office-ebara
indeximage

「マルクスの基本定理」および「一般化された商品搾取定理」の誤り――アナリティカル・マルキシズム批判―― 小澤勝徳


「マルクスの基本定理」および「一般化された商品搾取定理」の誤り
――アナリティカル・マルキシズム批判――





小澤勝徳

(要旨)

 アナリティカル・マルキシズムの誤りは実に単純です。

 商品の第一の条件はその使用価値であり、どのような商品もあれこれの具体的な有用物です。生産の素材的側面をみるかぎり、投入と産出は素材的、技術的に規定されたたんなる物量的な関係です。その素材的要因を離れてどのような有用物も生産されることはありません。たとえば、1トンの鉄を産出しようとすれば、物質量として1トン分の鉄原子を含んだ化合物を投入しなければなりません。数理経済学が主張するように、財がそれ自身で剰余をつくりだす、つまり0.8トンの鉄投入から1トンの鉄が生産されることは現実には成立しません。

 置塩、森嶋の「マルクスの基本定理」、さらにまた、ボウルズ=ギンタスの「一般化された商品搾取定理」は、はじめから数式として成立しまん。それは純然たる虚構の産物です。置塩が提出した価値方程式そのものが素材的に成立しないからです。それは生産の素材的要因を無視した「投入より産出のほうが大きい」という投入と産出の架空の数量関係でしかありません。


 数理経済学が強調する「純生産可能条件」と呼ばれる剰余の概念が誤っているのです。たしかに経済に剰余が存在することは、再生産が可能であり、社会が存立していくための必要な条件です。しかし、剰余とは、年々生産された生産物の一部分のことであって、投入に対する産出の増大をあらわす概念ではありません。

 この剰余が、再生産が可能であるような投入・産出の数量関係として扱われると、誤った剰余概念に転化します。つまり、「投入されたものより、より多くのものが産出される」という素材的には決して成立しない架空の投入・産出の数量関係が生まれます。この誤った剰余の概念が、置塩・森嶋の「マルクスの基本定理」や「一般化された商品搾取定理」、すなわち、数式をもちいて投入・産出の物量体系から価値を規定しようとするすべての試みの秘密です。

 たしかに「一般化された商品搾取定理」は、置塩・森嶋の「マルクスの基本定理」が無意味であることを示しましたが、それは投入・産出の数量関係から商品の価値を論じようとする自らの数理経済学そのものが成立し
ないことを示しているのであって、マルクスの労働価値説が成立しないことを示しているのではありません。

 数理経済学は、ただ商品の価値と使用価値を混同させるため構想された架空の経済学です。数理経済学の世界に一旦入ってしまうとその世界で自己完結してしまい、事実が事実としてみえなくなってしまう、それだけのことです。

はじめに

 置塩、森嶋の「マルクスの基本定理」、ボウルズ=ギンタスの「一般化された商品搾取定理」、さらに近年影響力を強めているアナリティカル・マルキシズムなどの数理経済学、すなわち再生産が可能であるような投入と産出の物量相互の関係から価値を論じようとする試みは、はじめから数式として成立しない。それはただ投入より産出のほうが大きいという「投入・産出の架空の数量関係」を論じたものにほかならない。なぜなら、素材的にみれば投入と産出の双方にあらわれる素材的物質はつねに同一であるからだ。生産要素として投入される有用物は生産・加工され別の有用物に変形され、その価値は増大するが、物質的な要素として増大することはない。投入された以上のものが物質的に産出されることはない。

 生産の素材的側面をみるかぎり、投入と産出は素材的、技術的に規定されたたんなる物量的な関係である。その素材的、物量的関係を離れてどのような有用物も生産されることはない。自動車を10000台生産しようとすれば、その素材的、技術的条件にしたがって10000台分の部品、材料を投入しなければならない。ICチップを100万個生産しようとすれば、それに必要なシリコンウエハーやガリウム、ヒ素などの生産要素を投入しなければならない。1トンの鉄を産出しようとすれば、その物質量として1トン分の鉄原子を含んだ化合物を投入しなければならない。アナリティカル・マルキシズムが想定するように「投入より、より多くのものが産出される」、たとえば鉄0.8トンの投入から1トンの鉄が生産されることは、素材的には成立しない。

