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哲学の旅第8回 ヘーゲル弁証法の転倒 第5章


哲学の旅第8回 ヘーゲル弁証法の転倒 第5章


はじめに――解題にかえて
第1章 ヘーゲルの切り拓いた地平
 1)懐疑論の批判 2)現象する知、意識の形態 3)独自の意識論 4)外的対象は意識の契機 5)意識の経験 6)新しい真の対象
第2章 感覚的確信の弁証法
 1)唯物論から出発 2)観念論への転回 3)意識の運動
第3章 意識の弁証法の転倒性
 1)ソシュールを手がかりに 2)意識の両極の実在性 3)意識の弁証法の成立根拠
第4章 本質論の転倒
 1)論理学有論の概要 2)本質論への移行 3)同一性 4)区別と矛盾
第5章 概念の弁証法
 1)概念論の概要 2)意識の外の対象がもつ仮象
第6章 概念論の転倒
 1)普遍的概念 2)特殊性と個別性 3)概念論の批判

第5章 概念の弁証法


1)概念論の概要


 ヘーゲルの概念論は、『小論理学』では簡単すぎて分かりにくい。それで『大論理学』をも参照しつつ検討していくことにしよう。まず、有論、本質論と概念論との関係について、ヘーゲルは次のように述べている。
「概念はこの側面からは、まず一般に存在(有)と本質・直接的なものと反省に対する第三のものとみなされるべきである。存在と本質とはその限りで概念の生成の諸契機である。だが概念はそれら両者がそのなかで没落するとともに保持されてもいる同一性として、両者の基礎でありかつ真理態である。概念は両者の成果であるから、両者は概念のうちに保持されているのであるが、しかしもはや存在および本質として[保持されているの]ではない。両者は[存在および本質であるという]この規定を、両者が両者のこの統一へとまだ還帰していないその限りでのみ、もっているのである。」(『大論理学』3、寺沢訳、以文社、15~6頁)

 ヘーゲルによれば、有も本質も実は概念であるが、しかしそれは両者の統一としての概念の二つの契機としての資格においてであった。両者とは異なる第三のものとしての概念について『小論理学』では次のような対比がなされている。
「概念の進行はもはや他者への移行とか照り返しとかいうことでなくて、展開である。区別せられたものが、直接的に相互に同一的であると同時に全体とも同一であるものとして措定せられており、[区別されたもの]の規定態は概念全体の一つの自由なる有としてあるのだからである。」(小、154頁)

 概念が自由なる有(存在)だ、と言われるとき、すぐあとで見るように、そこには実体が想定されている。この実体は主体でもあるのだが、実は概念のなかでは契機としてあつかわれている両極(自我と対象)のことを指している。そして、対象についての考察は客観的論理学の役割ということになるが、この点については次のように述べられている。これは『大論理学』からの先の引用に続いている。
「存在(有)と本質とを考察する客観的論理学はそれだから本来概念の発生的解明をなしている。より詳しく言えば、実体はすでに実在的な本質である。換言すれば、本質が存在(有)と合一されて現実性へと歩み入っている限りでの本質である。概念はそれだから実体を自分の直接的な前提としており、実体は概念が顕現されたものとしてあるところのもので潜在的にある。因果性と交互作用を通じての実体の弁証法的運動はそれだからそれを通じて概念の生成が叙述される概念の直接的な発生である。しかし概念の生成は、生成がいたることころでそうであるように、生成は移行するものの自分の根拠への反省であるという意味を、また最初のものがそれへと移行したところのはじめには他者とみえたものがこの最初のものの真理態をなしている、という意味をもっている。こうして概念は実体の真理態である、そして実体の一定の相関様式が必然性であるのに対し、自由は必然性の真理態であり、また概念の相関様式であることが示されるのである。
 実体の固有の・必然的な規定の前進はそれ自体で自立的にあるところのものを定立する運動である。概念はいまや存在と反省とのこの絶対的な統一であり、こうしてそれ自体で自立的な存在[すなわち概念]がまたまさに反省または定立された存在(有)であり、また定立された存在がそれ自体で自立的な存在(有)であるということによってはじめて、それ自体で自立的な存在[すなわち概念]が存在するのである。」(大、16頁)

