　永井均が『〈私〉の存在の比類なさ』（けい草書房、1998年）で大庭健を批判していたので、いつか、両者の論争について検討したいと考えていた。そして、いまやっと、両者の関連文章をつき合わせて、何が問題になっているかを考察する作業に取りかかる事が出来た。
　まず、私自身の永井の哲学へのコメントを紹介しておこう。『情況』1991年9月号に発表した「根源的他者と価値形態論」（1991年7月18日付）で、私は永井哲学について、「哲学の越境を求める他者論」という小節で、次のように述べた。

哲学の越境を求める他者論

　哲学的思惟に引導を渡そうとして失敗したジジェクとは逆に、永井均は哲学的思惟にこだわることによって、その極限にまで到っている。彼は哲学的省察の内部から、本源的な他者を指定しようとしている。

「では本来の意味での他者とは何か。それはすなわち、『世界に対する態度』であるような私の他人意識によっては決してとらえられないもののことである。他者が存在するということは、まさしく、私が外から見たり、近づいたり、ましてや入りこんだりすることが決してできない何かが存在する、ということなのではあるまいか。言いかえれば、他我認識の不可能性においてこそ、他我の存在は成り立つのではなかろうか。他者は私の『世界に対する態度』の一部ではない。それはむしろ、そうなることを徹底的に拒むところにこそ存在するものなのだ。なぜならば、他者は物のような世界の一部ではなく、そこから（も）世界が開けている、世界の原点だからである。世界の中にある物と世界を開く他者とでは、その存在の意味はまったく異なっているはずなのである」（『（魂〉に対する態度』、二〇一頁）

　永井が根源的な他者を導き出す前提となっているものは、「私」と区別された〈私〉の措定である。この（私〉は一つの抽象化された概念であるが、思考が通常の仕方で抽象化する方法を排除したうえで、その概念が形成されている。
　思考が私を抽象する場合、何よりも他人から区別する。こうして抽象された「私」にとっては、他者は他人となる。永井はこのような構造のうちにある他者関係を他者関係とは認めない。彼は（私〉について次のように述べている。

「世界には、無数の『私』たちとは別に〈私〉が存在する、と。〈私〉には隣人がいない。すなわち、並び立つ同種のものが存在しないのである。どうしてそんなものが存在しているのか。それはわからない。しかし、その存在の構造は、いくらかは解明することができると思う」（『〈魂〉に対する態度』、二二五頁）

　永井自身が、自らの哲学的省察によって、〈私〉の存在についてどのように解明しているかには実のところ興味はない。重要なことは彼がここで、類として存在している個を〈私〉の内容として措定していることである。永井は〈私〉について、同種のものの存在を否定しているから、彼はこれを類として措定している。しかも、この〈私〉は、個としてある「私」という人間の「いかなる性質とも無関係に成立している」（二二五頁）とされているから、この〈私〉は、自然人としての「私」ではなくて、この「私」が社会関係によって形態規定されたものでなければならない。
　そうだとすると、この〈私〉は思考が行う分析的抽象によってではなく、価値形態に見られる綜合による抽象と類似した方法で措定されたものとなる。永井が〈私〉の概念について、伝達不可能だと考えるのも、彼が〈私〉を他の多くの「私」との綜合によって類へと抽象しているからで、哲学は、この種の抽象について了解しあえる論理をまだ一般化しえていないのである。
　この点について彼がどれだけ自覚的にそうしているかはわからない。だがデカルト的な「私」の他に、この私が類として存在する個である〈私〉でもあることの発見と、そこからの他者の展開は、人間の思考の様式とは異なる様式の思考形態が存在していることの承認へと向わざるをえないであろう。
　永井によれば、〈私〉は隣人をもたないが、魂は隣人をもつ。この魂を抽象し、隣人をもたない〈魂〉を措定することによって、はじめて他者の〈魂〉を措定しうる。ここで彼が語っている魂は、類の実体であり、彼は「魂」の他に〈魂〉を措定することによって、異なる類、つまり他者を措定することができた。

