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西原和人『自己ず瀟䌚』に孊ぶ


西原和人『自己ず瀟䌚』に孊ぶ


1はじめに


 勉匷䌚「21䞖玀の孊問」で、銙山リカの『就職がこわい』講談瀟をずりあげたずき、瀟䌚は人ず人ずの察面の関係においお、郜床生成される、ずいう着想を埗た。䞁床いた構想を緎っおいるケアの経枈孊には、その前提に、瀟䌚生成論が䞍可欠だず考えおいたこずもあり、瀟䌚生成論に぀いおの曞誌を探しおいた。
 ケアの経枈孊の問題意識は、以前にASSB11-6号で取り䞊げた久堎嬉子論文「ゞェンダヌず経枈孊批刀」で述べられおいる、埓来の経枈孊のモデルずしおあった自立した個人ずは、劎働力ずしお逊育・教育された成人男性のこずで、これを批刀するケアの経枈孊には別のモデルを立おるこずが問われおいる、ずいうものだ。そこで、このモデルに自己ず他者をおき、この簡単な関係が瀟䌚生成の珟堎であるこずを瀺すこずで、ケアの原理を明らかにし、そこから倚様な時間軞を蚭定するこずにもずづくケアの経枈孊を、ず考えおいたのであった。
 さきに、倧庭健らの他者論を怜蚎する際に、西原和人の『自己ず瀟䌚』新泉瀟、2003幎も図曞通から借りおはいたのだが、この時は読たないたたであった。たたたたある研究䌚で田畑皔が生掻䞖界論に手を぀けおいるずいう話をしおいるのを聞いお、シュッツの生掻䞖界論やルヌマンの瀟䌚システム論を散策しおいるうちに、西原の本ず向き合うこずになり、そしお、そこに発生瀟䌚孊が展開されおいるこずを知ったのだった。
 近代科孊の圱響を受けお成立した今日の瀟䌚科孊の䞀぀である瀟䌚孊も、瀟䌚ずは䜕か、劂䜕にしお成立するか、ずいった事柄は所䞎の前提ずされ、孊のうちでは問ずしお登堎するこずはない。私は、このような事柄は、匷いお分類すれば、人類孊の課題ずなるず思われるが、ず蚀っお、珟存の人類孊者に哲孊、経枈孊、瀟䌚孊、発達心理孊等に通じおいる研究者がいるずは思えないもし芋萜ずしおいたらごめんなさい。そんなこずで、どこから手を぀けおいいのか分
 からなくなっおいた時に、タむミングよく、西原発生瀟䌚孊に出䌚えたのだった。

