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前田英樹のソシュール論


前田英樹のソシュール論


まえがき


 文化知の提起(前号巻頭論文)をふまえ、言語について文化知の見地から考察してみました。「前田英樹のソシュール論」は前号で、丸山圭三郎を手がかりにソシュール原資料の邦訳文を整理したことを受けて、丸山のソシュール理解はすこしズレていると感じ、丸山批判をしようと作業を始めたのですが、すでに私と同じ観点から前田英樹が本を出していることが判明し、途中から前田英樹論となりました。この作業を進めることで、文化知の見地からの言語論のイメージも浮かんできて、次の論文「文化知から見た言語」を仕上げることができました。


 というわけで、「文化知から見た言語」から読んでいただいた方がわかりやすいと思われます。さて、文化知から見た言語論を言語文化論と呼ぶとして、この文化言語論の目的を言語のフェティシズムの解明におき、具体的には「言語名称目録観」がどのようにして人間の意識のうちに形成されてくるかを明らかにしてみました。価値形態論の成果をふまえれば、この作業は意外に簡単にすますことができました。けれどもいま考えていることは、この作業がどんな意味をもつのだろうか、ということです。


 この意味については、言語を問題にしている限りでは判然とせず、社会形成論の問題とのからみで考えていった方がよいのかも知れません。ということで、次の機会に考察してみることにします。


第1章 ソシュールの同一性論をめぐって


1)問題の所在


 ソシュールの第2回講義序説を見れば、その前半で、彼が同一性についての考察を進めていることがわかる。言語事象の二重性、価値、単位、これら全ては言語における同一性とは何か、ということについての探求と関連している。


 しかしソシュールは、言語における同一性とは何か、ということについて明らかにしえなかった。その結果、単位の確定に失敗し、価値の概念もあいまいなものとせざるをえなかった。だからソシュールの思想を今日とりあげるとすれば、まずもって言語における同一性とは何か、ということについて明らかにすることが問われている。


 ところが関係の概念は実体概念と相容れないとする俗説が廣松 渉らによって流布されているなかで、言語はもっぱら差異の体系であることが強調され、言語価値が一つの社会的実体であり、それこそが関係のなかで成立している同一性であり、言語価値の単位をなす、というソシュールの提起は完全に無視されてきた。


2)ソシュールの同一性論


 ソシュール原資料には次のような記述がある。


 「簡単に言えば、つぎの五つの事がら、価値、同一性、単位、実在(言語的な意味での、つまり言語的実在)、具体的な言語要素のあいだには根本的なちがいはない。」(前田訳『ソシュール講義録注解』、77頁)

 「体系の領域では、実在か価値かは同じことであり、同一性か価値かも同じことであり、その逆もしかりである。この領域全体がそういう場所で作られている。必要なのは、これらの実体にべつの基盤を与えてしまわないこと、たとえば、音節を実在だなどとは考えないようにすることだ。」(78頁)

 「こうしたことは、結局のところ価値とは、同一性とは、具体的要素とは何かという問に帰着するほかない。言語学の内的区分を行えば、こうした価値そのほかの実体にいやおうなく基づくことになるのだ。同一性は価値の同一性であり、それ以外のありようを私たちは知らない。実在、具体的要素、単位はたがいに溶けあっている。」(79頁)

3)丸山圭三郎の捉え方


 ここで示されている同一性は、従来どのように解釈されてきただろうか。


 バイイとセシュエは『講義』で「ところがじつをいえば、価値はまったく相対的なものであって、さればこそ観念と音との連結は徹底的に恣意的なのである」(第2部第4章)と書いている。ここでは「価値はまったく相対的なもの」とされ、同一性は否定されている。


 丸山圭三郎はこの思想と原資料とをつき合わせ、原資料では「しかし諸価値は、その絆が完全に恣意的なるが故に、全く相対的である」となっていることを示し、価値の相対性は観念と音との連結の恣意性にもとづくもの、という『講義』とは逆の思想がソシュールの思想であったことを明らかにしている。


 ところがその丸山にあっても、ソシュールの同一性についての思想を捉え切ってはいない。丸山が何よりも強調するのは「単位の非実在性」ということである。


 「ソシュールの体系は、何よりもまず価値の体系である。そこでは自然的、絶対的特性によって定義される個々の要素が寄り集まって全体を作るのではなく、全体との関連と、他の要素との相互関係の中ではじめてこの価値が生じる。……ラングはそれが体系である限り、不連続な単位の存在を想定させる。しかしその単位はア・プリオリに自然の中に見出される実体ではない。ソシュールをまず驚かせ、ついで彼を終始苦しめた問題は、この単位の非実在性であったかも知れない。」(丸山『ソシュールの思想』、93頁)

