ĄŚ office-ebara
indeximage

浜田寿美男のピアジェ批判


浜田寿美男のピアジェ批判


1)ピアジェの基本的枠組


 浜田寿美男は『ピアジェとワロン』(ミネルヴァ書房)で、ピアジェとの対比でワロンの発達論を高く評価している。浜田の本の第1部 ピアジェ的世界 で述べられているピアジェ批判を紹介しよう。浜田は、第1章ピアジェにおける認知発達論で、ピアジェの『知能の発達』を軸にして、ピアジェの発達論を批判的に紹介し、ついで、第2章ピアジェにおける情意発達論で、従来あまり検討されなかったピアジェの情意発達論について詳しく紹介し、コメントしている。その上で、第3章ピアジェの発達論は何をどこまで捉えたか、では、ピアジェ発達論のキー概念となっている「シェマ」と「適応」についての批判が試みられている。ピアジェの後期の発達論と構造論についてはすでに紹介してきたので、ここでは、第3章に則して、浜田のピアジェ批判を追ってみよう。
 浜田は、この章ではピアジェが展開してきた発達論の土俵そのものを検討しようとしている。浜田によれば、ピアジェの理論は、「現代の科学技術文明のイデオロギーを見事に反映していると同時に、逆にそのイデオロギーを強化する働きをもっている」(109頁)ので、その相対化が必要であり、「彼の理論をその正当な評価のもとに位置づけ、彼が一体なにを捉え、なにを捉えなかったかを考える」(109頁)ことが目指されるべきとされている。
 それで、もともとピアジェの研究の目標は認識論にあり、彼が人間という現象の全体から認知的、知性的な側面のみを取り出して論じることになっているが、浜田はこのこと自体は当然の方法だと認めた上で、「問題は、彼がその認知や知性を人間現象全体から正しく取り出し得ているかどうか、あるいは取り出してきた認知や知性を人間現象全体のなかに正しく位置づけているかどうか」(111頁)というところにあると述べている。
 このような問題意識から、浜田は、ピアジェ理論の基本的枠組となっているシェマと、その同化と調整という考え方の批判的検討を行っている。浜田は、ピアジェが、適応を生体と環境との相互作用の過程と捉えていることを評価している。その上で、その相互作用のあり方が、同化-調節の理論で捉えられていることに批判のメスを入れる。
 ピアジェにあっては「シェマとは、ひとつのまとまりをもち、繰り返し可能な活動の単位」(113頁)であるが、子供は手持ちのシェマを用いて、繰り返し身の周りの世界を捉え働きかけているのであるが、このときに「外界を自分の手持ちのシェマに取り込むこと」(113頁)がピアジェの同化なのだと浜田は見ている。そして手持ちのシェマだけでは外界に対応できないので「外部に合わせて手持ちのシェマを適切に修正していくこと」(113頁)が調節と捉えられている、というのだ。
 シェマ及びその同化と調節という枠組から組み立てられたピアジェの発達論について、浜田は大略次のように述べている。 「同じひとつのシェマが、周囲の様々な事物と関わり、次々に新しいシェマが生み出され、主体のもつシェマが多様化していくが、ある時期がくると、それまで独立していたシェマどうしが協応して、ある目的に向けて手段を講ずるという、いわば知的行動があらわれ、多種多様なシェマが、いろいろな文脈のなかで用いられるようになる。これがシェマの可動化で、やがてシェマ自体は個々の具体的な文脈を離れた独立の働きとなり、それによってシェマは心内化していく。シェマはもはや具体的な身体行動としてあらわれることなく、心内的な機能として働くようになり、表象が成立する。次にこの表象が多様化し、表象どうしが協応し、表象の世界が体制としてまとまることによって概念が形成され、さらにこの具体物に関する概念は、概念どうしの協応をへて抽象的な概念へと到る。」(114頁)
「このようにして、一番最初の反射のシェマから、この多様化、協応、可動化、心内化をへて、表象シェマへ、さらに具体的概念シェマから形式的概念シェマへと、すべての知的行動の発達が、シェマの展開として、つまりシェマを軸とする同化と調節の均衡化として説明されることになる。」(115頁)

