A）〈私〉をどう捉えるか
　1）〈私〉の成立と科学的世界観　2）物質的生産力の発達と〈私〉の喪失　3）哲学者による科学的世界観の批判
B）21世紀の〈私〉
　1）世紀末の〈私〉　2）言語的コミュニケーションの不全　3）新しい思考にもとづく〈私〉　4）新しい〈私〉の社会性
　C）新しい〈私〉と社会
　1）現代社会と社会運動　2）同一性から唯一性へ　3）新しい〈私〉は社会そのもの
D）新しい〈私〉と地域
　1）地域における既成の事物　2）既成の事物への違和感　3）新しい協同主体

A）〈私〉をどう捉えるか

1）〈私〉の成立と科学的世界観

　地域では個々人が多様なコミュニケーションを通して社会を形成しています。そこでまず、個人＝〈私〉をどう捉えるか、という問題から出発してみましょう。いまここで私を〈私〉と表現する理由は、〈私〉にそれぞれの文脈での多様な意味をくみとってもらいたいからです。

　〈私〉は「自己」や「自我」や「エゴ」や「魂」や「人格」といった色々な言葉で語られてきました。古代ギリシャ哲学を継承した西欧近代哲学は、〈私〉の思考が対象世界を捉えうる根拠を、デカルトが提起した「われ思う、故にわれあり」においてきました。デカルトは、〈私〉の意識について全てのことを疑ったとしても、ここにいま思考している自分の存在は疑い得ない、ということを起点にして、〈私〉が思考で捉えた対象についての意識が真理としてあることを証明しようとしたのです。とはいえ、デカルトはまだ、人間が意識しえない領域に存在するもの（例えば神）を認めていました。

　ところが、西欧近代哲学の〈私〉についてのこの観念、つまり、〈私〉は正しく思考すれば世界や対象についての真理に到達できる、という考え方は、自然科学と技術の発達に裏付けられて、科学的世界観へと転成してきました。

　この科学的世界観は、今日にあっても支配的なものであり、学校教育によって教育され続けられています。その内容は、単純化すれば、世界を対象として存在しているもの（客体）とそれを認識しようとする〈私〉＝主体とに区分し、そして主体である〈私〉が認識した概念が、客体としてある存在と一致しておれば、その認識は真理と見なされます。

　この科学的世界観は確固とした根をもっています。というのも、それは、科学技術によって作り出された人工的なものと人間との関係にあっては、実験による再現性によって、存在と認識との一致について証明できるからです。

　従来の哲学における真理論は論理的整合性を追求することによるしかなく、そして、論理的整合性は必ず、その外部にある非論理的な他者を前提とし、それを切り捨てた上でしか維持できませんから、必ずや懐疑論からの反駁を受けてきたのでした。ところが科学的世界観における真理論は、論理的整合性ではなく、実験という社会的実践の場面での証明を土台としていたのです。

2）物質的生産力の発達と〈私〉の喪失

　19世紀になって始まった人間社会の工業化は、今日までたゆみなく進んできました。工業化の担い手は資本家が経営する企業であり、それらが生産する安価な商品は市場経済を普及させました。

　この工業化は、ほとんどの人たちが生活のためには農業に従事し土地に縛られていたそれまでの人間の生活様式を革命的に変化させました。〈私〉は自由で独立した人格として、誰からの人身的支配も受けることなく、自らの財産や労働力を生産に投じることで生活していくことを国家から保証されるようになったのです。いわゆる民主主義体制が成立しはじめたのです。

　土地や資本や労働力、これらの生産の要素が組み合わされ、機械制大工業が発達し、インフラも整備されて、大都市が形成されていく、こうした社会の物質的発達は、科学的世界観の成功とそれにもとづく人類の発展を保障するかのようでした。

　けれども20世紀に入っての二度の世界大戦は、この科学的世界観にもとづく人類の発展史に含まれていた限界をさし示すものでした。ひとつは、土地や資本を所有している人々と他人のところに働きに行かねばならない人々との間の階級差別がはなはだしく拡大したことでした。もう一つは、資本主義社会の民主主義国家が、外に対しては他国を併合し、他民族を抑圧しようとする帝国主義に転化し、国内にも全体主義の体制をひいたことでした。自由で独立した人格としての〈私〉はどこかに失われてしまったのでした。

