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哲学の旅第10回 外の主体の弁証法『精神現象学』意識論の解読 第1章


哲学の旅第10回 外の主体の弁証法『精神現象学』意識論の解読 第1章


序章 研究の視点
 (1)『精神現象学』の位置(2)関係論としての二つの弁証法(3)研究の範囲
第1章 感覚的確信
 (1)意識形態の移行(2)否定弁証法の適用(3)「外の主体の弁証法」の展開
第2章 知覚
 (1)物を主体とした知の構成(2)反照論の展開(3)物と自我の二重性(4)悟性への移行
第3章 力と悟性
 (1)無制約的一般者(2)自我と対象の力による合一(3)物の内面と現象(4)自己意識への移行
終章

感覚的確信


(1)意識形態の移行


 感覚的確信から始まり、知覚、悟性をへて自己意識に到る意識形態の移行の論理を『精神現象学』にさぐってみよう。まず、ヘーゲル自身の言葉が手引きにされるべきである。ヘーゲルは、「力と悟性」の章で、二つの意識形態の移行の根拠について次にように述べている。
「感覚的確信の弁証法においては、意識にとり聞くとか見るということなどは消えてしまった。知覚としては、意識は思想に行きつきはしたが、これらは無制約的に一般的なものにおいて初めて総括された」(102頁)

 こうして悟性は、この無制約的に一般的なものを対象とすることになり、悟性は両極の力による合一をなしとげ、物の内面にはいりこみ、現象という超感覚的世界に入りこむ。そして悟性のこれらの経験について、ヘーゲルは自己意識への移行規定のところで次のように述べている。
「意識のこれまでの諸々の形態にとっては、その真理は物であり、それらの形態とは別のものであった。意識のそういう形態からの必然的な進行が言い表わしているのは、物についての意識がただ自己意識にとってだけ可能であるということだけでなく、自己意識だけが、それらの形態の真理であるということ、正にこのことである。」(128頁)

 このヘーゲル自身の手引きを見た限りでは、ずい分平明である。これまで『精神現象学』をヘーゲルの論理学の適用例であるとか、あるいはそれの生成過程として、読もうとしてきたのだが、その結果、いたるところで難問に遭遇した。ひょっとして、ヘーゲル自身は、この移行の論理を述べるところに中心があって、学の立場に立つ「われわれ」にしても、学として総括しないまま、ただ、意識の経験をあるべきままに見ている、ということに止めているのではなかろうか。

(2)否定弁証法の適用


 ヘーゲルは意識を自我と対象との関係と捉えている。そして、感覚的確信という意識形態は、ヘーゲルによればこの人がこのものを知る、という関係である。ついでに紹介しておけば、知覚は一般的な自我と一般的な対象とが関係する意識形態であり、悟性は自我と無制約的な一般者とが関係する意識形態である。そして今回はとりあげない自己意識は、自我が対象としての自我と取り結ぶ意識形態のことだ。
 さて感覚的確信のところでヘーゲルが最初に適用しているものは否定弁証法である。そして「この人」が得ている感覚的な確信に対して懐疑論の立場から、次々と否定していく。最初に得られる確信は、「対象は、知られているかいないかに関係なく、現に有る。対象は、知られなくとも、そのままでいる。だが知は、対象がなければ、存在しない」(81頁)という唯物論の立場である。
 ここでヘーゲルは確信の吟味に入り、対象と知が一致するかどうかをたしかめようとする。そのとき、ヘーゲルが選ぶのは、対象について、それが真にある通りを反省し追考することではなく、感覚的確信が意識のうちにもっている通りの対象を考察することである。というのも、前者は個別科学の道であり、哲学的知へは通じていないからである。
 こうして「このものとは何であるか」という問いが提出される。「ここ」と「いま」とは言いあらわしたとたんに、否定されてしまう。というのも「ここ」という言葉も「いま」という言葉も永続するものであるにもかかわらず、感覚的確信として意識のうちにある「ここ」と「いま」とは直接的なものだからだ。「われわれは、感覚的なものを一般的なものとして言い表す」(82頁)というとき、ヘーゲルは言語による規定がもつ否定弁証法を展開している。その結果、感覚的確信の真理は直接的な「ここ」と「いま」から、媒介された、一般的な「ここ」と「いま」に移行していく。そうなると媒介された一般的な「いま」と「ここ」は対象の属性ではなく言葉となってあらわれている意識の属性だから、「感覚的確信の真理は、私の対象としての対象のなかに、つまり想いこみのなかに在る。対象は、私がこれを知るから有る」(83頁)という観念論の立場への移行が必然的なものとなる。
 そこで感覚的確信が対象から追いはらわれ、自我のなかに押しもどされたわけだから、今度は自我が吟味される。自我としての私は見たり聞いたりすることで感覚的確信を得る。ところが、この「私」という自我も、言葉のもつ否定弁証法によって一般的な自我を表していることになる。感覚的確信の運動が唯物論から観念論へと移行したあと、ヘーゲルは観念論をも自我の一般性を示すことで否定し、そして次のように結論づける。
「この確信そのものの本質とすべきものが、その全体であって、もはや前にのべた二つの場合に起ったうちの、どちらか一方の契機ではないと、結論することになる。その二つの場合においては、まず自我に対立した対象が、次には自我が確信の真理であることになっていた。だから、この確信において直接態を確保し、その結果、前にのべたことのなかにあったすべての対立をとりのけるのは、感覚的確信そのものの全体だけである。」(84頁)

