　私の広松哲学への疑問に批判を寄せて下さった石井さんから私のエンゲルス理解に対する批判が寄せられました。前回は敢えて反論しませんでしたが、今回はコメントします。しばらく時間をください。批判の労をとって下さった石井さんに感謝します。榎原均

　以前に、榎原均氏の「カント研究序説」を読んだとき、エンゲルスに関する部分は批判しておくべきであると思いました。しかし、論争にはならないだろうと思い、そのままにしていました。最近思い出し、『フォイエルバッハ論』を引っ張り出して、読んでみました。30年ぶりなので、細かいことを覚えているはずはないのですが、その当時の読み方は、榎原均氏のような読み取り方であった様に感じました。すなわち、エンゲルスの文を読まず、関心のあるところだけを適当に取り出していたのです。
　自己確認を兼ねて、榎原均氏への疑問を以下に書いてみます。要点は、榎原均氏は、エンゲルスに対して「思惟と存在との関係」問題を過重に押し付け、自身の主張の犠牲者に祭り上げている。エンゲルスの唯物論を正確にとらえていないところに遠因があるのではないか、というものです。

　「カント研究序説」は、一通りは目を通しましたが、ヘーゲルとかカントとかを研究したことはありませんから、全体を取り上げてはいません。エンゲルスに投げかけられたレッテルについてのみ、異論を唱えたいと考えます。エンゲルス＝科学的世界観というのが第1のレッテルですが、”科学的世界観”が何であるか、「カント研究序説」だけではよくわかりません。他の文章まで当たって検討していませんので、此処では、観念論対唯物論の件と、エンゲルスが思考と存在の同一性を真理としているかという点を取り上げたいと思います。
　なお使用したテキストは、岩波文庫版『フォイエルバッハ論』松村一人訳　昭和44年という30年前の本です。
　断っておきますが、取り立てて目新しい「読み方」を見つけた訳ではありません。読み間違いを指摘しようとするだけです。素直に読めば誰もがわかることを、学生時代は誤読していたなあと、遅ればせの反省をしているところです。

　榎原均氏の言説から問題点を取り出してみましょう。
　「第2章エンゲルスの科学的世界観　5）カント批判」の節から見てみます。
　榎原均氏は、思考と存在のどちらが根源的か、それらの同一性は、などの問いは、カントにとってナンセンスな問題であると述べています。そうして、エンゲルスが、実践が哲学者の妄想「物自体」論を反駁する、と言うのに対して、カントは物自体を知ることを求めなかった、化学式が分かろうが合成されようが意識の圏外にあることには違いが無いとあしらいます。アリザリンの件では、「それはやはり意識の圏からは他者としてとどまり続けています。」且つ、「カントにとってアリザリンは、単に超越論的仮象を生む物自体ではなくなった」という部分は、問題を孕んでいると思います。しかし、カントがどう考えていたかは、ここでは立ち入らないことにしていますので、大きな問題とは思いますが、置いておきます。ここで検討するのはエンゲルスのカント批判が、思惟と存在との同一性を論拠にしたものかどうかと、エンゲルスが物自体の認識を目指したかどうかです。
　思考と存在との同一性の件「われわれの思考は現実の世界を認識することができるのか、われわれはわれわれの表象と概念のうちで現実の世界について正しい映像を作りだすことができるか」では、エンゲルスは、「圧倒的多数の哲学者によって肯定されている。」と言い、カントの物自体論を批判しています。つまりエンゲルスも肯定しているのです。しかし、その肯定は、“思考と存在との同一性を真理とする”ものと言えるでしょうか。エンゲルスはこの部分でヘーゲルを取り上げて、この肯定はヘーゲルにとって当然のことで、彼にとっては、「われわれが現実の世界のうちに認識するものは、この世界の思想的内容にほかならないからである。」ヘーゲルは「さらに進んで次のような結論を引きだしている。すなわち、かれの哲学は彼の思考にとって正しいのであるから、唯一の正しい哲学でもあり、そして思考と存在との同一性は、人類が彼の哲学をすぐに理論から実践へ移し、全世界をヘーゲル的諸原則にしたがって改造することによって証明されなければならない。」（p31）このような幻想は、ほとんどすべての哲学者が抱いているものである。以上のように述べて、ほとんどの哲学者は、自らの思考が存在を正しく認識していると考えているかのように言ってます。思考と存在との同一性を証明したとするヘーゲルおよび大多数の哲学者への揶揄ですね。
　続けてヒューム・カントについて、ヘーゲル・フォイエルバッハの批判もあるが、（榎原氏の引用する文）痛烈な反駁は実践である、を続けています。エンゲルスはこの前後では、“唯物論”の立場から“思考と存在との同一性”を証明するようなことは述べていない。もちろん、榎原均氏も証明したといっているのではないことは承知しています。ここで確認しておきたいのは、“思考と存在との同一性”への異論に対する“もっとも有力な反駁が実践”であるなら、それは個々の理説にたいしてのみ有効な反駁であると言うことです。当たり前のことですが、“思考と存在との同一性への異論を実践が反駁する”と述べただけでは、反駁したことにはならないですね。反駁する実践例を示さなければならないでしょう。そう考えると、エンゲルスがここで、“思考と存在との同一性を真理である”としているとは言えないと考えます。太陽系モデルについての説明では、九分九厘確かだったが、確定的にしたのが海王星の発見だったと述べています。こういった見方は、“存在が思考に反映するのだから対象的真実をとらえた”という論理ではないと考えます。また、“思考と存在との同一性が真理である”から、実践による反駁が可能であるという主張でもない様に思います。
　エンゲルスが、物自体の認識を目指してはいないのは明らかであるように思います。「動植物内でつくられる化学物質は、有機化学が次々とこれらをつくり始めるまでは、このような『物自体』にとどまっていた。有機化学がそれらをつくり始めると、この『物自体』は我々に対するものになった。」（p32）このような文を見ると“物自体の認識”を目指しているかに見えますが、不明な部分があって我々にとってよそよそしい存在であったものが、手中に納まった。自分の手中にあるものを把握できないと言うのか、というぐらいの意味になるのではありませんか。榎原均氏の言われるように合成されるようになっても、カントの意味する『物自体』が、カントの意味で認識されるようになったとは言えないでしょう。エンゲルスはカントと同じ地平に立って言っているのではなく、カントの“哲学的幻想”について述べていると考えます。