　科学的世界観にもとづく理性、〈私〉が対象を分析し、認識し、技術を応用していくことが人類の発展である、とみなす思考について、フランクフルト学派のアドルノは「道具的理性」と名づけましたが、世界戦争は、哲学者たちの一部にこの「道具的理性」への反省を迫りました。というのも、このような世界観からは、〈私〉が生きる意味を問うことができなかったからでした。

3）哲学者による科学的世界観の批判

　現象学の創始者であるフッサールは、ガリレオが自然という書物は数学の言葉で書かれていると述べているところに、自然科学的世界観の源流を求め、このような考え方は自然についての一面的な把握にすぎず、数学の言葉では割り切れない生活世界の存在を隠してしまっていると批判しました。そして、生活世界のなかに意味の起源を再発見しなければならないとしました。そのために現象学は本質的な真理や意味がいかに発生するかを開示するために、自らの偏見や予断を停止させること（判断停止）を方法として取り入れました。

　ここに科学的世界観に対する西欧哲学の側からの批判が始まったのですが、この批判を西欧哲学の存在論そのものへの批判にまで突き進めたのがレヴィナスでした。レヴィナスは、西欧の近代哲学と科学的世界観とが共に存在と認識との一致を疑っていない点で共通だとみています。つまり真理を存在の現前についての可知性と同等化していて、それは存在の真理を現前しているものとみなし、それらを一つの全体性に集約されうるもの、とみなすような認識のあり方です。

　レヴィナスがこのような西欧哲学の存在論を批判する際に採用したのはブーバーの対話論でした。

　ブーバーは〈私〉を二つの根源語によって規定しています。〈私〉－〈きみ〉と〈私〉－〈それ〉とに。

　〈私〉－〈それ〉の関係は、ブーバーによれば、従来の哲学や自然科学的世界観が土台としているもので、主体―客体の関係と言い換えてもよいでしょう。ところが〈私〉－〈きみ〉の方は、先の関係とは異なり、空間的・時間的連関のなかにはおかれていないのです。ブーバーは、〈私〉－〈きみ〉の関係にあっては、相手は個体ではなく、私と継ぎ目がなく繋がった全体をなしていると主張しています。つまり〈私〉－〈きみ〉の関係では、意味を体得することはできますが、言葉にはできない、というのです。

　レヴィナスはブーバーの対話論からさらに進んで、〈私〉－〈きみ〉の関係を人間の社会性と捉えました。これは〈私〉－〈それ〉という主体―客体という項に先立つものとしての二者のあいだを満たしているものであり、社会の倫理的関係だとみなしました。この見地から、存在と認識との一致が従来の存在の哲学の前提でしたが、レヴィナスは、はたして存在そのものが現前しているか、と問うています。〈私〉－〈それ〉の関係ではそうかも知れないが、〈私〉－〈きみ〉の関係では存在は意識を超越し、その外にあって、決して現前してこないのです。

　レヴィナスによれば、〈私〉－〈きみ〉の関係では、〈きみ〉は絶対的な他者としてあり、意識の圏から超越していて、〈きみ〉は科学的世界観や存在論が前提にしている現前としては出現してこないのです。ですから、この場合〈私〉は自律した存在ではなく、他者によって審問されるという倫理的関係の内にある、というのです。

B）21世紀の〈私〉

1）世紀末の〈私〉

　細かな歴史的経過については述べませんが、第二次世界大戦の終結から約50年、この間の社会の変化は大幅なものでした。〈私〉の方はどうなったでしょうか。

　日本では戦後になって民主主義体制が導入され、国民である〈私〉は生まれながらに自由で平等な人間として、国家が保証するようになりました。55年以降の経済の高度成長の過程で都市化が進み、家事労働や家計の消費生活も大きく変化してきました。

