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社会病理の解決を求めて 第3章


社会病理の解決を求めて 第3章


2003/10/04 榎原均

第1章 斉藤環『社会的ひきこもり』に学ぶ
第2章 心について考える 吉川武彦の説/滝川一廣の説
第3章 木村敏の「あいだ」に学ぶ

第3章 木村敏の「あいだ」に学ぶ


1)はじめに


 心が病む、ということを 関係が病む、と捉えるとき、思い当たるのは、木村敏だ。彼は以前から気になっていて、本も集めてページを繰ってみたことがあったが、頭に入ってこず、体系的に読めなかった。ところが『心の病理を考える』(岩波新書)を今回読んでみて、社会病理について考える際の必須のステップだということが判明した。他の本は手離してしまったので、手元にあるのはこの本だけだ。とりあえず、この本について思いつくところを書くことで、木村敏に学ぶことにする。

2)人と人との「あいだ」


 木村は合奏するとき、自分自身の演奏と全体との間に感じられる実感を手がかりにして、人と人との「あいだ」についての考察をしている。合奏の場合、「数人で合わせている合奏音楽の全体が、個人の意志を越えたひとつの強大な意志を持ち始め、まるで一個の生きものであるかのように感じられてくる」(7頁)。この全体は、個々の奏者の意志を規制しつつも、他方で、個々の奏者がやめてしまうと消失してしまう。木村はこの事情について、印象深い叙述を与えている。
「つまりそれは、私の演奏を細部にいたるまで規制しているものなのに、その一方で、私個人が自分自身の演奏を通じて作り出しているものでもあるということになる。だから、この合奏全体の大きな意志と私個人の意志とは渾然一体となって区別ができない。私の動きが全体の意志の中へ吸収されてしまっているともいえるし、私が自分の意志の中へ全体の動きを統合しているとも言える。」(73~4頁)

 この合奏中にみられる自分の意志と全体意志との「二重意志」あるいは「二重主体」の体験は、単に音楽だけでなく、普通の会話にも見られるとして、木村は他に会話の例をあげている。
 このような体験から、木村は、人と人との「あいだ」を抽象的な観念としてではなく、具体的で実体的な意志の力のようなものとして考えるようになったと述べている。この木村の発見した「あいだ」は実体的なものとしてあるのは関係のうちでのみであり、かつ、それも認識対象としては成立不能で、もっぱら経験できるものとしてのみある。もうすこし、木村の説明を引用しておこう。
「合奏音楽や会話を成立させているのは、それに参加している個々の個人の「あいだ」ではたらいている何らかの大きな力であって、この意志の力は、見方によって個々の個人の主体的意志によってはじめて成立するものにも見えるし、逆にそれがはたらくことによって、はじめて個々の主体が主体として成立するようにも見える。ここで『主体』というのは、合奏や会話というアクチュアルな場を構成する行為の主体という意味である。
 このような『あいだ』のはたらきをリアルな認識対象として、-――たとえば音楽を単に音として聞くだけ、会話をテープに録音してあとからそれを分析するだけの立場から――捉えることは絶対に不可能である。それを経験しようとすれば、みずからその行為の中へ身を置いて、行為を通じてそれを感じとるほかはない。……私はときどき、私が『あいだ』というものを実体化しすぎているという趣旨の批判を受けることがあるけれど、行為の立場に立つ限り、『あいだ』はつねに実体的に成立し、実体的に経験されるものなのだ。これを認識の立場での、リアリティの実体化と混同するのは間違いである。」(75~6頁)

 このような木村の「あいだ」の把握は、ミードが、他者の態度を取得することで、自我が二重化すると述べたことと同じ事柄なのだが、木村の説の特徴は、これを精神病理の解明に役立てようとしたことにあった。

3)精神病理と「あいだ」


 木村敏が精神科医になり、精神分裂病(統合失調症)に直面したとき、「『人と人とのあいだ』として概念化できるアクチュアリティと、患者個人の自己主体との関係がうまくいっていないのではないか」(76頁)という考えをいだいたという。そして木村はその後の研鑽で、この考えをうまく言語化できるようになったと述べている。その経過を追体験してみよう。
 木村がたどった道は、ビンスワーガーの『精神分裂病』の翻訳の際の、西田哲学と対比させながらのハイデッガー哲学の研究だった。木村は自らの問題意識を哲学的には次のようにまとめている。
「ビンスワーガーは分裂病を世界内存在としての現存在の病態と見なしているが、この世界内存在というのは、ハイデッガーでは現存在の出立あるいは超越のことであり、西田はそれを『自己が〈絶対の他〉のうちで自己に出会うこと』と捉えている。そのような『自己』の病としての分裂病を考えてみたい、それを私は、自分のライフワークとして心に抱いていた。」(77頁)

