ĄŚďťż office-ebara - 理論的関心のある人のために-哲学の旅 エマニエル・レヴィナス論
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エマニエル・レヴィナス論: 哲学の旅 エマニエル・レヴィナス論
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哲学の旅 エマニエル・レヴィナス論


はじめに
第1章 文化知からみた対話の哲学
 第1節 『全体性と無限』へのデリダの批判
  1)経験主義の誤り 2)差異の捉え方
 第2節 レヴィナスのブーバー論
  1)対話の捉え方 2)従来の形而上学への批判
 第3節 レヴィナスの思考の展開
  1)「語ること」と「語られたこと」 2)倫理としての人間の社会性
 第4節 レヴィナスの新しい思考
  1)対話の哲学 2)文化知への接近
第2章 『全体性と無限』を読む
 第1節 形而上学的超越
  1)全体性と無限 2)〈同〉と〈他〉
 第2節 〈同〉と〈自我〉
  1)自我の滞留 2)所有
 第3節 形而上学的関係
  1)絶対的〈他〉  2)〈同〉と絶対的〈他〉との関係 3)全体性の破産
 第4節 存在論の批判
  1)否定性と超越  2)観想と第三項 3)倫理への到達
 第5節 存在論を越えて
  1)概念化という問題 2)ハイデガー批判 3)無限と顔
後記

第2章 『全体性と無限』を読む


第1節 形而上学的超越


1)全体性と無限


 『全体性と無限』(国文社)は私にとっては、西欧哲学の批判をテーマとしているように思われます。
 レヴナスによれば、「全体性」の概念とは、戦争において顕示される存在のあり方を決定するもので、端的に言えば、〈同〉の自同性(個人のアイデンティティ)を破壊するものですが、この全体性の概念が西欧哲学を牛耳っているとされています。
「西欧哲学においては、個体は力の担い手に還元され、知らず知らずのうちにこの力によって命じられる。諸個体はその意味を全体性から借り受ける(この意味は全体性の外では不可視のものである)。かけがえのない現在はどれもみな未来への犠牲として不断に供される。唯一無二の現在から客観的意味を抽き出すために、未来が召喚される。なぜなら、最後の意味のみが重要であり、最後の行為のみが諸存在をそれ本来の姿に変えるとみなされているからである。この限りにおいて、諸存在は、やがて語られるであろう叙事詩のうちで凝固した登場人物にすぎない。」(『全体性と無限』15頁)

 他方で、無限の概念とは何でしょうか。レヴィナスは無限の概念を全体性の外にある剰余、全体性からの超越、全体性に包摂されることなくてしかも全体性同様根源的なものであるこの超越したもの、としています。
 この無限の観念にあっては、思考にとってつねに外的でありつづけるものが思考され、従ってそれは、それを思考する思考からはみ出し、そのことで無限に無限化していきます。だから  「客観的体験といった言葉以外の語で無限との関係を語らなければならなくなる。」(同、21頁)のです。
 この無限の概念に接近していく方法をレヴィナスは形而上学的外部性の考察を意図する形而上学的超越と名付け、そしてその考察の対象を倫理に求め、観想と実践を形而上学的超越の二つの様相としてあつかっています。
 レヴィナスは序文冒頭で「なぜ道徳はかくも軽んじられているのか。その理由を考えよう。」(同、14頁)と述べており、その理由として、道徳、つまり倫理の領域が西欧哲学がそれに牛耳られている全体性の外部にあることを指摘し、そして、形而上学的超越によって、倫理の問題を思考することで、道徳を復権しようとしているのですが、ここではレヴィナスが中心問題であると考えている倫理の領域には立ち入らないこととし、レヴィナスの西欧哲学に対する批判に注目してみましょう。

2)〈同〉と〈他〉


 レヴィナスがこの本で形而上学という言葉を使うとき、そこには西欧哲学への批判が込められています。レヴィナスの考え方が端的に示されているのは、「(西欧哲学の場合)これらの実在の他性は思考し所有する私の自同性に吸収されてしまう。これに対して、形而上学的欲望はまったき他なる事象、絶対的に他なるものをめざす。」(同、31頁)というくだりです。西欧哲学では、私が思考した事柄は全て私のうちに回収されてしまうようになっていて、他の物や、他者であってすらそうされてしまうが、レヴィナスがこれから試みようとしている形而上学にあっては、絶対的に他なるもの、決して私のうちに回収されない他者を思考しよう、というのです。このことは、言うのは簡単ですが、実際に思考しようとすれと、思考すること自体に他者を自己の内に回収しようとする働きがあるものですから大変困難な作業です。ではレヴィナスは、この困難な形而上学的超越をどのようにしてなしとげたのでしょうか。
 レヴィナスは、西欧哲学が慣れ親しんできた〈同〉と〈他〉(あるいは同一性と差異性)の関係について再検討することから出発しています。この〈同〉と〈他〉との関係が一つの可逆的な相関関係であるなら両項は一個の体系を形づくり、それらは一つの統一性に吸収されてしまいます。このような〈同〉と〈他〉の関係は、とうてい絶対的他者を求める形而上学的超越の目指すものではありません。そこで一つの超越が試みられます。それは〈他〉 の他性の条件を考えてみることです。
「〈他〉の他性、〈他〉の根底的異質性は次の場合にのみ可能となる。つまり〈他〉は、出発点にとどまり、関係の入り口の役目をすること、相対的にではなく絶対的に〈同〉であることを本質とするような項に対して、他なるものであらねばならないのだ。ある項が関係の出発点に絶対的にとどまりうるのは、この項が〈自我〉であるときのみである。」(同、35頁)