　〈私〉は、いまや地域社会との経済的な結びつきを失い、お金を媒介とした市場との結びつきで生活しています。お金があれば生活できる、という現実は、〈私〉を地域や家族の人間関係から解放し、〈私〉は絶対者として社会の中心に居る、という意識を育んでいきます。70年代後半から語られはじめた大量生産、大量消費、大量廃棄で特徴づけられる消費社会の成立は、若い世代に、〈私〉の絶対性という意識を植え付けていったのです。

　若い世代にとっては古い世代の民主主義や人間関係がわずらわしいものと捉えられていますが、民主主義が人間の同一性への希求であり、また人間関係が他者への妥協を含む以上、自分の絶対性という意識をもつ若い世代には受け入れがたかったのでしょう。自己中心主義はいまや世紀末の〈私〉の存在様式となったのでした。

2）言語的コミュニケーションの不全

　〈私〉は世界の中心に居て絶対者として存在している、という自己中心主義はしかし、絶えず不安にさらされています。というのも、現実には自分が世界の中心に居るわけでもないし、絶対者でもないからです。この不安も言語的コミュニケーションによって解消されればいいのですが、しかし世紀末は言語的コミュニケーションをも不全にしています。

　コミュニケーションを広義に考えれば、日常生活での対面から始まり、労働の交換やお金での売買も含まれます。世紀末では、生活の領域にお金での売買が増大していくことによって、非言語的コミュニケーションのうち、お金での売買に置きかえられる割合が増大していきました。お金での売買では、そのコミュニケーションで商品が伝えられるだけで意味の伝達は希薄になっていきます。そうすると、言語的コミュニケーションでも意味が伝わりにくくなっていきます。

　この言語的コミュニケーションの不全は、もっと根本的には対話の本質とかかわっています。対話の関係とは〈私〉－〈それ〉の関係ではなく、〈私〉－〈きみ〉の関係に他なりませんが、この〈きみ〉が絶対的他者として〈私〉とへだたりなくつながっていて、〈それ〉のようには現前してこない、とすれば、言語的コミュニケーションが開始される前提となる対話者双方の間にある意識化されてはいない関係の厚さの程度によって、伝わる程度が決められることになるからです。

3）新しい思考にもとづく〈私〉

　〈私〉の絶対性という自己中心主義の成立は、新しい思考にとってはどのような意義があるでしょうか。それはまず第一に、戦後民主主義としてくくられた〈私〉に代わる新たな〈私〉の成立であり、同一化に対する違和感の表明です。第二に、〈私〉の絶対性は、主体―客体の二分法に対する違和感の表明でもあり、科学的世界観の相対化へと進みます。第三に、〈私〉の絶対性は不安をともなっており、癒しを求める方向へと進みます。

　このような方向は、多元主義や多言語主義についての言説を流行させています。他方では、世紀末の政治、経済システムが機能不全に陥っていることは明確になっているにもかかわらず、どのようにすればいいのかが見えてこない、という現実もあります。それで世紀末の〈私〉から新しい思考にもとづく〈私〉への移行の可能性をさぐることが重要になってきているのではないでしょうか。

　自然科学的世界観や西欧哲学の存在論に代わる新しい思考は〈私〉－〈きみ〉関係での〈きみ〉の絶対的他性を承認するところから始まります。〈きみ〉の絶対的他性を認める、ということは〈私〉の絶対性を信じこんでいて、自分を起点に世界が開けていたと思い込んでいた自分が、〈きみ〉もまた世界を開く起点であることを承認することです。ですから、これは、〈私〉と〈きみ〉がそれぞれ唯一性をもつことの承認に他なりません。〈私〉は他者である〈きみ〉との関係のうちに意識を超越した領域が社会性として存在すること、〈私〉と〈きみ〉との唯一性がこの意識化し、言語化し得ない社会を構成していることの証なのです。

　〈私〉の唯一性や、意識を超越したものの存在については、従来、宗教やオカルトがテーマにしてきました。でもそれらはこの問題を非合理的なものとしてしか取り扱いませんでした。いま問われているのは、この領域の問題を合理的に扱うことに他なりません。

