第7章　理論的活動の転倒（『法哲学講義』より）
　1）はじめに　2）人間論　3）理論的活動　4）理論の弁証法の転倒
第8章　実践的活動の転倒（『法哲学講義』より）
　1）意志の自由　2）抽象法3）財産　4）所有への移行　5）財産の譲渡（商品と貨幣）　6）実践の弁証法の転倒
第9章　ヘーゲルの生命論
　1）自己意識という生命　2）『大論理学』の生命論　3）イポリットの解説　4）初期へーゲルの生命論　5）生命過程論の登場　6）『精神現象学』の生命論　7）生命論のまとめ　8）自己意識論にむけて

第9章　ヘーゲルの生命論

1）自己意識という生命

　『精神現象学』のB.自己意識にもどり、ヘーゲルの自己意識の弁証法をみてみよう。ここでヘーゲルが述べている事柄は、まず自己意識を「自己自身を確信する真理」として捉えて、その生成の過程を描くことであり、次に自己意識ともう一つの自己意識との間の承認の弁証法を明らかにし、この矛盾の解決として主と僕との関係を例示している。そして、最後の「不幸な意識」のところで、意識の弁証法について整理している。

　そこでまず「自己自身を確信する真理」の検討から入るのだが、そこで展開されているのは、生命論である。すでにイポリットが『ヘーゲル精神現象学の生成と構造』（岩波書店、1972年）で自己意識論を生命論の見地から解釈していたとはいえ、日本の学界で生命論に注目した著書が発表されるようになったのは、90年代後半以降のことではなかろうか。自己意識論というと、一番わかりやすい主と僕の弁証法がとりあげられるのが、それまでの研究書の常であったが、1987年に出版された『ヘーゲル精神現象学入門』（有斐閣）では、ヘーゲルの自己意識論がデカルトやカントのそれとは異なる点について次のように述べられていた。

「(1)自己意識は体系の原理ではなくて、意識の経験の結果である。(2)外界、身体、他我を排去した所に自己意識がなりたつのではなく、生身の人間としての自己意識がそれらを持つ。(3)内省的・二次的性格をもつ反省作用とはちがって、自己意識は直接に食べたり、愛したりする対象を持つ。」（62頁）

　つまり、自己意識とは、人間のことであり、それも孤独な人間ではなくて、社会の中で生活する生身の人間のことだというのである。その人間としてある自己意識の生命としてのあり方が「自己自身を確信する真理」で述べられている。とすれば、まず迂回して、『大論理学』の生命論の内容をたしかめ、ついで、イポリットの解釈をてがかりにしつつ、ヘーゲルにむかうことが必要である。

2）『大論理学』の生命論

　ヘーゲルの生命論は、『大論理学』では理念論で取扱われている。これまで言及してきた概念論は三編に分けられ、主観性、客観性、理念に区分されている。この理念論で扱われている生命論の紹介から始めよう。

　論理学の対象となる生命とは、当然自然哲学や自然科学の対象となる生命とは区別されており、それは「直接的な理念」だとされる。

「認識は概念であるので、概念がそれだけで独立に・だが主観的なものとして客観的なものへと関係するその限り、概念は前提された・また直接的な理念としての理念へと関係するのだからである。だが直接的な理念とは生命である。」（『大論理学』寺沢訳、3、原典、277頁）

　ヘーゲルにあっては理念とは「十全的な概念であり、客観的な真なるもの、あるいは真なるものそのもの」（267頁）であり、「概念と客観性との統一」（269頁）である。例えば人間は、自分の魂と身体との合一である限り、その限りでのみ、ある真なるものであり、そうでなければ現存在することをやめる。「人間・生命のあるものは、魂と身体とがそれのなかで分離されるならば、死んでいる。」（270頁）
　ヘーゲルが直接的な理念が生命だと主張するときの生命とは、人間が魂と身体とを合一させることで現存在する、という意味だった。このことを念頭において、さらに進んでみよう。

「生命をそれの理念においていまやくわしく考察するならば、生命はそれ自体で自立的に絶対的な普遍性である。……概念は生命において遍在的な魂である。そしてこの魂は自己自身への単一な関係であって、客観的存在に属する
　多様態のなかで一つでありつづける。……数多的な外面態のなかでの単一なものの遍在は反省にとっては絶対的な矛盾であり、反省が同時にこの遍在を生命の知覚から把握しなければならず、したがってこの理念の現実性を認めなければならないその限りでは、把握しがたい秘密である、というのは反省は概念を把握せず、また概念を生命の実体として把握しないからである。」（279～80頁）