 そして、この同化と調節は、主体と環境との相互作用であって、生命維持的な適応機能から人間的な高次の知的機能までにいたるすべての機能がこの概念によって捉えられているというのが、浜田によるピアジェ発達論の基本的枠組だった。

2)基本的枠組の批判


 ピアジェのこの基本的枠組に対して、浜田は、二点にわたる疑問を提出している。「ひとつは、ピアジェのこの全体的理論が、子どもの個々の具体相を十分に捉えているかどうか。もうひとつは、適応という概念が、そもそも子どもの、あるいは人間の全体を捉えるのにふさわしいものかどうか」(116頁)と述べて、それぞれについて検討している。
 最初の点について、浜田は、ピアジェが環境と主体とを有機的に結びつけたことは一般的に言って正しいが、しかし、ここでの相互作用を同化とみなしたことで、なにかがスッポリ抜け落ちると述べている。
「ひとつは、同化と動機、あるいは、欲望に関わる問題である。生体が自らの構造にあわせて環境内のある部分を同化するのはよいとして、では主体はなぜ同化するのかという点である。ピアジェによってこの点は問題になりえない。」(118頁)

 というのも、ピアジェのシェマは外界の刺激を全て同化するものとされていて、認識と情意の相補関係をみず、決定的なことは「ピアジェの適応理論は、皮肉にも不適応の問題を扱えない」(119頁)と浜田は批判している。さらに人間行動の全体性という観点から、次のように述べている。
「実際ピアジェにおいては、人がどのように行動するかを捉えることはできても、人がどうしてある行動を行い、ある行動を行わないのかを説明することができない。これではとても人間の行動にかかわる全体理論だとは言えない。」(120頁)

 そして、この点とかかわっているが、ピアジェは「成熟の事実」を入れる場所をもっていない、と浜田は指摘している。ついで浜田は、ピアジェが環境をどう捉えているか、ということの検討に移り、ピアジェが「対物的環境と対人的環境とを原理的に区別しない」(122頁)と批判している。
 次に第二の点について、浜田は、人間の場合、適応よりも間接性ということの方にその独自性があるという対案を提出している。
「適応論でもって人間諸現象のなにほどかを捉え得るのだろうかと思えてくる。むしろ人間においては、環境との間接性のゆえに適応の自由度が大きいという点ににこそ、その本質的特徴があるのではないか。その自由度のゆえに、人間は膨大な生産力をもつ道具-機械系を作り出し、強大な法-国家体制を生み、遠大な観念-イデオロギー体系を無数に構築した。私たちの生活は、そうして自ら作り出したこの人間的所産によって与えられる一方で、同じそれによってがんじがらめに縛られている。個々人の直接的環境の範囲のなかでは、一定の幅内で適応していると言ってよかろうが、もう少し広い範囲の中でみると、人間の現象はもはや適応論の域を越えて、疎外の現実のなかに呪縛されていく。適応論は、結局、人間をとらえる試みのなかの一部をなすにすぎないと結論せざるをえないのではないか。」(127頁)

 ピアジェが発生的認識論において念頭に置いたのは、今日の科学の到達した教学的思考、物理学的思考と、そこに到る個体発生の歩みであったし、またその情意発達論において念頭に置かれたものは民主主義社会をモデルとした自律的道徳観をもつ対等な人間と、そこに到る個体発生の歩みであった、と浜田はピアジェ発達論の土俵を見極めた上で、「私自身にとって気がかりなのは、そうした見事な均衡にいたった人間ではない。むしろそこから容易に踏み外してしまう不確かな人間のイメージであった」(129頁)と述べている。
 科学知が盛りを過ぎ、むしろ人間の生活にとってそれを撹乱するものとしてあらわれている、という現代の現実をふまえ、浜田はこのようにして、ピアジェ発達論の相対化をめざしたのだった。




Date:  2006/1/5
Section: ĺżƒç†ĺ­ŚăƒŽăƒźăƒˆ
The URL for this article is: http://www.office-ebara.org/modules/xfsection05/article.php?articleid=47