 ソシュールが到達できなかったものは、非実在的なものが社会的関係のなかでは単位となり、同一性を表現する実体となっていることを論理的に展開することだった。


ソシュールの直感では自明だったこの事柄を述べる論理を構成できずに彼は自分の試みを「雑談」と述べたのだった。


 ところが丸山はソシュールを苦しめた問題について正しく想定しておきながら、全く安易な解決を与えてしまう。丸山は述べている。


 「実質としての単位はどこにも与えられていない。……在るものは関係を樹立する人間の視点だけである。」(『ソシュールの思想』、94頁)

 「すべては、これらの差異を対立化する語る主体の活動と意識から生まれる。この対立化現象こそが真の単位であって、ソシュールは現象と単位をほとんど同義に解しているのである。」(97頁)

 「ところが実体としての単位はどこにも与えられていません。在るものは、単位を存在せしめる関係だけであり、関係を樹立する人間の視点だけなのです。」(『ソシュールを読む』、38頁)

 丸山によれば、「関係を樹立する人間の視点」が重要だということになるが、このような考えは人間の視点そのものが関係に捉えられている、ということを忘れている。もちろん関係を樹立するのは人間の視点だが、この人間の視点自体が関係にとらわれているとすれば、この視点を強調しても何も解決したことにはならない。


4)前田英樹の丸山批判


 そこで今度は丸山による同一性についての解釈を検討しよう。丸山はまず、ソシュールの同一性についての説明を引用している。


 「ここで問題となる同一性というのは、私が十二時五十分発と五時発のナポリ行急行列車の同一性を語る場合と同じ同一性である。またそれは、二回発音された『諸君!』という語の同一性でもある。一見、矛盾しているように思われるであろう、何故なら音的素材は異なっているのだから!(私はその度毎に素材を新しくしたに違いないのである。)したがって、今問題にしている同一性は、普通一般に考えられている同一性ではない。

 別の例をもう一つ。ある街路を復旧しても、これは同じ街路である!この同一性は言語の同一性と同じ種類のものなのだ。街路の例では、この街路という単位は何かと問うことができよう。のちに見るように、街路という単位は純粋に否定的もしくは対立的なものである。(……)そしてこの同一性の問題は、結局のところ、言語の実在の問題であることがわかる。」(139~140頁)

 このソシュール原資料にもとづいて、丸山は同一性には二種あると言う。一つは個的・実体的同一性、もう一つは構造的・関係的同一性で、前者は自然の世界の中に見出される実定的な関係から生まれ、後者は人間のつくり出した文化の中にだけ見出されるもので、この同一性は「ネガティブな関係が生み出した、一切実体的裏付けのない同一性」(140頁)であると主張している。


 例えば丸山は急行列車の例について、時刻表が設定する関係にもとづく同一性で、運行している車両や乗客の同一性ではない、と主張している。この丸山の解釈を言語は実質ではなく形相だとする関係論的テーゼにもとづく同一性概念の捉えそこないとみなしている前田英樹は、時刻表が設定する関係にもとづく同一性はその時刻表がずっと使われればこそのもので、その際の同一性とは時刻表の反復の結果でしかない、と看破している。


 「ソシュールにとって言語的実在そのものにほかならない同一性が、どうしてそんなものでありうるか。

 はなしは逆なのだ。言語においては同一性は差異の原因であり、差異の質を決定する唯一の根拠である。毎日書き替えられる時刻表はほとんど時刻表ではない。一つの急行は他の列車との発車時刻の差異で生まれるのではなく、むしろそうした差異が発車時刻の反復によって〈この急行〉という単位に結びつくのだ。単位とは、この反復であり、反復が創りだす差異の質である。」(『ソシュール講義録注解』、67頁)

 だから急行列車の例は、言語的実在の比喩としては適切ではないが、他に適当な比喩はなく、比喩において破綻することで比喩の方向をかえてしまうことだと前田は主張している。ところが丸山は、比喩をまともに受けてしまっているのである。