 ここで、レヴィナスが自我と言っているのは、座標によって定めうるいかなる個体化をも越えた自同性を、内実として有すること、ですが、〈他〉の他性を保障しようとするレヴィナスの超越の試みはまず〈同〉と〈他〉の関係を〈同〉と〈自我〉との関係として捉えかえすことから始まります。つまり「思考する自我の自己は一個の他人なのである。」(同、36頁)
 ところが〈同〉と〈自我〉を措定してみたところで、ヘーゲルのように、〈同〉は、「自己と自己との対立をはらみつつも、思考対象の他性のうちで自己同定する」(同、36頁)ことで、結局、〈他〉は〈同〉 のうちに回収されてしまいます。ではレヴィナスは〈同〉と〈自我〉との関係のうちにどのようにして絶対的な〈他〉を見出すのでしょうか。

3)形而上学的超越


 すこし長くなりますが、超越の決定的な場面を見てみましょう。
「〈自我〉のなかでの〈同〉の自己同定は単調な同語反復として、つまり、『〈私〉とは〈私〉である』として生起するのではない。もしそうなら、AはAなりという形式には還元不能な〈同〉の自己同定の独自性が見逃されることになろう。〈同〉の自己同定は自己が抽象的に自己を表象することではない。抽象的な自己表象とは異なるものとして、〈同〉の自己同定の独自性をいまは見定めなければならない。一個の自我と一つの世界との具体的な関係を起点として、〈同〉の自己同定を考えなければならない。世界は、自我にとって疎遠かつ敵対的なものであるから、理の当然として自我を変質させるはずである。ところが、世界と自我との真に原初的な関係は世界内での自我の滞留として生じる。この関係において、自我はまさに〈同〉の最たるものとして顕現する。世界という〈他なるもの〉に対抗する〈自我〉の様式は、世界をわが家とみなしてそこに実存しつつ滞留し、自己同定することである。世界内にあって当初は他なるものであった〈自我〉が世界に土着せる存在と化す。〈自我〉とは、他なるものから土着せる存在へのこの変質において生じる豹変そのものである。」(同、37頁)

 ここでレヴィナスが提起している超越の方法は、第一には、AはAなり、という同語反復の形式には還元不能な〈同〉の自己同定のあり方をさぐる、ということです。第二に、この自己同定は抽象的に自己を表象することではなく、それとは異なる仕方での自己同定の独自性を見定めることです。ということは、つまり、第三に、一個の自我と一つの世界との関係を起点として、〈同〉の自己同定を考えるということに他なりません。
 この方法から導き出される起点は、世界内で、自我が滞留している、ということです。自我が世界をわが家とみなしてそこに実在しつつ滞留し、自己同定する、このような自己同定の様式は、自我が他なるものとしてあった世界に土着することであって、このような土着が〈同〉を豹変させ、自我を発生させるのだ、とレヴィナスは主張しています。

第2節 〈同〉と〈自我〉


1)自我の滞留


 形而上学的超越によって、ひとまず〈同〉と〈他〉の関係を〈同〉と〈自我〉との関係とおき、そして、この関係での〈同〉の自己同定のあり方を〈他〉としての〈自我〉を絶対的他者としたままの形で残した様式として考えること、これがレヴィナスの課題でした。
 そして、同語反復という形式には還元不能であり、かつ抽象的な自己表象とも異なる〈同〉の〈自我〉との関係での自己同定を想定しますと、それは、一個の自我と一つの世界との具体的な関係を起点として〈同〉の自己同定を考える、という新たな課題が提起されてきます。そして、この新たな課題に応えるものが「〈自我〉とは、他なるものから土着せる存在への変質において生じる豹変そのものである」という規定でした。レヴィナスは「世界と自我との真に原初的な関係は世界内での自我の滞留として生じる」とみているのですが、次にレヴィナスが提起しているこの内容を見ていきましょう。
「〈自我〉は世界のうちに場所を家を見いだす。住むこと、それは自分を支え、ある場所にとどまる仕方に他ならない。とはいえ、自分を支える〈自我〉は、例の蛇のように自分の尾に噛みつくことで自分を把持するのではない。そうではなく、この〈自我〉は自分にとって外的な大地の上で自分を支え、何かをなしうる身体としてこの大地にとどまるのである。『わが家』とは容器ではなく、私が何かをなしうる場所であって、そこにおいて私は、自分とは別のある実在に依存しているにもかかわらず、あるいは依存しているおかげで自由である。」(同、37頁)

 〈同〉の絶対的他者としての〈自我〉の発生を、世界と自我との真に原初的な関係に求めたレヴィナスは、自我の滞留を、自我が身体として、自分に外的な大地の上で自分を支え、何かをなしうる存在としてかかわっているものと想定しています。そして、この滞留にあって〈自我〉としての自分は別のある実在に依存しているにもかかわらず、あるいはそのおかげで、自由だというのです。