　「4）哲学の根本問題」を見てみましょう。前後半に話が分かれています。前半は、「つまりエンゲルスは、頭で立っているヘーゲルの弁証法をひっくり返し、それを科学の方法として位置づけようとしているのです。」に尽きます。
　後半で、根本問題に関してエンゲルスの観念論把握が批判されています。要約すると、思惟対存在と二分すると自我が落ちてしまい、観念論が問題としたことを理解できず、「人間の主体を存在から切り離してしまい、結果として対象を人間的・感性的活動と捉える視点を失ってい」、「それまでの唯物論欠陥をかかえ」ることになる。そんなところでしょうか。
　ここでは榎原均氏は、ご自分では観念論を定義的には説明していないので、何とも言えない面はありますが、観念論を”思考を根源的と見るもの”としたからと言って、ドイツ観念論が、自我ー思考内容ー存在を問題としたこととは、矛盾しないでしょう。「エンゲルスは、ここで人間の自我、主体を思惟と同じものとみなしてしまっているのです。」という主張は納得できません。自我vs思考内容vs存在を、思考vs存在としたからといって、「自我、主体を思惟と同じものとみな」すとは言えないでしょう。おまけに、「人間の主体を存在から切り離してしまい、結果として対象を人間的・感性的活動と捉える視点を失っています」とまで、言い切るのですが、どうなのですか。マルクスのテーゼまで持ち出してエンゲルスを批判したと、ちょっと鼻が高くなっているのかもしれませんが、勝手に文章を転がしているようにしか見えないのですが。エンゲルスの“実践”による“物自体論”批判を、小理屈だけで片づける方こそが「対象を人間的・感性的活動と捉える視点」などないように感じます。