 丸山がソシュールの同一性を捉えそこねていることを前田は明らかにしているが、さらに前田はコトバを差異の体系だとみなす見解の欠陥をも指摘している。


 「言語的な価値、単位、実在は同一性であって差異ではない。したがって、実在とはすなわち差異だというような言いかたは換えられなくてはならないだろう。実在を差異とするだけでいいのなら、それを単位として論じるべき理由はどこにもない。」(83~4頁)

 全くの正論である。前田は唯一人、ソシュールの同一性概念を理解したうえでソシュールの苦闘と沈黙の意味を明らかにしようとしている。次に『沈黙するソシュール』(書肆山田)から前田のソシュール論を紹介していこう。


第2章 『沈黙するソシュール』


1)ソシュールの読み方


 前田によれば、ソシュールが一貫して解明しようと試みてきたものは「言語単位の質」(『沈黙するソシュール』、29頁)だった。ところがこの質は言語表現によっては捉えられないということが判明していく。


 例えばソシュールは何らかの思考が、たとえばその対象のひとつとして言語を取りあげるというようなことを信じることができな」(27頁)かったし、また「彼は自分が捉え、捉えられているあの言語的な質、それを解明するのにどんな表現手段もまともには信用していな」(35頁)かったと前田は述べている。


 「言語単位の質」とは前田によれば「語」が〈ある〉ことへの問だった。そしてある「語」について何かを書きとめることは、その「語」が〈ある〉ことへの問とともにでなければ可能ではない。ところがこの問が「語」の輪郭を抹消してしまう。同一性は質への還元がなければ認識されないが、しかし、「語」の場合は言語事象が〈ある〉ことへの問を満たしてしまい、〈ある〉について具体的に書きとめられることは何ひとつない。


 従って前田にとってはソシュールの草稿は「書かれるべき本文として本文なき注釈」(10頁)があることになり、そこでは「何もかもが、そこで語られると同時に抹消されている」(11頁)ものだった。こうして「ソシュールの〈沈黙〉とは、言語学草稿とともに始まり、その書きかたのなかにしか存在していない」(11頁)ことになる。


 そこで前田が提案するソシュールの読み方は、ソシュールに従って〈ある〉ことの闇に下降し、ソシュールとともに下降を完遂し、しかるのちに帰路をさがすことだ、ということになる。そこで当面の問題は下降の完遂であり、このことが世間一般では忘れられているが故に一層声高に主張されねばならない、というわけである。


 ところで本論からははずれるが、前田自身は『言語の闇をぬけて』(書肆山田)でベルグソンの哲学に依拠して帰路をたどり始めている。われわれは別の帰路を見出さねばならないだろう。


2)言語単位という〈質〉


 とまれ前田に従って〈ある〉ことへと下降していこう。前田はソシュールの草稿「形態論」へのコメントとして自らの思想を展開しているので、まずソシュールのテクストを示しておこう。


 「いまでは、どんな形態論もまずあれこれ原理を述べるが、どれもだいたいつぎのような点につきる。語根、語基、接尾辞などみな純然たる抽象だ。私たちの都合で創作したものが、実在するなどと思ってはいけない。もっとも、便宜上それを利用することはあるだろう。それなしでは、ことは運ばないのだ。その場合でも、こういう表現には、分相応のごく相対的な価値だけを与えておけばいい。

 結果。読者は依然途方にくれている。こういうカテゴリーに正当性がないとしたら、いったいどんな理由でそれを設定するのか、……(略)……

 いささか妄説の汚名を浴びた命題を、私はあえて口にしよう。語根、語基、接尾辞のような区分を純然たる抽象とすることは、まちがいなのだ。そもそも、抽象をとやかく言うまえに、形態論では何を実在的と呼べるのか、その基準を確定する必要がある。

 基準。実在的なものとは、語る主体が何らかの度合で意識しているもののことだ。彼らが意識するものがすべてであり、意識できるもののほかは何でもない。ところで、どんな言語状態のなかでも、語る主体は語の単位より下の形態論的―つまり表意的―単位を意識している。

 ……(略)……

 重要な観察。つぎのことは本質的である。言語側の分析は形態間の現にある関係にもとづいていればいい。その関係を、語源、つまり形態間の源初的関係が保証することはない。

 ……(略)……

 語る主体の感情にあるものは、みな実在の現象だということを思い出そう。……(略)……」(125~128頁)

