office-ebara
indeximage

哲学の旅第7回 アドルノ『否定弁証法』に学ぶ 第4章


哲学の旅第7回 アドルノ『否定弁証法』に学ぶ 第4章


はじめに
第1章 否定弁証法の前提
 1)ハイデガー批判のポイント 2)思考と存在との非同一性 3)既成の根源哲学への批判
第2章 否定弁証法の概要
 1)思考に反する思考 2)思考の論理を崩壊させる
第3章 ヘーゲルのカテゴリーの批判
 1)同一性 2)思考の自己反省 3)矛盾の客観性4)否定弁証法の概念
第4章 否定弁証法を超えて
 1)布置関係としての価値形態 2)存在の概念性 3)物象化と物神性
第5章 補論
 1)清水多吉のアドルノ論

第4章 否定弁証法を超えて


1)布置関係としての価値形態


 ベンヤミンの造語に、アドルノによって新しい意味が与えられた布置関係、その前の項の個別的なものも究極的なものではない、でアドルノは、〈あるもの〉について、思考の外側から追求しています。
「存在するものは、単にそれであるより以上のものである。この『より以上』は存在者に外から押し付けられたものではなく、自分の中から追い出されたものとして、あくまでもそれに内在するものである。その限りにおいて、非同一的なものとは、事物を同一化する諸々の識別作用に逆らう事物自身の同一性であると言えよう。対象の最も深い内面は同時にこの対象にとって外的なものであることがそれによって明らかになるし、対象の閉鎖性は実は仮象であって、同一化し、固定化する思考法の反映にすぎないことも明らかになる。あくまでも個別的なものにこだわって思考してゆけば、そういうものに到達する。つまり、個別的なものを代表すると称する普遍者にではなく、その本質としてのあの内的であると同時に外的なものに到達する。」(198頁)

 このアドルノの展開は、存在を、思考の内にとらえられた存在と、とらえられない〈あるもの〉との二種類と捉えることで、その意味が開示されてきます。存在するものは単にそれであるより以上のものである、という場合、「それ」は思考のうちにとらえられた存在のことです。だからより以上とは、思考によって外から押し付けられものではなく、逆に存在の中から思考によって追い出された〈あるもの〉のことなのですね。だから、存在と思考との関係を普通のように思考の側から見るのではなく、存在の方から見てみると、この関係のうちで非同一的なものとは、事物を同一化する思考の力に逆らって事物自身に同一性があり、それがたえず思考によってとらえられた事物の中から追い出されることで成立するとみなせるのですね。
 こうして、対象にとって最も深い内面は、実は思考のうちにとらえられた対象にとっては、外的なものとなってしまいますね。そこでアドルノはあくまでも個別的なものにこだわって思考すれば、個別的なものを代表すると称する普遍者にではなくて、個別的なもののうちに思考のうちにあるものと、その外にあるものとの統一が見出されると主張しています。そして、この統一を見出しうる契機が布置(星座)なんですね。
「こういう一致をもたらす契機は、『否定の否定』などなくとも、まして抽象を最高原理としてそれに身を委ねたりしなくても、なくなるわけではない。それは、いくつかの概念から段階を追って、さらに普遍的な概念へと進むのではなく、それらの概念が布置関係の中に置かれることで生きてゆく。この布置関係のもとでは、分類的やり方にとってはどうでもいいもの、ないし厄介者にすぎない対象の特質が照らし出される。」(199頁)

 ここでアドルノは思考による抽象作用や、構成的綜合作用や分類といった思考の論理にとってはどうでもよいもの、あるいは捉えられない厄介者としてある対象の特質について述べています。そして、その特質は対象についての色々な概念が布置関係(星座を想像して下さい)の中に置かれたことで見えてくる、というのです。この布置関係についてのモデルを、アドルノは言語の働きに求めています。
「このことをよく示すモデルは、言語の働きである。言語は、さまざまな認識の機能のための単なる記号体系を提供しているのではない。言語が本質的に言語として現れるところ、すなわちそれが叙述となる場合、言語はその叙述に用いられる諸概念をいちいち定義しない。言語は幾つかの概念をある事物のまわりに集めて互いに関係づけ、その関係を通じてそれらに客観性を与える。これによって言語は、思ったことを完全に表現したいという概念の志向に仕える。概念がその内部でとうに切り捨ててしまったもの、概念がそれでありたいと思いながら、なることができないこの『概念以上のもの』はただ布置関係によって、外から表すしかない。認識されるべき事物のまわりにさまざまな概念が集められると、それによってこれらの概念は潜在的に事物の内面を規定することになり、思考が必然的に自分の内から排除したものを、思考しつつ獲得することになる。」(199頁)