2)所有


 ひきつづき、レヴィナスの展開を追ってみましょう。
「歩きさえすれば、何かをなしさえすれば、どんな事物をも把持することができる。ある意味では、すべてがこの場所に存在しており、結局のところすべてが私の手の届くところにある。ちょっと計算しさえすれば、私と星々とのあいだに介在するものあるいは中間項を与えてくれるのだ。すべてがここにあり、すべてが私に属している。場所をまず掌握することによって、すべてがあらかじめ掌握される。場所のこの初源的掌握と共に、すべてが掌握され、了解される。所有とは、言い換えるなら、自我に対して最初だけ他なるものであるような相対的他性を一時中断することであるが、このような所有の可能性、それが〈同〉の様式である。」(同、37~8頁)

 所有とは本源的には大地に対する関係行為である、とどこかでマルクスが言っています。レヴィナスの西欧哲学批判のうえにたった形而上学的超越の帰結が所有にたどりついた、ということについては意外な気がしますが、注目すべきは、レヴィナスが〈同〉の自己同定の様式として所有を捉えている点です。
「このように世界の他性が自己同定に豹変するという点をしっかり銘記しておかなければならない。この自己同定の諸『契機』、すなわち身体、家、労働、所有、家政は〈同〉の形式的骨組にたまたま付着した経験的所与としてしめされてはならない。これらの『契機』は〈同〉の構造の分肢なのだ。
 〈同〉の自己同定は無意味な同語反復でも〈他〉との弁証法的対立でもない。〈同〉の自己同定、それは自我中心性という具体的な事態である。これは形而上学の存立を左右する重要なポイントである。
 もし〈同〉が〈他〉との単なる対立によって自己同定するのであれば、〈同〉は〈同〉と〈他〉を包摂する全体性の一部をすでになしていることになろうし、また、われわれの考察の出発点であった形而上学的欲望の希求、すなわち絶対的〈他〉との関係をめざすこの希求もこのとき裏切られてしまう。
 ところが実は、形而上学的事象から形而上学者を切り離すこの分離は関係の単なる反対物ではない。なぜなら、自我中心性として生起するこの分離は関係の只中でも維持されるからだ。」(同、38~9頁)

 レヴィナスは所有を〈同〉の自己同定の様式とみなしています。所有が問題にされる限りで、身体、家、労働、エコノミーといった諸契機が呼び出されますが、レヴィナスはこれらの諸契機を単なる経験的所与としてではなく、〈同〉の構造の分肢として捉えることを要求しています。
 このことはつまり〈同〉の自己同定を同語反復や弁証法的対立の止揚と捉えるのではなく、これらの諸契機を分肢として従えた〈自我〉としての自己同定を意味しますから、レヴィナスは、これを端的に自我中心性という具体的な事態にもとめています。所有による〈同〉の自己同定を問題にする場合の重要なポイントがここにあるのです。
 でも、これでうまくいくのでしょうか。レヴィナスはひきつづいて、全体性の哲学の登場によって形而上学的欲望が裏切られる場面を想定しています。しかし、つづいて、この裏切り、この分離が、事態そのもの、自我中心性そのものにある、というのです。事態そのもののうちに、形而上学的事象から形而上学者を切り離すこの分離が維持されているとすれば、別の思考の登場が問われていることになります

第3節 形而上学的関係


1)絶対的〈他〉


 レヴィナスは所有による〈同〉の自己同定の様式を自我中心性という具体的な事態に求めましたが、そのうえで、次のように問題を提起しています。
「しかし、自我中心性として生起する〈同〉が〈他〉と関係を結びつつも、ただちにこの〈他〉からその他性を奪わないなどということは、いかにして可能となるのか。このような連関の本性はいかなるものなのか。」(同、39頁)

 レヴィナスは自らが提起した問題に対して、第一に、形而上学的関係は表象ではありえないこと、第二に、〈他〉とは絶対的〈他〉であることの二点をあげ、そのうえで、形而上学的関係について展開しています。まず第一点から見ていきましょう。
「形而上学的〈他〉とは形式的ならざる他性をそなえた他なるものである。この他性は自同性の単なる裏面でも、〈同〉への抵抗からなる他性でもない。〈同〉のいかなるイニシアチヴ、〈同〉のいかなる帝国主義にも先行する他性、それが形而上学的〈他〉の他性だ。形而上学的〈他〉とは、〈他〉の内容そのものであるような他性をそなえた〈他〉、〈同〉を制限することなき他性をそなえた〈他〉である。というのも、〈同〉を制限するとき、〈他〉は厳密には、〈他〉でなくなるからだ。その場合、〈他〉と〈同〉は境界線を同じくし、〈他〉は体系の内部で依然として〈同〉にとどまる。」(同、39~40頁)