　『フォイエルバッハ論』に戻って、エンゲルスの主張を見てみましょう。「2，観念論と唯物論」が主題になりますが、終章は「4，弁証法的唯物論と史的唯物論」であることを頭に置いてください。
　第2章は、「すべての哲学の、特に近世哲学の根本問題は、思考と存在との関係の問題である。」という文で始まり、この問題は「その根を人間の野蛮時代の無知蒙昧な観念のうちにもっている。」しかしそれは、近世ヨーロッパにおいて明確に、意義を持ったものになった。と語られ、次いで、「自然に対する精神の本源性を主張し、したがって結局何らかの種類の世界創造を認めた人々は……観念論の陣営をつくった。自然を本源的なものと見た人々は、唯物論のさまざまの学派に属する。」これが有名な観念論対唯物論の“定義”です。続いて先に検討した思考と存在との同一性の件が論じられています。
　さて、学生時代の誤読ですが、「すべての哲学の……根本問題は、思考と存在との関係の問題である。」と読み、歴史貫通的な問題と読んでいました。また、「自然を本源的なものと見た人々は、唯物論のさまざまの学派に属する。」とあるのに、存在を根源的と見る唯物論＝マルクス主義と見ていました。そうではないのですね、そのレベルの唯物論はさまざまな学派があり得るのです。此処で論じられているのは、ヘーゲル対フォイエルバッハの地平ですね。エンゲルスから見て、ヘーゲルは観念論の典型例で、対するフォイエルバッハは、この時点での唯物論者の代表選手（＝ヘーゲルを打ち破った）であるのではないでしょうか。
　第1章からヘーゲルを批判的に克服したのではないと指摘していますが、フォイエルバッハの限界を子細に見ていくのはこの章の後です。飲みかつ食べる具体的な人間に基礎を置く哲学を目指したはずのフォイエルバッハが、半身が観念論者であったことが論じられています。「物質が精神の産物ではなく、精神それ自身が物質の最高の産物に過ぎない。……しかし、ここまで来てフォイエルバッハは立ちすくむ。」（p37）彼は前世紀の機械論的唯物論の地平にとどまっている。19世紀の自然科学は自然にも歴史が有ることを認識するようになったのにもかかわらず、彼はその意義を見抜けなかった。またフォイエルバッハは人間の社会性の探求に進むことはなかった。「彼は、キリスト教の神が人間の幻想的反映、映像に過ぎないことを証明している。」その神はいろいろな神の精髄であり「したがって、神がその映像である人間もまた現実的人間ではなく、……抽象的人間であって、したがってそれ自身再び思想像である。……具体的なもの、現実的なものへの没頭を説いているフォイエルバッハが、一度単なる男女関係以外の関係について語りだすと、全く抽象的になってくる」（p51）「彼自身が死ぬほど嫌っていた抽象の世界から生きた世界への道を見いだすことがなかったのである。」「彼においては自然と人間は単なる言葉に過ぎない。……しかしフォイエルバッハの抽象的人間から現実の生きた人間に達するには、人間を歴史のうちで行動しているものと見さえすればいいのである。」（p58）
　このフォイエルバッハの限界は、彼個人のものではなく“存在を本源的なものと見る”だけのレベルの唯物論に共通するのではないでしょうか。マルクス・エンゲルスの唯物論の地平は、「我々は現実の世界ー自然と歴史ーを、先入の観念論的な幻想無しにそれに近づく者の誰にでも現れるままの姿で把握しようと決心した。我々は、空想的な連関においてではなく、それ自身の連関において把握された諸事実と一致しないあらゆる観念論的幻想を、容赦なく犠牲にしようと決心した。一般に唯物論とはこれ以上の意味を持っていない。」（岩波文庫p60）
　学生時代はこの部分は、当たり前の心得を言っていると解釈したのだろうと思います。観念論＝ナンセンス、唯物論＝真理と見てしまうと、「現れるがまま」「それ自身の連関」というのは当たり前に見えてしまい、次のレベルに上がった唯物論の規定に見えなかったと思います。
　「世界はでき上がった事物の複合体としてではなく、諸過程の複合体と見られなければならず、そこでは外見上固定的な事物も、われわれの頭脳のうちにあるその思想的映像である概念に劣らず、発生と消滅の不断の変化のうちにあり、そしてこの変化のうちで、あらゆる外見上の偶然事や一時的な後退にもかかわらず、結局は前進的な発展がおこなわれるという根本思想」（p62～3）と言う部分も、弁証法的ということかと受け流したように思います。だから当時は、存在を本源的と見る＝物質を基底的と見るという論法を疑問に思わなかったようです。“物質を基底的と見る”というのは「でき上がった事物の複合体」として世界を見ることですね。「諸過程の複合体と見」ることではないですね。この明快な文をさして重要と見なかったと思います。榎原均氏も同じであるというのは失礼なこととは思いますが、「カント研究序説」に顕れたエンゲルス批判は、エンゲルスをフォイエルバッハと同じレベルの唯物論者と見あやまっているか、あるいは、榎原均氏自身がフォイエルバッハのレベルであるか、と言わざるを得ません。エンゲルスは、「思惟と存在との一致という命題から演繹」するとか、「意識の外にある物から帰納的に証明」するとか、そういった類いの論理でカントを批判したり、観念論を批判しているのではない、と考えます。それは唯物史観に立つエンゲルスのものではないからです。

　カント・ヘーゲルを論じ、マルクスに通暁されている方に対する批判は難しいですね。「カントの見地からすれば」とあっても、それを確かめたり、その見地が了解できるものであるのか、榎原均氏がその見地をどう処理しているとか、検討するべきことが多すぎます。いちいち検討するのは荷が重すぎるのでしていませんが、以上の検討で、異論がでる所以は何とか説明できたと思います。少なくとも、榎原均氏の文を読んでエンゲルスを誤解してしまう方には、役立って欲しいと思っています。

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Author: admin Published: 2006/1/5 Read 4457 times