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哲学の旅第7回 アドルノ『否定弁証法』に学ぶ 第2章


哲学の旅第7回 アドルノ『否定弁証法』に学ぶ 第2章


はじめに
第1章 否定弁証法の前提
 1)ハイデガー批判のポイント 2)思考と存在との非同一性 3)既成の根源哲学への批判
第2章 否定弁証法の概要
 1)思考に反する思考 2)思考の論理を崩壊させる
第3章 ヘーゲルのカテゴリーの批判
 1)同一性 2)思考の自己反省 3)矛盾の客観性4)否定弁証法の概念
第4章 否定弁証法を超えて
 1)布置関係としての価値形態 2)存在の概念性 3)物象化と物神性
第5章 補論
 1)清水多吉のアドルノ論

第2章 否定弁証法の概要


1)思考に反する思考


 アドルノは否定弁証法の概要について、次のように述べることから始めています。
「ある点で弁証法的論理学は、これを排撃する実証主義よりももっと実証的である。弁証法的論理学は思考でありながら、思考さるべき当の対象が思考規則に従わない場合においてさえ、対象の方を尊重するからである。対象の分析は思考規則に影響を及ぼす。思考は、けっしておのれ自身の法則性に自足していてはならない。思考は自己自身を放棄することなしに、自己自身に反して思考することができる。もし弁証法というものが定義できるとしたら、これはそういう定義の一つとして提案しなければなるまい。」(171頁)

 これはまさに金言ではないでしょうか。よくぞ言ってくれましたね、アドルノさん。アドルノほどの人物がこのように言っているのに、この提案に共鳴して仕事をした人は居るのでしょうか。
 弁証法的論理学は、実証主義よりももっと実証的だ、ということはよく言われていることですね。弁証法は具体的なものをそれに則して把握しようとするわけですから、その限りで、単なる実証主義よりも実証的でなければまやかしになってしまいます。でもアドルノが言いたかったのは、対象が思考の規則に従わない場合のことだったのですね。この場合に、アドルノは思考の規則に影響が及び、思考が思考としてありつつも、自分自身に反して思考できるようなものとして、否定弁証法を提案しているのですね。ひきつづいて、アドルノの言うところを聞いてみましょう。
「思考の武器は、けっして持って生まれたままのものにとどまりはしない。それ以上に、思考は自分の論理的要求の全体性が眩惑でしかないことを見破るに十分能力すら具えている。一方で主観性は、事実的なものを前提とし、他方で客観性は、主観を前提とするということは、一見したところ許し難い矛盾のように見えるが、それはただこうした眩惑にとってのみ、すなわち理由と帰結の関係の実体化にとってのみ許し難いものなのである。だが理由と帰結の関係は主観的原理であって、客体の経験はこれに従うとは限らない。」(171~2頁)

 ここではアドルノは完全にカントの超越論的仮象論と、それをふまえた自然の合目的性論に依拠しています。カントによれば、理由と帰結の関係は悟性の法則であって、人間は自然について思考するとき、あたかもこの悟性の法則が自然そのものに内属するかのように仮定して思考するのでした。だからアドルノの言うように、この自然法則は主観的原理で、客体の経験はこれに従うとは限らない、という考え方は、カントの哲学の応用なんですね。そして、ヘーゲルは、理由と帰結の関係を実体化することで思考の論理的要求の全体性が眩惑であることに目を閉ざしていたのです。つづいて、アドルノは述べています。
「弁証法とは、哲学的なやり方としては、狡知という古くからある啓蒙主義の手管を使って、パラドクスの結び目を解こうとする試みである。パラドクスがキルケゴール以後、弁証法の形態としては衰微したのは偶然ではない。弁証法的理性というものは、自然の連関と、論理的法則の主観的重圧の中に生き続けているこの連関の眩惑とを、それに理性の支配を押し付けることなしに超え出たい、すなわち犠牲も報復もなしにそれを超え出たいという衝動に衝き動かされている。」(172頁)