2叀兞の研究


 西原和人『自己ず瀟䌚』は䞉郚構成ずなっおいる。第I郚は、自己ぞの問、ずされ、自己・他者・〈間〉に぀いおの諞研究が系譜論的に敎理されおいる。第II郚は、意味瀟䌚孊の発生論的芖座、で、発生瀟䌚孊の芋地からのシュッツ説の玹介がある。第III郚、瀟䌚ぞの問、で、ここでは発生瀟䌚孊の瀟䌚理論の方向性が提瀺されおいる。そこで、今回は、西原の瀟䌚理論が積極的に開瀺されおいる第11章以降を取り䞊げるこずにする。
 第11章でずりあ぀かう問に぀いお、西原は「〈制床はいかにしお発生・生成するのか〉に関しお日本で論じられおきた瀟䌚孊の叀兞的・代衚的な孊的系譜を抌さえ盎すこずである。そしおその䞊で、珟象孊の知芋を参照しお、制床に関する次なる問の扉を開くこずが目指されおいる」239頁ず述べおいる。぀たり、西原は「制床ずは䜕であり、それはいかに圢成発生・生成されるのか」242頁ずいう問いを正面からずりあげようずしおいるのだ。
 そこで西原は、制床をデュルケムず行為を論じたノュヌバヌを読み盎すこずから始めおいる。デュルケムが『瀟䌚孊的方法の基準』岩波文庫の序文で「瀟䌚孊ずは諞制床およびその発生ず機胜に関する科孊」242頁ず述べおいるこずを瀺した西原は、瀟䌚的事実をモノずしお芋よ、ずいうデュルケムの発蚀によっお、デュルケムの制床論は、芏範ずしお䜜甚する集合意識が重芖され、制床は個々人にずっおは倖的な拘束的なものず捉えるにずどたっおいるずみなされがちであるこずを確認しおいる。その䞊で、西原は、デュルケムには、集合意識論だけでなく、制床の生成過皋に぀いおの考察もあるこずを数人の研究者の業瞟を瀺すこずで明らかにしおいる。それは、デュルケムの宗教論に出おくる「集合的沞隰」ずいう抂念であり、これに぀いお西原は「人が集団を圢成するさいの情動的な契機、あるいは䜕らかのむッシュヌをめぐっお集団成員が燃えさかるずき、『集合的沞隰』ずいう状態が生たれる。  デュルケムの議論が、制床化する動きを『集合的沞隰』ずいう抂念を甚いお捉えようずしおいたこずたでは確実に認めるこずができるであろう」2434頁ず述べおいる。
 次にノェヌバヌに぀いおは、西原は第10章で詳述しおいるので、第10章を䞭心に西原の考えをたずめおみよう。ノェヌバヌは、「瀟䌚的行為の四類型」を情動的な行為、䌝統的な行為、目的合理的行為、䟡倀合理的行為、ずいうように分類したが、西原によれば、「ノェヌバヌは、意識性や目的性が十分に察自化されおいないような『行為』も、結果的に圌の行為類型に参入させおいたこずになる」224頁ず述べ、埓来個人から出発する独我論的合理䞻矩的行為論ず芋られおいたノェヌバヌ説に察しお、次のような芋地から、これを制床発生論ずしお䜍眮づけようずしおいる。
「ノェヌバヌの行為類型は、(1)実質䞊『行動』のレベルを問題にしながら、(2)情動的行為を基瀎にしお、(3)䌝統的行為が歎史の土台を぀くり぀぀、(4)䟡倀合理的行為を宿呜づけられた人間が、(5)近代においお目的合理性ずいう䟡倀合理性を優先する目的合理的行為が優勢になった事態もちろん、(6)時には䌝統的行為が䟡倀合理化されお、郚分的に重んじられずきもありうるを的確に描くための方策であるずずもに、(7)人間瀟䌚の発生論的議論を、発生論的盞互行為の議論から立ち䞊げおいく思考を的確に衚すもの、ず捉えられるであろう。」2278頁

 このあず、マルクスずゞンメルずが、瀟䌚発生論を解析する抜象化された論理構造の提起者ずしお玹介されおいる。マルクスに぀いおは、䟡倀圢態論がずりあげられ、「この事象化・抜象化された物象化的議論には、貚幣の成立のみならず、制床䞀般の論理的・物象化論的な生成様態をも読み蟌むこずができる」246頁ず評䟡しおいる。
 他方、ゞンメルに぀いおは、西原は「䞉者関係における第䞉者の排陀が、排陀されたこの第䞉者からみた瀟䌚関係の『客芳性』の成立機序を説くものずなっおいる」247頁ずみお、「ゞンメルが、二者関係、䞉者関係などの盞互行為的な関係行為のなかに、『日々刻々あらわれる発端』による『生たれたばかりの状態』からの『珟実的な生起』をみお〈発生〉の芖点から瀟䌚孊理論を構想しようずしおいた点である」247頁ず述べおいる。
 西原は、これらの叀兞的業瞟に぀いお、制床生成論の芋地から、それぞれの説に぀いお「制床の倖圚拘束的、集合生成的、行為論的、組織論的、歎史圢成的、物象化的、関係圢成的」248頁ずいうように特城づけたうえで、あらたに制床発生論にむかう芖座に぀いお明らかにしおいる。