 アドルノの念頭に置いている布置関係は、存在の様式のことであり、これと思考の論理との非同一性ということを出発点にして存在の様式に、思考がその本性としてもつ同一性を否定し、その様式に慣らされていく、という様子を描くことを試みるためのツールとして提出されているように私には思われます。そうであれば、言語の働きをモデルにするのはよくないですね。というのも、言語は意識の形態ですから、それ自体思考に属しています。実際アドルノは「認識されるべき事物のまわりにさまざまな概念が集められる」と述べていますが、言語の場合、概念を集めるのは思考なのですね。
 アドルノが布置関係のモデルに価値形態をおけば、議論はずいぶん異なったものとなったでしょう。そうすれば、布置関係とは、対象そのものの矛盾がつくり出す現象形態であることが判明するでしょう。この価値形態論を布置関係とみる見方からすれば、アドルノの提起をさらに発展させることができるのではないでしょうか。
「客観は、それが置かれている布置の意識でもあるモナド論的固執に対して自己を開く。つまり内面への沈潜が可能となるには、あの外面が必要である。だが、個別的なもののそういう内在的普遍性は、蓄積された歴史として客観的なものである。この歴史は個物の内にあるとともにその外にもあり、個物を包括して、その中に個物を位置づけるものである。事物がおかれている布置関係を感知するということは、生成したものとして個物が自己の内に担っているものを解読するのと同じことなのだ。外面と内面の離存ということ自体が、歴史的に制約されている。対象の内に累積した歴史を解放できるのは、対象の歴史的位置価すらも、その対象の他の諸対象との関係の中にまざまざと記憶しているような知だけである。いわばそれは、すでに知られているものの現在化と集中化である。既知のものは、それによって変貌する。対象をその布置関係において認識することは、対象が自己の内に蓄積している過程を認識することである。理論的思想は、こうした布置として自分が聞きたいと思う概念を取り囲むのである。」(200~1頁)

 ここでアドルノは、「事物が置かれている布置関係を感知するということは、生成したものとして個物が自己の内に担っているものを解読するのと同じことなのだ」と述べていますが、これは具体的事物に則して展開されていないから分かり難いですね。
 例えば、この生成した個物を貨幣と想定して見ましょう。そうすると、貨幣が内に担っているものとは、さしあたり購買力ですが、これを解読しようとすれば、商品の価値形態という布置関係を感知し、これを解明しなければならないでしょう。商品の価値形態にあっては、商品の内なるものとしての価値は、その外としてある使用価値との統一がお互いに対立物へとわかれ反照しあう現象形態を生成させているのですね。そして等価形態にある商品は、その使用価値が形態規定されて価値の化身となり、こうして、その使用価値がそのまま購買力をもつのでした。アドルノは、明確にしてはいませんが、外面と内面との離存とは、関係として存立するのであり、かつこの関係は内的なものの現象形態なのですね。これは実は本質と現象との関係ですね。ヘーゲルによれば、本質は現象するのですが、アドルノは、第16項目、本質と現象、でヘーゲルの本質論の批判を試みています。

2)存在の概念性


 本質と現象について、アドルノは、本質はもはやヘーゲルのように純粋に精神的な「自体存在」として実体化できないとしつつも、他方でそれを事実の下に隠されたものとみなす考え方に対しては、その本質は非本質的なものだと述べています。なぜなら、この世界自体が人間をずたずたにし脅かすような、そういう世界ですから、その下に隠されているとされる本質も非道なものに他ならないというのです。ではアドルノにとっての本質とはどのようなものでしょうか。
「本質なるものは、存在者とそれが自らそうあると主張するものとの矛盾を介してのみ認識される。もちろん、いわゆる事実と違って、この認識もまた直接的なものではなく、概念的なものである。けれども、こうした概念性は、単なる『人為的なもの』ではない。つまり、その中に主観は結局自己自身の確証を見出すにすぎないような認識主観の所産ではない。そうではなく、この概念性は、たとえその把握が主観によるものであっても、概念的に把握された世界は主観自身の世界ではなくて、むしろ主観に敵対するものである、という事実をいいあらわしている。」(205頁)

