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哲学の旅 カント研究序説 第2章


哲学の旅 カント研究序説 第2章


第1章 カントの根本思想の復権
 1)ゲーテから出発 2)カントの根本思想 3)ドイツ観念論とは別の途を
第2章 エンゲルスの科学的世界観
 4)哲学の根本問題 5)カント批判 6)自然の弁証法
第3章 ヘーゲルのカント批判の再検討
 7)主観から客観へ 8)超越論的仮象 9)弁証法の威力 10)絶対的他者、外の主体の弁証法
第4章 マルクスの弁証法
 11)コーヒーブレイク 12)ヘーゲル批判 13)ヘーゲルの弁証の転倒 14)科学的世界観を超えて文化知へ
第5章 カントの遺産
 15)補足のために 16)不可知論、懐疑論の克服 17)観念論を批判する現実主義者 18)リアリストとしてのカント 19)けなげなカント

第2章 エンゲルスの科学的世界観


4)哲学の根本問題


 エンゲルスの『フォイエルバッハ論』(国民文庫)は1950年代末の学生運動の活動家にとっては、マルクスの『共産党宣言』や『賃労働と資本』、レーニンの『何をなすべきか』や『国家と革命』とともに学習指定文献とされていました。いま読み返してみますと、後にスターリンがマルクス主義の世界観を弁証法的唯物論と史的唯物論というようにまとめたその基礎を提供しているように見えます。
 エンゲルスはこの本で主として、フォイエルバッハについて論じているのですが、その際、ヘーゲルの弁証法を、フォイエルバッハの理解に抗して救い出そうとしています。もっともこの評価は、ヘーゲルの弁証法そのものではなく、その逆立ちを直したエンゲルスがよりどころにしている弁証法についてですが、エンゲルスは次のように述べています。
 「ヘーゲル哲学(われわれはここではカント以来の全運動の完結としてのヘーゲル哲学に限らなければならないが)の真の意義およびその革命的性格は、じつにその哲学が、人間の思惟と行為とのあらゆる成果の究極的妥当性にたいして、一挙にそのとどめをさしたところにある。… 真理は、いまや、認識の過程そのもののなかに、横たわっていた。」(『フォイエルバッハ論』国民文庫、13頁)エンゲルスは、ヘーゲルの弁証法をそれまでの哲学が求めてきた究極的に妥当する絶対的真理を否定するものと捉え、ヘーゲル哲学が一切のものを生成と消滅との不断の過程と見、低いものから高いものへの限りない上昇過程より以外には何ものも存立しない、と見ているとみなしています。そして、エンゲルスは、ヘーゲルを超えて、この「過程の思惟する脳髄における、たんなる反映が、すなわちこの哲学なのである。」(14頁)と評価するのです。つまりエンゲルスは、頭で立っているヘーゲルの弁証法をひっくり返し、それを科学の方法として位置づけようとしているのです。
「われわれは、このような道によっても、またいずれの個人によっても到達し得ないような『絶対的真理』などはほうっておいて、そのかわりに実証的諸科学の道により、また、これら諸科学の成果を弁証法的思惟で総括する道によって、われわれの到達しうる相対的な真理を狩りもとめる。」(18頁)

 個別科学の諸成果を総括するための弁証法的思惟、これがエンゲルスの弁証法の捉え方であり、ヘーゲルが自然を絶対的理念の「外化」と捉えたことの逆転だ、というわけです。このようなエンゲルスの考え方は、「いっさいの哲学の根本問題」として提出されている次の二つの問題提起とかかわっています。
 エンゲルスは第一に「思惟と存在との関係いかんの問題」を提起し、これをどちらが根源的か、というように整理して、思惟を根源的と見るのが観念論で、存在(自然)を根源的だとみるものを唯物論と規定しました。
 第二に、「思惟と存在との同一性の問題」を提起し、この同一性は哲学者の圧倒的多数によって肯定されていると述べています。
 この捉え方は、どこかおかしいと思いませんか。そうです。エンゲルスは、ここで人間の自我、主体を思惟と同じものとみなしてしまっているのです。だから、観念論の捉え方も全く誤っています。観念論の哲学が問題としてきたのは、自我(主体)と思惟(思考、つまり、感性、悟性、理性)と存在(対象)との関係の問題でした。エンゲルスが天才的スケッチと評しているマルクスのフォイエルバッハに関するテーゼの第一項冒頭は、次の一文から始まっています。
「これまでのすべての唯物論――フォイエルバッハもその数にいれて――の主要欠陥は、対象が、現実性が、感性が、ただ客体あるいは直感の形式のもとにのみ把握されていて、人間的、感性的な活動、実践としては把握されず、主体的には把握されずにいることである。これがために、この活動する側面は唯物論からではなしに、かえって反対に観念論のほうから展開させられるというようなことになった。――しかしただ抽象的にであった。というのは、いうまでもなく観念論は現実的・感性的な活動をこうした活動として知っているものではないからである。」(79頁)