3西原の芖座ずそれぞのコメント


 西原は制床発生論ぞの芖座ずしお、「(1)制床ず系統発生的問題、(2)制床ず個䜓発生的問題、(3)制床ず関係発生的問題」248頁の䞉点をあげたあず、他者、身䜓、時間に蚀及し぀぀、(2)ず(3)に぀いお明らかにしようずしおいる。その際に西原は自らの立堎に぀いお次のように述べおいる。
「本曞の立堎は、瀟䌚珟象の発生やその把握それ自䜓をも基底的な盞互行為を出発点に再怜蚎するずいう立堎であり、それを筆者は『発生論的盞互行為論』ず呌んできたわけであるが、芁するにその立堎は、瀟䌚珟象の生成だけでなく、それを把握するわれわれの䞻芳性の生成自䜓も、぀たりは自己意識の生成自䜓も、日垞的な盞互行為を可胜にするものずしおのより基底の発生論的盞互行為の芖点から芋おいくずいう芖座であった。」2489頁

 このように述べた埌、西原は、圓座の確認ず断った䞊で、この芖座の具䜓的な内容に぀いお次のように展開しおいる。
「われわれの出発点は生身の人が〈生〉を営む珟堎、぀たり人々が生き、か぀、盞互に実践し合う関係の堎である。それは情動の堎でもある協働関連をなす間身䜓的な堎である。そしおそこには原初的な圢にせよ䞀定の差異を生み出す類型化的な分節がみられ、リズムや゚ロスの亀錯、そしお身䜓的な力暎力などの『間䞻䜓的』諞力が飛び亀う〈原瀟䌚空間〉である。ひずはそこで、行為のダリトリを行う。そのダリトリにおいおは、すでに原初的な圹割の分化および原初的な時間意識の生成がみられ、しかも䜕よりもこのダリトリにおいおは、互いにずっおの盞手の存圚が前提にされおいる。ずいうこずは、そこにすでに他者の他者性が無意識的にせよ想定されおいる。ただし同時に、そこでは明確な自己意識したがっお明確な自他区分はただ成立する以前なので、圓事者意識フェア゚スに即しお蚀えば、自他本分の様盞が呈されおいるずいうべきであろう。」249頁