 アドルノはここで、存在するものの概念的構造について述べようとしています。でも布置関係と同様に事態に則して述べられていないので、やはり分かり難いですね。では、ここでも商品を例にとってみましょう。
 商品の価値形態は、価値を等価商品の使用価値で表現させますが、このことは同時に、価値の大 いさをも等価商品の使用価値で表しているのですね。だから商品所有者は商品価値の現象形態については何も知らなくとも自分の商品の価値がいくらか、ということは、商品を交換関係におくことで知ることができますね。この時、商品の価値形態はどのような機能を果したのでしょうか。
 ある商品の価値がいくらかということを決定しているのですが、それは商品所有者の思考に頼らず、商品相互の関係による決定です。ということは、ある商品が等価形態に置いた商品を価値としては自分と同じものであるとみなすと同時に等しい価値に相当する分量を選択しているのですね。
 商品の価値形態は、あたかも思考がそうするように、分析して価値という抽象的なものをとり出し、次にそれの量的規定を行って価値の大いさについての判断を提示しているのですね。これは価値形態が概念性をもっている、ということに他なりません。アドルノも言うように、「こうした概念性は単なる人為的なものではない」のですね。アドルノはこのあとヘーゲル本質論の批判にこだわっていますが、それは放っておきましょう。
 次の項目、客観性による媒介、でアドルノは、主観的だとみなされていることも実は客観によって用意されたものにすぎない、ということに注目しています。
「こうなると本質と現象、概念と事物との媒介もまた元のままではなくなる。かってはそれは客観のうちの主観性の契機だったが、もうそういうものと見なすことはできない。さまざまな事実を媒介するものは、それらを前もって形成し把握する主観的メカニズムというよりも、主観が経験できるものの背後にある、主観にとって他律的な客観性である。」(209頁)

 存在そのものが概念的であるとすれば、人間の主観性も、実はこの客観性に媒介されそれに支配されるのではないか、というのがここでのアドルノの提起です。というのも今日の人々の判断は、あまりに主観的すぎる、と言われている場合でも、「全員の合意」を自動的に復唱しているにすぎないからです。
「目下、個々の主観の内では客観化されたものが優勢を占め、個々の主観が主観となることを妨げているが、それは、また客観的なものの認識をも妨げている。これが、かって『主観的ファクター』と呼ばれたもののなれの果てである。今日では、媒介されているのは客観性というよりも、むしろ主観性の方である。そして、こういう媒介こそ、従来の媒介よりももっと緊急に分析する必要があるのである。
 今や、この客観性の媒介が主観的な媒介メカニズムの中に伸びてきて、すべての主観が――超越論的主観すらもが――その中に組み込まれている。さまざまなデータが注文通りに知覚されるように取り計らっているものは、この前主観的秩序であり、この秩序そのものが、認識論にとって構成する主観性にほかならない主観性を、本質的に構成しているのである。」(209~10頁)

 主体的判断だと考えられている事柄が、実は客観性としてある前主観的秩序によって構成されている、というアドルノの考え方は、物象による意志支配のメカニズムを解くことで始めて一般化できるでしょう。アドルノのこの場での展開にとどまるならば、それは文学的、芸術的な批評か、精神分析に救いを求めるか、ということにならざるを得ないでしょう。でも、せっかくアドルノが切り拓いた地平を批評や精神分析にまかせてしまうのはいかにも残念です。アドルノが言いたかったことを、文化知の観点から補足してみましょう。
 すでに私は、アドルノが布置関係のモデルに言語の働きをもってきたことに意義をとなえ、これを商品の価値形態に置き換えてみました。そうすることで事物の内面と外面との関係を価値の現象形態へと展開し、そうすることで、存在の様式と思考の論理とのちかいについて、具体的に例示することができました。
 次に本質と現象との関係について、アドルノがヘーゲル本質論の批判を提起することを通して、思考の概念性とは別の存在の様式の概念性について明らかにしようとしている作業に、商品の価値形態という客観的なものが、思考と異型ではあるものの、同じ概念的様式をもつことを付け加えておきました。これらをふまえて、商品という物象による意志支配のメカニズムがここで明らかにされねばなりません。
 商品が概念的存在であると言っても、それは人間主体と切り離されたままではそうはなりません。そもそも、商品とは人間の社会性ですから、それは人間主体と切り離されたものとしては存在しようがないのですね。アドルノの内と外の比喩を借りるなら、商品の内は人間性であり、外は物性でした。だから、商品の概念性とは、商品としての物性的なものの布置関係が概念性をもっているのですね。そして、この概念性は、商品所有者が、この布置関係に意志を宿すことで概念となるのでした。
 商品をこのような人間の社会性と捉える見地から、商品世界からの貨幣の生成が顧みられなければなりません。商品所有者は、誰でも自分の商品で他の商品が買えたらいいと考えますよね。自分の商品が貨幣であれば、こんな楽なことはない。ところが、全ての商品所有者がそのように行動すれば、どの商品も貨幣になれず、従って、商品世界は交換不能の世界となってしまいます。ところが商品の価値形態は、単一の商品で他の全ての商品が自分の価値を表現すれば、他の全ての商品がこの単一の商品で買えることになり、そのことで商品世界は統一的な秩序を保つことができるということを示しているのでした。この布置関係に商品所有者が自分の意志を宿したとき、貨幣が生成されます。このような関係にあっては、主体である商品所有者の判断は、主体の前にある客体の布置関係の概念性に支配されたものとなっていきますね。