 レヴィナスが見つめている形而上学的関係は表象ではありえない、とされています。表象として〈同〉と〈他〉の関係があるなら、〈他〉は、同一性を前提とした差異としてしか存在のしようがありません。表象ではないとすれば、それは形式的にはなっていない他性であり、また、〈同〉によって影響されず、また影響を与えない〈他〉でなければなりません。このような〈他〉とは絶対的〈他〉としか規定のしようがありません。ひきつづいてレヴィナスは述べています。
「絶対的〈他〉、それが〈他者〉である。〈他者〉は私と数的関係をもたない。私と『きみ』との共同体あるいは「われわれ」という名の共同体は複数の『私』を単に寄せ集めたものではない。私ときみ、この二つのものは同じ一つの概念に属する個体ではない。所有も数的統一性も概念の統一性も私を他者に結びつけはしない。共通の祖国の不在が〈他人〉を〈異邦人〉たらしめ、この〈異邦人〉がわが家を撹乱するのだ。しかし、〈異邦人〉はまた自由な人間の謂いでもある。〈異邦人〉に対して、私は何かをなすことができない。たとえ私が〈異邦人〉を操るとしても、私には彼の本質的側面を掌握することはできない。〈異邦人〉は私の場所に全面的にいるわけではない。けれども、〈異邦人〉と共通の概念をもたないこの私もまた〈異邦人〉と同様に類を欠いている。われわれは、〈自同者〉と〈他人〉なのである。」(同、40頁)

 西欧哲学にあっては、〈同〉と〈他〉との関係において、〈他〉は絶対的〈他〉としてはありえず、〈同〉の自己同定のうちで〈同〉に回収される差異性に他なりません。ところが、レヴィナスはここに到って「絶対的〈他〉」という概念を打ち立てます。
 この〈他者〉は私と数的関係をもたない、とされていますが、数的関係は何らかの同一性にもとづく抽象化の産物であり、数的関係とされる限りは〈他〉は絶対的〈他〉ではありません。さらに重要なことは、他者と私とからなる共同体は、複数の私の寄せ集めでもなく、また私も他者も同じ一つの類概念に属する個体ではない、とされている点です。この見地は、西欧哲学の発想から成る他者及び類と個との関連についての把握への批判としてなされています。一切の共通性をもたない私と他者、これがレヴィナスの想定する絶対的〈他〉なのです。

2)〈同〉と絶対的〈他〉との関係


 このような、西欧哲学の方法からは記述できないような〈同〉と絶対的〈他〉、この関係を形而上学的関係として捉えたレヴィナスは、次にこの関係についての考察を進めていきます。
「以上のことを踏まえて言うなら、全体性を形成することなき諸項の関係は、〈自我〉から〈他人〉へ赴く関係、対面の関係、隔たりを深さとして描く関係としてのみ、存在の一般経済のなかで生起することになろう。そして、この関係が言説、善良さ、〈欲望〉の関係なのである。〈欲望〉の関係は、悟性の総合作用が多様かつ相互に他なるものであるような諸項間に確立する関係とは異なる。というのも、悟性はその総合作用によってこれらの多様な項を一望のもとに収めてしまうからだ。自我はたまたま形成されたものではない。もともと存在の論理的規定としてあった〈同〉と〈他〉が、たまたま形成された自我のおかげで、はじめて思考内に反映されるのではない。存在内に他性が生起するためにこそ、『思考』が必要であり〈自我〉が必要なのだ。」(同、41頁)

 レヴィナスが想定する絶対的〈他〉とは、西欧哲学の〈同〉と〈他〉が全体性のうちに組み込まれてしまうそのような項としてではないとすれば、この〈同〉と〈他〉の関係は〈自我〉から〈他人〉へ赴く関係としてしかありえないわけです。そして、この対面の関係をレヴィナスは言説、善良さ、〈欲望〉の関係とみなしています。
 そして、これらの関係は、悟性(思考)が多様な項をその総合作用によって一望のもとにおさめてしまうようなもの、もともと存在の論理的規定としてあった〈同〉と〈他〉がたまたま形成された〈自我〉のおかげで思考内に反映されるといったようなもの、ではないのです。
 レヴィナスは、決定的な重みを加えて「存在内に他性が生起するためにこそ、『思考』が必要であり〈自我〉が必要なのだ」と述べています。そして、このような見地から要求される思考や〈自我〉は、もちろん西欧哲学による思考やそれが規定する〈自我〉の概念をもってしては役に立たないのです。

3)全体性の破産


 ここまで問題を煮詰めてきたレヴィナスは、次に他性の生起について、それを超越の運動として捉えます。
「他性との連関の不可逆性が生起しうるのは次の場合を措いて他にない。連関しあう項の一方が他性とのこのような連関をまさに超越の運動として、隔たりの踏破として確立する場合がそれである。その際、この超越の運動は書き留められてもならないし、心のなかでの空想に堕してもならない。『思考』、『内面性』は存在の裂け目そのものであり、超越の生起(超越の反映ではない)なのだ。超越の関係は注目すべきものとなる。他性は自我を起点としてのみ可能となるのである。」(同、41頁)

 レヴィナスは存在内に他性が生起するために呼び出されてくる思考と自我とについて、それらを存在の裂け目そのものとして捉えています。思考は超越を反映するものではなく、従って超越の運動を記述することはできません。自我は超越の運動を遂行することによってのみ、この関係を認識していくのであって、例えば言説による呼びかけにおいて〈自我〉は絶対的〈他〉を経験しえるというのです。
「思考の操作が全体性を破産させるのではない。互いに呼び合うほどではないにせよ、列をなして肩を並べる諸項を単に思弁的に区別すること、それは全体性を破産させることではない。思考は全体化と俯瞰を不可避的本性としている。それにもかかわらず、全体性を破産させる空虚がこのような思考に対して維持されるためには、範疇に組み込まれることなき〈他〉の面前に思考が定位されるほかない。思考はこの〈他〉を対象とみなしたうえで、対象としての〈他〉と共に全体を構成するのではない。思考は発語することをその本性としている。〈同〉と〈他〉のあいだに確立されながらも全体性を構成することのない絆、われわれはこの絆を宗教と呼ぼうと思う。」(同、42頁)

