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哲学の旅第7回 アドルノ『否定弁証法』に学ぶ


哲学の旅第7回 アドルノ『否定弁証法』に学ぶ


はじめに
第1章 否定弁証法の前提
 1)ハイデガー批判のポイント 2)思考と存在との非同一性 3)既成の根源哲学への批判
第2章 否定弁証法の概要
 1)思考に反する思考 2)思考の論理を崩壊させる
第3章 ヘーゲルのカテゴリーの批判
 1)同一性 2)思考の自己反省 3)矛盾の客観性4)否定弁証法の概念
第4章 否定弁証法を超えて
 1)布置関係としての価値形態 2)存在の概念性 3)物象化と物神性
第5章 補論
 1)清水多吉のアドルノ論

第5章 補論


1)清水多吉のアドルノ論


 アドルノの否定弁証法は、このあと、唯物論への移行、弁証法は知識社会学ではない、精神の概念について、純粋な活動と天地創造、身体的苦痛、唯物論は図像化しない、という6項目が続きます。しかし、価値形態論をふまえない唯物論や社会批判には興味がもてませんので、否定弁証法を追う作業はここで終わることにします。でも、今回検討したのは、その核心部分ではあるといえ、この本の5分の1なんですね。他にも魅力ある論点や引用したい金言がたくさんあるのですが、それはあとに続く研究者のために取っておくことにしましょう。
 アドルノを読みながら、日本人のアドルノ論のいくつかに目を通しましたが、まず『否定弁証法』についてのちゃんとした研究はなされていない、という印象をもちました。とりわけ、アドルノの非同一性が、思考と存在との非同一性だ、という最も根本的なことすら研究者には理解されていないのですね。
 例えば長年フランクフルト学派について研究してきた清水多吉は、「フランクフルト学派とわが『情況』」(『情況』1999年11月号所収)でアドルノの否定弁証法について次のように述べています。
 「鏡に映った『私』に向かって『違う!』と言ったことはないだろうか。この『違う!』が『非同一的なもの』である。……ところで、以上のような『非同一的なもの』の追求は、旧来の学知の体系に対して、鋭い批判の刃にはなるが、みずから新しい学知の体系とはなりえない。」(『情況』22~3頁)
 清水によればアドルノの「非同一性」とは「私」が「私」として同一的なものであることについての違和感だ、ということですが、これは端的に言って差異のことです。この種の差異ならヘ-ゲルも認めていて、弁証法は対立物(差異)の統一(同一性)として叙述されているのですね。アドルノは、このような思考のうちでの差異性を「非同一性」と見たのではなく、思考と存在とを「非同一的」なものとみることで思考の同一化しようとする力を批判しようとしたのですね。
 この基本的なアドルノの構えが理解できていないから、清水はアドルノの「非同一性」がデリダの差延にひきつがれたと見てしまうのですね。でもデリダには思考と存在の非同一性という思想はないですね。デリダの差延論は真理性についての独自の見地からの形而上学批判であって、アドルノのように存在するものの様式に合わせて思考の論理を組み替えるといった発想はありません。なぜ清水はアドルノの「非同一性」について理解できなかったのでしょうか。それは清水が絶対的他者性ということについて認めることが出来ないからではないでしょうか。同じ論文で清水は次のように述べています。
「差異性のあるものに対面して、こちらが納得するのは、差異性のあるもののなかに同一性を認めた場合である。それは、他者に対面した自己が自己のなかに同一の他者を認めるというあの認識論の基本図式と符合する。同一性の認められないまったくの他者性、差異性との共存は、まったく関係のない共存であり、それは、共存だとか共生だということ自体形容矛盾のあり方なのだ。」(16頁)

 清水の認める差異性とは同一性を前提にしたものなのですね。そして、これが認識論の基本図式と符合している、と見ているわけですから、実は人間の思考によって思考されたもののなかにある差異性だ、ということになります。でも、アドルノは、存在についての人間の思考がとり込むことのできない〈あるもの〉と思考との間に非同一性を見出しているのですね。絶対的他者性といっても全く関係のないものではないのですね。そもそも他者という概念自体が自己との対概念であり、自己との関係を前提にしているのですね。だから絶対的他者性とは、自己が他者を思考のうちに認識したとき、この認識にとっての他者性を絶対的他者性と表現しているのですね。
 この他者の絶対的他者性をアドルノは思考と存在との非同一性というところに見出したのですね。だからアドルノの〈あるもの〉は、レヴィナスの顔に相当するものと見なせます。
 たしかに、カント、ヘーゲル、マルクスをふまえたアドルノの議論は非常にオーソドックスなところがあります。でも非同一性論に限っては、時代を超えています。だから清水のように「アドルノの批判知は空振りに終わる可能性が高い」(23頁)と見るのは、自分の理解の水準に合わせてアドルノを切ってしまった結果であって、見当はずれのように思われます。




Date:  2006/1/5
Section: アドルノ「否定弁証法」に学ぶ
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