「他者を、すなわち他の〈魂〉を発見するとは、どんな相互性も成り立たない、その向う側にあるものを、〈私〉の世界には決して入り込んでこない、根本的に異質なもうひとつの世界の原点を発見することである」（『〈魂〉に対する態度』、二三一～二頁）
　「他者とは、いつもつねに、隣人をもたないものの隣人である。それは、決して到達することのできない、根本的に異質な、もうひとつの世界（の原点）であり、理解しあうことも、助けあうことも、ついには不可能な、無限の距離をへだてた、あまりにも遠い隣人なのである。〈魂〉に対する態度とは、それゆえ、それに向かって態度をとることができないものに対する、愛や共感や理解を超えた態度なのであった」（『〈魂〉に対する態度』、二三五～六頁）

　文字ズラを追うだけでは、これは何と言っているのかわからない。だが、ここでの他者に、思考の外にある思考形態、たとえば価値形態を置いてみよう。そうすれば、彼の主張には現実性があることが明確となる。
　自然界には他にも思考形態がある。たとえば量子世界がそうである。生成・発展・消滅をくり返す量子達は、抽象し判断する思考形態をもっている。そして、この思考形態が、人間の思考の様式とは異なることも、多くの実例で示すことができる。
　永井の他者論は、哲学的思惟の内部から、思考の外にある思考形態に接近する試みである。この思考形態が、人間の思惟とは異なる仕方で存在しているために、彼は対象に接近すればするほど、対象との距離を感じることにならざるをえなかった。こうして彼は逆説的に、哲学の死を語っているのである.

　このように書いたとき、私は、永井が価値形態論に取り組んでくれたら面白い、と考えてはいたが、別に期待していたわけではない。その後の永井の業績をみる限りでは、そうした試みはなされてはいないようだ。
　永井は、先に上げた著書で、大庭が自らの主張とは全然異なる内容を永井の説と考えて議論していて、全然批判になっていない、と述べている。今回、大庭の本を読んでみて、私も大庭が永井の主張を捉え損なっていると思う。でも、大庭にとっては、捉え損ねられた永井説にすごくこだわっていて、再三批判を試みている。『私という迷宮』（専修大学出版局、2001年）にいたっては、「私探し」にハマッタ人たちが陥る最も悪いケースとして、永井説が上げられる始末である。
　両者のやりとりを見ていて、この論争がお互いの説にどのような影響を与え合いあったか、といったことについては考慮の外におく。ここでは、先に引用しておいた私の永井哲学への評価から出発し、主として大庭の「自己組織システム」についての議論の枠組み上の欠陥を明らかにすることを通して、双方の議論におけるすれ違いが何に起因するかを示し、そうすることで、社会を分析する「文化知」の実践を開示したい。

第2章　大庭説の概略と疑問点

1）現代人の不本位感から出発

　大庭はその三部作、自己組織システムの倫理学の最終巻『自分であるとはどんなことか』（けい草書房、1997年）で、自己の著作の問題意識について明らかにしている。それは、現代に生きる人々が生活するにあたって「みずから選んだのではあるが、しかし本意ではない、という不本意感が蔓延している」（247頁）状況を解明しよう、というところから出発し、社会から距離を置きたがる人々に対して、個々人が社会の環境として存在し、個々人が行動を通して、社会に参画している様を描き出し、個々人の参与が社会システムを相移転していく方向性を示すことによって、「私探し」とは異なる生き方を提案しようとしている。
　序章では、自発的だが、本意ではない、という不本意感そのものの解明がなされている。この不本意感について、大庭は「自分が日々やっていることが、自分自身から見ても、どこか不本意である」（3頁）という、自分の日常についての自己評価が働いている、という前提を考察の出発点にしている。そして、この不本意感を次の6項目に類別している。

「（1）やりたくもないのに、無理矢理やらされている。
　（2）やりたくはないが、やらざるをえない。
　（3）やりたくないわけではないが、自分がほんとにやりたいことでもない。
　（4）やりたくないわけではないが、自分がやるべきこととは思えない。
　（5）やりたくてやっているが、自分がやるべきことだとも思えない。
　（6）やりたくてやっているが、自分が『このために生き、このために死ねる』という気がしない。」（4頁）