 レヴィナスによれば、西欧哲学の全体性に対して、思考の操作ではこれの破産をもたらし得ないのです。というのも思考自体が全体化と俯瞰とをその本性としているのですから。とすると残された道は、〈他〉を対象とみなして範疇のうちに組み込むことをやめることです。レヴィナスが言説といい、発語というとき、このような全体性を構成することのない思考が念頭におかれているのです。
 レヴィナスは〈同〉と〈他〉との間に形成されたこの新しい絆を宗教と呼んでいますが、宗教についての観念があいまいな日本人の私たちとしては、これについてはよくわからない、ということで保留しておきましょう。
 これまでレヴィナスの形而上学的関係、超越の運動についての説を追ってきましたが、結局、レヴィナスの言いたかったことは「〈他〉が絶対的〈他〉にとどまりうるとするなら、〈他〉が言説の関係にしか足を踏み入れないとするなら」(同、42頁)ば、思考の全体性は破産をつげられるのであり、そして、その際、「自我が体系を拒むのではない。〈他〉が体系を拒むのだ。」(同、42頁)ということだったのです。

第4節 存在論の批判


1)否定性と超越


 自らが構想する形而上学的関係についての概略を明らかにしたレヴィナスは、次に存在論の批判に移っています。まず、否定性という西欧哲学の基本的な概念が取り出され、これと超越とのちがいが明らかにされています。
「不平家は、否定性を援用して、自分の置かれた境遇を拒む。けれども、超越の運動はこのような否定性とは異なる。わが家とみなしてくつろげる場所に置かれ定位された存在が否定性の前提である。否定性は「家政的」という語源的意味での経済的な事態である。労働は世界を変容するが、変容されるこの世界に立脚している。労働は物質の抵抗に遭いつつも、原料のこの抵抗から恩恵をこうむる。この抵抗は依然として〈同〉の内部にとどまっている。否定するものと否定されるもの双方が定位され、体系すなわち全体性を形成する。」(同、43頁)

 このへんのところは、スピノザの「否定は規定である」という言葉を思い起こせば納得がいきます。 レヴィナスはさらに一歩進めて、労働の関係をも否定の関係と捉えていますが、その場合は、使用価値から見た規定であって、労働価値の問題については考慮の外に置いています。もし、労働の関係を価値の関係と捉える視点があれば、レヴィナスは何と言ったでしょうか。というのも、労働価値自体、一つの形而上学的関係を形成しており、超越の運動そのものとしてあるわけですから。
 それはさておき、レヴィナスは「否定性には超越を受け入れる度量がない」(同、44頁)といい、「諾と否を最初の言葉とすることなき言語が創設される」(同、45頁)関係を記述することを宣言し、存在論の批判に移っています。

2)観想と第三項


 まずレヴィナスは形而上学的関係を記述するにあたって、観想するという方法を採用しています。ところがこの観想は形而上学的関係を記述するばかりでなく、西欧哲学の存在論の方法でもあります。従ってレヴィナスは観想の方法を採用しつつも、同時に存在論の批判をも展開しています。レヴィナスの記述を見てみましょう。
「形而上学的関係が観想的関係という図式を好んできたのは偶然ではない。知ないし観想は何よりもまず存在とのある関係を意味しているのだが、この関係においては、認識する存在が認識される存在の他性を尊重すると共に、認識される存在を十全な仕方で顕現せしめる。しかもその際、いかなる点においてであれ、認識のこの関係が認識される存在に刻印されることはない。この意味において、形而上学的欲望は観想の本質であることになろう。しかし、観想は存在との関わりとしての知性をも意味している。つまり、認識する存在と認識される存在との関わりのなかで、認識される存在の他性が消失してしまうのだ。」(同、45頁)

 レヴィナスの不可視のものを見ようとする形而上学的欲望にもとづく観想は、認識する存在と認識される存在とを区別するだけでなく、さらに認識される存在の他性を尊重しようとします。他性を尊重するということは、認識される存在を十全な仕方で顕現させると同時に、この認識の関係が認識される存在に刻印されてはならないのです。ところが観想ということは知性の働きでもあります。そして、認識する存在と認識される存在との知性の関係の中では、せっかく観想によって顕現させられた他性が消失してしまっているのです。そこでレヴィナスは、他性の消失がどのようにして起きるのかについての考察に移っています。
「観想の次元では、認識のプロセスは認識する存在の自由と一体化してしまう。認識のプロセス同様、認識する存在の自由もそれを制限しうる他なるものとまったく出会わないのである。認識される存在からこのようにその他性を剥奪する仕方は、認識される存在が、それ自体は存在ならざる第三項ないし中立項をとおして志向される場合にのみ成就されうる。この第三項のうちで、〈同〉と〈他〉との遭遇の衝撃が緩和される。この第三項が思考された概念として現われることもある。その場合、実存する個体は自分を捨て、思考された一般性のうちに退いてしまう。この第三項を感覚と呼ぶことも可能であるが、ただし、それは客観的性質と主観的情動とが渾然一体をなしているような感覚である。第三項が存在者とは異なる存在として現われることもありうる。この存在は存在するものではない。(言い換えるなら、存在者としては自分を定立しない)。にもかかわらず、存在は存在者によって遂行される営為と無関係なものではなく、それゆえ無でもない。存在者が有する不透明な厚みを欠いた存在、それは光りであり、この光のうちで存在者は知解可能となる。」(同、45~6頁)

