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哲学の旅第8回(続) ヘーゲル弁証法の転倒(続) 第7章


哲学の旅第8回(続) ヘーゲル弁証法の転倒(続) 第7章


第7章 理論的活動の転倒(『法哲学講義』より)
 1)はじめに 2)人間論 3)理論的活動 4)理論の弁証法の転倒
第8章 実践的活動の転倒(『法哲学講義』より)
 1)意志の自由 2)抽象法3)財産 4)所有への移行 5)財産の譲渡(商品と貨幣) 6)実践の弁証法の転倒
第9章 ヘーゲルの生命論
 1)自己意識という生命 2)『大論理学』の生命論 3)イポリットの解説 4)初期へーゲルの生命論 5)生命過程論の登場 6)『精神現象学』の生命論 7)生命論のまとめ 8)自己意識論にむけて

第7章 理論的活動の転倒(『法哲学講義』より)


1)はじめに


 新しく、長谷川宏によって翻訳されたヘーゲルの『法哲学講義』(作品社)は従来のテキストに比べ、弟子が記録した講義ノートの分量が多く、そしてそこでは、ヘーゲルの考え方が平易に述べられている。とりわけ、その第1章財産のところでは、物の私有にはじまり、商品価値や貨幣についての考察がなされている。つまりここでは、ヘーゲルによって社会の弁証法が展開されている。そこでまず、この社会の弁証法の転倒について明らかにした上に立って、『精神現象学』の自己意識論へたち帰ることにしよう。

2)人間論


 第1章財産に入る前にヘーゲルは序論で法の概念について述べている。この序論は法哲学全体の概要を述べたものでもあるので、その全体の紹介はやめて、財産論の前提になっている事柄、つまり、ヘーゲルの人間論についてまとめておく。

 ヘーゲルによれば、「人間を定義するとき、人間は生きて、自己意識をもち、思考をする、自由な存在でなければならない」(28頁)ものである。そして、法哲学の立脚点及び出発点は「自由な意志」(30頁)とされている。そこで、法哲学を展開する以前に、生命、自我、意識、自己意識、思考、自由、等々について解明されていなければならず、それは精神現象学や論理学の課題として、すでにヘーゲルによって成し遂げられているということになる。
 例えば、要綱の2番目で、ヘーゲルは「法理論は、対象をつらぬく理性にほかならない。いいかえれば、ものごと自体の内在的な発展過程を追求しなければならない。」(25頁)と述べているが、これを説明して次のように講義している。
「法についての観念を、わたしたちはどこか外から借りてくる必要はなく、すでにわたしたちの前に生きた明確な概念があたえられていて、わたしたちはそれを追いかけるだけでよろしい。それは自由な思考の形をとった内容であって、自由な思考が内容に沈潜し、内容をそのまま生かし、内容を概念的にとらえたものです。概念によって、わたしたちはおのれを概念的にとらえるのです。それは気まぐれな主観性でもないし、反省や空想でもなく、自分の知っていることをあれこれ気ままに思い出すことでもなくて、概念がみずから活動し、活動としてはきわめて主観的ながら、それこそがわたしたちの思考の働きといえるものです。」(26頁)

 ヘーゲルによれば「対象をつらぬく理性にほかならぬ理念」とは「ものごと自体の内在的な発展過程」であって、これは、物理的自然、という対象についても、人間の精神に分類される法や国家といった社会的関係が対象の場合にも、更には、人間の思考という自己自身を対象とする場合も、同じ論理が働いているとされている。したがって、論理学で明らかにされた人間の思考の発展過程についての法則、その最終段階である概念論が、法といった個別の精神的なものを対象とする場合にも役立てられることになる。

 そこでとりあえず、法という対象を前にしたときに、普遍(類)、特殊、個別という概念の契機を、法のなかにさぐることから考察が始められる。
「法その他の精神的な対象については、定義なしではやっていけない。定義は概念の表現にほかならず、そのなかに一般的な土台をなす類概念と、その土台を前提にしつつ、法を法たらしめるところの個別概念とを含まなければなりません。個別概念といっても、それは法一般を定義するものでなければならず、類のなかの特殊は、特殊の領域の内部では一般性をもたねばならない。そして一般性をもつ定義をあたえるには、思考の働きによるしかなく、思考による定義は、領域内の一切を包括し、一切がそこから導かれてくるようでなければなりません。」(27頁)

 ここで話された内容は、論理学の概念論そのものを法に対して適用している。従って、概念論の知識があれば、何となく言わんとするところは理解できるが、しかし、この作業を実際に自分でやるとなるとどうしてよいかわからない。ところが、この講義では、ヘーゲル自身が思考を理論的活動と実践的活動、つまり、知性と意志とに区分して、それぞれの説明をしているところで、そのお手本を示してくれている。