 前田はソシュールがここで言及している語の単位より下の形態論的単位に注目している。


 下位単位はなぜ実在なのか、とソシュールは問う。それは語る主体が何らかの度合で意識しているからであり、意識されているものが実在であって、そうでないものは何でもない、と自答する。


 この自問自答に前田は注釈をつける。まずここでソシュールが述べている「意識」は、意識一般について現象学が規定するような、あの「何ものかについての意識」ではない。下位単位が実在なのは、それについて意識が働くからではなく、下位単位という意識がそこにあるからなのだ。こうして前田は、下降の極にある言語単位について次のように捉える。


 「下位単位があるのは、下位単位というひとつの“意識”、純粋に言語的な“意識”がいつも発生し続けるからである。これが発生することと、発生したものを〈使用〉のなかに置くこと、つまり〈結合〉させることは、まるで方向のちがった出来事ではないか。下位単位はたえず発生するのであって、結合させられているのではない。……実在性の根拠は、結合そのものにはない。結合の活動があろうとなかろうと、下位単位を『何らかの度合で意識している』、もっと正確に言えば、下位単位という“意識”が何らかの度合で発生しているということがある。この発生を単位の確定と呼んでもいい。聴取における下位単位の画定ということがあるのだ。」(142~3頁)

 ソシュールは従来の形態論があつかってきた語根、語基、接尾辞などのカテゴリーを思惟抽象の産物であり、それ自体は実在していないということを発見した。ではこの思惟抽象は何の役にもたたないのか。そうではなく、このような思惟抽象をとりあげる前にまず、形態論で実在的だと思われるもの、その基準を確定する必要がある。それは語る主体が意識として盛っている語の単位よりも下の形態論的単位のことだ。この言語側の下位単位とかかわりがある限りで、思惟抽象は実在性をもつ。この実在と思惟抽象との間の関係に前田は注意していない。それよりもソシュールが述べている下位単位の質を明らかにしようと努めている。


 「実在とは『何らかの度合』を持つ『意識』なのだ。しかしながら、こう考えてくると『意識』ということばが、この際どんなに不適切かということがわかるのだが、さてほかにどんなことばがあるか。『意識』と同じくらいに、彼は『感情』ということばも使っている。見かたによっては、これはまだずいぶんとましな言いかたであって、これが示しているのは、言語事象とは直接に感じられるひとつの〈質〉だということだろう。〈質〉は感じられる質なので、他の何ものでもない。言語事象はそういう〈質〉であり〈質〉はそれを感じる『感情』と同じものだ。ここにあるのは主客が徹底して不分離ないわば一種の原初世界、しかも不断に私たちを捉え込んでいる原初世界なのだ。」(144頁)

 前田も断っているようにソシュールは〈質〉という用語でこの下位単位を説明しているわけではない。しかし、意識といい、感情といわれているものは〈質〉として捉える他はない。この〈質〉を捉えることが下降の到達点なのだ。


 前田の注釈にはここまでは同意できる。しかし、せっかく「言語単位の質」にまで到達していながら、この質の実体を「主客が徹底して不分離ないわば一種の原初世界」と捉えることで、上向への道を見失うことになりはしないだろうか。


 現象学も含め、いわゆる哲学者が人間の社会的関係をとりあつかう際におかす不手際は、労働や活動や意識といった人間の実践を対象化された形態では捉えないというところにあった。彼らはたえず流動状態にある生きた活動としてしか捉えないので、哲学者の主観的意図はどうあれ結局は倫理論しか展開できていない。


 いま問われているのはことばの分野でも、たえず画定されている下位単位の発見とその質の確定にあたり、対象化された意識という領域にふみ込むことはできないのだろうか。丁度、経済学批判に際して、マルクスが価値の実体を、商品(対象化された労働)で表示される労働の抽象的人間労働という超感性的なものに求めたように。その際マルクスは、思惟抽象による抽象的人間労働の概念と、現実に商品の価値形態において表現されているそれとの相違を明らかにしたうえで、価値の実在を社会的実体としてある抽象的人間労働で示したのだった。


 ソシュールは思惟抽象の方法を自ら使用したし、またその限界もわきまえていた。彼の困難は、この思惟抽象にもとづいて下降し、ゆきついた言語単位の質を、現実の言葉の関係にもとづき綜合する作業のうちで示すことのむつかしさにあったのではなかろうか。


