　「心の時代」とは、小沢牧子（『心の専門家はいらない』洋泉社新書）によれば、あらゆるものの商品化が進められている今日、人間の心の領域がカウンセリングの対象とされ、商品化されていったことによってもたらされた。これは、姜尚中によれば「恐ろしく複雑な社会環境を人のこころ、その内面に封じ込めて出来事の原因をわかりやすく説明しようとする動き」（『心の専門家はいらない』12頁より重引）としてあらわれている。色々な社会現象を全て「心のケア」や「心の教育」の問題としてしまうこの時代に、心とは一体どのようなものとして捉えられているのだろうか。たまたま手にした吉川武彦の『引きこもりを考える』（NHKブックス）の第2章に「こころはどのような形をしているか、どう発達するか」という記述があったので、これを手がかりに問題の所在をさぐっていこう。

2）心の三要素

　心があることを否定する人はいないが、心を目で見た人はいない、という事実から出発しながら、吉川は、心の三要素として「知」「情」「意」をあげている。
　「知」とは、いわゆる思考のことであり、情報の処理にかかわっているが、吉川はまず視覚について次のように述べている。

「目から入る情報は『光』刺激となって、感覚器である視角を刺激し、視神経を通じて『光』刺激をキャッチできる脳まで情報を運んでいきます。……『光』情報を受け止めた大脳は、その『光』を『色』に分けたり、『形』を認識したりする機能をもっています。さらに、このように情報を細分化するばかりでなく、大脳は得られた情報を総合化する作業をも請け負っています。」（82頁）

　これが認知であり、認知された情報は記憶され、この記憶と新しい情報とを照合していく思考の働きによって、情報は理解され、内容を吟味されたところで判断に持ち込まれる。この一連の働きを「知のこころ」というなら、「知のこころ」を支えるものは言語であり、言語の獲得が「知のこころ」の発達を示すという考え方もあるが、しかし、言語の発達が見られなければ「知のこころ」は発達しない、というわけでもなく、「知のこころを発達させるためには、人と人とのつながりを大切にしなければならない」（84頁）と吉川は述べている。
　次に「情」とは、原始的感情とされている「快・不快」の感情を次第に細分化させたものが人の感情だと吉川は主張している。そして、「情のこころ」でもっとも身体的な感覚に結びついているのが情動だとみている。

「情けをかけることができるのも、情けを感じとることができるのも『情』のこころの発達によるのですが、そのすべてが快・不快の原始的感情からの分化であり、発達なのですから、『情』のこころを発達させるには、ことのほか人と人とのつながりが大切だと言えるでしょう。」（87頁）

　最後に「意」について。吉川は意識こそが「意のこころ」の大本と捉え、ヤスパースに従って「能動性の意識」「統一性の意識」「連続性の意識」「限界性の意識」の区分を行っている。その上で、「意のこころ」には、生命維持や生殖などの行動を支配する本能があることを付け加えて次のように述べている。

「意のこころは、知のこころと強固に結びついて意思を形成しますし、さらに知のこころと強固に結びつき社会性を意識するようになって欲求と結びつくと、意志として結実します。その意志的要素が少ないものを欲望と言いますが、精神性の高い欲動もありますから、意のこころもまた人のこころの三要素の一つとして重要です。」（88頁）

　心の三つの要素は互いに結びつきあっているが、その結びつきについて吉川は次のように述べている。

「先にも触れたように、情のこころの一つに性格がありますが、人格とは、こうした知のこころと情のこころ、そして意のこころが互いに緊密に関係し合いながら、その人にほぼ固定的に表れるものを言います。もちろん、知、情、意のこころのどれかに歪みが生じれば、人格にも歪みが生じます。このように、人のこころには、知のこころ、情のこころ、意のこころがあるのです。そして、これらがうまく絡み合ってこそ、行動に統制がある人となるわけですし、人格が円満な人と言われるのです。」（89頁）