4）新しい〈私〉の社会性

　レヴィナスは、〈私〉と〈きみ〉との間に絶対的他者性を認める際に、意識の圏の外にある〈私〉－〈きみ〉関係では〈私〉は他者の顔によって審問を受ける倫理的関係のうちにあると主張しました。しかし、いま問われているものは、人間の社会性についての把握を倫理的関係に止めず、それを分業や商品の交換や財の社会的生産のシステムにまで拡げて考えていくことではないでしょうか。

　社会性をこのように拡げて考えると、レヴィナスが意識を超越し、意識の圏の外部にある存在について思考するとき、人々が人間の社会についてもつ意識と、実際に人々の社会関係が形成されている現実との間にズレがある、ということにもとづいていることがわかります。デカルトと同時代人のヴィーコが述べているように、存在と認識との一致として真理を語ることが出来るのは、人間が作ったもの（製品であるとか、科学上の公理とか）についてであって、自然や社会についてはそうではないのです。

　人間が意識にもとづいて作ったものは、人間の意識の圏に属しており、それは人間の認識で完全に捉えることができるでしょう。しかし、自然や社会については、人間はそれを意識の圏に組み込んで認識しようとするとき、必ず、その圏に組み込むことの出来ない存在を残すことになるのです。

　では、この意識の圏に組み込まれない存在をどのようにして人間は知ることが出来るでしょうか。啓示によって、というのが宗教やオカルトの主張でした。啓示によらない、とすれば例えば人間が社会を形成しているとき、その社会形成の実際の仕方と、この社会を人間が認識して描き出した様式そのものとの間には絶対的他者性があることを了解することから始める他はありません。新しい思考が、もし、意識の圏の外にある存在についての合理的な把握をもたらすものであるとすれば、その認識は、存在と認識との一致ではなくて、存在と認識との絶対的他者性を前提に組み立てられねばなりません。

　このように考えると、〈私〉の唯一性とか、意識を超越したものの存在とかは、〈私〉が存在として〈きみ〉と社会関係を形成している現実の仕方が思考のうちに反映されながらも、思考が自らの論理によっては捉えられないことにもとづいて、意識のうちに外部のものとして登場していることになります。

　思考の論理と存在の論理の違い、このことを了解することが決定的でしょう。思考にあっては、対象を把握するためにはそれを分析して抽象化し、次に抽象化された要素を総合して、対象を思考のうちで再生産します。ところが、〈私〉が〈きみ〉と関係して社会を形成するとき分析的な抽象作用は存在せず、双方が関係しあうことでお互いに人間であるという抽象作用を実現しています。ここでは関係しあい、総合しあう、という事態のうちに抽象的なものが出現しているのです。

　存在の関係と思考とにおけるこのような抽象の様式の相違が明らかとなれば、〈私〉の唯一性とか意識を超越したものの存在とかは合理的に説明できるのではないでしょうか。つまり、この社会にあっては、〈私〉は唯一性をもつ者として、同じく唯一性をもつ〈きみ〉と意識を超越した社会関係のうちにおかれているのです。

C）新しい〈私〉と社会

1）現代社会と社会運動

　イタリアの社会学者メルッチは、現代社会の特徴を新しい社会運動との関連で描き出しました。

「社会運動によってこそ、種としての人類を創造もすれば破壊もできる。我々にはあの能力に対する自覚が研ぎ澄まされるのです。私たちは前例のない状況を生きています。このような権能を自らに行使した社会など、かって存在したことはありませんでした。」（『現代の遊牧民』岩波書店、308頁）

　メルッチは現代の新しい社会運動が非常に脆弱な性格をもっているにもかかわらず、それが消滅しない理由について、このように述べています。それまでの時代は人間が社会運動を起こす際には、神の御心とか歴史の法則とかいったものに支配されていましたが、現代になって「歴史上初めて、社会は自らの偶然性にさらされており、永続的な再編成が必要なのだということを感じ取っている。」（同、308頁）がゆえに社会運動は消滅しそうにない、というのです。メルッチによれば、新しい社会運動は、新しい社会形成という課題を与えられていながらも、いまだ、その解決方法については明らかにできていないのです。