 レヴィナスは観想が形而上学的関係の認識へと到らず、存在論へと回帰してしまう原因を、認識する存在と認識される存在との間にある第三項の存在に求めています。この第三項を通して認識する存在が認識される存在に審問する際に、この第三項のうちに〈同〉と〈他〉が回収されてしまうのです。
 レヴィナスは、この第三項としての存在を光りの比喩で説明しています。

3)倫理への到達


 しかし、レヴィナスがとり出した第三項こそ、社会的意識の諸形態ではないでしょうか。個人の意識が、社会的意識の諸形態という第三のものを通してしか対象にむかえない、という事態こそが、対象の絶対的〈他〉性を消失させる原因ではないでしょうか。とまれ、レヴィナスは光の比喩、存在論への批判へとむかいます。
「諸存在の自己同定としての自由、〈他〉によって自分を疎外することなき自由を増進せしめる。存在論において観想が足を踏み入れる道は、形而上学的〈欲望〉の驚異を、そしてまたこの〈欲望〉の糧である外部性の驚異を放棄した道である。とはいえ、外部性を尊重するものである観想は、存在論とは異なる形而上学のいま一つの本質的構造をも描き出す。観想は存在の知解、つまり存在論においても批判を怠ることがないのだ。」(同、46頁)

 レヴィナスが存在論を批判する地平は、形而上学的超越と存在論とを共に含む観想において、観想が諸存在の知解へとむかえば存在論に到り、そして、それが形而上学的欲望に従えば形而上学的超越に到るという理解の上に築かれています。そして、存在論に到る道が形而上学的欲望の放棄としてある以上、存在論への批判が不可欠だ、というのです。ではこの批判はどのようになされていくのでしょうか。
「観想は独断論とその自発性の前批判的恣意を暴き、存在論的遂行の自由を審問する。たしかに、観想も存在論的遂行の自由を行使する。が、その際にも、観想は存在論という自由な遂行の起源にまで不断に溯って、この遂行の恣意的独断を暴こうとする。存在論的遂行の自由からその起源へのこの遡行もまた存在論的歩み、自由の遂行、観想でなければならないとすると、われわれは無限退行に陥ることになろう。 かくして、観想が有する批判的意図は観想を観想自身と存在論の彼方にまで導くことになる。」(同、46頁)

 ここでレヴィナスは存在論という自由な遂行の起源にまで不断に溯る、と述べていますが、これはどういうことでしょうか。第三者を光りの比喩で捉えているレヴィナスにすれば、これは光りを媒介としない観想ということでしょうか。それが観想自身と存在論の彼方なのでしょうか。
 でも、第三者を社会的意識の諸形態と捉えれば、レヴィナスのように、起源にまで不断に溯るのではない、別の道が開けてきます。それは、社会的意識の諸形態を解剖する道です。とまれ、レヴィナスの結論に注目してみましょう。

「批判は存在論のように〈他〉を〈同〉に還元するのではなく、〈同〉の遂行を審問する。〈同〉の審問が〈同〉の自我中心的自発性においてなされることはありえない。〈同〉の審問は〈他〉によってなされるのだ。他者の現前によって私の自発性がこのように審問されること、われわれはこれを倫理と呼ぶ。〈他者〉の異邦性とは〈他者〉を〈自我〉、私の思考、私の所有物に還元することの不可能性であり、それゆえ〈他者〉の異邦性はほかでもない私の自発性の審問として、倫理として成就される。形而上学、超越、〈同〉による〈他〉の迎接、〈自我〉による〈他者〉の迎接は、具体的には、〈他〉による〈同〉の審問、すなわち倫理として生起するのだが、この倫理によって知の批判的本質が成就される。批判が独断論に先行するように、形而上学は存在論に先行しているのだ。」(同、46~7頁)

 レヴィナスの結論は、起源にまで不断に溯ることで他者の現前に直面し、そしてそこでは〈同〉の審問が〈他〉にようってなされる倫理の世界が開けている、というものです。そして、この倫理の世界が知解の世界に先行している、というのです。