3)理論的活動


 ヘーゲルにあっては、理論的活動とは、ある対象を相手にするわけであるが、その対象は自分の外にあって、感覚的に受けとめられている。例えば、それが固いものである場合、自分の固いという感覚のなかには二つのものがあることになる。ひとつは、固いもので、これは自分の感覚の中にしかない。そしてもう一つは、外にある対象である。そこで「理論的であるというのは、そのように外からの力を受けとめ、対象を目の前にすること、他なるものを見さだめること」(31頁)になる。外から力を受けとめて、意識のうちにとり込んだものと、外にあるもの、これが出発点にある単純な構図とされる。
「精神のさらなる理論的活動は、この構図を脱すること、つまり、異質な他者を抹消し、それをわがものとし、自分のうちに同化することにあります。理論的精神のありかたを見ていくには、この自己同化のさまざまな段階をあきらかにする必要があって、自己同化の道がすなわち解放の道です。外界にある外的対象は、空間と時間のうちにあり、それぞれに一定の場所と一定の時間のうちにあり、それぞれに一定の場所と一定の時間を占めているが、それが観念のうちに入ると、観念的なイメージは、特定の場所と特定の時間から解放されます。イメージには一定の性質が備わっているが、それはすでにわたしのものであり、内容はわたしのイメージの一要素となっている。わたしは内容をわがものとしているので、この色、この音、この形は、わたしとは別のものながら、わたしに属するものです。とすれば、直観、イメージ、感情は、外界のものとわたしとの混合物です。」(31~2頁)

 ここで話された内容は、対象と自我との関係としてある意識が、対象と自我とを共に意識のうちにとり込んで、意識の契機にしてしまう、というヘーゲル哲学の根本思想を自己同化、客体と主体との合一という観点から説明したものとなっている。異質な他者を抹消し、それを同化する、これこそがヘーゲルの精神であり、「思考が最高の段階に達すると、完全な自己同化がおこなわれ、イメージにつきまとう経験的な素材が残りなく理念に変えられます」(32頁)ということになる。

 同じ事柄がまた別の角度から次のように説明されている。
「ある対象を思考するとき、対象は思考されたものとなり、感覚的なものではなくなってしまう。思考することは、対象を本質的に、また、直接に、わたし自身のものにすることであり、思考のうちではじめて、わたしは私のもとにあります。とはいえ、思考のなかには、いまだ形式的なものにとどまり、内容や素材は外からあたえられるものもあって、概念的な思考に至ってはじめて、対象に穴が穿たれ、対象がもはや私と対立はせず、対象独自のありようが無に帰するのです。概念的に思考するとき、精神が概念的なものだから、対象は本来の精神的な対象となります。特定の内容が外からあたえられる思考もあるにはあるが、概念的思考のうちでは、すべてがわたしのものであり、わたしが概念の魂です。概念的に思考するとき、わたしは概念だけを相手とし、みずから概念となっているのだから自由です。」(32頁)


 概念論で概念は自由である、とされていましたが、何故そうなのかがここで平易に説明されている。概念的思考とは概念自体、つまり、自からを相手にするから自由だというわけである。もちろん自由だと言っても、勝手な思考でいい、ということではない。異質な対象が自分のものになるのは、一般化の作用を通じてのことであり、直観や感覚が対象に制約されているのに対し、概念としてあるイメージの場合には思考の働きである一般化の作用がこめられていて、「できあがったイメージは、あたえられたものとわたしのもの、特殊なものと一般的なものの混合物」(33頁)になっているからだ。こうして「思考とは一般化の働きであり、思考するとは、なにかを一般化すること、なにかを一般理念に変えること」(33頁)だとされる。
「わたしは思考するものであり、思考であり、概念的思考です。そういうわたしは一般的な存在であり、完全な一般的存在であって、これ以上に一般的な存在はありません。各人が『わたし』というとき、みんながわたしであり、ここでは『わたし』は高度に一般的なもの、まったく抽象的な一般者です。……思考を主体的なものだというとき、思考するのは自我です。自我はまったく空虚で、単純な点で、単純な一般者として活動し、したがって活動は一般的です。わたしが思考であり、思考がわたしです。理論的な態度は対立から出発するので、自我と世界が対立し、内外の多彩な世界がわたしに対立してあるが、理論的な態度のなかでわたしは対立を破棄し、内容を自分のものとします。理論的活動は、自我と世界との分離、ないしは恐るべき区別を破棄し、対立するものをわたしのうちに引き入れ、わたしのものとします。」(33~4頁)