 アドルノのこの衝動については、私も共有していますが、問題はこれを弁証法として規則化できるかどうか、ということなんですね。ここでアドルノが述べていることは、私にとっては、カントの超越論的仮象の発見による理性批判の立場から、ヘーゲルの弁証法をひっくり返そうとする試みのように見えます。でも結果が全てですね。いまはアドルノの取組みに期待をもって見守るしかありません。否定弁証法の概要を述べた一連の文の最後の部分に移りましょう。
「先の理性自身の本質も、敵対関係を含む社会と同様に生成したものであり、移ろい行くものである。無論この敵対関係は、苦しみと同様、社会だけに限った現象ではない。それでも弁証法は普遍的説明原理として自然にまで拡張されてはならないし、社会内の弁証法的真理とそれに無関係な真理という二種の真理を並立させてはならない。学問の分類になぞらえた社会的存在と非社会的存在との分離は、他律的な歴史の中には、眼に見えない自然的野生性が永久に生き続けているという事実を覆いあざむくのである。」(172頁)

 ここでアドルノは、弁証法を自然の説明原理にまで拡張してはならないと述べながらも、二種類の真理を並立させることを否定しています。というのも、自然的なものと社会的なものの分離は、人間の社会の歴史のうちに「眼に見えない自然的野性」が永久に生き続けているという事実を覆い隠してしまうというのです。このアドルノの指摘は読みようによっては、マルクスが価値形態論で展開した形態規定のことについて言及しているように思われますが、ここではこう述べておくにとどめましょう。
 「こういう弁証法は、否定的である。この否定弁証法という発想によって、ヘーゲルとの差異が名指しされている。」アドルノはこの第4項目「無矛盾性は実体化できない」を閉じるにあたって、先の否定弁証法の概要をふまえて、ヘーゲル弁証法の概括的批判に移っています。それを要約してみましょう。
 アドルノによれば、へーゲルにあっては、同一性と実定性とはひとつのことでした。だから非同一的なものと客観的なものとを「精神」へと格上げされた主観性のうちにすべて封じ込めれば、それで宥和が生み出されることになったのですね。でもアドルノは、この考え方に反対します。というのも、全ての個別的規定の内に働いている全体の力としての思考は、単にこの個別的規定の否定であるだけでなく、それ自身が否定的なもの、真でないものでもあるからです。
「もし存在者が全部そっくり精神から導出されるとなると、この命とりな宿命として、精神は、自分とはまったく相容れないものと思っているこの単なる存在者同然のものとなるほかはない。もしそうでもしなければ精神と存在者とは一致することはない。ほかならぬ、この飽くことを知らない同一性の原理こそ、異論を唱える者を弾圧することによって敵対関係を永遠化している当のものである。自分と同じでないものは一切容認しない者は、実は宥和を妨げているくせに、自分こそ宥和だと勘違いしている。何もかも同じにしてしまうこの暴挙は、自分が除去するところの異論を再生産しているのである。」(178頁)

 アドルノの頭の中には、ヘーゲルとともにハイデガーの顔が浮かんでいたことでしょう。ヘーゲルの同一性の弁証法に対してこのように拒否したアドルノは、第6項目の「崩壊の論理」で、ヘーゲル弁証法と対比する形で否定弁証法の特徴について述べています。次にそれを見てみましょう。

2)思考の論理を崩壊させる


「へーゲルと決別しなければならない理由は、今もこうして矛盾が全体を捉えており、けっして彼の綱領通り特殊な矛盾として解消されていないことを考えれば、明白である。カント的な形式と内容の分離の批判者として、ヘーゲルは内容と分離しうる形式、事物と独立に適用されるような方法を持たない哲学を欲した。しかしそれでいて彼のやり方は、方法的だった。だが実際は、弁証法は方法に尽きるものでも、素朴な意味での実在でもない。それが方法でないというのは、思考が自分なりに何とかつじつまを合わせようと努める、あの同一性をまったく欠いたまだ宥和に達しない事態は、矛盾に満ちていて、統一的に解釈しようとするあらゆる試みに抵抗するからである。弁証法へとわれわれを誘うものは、この矛盾に満ちた事態であって、思考の持つ組織欲ではない。また弁証法が単に実在的なものでないというのは、矛盾性は反省のカテゴリーであり、思考しながら概念と事物とを突き合わせることだからである。主体的態度としての弁証法とは、いったん事態のうちに矛盾を経験したら、その矛盾のために、それにあれこれ異論を唱えながら、思考することを意味する。もし矛盾が現実の中にあれば、弁証法はこの現実に対する異論となる。」(176~7頁)