 このような見地を木村はまず日独のうつ病患者の罪責体験の比較に生かしてみた。「ドイツ人の罪責体験が、個人の内面的な負い目の体験として完結しているのと違って、日本人の場合には、自己の怠慢や過失によって周囲の人たちとの間柄が傷つけられるということが罪の指標になっているという結果がえられた。」(77~8頁)
 つまり、ドイツ人の場合、キリスト教の神という超越者と直結した自己内在的な価値基準があるのに対し、日本人の場合には、自己を取り巻く間人間的な「あいだ」を価値基準としている、というのだ。
「私はこのことから、『あいだ』というのは単に自己と他者のあいだに広がっている外在的・空間的な場所のようなものであるだけではなく、同時に内在的でもあり、さらに価値基準としての超越性も備えた重層構造として理解しなくてはならないと考えるようになった。そしてこれは、私が以前から音楽体験を通じて漠然と考えていたこと、つまり、自己主体というものは単に自己内在的であるのではなく、集団全体のあいだにあらかじめ取り込まれるという形で自己の外へ出立しており、しかも何らかの非人称の意志によって抗いがたく律せられているという『二重主体』的な構造と厳密に対応するものだと考えた。」(78頁)

 木村は、日本人の念頭にある「あいだ」は、ドイツ人の神と同じく、価値基準としての役割をはたしていることから、「あいだ」は、空間的な場所であるにとどまらず、価値基準としての超越性ももったものであり、自己は自分一人で完結しているのではなくて、集団全体に取り込まれる形で自己の外へも出立していて、非人称の意思に抗いがたく律せられている、という。
 このうつ病研究と並行して、木村は脳波の仕事もやっていて、てんかん発作特有の異常波が、急性精神症状がおさまって患者の意識が安定を取り戻したとき頻発するという現象を発見したという。そして、ここから、木村は、「非定型精神病やてんかんの世界は、本質的に祝祭の世界である」(88頁)と、結論づけているが、これについての詳細の紹介はひかえておこう。
 木村によれば、こうした回り道をして、いよいよ分裂病の研究に取り組み、「分裂病の基本障害を自己の『個別化の原理の障害』として捉える見かたを世に問うた」(88頁)。
「つまり私たち大多数の人間は、普段は当然のことのように個別的自己として大勢の他者との『あいだ』を生きているのだが、それを可能にしている根本的な原理、さらに言えば、ハイデッガーが『現存在』の根本体験としての『世界内存在』の性格として述べているところの『そのつど私の存在』という『各自性』を可能にしている原理そのものが分裂病では成立不全に陥っていることを表現したかったからである。」(89頁)

 木村はニーチェが『悲劇の誕生』でディオニュソス的なもの(酒と狂乱の神で、生命の根源的なあり方としての非合理的なものの象徴)との対比で、アポロン的なもの(造形の神で理性の象徴)を個別化の原理と呼んでいることにヒントを得たと述べている。
 さて、木村は、この個別化の原理について、この本では、自己の存在の二重性という観点から説明している。この自己の存在の二重性とは、私だけが、たった一回きり生きている人生の唯一の所有者、という意味での私の唯一性と、他方、大勢の集団のメンバーの一人であり、交替可能な存在としての私一般性である。
「ニーチェが『デュオニソス的』と呼んだのはこの野生の『個別以前』『自己以前』の生命の動きだった。そしてこれが造形神アポロンの手にかかり、仮象としての自己の個別化が意識のスクリーンに映し出される。『外部的』な集団の一員としての『私』の本源性と『内部的』な歴史性としての『私』の仮象性。ここには内部と外部のみごとな逆転が見られる。そしてこのことは『内部』と『外部』、単独者としての自己と一般者としての自己とが一筋縄では片付かない問題を含むことを物語っている。」(93頁)

