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哲学の旅 カント研究序説 第4章


哲学の旅 カント研究序説 第4章


第1章 カントの根本思想の復権
 1)ゲーテから出発 2)カントの根本思想 3)ドイツ観念論とは別の途を
第2章 エンゲルスの科学的世界観
 4)哲学の根本問題 5)カント批判 6)自然の弁証法
第3章 ヘーゲルのカント批判の再検討
 7)主観から客観へ 8)超越論的仮象 9)弁証法の威力 10)絶対的他者、外の主体の弁証法
第4章 マルクスの弁証法
 11)コーヒーブレイク 12)ヘーゲル批判 13)ヘーゲルの弁証の転倒 14)科学的世界観を超えて文化知へ
第5章 カントの遺産
 15)補足のために 16)不可知論、懐疑論の克服 17)観念論を批判する現実主義者 18)リアリストとしてのカント 19)けなげなカント

第4章 マルクスの弁証法


11) コーヒーブレイク


 レヴィナス論を書いている最中のことでした。一応前半部分を書き上げて、後半に予定していたレヴィナスの言語論を準備していく過程で、言語のフェティシズム批判をすべく、プラトンのクラテュラスからと考えて、色々資料をあさっていました。他方で、エンデの「『モモ』を読む」を書きおえてゲーテにも関心が向いていました。そんなとき、たまたま『純粋理性批判』の中巻を開くと、カントが私のなかに飛び込んできたのです。
 カントの超越論的仮象論は、私が構想していた言語のフェティシズム批判と問題意識を共有していると実感したとき、気になったのは、私がそれまで知る限りでのカント研究書からは、そのようなメッセージを聞いたことがなかったことでした。それからは図書館でカントの研究書を点検する作業に入りました。要するに、超越論的仮象論をカントの根本思想として捉えている研究書を探したわけです。
 やや近い考えが石川文康『カントはこう考えた』(筑摩書房)で展開されていました。そして同じ著者の『カント入門』(ちくま叢書)があることも知りました。しかししばらくは入手できず、(新書じゃ仕方がないのじゃないか、という気持ちもありました)相変らず落ち着かない日々をすごしていたのですが、たまたま『カント入門』を購入する機会があり、その『純粋理性批判』のところを一気に読みました。そして非常にうれしくなりました。
 カント研究という分野での全くの素人が、いくら問題意識が鮮明だからといって、突然カントから読み取ったメッセージについて、研究者の誰もが関心を寄せていなかったとしたら、これは一寸困ったことになります。単なる読み間違いという可能性が大きいからです。もちろん読み間違いについては専門の研究者もしばしば起こしていることで、それ自体は恥ではないのですが、でも読み間違いでないとしても、誰も気づいていないことについて発言するのは大変です。
 石川さんの『カント入門』は新書でありながら、従来のカント解釈を一新しようという気迫にあふれたすばらしい本でした。そして、石川さんの一連の著作から、アンチノミーをカントの根本思想としてとりあげた研究者はほとんどいず、日本では石川さんが最初であることを知ったのです。また、新カント派のコーヘンが何故アンチノミーを取り上げなかったのかについても別の本で論評があって、これは非常に助かりました。
 石川さんによって、超越論的仮象を批判する超越論的弁証論が、実はカントの根本思想であったことが見事に証明されていますので、私にとっては、この作業もしなくてもよいことになり、そして、カント研究と名づけながら、実はドイツ観念論、特にヘーゲル批判と、それと共にエンゲルスの科学的世界観の批判へと向うことになったのです。ということで、カントの根本思想については、ぜひ石川さんの『カント入門』を参照して下さい。

12)ヘーゲル批判


 私にとってカント研究は、この序説のみで終わりそうです。それで、以降の作業につなげていくために、マルクスの経済学批判序説から関連するところを引用し、解説しておきます。
 マスクスは経済学の方法について、社会の具体的な総体を分析していくつかの規定的な抽象的関係を発見していく研究者の歩みを振り返りつつ、しかし、経済学の体系をつくる際の科学的に正しい方法は、労働や分業や欲望や交換価値のような簡単なものから、国家や諸国民間の交換や世界市場にまでのぼっていく、いわゆる上向法に求めています。そのうえで、ヘーゲルを念頭において次のように述べています。
「具体的なものが具体的であるのは、それが多くの規定の総括だからであり、したがってまた直観や表象の出発点であるにもかかわらず、思考では総括の過程として、結果として現われ、出発点としては現われないのである。第一の道では、交錯した表象が蒸発させられて抽象的な規定にされた。第二の道では、抽象的な諸規定は、思考の道を通って、具体的なものの再生産になっていく。それゆえヘーゲルは、実在的なものを、自分のうちに自分を総括し、自分のうちに沈潜し、自分自身から運動する思考の結果としてとらえるという幻想におちいったのであるが、しかし、抽象的なものから具体的なものにのぼっていくという方法は、ただ、具体的なものをわがものとし、それを一つの精神的に具体的なものとして再生産するという思考のための仕方でしかないのである。しかしそれは、けっして具体的なものそのものの成立過程ではない。」(『経済学批判』国民文庫、295頁)