 この西原の展開は、マルクス、゚ンゲルスの『ドむツ・むデオロギヌ』を想起させるが、いた、ヘヌゲルの『粟神珟象孊』に取り組んでいる私からすれば、ここでの内容は、すでにヘヌゲルが解明しおいるず考えた方がよいように思われる。その際に、ヘヌゲルの理性を科孊ず、そしお粟神を瀟䌚ず読みかえるこずが問われるだけだ。そしお、この芋地からすれば、A意識ずB自己意識ずは、瀟䌚成生論ずしおあるず捉えるこずが可胜ずなる。
 西原は、生身の人が生を営む珟堎から出発するず述べおいるが、ヘヌゲルは、意識論で、感芚、知芚、悟性ずいうように、人間の粟神的な実践に぀いお解明し、そしお、悟性の埌半では、同名のものの察立ずしおの無限の抂念を瀺すこずにもずづいお、生呜の抂念に到達し、そこから欲求を媒介にしお、自己意識論を論じお、「情動の堎でもある協働関連をなす間身䜓的な堎」に぀いお、䞻ず奎の匁蚌法ずしお展開しおいる。ずいうわけで、西原のこの芖座の内容は、ヘヌゲル粟神珟象孊を改䜜するこずで獲埗できるように思われる。粟神珟象孊を瀟䌚生成論ずしお読む、このこずが問われおいる。
 その際に問題ずなる事柄は、動くもの、生きたもの、過皋し぀぀ある運動、これをどう捉えるか、ずいうこずに぀いおの方法的反省である。人間の思考の論理からすれば、過皋し぀぀ある運動においおは別の論理が働いおいるが故に、合理的に捉えるこずは出来ない、ずいうこずを認めるこずが必芁ずなる。ずいうのも、思考の論理は分析によっお抜象し、そしお抜象されたものを綜合によっお組み立おるこずを土台にしおいるが、過皋し぀぀ある運動にあっおは、分析ではなく、関係づけるこず、぀たりは綜合によっお抜象がなされおいるからだ。この事態抜象の論理に぀いおは、思考は了解できるだけで、合理的に把握するこずはできないのだ。
 ずするず、発生瀟䌚孊、ずいうように問題をたおたずき、出発点を西原のように生成過皋に求めるこずが正圓かどうか、ずいうこずを怜蚎しおおかねばならない。孊ずいう以䞊は、思考産物であり、そうであるずすれば、思考の手に負えない動くものを始元にすえるこずは、孊的展開を䞍胜にするのではなかろうか。
 だから、西原の芖座には次のような内容を察眮するこずが必芁になる。マルクスが䟡倀圢態論で詊みたのず同じように、人ず人ずの察面の関係のうちに、瀟䌚生成の仕組みを読み取る事、これである。
 西原も第12章で、人ず人ずの察面の関係を、A、B、Cの䞉者関係ずしお論じおいる。しかしそこでも䞭心は、盞互行為ずいう動くものの方にあり、関係によっお圢成される瀟䌚的圢態芏定には十分泚意が払われおはいない。だから、二者関係ではなく、䞉者関係を措定せざるを埗なくなっおいる。そしお、䞉者関係における盞互行為ずいう圢で「関係発生的問題」を凊理しおしたえば、その䞍足を補うものずしお、発達心理孊の知芋にもずづく「個䜓発生的問題」を導入せざるを埗なくなる。しかし、ワロンの発達心理孊にしおも、最初に瀟䌚性を前提にしおいるのだから、発達心理孊を導入しおも䞍足は補い埗ないず思われる。
 西原は、せっかく、䞉者の察面関係を措定しおいるのであるから、マルクスの䟡倀圢態論に垰っお、これを二者関係に還元し、そしお、二者関係のうちに盞互行為そのものを芋るのではなく、いかなる瀟䌚的圢態芏定が存圚しおいるかを発芋するこずによっお、盞互行為の内実を明らかにするこずを迫られおいるように思われる。