第5節 存在論を越えて


1)概念化という問題


 レヴィナスは形而上学的超越によって倫理に到達したあと、今度は倫理の世界を踏まえて、再度存在論の批判を展開しています。その際問題点としてとりあげられるものが、認識における概念化の作用です。光の比喩にもとづいてレヴィナスは次のように述べています。
「認識とはつまるところ他なるものを中立化し包摂する自由の顕示であるということも、何ら驚くべきことではなくなった。中立化されることで〈他〉は主題ないし対象と化し、現出する。つまり、〈他〉は光の明るさのうちに定位されるのであり、この中立化こそ〈他〉の〈同〉への還元なのだ。存在論的に認識すること、それは対峙する存在のうちに含まれた同化可能な要素を不意に捕えることであり、この同化可能な要素によって、対峙する存在は疎遠な存在としての自分をいわば裏切る。対峙する存在は認識の領野に自分を引き渡し自分を委ね、そこで消失してしまう。が、実はこのようにして、認識に対峙する存在は現出し、把持にきっかけを与え、概念と化すのだ。認識すること、それは、無を起点として存在を把持するか、あるいは存在を無に帰すこと、存在から他性を奪うことである。このような他性の剥奪は光の最初の光線がさしたそのときただちに生じる。証明すること、それは存在からその抵抗を奪うことである。というのも、光は虚無を起点として視界を開き、空間を空虚にし、存在を引き渡すからである。(西欧哲学に特徴的な)媒介が意味をもつのは、それが隔たりを還元することに終始しない場合に限られる。」(同、47~8頁)

 レヴィナスの認識論は、認識の限界論でもありますが、それは、対象を知解する際に〈同〉が用いる第三者である光を媒介にすることで、〈他〉を光のうちに取り込み、それを同化し、〈他〉を〈同〉に還元する、というように展開されています。そして、このような対象に対する知解、つまりは存在論的に認識することは、レヴィナスにとっては、対峙する存在としての〈他〉を消失させてしまうことになるというのです。こうして存在論敵認識は、絶対的〈他〉と〈同〉との関係としてある倫理的世界を見落とすことになります。このレヴィナスの見解は、言語のフェティシズム批判として展開した方が、より合理的だと思われますが、これについては別の機会に論じることにしましょう。

2)ハイデガー批判


 存在論に先行して形而上学があり、知解可能な世界に先行して倫理的世界がある。このことを踏まえてレヴィナスはハイデガーの存在論の批判に進みます。レヴィナスはハイデガーの存在論の特徴を次のように捉えています。
「存在者に対する存在の優越を肯定すること自体、哲学の本質についてある選択をすることである。つまり、それは一個の存在者である誰かとの関係(倫理的関係)を存在者の存在との関係(知の関係)に従属させることであり、存在者のこの存在が、非人称的存在として、存在者の把持、支配を許すのである。それはまた正義を自由に従属させることでもある。〈他〉の只中にありながらも〈同〉でありつづける仕方が自由の特質であるとすれば、知が自由の究極的意味を内包していることになろう。(存在者は非人称的存在を媒介として知に自分を捧げるのだ)。その場合、自由は正義と対立することになろう。正義は〈他者〉に対する責務を伴っており、この〈他者〉は知に自分を捧げることを拒む存在者の最たるものだからである。存在者とのいかなる関係をも存在との関係に従属させるハイデガー存在論は、倫理に対する自由の優越を肯定しているわけだ。」(同、50~1頁)

 レヴィナスによれば、存在との関係を存在論として組みたてる限り、存在者の中立化を通じて存在者を知解し把握することになるわけですから、存在との関係は絶対的〈他〉としての他者ではなく、〈同〉に〈他〉を還元していることになります。そして、自由とは、他なるものとどんな関係を結んでようとも、他なるものに抗して自分を維持し、自我の自足性を確立していることですから、倫理的関係から生じる正義は存在論にあっては見失われ、こうして倫理に対する自由の優越が導かれてくる、というわけです。こうしてレヴィナスは、次のように存在論に対する宣戦を布告しています。
「存在論は権力の哲学である。〈同〉を審問することなき第一哲学としての存在論は不正の哲学である。ハイデガーの存在論は〈他者〉との関係を存在一般との関係に従属せしめる。」(同、53頁)

 このレヴィナスの告発は、存在論は「〈他〉への責務に先立つ〈同〉の内なる運動」(同、53頁)であるという自らの発見に裏づけられています。そしてこの見地から、レヴィナスは次のような提案をしています。
「存在と存在者、存在論と形而上学、〈同〉と〈他〉といった諸項の関係を逆にしなければならない。」(同、53頁)
 「倫理においては、〈自同者〉が還元不能な〈他者〉を尊重するからだ。本書では、言説のうちに他性とのアレルギーなき関係を認め、そこに〈欲望〉を看取すべく努めるつもりである。この〈欲望〉においては、〈他〉の殺害を本質とする権力が〈他人〉を前にして、また「一切の常識に反して」殺人の不可能性、〈他人〉に対する敬意、正義に転じる。具体的に言うなら、われわれは、〈自我〉と〈他者〉からなる社会、すなわち言語と善良さが匿名の共同体に吸収されることを何としても阻みたいのである。」(同、53~4頁)