 木村は、はじめに唯一者としての私を内部とし、一般的な私を外部として区分したが、ニーチェでは、集団的な一員としての私が本源的で内的なものになり、単独者の私が歴史的で仮象的、外的なものとなって、内部と外部が逆転する、と述べている。この木村の自己の二重性についての理解の肯否はさておいて、このような見地から、精神分裂病について、木村は次のように述べている。
「さきに私は、分裂病患者は病前から『自己』の形成が不十分で、個別的自己の個別性が確立していない、そしてこの自己性の薄弱さはそのまま発病後の症状形成にも現れて、自他の境界が不鮮明になるかたちで病的体験を生んでいる、と書いた。そしてこれは、何らかの原因によって自己の個別化という事実が結果的に成立していないというよりは、人間に個別的自己という仮象を抱かせてくれる『原理』そのものが障害されているからだと考えた。そしてこの個別化の原理の生み出した個別的自己という仮象に頼ってディオニュソス的な根源的生命の充溢に掉さすという力業に不幸にして耐え得なかった人、それが分裂病者ではないか、とも書いた。」(93~4頁)

 この木村の分裂病についての考え方が正しいかどうかについては、私には判断できない。私が興味をもったのは、個別化の原理を自己の存在の二重性から説き起こしている木村の叙述の形式そのものだ。木村はさきの合奏の例では、「あいだ」は体験できるのみであり、体験においては実体的なものだが、認識対象としてこれを見るなら、実体的なものとしてあるわけではないという主旨のことを述べていた。私流にに言えば、「あいだ」は関係によって生じる超感性的な社会的実体であり、これを思考で捉えようとすれば、分析的抽象に頼る他はなく、関係のなかでの事態抽象によって成立している実体的なものは、思考の分析的抽象によって解体されてしまう、ということになろう。
 さて、木村の叙述の形式に帰ろう。木村はまず、自己を二重の目でみている、ということから論を起こしている(91頁)内部からの目と外部からの目だ。そして、次に、内部からは自己の唯一性が見え、外部からは自己の一般性が見える、というように展開する。ところが外部から見た自己の一般性は、実は内部の自己に備わっているのではないか、ということをニーチェの例を引いてきて、内部と外部を逆転させる。そして、最初の自己を内部と外部という二重の目で見るという出発点自体の不十分性を示している。根源的生命と個別化の原理は内と外といったものではなく、一つの相互関係を形成している二つの契機であり、自己とは両者の間に働きあう作用そのものだ、というのだ。
 私流に言えば、ニーチェから引いたディオニュソス的なもの(根源的生命)とアポロン的なもの(個別化の原理)とは、社会という関係の場で事態抽象によって自己を形成するが、これは関係の両極であり、思考はこの両極を、契機として取り出すことしか出来ない、ということになる。
 木村もこの点に気付いている。二つの契機は「けっして最初からそれとして与えられているわけではない。私たちが自己の個別化を経験してしまったあとで、それを構成している二つの契機として事後的に抽象できるだけである」(95頁)と。

4)「もの」と「こと」


木村は関係における両極としてある二つの契機を二項関係として捉え、この二項関係が現実には非常に謎めいていることに注意を促がしている。ディオニュソス的なものとアポロン的なもの、リアリティとアクチュアリティ、みずからとおのずから、ものとこと、といった例をあげたあと、木村は次のように述べている。
「これらはいずれも単純に二元論的な二項対立ではない。これらの二つずつの項のあいだには、それを言語化しようとしたとたんに言葉というものの不如意を嘆かなくてはならないような、イメージとして表象できないような、奇妙に謎めいた関係が支配している。そして不思議なことに、この奇妙に謎めいた二項間の関係は、右に列挙した多くの対概念のどれをとってもすべてに通底しているように思われる。」(125頁)

 この観点は基本的に正しい。そして、木村はこの観点から、根源的生命と個別化の原理との関係について、次のように再論している。
「リアルなモノの次元ではないアクチュアルなコトの次元での私の生命、私がいまここに生きているという主観的なアクチュアリティの意識が、一方では絶対的に交換可能な単独性の形で、もう一方では無限に開かれた生命的連帯性の形で、二度現れてくるのはどういうことだろう。それは言うまでもなく、本書の主題のひとつである生命概念の二義性、つまり個的生命と生命一般のあいだの関係に由来することである。
 私たちは親から生まれ、一個の身体として発生したそのときに、ゾーエー的な無窮の生命を私の身体に引き受けることになる。私は自分が個としての有限な生命を生きることを通じて、無限の生命一般との関係に参入することになる。この関係は、一方では私自身の生命の根拠との関係であると同時に、他方では私と同様にゾーエー的生命に参与している他の生命体との、とりわけ他人たちとの根底的な――根拠を通じての――関係でもある。そしてこの関係は私が自分の個的生命を終えるまで続く。つまりこの関係は私の内面の歴史、私の『内的生活史』を構成する素材となっている。」(137~8頁)

