　社会病理を対象とした学問に、社会病理学があります。最近では逸脱行動を社会病理と見なす考え方が主流になっています。個人のレベルでは非行や野宿者やアルコール中毒など、家族のレベルでは夫婦葛藤や離婚など、社会のレベルではフリーターの増大、不登校、失業の増大など。これらの逸脱行動が個別に研究され、そして社会工学的見地から種々の対応策が提案されています。しかし、それら個別の病理の原因はなにか、という点になると1人1説で、まだ定説はありません。
　ごく少数ですが、逸脱行動が病的なのではなく、全体としての社会それ自体が病んでいることを解明することこそが社会病理学の課題だとする立場があります。それによれば逸脱行動を社会病理とみなす多数派の見解は、社会それ自体は健康なものだ、ということを前提として受け入れている、というのです。
　それで、仲村祥一「社会病理学の現代的課題」（日本の社会学13『社会病理』（東大出版会））によれば、「社会の総体が病んでいるとする未来世界についてのヴィジョンと、それに基づく現代のトータルな批判なしにはいかなる対症療法も人間を真の意味で救済することにはならぬであろう。」（22頁）ということになるのですが、仲村自身もまだトータルな批判を提起できていないようです。
　社会病理学の二つの立場を比較すれば、私は後者の仲村説を選びます。少なくとも逸脱行動が病理で、社会は健康だ、といった、個人の社会病理と社会とを切り離して考える考え方には疑問があり、個人の逸脱行動の背景にある社会的要因を明らかにすることが、社会病理学の本来的な課題だと思います。

2）心理学と精神分析の考え

　社会病理に対する対応策として、精神障害者に対するケアを目的にした心理学のカウンセリング理論が80年代以降流行してきました。この理論は社会病理を逸脱行動と捉える立場に立った、主流の社会病理学の学説と連動し、企業や学校での臨床心理士採用に見られるように、社会工学的な見地からの対応のための具体的手段として機能しています。
　このカウンセリングのブームについては、色々な立場から、批判が提起されています。例えば『心の専門家はいらない』（洋泉社新書）を書いた小沢牧子は、自らのカウンセリング体験をもとに、それが心を病んだ人たちに対して、社会に復帰させることが目指されていて、個々人がバラバラにされているという社会そのものの病理については考慮していない、といった意味のことを述べています。
　また精神分析家には、反精神医学の立場の人々がいて、「心理学化する社会」への警鐘を鳴らしてきています。そして最近では、反精神医学の流れではなかった斎藤環までが、『心理学化する社会』（PHP）で、心理学やカウンセリングの流行について批判しています。
　自称ラカン派の斎藤環はこの本で、現代を「システム論的に病み、癒される時代」と捉え、そこに「狂気の広く薄い拡散」を見出しています。例えば「欲望は他者の欲望である」といった従来社会批判の文脈で述べられていた精神分析のテーゼも逆手に取られて、他者の欲望を真似ることが欲望だ、といった、欲望の再生産の手段とされている、というように。
　そこで斎藤は、「幻想に騙されて欲望が満たされたと錯覚してはいけない」という観点をもとに心理学化する社会の病理を解明しようとしています。「心理学化という大きな風潮に対して、根本的な懐疑を投げかけうるのは、ラカンの手法しかないのである」（211頁）というのです。

3）物象化論の立場

　社会が個々人から成り立っている以上、社会病理は個々人の病理として発症します。だから、つい、個人の責任の問題に帰され勝ちです。しかし、物象化論の立場からすれば、個々人が自己責任で処理できる領域は、現実には本人が考えているよりもずっと狭いのです。ところが意識の上では全領域のように思い込まれていて、そしてこの思い込まされる仕組みが、物象化なんですね。だから私は、現在の社会病理の大元には、人間の意識の倒錯をもたらす物象化があると考えているのです。
　物象化論にも色々ありますが、「人間が物化され、物が人格化されることで人間が物の関係に支配される」といった内容が共通理解としてあります。単なる自然物が人間を支配する社会的な力を持つ、そのような物を「物象」と呼んでいるのです。私の場合は、商品から貨幣が生成される過程に注目しています。
　簡単に言えば、商品から貨幣が生成される過程は、商品所有者達が自分の商品の価値を単一の商品金の生身で表示する、という無意識のうちでの本能的共同行為に基づいています。この過程では商品所有者達は、商品に自分の意志を宿していて、商品という物象に自分の意志を支配されているのです。
　ここの理解が決定的なので、この過程を別の視点から見てみましょう。商品所有者は自分の商品を市場で売りに出す場合、自分の商品で他人の商品が買えればそれに超したことはありません。しかし、全ての商品所有者が、自分の商品で他の商品を買おうとすれば、誰もがそれを必要だとは限りませんし、又必要としている人も、自分の商品で買おうとする訳ですから、例外を除いて一切の取り引きが成立しなくなってしまいます。
　現実の市場では、商品所有者は、自分の商品で他人の商品を買おうとはせずに、自分の商品に価格を付けて売り出しますね。その時商品所有者は意識してはいませんが、貨幣生成の共同行為に参加したのです。自分の商品に価格を付ける、ということは、貨幣となら自分の商品を売ってもいい、という意思表示をすることですが、市場では全ての商品所有者が同じ行為をしているのですね。そしてこの共同行為が成されるので、金属の金が、購買力を持つという、社会的な力を持った貨幣になれるのです。
　単純化すれば、人々は市場で商品を売りに出す時に、意識はしないのですが、貨幣生成の共同行為に参加し、貨幣を生成させています。だから、もし、誰もが物を商品として売りに出さず、市場が成立しなければ、商品も貨幣もなくなってしまいます。もちろん、別の生活のシステムが生成されていなければ、今更市場なしではやっていけません。でも、貨幣で物を売買する市場というものも歴史的な産物で、人間生活にとっての永遠の自然ではないのですね。