 ヘーゲルの話は、結局は、わたしが思考である、というところにいきついている。そして、類と特殊と個別の関係は、わたしが思考することで関係づけられることになる。ところが、この思考が自由だといっても、勝手なものではダメで、思考自体の内在的な発展過程の追求でなければならない。そうだとすると、例えば、法についても個別の法について思考で捉えることで、まず、法一般という類的な土台にすえ、そして、個別の法の契機となる特殊はその領域では一般性をもっている、という個別の法の概念的構想が組み立てられる、ということになろう。

4)理論の弁証法の転倒


 最早、この序論部分の弁証法の転倒を試みてみよう。すでに意識論と論理学における弁証法の転倒を成し遂げたあとだから、ここでの転倒はいわばその応用編であり、格別の困難はない。

 まず、ヘーゲルによる概念的把握の出発点は、「ものごと自体の内在的な発展過程を追求」する、というところにあった。その際「ものごと自体」とは、意識の外にある対象のことではなくて、「対象をつらぬく理性にほかならぬ理念」とされている。というのも、ヘーゲルによれば、外的対象は人間に意識されることでその内在的な発展過程を開示していくのだから。そしてこの「対象をつらぬく理性」によって貫かれる対象には外的自然の他に人間の自我も含まれ、そしてこの自我とは意識の働きに他ならない。こうして「ものごと自体の内在的な発展過程」とは意識の論理的な発展過程と同型のものとされる。
 ここからヘーゲルは「ものごと自体の内在的な発展過程」を意識の論理的な発展過程に若干の加工をすることで叙述しようとしている。しかしながら、対象と自我との関係としてある意識が、双方を自らのうちにとり込み、対象と自我とを意識の契機と捉えたとしても、それは実は対象に対して自我が働きかけた意識の関係のうちでのみでの事であって、対象と自我とはこの関係の外では、絶対的他者として存在している。意識の両極にある対象と自我とは双方の意識関係のうちでは意識という同一性をもつが、しかしこの同一性は、関係のうちで形成される社会的実体であり、対象と自我との意識関係という特殊な領域内でのことである。
 ところがヘーゲルは、逆に意識によって「異質な他者を抹消」し、同化してしまう。そうすることによって、意識関係のうちで形成されてきた類(普遍)概念を、単に意識関係という特殊な領域に限定することなく、自我と対象とをおおいつくすものと考えてしまう。そして、個別としてある対象を意識のうちにとり込むことで、特殊概念と個別概念をつくり上げる。こうして、ヘーゲルにあっては、思考自体が類的なものであり、一般的なものであって、特殊概念と個別概念とは、意識の契機とされてしまっている自我と対象からの加工によってつくられている。
 このヘーゲルの意識の弁証法を転倒すると、まず、ヘーゲルが類(普遍)理念と見たものは、実は対象と自我との意識関係という人間の社会性の一つの特殊な領域のうちで成立するもので、従って、それは他の領域に対しては、一般性をもちえず、特殊性にとらわれているということが判明する。思考がもたらす一般性とは、自我と対象との思考の関係のうちでのみ成立するものだが、しかし、ヘーゲルにあっては、それが自我及び対象それ自体の一般性だと考えられているのだ。
 では、ヘーゲルの類概念、一般性が意識関係という特殊領域のうちでしか成立し得ないものだとしたら、この意識関係における自我と対象との間の一般性と個別性はどのようなものとしてあるのだろうか。この問題を解くためには、意識関係の領域にとどまっていては不可能である。というのも意識は、カントが発見した超越論的仮象にとりつかれているからである。ではどうすればよいのだろうか。
 それはコロンブスの卵のように、問題自体が提起されれば簡単に解決の方法を見出すことが出来る。その方法とは、意識関係以外の人間の社会関係のうちに、一般性と個別性の関係がどのように含まれているかを探求すればよいのである。
 ヘーゲルに則して言えば、法哲学で所有について述べられているところを、意識関係とは異なる人々の間の法的関係として考察すればよい。ヘーゲル自身は意識関係の特殊性に気づかず、それとは別の特殊的関係である法的関係にまで意識の弁証法を適用している。それで所有についてのヘーゲルの弁証法を法的関係という特殊性のうちに含まれている一般性と個別性の関係を導く手がかりとすればよい。つまりここでの意識の弁証法をひっくり返すことで、法的関係という意識関係とは別の特殊な関係における弁証法を獲得すればよい。

 このように、人間の意識関係を特殊な関係と規定し、これとは別の特殊な関係としての法的関係を解き明かすことで、超越論的仮象にとりつかれた意識関係におけるヘーゲルの意識の弁証法を転倒することが可能となる。ここに転倒のためのテコがある。アドルノの否定の弁証法は、このヘーゲルの意識の弁証法の転倒のためのテコを見つけることができず、結果としてどうどうめぐりをせざるを得なかった。いまやこのテコの所在を突き止めるところに来ている。




Date:  2006/1/5
Section: ヘーゲル弁証法の転倒
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