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倖の䞻䜓の匁蚌法「粟神珟象孊」意識論の解読: 哲孊の旅第10回 倖の䞻䜓の匁蚌法『粟神珟象孊』意識論の解読 第2ç« 
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哲孊の旅第10回 倖の䞻䜓の匁蚌法『粟神珟象孊』意識論の解読 第2ç« 


序章 研究の芖点
 1『粟神珟象孊』の䜍眮2関係論ずしおの二぀の匁蚌法3研究の範囲
第1章 感芚的確信
 1意識圢態の移行2吊定匁蚌法の適甚3「倖の䞻䜓の匁蚌法」の展開
第2章 知芚
 1物を䞻䜓ずした知の構成2反照論の展開3物ず自我の二重性4悟性ぞの移行
第3章 力ず悟性
 1無制玄的䞀般者2自我ず察象の力による合䞀3物の内面ず珟象4自己意識ぞの移行
終章

第2章 知芚


1物を䞻䜓ずした知の構成


 知芚に぀いおヘヌゲルは「存圚するず思うものを䞀般的に受けずる」89頁ものず芏定し、知芚の原理を普遍性に求めおいる。そしお、知芚ずいう意識圢態にあっおは、その䞡極をなしおいる察象ず自我ずは、䞀般的な察象ず䞀般的な自我になっおいるずされおいる。感芚的確信ずいう意識圢態にあっおは、䞡極は個別的なひずが個別的なものを知る、ずいうものであったが、感芚的確信が経隓によっお察象を䞀般的なものに転じるこずで、それを意識する自我の方も䞀般的な自我ぞず転化されたのだった。ずころで「ヘヌゲル匁蚌法の転倒」末尟HP参照では、知芚のずころを本質論の展開ずしお捉えようずしお捉え切れず、結局は論理孊を玠材ずしお匁蚌法の転倒を詊みたのであるが、「倖の䞻䜓の匁蚌法」以降カッコをはずすの展開、ずいう芋地から知芚の章をみるず、これもきわめお平明な論理が展開されおいるこずが刀明する。
 知芚の察象は䞀般的なものであり、そしお知芚はこのものを意識のうちで䞀般的なものずしお捉えようず運動しお行くわけであるが、その結果、察象は倚くの性質をもった物ずしお珟れる。ヘヌゲルはこの物に぀いおの芏定を、意識の匁蚌法によっおではなく、倖の䞻䜓の匁蚌法によっお展開しおいる。
「自己自身に等しい、単䞀な普遍性それ自身は、しかし、自分のも぀これらの芏定態ずは区別されおおり、それから自由である。この普遍性は玔粋の自己関係たたは媒䜓である。この媒䜓のなかには、いた蚀った芏定態のすべおが存圚しおおり、したがっおそれらの芏定態は、単䞀な統䞀である媒䜓のなかで、互いに浞透し合っおいるが、しかも互いに觊れ合うこずもない。ずいうのは、この普遍性に関䞎しおいるずいう正にそのこずのために、それらの芏定態は互いに察し無関心であるからである。」901頁

 知芚によっお、ある物が色々な性質をもっおいるこずが刀明し、知芚は芏定を䞎えるこずである物に぀いおのある芏定を吊定しおいくのだが、ここではヘヌゲルは、知芚によっお芏定される物の偎から知芚の働きを受けずめおいる。その堎合、意識のうちにある芏定態のあり様ずは党然別のあり様をもっお物の芏定態が存圚しおいるこずになる。
 ヘヌゲルによれば、䞀般的なものず個別的なものずの統䞀ずしおあるこの「ある物」は、意識によっお自分に䞎えられた芏定態ずは別のものであり、それから自由にあっお、倚くの芏定態の統䞀も、ある皮の媒䜓のなかで互いに觊れ合うこずもない、ずいうむメヌゞをもっおいる。ある物に぀いおの芏定態がこのようなむメヌゞで描き出されるず、物の構成に぀いおも描き出すこずが可胜ずなる。
「物は、α無関心な受動的な䞀般性であり、倚くの性質たたは倚くの玠材のもたたであり、β吊定でもあれば単䞀でもあり、぀たり、䞀であり、察立する性質を排陀するものであり、γ倚くの性質自身であり、初めの二぀の契機の関係であり、吊定である。これは無関心な堎に関係し、そこで数倚くの区別ずしおひろがる。぀たり、個別態である点が、自らを存立させる媒䜓のなかでひろがっお、倚になるのである。これら区別されたものは、無関心な媒䜓に垰属する面から蚀えば、それ自身䞀般的であり、自己に関係し、互いに刺激し合うこずはない。がそれらは、吊定的統䞀に垰属する面から蚀えば、同時に排他的でありながらも、圓然そのものからは隔おられおいるいく぀かの性質においお、この察立した関係をもっおいる。感芚的普遍、もしくは、存圚ず吊定的なものずの無媒介の統䞀は、䞀ず玔粋の䞀般ずが統䞀から展開され、互いに区別されおおり、しかも統䞀がこれらを包括しおいる限りで、初めお性質である。この統䞀が玔粋の本質的契機に関係するずき初めお、物は完結するのである。」92頁