 エンゲルスが、哲学の根本思想を「思惟と存在との関係いかん」と捉えたとき、人間の主体を存在から切り離してしまい、結果として対象を人間的・感性的活動と捉える視点を失っています。私たちは、マルクスとともに「エンゲルスもその数にいれて」それまでの唯物論欠陥をかかえている、と見なさざるを得ません。
 観念論が失敗するのは、思惟を単に自我との関係で規定しようとしたがために、人間的・感性的な活動、人間の社会的な実践、分業や労働や交換や商品や貨幣や資本などを具体的に解明できなかったところにあります。

5)カント批判


 エンゲルスの根本問題は、実はカントが超越論的弁証論で考察したアンチノミーですね。カントの見地からすれば、思惟と存在とどちらが根源的か、とか、思惟と存在とは同一か異なるか、といった問は、超越論的な問であって、テーゼもアンチテーゼも同等に成立するのでした。だから、こういう問を立てて、存在の根源性を確認し、ついで、思惟と存在の同一性を主張すること自体、カントにとってはナンセンスの極みでしょう。
 ところで博学なエンゲルスは、当然にもカントのアンチノミーについて知っています。それで、カントの立場に対して、次のように批判しています。
「あの人々(ヒュームとカントを指す)にかぎらず他のいずれの哲学者の妄想にたいしても、そのもっとも痛烈な反駁は実践であり、すなわち実験と産業とである。もしもわれわれが、ある自然的事象そのものを、われわれみずからでつくり、それをその諸条件から発生させ、のみならずさらに、これをわれわれの目的に役立たせることによって、そうした自然事象にかんするわれわれの認識のただしさを証明することができるならば、カントが不可認識的だとする『物自体』もなくなってしまう。」(27~8頁)

 カントは自説が不可知論だとは考えていませんでした。彼は、人間の理性の自然的本性が、人間の認識内容に対してそれが対象そのものの属性であるかのように思い込まれてしまう超越論的仮象をあばくために、現象を人間の意識の圏に属するものと捉え、そして、この現象を生じさせる要因としての物自体を想定して、人間の認識がこの物自体には到達していないことを示したのでした。だから、カントにとっては、真理は、物自体を知ることではなかったのです。
 ところが、ドイツ観念論の流れは、物自体の認識はどうして可能かを追求しました。つまり、カントが意識の圏の外部に絶対的他者として立てた物自体を意識の圏になんとかして取込もうとしたのです。後で詳しく見るように、ヘーゲルは「外化」の論理でそれをなしとげ、エンゲルスは、自然界の物質を化学的に合成できるようになればその物質は物自体ではない、と述べたのでした。でもアリザニンの化学式がわかり、それが合成されるようになったとしても、それはやはり意識の圏からは他者としてとどまり続けています。だから、エンゲルスのカント批判は、思惟と存在との一致という命題から演繹されたものにすぎず、決して意識の外にある物から帰納的に証明されたものではありません。実際、カントは人間がつくれるものは、人間の意識の圏に取込まれたものだと考えていました。だから、カントにとってアリザニンは、単に超越論的仮象を生む物自体ではなくなった、ということに他なりません。

6)自然の弁証法


 こうしてみると、エンゲルスは、カントの超越論的仮象論での警告を無視して、認識が客観に属するとする科学的世界観を主張したのだという結論になりそうです。エンゲルスは『自然の弁証法』で存在の法則と思考の法則とは一致していると主張し、その法則を弁証法に求めていますが、そうすることで自然科学的世界観に同意したうえで、さらにその方法を社会科学にも適用しようとしたのでした。
 エンゲルスは、フォイエルバッハの唯物論に欠落し、そしてマルクスが選択した方法として「社会の科学を、すなわち、いわゆる歴史的および哲学的なる諸科学の総体を、唯物論なる基礎と調和させ、この基礎のうえに再建すること」(35頁)をあげていますが、このような認識は弁証法についての次のような把握にもとづいているのです。
「われわれは、現実の事物を絶対概念のあれこれの段階の模像として把握した。これによって弁証法は、運動の――外部の世界の運動でもあり、人間の思惟の運動でもあるところの一つの運動の――一般的法則にかんする学にまで還元されたのである。」(54頁)

 ここでは、エンゲルスは、存在としてある対象がそのまま思惟に反映するかのように考えています。
 ところで、エンゲルスは、自分の考えの歴史的性格について自覚していたようです。というのも、自分の考えを、科学が発達していく時代、何ものも不断に上昇していける時代の思惟として捉えていたふしがあるからです。エンゲルスはヘーゲル哲学の上昇指向を歴史的制約とみていますが、その際、次のように述べているのです。
「それはまた、人類の歴史にたいしても、たんに登り道だけでなく、降り道のあることもみとめるものである。だが、とにかく、われわれは、社会の歴史がそこから下降しはじめる別れ目からは、なおかなりへだたっている。」(15頁)

 エンゲルスがこう書いてから、113年しかたっていません。にもかかわらず、科学技術の発達を土台にしてきた今日の社会システムは明らかに下降局面に入っています。とすれば、エンゲルスの科学的世界観が上昇局面の反映、その世界の思考への反映であったとみなし、その反映論の限界を明らかにするとともに、科学的世界観そのものの批判をなしとげることが問われているのではないでしょうか。




Date:  2006/1/5
Section: カント研究序説
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