 ここにヘーゲルの哲学的立場が表明されている。唯物論も観念論も、感覚的確信の契機であるにすぎない。個々の契機に固執することが問題なのではなく、全体について捉えることが問題なのだ。ところでこの全体を捉える視点は否定弁証法からは出てこない。というのも、それをあつかうときには役に立たないからだ。そして、全体とは実は関係なのだ。
 そこで、ヘーゲルは感覚的確信という自然的意識から離れ、「われわれ」が自然的意識の運動を見る、という視角へ移動している。というのも、そうすれば、全体の関係を見わたせるからである。
 「われわれの方からこの確信に歩みよって、そこに主張されているいまが示されているようにしよう。われわれは、それ(いま)がわれわれに示されるようにせねばならない。なぜなら、この直接的な関係の真理は、この自我の真理であり、これは、いままたはここに制限されているからである。」(85頁)
 「われわれ」が感覚的確信の主張することを示すことで関係を解明していく、というように問題を立てたときに、先に適用されていた否定弁証法の論理を土台にして、新たに「外の主体の弁証法」が適用されはじめる。ヘーゲルに従って、「外の主体の弁証法」の展開をみてみよう。

(3)「外の主体の弁証法」の展開


 ヘーゲルは最初の「いま」が「あったものとしてのいま」というように否定され、ついで「あったもの」は現にあるのではない、というように否定が否定されて「いまがある」という最初の主張に帰るが、この帰った主張は色々な契機を自分にもっている一つの運動だ、と述べたあと、この論理を次のように整理している。
「このものは定立されるけれども、定立されるのは、むしろ、それとは別のものである。言いかえると、このものは廃棄される。この他有つまり初めのものの廃棄は、それ自身また廃棄され、こうして初めにあったもの、つまり直接的なものとそのまま全く同じであるのではない。それはほかでもなく、自己に帰ったものである。つまりそれは他有において、なお自らが在るものであり続けるような単純なものであり、絶対に多くのいまであるような一つのいまである。」(85~6頁)

 このくだりを『大論理学』の有論の論理として、つまり意識のうちにとり込まれた対象についての規定として読もうとすると、やはり無理がある。というのも、ここでヘーゲルが他有(他者)といっているのは意識のうちにとり込まれた「いま」のことであり、示される「いま」は直観の対象としての対象自体のことだから。これを「外の主体の弁証法」の展開と見ると、非常にすっきりする。自我によって直観され、意識の対象とされた「いま」は意識によって定立されると、それは他者(意識)のうちで在り続ける「いま」となり、対象としての「いま」は否定される。ところがこの意識のうちにある「いま」は意識が思考することで否定され、こうして直観された対象としての「いま」が否定の否定によって自分に帰り、対象としての「いま」とは、意識という他者のうちに多様な形である続けるものとなり、対象は意識される限りで一般的なものとしてあることになる。このようにここを「外の主体の弁証法」として読むと、ヘーゲルも認めているように、この意識の経験は、「くりかえし同じようにこの結果を忘れてしまうだけで、運動を初めからやり通すこと」(86頁)に終ってしまうであろう。実際対象が一般的なものとして現れるのは自我との意識関係の内部のことであり、経験(関係)が終われば、また一から始めるしかないからだ。
 このように「外の主体の弁証法」を展開する限り、感覚的確信から抜け出すことができない。そこで、ヘーゲルはこの意識が経験した「外の主体の弁証法」を「われわれ」の立場から「思いこまれる感覚的なこのものは、意識に、つまりそれ自体で一般的なものに、帰属する言葉にとっては到達できないもの」(88頁)だと断定する。つまり、「われわれ」の視点を直観の対象から意識の方へ移行させる。そうすることではじめて、「聞くとか見る」ということが消却され、知覚への移行が可能となる。
「私は、このものを、ここと指摘するが、これは多くの他のここのここであり、それ自身において多くのここの単一な複合であり、一般的なものである。私は、それを真に有る通りに受けとる、そして直接的なものを知る代りに知覚する。」(89頁)

 直接的なもの、または存在するものの知として最初に現れた感覚的確信は、「外の主体の弁証法」として展開される限りでは、同じことをくり返すのであるが、ヘーゲルは直接的なものが否定の否定によって、たえず一般的なものとして現れてくることに注目し、さらに進んで、意識にこの一般的なものの方しか言い表わせないことを経験させる。こうして、意識はこの一般的なものとしての対象を相手にすることで知覚へと移行していく、というわけである。




Date:  2006/1/5
Section: 外の主体の弁証法「精神現象学」意識論の解読
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