 ここでもヘヌゲルは意識の倖にある物を䞻䜓䞻語にしお、知芚によっお捉えられた物の性質が、物においおどのような様匏で組織だおられおいるかに぀いお考察しおいる。察象を意識の契機ず捉え、察象の性質を意識の運動ずいう自由なものでもっお、意識のうちに構成する、ずいうヘヌゲルの意識の匁蚌法論理孊ずは逆に意識によっお捉えられた察象受動的な䞀般性を意識の倖にある察象の偎に構成するこずがここで詊みられおいる。だから、論理孊を䞋敷きにしおここを解読しようずするたいがいのヘヌゲル研究者にずっおは、ここは理解䞍胜ずなる。意識の倖の䞻䜓である察象に埓っお意識が捉えたものを構成しおいく、これが意識の経隓であり、そこで展開されおいる匁蚌法は意識の匁蚌法ずは逆になっおいる、ずいうこずに気づけば、ここでのヘヌゲルの展開は非垞にわかりやすい。
 意識の匁蚌法からすれば、䞀般的なものは意識であり、察象は特殊ず個別を契機にも぀抂念的な存圚であり、それは意識に捉えられる限りで知ずしお存圚する。ずころがここでは受動的ずされおいるずはいえ、䞀般的なもの、䞀者は察象である物の方にあり、意識が捉えた倚くの性質、吊定、排他性は、物の偎にある堎、媒䜓のもずに統䞀されるのだ。ここでは意識が物の契機ずされおいるのである。
 実際に、ある物を意識によっおさたざたに芏定し、これらの諞芏定を物の方に再構成するずき、これらの諞芏定は統䞀のなかで互いに刺激し合うこずはない、ずいうのはしごく圓然な話である。ずころがヘヌゲルの真理論からからすれば、このような倖の䞻䜓の匁蚌法は実は物による知芚に察するたどわしである。意識は倖の䞻䜓の匁蚌法に぀き埓うこずで、このたどわしを意識しなければならない。これが知芚の経隓である。

2反照論の展開


 物の構造が先に述べられたようであるのに、知芚は「察象を排陀的なもの」94頁ずしお捉たざるを埗ないので、知芚は錯芚に陥ったこずを経隓する。しかし、倖の䞻䜓の匁蚌法に埓う限り、この錯芚は氞遠にくり返される。そこでヘヌゲルは、この悪埪環から抜け出す方策ずしお、「意識は、知芚に぀いお経隓し、結果ず結果の真理ずは、自らが解䜓するこずであり、蚀いかえれば、真から自己自身に反照するこずであるず知る」94頁ずいう芋地に立぀。これは「われわれ」の立堎である。
 ヘヌゲルにずっお、倖の䞻䜓の匁蚌法を展開すれば、意識の方が解䜓されおしたうこずは自明であった。では、この解䜓する意識の運動自䜓を捉えればどうなるか、これが、ヘヌゲルにあっおは、倖の䞻䜓の匁蚌法を意識の匁蚌法ぞず転換させおいくバネずなっおいる。
「知芚ずは単玔にただ把捉するこずではなく、自ら把捉しながら、同時に、真なるものの倖に出お自己に垰っおくる反照するこずである、ずいうこずが、意識にずりはっきりしたのである。  これから考察さるべき意識の態床は、だから、次のようなものである。぀たり、意識はもはやただ知芚するのではなく、その自己反照を意識しおおり、この反照を単玔な把捉そのものから分離する。」945頁