　ヘーゲルによれば生命とは、それ自体で自立的に存在しているが、その概念は魂という一つのものである。具体的な生命は多様な形で存在しているが、その外面のなかでの単一の魂の存在は具体的な生命を分析する反省的思考では把握できないものだとされている。そしてこの単一な生命は、単に遍在的であるだけでなく、「端的に自分の客観性の存立であり、内在的な実体である、だが主観的な実体としては、衝動である」（280頁）とされている。

「生命は自分の客観性と特殊化とのこの否定的統一としてのみ自己へと関係する生命・自立的に存在する生命・すなわち魂である。生命はこうして本質的に、他者・すなわち生命のない自然としての客観性へと関係する個別的なものである。それだから、生命の根源的な判断〔原始分割〕は生命が個体的な主語（主観）として客観的なものに対して自己をわけへだて、自己を概念の否定的統一として構成しながら、直接的な客観性という前提をつくりだすことにある。」（280頁）

　ヘーゲルは、概念（意識）が外化して自然（客観）になる、という論を展開したが、そのポイントはこの概念と客観性との統一を生命（理念）で成し遂げるというところにあった。

　ここで紹介した『大論理学』の生命論は、それに賛同するかどうかは別にして、理解するのに骨が折れるということはない。ところが『精神現象学』の生命論は、この『大論理学』のそれとは異なった論理展開がなされていて、それだけを読んでも理解できないように思われる。そこで次にイポリットの解釈を紹介しよう。

3）イポリットの解説

　イポリットは『ヘーゲル精神現象学の生成』上巻で、ヘーゲルの自己意識を「本質的に実践的な意識であり、〈他なるもの〉の知をのりこえる意識である」（192頁）と捉えている。そしてヘーゲルは、そこで、「生命の存在そのもの並びに、自己意識の存在」（194頁）を考えようとしていると見ている。

「自己意識に関する『現象学』のテキストが、〈生命〉の一般哲学の叙述からはじまっているゆえんはあきらかである。〈生命〉は、即自的につぎのようなものであるからである。すなわち、自己意識が対自的にそうであろうとするところのものであるからである。即自から対自への移行は、ここでは、たんに、ひとつの形式から他の形式への移行（本性の変化をともなわない移行）にすぎないのではない。人間が普遍的生命を自覚することは、創造的な反省〔還帰〕なのである。シュリングにとっては、生命とは、まだ自分を知らない知であり、知とは、自分自身を知っている生命であるから、したがって、生命と知との合一が哲学的直観であるが、ヘーゲルにとっては、知のなかへの生命の還帰のみが精神を構成する。この精神は、まさしく自然が還帰したものであるから、自然よりも高次のものである。」（196頁）

　このように捉えるイポリットは、ヘーゲルの生命論は生命一般ではなく、人間論だとみなしている。つまり生命の一般論は人間の存在を概念的に把握するときの根拠として役立てられているにすぎない、というのである。そして、生命の運動性について次のように述べている。

「この生命は不安定なるものなのである。〈自己〉は、自分を失い、自分の他者性のなかに自分をみいだすものであるが、生命はこうした〈自己〉の不安定性なのである。ところが、この生命は、決して自己と一致しない。自分自身であるためにつねに他なるものであるのが、この生命なのである。なぜなら、限定は、限定であるかぎりにおいて、すでに自分の最初の否定であるからである。『決して自分がそれであるところのものでなく、つねに、みずからがそれでないところのものである』のが、人間の存在なのである。」（198頁）

　イポリットは、生命の運動性を否定の否定の弁証法として描き出している。それはまた有限（個）と無限（生命）との弁証法であり、それは「同一性と非同一性との同一性」として定式化されている。このようにヘーゲルの生命論を捉えたイポリットは、ヘーゲルが述べた生命の運動性について、次のように解釈している。