3)物象化と物神性


 アドルノは、客観性による媒介の項で、執拗にへーゲル弁証法の批判を行っていますが、物象による人格の意志支配の様式をとり出すことができれば、ヘーゲル批判にはそれほど重きを置かなくてもよいでしょう。ということで、次にアドルノが重視している客観の優位という問題に移りましょう。
 主観と客観との関係について、アドルノは第19項目、主観=客観の弁証法について、で展開していますが、その結論は「認識論的反省の歩みは、その支配的傾向からすれば、客観性に関してはそれを次第に主観へと還元する歩みだった。だが、まさにこの傾向こそ逆転されるべきなのではあるまいか」(216頁)ということでした。そして、客観は主観になりえないが、主観は客観に十分なりうる、とする支配的傾向がなかなか覆されなかったのは何故でしょうか。アドルノはそれを客観がもつ魔力に求めています。
「主観は、その支配権の行使にあたって、ヘーゲルの『主人』と同様に、自分が支配していると思っているものによって、ある面で打ち負かされる。客観を根絶しようとすると、主観はますます客観に従順にならざるを得ないということは、このヘーゲルの『主人』のうちによく示されている。主観は客観を自分の魔力の内に封じ込めたと思っているが、その主観のなすことすべてが、実は自分が封じ込めたと錯覚している客観の魔力のなせる業なのである。主観の絶望的な自己誇大化は、おのれの無力さの経験に対する反動であり、それが自己省察の妨げになる。つまり絶対的意識は、おのれを意識していない。」(220頁)

 このように、客観の魔力について述べているアドルノは、しかし、その魔力の中味については明らかにしていません。それはせいぜい主観の魔力の批判という否定的な形で展開されているにすぎません。でも、この客観の魔力の中味こそ、商品という物象による人格の意志支配、つまり物象化が必然的に人間の頭の中に生み出す物神性のことなのですね。
 物象による人格の意志支配がどのような観念形態を人々の頭の中に発生させるか。価値形態論の最後のツメとして、この問題をとりあげましょう。商品の価値形態は等価商品を価値の化身とすることで、この等価商品の商品体そのものに購買力という社会的力を付与します。この社会的力は、商品の価値関係の内部でだけ生じているものなのですが、しかし、価値の現象形態は人間の感性にとっては捉えられず、そこにあるものは二つの商品体の関係だけですから、商品に意志を宿した商品所有者にとっては、この購買力が物としての商品それ自体にそなわっているように見えます。
 例えば、貨幣商品金は、全ての商品が金で価値を表現する、という商品所有者の無意識のうちでの本能的共同行為にもとづいて、一般的購買力という社会的力をもつのですが、これが、人間の観念のなかでは、金という素材自身に購買力があるかのように見えるのですね。ところが、アドルノは、商品の物神的性格や、物象化について言及しているのですが、一寸ずれています。
「経済の優勢な力は、けっして恒常不変なものではないからである。とにかく思考は、物象化の解体、つまり商品的性格の解体によって万事が解決すると安易に想像しがちである。だが物象化そのものは、間違った客観性の反省形態である。そして、意識形態である物象化を理論の中心に置くことは、支配的な意識や集団的無意識が批判理論を観念論的に受け入れることを可能にする。……
 物象化について声を大にして歎くだけでは、、人間を苦しめている当の体制を告発するどころか、いつしかそれを滑り越えてしまう。災いは、人間を無力で無感動なものに貶めている諸関係、それもやはり人間によって変革されるべき諸関係のなかにあり、第一次的に人間のなかに、それらの諸関係が人間に現象する仕方のなかにあるのではない。」(23~3頁)

 ここでアドルノが言及している「物象化」の原語が、本当に「物象化」なのか、あるいは「物化」なのか、調べる余裕は今はありません。しかし、この文脈では、アドルノは明らかにこの「物象化」を「物化」という意味で用いています。というのも、マルクスにあっては、物象化とは、人間の意識に現象する当の客体的な諸関係のことであり、それが、物化として意識されるから、物神性論が成立していたのでした。ここでのアドルノの提起を物化についてさわぎたてたルカーチへの批判として読む限りでは否定すべきものはありません。でも「物象化そのものは、間違った客観性の反省形態である」としてしまうと、せっかくアドルノが客観の優位を主張し、それを思考の外から捉えようとしている当の〈あるもの〉を見失ってしまいます。物象の人格化と人格の物象化こそは、客観的諸関係そのもののことなのですね。なお、物象化と物化との区別がマルクスの価値形態論解読の前提であることについては『価値形態・物象化・物神性』を参照してください。




Date:  2006/1/5
Section: アドルノ「否定弁証法」に学ぶ
The URL for this article is: http://www.office-ebara.org/modules/xfsection05/article.php?articleid=26