 ヘヌゲルはこのように問題を立おお、次に先に展開した唯物論を吊定する芳念論の境地を展開しおいく。さきには物を媒䜓ずみなしたが、今床は、われわれの反照意識の方を媒䜓ずみなし、意識のうちに真理を措定するのである。この芳念論の展開に぀いおは玹介するのをひかえるが、この二぀の立堎を察立したものずしおではなく、双方を意識の圢態ず捉えかえすこずが詊みられる。぀たり、意識ず物ずがそれぞれ二重の仕方で珟れおいる、ずみるのである。
「意識は、このように比范するこずによっお、意識が真理を぀かむこずには、把捉するこずず自己に垰るずの違いがあるだけでなく、むしろ真そのものが、物が二重の仕方で珟れるこずに、気が぀く。そこで物は把捉する意識に察しお䞀定の仕方で珟れるが、同時に、自らが珟れる仕方の倖に出お、自己に垰っおいる。蚀いかえるず、それ自身においお察立した真理をもっおいるずいう経隓が、珟存しおいるわけである。
 こうしお、意識は、知芚するずきの態床、぀たり、物を、真に自己自身に等しいものずしお぀かむけれども、等しくないものに、等しいものの倖に出お自己に垰るものに、察するものずしお぀かむずいう、第二の態床をぬけ出しおいる。そこで、意識からみるず、察象は、いたずなっおは、前には察象ず意識ずに分け䞎えられおいたこの運動の党䜓、であるこずになる。」97頁

 倖の䞻䜓を措定するこずで展開された唯物論的な倖の䞻䜓の匁蚌法ず、他方、意識を䞻䜓ずしお措定した芳念論的思匁の双方を比范し、ヘヌゲルは、双方が捉えた物ず意識を、物ず意識の二重性ずしお捉えかえしおいる。ここから開かれる境地がヘヌゲル独自のものである。

3物ず自我の二重性


 ヘヌゲルはたず物の二重性から出発する。物は自分に察しおいるが、たた意識に察しおもいる。そしお物は自分だけでいるずきは、意識に察しおいるずきずは別のものである。このように物はいたや二重の存圚であるが、たた䞀者でもある。ずころが、䞀者が二重に異なった存圚であるのは矛盟である。
 そこで意識は、物が自分だけである限りでは意識に察しおはいない、ずするこずで物の唯䞀性を保蚌すべきかも知れない。しかし唯䞀性は物自身の本質である。そうなるず自己に垰っおいる唯䞀性ずしおの物ず、意識に察しおいる物ずは異なっおいるわけだから、これを察象の偎に垰すず、いく぀かの物が生じるこずになる。こうなるず物はたしかにそれ自䜓であるのだが、この自己自身ずの統䞀が他のものによっお劚げられるこずになる。だから、ここでは物の統䞀が維持されはしおいるが、他のものはこの統䞀の倖にあり、埓っお意識に察する物の方がこの統䞀の倖にあるから、この統䞀は意識の倖にあるこずになる。
 こうしお物の統䞀を意識の倖の出来事だずするず、物の矛盟は異なった物に分けられるが、しかしこれらの物は関係性のうちにはなく、それぞれがただの唯䞀者ずしおあるこずになる。ずころが珟実には倚くの物があるから、それぞれの物は唯䞀性をもち぀぀、たがいに自分の倖の物ず察立せざるをえない。意識の倖に出おしたった物を倖の䞻䜓ずしお措定するず、「物はそのために他のものず察立するけれども、その察立に圚りながら、自分だけで自分を支えるこずになっおいる」98頁こずになる。ずころが他の物ず察立しおいる、ずいうこずも䞀぀の関係であり、たずえ「絶察的な性栌ずその察立ずによっお、他の物ず関係」98頁しおいるずはいえ、この関係の内に入るこずは「物の自立性を吊定する」99頁こずになり、こうしお倖の䞻䜓ずしおたおられた物は、意識の倖で統䞀を維持しようずする限り、「物は、自らの本質的性質によっお亡びるこずになる」99頁のだ。
 この意識の倖にある統䞀ぞず物の本質を芏定しようずするずき、物の方が亡んでしたう、ずいうこずを意識が経隓せざるをえないこずに぀いお、ヘヌゲルは次のようにたずめおいる。
「物は自分だけの有ずしお、぀たり、すべおの他有の絶察的吊定ずしお、したがっお、自己にだけ関係する絶察的吊定ずしお、措定されおいる。だが、自己に関係する吊定は自己自身の廃棄である、぀たり自らの実圚を他者のうちにも぀こずである。」99頁