「生命の一般哲学は、つぎのような二重の運動に由来するものである。すなわち、一なる生命（能産的自然）が多くの生命形式すなわち区別（所産的自然）へと移行する運動と、逆に、さまざまのことなる形式から出発しながら、この諸形式のなかにこの諸形式を通じておなじ一なるものをとりもどす運動という二重の運動に由来するものである。この二つの運動は、生命の過程――死して成れ――において交錯している。したがって、〈一なるもの〉の分裂がじつは統合の過程であるのは、ちょうどこの統合が分裂の過程であるのと同様なのである。だから、生命とは、自分に還帰する循環的な生成なのである。しかし、生命が真に還帰することは、生命が対自的に生成すること、すなわち『自己意識が出現すること』である。この自己意識の発展は、あたらしい形式で、生命の発展を再生産するものに他ならない。」（201～2頁）

　循環というと回転することを連想するが、イポリットは、そうではなく。循環を二重の運動と捉えている。多分一つの過程に二重の対立する運動が含まれている、ということだろう。そうだとすると、この生命の運動は、有－無－成の移行の論理や、対立物の統一という反照の論理や概念論の展開の論理とも異なっている。また、『大論理学』の理念論で生命を魂と身体との合一と規定したことは、この二重の運動からの後退のように考えられる。ところでイポリットは次のような解釈も試みている。

「生命の環境においては、いっさいの他者性は、暫定的な他者性であり、みかけだけの他なるものである。じじつ、この他なるものは、たちまち一なる〈自己〉に帰するものでしかない。〈生命〉とは、まさしく〈他なるもの〉を自分自身に還元し、この〈他なるもの〉のなかに自分をみいだす運動なのである。」（202頁）

　生命を循環として捉えたとき、たしかにそれは物質代謝の過程となり、この循環のうちには、絶対的他性は認められない。とすると、絶対的他者相互の関係はここにないことになる。そうだとすると、過程としての生命について叙述することは弁証法としての意義をもつのだろうか。

4）初期へーゲルの生命論

　『大論理学』と『精神現象学』の生命論の叙述における相違にたちかえろう。前者では、生命は魂と身体との合一と捉えられ、生命過程についても、後者のように、その過程そのものの叙述は試みられておらず、生命があるものを衝動として捉え、そして生命のあるものが「絶対的な矛盾」（大、290頁）と規定され、その原理が生命の概念に求められている。そして、先にも見たように、この「絶対的な矛盾」としてある生命のあるものは、反省的思考によっては捉えられず「生命の知覚から把握しなければならない」（大、280頁）とされている。
　そうだとすれば、生命過程は意識の弁証法になじまない、ということを、ヘーゲルが認めるに到ったのではないか、ということが考えられる。このことを証明するためには、ヘーゲルの生命、生の概念についての歴史的変化について見ておくことが必要である。幸い、90年代に入っての初期ヘーゲルの研究は、「生命」概念の変遷をひとつの研究課題としており、多くの文献が出版されている。

　寄川条路は『体系への道』（創土社、2000年）で若きヘーゲルの「生」の概念の変遷を追っている。

「『生』の概念は、ヘーゲルのフランクフルト時代（1797～1800年）において、体系の全体を構成する中心的な理念である。この概念を、ヘーゲルは、すでにフランクフルト断片において、例えば『愛について』と『キリスト教の精神』のなかで、全体の統一を与える実体的な概念として規定している。」（75頁）

　そこで、『キリスト教の精神とその運命』（『ヘーゲル初期神学論集』・、以文社）をみてみよう。ヘーゲルはヨハネ福音書から「初めにロゴスありき。ロゴスは神とともにありき。神はロゴスなりき。ロゴスの中に生命ありき。」という有名な文章を引いて生命について次のように展開している。

「ロゴスそのものは神のところにあり、それらは一である。現実的なものの多様性、無限性は現実となった無限分割である。すべてはロゴスによってある。世界は神性の流出ではない。というのはそうであれば、現実は完全にひとつの神的なものであるだろうから。しかし実際の姿としてはそれは流出、つまり無限分割の部分である。しかし同時に部分の中に、もしくは無限に分割するものの中に生命がある。対立せるもの、死せるものとしての個別者、制限されたものは同時に無限な生命の樹の枝である。どの部分も、その外部に全体があるのだが、同時にひとつの全体である、ひとつの生命である。そしてこの生命がまた反省されたものとしても、また分割すなわち主語および述語という関係に関しても生命であり、とらえられた生命である。これらの有限物は対立物をもつ。」（・、207頁）