3)関係主義の批判


 前田の〈質〉の規定に不満はのこるが、しかし彼が〈質〉にまで到達したことの意義は多大である。前田は〈質〉の把握を武器にして、関係論と、構造主義言語学への批判を試みている。


 ソシュールが関係を重視した、というのはその通りである。しかし同時に、同一性、価値、単位、といった用語で言語単位の質の確定を行おうとしていた。ところが関係論にもとづく構造主義言語学は、この質を欠落させてしまっている。前田によれば、この悪しき関係主義を導いたものこそバイイとセシュエの手になる『講義』だった。ソシュールの質の言語学から関係の言語学を捏造したものが『講義』だからだ。


 関係主義は、形態という実体は実体的なものではなく、実はそういう実体性を映しだす関係にほかならないと言う。ところがソシュールにとっての問題は、そうやって関係性に還元される事象が実在としてはどう存在しているかということだった。そこで前田は強調する。形態が関係にほかならない、というのは言語学者の還元だが、そのような関係は、みな主体のがわの認識を解明する原理ではあっても、言語事象が主体とともに存在する原理ではないというのである。「存在するのは『関係』ではなく〈質〉であ」(148頁)る。この〈質〉をふまえることによってラングとパロールの関係も新たな様相をおびてくる。


 「ラングは、決して重なり合わない二重の活動から成っている。画定によって事象を発生させ、その事象を質の差異の度合に送り込む活動と、結合によって自己をたえずパロールへと押し拡げる活動、前者を下降的とするなら後者は上昇的なものだ。」(152頁)

 「(ソシュールにとって)ラングの問題は、単位画定の問題であり、それはすなわち言語事象の質ないしは質の『度合』が発生する、そのしかたの問題だった。」(157頁)

 この見地から前田は構造主義言語学の関係主義批判を展開しているが、その内容の紹介はひかえておこう。


4)反復により自己産出される単位


 ソシュールが言語学を二重の学問だと捉え、ことばと文字が事物の自然的関係にもとづかず、また人為的な規制にも属さない、と述べているところを受けて前田は次のように述べている。


 「言語単位は、差異ではなく、反復によって生じる。ということは、言語的差異は反復をとおして生まれるという意味だ。差異の反復があるのではなく、反復の差異がある。ただそれだけがある。言語のシステム性は、単位発生のこのありかたによっている。もし単位の差異化が反復によらないのだとしたら、言語には無際限な差異化だけがあって、『状態』と『変化』の区別は消失するだろう。それどころか、単位と言いうるものはすでにそこにはなくて、言語はただ世界の変転のなかに溶けていくだけだろう。言語がシステムであるからそれを構成する諸単位があるのではない。言語は反復による単位の自己産出であるがゆえに、一種のシステム性と不分離であるほかないのだ。反復が崩れれば単位は消える、つまり言語というものが消える。」(247頁)

 言語単位は反復によって生じる、という前田の見立ては卓見である。そして、それは反復による自己産出であるが故に、システム形成的なのだ。この点は商品所有者の本能的共同行為による貨幣の生成と似ている。


 貨幣を人間社会の集合的表象によるものと捉える吉沢英成の考えがあるが、前田が一たんは言語単位を「一種の原初世界」に返してしまったのはこれと同じ方法をとったことになる。ところがユング的原型にではなく、反復による自己産出が単位の形成論だとすれば、それはマルクスが明らかにした貨幣生成論と重なっていく。


 問題は反復を通して自己産出されてくる単位の〈質〉をなしている社会的実体とは何であり、そしてその実体がげんに形成されてくる場としての言語事象のうちに、その形態規定を行うことだ。


 構造主義への批判を通じ、前田はこの形態規定の論理の発見へと進んでいく。構造主義は実質を捨象して関係を成立させるがそうではない。前田にとっては関係とは「実質を背景にしりぞけることによって浮かびあがる」(250頁)ものなのだ。そして、このしりぞけられたものの探求がここでは問われている。


 「ソシュールの『解釈行為』は、まさに言語そのものであって、パロールとはかかわりがない。これが、ほとんどの人間にはまず理解しがたい言葉づかいだ。彼がやっていることは、聴くという現実上ただひとつに見える行為に、ふたつの質の層を分離することだと言ってもいい。誰かが話す意味をなるほどと合点するのは、ひとつの『解釈』だ。ソシュールが言いたいのは、これと同時に、しかしこれとはまったくべつに、『単位』の画定というもう一つの行為の質の層があり、ここにこそ言語的なあらゆることがらの存在の問題が隠匿されている、ということなのだ。」(257頁)