 ドイツ観念論によるカント批判の限界を明らかにし、カントの超越論的仮象論を復権した今、このマルクスの叙述は示唆に富んでいます。ヘーゲルが概念の自己運動を客観であると主張したとき、マルクスはそれを「幻想」だと指摘しています。マルクスは、まさにここで、人間の認識したものが主観的なものでありながら客観的なもののように見える、というカントの超越論的仮象論の見地に立っています。
 そして、思考の産物としての具体的なものと、思考の外にある具体的なものとは異なることを強調しています。ひきつづき、マルクスの叙述を引用していきましょう。先の引用文につづいてマルクスは次のように述べています。
「たとえば最も簡単な経済学的範疇、たとえば交換価値は、人口を、すなわち一定の諸関係のなかで生産をしている人口を前提する。またある種類の家族とか共同体とか国家とかをも前提する。交換価値は、一つのすでに与えられている具体的な生きている全体の抽象的な一面的は関係としてよりほかには、けっして存在しえないのである。これに反して、範疇としては、交換価値はノアの大洪水以前からの定在をもっている。それゆえ意識にとっては――そして哲学的意識は、それにとっては概念する思考が現実の人間であり、したがって概念された世界そのものがはじめて現実的なものであるというように規定されている――諸範疇の運動が現実の生産行為――残念なことにはそれは外界から刺激だけを受けるのだが――として現われるのであり、その行為の結果が世界なのである。そして、このことは――といってもこれもまた同義反復ではあるが――具体的な総体が思考された総体としては、一つの思考された具体物としては、実際に思考の産物であり、概念作用の産物であるかぎりでは、正しい。しかしそれは、けっして、直観や表象の外または上にあって思考し自分自身を生み出す概念の産物ではなく、直観や表象の概念への加工の産物である。思考された全体として頭の中に現われる全体は、思考する頭の産物である。この思考する頭は、自分にとって可能なただ一つの仕方で世界をわがものにするのであって、この仕方は、この世界を芸術的に、宗教的に、実践的・精神的にわがものとするのとは違った仕方なのである。実在する主体は相変らず頭の外でその独立性を保っている。(頭の外で)というのは、頭がただ思弁的に、ただ理論的にのみふるまっているあいだのことであるが。
 それゆえ、理論的方法にあっても、主体は、社会は、前提としていつでも表象に浮かんでいなければならないのである。」(『経済学批判』国民文庫版、294~6頁)

 マルクスはここで、カントの超越論的仮象論の見地をふまえ、そこからさらに進んで、この仮象が何故生じるかについて具体例を引いて明らかにしています。カントの場合、認識という主観的なものが客観的なものに見えるという仮象の発見にとどまり、何故そのような仮象が成立するかということについては考察しませんでした。その代わりに、カントは仮象論をバネにして、認識の領域から実践の領域へと場を移したのでした。
 マルクスは、交換価値を例にして、商品の交換価値は、それを論じる時の人口や家族や共同体や国家とかを前提にし、従って、それは「一つのすでにあたえられている具体的な生きている全体の抽象的な一面的な関係としてよりほかには、けっして存在しえない」にもかかわらず、カテゴリーとしては交換価値が商品交換が始まった太古の時代からずっと存在しつづけていることに注目しています。
 だから、意識、とりわけ哲学的意識にとっては、交換価値というカテゴリーやその他のカテゴリーを組み合わせていくことが現実の生産行為の形成であるかのように現われ、この意識の行為の結果として世界が現実のものとなるように現われるのだとマルクスは指摘しています。というのも、哲学的意識は、人間は思考することで現実の人間となり、そして、世界を思考によって認識することで世界が概念化されることを、世界の現実化と捉えているからです。
 もっとも、この哲学的意識は、この思考によって得られた世界についての概念が思考の産物であるという限りでは誤りはおかしていないのですが、しかしこの思考の産物を直観や表象の上位にあって思考し、したがって思考が自分自身を生み出す、という流儀でなされる限りでは、誤りに陥っていくのです。
 こうして、マルクスは、カントのいう超越論的仮象を克服する方法として「直観や表象の概念への加工」という方法を提案し、実在する主体としての人間は、理論的に思考している自分の頭の外でその独立性を保っていることに注意をうながしています。つまり、「理論的方法にあっても、主体は、社会は、前提としていつでも表象に浮かんでいなければならない」であって、たえず頭の中の思考が外界とは切り離された形で勝手に自己を回転させてしまうことを警戒しなければならないのです。