2）同一性から唯一性へ

　「歴史の法則」を導きの糸にして社会を変革しようとする共産主義運動は、新しい思考からすれば、やはり科学的世界観がもつ限界にとらわれていました。というのも「歴史の法則」なるものは意識の圏に組み込まれた世界観を土台に打ち立てられたものであって、現実に〈私〉が社会を形成しているその様式は、その意識の圏の外にあったからでした。〈きみ〉が絶対的他者であり、〈私〉と〈きみ〉はそれぞれ唯一性をもった存在として〈私〉が社会を意識する前に、すでに社会を形成している、ということが判明すれば、社会にあっては、個々人が言語や意識の圏を形成する言語的コミュニケーション以外のコミュニケーションですでに結びついている、ということになります。

　したがって、新しい〈私〉から社会形成を望むとき、一つの社会を形成している諸個人は意識の圏からすればお互いに絶対的他者としてある、ということを意識することが重要になってきます。というのも、社会を対象として意識の圏に巻き込めると考える科学的世界観は、実は、絶対的他者としてある〈きみ〉に対する同一化要求に他ならず、〈きみ〉の唯一性に対する暴力行使に行き着くからです。

　これまでの人間社会は自然発生的に形成され、人間はいわば社会的な自然力に順応してきました。いま、この順応が問題となっているのです。個々人の唯一性を認めた上での社会形成論は、この順応の様式に働きかけることとかかわっています。

3）新しい〈私〉は社会そのもの

　すでに存在している社会の社会的な自然力への順応、これが、自己を世界の中心にあると思わせ、〈私〉の絶対性を育む過程でした。同時にその過程は、現実には〈私〉は世界の中心に居るわけではなく、また絶対者でもないことを〈私〉に知らしめるものでもありました。こうして〈私〉の不安が形成されてきますが、しかしそれは存在と認識との一致を前提とする科学的世界観や個の同一性を追求する民主主義的運動に対しては違和感をもたざるをえないのです。

　でもこうした世紀末の〈私〉の存在そのものが、来るべき社会の輪郭を描き出しているのではないでしょうか。そのためには、自己中心主義的な〈私〉の絶対性を相対化し、〈きみ〉の絶対的他者性の承認にもとづく〈私〉と〈きみ〉との唯一性を認めることが残されているだけです。

　個々人の唯一性を前提に社会形成を考えると、まず意識の上での〈きみ〉の同化は幻想である、ということになります。この点でこれまでの民主主義運動や共産主義運動は運動の発展がまさにこの幻想性を招きよせ、それを超えられないがために限界に直面しているのです。これらの運動は政治運動は組織しえても社会形成には無力でした。

　次に、新たな社会のイメージは、それぞれ唯一性をもつ異なる個々人が、それぞれ唯一性を残したままで相互にコミュニケーションを行っている、というものとなるでしょう。今流行の多元主義は、例えばムフのラディカルデモクラシーの場合は、従来の民主主義のように、同一性（国民、労働者、など）に権利を認めるのではなく、差異性に権利を与えなければならない、と主張しています。しかし、ムフの差異性は同一性の上に立つ差異で、意識の圏の内部での権利主体の想定なんですね。そうではなく、ムフのいう差異を絶対的他者と置き換えれば、この意味での多元主義は政治的権利の枠組みを超えて社会形成へと向わざるをえないでしょう。

　さらに、ハーバーマスを始めとする公共圏を主張する論者たちは、個々人の絶対的他者性を前提としていず、その同一性を前提としています。だから公共圏は利害にとらわれない討論の場であり、同一性を回復する場として設定されているのです。これでは絶対的他者は公共圏には登場しようがなく、そして、個々人が唯一性に目覚めつつある今日、この試みは実現しないでしょう。

