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哲学の旅第8回 ヘーゲル弁証法の転倒 第6章


哲学の旅第8回 ヘーゲル弁証法の転倒 第6章


はじめに――解題にかえて
第1章 ヘーゲルの切り拓いた地平
 1)懐疑論の批判 2)現象する知、意識の形態 3)独自の意識論 4)外的対象は意識の契機 5)意識の経験 6)新しい真の対象
第2章 感覚的確信の弁証法
 1)唯物論から出発 2)観念論への転回 3)意識の運動
第3章 意識の弁証法の転倒性
 1)ソシュールを手がかりに 2)意識の両極の実在性 3)意識の弁証法の成立根拠
第4章 本質論の転倒
 1)論理学有論の概要 2)本質論への移行 3)同一性 4)区別と矛盾
第5章 概念の弁証法
 1)概念論の概要 2)意識の外の対象がもつ仮象
第6章 概念論の転倒
 1)普遍的概念 2)特殊性と個別性 3)概念論の批判

第6章 概念論の転倒


1)普遍的概念


 すでに見たように、ヘーゲルにあっては概念論とは有と本質との統一であるが、ここに見られる弁証法は有論で展開された移行の論理や、また、本質論で展開された反照論とも異なるものとされている。
「概念は、存在(有)と本質とがそのなかで相互に浸透しあいながらそれらの充実した自立態と規定とに到達したところの実体的相関の真理態」(大、41頁)であり、この実体が主体として「それ自体で自立的な存在(有)」として自由なものとして展開されるものが概念の弁証法なのだ。
 「いまやここで考察されるべきこの普遍的概念は、普遍性・特殊性・個別性という三つの契機を含んでいる。この区別および概念が区分する運動において自己に与えるこれらの諸規定は、さきに定立された存在と名づけられた側面をなしている。この定立された存在は概念においてはそれ自体で自立的な存在と同一的であるから、あの諸契機のそれぞれが全体的概念でもあれば、また規定された概念でもある・[すなわち]概念のひとつの規定でもあるのである。
 まず第一に、概念は純粋概念である。換言すれば、普遍性という規定である。だが純粋なまたは普遍的な概念は規定された・また特殊的な概念にすぎなくもまたあり、そしてこの規定された概念は他の諸概念と並列して位置づけられている[いくつかの特殊的なもののなかのひとつという位置づけしかもたない]。概念は総体性であり、したがってそれの普遍性または自己自身への純粋な同一的関係において本質的に規定しかつ区別する運動であるから、概念は、それの自己との同一性というこの形式が、すべての諸契機を貫きとおりかつそれらの諸契機を自己のうちに包括しながら、またまさに直接的に自己を諸契機の区別態に対立する普遍的なものにすぎないと規定するゆえんの尺度をそれ自身のなかにもっている。
 第二に、概念はこのことによってこの特殊的なまたは規定された概念としてあり、そしてこの特殊的な概念は他の諸概念に対して区別されたものとして定立されている。
 第三に、区別から絶対的否定態へと自己反省する概念は個別性である。これは同時に、概念がそのなかで自分の同一性から自分の他在へと移行してしまっており、かくして判断になる契機である。」(大、47~8頁)

 ヘーゲルは普遍的概念の三つの契機として、普遍性、特殊性、個別性をあげている。この三つの契機は移行していくものでも反照するものでもなく、それ自体で自立的な存在と同一だから、この三つの契機のそれぞれが全体的概念でもあれば、規定された概念でもあるとされる。つまり、普遍性や特殊性や個別性は、それ自体自立的な存在としての概念の展開していく規定態だとみなされている。そこで、へーゲルが普遍的概念について特徴づけている諸規定を拾い出してみよう。
「普遍的なものはそれだから第一に自己自身への単一な関係である、それは自己のうちにのみある。だがこの同一性は第二に自己において絶対的な媒介である、だが媒介されたものではない。」(大、49頁)
 「普遍的なものは具体的なものに内在しているそれの魂であって、具体的なものの多様態と差異態のなかで妨げられることがなくかつ自身に等しい。それは生成のなかにまきこまれて引き裂かれることがなく、生成を通じてくもらされることなしに自己を連続させる、つまり不変不滅の自己保存の力をもっているのである。」(第、50~1頁)

 へーゲルの概念は理念にまで到達すると生命と規定されるが、そのイメージがここで語られている。ヘーゲルにあっては「普遍的なものはその限りでは自分の諸規定の実体でもある」(大、51頁)とされており、「それだから普遍的なものは自由な威力である。普遍的なものはそれ自身でありかつ自分の他者におおいかぶさっている」(大、51頁)ものなのである。