 言語学が二重の学問だと言うとき、言語が二重の形態をもつことが予想される。そして前田はついにこの二重の形態にここでたどりついている。意味の理解の他に、単位の画定というもう一つの行為の質の層があると前田が言うとき、それは商品所有者の販売行為が、貨幣を生成するという無意識のうちでの本能的共同行為を含んでいるということと同じ形態規定の論理を行使している。だから「システムのなかにさまざまな事象があるからではなく、その事象の発生のしかたが、システムと言いうるものを含むほかない」(260頁)ということになる。これこそが前田によれば、言語事象の質がその発生のしかたにおいて持つ謎にほかならない、とされる。はたしてこの謎は解明しうるものなのだろうか。


第3章 『言語の闇をぬけて』


1)舞台裏


 私はいま泥縄的に仕事をしていることを告知しておかねばならない。ソシュールの第2回講義序説の本文を前田訳で読み、ソシュールにおける同一性概念の重要性に気付き、ここから丸山圭三郎の関係主義を批判しようとして本論を書きはじめたあとで、前田英樹がすでに作業を終えていたことを知ったのだった。そこで前田訳の注釈から入り、ついで『沈黙するソシュール』を追い、ここまで来たわけである。そして、これだけの見識を確立しているとすれば、その後も何か書いているにちがいないと考えて、第2章を書きはじめた後に図書館で調べてみた。そこで『言語の闇をぬけて』(書肆山田)他数冊の単行本と数篇の論文を入手し、何故ベルグソンなのかと疑いつつ第2章を終え、そのあと『言語の闇をぬけて』を読んでみた。


 ところが驚いたことに、そこにはベルグソン批判が展開されていた。それだけでなく、論理学の限界も指摘されている。それで、ベルグソン批判の部分は除き、主として後半部分から前田の提起を紹介しておこう。


 なお、本論はもともと丸山圭三郎批判として出発したが、第1章(4)からねじれ始め、結果としては前田英樹論となっている。それは文化知の立場から言語論を展開する準備作業としての意義をもつことになろう。


2)前田のソシュール論の核心


 『言語の闇をぬけて』という本を発見して、「一寸早すぎるんじゃない」とか、「ベルグソンが役に立つのかしら」などと思いながらすぐには読めず、いよいよ必要にせまられて手にしてみると、ここで前田はベルグソンに依拠して闇をぬけたのではなく、ベルグソンもまた言語の闇をもっていたことの確認からベルグソン批判をへて上向の出発点へたどりついていることが判明した。それで、ここでの課題は前田が明らかにしている上向の出発点を紹介することであるが、その前に、第2回講義の注釈の部分から、前田のソシュール論の核心とも思われる部分を引用しておこう。


 「語義は〈使用〉の平均から引きだされる抽象物だが、『価値』は実在する。実在するとは、すなわちそれが永遠に未決定なさまざまな質の『度合』表意的であることの無数の収縮弛緩を含むということだ。単位が画定されることは、この『価値』がある『度合』において発生することにほかならないが、それは言いかえれば、単位の画定はつねに『何らかの度合』において成りたつほかないということだろう。彼の〈言語学〉のなかで、この考え以上に重要なものはなく、しかもそれはほとんどあらゆる言語学の進路を切り裂くといっていい。構造言語学が事象Aを引きだす原理は、A対非Aの対立である。この二項対立にAがAであることの『度合』は生じようがない。生じれば、それはまたべつの、さらに下位の二項対立に還元されるほかないものだ。ところが、ソシュール的な単位はその本性上無数の『度合』をとおして発生する。単位そのものはもちろん無数ではありえない。それは、その単位がある種の反復(同一性)を唯一の手段として発生する何ものかであるからだが、重要なことは、そうして発生したものが〈質〉であり、〈質〉である以上は実在する無数の『度合』を持つということだ。したがって、単位は無数でもないかわりに有限個の辞項として現れることもない。単位はその反復的な存在のしかたにおいて有限だが、それが〈ある〉ことの質的度合において無限なのだ。」(『ソシュール講義録注解』、73~4頁)