　ここでヘーゲルは、神と論理（理性）と生命との関係について論じている。ロゴスという一つのものの無限分割として個々人の生があり、そして、この個々人の生は、その外部に全体をもつが、しかし同時にこの個的生がひとつの全体であり、ひとつの生命である。スピノザの「一にして全」の思想がここで生命論の出発点とされている。
　生命についてのもう一つの考え方は、ヘルダーリンからの影響とされている合一思想にもとづいている。

「愛において人間は他者の中に自分自身を再発見した。愛は生命の合一であるから、それは分離、すなわち生命の発展、形成された多面性を前提する。そして生命が多くの形態の中で生きているほど、生命はそれだけ多くの点において合一し、自らを感じることができるし、愛はそれだけ誠実なものでありうる。」（・、231頁）

　寄川は、この時期のヘーゲルの生命論を「弁証法的な発展の構造を示し」（寄川、45頁）たものとして評価している。そして「ここから、イエーナ時代には、否定に徹する弁証法の論理が生まれてきて、それは『精神の現象学』へいたる体系構想の変遷過程を通して、完成へともたらされるのである」（寄川、45頁）と、その後の歩みを位置づけている。
　「1800年の体系断片」にいたるまでの展開について、寄川は「生の概念は、自分自身へ戻ってくる過程として表現される。この自己帰還の運動が、ヘーゲルの宗教に関する著作にみられる特徴を形作っていた。ここからまた、弁証法的思考方法も生まれてきたのである。これと同じように、政治的な問題を扱った断片のなかからも、生の概念の発展を通して、しだいに弁証法が形成されてくるのがわかる。」（寄川、55頁）と述べているが、この経過にはたちよらず、「1800年の体系断片」に移ろう。まずここでは、生が関係として捉えられている。

「生の多様性は関係においてのみ考えられ、生の存在はこの関係であるが、この生は、また同時に、一方ではみずからのうちに区別されたものとして、単なる多数性として考えることができるのは明白なことである。……自己の存在が対立のうちにのみあり、有機的全体から排除されているところの多様なものは、一方では、あの組織から抽象され、自己に対してはそれ自体、絶対的に多様であるものとしてばかりでなく、同時に、関係のうちにあるものとして定立されねばならない。」（・、275頁）

　生を「合一」として捉えるよりも、関係として捉える方がより開かれている。ヘーゲルはこの断片でも生を無限性として捉え、ここから宗教の必然性を位置づけようとしているが、他方で生を関係として捉えたことで、「生は結合と非結合との結合」（・、278頁）というように弁証法の論理構想のもとに捉えられることになる。ところで、宗教の必然性については、ヘーゲルは、この結合が「定立されたものでも、悟性的なものでも、反省されたものでもなく、反省にとってのそれ自身の性格であるということ、それは反省の外にある存在である」（・、279頁）ことから明らかにしている。というのも、宗教はこれを反省という理性の働きとは別のもので、有限なものの無限性を悟るからである。

5）生命過程論の登場

　初期ヘーゲルについて、これまで見てきた限りでは、生の過程についての叙述はまだなかった。イエーナ時代の断片で「イエーナ体系構想」（かっては「実存哲学」・、・と呼ばれていた）の「自然哲学」・に生命を過程として論じているくだりがある。

「自然そのものにおける本質、その実在は、それが生きた自然であり、自らに反省した無限であり、認識の働きであり、また自然の質料、あるいはその絶対の自己同等は、生命であるというにある。自然は自己自らへの関係という規定なので、それはまた単に一つの形式的生命にすぎず、自己自らを認識する生命ではない。自然はそれそのものにおいて生命ではあるが、自己自身にとってそうではない。自己自らにとっては、それは無限な、無反省な生命である。そして自然が精神であるということは、無反省な生命が自らに反省するということである。われわれは絶対精神を生命と呼ぶが、それはその理念上から、またはその自己関係からそう呼ぶのである。生命は精神としては、一つの存在でも、認識欠如でもなくて、本来認識作用としてある。それ〔生命〕は、一つの過程であり、その過程のモメントそのものが絶対にこの生命過程でもある。この過程の諸モメントは無限な諸規定であり、または個々の諸生命、生きたものでもある。」（『自然哲学』上、未来社、20頁）