13)ヘーゲルの弁証の転倒


 マルクスの経済学の方法を見る限りで、エンゲルスのように存在と認識との一致を真理とみなす思想はありません。そこにあったのは、認識がたえず、客観のように見えてしまうので、思考する際には、直観や表象の概念への加工ということが必要であり、意識の外の存在にたえず注意を払わなければならないことを強調していたのです。
 さて、本稿を準備する時点では全然考えていなかったことですが、書いているうちに、ヘーゲルの弁証法をひっくり返すという問題にまで行き着いてしまいました。そこで、ゆきがかり上、マルクスのこの提案について検討しておきましょう。すこし長くなりますが『資本論』第二版への後書きを引用しておきましょう。
「もちろん叙述の仕方は、形式的には、研究の仕方と区別されねばならない。研究は、材料を 仔細にわがものとし、それの相異なる発展諸形態を分析し、それらの形態の内的素紐帯を探り出さなければならない。この仕事は成就されたのち、はじめて現実的運動が照応的に叙述されうる。これが成功すれば、そして今や材料の生命が観念的に反映すれば、あたかも超越論的な構成物を相手とするもののように見えるかも知れない。
 私の弁証法的方法は、根本的にヘーゲルのそれと相異するばかりでなく、それと正反対のものである。ヘーゲルによっては、彼が理念という名称を附して自立的主体に転化さえした思惟過程が、それの外的現象たるにすぎぬ現実的なものの創造者である。私にあっては、反対に、観念的なものは、人間の頭の中で転変され翻訳された物質的なものに他ならない。
 へーゲルの弁証法の神秘的な側面は、私がほぼ30年前、それがまだ流行していた時代に批判した。
 ところが、ちょうど私が『資本論』第一巻を仕上げていたとき、教養あるドイツで今をときめく腹立たしい僭越で凡庸な亜流主義は、あたかも、けなげなモーゼス・メンデルスゾーンがレッシング時代にスピノザを取扱ったように、すなわち『死せる犬』としてヘーゲルを取扱って得意であった。だから私は、私がかの偉大な思想家の弟子であることを公言して、価値理論にかんする章のここかしこで彼独自の表現様式に媚びを呈しさえした。弁証法がヘーゲルの手でこうむっている神秘化は、彼が弁証法の一般的な運動諸形態を初めて包括的かつ意識的な仕方で叙述したということを、けっして妨げない。弁証法は、彼にあっては逆立ちしている。ひとは、合理的核心を神秘的外被のうちに発見するために、それをひっくり返さなければならない。
 その神秘化された形態では、弁証法がドイツの流行となった。というのは、こうした弁証法は、現存するものを神々しくするように見えたからである。その合理的な姿態では、弁証法は、ブルジョア階級およびその理論的代弁者たちにとり一つの痛憤事であり、恐怖物である。というのは、こうした弁証法は、現存するものの肯定的理解のうちに、同時にまた、それの否定の・それの必然的な崩壊の・理解をも含み、どの生成せる形態をも運動の流れにおいて・したがってまたそれの無常的な側面から・理解し、何によっても畏伏させられず、その本質上、批判的かつ革命的だからである。」(『資本論』角川文庫版、第1分冊、29~31頁)

 マルクスは『資本論』で用いられた方法が、いろいろと相互に矛盾した解釈をされていて、ほとんど理解されていないと述べた後、ペテルベルグの『ヴェストンク・エヴロープィ』誌に載せられた『資本論』の方法だけを取扱った論文が、マルクスの研究方法は厳密に現実主義的だが叙述の方法としての弁証法がドイツ的に悪い意味での観念論であると述べていることを紹介し、その論文を長々と引用したあと、このように述べたのでした。
 マルクスはへーゲルが思考(思惟)過程を理念と名づけ、これを自立的主体と見なして、客観的なものは、この理念の外的現象にすぎず、従って、思考(観念)こそが客観的なものに現実性を与えるとしていることに対し、人間の主体(人間の思考の外にあるもの)や社会や自然といった客観的なものが、人間の頭のなかで転変されて翻訳されたものとして思考過程を捉えるというものでした。
 そして、ヘーゲルの弁証法の神秘的外被をその転倒によってはぎとり、その合理的核心を取り出すことができれば、その弁証法は、現存するものの肯定的理解のうちに、同時にまた、それの否定の、それの必然的な崩壊の理解を含む革命的な方法となる、とマルクスは述べています。
 でも、今日の時点で考えると、このひっくり返し方は、言葉足らずだったように思われます。というのも、マルクスがその弁証法が最も鋭く適用されていると自称している『資本論』初版の価値形態論で、マルクスは、実は、商品世界という超感性的な現象形態を対象として分析し、叙述したのでした。そのことで、マルクスは、人間の社会が、個々の人間の観念や、また言語や法やイデオロギーのような社会的意識の諸形態といった、観念的なものを含んでいるだけでなく、人間の社会的関係それ自体が超感性的現象形態をもち、従って、観念的なものが物質的なものに取り付いていることを明らかにしたのでした。このマルクス自身の到達点を踏まえると、「私にあっては、反対に、観念的なものは、人間の頭のなかで転変され翻訳された物質的なものに他ならない」とするだけでは不充分だということが判明します。このことを明らかにするため、まず、マルクスが肯定的に引用している『ヴェストニク・エヴロープィ』誌からの引用文を検討してみましょう。