4）社会病理の大元とは

　この商品による意志支配に基づいて貨幣が生成され、貨幣に意志支配されることで資本が生み出されてきました。ところが、物象化が社会病理の大元となるのは、人間がこれらの物象に意志支配されても、支配されているとは考えず、逆に自己の自由の実現だと考えてしまうことになるからですね。
　その理由は支配－被支配という観念が政治的なもので、人と人との関係が念頭に置かれているからではないでしょうか。人間もふくめ、生物は自然環境に順応することではじめて生きていけるのですが、この順応はもともとは自然法則に支配されたものですね。ここでは法則に順応することで、それに支配されながらもそのことで生物は自由を獲得しています。
　現在の社会で商品の法則に人間が順応している場合も同じ事が起こります。商品は単なる物として現れますから、自然法則にアナロジーされてしまうのですね。
　しかしながら商品は一方では自然物としてありますが、単なる自然物ではなく、交換可能性という社会的な力を持っています。簡単に言えば、自然物に価格を付けることで、それが商品にされるのでした。そして、価格を付ける、ということは、目には見えない市場という経済的な社会システムの中に、物を参入させることで、貨幣を生成し、自然物を相互に物象にし、その物象に人間の社会的な力を与えるのでした。
　そして、重力の法則に順応するのと同じように、この200年間に商品や貨幣や資本といった諸物象の法則に順応し、意志支配され続け、そこに自由の実現を夢見続けながら、実は社会の存続の危機を招来してしまったのではないでしょうか。そしてこの危機が、さまざまな症状をとった社会病理を発症させています。この意味で私は、今日の社会病理の大元には、商品や貨幣や資本といった諸物象による人間の意志支配があると主張しているのです。
　ところが、この考え方はなかなか理解されませんでした。経済学者や哲学者には、物象化論の立場に立つ人々が増えては来ているのですが、物象化的錯視について啓蒙によって理解させよう、という認識批判のレベルで問題を提起している人々が多く、社会関係の組み替えまで構想している人は少数です。
　この考えが理解しにくく、広がりにくい理由は、意志支配の仕組みが理解されたとしても、現実の物象化的錯視はそのまま続く、という問題があります。普通認識を変えれば、対象は必ず違ったように見えるのですが、物象化の場合、物象化論を理解することで自分の認識を変えてみたところで、対象そのものの見え方は全然変わらない。
　これまでの社会変革の運動は、ものの見方を変えることで、ものの新しい見え方をつくりだす、という意識変革を手段としていました。ところが、今日この種の運動がゆきづまっていますが、その原因も、物象化にあっては意識を変えても、ものの見え方が変わらない、というところにあるのかもしれません。

5）脱物象化の運動

　意識を変えてもものの見え方が変わらない、とすれば、意識を変えることが運動のキメ手にはならない、ということです。だから、物象化論を理解して、この理論で人を獲得する運動を目指しても、成果は得られないことになります。ではこの理論は無意味でしょうか。この理論を獲得しても、ものの見え方は変わりませんが、しかし、ものの見え方が何故変らないかは理解できます。そして、この人間の認識内容がある種の幻影であることは確認できます。そしてここまでくれば、人間の意識に幻影を生じさせざるを得ないような社会、経済システムに代わる、もうひとつの社会、経済システムを設計できます。これを脱物象化の運動と名づけましょう。
　このもうひとつの社会、経済システムは、いま、ここでつくりだすことができます。ただ、今日の人間の社会や経済についての認識内容を、幻影的だと見る感覚や理解なしには、この第一歩を踏み出すことは難しいでしょう。
　とはいえ、今日では、この第一歩を踏み出せるような追い風が強くなっているようです。お金の法則に順応しているだけでは持続可能な社会は実現できないし、人間も生き難い、という考えは結構広まっています。問題は、これらの人々がまだお金に代わるメディアをもてていない、というところにあります。
　お金のメディア力は、意志支配に順応することで自由の実現を夢見てしまうという人間の順応力と、それなしには生活ができないという飢えの規律にあります。お金に順応しないという生き方を求めるならば、この二つの問題を解決しなければなりません。とすれば、その解決は、お金をコントロールできるような事業のシステムを創り出す、というところに求めることができるのではないでしょうか。
　ワーカーズ・コレクティブは、資本家と雇われの賃労働者という関係を廃した、労働と出資と経営のシステムです。ここにはお金をコントロールしながら、参加者の生活を保証して行ける可能性があります。そして、それが実現すれば、ここに一つの新しい文化が生まれたことになり、文化はそれ自体が伝染していくものだから、ここにワーカーズ・コレクティブの参加者がメディア力を持ち、メディアとし登場することになります。
　文化にも色々な捉え方がありますが、ここでは実践的な見地から、人間の生きざまが発信する社会形成力だと規定しておきましょう。お金に順応せず、逆にそれをコントロールできるような生き方が実現すれば、その生きざまが今の世間並みの文化とは異なる社会形成力を発揮し、それがメディア力として働くことが期待できるのではないでしょうか。

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Author: admin Published: 2006/11/28 Read 14724 times