　ここでヘーゲルは、生命としてある自然と精神との関係を論じている。無反省な生命が自らに反省することで、自然が精神となる、という自らの立場を、生命の生命過程において、類がどのように出現するかを明らかにすることで実証しようとしている。この意味で『精神現象学』の自己意識論で生命過程を論じて類を導き出すという叙述の先駈けがここに見られる。

6）『精神現象学』の生命論

　自己意識は自我自体を対象とする意識であり、「自己自身に対する知」（134頁）であるが、これは「自己意識の自己自身との統一」（134頁）である。ヘーゲルはこの統一から生命を導入する。
　「対象は、自己意識からみると否定的なものであるが、意識の側が自己に帰っているように、対象の側も、われわれにとって、或いは自体的には、自己に帰っている。対象は、このように自己に反照することによって、生命となっている。」（135頁）
　自我としての対象が意識によって統一されることで自己に帰り、意識と自我とが統一（反照）されることで生命となっている、という規定は、生命に合一をみる初期ヘーゲルの見地をそのままひきつぐものである。ついで、過程としての生命論が説明されて次のように展開される。

「生命の本性の円環は次のような契機を含んでいる。その実在（本質）はすべての区別項を廃棄している有としての無限であり、軸回転する純粋な運動であり、絶対に不安な無限としての自己自身の安定であり、運動の区別項を自分のなかで解消させている自立性自身であり、このように自己自身と等しいことのうちに、空間の充実した形態をもっている、時間の単純な実在である。だが区別項は、この単一な一般的な媒体にありながらも、やはり区別項として存在する。というのは、この一般的流動が自ら否定的本性をもっているのは、この区別項を廃棄するからこそであるが、もし区別項が存立しないとすれば、それらを廃棄することはできないかである。この流動態こそは、自己自身に等しい自立性として、自ら存立し、区別項の実体である。だから、そこに区別項は区別された項として、自分だけで有る部分として存在する。だから存在はもはや存在を抽象するという意味をもってはいないし、条項の純粋本質態も一般性を抽象するという意味をもってはいない。かえって、条項が在るということは、正しく、自分自身のなかでの純粋な運動の例の単純な流動的実体である。だが、これらの各項相互の区別は、もともと区別としては、無限、すなわち、純粋運動自身の各契機が規定されているより以外の仕方で、規定されているのではない。」（136頁）

　ヘーゲルは、生命の本性を生命過程の円環として捉え、それを「純粋な運動」として規定している。それは不安な無限の自己自身の安定であり、運動の区別項を自分のなかで解消させている自立性自身である、というように述べられている。そして、この純粋な運動のあり方は、意識がこれまで行ってきたような、存在を抽象したり、本質を求めて一般的なものを抽象したりすることと異なるものとされ、それは無限としてある純粋運動自身の各契機が規定されている仕方だ、というのである。
　これは一体どういう事だろうか。ヘーゲルは、感覚的確信のところで有－無－成の移行の弁証法を、そして知覚のところで、同一性、区別、矛盾の反照の弁証法を用いて、意識の経験を叙述したと考えられてきた。ところが、自己意識、つまりは人間論に入るところで、過程としての生命論を導入し、これは無限を契機とする純粋な運動であるから、これまでの意識の経験にもとづく意識の弁証法は役立たないと述べているのである。
　実際にヘーゲルは、純粋な運動に含まれている自立的な区別項をとり出す。ところがこの区別項は統一のなかでそのようなものとしてあり、だから統一は無限の区別項に分裂していることになる。そしてこの無限の区別項はこの統一のなかで自立している。そこで第一の契機として、ここには自立的な諸々の形態（つまり諸個人）が存立している。そして第二の契機は、自立的な諸々の形態がお互いに区別しあう。

「第一の契機のうちには存立する形態が在る。その形態は自分だけで有るものとして、または規定されていながらも無限な実体として、一般的実体に対抗して現われ、この流動性と、この実体の連続とを否定して、この一般者のなかで解消しているのではなく、自分のこの有機的でない自然から分かれ、これを食い尽くすことによって、自分を支えるものだと主張する。」（137頁）