　大庭によれば、6項目のうち、（1）と（6）は両極となる。（1）は自由の剥奪・隷属という問題であり、（6）の場合は、実存的な真理の問題で、大庭はこの両極を除外し、（2）～（5）の「グレーゾーン」について考察している。
　その際に問題の鍵が二つあり、一つは「自分がほんとうにやりたい」というときの「自己」という概念であり、もう一つは、「いまの社会ではこうした不本意感が、ごく自然であり」というような思考にあらわれてくる「社会」という概念だという。そこで大庭は「自分であるとは、どういうことか」と「社会の中にいる、というのはどういうことか」とが、解明すべき中心的課題であると設定している。
　「自分であるとは、どういうことか」について、大庭は不本意感をもつ自分から出発する。（1）や（6）の両極を除外すれば、「やりたいことをやれて、やりたくないことはやらなくてすめば、ほんとうに自分らしく生きられるのか？」（6頁）ということが問題となる。
　ところで「やりたいことをやりたいようにやれる」ことになったとしても、必ずしもほんとうに自分らしく生きたことにはならない、ということを大庭は「やりたいこと」が複雑で、それ自体がさまざまに衝突しあっている欲求や願望などから立ち上がってくることを指摘することで説明している。そのうえで、ほんとうにやりたいことが、自分でも明確でないケースをとりあげている。
　自分は自発的に「やったほうがいい」と思うことや、周囲から期待されていることをやることや、自ら欲求することをやっていると思っているが、この場合の自分の意思や欲求がほんとうの自分のものか、という不本意感がこのケースでは生じやすいし、そして、ここから「ほんとうの自分」を求める「無限後退」がはじまる、というのだ。
　この「無限後退」の特徴は、最初は「ほんとうは自分はなにを……」というように、副詞として使われていた「ほんとうは」が、知らずして、「ほんとうの」自分という形容詞へと転化していることにあると大庭は分析する。

「ここではじまる『ほんとうの自分』さがしは、社会の圧力と密接に絡みあっている。というのも（先にみた（1）、（6）の両極端はひとまず措くとして）、（2）から（5）のような不本意感が反転して、『自分は、周囲から期待されている役割の遂行器でない！』という自覚が生じることによって、『ほんとうの自分』探しがはじまったからである。したがって、ここではすでに『ある役割の遂行を期待してくれる社会の力』と『この自分』というかたちで、『自己と社会』が問題となっている。」（14頁）

　生きていく上での不本意感をもった自分から出発して、「自己と社会」との関係まで説いてきた大庭は、ここで「無限後退」的思考のゆきつく先として、社会を各自が自分らしく生きることを許可しない拘置所のように考え、所詮、社会の中にいる限り、ほんとうの自分にはなれない、という出家幻想が頭をもたげ始め、こうした出家幻想によって水脹れした不本意感が一つの臨界値を越えると、生身の他者をほんとうの自分探しを邪魔する有象無象として十把一からげに無視し、ひとり、「ほんとうの自分」を実現しようとする極めつけのエゴイズムが生じる、として、オーム真理教の事件を暗示している。
　こうした「無限後退」に陥らないために、大庭は、社会の力と自分との関係について考察が必要だとしている。それは「適応と排除と“脱落”の狭間でサバイバル（生き残り）しつづけねばならない、自由な社会の力であり、その社会での自分である」（16頁）と言う問題だとされる。

「社会の力への適応という問題は、先の諸種の不本意感を考えるときに無視できない。というのも、いかに自ら選んでなにかやっているとしても、その選択そのものが、社会の圧力に規定され『いまの社会では、こうしかできない』という諦めにもとづいているならば、先のような諸種の不本意感が容易に生じうるからである。」（17頁）

　大庭は、人―間としての不本意感を「社会の力と自分であること」を問うとすると、一つは、自分のやりたいことがどのように生成し、自分の行為となっているか、という自分らしさの《対自》的な側面」（18頁）となり、他方では、相手がいるから、やりたいことをやれたり、やれなかったりする、という「自分らしさの《対他》的な側面」（18頁）にもなることを指摘した上で、後者についての考察から始めている。

2）行為と社会

　第一章、自分の行為と社会で、大庭は、社会とは個人を要素とするシステムだ、という考え方に疑問を呈している。システムとは、「要素のあいだの関係が定まっている集合」（23頁）であるから、先の見解は、社会とは関係によってつながりあった諸個人のシステムだ、ということになるが、このように考えると社会の最も基本的な性質が説明できなくなる、というのだ。というのも、メンバーが入れ替わっても社会は同じ社会として存続するが、このことが説明不能だからだ。また、社会が個人の集合というレベルを超えて自己運動しているように見えることも説明できない。そこで大庭は、社会の要素を行為と捉え、個人を行為によって社会に参画する存在、という意味での社会の環境とみなす考えを提起している。