4自己ぞの問


 第III郚で展開されおいる西原の積極的な芋解に぀いおの批刀的コメントを終えたので、次に第I郚に垰り、そこでなされおいる「自己ぞの問」に぀いおの西原による瀟䌚孊的知に぀いおの敎理から孊ぶこずにしよう。
 西原は、珟代の日本で、自己ぞの問が問われおいるこずに぀いお、䞀方で「自埋的・自立的な䞻䜓的人栌の圢成が、家庭内でも、教育の珟堎でも、若い䞖代に察しおも、たた䞖間䞀般・日本人においおも、あたかも人間の『普遍的』な理想像ずしお語られおいた」212頁が、しかし、この「䞻䜓的で自埋的・自立的な人栌的存圚ずしおの人間ずは、䞀定の歎史的な瀟䌚空間のもずで生たれおきた『過去』の『特殊』な考え方『幻想』ではないのか、ず問うおみるこずもできる」22頁ず述べおいる。この考えは、ケアの経枈孊を構想する際の人間モデルの再怜蚎ずいうこずず䞀臎しおいる。
 西原はこの人間論の背埌にある「䞻䜓・自埋・自立・人栌・人間ずいった芖点それ自䜓が、実はモダンの知」22頁であり、デカルトに垰せられる「近代的自我」ずいう蚀い方でくくられるず芋おいる。そしお、ポストモダン思想が流行した時に、䞻客二元論に立脚するモダンの知のあり方が批刀され、浅田地は、これにパラノ型ず名づけた「時点れロにおいお自由に浮遊し、四方八方に䌞びおいくゲヌム状の思考ず掻動を行う、軜やかさやノリを重芖しお埮分差異化する人間ずいう類型」24頁のスギゟ型が浅田によっお提案されたが、これは埌にノィトゲンシュタむンの蚀語ゲヌム論に䟝拠した「無根拠性」の䞻匵ぞずゆき぀いたりしおいるが、西原は、これらのポストモダンの思考自䜓が問うこずがなかった自己ず他者の問題を新たに提起しおいる。
 西原によれば、〈自己他者〉問題ずは、瀟䌚孊の根本的な間の系譜のひず぀であり、次に、この芖座からの孊説の敎理がなされおいおいる。
 たずアルフレッド・シュッツは西原の䟝拠する孊者であるが、シュッツが『瀟䌚的䞖界の意味構成』においお、「理解瀟䌚孊における他者理解他者の䞻芳的意味の理解を論じ始める際に、『意味問題ずは時間問題である』ずした。珟圚の自我が過去の自我に反省のたなざしを向けるこずに『意味』ずくに『行為の意味』の成立を定䜍させた」26頁ず玹介しおいる。
 そしお、西原は、珟圚の自分が過去の自分を芋るずき、芋られる偎は珟圚の自分にずっおは他者であるこずに泚目し、「内的他者」を想定し、「自己ずは、自らの内郚にも他者を内包する存圚である」27頁ず述べおいる。そしお、「自己のなかに少なくずも二人の存圚者がいる。問う自己ず問われる自己」27頁ずいうように問題をたお、これを「基底の〈自己他者〉問題」27頁ず芏定しおいる。
 䜕故このように問題をたおるか、ずいうこずに぀いお、西原は、自己ずは䜕か、他者ずは䜕か、ずいうように、はじめから二぀の䞻䜓をたおお、その間の関係を論じるずいう方法を拒吊するからだずし、「自己・他者ずいう『䞻䜓』に関する語りこそを問い盎す」28頁ために「はじめから䞻䜓的存圚ずしおの自己ないしは他者を前提にするようなこずはしないでおこう」28頁ず述べおいる。
 そしお、䞻䜓ずしお自明芖されおいる自己ず他者に぀いお、フッサヌルの珟象孊的還元を適甚し、その自明性を問うおいる。そしお、自他問題にずっおの始原を「どこにおいおも自己や他者や関係が成立する自䜓の『生たれいずる珟堎』メルロニポンティに立ち返るこず」29頁に求めおいる。
 このあず、西原はフッサヌルの珟象孊の䞉぀の文脈を玹介し、そしおメルロニポンティずレノィナスの説を取り䞊げおいる。西原によれは、メルロニポンティは、フッサヌルの「超越論的䞻芳性」を超越論的な「間䞻䜓性」ず読みかえ、「䞻芳性ずは、その始原においおは間䞻芳的なあり方に基づいおいる」32頁ず考えた。そこで「意識や䞻芳性の生成の出発点である身䜓論的な亀互行為の堎面」32頁が蚭定されるこずになり、発達心理孊の成果、ずくにワロンのそれを受入れるこずなる。「たず孀立した個人や䞻䜓が存圚するのではなく最初にあるのはむしろ〈瀟䌚性〉であるずメルロニポンティは考えたのだった」33頁ず西原は述べおいる。
 次にレノィナスに぀いお、西原は、絶察的他者論に泚目し、次のように述べおいる。
「レノィナスは、自らの匷制収容所䜓隓にも基づきながら、他者の『超越』を語りだす。他者ずは、自己ではないがゆえに他者なのであり、自己を超越する存圚である。自己にずっお他者ずは、絶察的な『他性』をもった存圚『絶察的他者』なのだ。こうレノィナスは匷調する。」334頁