 ヘーゲルの概念論にあっては、概念は主観的なものであると同時に客観的なものとされている。だから、ここでは有と本質とが合一されて現実的なものとなった実体の弁証法的運動が同時に概念が生成される過程と捉えられている。そして、実体の弁証法的運動は、それ自体で自立的にあるところのものを定立する運動とされ、これは概念の展開とみなされているのである。
 しかしこのように述べるだけでは単なるヘーゲルの独断ということになりかねない。そこでヘーゲルは「概念とは、それ自身が自由であるような現実存在へと概念が到達しているその限りでは、自我あるいは純粋な自己意識にほかならない」(大、24頁)と述べている。
 ヘーゲルは最初に意識のうちにある両極を意識の契機と捉えて、有論、本質論を展開したが、次にこの統一にあっては、両極の一極をなす客観を実体とみなし、この実体の弁証法的運動が概念の生成であるとしたが、他方で、この概念は自我である、という。そうだとすると、ここでは対象と自我とが対立させられることになる。そこでヘーゲルは双方の関係について次のように描き出している。
「或る対象を概念的に把握するということは実際に、自我が対象を自分のものにし、対象を貫き通してこれを自分自身の形式に・すなわち直接に規定態であるところの普遍性または直接に普遍性であるところの規定態へともたらすということ以外のことにあるのではない。直観における対象または表象における対象もまたまだ外的なもの・よそよそしいものである。概念的に把握することによって対象が直観することや表象することのうちでもっているところのそれ自体で自立的な存在が定立された存在へと転化されるのである。つまり自我は思考することによって対象を貫きとおすのである。だが対象は、思考のうちにあるようであってはじめて、それ自体で自立的にある。対象は、直観または表象のうちにあるようであれば、現象である。思考は対象がはじめにはそれをともなってわれわれの前に現われるところの、対象の直接態を揚棄しこうして対象からひとつの定立された存在をつくる、だがしかしこの対象の定立された存在は対象のそれ自体で自立的な存在・換言すれば、対象の客観性である。この客観性をそれだから対象は概念のうちにもっており、そして概念がそのなかへと対象が受け入れられている自己意識の統一である。対象の客観性または概念はそれだからそれ自身が自己意識の本性にほかならず、自我そのもの以外のいかなる諸契機または諸規定をももっていないのである。」(大、26頁)

 へーゲルにとって、自我は思考によって対象を貫き通すとされている。対象を概念的に把握する、ということは、ヘーゲルにあっては、自我が思考によって対象を貫きとおして自分のものにし、つまり自分自身の形式である規定態をもたらすことを土台にしている。対象は直観や表象のレベルにあってはまだ外的でよそよそしいものであるが、概念的把握によって、思考が直観することや表象することのうちにもっているそれ自体で自立的な存在(概念)が対象のうちに定立された存在へと転化される。この意味で対象は思考のうちにあるようであってはじめて、それ自体で自立的にある。つまりヘーゲルが言いたいことは、対象の本性は思考が概念的にこれを捉えることによってしかわれわれの前に現われないのであり、だから、思考が概念的に構成した対象のそれ自体で自立的な存在は思考ではあるものの、対象の客観性となっている、ということだ。

2)意識の外の対象がもつ仮象


 ヘーゲルにとっては対象の概念(客観性)と思考としての概念は、後者が前者を貫き通すものと理解されている。だから、対象の客観性ということを対象は思考としての概念のうちにもっており、言い換えれば、思考としての概念のなかに対象が受け入れられていることだから、これは結局は自己意識の統一だ、ということになる。この意味で対象の概念は自己意識の本性にほかならず、自我そのもの以外のいかなる諸契機または諸規定をももっていない、というわけだから、ヘーゲルもカントと同様に対象の概念は、人間が思考の法則に合わせて組み立てたものであることを認めているのである。
 意識の両極を意識の契機とみなすことで結局は全てを自己意識に解消したヘーゲル哲学の根本思想がここで語られている。ここから、意識のうちで思考がつくり出した対象についての概念が客観性であり、対象についての真理であって、それがゆえに概念の外化が自然だ、という転倒した論理が導き出されてくるのである。この意味での転倒への批判は、フォイエルバッハやマルクスによってすでになされているので、ここでは別の視角から、このヘーゲルの認識論とでも呼ぶべき見解に批判を加えてみよう。
 対象の本性、とでも呼ぶべきものをここでは概念と呼ぶことにしよう。対象を概念的に把握する、ということはたしかに人間の思考によるものであって、動物にあっては対象は直接性のままにとどまっている。この意味で、対象の本性の開示は、人間の思考という媒介物なしにはありえない。ここまではヘーゲルと同じであるが、しかし、このあとヘーゲルは、対象と自我とを意識の契機とみなすことで全てを自己意識に一元化してしまった。これに対して、両極の実在性という見地から同じ問題に接近するとどのような光影が出現するだろうか。
 対象と自我との関係が意識である、という出発点を共通にしながらも、対象と自我との意識関係として、自我の対象についての意識が、どのような現象形態をとるか、ということに注目することが肝腎である。そうすると、自我が対象を意識で関係づけるとき、この関係のうちでは、自我にとっては絶対的他者としてある対象を、そのままで意識の化身としている。つまり、自我にとっては、この関係のなかでは対象が対象そのままで意識の化身となっっている。
 ところが、対象が意識の化身としても規定される、というこの形態規定は自我と対象との意識関係の内部でのみ生じているが、しかし対象の意識の化身としての規定はこの関係の外でも生きつづける。対象が一つの仮象をまとうのである。こうして、対象そのものが概念をもつ、というヘーゲルの思想が生じる根拠がここに生成している。
 対象をそのままで意識の化身とするのは、意識の本性にもとづく。だから、カントが言ったように、人間の認識には対象そのものに悟性法則がそなわっているかのような仮象を必然的にともなわざるを得ないのである。カントは超越論的仮象の必然性を認めると同時に物自体は認識できないと主張したが、しかし、超越論的仮象が何故生じるかについては解明できなかった。いまここで示されたことは、対象が自我との意識関係にあっては形態規定されて意識の化身とされていることである。そうなることで、対象それ自体が対象についての意識であるかのような仮象が生じる。ここに超越論的仮象が生じる原因がある。では、このような見地からすれば、ヘーゲルの概念論での弁証法の転倒はどのようなものとなるだろうか。




Date:  2006/1/5
Section: ヘーゲル弁証法の転倒
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