「では個人のあいだで成り、かつ社会システムの要素となることとは何だろうか？すぐ思いつくのは、諸個人のあいだで遂行され、つながりあっていく行為である。すると社会の要素は、行為であり、社会は、要素となる行為が関係しあって出来ているシステム、簡単にいえば《行為システム》である。」（26頁）

　大庭によれば、社会とは、個人を要素とするシステムでもなく、また、個々人とは独立に存在するような超個人的なモノでもない。社会は個人なしには存在しないが、しかし、社会は個々人にとっては外在的な存在であり、これを逆に社会から見ると、個々人は社会にとっては外在的で、社会システムの環境として捉えられるべきなのだ。
　社会をこのように定義すると、直ちに「行為」とは何か、ということが問題となってくる。「そもそも行為とは何であり、また行為のあいだにどんな関係があれば社会が存在するのだろうか」（28頁）という問が出てくる。

「われわれは、そのように意図を問いあい、意図を理解しあえることによって、はじめて人―間でありえている。選択的に振舞うときの意図について、たがいに問い合うことができ、たがいに答えあうことができる、というところに人―間としての責任のいちばん大切な局面がある。そうすると人間の場合、社会の要素は、単に因果的な身体的振舞いではなく、その振舞いにおいて・選択的な《意図》ゆえに《意志》によって遂行され・理解される行為である、と考えることもできよう。」（32頁）

　大庭によれば、社会の要素としての行為とは、選択的な意図にもとづいて、意志によって遂行される行為だ、ということだが、このように考えると、今度は、意志とは何かが問われてくる。

「《意志作用》とは、1．生理・物理的な因果連鎖には左右されない作用であり、2．そうでありながら、生理・物理的なできごとを引き起こす原因となり、3．しかも、それ自身は、いかなる原因ゆえの結果でもない『自己原因＝絶対的な自発性』の働きだということになる。」（35頁）

　このように定義づけると、意志を物理的・化学的な原因とは別種の非物質的な「意志作用」を想定すべき、という見解が導かれるが、大庭はそのような想定は必要ないとし、「ある仕方で脳状態が相転移するということが、すなわち『意志がはたらく』ということなのである。」（42頁）と主張している。そうだとすると、身体的な振舞いと意志にもとづく行為とはどのように区別されるのか、これは端的には「それ自体としては身体運動にすぎないものが、ある意味をもつ、とはどういうことなのだろうか」（47頁）という問となる。
　これに対する大庭の答えは単純である。人間の場合、ある身体的な振舞いにおいて、複数の異なった行為が遂行されて、遂行された行為への応じ方もまた複数通りあり、選択的に遂行されねばならず、そして、このことが行為が意味をもつことだ、というのだ。しかも「意味という人―間の選択の形態は個々人の『意図』という心の出来事には回収できない公共性・社会性を帯びている」（54頁）というのだ。であるならば、環境としてある個々人が行為によって社会参画したときのその行為から、公共性・社会性が導き出されねばならない。

3）行為の意味

　大庭は、第二章で、意味と意図を手がかりに、行為自体のうちから、その公共性・社会性を導き出そうとしている。私見によれば、ここでの展開が大庭のこの本の中軸をなしている。大庭倫理学は、まさに、ここでの論議の成否にかかっているのだ。
　大庭も認めているように、「意味とは、そもそもはじめから間主観的かつ時間的な存在性格を帯びている」（62頁）のだから、行為に意味を認めたとたん、行為の公共性・社会性について明らかにしないまま、それを公共的・社会的なものとして位置づけてしまうことになる。はたして大庭の説はこのような公共性・社会性の密輸入から逃れられているだろうか。
　ところで、大庭が意味を間主観的、時間的な存在性格をもつと規定したとき、大庭自信の論理構成として、行為における意味の生成過程を辿ることで、行為の分析にあてようとしていることが判明する。意味の間主観性とは、社会の環境としてある自分が社会に入力した行為は、同じく社会の環境としてある他人との関係において意味づけられる、ということを指しており、そして、だから当然にも、意味は事後的にしか確定しない時間性をもつ、というわけだ。では大庭によって説明されている行為における意味の生成の現場を見てみよう。