 「従来の下位区分は、〈使用〉された言葉の、まさにその〈使用〉を目標とする論理的分類や規則化から起こっている。『接頭辞』(形態論)やら『語義』(語彙論)やらが〈使用〉される材料の分類とすれば、『統辞法』はその規則というわけだろう。こうした区分、こうした論理が〈使用〉を説明づける虚構として役だつことはとうぜんだが、〈使用〉そのものは言語が〈ある〉ことについての何の説明でもありえない。ソシュールの『一般言語学』が終始する問いは『単位』の画定だった。けれども、この用語は始めから『単位』と言いうることのはざまにしか、その不可避的な変調の一点にしか置かれてはいない。『単位』とは、『語られるかたまり』のなかに発生する反復的な質の『度合』である。この『度合』のなかに従来のあらゆる区分は消滅する。むろん、『単位』の質的『度合』という発想は〈使用〉に関する何の説明でもない。というよりも、そうした説明に赴くことを拒否することが彼の『一般言語学』なのだ。これは、ただ言語(ラング)が〈ある〉ことへの問いをさまざまな語『単位』『同一性』『実在』『現象』等々)の錯綜する注釈として研ぎ抜き、問いは問い自身の破綻まで突きつめられる。

 『単位』が『語られるかたまり』のなかに発生するという言いかたは、なるほど一つの虚構でしかない。けれども、この虚構の奇妙さ、理解しがたさは、そのまま『連辞』『連合』論の不思議な厳密さに行き着き、そこで私たちは『言語的実在』のすべての『度合』における質の伸縮に直面してしまうのだ。『共時的なものの理にかなった区分は連辞と連合でしかない。』この場合『理にかなった』という言葉は、ただひとつのことを意味するだけだ。それはすなわち、『言語的実在』が〈ある〉ことへの問いに答えうる、という意味だろう。むろん、答えはどこにもだされてはいない。けれども、この問いはついにこの区分に到達する、到達することによって問いの有効性は使いはたされるのだ。ソシュールの『一般言語学』はまさにこの地点において姿を消す。『一般言語学講義』の終結は、この時も一九一一年のときも、ひとりの人間の死に酷似している。」(171~3頁)

3)「言語の闇」とは何だったのか


 「言語単位の質」という言葉では表現不能な存在、それの承認が下降の完遂であり、言語の闇への到達だった。


 しかしこの闇なるものは言語表現や論理にとってのものであるにすぎない。とすれば言語単位の質が何故言語表現や論理にとっては闇となるか、この問いを前田が引き受けているように見える。


 「言語単位という完全な同一性は、差異を内包するのではなく、むしろそれを自己の外側に二次的に産出する。その意味で、言語は否定的な諸差異の体系ではなく、さまざまな同一性が産出し合う肯定的な諸差異の体系である。概念によって区分され、認識される否定的な差異は、その裏面としての否定的な同一性を派生させ、定立させる。たとえば、言語学が設定する音素間の否定的な差異は、そのまま各音素の否定的な同一性を派生させる。けれども、ソシュールが言う言語単位としての『同一性』とは、まぎれもない『言語的実在』なのであり、それは原理上諸差異の手前で発生し、それらを二次的に産出するものである。このような同一性は、二項対立による区分、概念をとおして否定的に認識されるような区分を持たない。」(『言語の闇をぬけて』、166頁)

 ここで前田は、思考により概念として立てられた同一性と言語単位の同一性とはちがうものであることに気付いている。つまり同じ同一性といっても、その同一性の確認の仕方が実在としてある同一性と概念における同一性とでは異なっているのである。


 「言語的な転換は、質的な存在のふたつの領域のあいだで起こり、それらを対応させ、結びつけ、たがいに変質させる。こうしたことがらの生起によって、一方の反復は他方の同一性に結びつき、他方の同一性は変化する進展性の反復のなかに入り込む。生きられ、演じられる反復が、概念による同一性となって現働化していくには、この転換は不可欠なものである。また、変化のない完全な同一性としての言語単位の存在が、無限に変化し、更新されつづける言表行為の諸部分となって現働化していくのも、この同じ転換を経てくることによってでなければならないだろう。けれども、転換という出来事それじたいは、存在のふたつの領域のいずれの本質にも内属しておらず、それらの各々をどこまで探究しようと転換が起こることそれじたいの究明に行き着くことはない。」(167頁)

 思考による同一性の確認は区分(分析)し、否定(抽象)した上で、それらの諸要素の綜合の上で判断される。しかし、言語の場合、結びつきのうちに同一性が確認される。


 「ひとつの概念の自己同一性は、他の概念の自己同一性とは浸透し合うことがない。浸透を阻止し、意味を現働化された個体の区分のうちに打ち立てているものこそ概念である。言語単位の同一性の運動は、決してそのようなものではない。