 思考と、関係として実在している存在との論理的な差異に気付いている木村は、この差異についてなんとか了解しようと努力している。ところが、私の見るところでは、この試みは成功しているとはいえない。というのも、人間の社会性ということについての解明が試みられていないからだ。ここで木村が述べている単独性、つまり有限な生命と無限の生命一般との関係ということで問題にされていることは、それについての意識に他ならない。もし意識という契機を捨象されれば、この規定は、あらゆる生命体にあてはまる無内容な規定になるだろう。この二つの関係を意識にのぼらせるものこそ人間であり、そして、人間の社会性がそうさせている。とすれば木村は、ここからさらに人間の社会性についての解明へと進んでいくべきなのだ。
 唯一者(単独者)と一般者との関係は、生命の関係であると同時に、人格的関係である。人間の社会性は、これを人格的関係として捉えたときに現象する。この人格的関係の原理は、二人の人間が社会関係を取り結ぶ場で開示される。特定の社会関係にある二人の人間は、関係の両極である。この関係において唯一者は、同じ唯一者である他者の身体を社会的なもの、一般的なもの、一般的なものの化身とすることで、自らの一般性を獲得している。
 近代の人格理解は、人間の人格的同一性(基本的人格に見られる)から出発し、この同一性が個性をもった諸個人という差異へと分化するものと捉えられていた。この同一性は、最初は家父長だけに認められたが、次に成年男子一般、さらには成年女子へ、また人種差別、民族差別から始まって、その形式的解消へと進んできた。だが、この考え方は個の唯一性、言いかえれば、他者の絶対的他性を排除しており、レヴィナスが批判したように、同一性が暴力行為の論拠として用いられてきた。差別の廃止ではなく、他者の絶対的他性を認め、個の唯一性を承認する、この見地から近代合理主義の限界を超えていくことが課題となっている。ところが木村はこの方向には向かわない。
「私の主観的な個別性、死の意識に極限に達する私のアクチュアルな個別性は、個的な身体的生命の側の事象でお種的で非身体的な生命一般の側の事象でもない。それは個的な生命体がその根底にある生命一般とつねに係わりあい、この生命の根拠をみずからの個的生命のなかに受入れている、この関係そのものとして生起する事象なのである。リアルな個的身体的生命とアクチュアルな生命一般が相接した界面に、そのつどの私のアクチュアルな個別性と主観性の意識が生起する。」(138~9頁)

 このように木村は、個的生命体がその根底にある生命一般とつねに関わっている、という生命一般の規定から、直ちに個別性と主観性の意識を生起させている。ただ生きている、という事態のなかに社会的なものの生成を見ているのだ。これは逆ではないのか。人間は社会的なあり方から、生きているという事態も規定されているのではなかろうか。とまれ木村の分裂病についての規定をみてみよう。
「自己の個別化の原理の障害というのは、モノ的な身体的生命がコト的な生命一般に根ざしているその界面において、あるいはモノ的な身体的生命がその生命活動によって生命的環境と出会っているその界面において、身体活動と一体となってそれと区別しがたい仕方で働いている意識活動(こころ)がその自己性/主観性/主体性の成立不全に陥っている状態のことである。分裂病的な個別化の原理の障害とは、単なるモノ的対象的な身体面での障害でもないし、身体と無関係な心理的・抽象的な観念としての自己の障害でもない。それは患者の全存在が身体を媒介にして自らの根拠とのあいだに取り結んでいる関係の、あるいはこの根拠を通して周囲の環境とのあいだに取り結んでいる関係の障害なのである。この関係こそ、『自己』『主観』『主体』などと呼ばれるものにほかならない。」(141~2頁)

 関係が病む、ということの解明のステップとして、木村の「あいだ」論を追ってきた。ここで「関係の障害」ということが語られているだが、その関係は社会関係として独自に解明されていず、生命一般のあり方における個と一般との関係からの類推としてなされていることが判明した。
 木村は、分裂病を自己の個別化の原理の障害と見ているが、しかしこれは、逆に、人格の同一化をおし進めてきた近代社会の社会病理を代表する存在、というようにも読める。そして、今日は、同一化が極限に達し、差異化、多元化が時代の基調となってきているのだが、それはそれで、社会病理の大元を解決しないうえでの変化であり、社会病理を代表する存在の交替(統合失調症からうつ病へ)が語られていることと対応しているようだ。




Date:  2003/10/4
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