 物の唯䞀性は物自䜓にそなわっおいるかのようであるが、これは党おの他の存圚の絶察的吊定をずもない、この絶察的吊定においおは自己だけに関係しおいるが、しかし、物が自分自身に関係するずいうこずは思考によっおであり、自己の実圚を他者ずしおある意識のうちにも぀こずなのだ。
 通垞ここで出おくる他の物を意識に察する物ずいうように解釈せず、或る物ず他のもの、ずいう察象それ自䜓の察立ず考えられおしたっおいるので、物ず意識がそれぞれ二重の仕方で珟れる、ずいうヘヌゲルの考えが生かされおいない。この二重性を生かすず、このように解釈できるが、どうだろうか。

4悟性ぞの移行


 このように知芚される物を倖の䞻䜓ずしお措定し、意識の倖で物を䞻䜓ずしお匁蚌法を展開し、物を亡がすこずに成功したヘヌゲルは、察象が物ずしおはなく、力ずしおあるこずを認める段階ぞず、぀たり悟性ぞず移行しおいく。その移行芏定をみよう。
「ここに至っお、自分だけでの有ず他者に察する有ずを分けおいた䟋の最埌の『限りにおいお』はくずれ去っおしたう。むしろ、察象は党く同䞀の点で自己自身の反察である。察象は他者に察しおある限りで、自分だけで有り、自分だけである限りで、他者に察しおいる。察象は、自分だけで有り、自己に垰っお反照おり、䞀である。だがこのように、自分だけで、自己に垰っお、䞀であるこずは、その反察぀たり他者に察する有ず統䞀されおおり、それゆえ廃棄されたものずしおのみ措定されおいる。」99頁

 物の統䞀が亡んでいくこずを意識の倖での出来事ず解釈するず、ここの論旚も明快になる。たずヘヌゲルは察象それ自䜓ずしおの物ず、意識他者に察する物ずの区分の止揚が意識の経隓によっおおのずず瀺されたずし、察象の自己同䞀性ずは、察象それ自身にずっおは反察のものだず䞻匵しおいる。぀たり察象は意識に察しおある限りで自分だけであり、そしお自分だけである限りで意識に察するこずが出来るのだ。぀たり察象の唯䞀性ずは察象が自分だけでありながら意識ず関係し、意識を媒介にしお自己に垰る反照こずであり、これは぀たりは察象自䜓の唯䞀性、個別の有の物性ずいうこずが廃棄されおいるこずを意味しおいるのだ。
「察象は感芚的存圚から出お、䞀般者ずなる。けれども、この䞀般的なものは、感芚的なものから発しおいるので、本質的にはこれによっお制限されおいる。だからそれはもずもず、真に自己自身に等しいものではなく、察立によっお刺戟された䞀般性である。それゆえ、個別ず普遍ずいう䞡極に、諞々の性質が䞀぀であるこずず自由な玠材そのものずいう䞡極に分かれる。この玔粋の芏定態は、定圚性そのものであるように芋えるが、自分だけの有にすぎないのであっお、他者に察する有に぀きたずわれおいる。しかし、䞡者は共に本質的には䞀぀の統䞀のなかにあるのだから、いたここに至っおは、無制玄的な絶察の普遍が珟存しおいるこずになる。そしおここで初めお意識は真に悟性の分野に入ったわけである。」99100頁

 知芚のレベルに入るこずで察象は感芚的なものから出お䞀般的なものずなったが、しかし、この䞀般的なものはただ感芚にずらわれおいた。だから、この䞀般性も自己同等性ではなく、他ずの察立によっお刺激される限りでのもので、個別ず普遍ずいう䞡極も、䞀ず倚ずいう項になっおいた。そしおこの物による意識の倖での統䞀は、意識に察する物に぀きたずわれおいるので、意識の倖では亡んでしたう。そこで察象ずしおある物ず、意識に察しおある物ずはもずもず統䞀のなかにあったのだ、ずいうこずがわかるが、このような統䞀の䞭にこそ、無制玄的な絶察の普遍が珟存しおいるのだ。このこずを意識する意識圢態は悟性である。

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Author: admin Published: 2006/1/5 Read 3070 times   Printer Friendly Page Tell a Friend