうちにとり込まれた対象についての規定であり、それ自身思考作用なのだ。このように捉えることではじめて、意識は単なる知覚ではなく、理性として働くことができるのであり、思考作用における弁証法を展開することが可能になったのだ。
　自からの思考を、ヘーゲルが『精神現象学』で述べている知覚のレベルでしか働かせていない、ということは、島崎の次のような有論についての評価をみると、一層はっきりする。

「だが、〈有―無―成〉の展開は悪い意味での概念の自己展開の見本とされてきた。よく考えると、この叙述に先立って、じつは成の表象を分析し、その構成要素として有と無を取り出していたという、ヘーゲル自身の研究の過程がある。概念相互に自己展開があるようにみえることは周到な研究の賜物であり、概念の展開の原動力は究極的には事物それ自身の行う運動に由来するといえよう。」（80～1頁）

　事物それ自身の行う運動に思考を従属させたものがヘーゲルの言う知覚であり、意識は知覚がたえず唯物論と観念論との間を揺れ動くことを経験したのだった。そして、このような経験の土台には、主体と客体とを区分し、主体が客体を認識するという二元論があったのであり、ヘーゲルは、主体と客体とを意識において合一することで知覚を超えていったのだった。
　島崎は、ここで見田の研究に従って、成の分析から有と無が出てくると述べながら、かつ、事物それ自身の行う運動を措定することで、主体、客体の二元論に立ってしまっている。ここでは意識はヘーゲルのような全体的なものではなく、単なる主体の主観としてしか捉えられていず、そしてこの主観がいかにして客体の運動を捉えるか、という問題意識しか持っていない。
　ところで「事物それ自身の行う運動」というときの事物に何故意識を数え入れることができないのだろうか。ヘーゲルの論理学は、意識を自我と対象との関係として、一つの事物と捉え、そして意識それ自身の行う運動を弁証法として叙述したものではなかったのか。にもかかわらず、主体―客体の二元論の眼で、ヘーゲルを読もうとするからそこに「概念の自己展開」と読んでしまうか、存在の論理と読んでしまうか、という経験しかできなていない。ヘーゲルを理解するためには、主体と客体とを意識において合一したヘーゲルの関係論の地平を踏まえることが必要である。

3）石井伸男の場合

石井の問題意識

　意識論にずっとこだわってきた石井伸男が最近本を出した。『マルクスにおけるヘーゲル問題』（御茶の水書房）がそれだ。石井はこの本の第三章　意識論で、ヘーゲル、フォイエルバッハ、そしてマルクスの意識論についてまとめている。それで石井がヘーゲルの意識論をどのように捉えているかを見てみよう。
　石井はまず『エンチクロペディー』の精神哲学にヘーゲルの意識の一般概念をさぐり「意識一般は、そうした心のもつ具体的条件を捨象したところに成り立つ、一般者としての『自我』の働きである」（152頁）捉え、ヘーゲルからの引用のあと、「与えられているのは、自我（意識）―外界、ないし主観（意識）―客観という二項関係の図式である。だから判断構造なのであり、これが自我―意識―外界という三項関係の推理枠ではないことには注意を要する」（152頁）と述べている。つまり、石井はここで、意識を自我と対象との関係としてではなく、意識と対象という二項関係として捉えてしまっている。
　次に、年次とは逆に『大論理学』をとりあげて、そこでの意識論について「意識は対象を規定する働きとして、対象との対立を超える（おそらくヘーゲルの用語法では『止揚する』）本性をもつものであるが、意識がそうした本性を身につけたとき、それはもはや意識と名づけられるべきではなく、思考そのものと呼ばれるというのである」（155～6頁）と捉えてこれを「意識の二重性の問題」とみなして、この二重性についての解明を、意識それ自身がみずからの経験で精神に登るという『精神現象学』を検討する事で成し遂げようとしている。