3）とりあえずの疑問

　すでにギブソンの生態学的視覚論やワロンの情動論に学んできた立場からすれば、吉川の心の三要素論には納得しがたいものがある。吉川は認知の仕組みを思考の論理に従って、分析と綜合という枠組みで理解している。たしかに思考は分析と総合とによってしか、対象を理解し得ないとしても、しかし、分析と総合は思考の契機であるにすぎず、対象そのものが、そのようにふるまっているわけではない。
　ギブソンは視覚を包囲光配列の構造についての知覚と捉えたが、それは、環境を認知の外的対象とし、環境から主体としての人間の眼に光が入ってくる、といった、主体と客体との分離を否定し、環境と動物との関係として視覚を捉えた帰結であった。私流に言えば、視覚は分析と総合によるのではなく、環境と動物とが光学的に関係することにもとづいて事態抽象された包囲光配列の構造を知覚するのだ。
　次にワロンは、情動を非言語的コミュニケーションと捉え、人類史的には、言語を形成していく以前の社会におけるコミュニケーションとみなしており、そして、新生児は生れ落ちた時から、情動によるコミュニケーションを行っていて、この情動が自動活動を土台とした知覚を生成していく媒介となっていることを示していた。ワロンにあっては、情動は個の属性ではなく、集団の内で共同的に成立するものであり、だから、これはコミュニケーションとして成立しうるのだ。
　これに対して、情動についての吉川の立場は、それを始めから、個の属性と捉えている。吉川にとっては、心の三要素だけでなく、心も個の属性であって、だから「歪んだこころ」とか「こころの発達」といったことが述べらることになる。
　しかし、吉川とは反対に、心を社会集団の属性とみるならば、「歪んだこころ」とか「こころの発達」といった考え方とは別の考え方が開けてくるのではなかろうか。

4）自分らしさ

　吉川に帰ろう。吉川は知、情、意という心の三要素をあげたあと、「もう一つのこころ」として「自分らしさ」を付け加えている。自分らしさについて、吉川は次のように述べている。

「その自分らしさづくりでもっとも大事なのが欲求なのです。自分のこころに欲求をためることが自分らしさづくりのもとになります。……自分が泣いて訴えても親が応じてくれないということを経験した子どもは、世の中は自分を中心にして回っているわけではないという体験を積みます。つまり、世の中には『決まり』や『約束』あるいは『規範』があって、自分の欲求がいつでも通るわけではないという体験を積むというわけです。こうして子どもは、自分の欲求と世の中の規範との間に『折り合い』をつけることを覚え、……押したり引いたりするタイミングを計ったり、成功する可能性が低くても頑張り通すというような『自分らしさ』を身につけていくのです。」（90～1頁）

　ここでも吉川は主体と客体というようにわけて、主体がどのようにして客体としてある規範を獲得していくのか、というように問題をたてている。だが、この点に関しては、アダム・スミスが述べた、人は他人を鏡として自分を規制している、という考え方がより真実に近づいている。社会の規範も個々人の外に存在しているのではなく、個々人が他人を鏡として自己の行動を規制していることで、都度規範が再生産させていると見るべきだろう。
　自分が他人を鏡とする場合、他人の方は、自分から働きかけられ、自分との社会関係に組み込まれた時、社会の化身としての役割を受け取る。他人はただ特定の具体的な個人であるにもかかわらず、この生身の個人が、この関係のなかでは、社会の化身とされるのだ。つまり、社会の規範という抽象的なものが、自分と他人との社会関係のうちでは、事態抽象により、他人の生身の身体を借りて姿をあらわすのだ。

5）心の仕組み

　心は目に見えないことは吉川もよく知っているのだが、この見えない心のモデルを知、情、意という心の三要素と、自分らしさ、という四つの面から成る三角錐として提出している。つまり自分らしさを底辺にし、この三角形のそれぞれの辺に立つ三面が知、情、意の三角形となっている。そして、この三角錐のそれぞれの面の大きさで、心の安定、不安定について論じている。
　正三角錐が一番安定した状態であり、四つの面のバランスが悪いと、倒れやすい、不安定な心になる、というわけだ。このようなモデルをつくると、結局、心の四面の大きさをどのようにして形成していくか、ということが問われることになる。
　吉川は、心が大きく育つ条件として、「こころ中に新しい欲求を次々取り込み、それに伴い引き入れられた規範との間で、厳しい葛藤を繰り返している」（100頁）状態を想定している。そして、この心を大きく育てる子育てがいまは見られず、「欲求先取り型」か「規範押し込み型」がほとんどで、これが自分らしさが育たなくなった原因だとみなしている。
　「欲求先取り型」の子育ての場合、心の中に欲求がたまらないし、そこでの葛藤も起こらないから、自分らしさは育たないし、他方、「規範押し込み型」の場合、規範に沿って考えたり、行動したりすることはできるが、自分で考え、自分で判断し、自分で行動することができない、という意味で、やはり自分らしさは育たない。吉川はこのように捉えた上で、二つの型の子育てによって自分らしさが育たなかった子供が引きこもりを起こしやすいと主張している。
　もし、このように主張するなら、現在の子育てがこの二つの型になってしまっている原因を明らかにし、その原因を解消していくことが試みられなければならないが、吉川は、もっぱら両親の子育ての仕方ということしか問題にしていない。これは実は心を個人の属性と見ることから、そうならざるを得なくなっているのではなかろうか。