2)特殊性と個別性


 普遍性をこのように捉えると、普遍性について述べるときに、どうしてもその規定態である特殊性と個別性について言及せざるをえない。
「概念はやっと普遍的なものとしてまた自己とだけ同一的なものとしてあるにすぎず、まだ規定態へと前進していないのであるが、それにもかかわらずさきに規定態について言及した。規定態とはより詳しく言えば、特殊性と個別性であるが、この規定態をぬきにしては、普遍的なものについて語ることはできない。というのは普遍的なものはそれの絶対的否定態のうちにそれ自体で自立的に規定態を含んでいるからである。したがって、普遍的なもののもとで規定態について語られる場合に、規定態は外から普遍的なものにつけ加わるのではない。否定態一般として、あるいは最初の・直接的な否定にしたがって普遍的なものは規定態一般を特殊性として自分のもとにもっている。[また]否定の否定としての第二の否定として普遍的なものは絶対的規定態・換言すれば個別性と具象態である。」(大、52頁)

 特殊性と個別性を抜きにしては普遍性について語れないとすれば、いまやすすんで特殊的概念の検討を通して普遍性について語らなければならない。
「特殊的なものは自分の実体をなしているところの普遍性を含んでいる。類は自分の種のなかで不変である。もろもろの種は普遍性から差異されているのではなくて、ただ相互に対してだけ差異されている。特殊的なものはそれがかかわりあっている他のもろもろの特殊的なものとともに同一の普遍性をもっている。同時にもろもろの種の差異性は、それらの普遍性との同一性ゆえに、差異性として普遍的である。差異性は総体性である。」(大、55頁)

 ここでヘーゲルは普遍性を類に、特殊性を種になぞらえて論じている。動物という類とイヌやスズメといった種との関係で、種としてのイヌは動物という類から差異されているのではなくて、スズメという他の種からだけ差異されているが、同時に同一の類に属している、というわけである。だから「特殊的なものは普遍的なものそのものであるが、普遍的なものの区別あるいは他者への関係であり、普遍的なものの外への映現である。」(大、56頁)と述べられていることも、イヌ種は動物という類そのものであるが、動物という類の他のスズメ種との区別であり、動物という類の外への映現である、と考えればわかりやすい。 しかしこの考え方を、イヌとスズメとの共通性を類とみなすという常識の考え方と捉えると、そうではないことがただちに解る。この場合、類は人間の頭の中に存在しているだけだが、ヘーゲルはそうではなく、類の類としての現われがイヌである、といっているのだから。
「概念としての普遍的なものは自分自身でありかつ自分の反対ものであって、この自分とは反対のものがふたたび普遍的なものの定立された規定態として普遍的なものそのものである。普遍的なものは自分の反対のものへとおおいかぶさっており、反対のもののなかで自己のもとにある。こうして普遍的なものは自分の差異性の総体性ならびに原理であり、差異性はまったく普遍的なものそのものによって規定されているのである。
 それだから、概念が自己自身を直接的な・無規定的な普遍性として脇におしのける、ということ以外のいかなる真の区分も存在しない。まさにこの無規定なものが普遍的なものの規定態をなしている。換言すれば、概念が特殊的なものであるということをなしている。」(大、56頁)

 ここで展開されている弁証法こそが注目されるべきである。有論での移行の弁証法、本質論での反照の弁証法、双方の論理とは異なる論理展開がここにある。それは端的に「普遍的なものは、自分の反対のものへとおおいかぶさっており、反対のもののなかで自己のもとにある」と表現されている。多分これは、対立物の相互浸透と言われてきた論理であろうが、そのように呼ぶよりもむしろ、マルクスが明らかにした形態規定の論理に近いのではなかろうか。
 このことは、ヘーゲルは個別性を論じているところではもっと明瞭になってくる。ヘーゲルは特殊性の末尾で個別性への移行規定について次のように述べている。
「普遍性の形式における規定態は普遍性と結びつけられて単一なものとなっている。この規定された普遍的なものは自己自身へと関係する規定態である、[それは]規定された規定態[であり]、換言すれば自立的に定立された絶対的否定態[である]。だが自己へと関係する規定態は個別性である。普遍性が直接にすでにそれ自体で自立的にみずから特殊性であるように、特殊性もまた直接にそれ自体で自立的にみずから個別性である。」(大、64頁)