 レヴィナスにとってこの見地は「真理に反旗を翻すもの」(同、54頁)ではなく、「真理への歩みを生気づける志向そのものの成就」(同、54頁)なのです。というのも、〈同〉に回収し、これと同一化する形での〈他〉についての認識は、実は〈同〉と〈他〉との関係をつかみ損ねているのであり、存在論は何ら真理を保障するものではないからです。こうして、存在についての究極的関係に到達しようとするなら、形而上学的超越による倫理的世界の開示が問われるのです。
「〈他者〉という存在者の存在を考察するときでさえ、私は自分が〈他者〉と共に形成する社会から身を引き離すことができない。存在了解にしてからがすでに存在者に対して語られる。存在者は主題化されつつも主題の背後から再び出来する。このように『〈他者〉に対して語ること』、対話者としての〈他者〉とのこの関係、一存在者とのこの関係がいかなる存在論にも先だつ。〈他者〉とのこのような関係が存在内での究極的関係である。存在論は形而上学を前提としているのだ。」(同、55頁)

 このレヴィナスの提起を俗っぽく受け取れば、哲学が存在を問題にするときに、すでに〈同〉と〈他〉の間に、社会という不可視の存在が実在している、ということでしょう。そして、哲学は、いまだかって、社会とは何かについて解き明かせてはいないのです。レヴィナスは、この社会性を倫理的関係として捉えましたが、しかし人間の社会性は倫理的関係にとどまるものではありません。レヴィナスの存在論批判を踏まえながら、新たな社会形成論を構想していくことが問われています。
 というわけで、私にとっては、レヴィナスが展開している倫理的関係についての個別的考察にはあまり興味がもてません。ただ一点、レヴィナスの提起として有名な「顔」についてだけ、見ておくことにしましょう。

3)無限と顔


 レヴィナスの絶対的〈他〉者論は〈同〉と〈他〉との間に還元不能な無限の隔たりがあることを認めています。この無限ははたして思考しえるものなのでしょうか。
「〈無限〉にあっては、観念されたものと観念とを分離する隔たりがほかならぬ観念されたものの内容と化す。無限とは超越的である限りでの超越的存在の本性であり、絶対的に他なるものである。超越者、それは唯一無比の観念されたものである。なぜなら、超越者はその観念のみをわれわれのうちに残しつつ、この観念から無限に遠ざかるからだ。言い換えるなら、超越者は外部にある。なぜなら、超越者とは無限だからだ。
 無限、超越者、〈異邦人〉を思考すること、それはしたがって対象を思考することではない。だが、実を言うと、対象の輪郭をもたないものを思考すること、それは思考することより以上のことであるか、思考することよりも良きことである。」(同、57頁)

 レヴィナスは、〈同〉と〈他〉の間の無限の隔たりを思考する、という問題を提起し、そして、これは超越的存在であるから超越を試みるしかないと述べています。そして、それは、対象を思考することではなく、対象の輪郭をもたないもの、つまり超感性的なものを思考することなのですが、このことが形而上学的超越の遂行なのです。そして、この超越の遂行の比喩としてかたられているものが「顔」に他なりません。
「私の内なる〈他人〉の観念をはみ出しつつ、〈他人〉が現前する仕方、この仕方をわれわれはここで顔と呼称する。顔というこの仕方は私の視線のもとに主題として姿を現わし、一個の形象を形成する諸性質の総体として自分を開陳することではない。〈他者〉の顔は輪郭の定まった形象を私に残す一方で、形象をたえず破壊し、形象をはみ出す。〈他者〉の顔は、観念する私および観念されたものと釣り合った観念、つまりは十全なる観念を不断に解体し、十全なる観念を凌駕するのだ。顔は諸性質によって現出するのではなく、自己に即して現出する。顔は自分を表出する。顔が現代存在論に抗してもたらす真理の概念、それは非人称敵〈中立態〉の開示とは異なる真理の概念、表出としての真理の概念である。」(同、60頁)

 レヴィナスの「顔」は、他者の視線や表情といったことを含むものの、本来は〈同〉と〈他〉の間の無限の隔たりを象徴するものであり、超越を表現したものです。

 以上、レヴィナスの絶対的〈他〉者論を『全体性と無限』の叙述にそって見てきましたが、次にレヴィナスが、「他性とのアレルギーなき関係」として見ている「言説」、とりわけレヴィナスの言語思想について検討していきましょう。

後記


 昨年末に「21世紀の社会運動の綱領草案」と「21世紀の協同組合運動の課題(案)」をまとめ、今年の課題の一つを綱領草案の解説文を作成することに置いていました。ところが、昨年11月にアソシエ21関西を発足させて以降、ニュースタート事務局の活動やKyoto LETSの立ち上げなどで若い世代が運動に登場してきました。そして、予想を上まわるスピードで、次々と運動上の課題を解決することが問われてきました。
 この課題を解決することを通して明らかとなったのは、綱領草案の解説文を書くことよりも、従来の思考に代わる新しい思考についてのアウトラインを描き、そしてこの思考にもとづいて実践的な問題に取り組んでいくことが問われている、ということでした。
 綱領草案は、私たち20世紀の左翼の運動の総括を踏まえた新たなプログラムの提起でしたが、このプログラムを実践しようとすれば、何よりも運動主体が新しい思考をわがものとすることが必要だったのです。
 廣松哲学批判に始まり、エンデ論からレヴィナス論へと続くこの間の作業は、新しい思考を文化知の見地から描き出すための準備作業としての意義をもっています。21世紀の初年度となる来年のなるべく早い時期に、新しい思考についてのまとまった論文を作成することを目ざします。

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Author: admin Published: 2006/1/5 Read 7060 times   Printer Friendly Page Tell a Friend