第2節　滝川一廣の説

1）心は自分の外にある

　吉川は心を個人の属性と捉えていたが、これと対照的に、それを社会的なものと捉えているのが、滝川一廣だ。佐藤幹夫との対話『こころはどこで壊れるか』（洋泉社新書）で、心とは何か、という問いに対し、滝川は次のように答えている。

「『こころ』というものはとにかく不自由で厄介なものだな、というのが、とりあえず一番先に思うところですね。そもそもわたしたちが『こころ』なるものの存在を意識するのは、それが自分にとって自由なものではないからですよね。」（20～1頁）

　吉川の心の仕組みと心を大きく育てる、という考え方には、心を個人の属性と捉えていることの他に、心を自由に育てられる自由なもの、という認識がある。もし、滝川の主張するように、心が不自由なものだとしたら、それを意図的に大きく育てようとしても、決してうまくは行かないことになる。吉川説に従って、心を大きく育てるような子育てをしても、実際に子どもの心が大きく育つかどうかわからないことになる。では滝川はどのような意味で、不自由なものと捉えているのだろうか。佐藤の「一つは他人の『こころ』にあっという間に同調してしまうと言いますが、感応してしまい、自分の身体の中にありながら、どこか自分のものではないような面がありますね。」（21頁）という提起に応じて、滝川は次のように述べている。

「たしかに自分の中にあるのか、外にあるのかわからない。『こころ』が育ってゆく順番から言えば、まず最初は外のものでしょうね。オギャアと生まれる前から（少なくとも成人におけると同型の）『こころの世界』をあらかじめ身体（脳）の内に備えているとは考えにくいでしょう。『こころ』の世界は赤ちゃんの外に、つまり、その子をとりまく大人たちの内にあるものです。しかし、大人たちは、その赤ちゃんをけっして『こころなき者』とは見ませんよね。最初からすでに自分たちと同じ『こころ』ある存在として関わっていくでしょう。これが人間の子育ての特徴で、この交流によって子どもの内側にも次第に大人たちのそれと同型質をもった『こころ』の世界が形成されてゆくわけです。
　『こころ』とは植物の成長みたいに自主的に成熟したり、自分ひとりで恣意的に作り上げたりはできないもので、そもそもそこに不自由の原点があるのでしょうね。人間の精神機能、『こころ』の働きとは、それぞれの固体（脳）の内で生起している現象でありながら、その固体の外に共同的な広がりを持ち、そこにおいて生起している現象だという矛盾を抱えています。この矛盾が、また不自由の種でしょうね。」（21～2頁）

　心の不自由さとは、それが、個人の身体（脳）の働きによる現象であるにもかかわらず、共同的な広がりをもっているために、個人の統制を受けつけない、という点に求められている。このような心の捉え方に従えば、心が病む、ということについても新しい捉え方ができる。

2）心は病むものか

　心はもともと自分の意のままにならない不自由なものだが、それがまったく意のままにならなくなることが、心を病むということではないか、という佐藤の問いに対し、滝川はこう答えている。

「でも『こころ』は病むものでしょうか。一般にそう言われている状態とは、『病んでいる』というよりも、みずからの不自由なこころと『折り合えなくなった』状態と捉えたらどうでしょう。『こころの病気』というのも、考えようによっては、きつい言葉でしょう。……
　いずれにせよ、『喩』ですからこだわりはしませんが、どう説明したらよいでしょうか。視覚障害者を『目の不自由な方』、身体障害者を『身体の不自由な方』といった呼び方がありますね。でも精神障害者を『こころの不自由な方』とは言いませんよね、ふつう。悪いジョークとしてはともかく。視覚とか身体運動とかは自由なのが常態（自然）と観念されていますから、それらの障害や病気の婉曲表現として『不自由な』が成り立つわけです。
　しかし、『こころ』とは、もともと不自由さを本質としています。健康な状態とは『こころ』が自由な状態というのではなく、その不自由さにそれなりに折り合いがついている状態でしょう。……精神的な失調とは、この折り合いがどうもうまくいかなくなった状態だろうと思います。そして先ほど申しましたように『こころ』は個体の内側だけの世界ではありませんから、自分の『こころ』とうまく折り合えない状態は、必ず他者や世界とも折り合えない状態として現れてきます。
　『こころの病気』といった言い方は、わたしも使いはするものの、個体内に『こころ』という独立した世界なり装置なりがあってそれが内部的に蝕まれたり、故障したりしているようなイメージがどこかないでしょうか。そのイメージはちょっと違うかなという気がするのです。病むという表現をとれば、『こころ』が病むというより、折り合いがつかないという意味で関係が病むのでしょうね。」（22～4頁）