 アドルノによれば、矛盾は事態の方にあり、そして、思考が事態に矛盾を認めたら、思考は思考しながら概念と事態とを突き合わせることが問われるのですね。ヘーゲルの場合は、この概念と事物が、つまり、内容と形式が分離しないような方法、つまり双方を思考の運動ということで統一したのですね。でもアドルノによれば、ヘーゲルの弁証法は方法的だというのです。それは事物の方を概念の方に同化してしまう、という意味でそうなんでしょうね。だからアドルノは事物の矛盾の方に思考を同化しようとしているのですね。
 そしてそうすることは、矛盾をこの社会のうちにあると見たら、弁証はこの社会に対する異論となる、ということとなって現われるのですね。
「だが、こういう弁証法はもはやヘーゲルと手を組むことはできない。この弁証法の運動は、個々の対象とそれらの概念との差異の中に同一性を求めようとするものではない。それどころか、この弁証法は同一的なものを疑ってかかっている。この弁証法の論理は、崩壊の論理である。すなわち、認識主観がさしあたりすぐ直面している諸概念の整然と組織され、対象化された姿が崩壊する論理である。これらの諸概念の主観との同一性は、偽り〔非真理〕である。この偽りとともに、現象に対する主観の先行的形式作用の方が現象のうちに非同一的成分、つまり『とるに足りない局面』よりも優先した地歩を占めることになる。」(177頁)

 アドルノがここで「崩壊する論理」というとき、いったん思考のうちで組み立てられた体系的な論理を崩壊させていくのが否定弁証法だと言いたいのですね。アドルノによれば、この崩壊する以前の論理は偽りであり、それは個物をとるに足りないものと見て、非同一的成分としての〈あるもの〉を切り捨てているのですね。
 では既存の体系を崩壊させるにはどうすればよいのでしょうか。それは先には〈あるもの〉、非同一性を弁証法の前提におくこととされていましたが、ここでは、崩壊する以前の論理によれば「一見無矛盾に見える個別的規定のおのおのが実は矛盾に満ちていることが明らかになる」(177頁)というところに求められています。
「全体性の総体の展開のうちにその分裂と偽りをも証示しうる人、こういう人だけが観念論の呪縛圏を超え出ているのである。純粋な同一性などというものは、主観が措定したもの、その限りにおいて外から持ち込まれたものである。それゆえ、この同一性を内在的に批判するということは、逆説的な話だが、それを外から批判することでもある。主体は、、これまで、自分が非同一的なものに加えてきた犯行の償いをしなければならない。それによってはじめて主体は、自分が絶対的な自立存在であるという仮象から自由になる。それはこの仮象そのものが、自分の造り出した種や類のサンプルへと事物を引き下げれば引き下げるほど、ますます主観的付加物のない自立存立そのものを持つことになると錯覚している、同一化する思考の産物だからである。」(178頁)

 ヘーゲル弁証法の批判としては、非常に鋭く、かつ説得力がありますね。ヘーゲルは非同一的なものに対して外から(思考の方から)純粋な同一性をもちこみ、〈あるもの〉を無視する、という形で、非同一的なものを同一化したのですね。そして、こういう犯行を犯すことによって、主体は、絶対精神、つまりは絶対的な自立存在であると宣言できたのですね。
 このヘーゲルの概念のお城は、しかし、逆立ちしていたのですね。もし、思考にとってそれと非同一的な存在を〈あるもの〉として措定し、思考がこの自らと非同一的なものに向き合って、思考の論理を崩壊させていけば、このヘーゲルの概念のお城は、錯覚であることが判明します。でも、アドルノは、強調してはいませんが、カントなら、この錯覚は、思考が同一化しようとする本性を内属させている以上、思考につきものの錯覚で、思考する限りはそう見えてしまう、と付け加えるでしょうが。




Date:  2006/1/5
Section: アドルノ「否定弁証法」に学ぶ
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