 普遍的である、ということそれ自体が特殊性であり、そして特殊的なものはそれ自体で個別的である、という論のはこびで個別性が導き出されている。
 そこで、個別性についてのヘーゲルの展開をまとめたうえで、節をあらためて、概念の弁証法の転倒を試みよう。
「個別性は、明らかにされたように、すでに特殊性によって定立されている。特殊性は、規定された普遍性であり、したがって[個別性は]自己へと関係する規定態・規定されたものである。
 一、それだからまずはじめに個別性は概念の規定態から自己自身への概念の反省として現われる。概念の他在が自己をふたたび他者にしたのであるが、このことによって概念が自己自身に等しいものとして回復される、だがしかし絶対的否定態という規定において回復されるというその限りで、個別性は概念の自己による媒介である。」(大、72頁)
 「普遍性と特殊性は一方では個別性の生成の契機として現われた。だがそれらはそれら自身のもとで総体的な概念であり、それだから個別性において他者へと移行するのではなくて、個別性においてはただそれらがそれ自体で自立的にある[すなわち真理態においてある]ところのものが定立されるだけである、ということはすでに示されたところである。」(大、73頁)
 二、だが個別性は概念の自己自身への復帰であるばかりでなく、直接的に概念の喪失である。概念は、そこにおいて自己のうちにあるそのような個別性を通じて、自己の外のものとなり、現実性へと歩み入る。」(大、75頁)
 「したがって個別的なものは自己へと関係する否定態として否定的なものの自己との直接的な同一性である。それは向自的に存在するものである。換言すれば個別的なものは概念を存在(有)という概念の観念的契機にしたがって直接的なものとして規定する抽象である。」(大、76頁)

 以上がヘーゲルによる個別性の規定である。まとめる必要もないと思われるので次に移ろう。

3)概念論の批判


 絶対的他者の同一性、という矛盾の設定から始めよう。この客観的矛盾をヘーゲルは意識の矛盾へと解消することで意識の弁証法を展開したのである。そうだとすると、ヘーゲル弁証法の転倒とは、絶対的他者の同一性、という客観的矛盾を思考が掴み取ろうとするところに生まれる弁証法の叙述によってなしとげられることになる。
 ヘーゲルの場合、すでに見てきたように対象と自我とを意識の契機とみなし、これらの意識としての同一性から矛盾を展開することで矛盾を根拠に解消し、そのうえで、概念へと移行していくのだが、この矛盾のとりあつかい方における転倒が、概念論では思考によって対象を貫く、といったかたちであからさまになってきている。
 だからヘーゲルが、普遍性(類)、特殊性(種)、個別性(個)という概念の契機を展開するにあたっても転倒ぶりがますます際立ってきている。それは個別性の規定にとくに著しい。
 「個別性は概念の規定態から自己自身への概念の反省として現われる」というようにヘーゲルにあっては個別性は概念の自分自身への復帰であり、そのようなものとして、それは概念の喪失であって、概念は自己のうちにある個別性を通じて自分の外のものとなるものとされている。ところで、類、種、個といった規定は、対象として存在しているもの相互の関係に他ならないが、ヘーゲルにとってはそれは同時に意識についての規定でもある。そこで、意識の両極を実在とみなす見地から、ヘーゲルの意識の弁証法としての概念論を検討することが課題となる。すでに明らかにしたように、両極を実在とみなして意識の形態を超感性的な現象形態として展開すると、自我に関係づけられることによって意識の関係にとり込まれると、対象は個別のものがそのまま一般的なもの、普遍的なものの化身とされている。その限りで、ヘーゲルが概念にあっては、個別的なものもまた普遍的だと述べているのも見当はずれである、というわけではない。でもヘーゲルによって捉えられていないのは、個別なものがそのままで普遍的なものの化身となるのは、自我と対象との間の意識の関係のなかでだけだ、ということだ。だから、概念が自分自身に帰って個別性として現われたとしても、それは決して自分の外のものとはなりえない。
 次に、ヘーゲルが主張している特殊性とは、絶対的他者の同一性、という矛盾の場合にはどのように規定されるのだろうか。特殊性というのはその場合は概念の契機ではありえない。それは、絶対的他者どうしが取り結ぶ関係の種差としてしかありえない。つまり、自我と対象との間の関係としての意識という場が一つの特殊性である。それは人間の社会性の種差であり、それぞれ特有の関係が形成される場である。
 人間の社会性の特殊な場面である意識形態にあって、自我は対象を意識のうちにとり込むが、そのとき、この関係のうちで対象は個物のままで類の化身とされている、ということが判明すれば、意識が類と見たものは、絶対的他者相互が関係することで形成された同一性にもとづくものであり、他者の絶対的他性がこの同一性によって否定されるわけではないことになる。このようにしてヘーゲルの概念論を転倒すれば、ひきつづき『精神現象学』の自己意識論に帰って、人と人との間の社会関係におけるヘーゲルの弁証法の転倒が試みられるべきである。そうすることで、特殊な場面を意識から人々の社会関係へと移していく。




Date:  2006/1/5
Section: ヘーゲル弁証法の転倒
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