　では新しい〈私〉はどのようにして社会形成へと向えるのでしょうか。問題をそのように立てること自体が誤っています。実は、新しい〈私〉とは社会そのものではないでしょうか。世紀末の社会のうちから〈私〉と〈きみ〉の唯一性を認める新しい〈私〉が登場したとき、その時の〈私〉はすでに新しい社会を背負っているのではないでしょうか。

D）新しい〈私〉と地域

1）地域における既成の事物

　唯一性に目覚めた新しい〈私〉が、言語やお金やその他の媒体でコミュニケーションしている社会としての地域、そこにはどのような社会があるのでしょうか。

　地域には、政治的な組織として国家の地方自治体があり、経済的な組織として家計と企業があり、ひとつの社会構成体が成立しています。これらの組織はいずれも何らかの共通性で個々人をくくっています。国民としての共通性や親族としての共通性や、お金の増殖欲に従えさせられる、などなど。この共通性が実は意識のうちでのものにすぎず、現実には唯一性をもった個々人が多様な形で生活している、ということが見えてきますと、この同一性にもとづいた組織は、個々人の唯一性に対しては暴力的なものとして対峙していることが判明します。もしそうならば、個々人の唯一性を残した結びつきというものを、これらの代わりに構想することができるのでしょうか。

2）既成の事物への違和感

　既成の事物への違和感を感じてそれと距離をおこうとする人々が増えてきています。彼らは事実上、今日の既成のシステムに対する絶対的他者のポジションにいるのです。だが、この絶対的他者性というのは、〈私〉の意識の圏の外、という意味であって、現実には唯一性をもった諸個人は、それぞれコミュニケーションに属し、社会を背負っています。だから彼らは既成のコミュニケーションから距離をおこうとしているのです。

　しかし既成のコミュニケーションから距離をおこうとすると、とたんに生活の必要にせまられて、新たなコミュニケーションを形成することに向わざるをえません。消費協同組合やワーカーズ・コレクティブ（生産協同組合）やLETS（地域通貨）などが、既成の事物に代わるシステムとして選択されています。

3）新しい協同主体

　そこで出てくる問題は、唯一性をもった〈私〉たちが、生活の必要にせまられて新しいタイプの事業を企画するとき、それが個々人の唯一性を残した結びつきとして実現される可能性があるのか、ということです。個々人の多様性を同一性にもとづく差異として、思考のうちに回収してしまうことなく、逆に思考をたえず〈きみ〉の絶対的他者性へと開いていけるシステムとして、機能しうるのでしょうか。

　その際、従来の協同組合運動と協同思想もまた、科学的世界観と民主主義の思想との限界を超えられていず、従って多様なものに対する同一性の要求として運動が展開されてきたことをまず認めおくべきでしょう。その場合の協同主体は、個々人の同一性への希求であり、具体的な生活のコミュニケーションから離れたところでの意識の圏での同一性の追求により実現されるものとみなされがちでした。

　新しい〈私〉は、従来の協同思想に対し、意識の圏での同一化の不可能性と、思考の上での〈きみ〉の絶対的他者性を認めることを要求しています。この要求に応えられない協同思想は、科学的世界観と同様に相対化され、古い思考に分類されてしまうでしょう。

　ここで問われてくるのは、新しい協同主体のイメージです。従来言われてきた事業と運動の両輪、といったことではなく、事業の組み方と、運動の意識のあり方双方が、新しい〈私〉や〈きみ〉によって審問されねばなりません。思考のうえで〈きみ〉を回収するのではなく、〈私〉や〈きみ〉という両極の唯一性を残したままでの一つの同一性として事業を形成していくことができれば、〈私〉と〈きみ〉とは協同主体を形成していることにならないでしょうか。この場合の同一性とは思考による同一性ではなく、思考に先立って〈私〉と〈きみ〉との言語的コミュニケーションに先立って存在している関係における同一性としての共同事業のことに他ならないでしょう。個々人が集合して一つの事業体をつくるとき、それぞれの個の唯一性を残したままで一つの共通物としての事業をたちあげる、これが地域づくりの課題となっているのではないでしょうか。

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Author: admin Published: 2006/1/5 Read 3175 times