「そもそも行為は、自分の振舞いが相手によってどう受けとめられるか、ということについての予期があって、つまり、予期というかたちで未来を先取りすることによって、はじめて有意味な行為でありうる。」（63頁）

　ここに到って、行為そのものから、その公共性・社会性を導き出すことを期待するということが裏切られる。大庭はここで、行為には予期が含まれている、ということですでに行為のうちに意味を密輸入させ、そうすることで、行為の社会性・公共性を説明する努力を避けてしまっているのだ。この努力を避ける代わりに導入されるのが、ヴィトゲンシュタインの「解釈するのとは違う仕方で、規則に従う」（66頁）といテーゼである。
　大庭によれば、単なる予期であれば、相手に対する予期は無限に続く予期の連鎖になってしまう。そこで大庭は、この無限連鎖の出発点となる「行為の意味は、行為者の事前の『意図＝意味理解』にそって確定していたかのように解釈する」（68頁）という前提について、ヴィトゲンシュタインのテーゼを持ち出して否定するのだ。「わたしが、規則にしたがうときには、選択はしていない。わたしは盲目的に規則にしたがっている」（70頁）というヴィトゲンシュタインの言葉を引いて、大庭は無限の連鎖を断ち切っている。つまり、行為の意図を生じさせる予期は解釈のような選択の余地あるものではなくて、盲目的に従う規則に拘束されている、というわけだ。

「行為Aを振舞B『として』受けとめてもらえるという予期をあてにして、他人の前で行為できるときには、右のように『われわれみんな……するはずだし、しなかったら異常だ』という《一般化された規範的な予期》が働いている。そして、あなたの予期が通常外れないのは、相手もまた、その規範にしたがっているからである。したがって、振舞いの意味をめぐる食い違いが少ないのは、あらかじめ意味が行為者の『意図』によって確定しており、それが振舞いに現れたからではない。意味の食違いが少ないのは、意味が事前の意図に回収されるからではなく、意味がすでに一般性と規範性をもっているからである。」（73～4頁）

　行為そのものの考察から公共性・社会性を導き出してくれるのではないか、という期待はすでに裏切られていたのだが、ここに到って、意味は一般的・規範的なものとされることで、そもそも行為から意味の説明をするつもりはなかったことが示されている。ヴィトゲンシュタインを手がかりに開き直った感がある。

「行為の遂行と理解は、『一般化された規範的な予期』というヤクを共に負った間での、単一の出来事の『共ヤク的』な二側面であって、切り離しえない。」（76頁）

　大庭がここで述べている行為のヤクとしての「一般化された規範的な予期」、これこそが、公共性・社会性の内実だが、これは一体どこから導き出されるのか。ヴィトゲンシュタインに掲示を受けた、ということではすまされない問題ではなかろうか。とまれ、個人の行為に内在して論議をはこんできた大庭は、ここで突然、社会の方にジャンプしてしまう。

「1．社会を構成している要素は、個人の行為であるよりも、むしろ人の間での《行為の共範的な実現》というできごとであり、
　2．社会の要素的できごとは、たんに因果的にではなく、《事前の予期と事後的確証》という意味的関係によって、つながりあっていく。」（83～4頁）

　このようにまとめると、社会システムの自立性を強調しているかのように思われてしまう。というのも、この主張は、社会の集合的事象に拘束されている、ということ以上のことについて述べてはいないから。そこで大庭は次のようにつけ加える。

「そうした集合事象もまた、それぞれの人が、規範的に一般化された予期にもとづいて『する』ことが、予期せざる仕方で合成された結果なのであって、誰もなにもしないのに起こったりはしない。そうした集合事象が起こっているときには、それぞれが、規範的に一般化された予期にもとづいて、なにかをしている。」（95～6頁）

　このように言えば、今度は個人を社会の要素としているように読める。そこで大庭は、個人の存在と社会システムを構成する行為との関係へと考察を移している。

4）存在と行為

　第三章は、「わたしの社会的構成」と題されているが、ここで大庭は諸個人の存在がなければ社会システムも存在しない、という事実から、存在が行為に先行するという見解が導かれてくるが、はたしてそうなのか、ということを検討している。大庭の考察は「コウモリにとっての世界」といった批判的に検討しようもない事例がもとになっているので自身によるまとめを引用しておこう。