　ここには「歪んだこころ」とか「こころの発達」とかいった観念にこり固まっている吉川の理解とは別の心と、その病についての観念が展開されている。心の病が滝川の言うように、不自由な心と自我との折り合いをつけられず、他者や世界とも折り合えないで関係が病んでしまうと捉えれば、心の病についてのアプローチの仕方もずい分変わったものとなろう。

3）心はどこで壊れるか

　この本の終章では、こころはどこで壊れるか、というテーマで対話がなされている。引用しにくい展開になっているので、要旨をまとめてみよう。
　まず、心がどこで壊れるか、という問いが問われることのうちには、心にとってあまりいい状態ではない、ということがある。それにはつい「自分」を意識させられてしまうという時代背景がある。高度消費社会は個人がターゲットになるから、時代のモードとして、ことさら「自分」とか「自己」が強調されている。人間はかけがえのない一人の自分でありながら、大勢の一人としての役割をもつという二重性をもっているのだが、今日では大勢の一人としての役割を強調すると、型にはめることだとか、学生一般はない、あるのは個人だ、といった反論が返ってくる。例えば、自己実現が強調されるが、それが社会的労働の中での役割とかけはなれていて、非常にあやうい。個性の尊重というのも、同じように、役割との対比で語られていて、これもあやうい。
　個性の尊重ということが強調されるようになったことの一つとして、昔は平凡に人並みになることが切実な夢だったが、いまは人並みな生活が実現されてしまって、人並みでは自足できなくなってきている。人並みがスターラインになっているので、そこから個性的に生きる、ということが一つの生の了解の仕方になってきているのではないか。

「わたしたちの世代くらいまでは、『人並み』ではなかった時代を知っていますから、よくぞここまでという、それなりの達成感も持って生きられます。……しかし、すでにこの社会を自明の前提に生まれ育った世代には、すでに当たり前のものに過ぎないうえ、格別の達成感もないし、この社会にさらになにかを積み上げてゆくのは大変だろうという気がします。うっすらとした手詰まり感のなかで、関心がもっぱら『自分』に向けられほかなく、それがときに過剰なものになるのも時代の必然性があることでしょうね。また、みんなが手にしている『人並み』から『自分』だけ落ちこぼれることへの不安も、豊かな社会の底にたゆたっているように見えます。」（226～7頁）

　このように時代背景を捉えた上で、今日の子どもが直面している問題と新しい失調の仕方について、滝川は次のように述べている。

「いまの子どもたちが出会っている困難さは、極端な言い方をすれば、人類社会が初めて経験する困難さかもしれません。近代社会がある面で高度に煮詰まってきて、豊かな日常生活、健やかな養育、デリケートな個人意識といったものが、ごく一般のものになった社会に現れた困難さで、それを今回の対話のなかで佐藤さんといろいろな言い方でつかまえようとしてきましたよね。……
　子どもたちの新しい失調の仕方は、大きな圧力によってガシャンと壊れてゆくというより、もっとデリケートな壊れ方ですね。微妙な圧によって少しずつくるいが生じて、というような感じ。古典的なハードな困難ではなくて、真綿がからむような漠たる閉塞感や不全感、繊細になったぶん傷つきやすくなった個人意識――そうした現代固有のきつさが負荷となって、現代的なさまざまな失調のかたちを生み出すのでしょうね。」（232頁）

　社会病理の内容の解明について、精神科医に期待するのは無理ではあろうが、この滝川の説は、心の社会性についての理解があるので現代の社会病理の問題性についての理解に迫ることが出来ている。あとひきつづき、二三の論者の説を検討していこう。

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