　対象と自我との関係を意識と捉え、意識の両極を意識の契機とみなすことでヘーゲルが発見した意識の弁証法を、ここではヘーゲル自身が否定している。意識が捉えたものは一般的実体であったが、生命として自立している存在にあっては、この一般的実体に解消されない無限な実体としてあるというのだ。たしかに生命あるものは、他の自然を食べることで命をつなぐが、意識の弁証法では否定の作用はあるにしても、対象を食い尽くしたりはしない。意識の弁証法との相違について、このように述べたあと、さらに次のように続けている。

「一般的な流動的な媒体のうちにある生命、すなわち、二つの形態がばらばらになっていながら安定している姿が、正にそのことのために、形態の動揺となり、過程としての生命となる。
　単一な一般的流動は自体であり、形態の区別は他者である。だがこの流動はこの区別によってそれ自身他者となる。なぜなら、そうなったいま、流動は区別に対している。この区別はそれ自体は自分で在り、そのため限りなく動き、この運動によって前の静かな媒体は食い尽くされる。そういう意味で、流動は生きたものとしての生命となる。だが、それゆえにこそ、この顛倒はまたそれ自身において顛倒態である。つまり、食い尽くされるものは実在（本質）である。一般者を犠牲にして自己を維持し、自己自身との統一の感情を得た個別態は、正にそのために、自分を自分だけのものたらしめている他者との対立を廃棄する。」（137頁）

　ヘーゲルが『法哲学講義』なみに、ここをかみくだいて話をしたとすればどうなるだろうか。まず、生命とは一般で流動的なエーテルのうちにあり、それの個別的な形態は無限にあるが、その個別的形態自体は、流動的な自体であると同時にその他者として形態をもっている。ところがこの形態も自立的なものだから、形態からすれば、流動することが他者となり、形態はエーテルを食い尽くして、生命として活動する。でもこれは意識からすれば、一般者を自己のために食べるわけだから、顛倒している。ところが、個別の生命としてある個々人は、一般者を犠牲にすることで、自己を維持し、自己自身を統一すると感じることができたのだ。およそこんなことをしゃべるのではなかろうか。いずれにしても、ここでヘーゲルが、意識の弁証法からすれば転倒しているものが生命の過程であることを明らかにしている。

「個別態が自らに与える自己自身との統一は、両方の区別が流動することである。すなわち、両方が一般的に解体することである。だが逆に、個別的存立を廃棄することは、また、それを生み出すことである。なぜならば、個的形態の実在、一般的生命、自分だけでの存在者は自体的に単一な実体であるから、他者が自らのうちに措定されると、自らこの単一態乃至実在を廃棄する、すなわち、単純態を分裂させる。そして区別のない流動をこのように分裂させることこそ、個別態を措定することである。だから、生命の単一な実体は、自己自身を二つの形態に分かつと同時に、これらの存立する区別を解消させる。分裂を解消させることは、また同じように分裂させることである。つまり項に分けることである。そこで区別された、全運動の二つの側面、つまり、自立性の一般的媒体のなかで、静かに離されていた形態化と生命の過程とは、互いに帰入し合う。後者つまり生命の過程は、形態を廃棄すると同じように、形態化のはたらきをする。前者つまり形態化は項に分けると同じように、項を廃棄する。流動する場は、それ自身実在を抽象することであるにすぎない。言い換えれば、その場は形態としてのみ現実的である。この場が項に分かれることは、分けられた項をまた分けること、すなわち、分けられた項を解体することである。この循環過程の全体が生命をつくっているのである。すなわち、初めに言われたもの、つまり、生命の実在の直接的連続と充実でも、存立する形態と自分だけで有る別々のものでも、形態の純粋な過程でも、なおまたこれらの契機の単一な総括でもなく、みずから展開しながら、その展開を解体し、この運動のうちに単一に自己を維持する全体、これこそは生命である。」（137～8頁）