『精神現象学』の誤読

　石井はその考察を『エンチクロペディー』から始め、『大論理学』を経て『精神現象学』へと年代をさかのぼっていくわけだが、このような方法をとることで後年のヘーゲルの意識論が、初期ヘーゲルにどのような形で未定型のまま展開されているか、という見地に立つことになる。だから、意識がどのようにして精神にまで登っていくか、というこの全体が意識論のテーマとして捉えられることになる。
　しかし、このような見地は、ヘーゲルの思想の形成過程を踏まえるなら、逆転しているように思われる。というのも、初期ヘーゲルにあって、主体と客体との合一を意識においてなしとげる、という独自の意識論の地平を切り開けたから、ヘーゲルは哲学の使命に目覚めたのであり、そして、自我と対象との関係、その媒語として意識を捉えることで、精神哲学（これは社会哲学と言い換えた方がよい）にとり組めたのであり、そして、精神哲学を構想する道程で、精神の現象学というモチーフが生成されていったからだ。それゆえ、ヘーゲルの意識論というテーマでまずとりあげられるべきは、『イエーナ体系構想』で意識を自我と対象との関係として捉え、意識の弁証法の叙述の手がかりを得たことでなければならなかった。
　にもかかわらず、石井は、逆転した見地から『精神現象学』を検討したために、ヘーゲルの論旨をきちんとつかまえることが出来ていない。
　石井は『精神現象学』の序論を検討し、意識に二重の意味があるとして、意識Iと意識IIとを区別し、そしてまた対象にも二重の意味があるとして、対象Iと対象IIとを区別している。そして、意識Iから意識IIへの発展に照応して、対象Iから対象IIへの転換があり、それぞれの転換は「『概念の生成』という同じ一つの過程に相伴う二つの側面だと考えるべきであろう。」（162ページ）と述べている。
　つまり、石井は、「意識にとってある」こと（対象が意識の契機となっている場合）と「意識に対してある」こと（意識の外にある場合）とをヘーゲルが区別していたことに気付き、「対象は意識への所与から意識の相関者に変わる」（159頁）ことを知ったのであるが、せっかくここまで進みながら、このようなヘーゲルの区別が、意識についてのヘーゲル独自の把握にもとづいていることに無自覚である。
　石井が意識I、意識II、対象I、対象II、というようにバラバラに取り出した概念は、実は意識形態という関係、自我と対象との関係のうちで形成されている意識という第三者のうちで有機的に相関している。そして、この相関の論理こそが、弁証法として叙述されねばならないのだ。

石井の誤読の原因

　そこで、石井が最初にとりあげている『エンチクロペディー』の第三篇精神哲学の意識についての叙述が、ヘーゲルの意識論についての「公的な見解」（152頁）かどうか、ということが検討されねばならない。ここではヘーゲルは、まず人間の心から出発し、心という精神活動について検討した上で、心が意識に目覚めることを心が自立的な思考を始めることに求めている。この自立的な思考とは自我の働きに他ならないのであるが、この自我の働きについて、ヘーゲルは石井が引用している節の次、413節で次のように述べている。

「意識は反省の段階すなわち精神の（自己との）関係の段階、現象としての精神の段階を形成する。自我は、精神が自己に無限に関係することであるが、それは主観的関係としてであり、精神が自己自身を確信することとしてである。そのとき自然的な心の直接的同一性は、自己とのこのような純粋の観念的同一性に高まっている。心の内容であったものは、ここでは自立存在する反省にとっての対象となっている、純粋な抽象的な自由は、自分で自己の規定性、心の自然生活を自らの外に解き放って、自由でもあり自立的でもある客観としている。この自我の外のものとしての客観について大切なことは、まず自我がそれを知るということである。そこで自我は意識である。自我はこのような絶対的否定性としては自体的であり、他方における同一性である。自我は自我そのものであり、自体的には廃棄されたものとしての客観を覆う、そして関係の一方であり、また関係全体である。すなわち自我は自己と、なおその上、他者を顕わす光である。」（『エンチクロペディー』河出書房版、340頁）

　石井は、この引用部分の前の節を引用して、ヘーゲルの意識論は「人間が意識するのではなく、自我とは意識そのものだと捉えられている」（153頁）とみなした上で、主観（意識）－客観という二項関係を想定し、自我―意識―外界という三項関係を否定している。
　だがここでヘーゲルが論じている意識は、意識一般ではなくて、反省の段階にある精神、現象としての精神の段階のことである。そして、精神とは人間の人倫に他ならないのだから、ここでは精神としてある自我が現象させる意識について考察されていることになる。だから自我の知る働きが述べられたあと、「そこで自我は意識である」と語られている。この自我は自らの働きによって自体的に廃棄されたものとしての客観を覆うような自我であるから、石井が解釈しているような、主観―客観といった二項関係の図式における主観（自我）のことではあり得ない。

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Author: admin Published: 2006/1/5 Read 7596 times