「これまでの考察をまとめると、こうなる。（1）の『あそこに木がある』という経験が、（2）の『あそこに木が見える』という経験へと展開し、そこからさらに（3）の『ここから木が見える』という経験へと展開するためには、そのつどの遠近法での現われを、全位置が等価である地図へと対応づけ（マッピング）できねばならなかった。しかるにこのマッピングは、［H］全てがココへと現れてくる、そのようなココが、世界内で一つの位置を占めている、という認知によってのみ可能となるのだが、しかし、この認知は、［R］眼前の一事物の振舞いが、ココへの呼びかけ・働きかけ・ココの動きへの応答なのだ、という認知によって、はじめて可能となる。しかるに、［R］は、相手の受け止め方の予期の予期にもとづく呼応という、社会システムへの参与を離れては、不可能である。このことは、幼児の自己意識の生成の研究によって確証される経験的な事実にとどまらない。それは、むしろ、ココという遠近法の視点という概念そのものが、ソコからの跳ね返りに接して、ソコでなく・他ならぬ・ココとしてはじめて理解可能となる、ということに由来する、概念的・論理的な事実である。」（132～3頁）

　このような考察が何故なされたかについてはよく分からないが、しかし、大庭はこの考察から、なんの社会システムにも参与していないなら、あそこに木があるという経験は、何ら「わたし」に木が見えているという経験ではなく、そして行為や行為主体という概念も意味をもたないから、「わたしが見ている」という意識は生じないと述べている。このことは「わたしが成立するにあたって、ある人―間のできごとが起こっているはずである」（123頁）という仮説の証明としてあるココにいる、という場の自覚もソコにいるものとの呼応においてであるという呼応論の帰結なのだろうか。大庭は呼応について次のように述べている。

「しかるに、このような、ソコにとってのソコという、跳ね返りによるココの存在の自覚は、社会システムの参与なしには不可能である。この自覚にとって不可欠な呼応は、呼びかけ・応答『として』の発声という、まさしく相互行為の共軛的な実現に他ならない。なんの社会システムにも参与していないならば、そもそもたんなる外界からの音／呼びかけとしての声、という区別が意味をもちえない。」（130頁）

　つまり大庭は、存在が行為に先行するという説を、社会システムの参与ぬきの個人は社会性をもちえない、ということを証明することで批判しようとしている。このような批判は裏がえせば、個人の行為の社会性は社会システムに参与することによって与えられる、ということになり、大庭自身としては、個人と社会とを対立的に捉えていることが明らかとなる。
　急いで第五章で述べられているまとめ的な部分に移ろう。

「わたしの存在は、社会システムに参与する行為なしにはありえないが、わたしの存在は、社会システムにとって、システム外部の世界のことである。社会システムは、参与して行為する個人なしにはありえない。しかし参与して行為しようとする思いは、社会システムの外部の世界でしか起こらない。」（191頁）

　個人は社会システムの外にありながらも、その行為が社会システムに参与することなしには個人としての存在がありえない、というように大庭は個人と社会とを行為を媒介に結びつけられた外的なものとみている。

「存在と行為は、人称的な呼応の話法の重心としての、わたしにおいて重なってはいるが、しかし、たがいに外部であり、しかも、一方なしには他方もないという形で依存しあっていた。そうだとすれば、行為の世界と存在の世界は、ないし社会システムと心システムは、たがいに外部ではあるが、その外部なしにはどちらもありえないという関係、つまり《たがいに他方の環境である》という関係にある。」（192～3頁）

　大庭はここで、わたしを存在と行為の二重性において捉えようとしているのだが、その際に存在と行為とを心システムと社会システムというようにたがいに外的なものとしたために、社会を人々の関係として捉えることに失敗している。大庭にあっては、社会とは行為を要素とし、行為の連鎖としてあって、個人は社会の外部にあって、行為を入力する存在とされているのである。
　だから、独我論の立場からの自我が、独立した社会的な個人が実在するとなると、大庭の自己組織システムとしての社会は存立の余地がなくなる。さらにまた、永井の〈私〉は、独我論から出発した他者についての哲学から生み出された社会関係の産物としてある類としての個のことだが、人々の関係から社会を説く方法を拒否している大庭には、この〈私〉は理解の枠を超えたものになっているのだ。