 論理学は、諸概念のあいだの一方依存、相互依存、あるいは相互無依存といった関係の規定について誤ることがないだろう。だが、言語中の諸単位の関係を、論理学の手続きで説明できると思うことはまちがっている。なぜなら、言語単位の同一性は、概念の同一性ではなく、相互に浸透する質的存在の運動の同一性にほかならないからだ。言語単位を語ることの真の困難は、それが一方で質的存在の相互浸透を示すと同時に、もう一方では変化、進展のない同一性の運動を示すというところにある。」(220~1頁)

 ここで前田は論理学の限界に言及している。では論理学では捉えられず、また言語表現によっても表しえない言語単位の質とはどのようなものだろうか。前田はそれを実在する同一性の運動と捉えている。


 「潜在的な言語それじたいには、どのような否定性もない。そこには、諸言語を設定し、比較し合うための区分はないが、言語とはまさにさまざまな単位の分離の度合なのである。ベルクソンにとって、持続が無限の分岐であると同時に全宇宙を満たす唯一の流れであったように、潜在的な言語もまた唯一のものだろう。ただし、言語は進展する流れであると言うよりは、繰り返される同一性の運動であり、この運動=存在のありかたには、決して進展や変化、もしくは新しさの創出が含まれることはない。このことは、むろん極めて理解しがたい。言語は、その史的な進展や変化が最も容易に観察できる対象のひとつだということは誰にもわかっている。だが、その場合、変化の観察は、複数のどのような状態、どのような対象の透視から成り立っているのか。それらは、たとえば現働化された言葉から抽出される音声であり、または指向されている事物であり、そこに表出されている記憶内容ではないのか。あるいは、統語的関係の変化を状態の比較によって引き出してみせるとする。だが、そうした関係の抽出は、言葉のなかで指向された事物や表出された記憶内容を(つまり、ふつうは「意味」として受け取られているものを)定点とすることなしには行うことができない。言い換えれば、変化は、つねに持続=世界の側にあって言語の側にはない。言語の側にそれがあるかのように感じるのは、言語がそうした世界との相互の転換をとおしてこそ現働化しうるものだからであり、私たちの想像力が、言語をこの転換による現働化をとおしてしか視ることのできないものだからである。あるいは、言語変化は、この転換のありかたそのもののうちに、たがいに転換するふたつの領域の位相のうちに、起こりつづけると言ってみてもよい。しかし、その場合でも、存在のなかに変化や進展が起こることの本性は、持続としての世界の側にあって、純粋な同一性の運動である言語の側にはない。」(248~9頁)

 この運動としての単位が質として捉えられた言語の単位であり、ここから前田はラング、パロールの関係や、意味論についての言語論の通説を批判してきたのであった。その限りで、ソシュールがつきあたった言語の闇はもはや前田にとっては暗闇ではない。しかしロゴスの光がこの闇には通用しないことが確認されたいま、どんな光が求められているのだろうか。


 「だが、言うまでもなく、言葉にとって重要なことは、そこに潜在的な言語単位の無数の『分化』があることだけではない。言語単位は、潜在的な記憶の円錐とのあいだに、相互の転換を引き起こすことなしには、現働化しない。この転換は、同一性の運動である連辞の進行と持続する記憶の円錐とのあいだにある決して浸透し合わない差異それ自体の本性によって起こる。この転換のうちにこそ、『意味』を含んで〈現在〉のうちに顕れるもののすべての根拠、あるいは『存在論的基礎』が見出されるだろう。そのような基礎は、いかにして、どのような言葉によって、それじたいの限界まで探求しうるのか。いま、私たちが到達したところは、およそこのような問いである。」(254頁)

 前田はどんな光が求められているか、という問をたてたところで考察をひとまず終えている。次にわれわれは、稿をあらためこの闇に文化知の光を当ててみることにしよう。


 なお、前田は言語論の諸説についての詳細な批判をかの〈質〉の見地から行っているが、それらは現時点では手に負えるものではないので一切紹介していない。ここでは文化知の方法と関連すると思われる部分のみをとり出している。言語論に関心のある読者はぜひ、前田の著作に直接当たることを推めておく。







Date:  2006/11/27
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