14) 科学的世界観を超えて文化知へ


 私は、かねがね、この引用文とマルクスの方法との間に違和感をもっていました。というのも、この引用文の見解は、エンゲルスの見解につながっていくような科学的世界観にもとづいているという気がしていたからです。まず引用文は、マルクスにとって重要なことは諸現象の法則を発見することだと述べたあと、それが一つの完成された系のなかで、一定の時期に当てはめる法則だけではないことに注目して、次のように述べています。
「彼にとってなお何よりも重要なのは、諸現象の変動の・諸現象の発展の・法則、すなわち、一つの形態から他の形態への・関連の一つの秩序から他の秩序への・移行の法則である。」(27頁)

 このような現象の発展法則の理解は、引用文の最後の部分にある次の叙述と重ね合わせられると、違和感が増大してきます。
「かかる探求の科学的価値は、ある与えられた社会有機体の発生・生存・発展・死滅、および、より高等な他の有機体による元の有機体の交替を規制するところの、特殊的な諸法則を解明することにある。」(29頁)

 マルクスが生きていた時代、まだ科学的世界観の限界が露呈していなかったときなら、このような見解も許容されたかも知れません。でも今日では、このような社会発展法則論は、人間主体の実践という契機を切り捨てたものであって、ヘーゲル主義の裏返しに陥っていることは明らかです。では、エンゲルスに始まり、スターリンによって定式化されたと見てよい社会発展法則という死んだ抽象的図式、ソ連共産党による人民支配のためのイデオロギーと転化したこのような思想の批判は、どこから手をつければよいのでしょうか。それは何よりも、法則観を検討することから始められねばならないでしょう。引用文から、法則観が表明されている部分を描き出してみましょう。
「マルクスは社会の運動を、諸法則――すなわち、人々の意志・意識および意図を規定する諸法則――によって支配される一つの自然史的な過程と考える。」(28頁)

 ここで述べられている「人々の意志・意識および意図を規定する諸法則」について、具体的に商品の価値法則で検討してみましょう。人々は自分が作った商品の価格を勝手につけることはできませんが、その際の意志の支配のされ方は、人々が自分の作った商品に自分の意志をおき入れ貨幣生成の無意識のうちでの本能的共同行為に参加するという実践の帰結でした。このような意志支配の様式は、自然法則に従うこととは本質的に異なっています。自然法則ならば、それを解明することで、それの利用が可能となりますが、社会的な法則の場合には、物象化や物神性が生じてきて、法則を認識すること自体が物象の人格化という仮象によって妨げられます。とすれば、合理的弁証法はこの人格の物象化と物象の人格化という現実がもたらす物神性という物がもつ仮象を暴露するところにまで進まなければならないのです。
 そのためには何が必要でしょうか。第一にカントの超越論的仮象論を、存在と意識とが相互に絶対的他者であることの発見として受けとめ、ヘーゲルによるカントの物自体への批判を退けることです。これによって、科学的世界観が土台としている存在と認識との一致を真理とみなす考え方を克服することができます。
 第二に、存在と意識に分けるとき、存在には客体だけでなく、人間の主体も含まれているということです。ヘーゲルは、意識を客体と主体とを媒介する関係として捉えましたが、そこからさらに進んで、主体も、意識からすれば客体としてあることが認められるべきなのです。
 第三に、存在と意識との間に絶対的他性を認めることが、不可知論に陥るものではなく、逆に、合理的認識の大前提であり、従って、存在の論理(人間の主体の存在も含め)と認識の論理とは異なることを承認することです。このことは、存在を非合理的なものと考えることではなく、存在自体の合理的あり方は、思考の論理の合理的あり方とは同型ではない、ということだけであって、私たちは存在自体の合理的あり方を了解できるのです。これはレヴィナスの対話の哲学の延長に展開されるべき課題でしょう。
 第四に、人間の主体を個人にではなく「外の主体」として、実践的には協同主体として措定することです。ヘーゲル弁証法の転倒は、協同主体を措定するという作業のなかで具体化されるのかも知れません。




Date:  2006/1/5
Section: カント研究序説
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