　ひきつづき、ヘーゲルにおしゃべりをしてもらおう。個々人がメシを食うことで生きていると感じたとき、それは生命の過程を歩んでいるだけでなく、家族を構成して、新しい生命を産み、育むことで、個々人が死に到っても一般的生命は流動していっている。形態化とは、産み育てることであり、項の廃棄とは死ぬことだ。だから、親が子をつくって生命の実在を連結させていくことや、それぞれの諸個人が精一杯生きている、といったことや、世界中にどんな生物種がいるか、といったことや、そして、これら全てを総括したものといったことで生命のイメージが出てくるわけではなく、自ら展開しながら、その展開を解体し、この運動のうちに単一の自己を維持する全体ということがそれなのだ。

7）生命論のまとめ

　ヘーゲルの『精神現象学』が「ヘーゲル哲学の真の誕生地であり、その秘密」（『経済学・哲学手稿』）と述べたマルクスを文字通り受とって、『精神現象学』にヘーゲル弁証法の誕生とその秘密を探ってきたのであるが、ヘーゲルの弁証法を意識の弁証法と捉えることでその転倒が可能となり、実際に転倒を試みてきた。ところが『精神現象学』の生命過程論について、ヘーゲルは、それが意識の弁証法（学）とは異なるものであることについて自覚していたことが明らかとなった。

　そこで、このような観点からの研究があるかどうか、確かめてみた。手元にある邦語文献を当った限りであるが、イポリットは『ヘーゲルとマルクス』（法大出版会）で生命過程論をとりあげているが、それは弁証法そのものと捉えられ、ヘーゲルの弁証法の原型とされている。また加藤尚武も『ヘーゲル哲学の形式と原理』（未来社）で生について考察しているが、やはりヘーゲルの生命論を弁証法と捉え、意識の弁証法との相違については言及していない。唯一、マルクーゼが『ヘーゲル存在論と歴史性の理論』（未来社）で『大論理学』の理念論に出てくる生命論に「注目すべき分裂が現われ」（16頁）ていることを指摘し、この見地から『精神現象学』の生命論の見直しを行っている。しかし、マルクーゼのヘーゲル理解が意識の弁証法ではなくて存在の弁証法としてなされているので、生命論についても別の評価となっている。

　今回の生命論の検討から明らかとなったことは、『精神現象学』は存在するものとしての生の過程論と意識の弁証法とがない交ぜになって展開されている、ということだ。あるいは、意識が生の過程を経験することで、その過程とは別の論理である意識の弁証法を形成していく道筋が描かれているということだ。

　90年代に入って、加藤尚武がヘーゲルの自然哲学に注目し、訳書も岩波書店から出版されているが、まさに、アドルノが『否定の弁証法』で主張しているように、ヘーゲルはそこでは、自然や生命の過程に則して、意識の弁証法の腰を折りながら展開している。このように考えると、生命論の内容を、過程の弁証法と捉えるのではなく、意識の弁証法の限界を示すものと考えられないだろうか。

　もともとヘーゲルの弁証法を意識の弁証法（あるいは意識という実践の弁証法）と捉える立場は、少数派のようである。マルクス主義者はエンゲルスに引きずられて、ついそれを存在の弁証法や運動の弁証法と受けとってしまう。だが、最近邦訳された『イエーナ体系構想』（法大出版会）を読めば、ヘーゲルが自らの弁証法を自覚的に意識の弁証法として構想しようとしていたことは明白である。そして、それは意識の弁証法として捉えられている限りで、その転倒も可能となるのだ。

8）自己意識論にむけて

　ヘーゲルが、自己意識論で展開している生命論が、どうも自身が発見した意識の弁証法とくいちがっているのでないかと気づき、ヘーゲルの生命論に取り組んでみたところ、当初は予想もしていなかった、とんでもない結論が出てしまった。というのは、ヘーゲルの生命論は、意識の弁証法の手に負えないものとして叙述されていて、しかもそれでもって人間の社会関係（ヘーゲルによれば精神哲学）の導入項として意義をもつ自己意識論における類の生成を説いているのである。というわけで、ヘーゲルの自己意識論については、今回明らかにした生命論と意識の弁証法とのくいちがい、という観点を起点として、新たに研究しなおすことにしたい。その際、当然にも、感覚的確信や知覚や悟性のところの再検討が含まれている。ということで、「ヘーゲル弁証法の転倒」は、今回で一応のしめくくりとしたい。

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Author: admin Published: 2006/1/5 Read 3769 times

哲学の旅第8回（続） ヘーゲル弁証法の転倒（続） 第9章

第9章 ヘーゲルの生命論