 このレノィナスの他者の絶察的他性ずは、個の唯䞀性のこずでもあるのだが、これはアドルノが『吊定匁蚌法』で展開した意識のうちにずらえられないあるものず関連しおいる。だからレノィナスの倫理孊は、論理孊批刀ずしおあるのだが、西原はこの点に぀いお、「この䞖界に䜏たう『意識』以前の『実存』の『ある』を問うこず、それが本曞で努力しお接近しえたず考えおいる䜍盞であるし、他者の珟象孊が新たな瀟䌚孊的思考に寄䞎する䞀぀の回路だず筆者は考えおいる」34頁ず述べおいる。

5動きではなく圢匏を


 第2章、他者ず〈間〉の系譜、で西原は意味瀟䌚孊の出発点での問いをさらに明確化しようずしおいる。それでここからは、西原による孊説の玹介に぀いおは省略し、積極的䞻匵を拟っおいくこずにしよう。
 たず、自己ずいう䞻䜓がある、ずいう自明性を疑うこずから出発した西原は、行為にたでさかのがり、次のように述べおいる。
「問題は実は単に『認識』意識の問題ではなく、もはや『行為』の問題であるずいうべきである。もちろん認識も䞀皮の実践的行為であるずいいうるが、であればこそ、『はじめに行為ありき』ずいう点が事態を適切に描く芖座ではないだろうか。そしおずくに、自己ず他者ず〈間〉の問題においおは、『はじめに盞互行為ありき』こそ出発点ずならなければならないのではないか。自己ず他者ずの関係は、その生成においおも、日垞的生の基底のあり方においおも䜕らかの『呌びかけ応答』関係が出発点にあり、しかもそれは単なる䞀方向的な行為には回収できないからである。」48頁

 孊のはじめに行為ずいう動くものを眮くこずに぀いおはすでに疑問を提起しおおいた。それはずもかく、西原は、この盞互行為に぀いお、具䜓的には次のように述べおいる。
「おそらく自他関係を含む関係それ自䜓の発生、ここではいわゆる瀟䌚関係それ自䜓の発生は、端的にいえば、リズム・共振、゚ロス・共感、身䜓的暎力などずいった間身䜓的な諞力筆者自身は間生䜓的諞力ずいう語を甚いおいるがの働きが半ば本質的にビルト・むンされた人々の力胜が、『出䌚い』によっお觊発される機制にた぀ものであろう。」49頁

 この西原の蚘述ずワロンの情動論を比范するず、ワロンが情動を姿勢ずいう圢匏ず関連づけおいるのに察し、西原の間身䜓的諞力が圢匏を欠萜させおいるこずに気づく。情動に぀いお述べる源に圢匏を欠いおいるこずが、西原の議論の根本的な欠陥になりそうな予感がする。西原はさきに述べた事柄を次のようにより明確化しおいる。
「われわれが巻き蟌たれる『枊巻き』は、倧きな流れのなかでいわば匕力ず重力が亀錯する堎である。䞀方の生䜓の振る舞い波長ず他方の生䜓の振る舞い波長ずが『出䌚い』、共振、共鳎しあっお『匕き蟌み』珟象を起こし぀぀、盞互同調シュッツする堎合がある。その盞互同調の波長のリズムを生䜓蚘憶を含む蚘憶の助けを借りながら内自化すれば、この二者関係はそれなりの固有の波長・リズムを共有するずいいうる。しかもここに第䞉者第䞉項が絡み合う。」50頁

 盞互同調ずいう動くものを問題にした堎合、このように、どうしおも第䞉者第䞉項を立おるこずに迫られる。しかし䞉者関係を措定しないず問題が展開できない、ずいうのは、やはり孊ずしおの欠陥をもたらすように思われる。珟に、西原は次のように述べおいる。
「自己他者関係の本源的な成立は、自他未分のかかわり合いのなかで『他者』ずの出䌚いを含めた、少なくずも䞉項的な発生論的盞互行為を原基的なモデルずする盞互行為状況盞互行為連関を芁件ずしなければならないであろう。」52頁





Date:  2006/1/5
Section: ç€ŸäŒšå­Šâ€•è‡ªå·±ãšä»–者
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