5）大庭説への疑問

　大庭が、わたしを存在と行為の二重性と見るなら、その二重性を呼応関係のなかから導くべきではなかろうか。大庭にとっての呼応とは「わたしが成立するにあたって、ある人―間のできごと」（123頁）であり、話法の重心としてのわたしは、呼応において成立するとされている。

「わたしは、話法の重心でしかなく、スポークス・パーソンでしかない。ということは、ソコから呼びかけられ・ココで応えるという《呼応》の可能性が、わたしの成立・存続の死命を制する、ということを意味する。ぎゃくにいえば、呼応の可能性が途絶しないかぎり、そのかぎりでのみ、『話法の重心・システムのスポークス・パーソン』として、わたしが存続する。こうした《呼びかけと応答の可能性》という意味でのレスポンシィビリティこそが、責任という意味でのレスポンシィビリティの根幹をなす。」（177頁）

　大庭はここで自己と他者との対話の関係を想定しているのだが、何故、この関係それ自体を社会の原基形態として捉えないのか。ここに責任の問題を見ようとする倫理学的精神に目を遮られてしまっているのだろうか。自己と他者との関係に社会の原基形態を見ようとすれば、個人の存在と行為のどちらが先立つかとか、行為の社会性を行為自体の分析から説こうとして、意味を導入することで、社会性を密輸入する、といった問題を引き起こす必要はなくなる。
　自己と他者との関係を社会の原基形態として捉える、ということは、この関係から社会性を導き出すことでなければならない。この試みは、スミスの人間鏡説を皮切りに、社会学の分野ではミードが、社会的自我の形成を一般化された他者の態度を取得する、というように見たり、また精神分析家のレインが、アイデンティティの確立には他者からの承認が必要だと述べたことなどがあり、さらに哲学の分野では、我と汝について考察したブーバーや、それをさらに一歩進めたレヴィナスの説がある。
　しかし、この試みにとって最も頼りになるものは、マルクスの価値形態論ではなかろうか。マルクスは、商品の価値形態の分析にあたって、最も簡単な価値形態である二商品の等置の関係から、価値の社会的性格を示したが、その際に形態規定という考え方を提出している。これは例えば、等価形態に置かれている商品、上着が、上着という自然物のままで、それが価値という社会的なものの化身とされる（これが形態規定と呼ばれる事態）ことだが、こうした形態規定は、両極が関係しあう反照関係にあっては一般的に起きる事態ではなかろうか。
　この価値形態論の成果を活用するなら、自己と他者という関係においては、自己に働きかけられる他者の側はいつも生身の人間のままで社会的意識の化身として形態規定されていることになる。つまり大庭が考えているコードや規範的一般性は、自己と他者との関係の外から与えられるものではなくて、この関係が自ずからつくり出しているものなのだ。
　永井が独我論から他者を考察することで獲得した、コノ私や一般的な「私」とは別の〈私〉とは、実は自己と他者との関係で形態規定された他者の自己への投影であり、自己の類としてある個としての自覚のことなのだが、大庭説の呼応論を自己と他者との関係へと改作し、そして、そこにマルクスの形態規定という考え方を導入すれば、永井の〈私〉はそこに回収することが可能となるのではなかろうか。

終章

　当初の予定では大庭の『他者とは誰のことか』（勁草書房）をとりあげるつもりであった。ところが『私という迷宮』や『自分であるとはどういうことか』（講談社現代新書）を手にしてみて、大庭の問題意識が「私探し」の思考に対する批判にあることがわかり、ごらんのように『自分であるとはどんなことか』に即して議論することになった。VSの現場から見えるもの、と題した以上は、この章でその内容について提起しなければならないが、最近、私自身が若者たちとの哲学論議の場をもったことで、永井VS大庭の現場の、現場としての臨場感が希薄となってしまった感があり、別の形で仕上げることにしたい。なお永井均の説については、以前に「永井均の<私>に魅せられて」（ASSB誌10巻3号）にコメントを書いている。参照されたい。

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Author: admin Published: 2006/1/5 Read 8623 times

永井vs大庭の現場から見えるもの

第1章 永井説への評価

哲学の越境を求める他者論

第2章 大庭説の概略と疑問点