 これらの数学的議論の前提におかれている「純生産可能条件」と呼ばれる剰余の概念が誤っているのである。「経済体系が生産的であるという条件を満足しなければならない」と、数理経済学は強調する。たしかに経済に剰余が存在することは、再生産が可能であり、社会が存立していくための必要な条件である。だが、剰余とは、年々生産された生産物の一部分のことであって、投入に対する産出の増大をあらわす概念ではない。この剰余が、数理経済学によって再生産が可能であるような投入・産出の数量関係として扱われると、別の剰余概念に転化する。すなわち、「投入されたものより、より多くのものが(物量的に)産出される」という素材的には決して成立しない投入・産出の架空の数量関係が生まれる。この誤った剰余の概念が、数式をもちいて投入・産出の物量体系から価値を規定しようとする数理学的方法の基礎にある。

(1)「一般化された商品搾取定理」とは何か

 70年代以降、数理経済学的方法をもちいてマルクス問題を解く。その中心にあったのは、置塩、森嶋による「マルクスの基本定理」である。「マルクスの基本定理」は「利潤率が正であるためには、必ず剰余価値率が正でなければならない」、「利潤が存在する必要十分条件は労働の搾取が存在することである」ことを数学的に論証しようとした。置塩が提出した投入係数をもちいた投入と産出の価値方程式が、マルクスの労働価値説とされ、サミュエルソンやスティードマンなどの新古典派経済学者もこの議論に参加した。

 異質労働を同質労働に還元する問題、熟練労働と非熟練労働の問題、あるいは結合生産と技術選択を取り扱う場合には深刻な問題につきあたる等々と議論され、マルクスの労働価値説には大きな難点があるとされた。

 80年代にボウルズ=ギンタスが提示した「一般化された商品搾取定理」によれば、「マルクスの基本定理」が労働力以外の任意の商品について成り立つとされている。たとえば、労働の代わりに鉄を価値の尺度として、すべての商品の鉄価値を計算する。鉄1トンの生産に直接・間接に必要とされる鉄(鉄の鉄価値)が1トンよりも少ないとき(これをこの数理経済学は、鉄が「搾取されている」と呼ぶ)、必ず利潤が存在することが証明される。

 そこでアナリティカル・マルキシズムは次のように主張する。「利潤が存在するのは、労働の搾取が存在するからだ、というマルクスの主張は成立しない。」「利潤の源泉としての労働の搾取、という考えは成り立たない。」「マルクス主義の経済分析に労働価値はいらない。」「労働の搾取が利潤を説明するというのは間違っている」ということになる。

「『一般化された商品搾取定理』において言及される『鉄の搾取』とは、単に鉄の1単位生産の為に直接・間接に投入される鉄の総量が1よりも小さいと言う事を搾取と呼んでいるだけで、そこに『搾取』という用語に特有の意味はない。したがって『マルクスの基本定理』、すなわち正の労働搾取率と正の均等利潤率の同値性が言えるとき、同時に正の鉄の搾取率と正の均等利潤率の同値性も成立すると言う、『一般化された商品搾取定理』からもたらされる含意は、利潤の唯一の源泉は労働ではなく鉄の搾取であると言う事ではない。」(吉原直毅『榎原均「アナリティカル・マルキシズム」への疑問へのコメント』)
「『一般化された商品搾取定理』は、任意の商品kの1単位生産に直接・間接に投入される商品kの総量が1よりも小さい事と正の利潤の存在が同値である事を主張するが、この事は換言すれば正の剰余生産物の生産可能性が正の利潤の必要十分条件であるという極めて自明な結論を意味する。つまり、正の搾取の存在に関する議論は結局のところ、正の剰余生産物をいかなるニュメレール財で量るかという議論と論理的に同値になってしまうのである。したがって、『マルクスの基本定理』も『一般化された商品搾取定理』もいずれも正の利潤の源泉として何らかの生産要素の不公正な取り扱いの存在を論証するような議論とは全く無関係であると言うべきである。その意味で、置塩・森嶋流の『マルクスの基本定理』の試みは失敗であったと総括すべきである。」(吉原直毅 同上)

 このように「一般化された商品搾取定理」は置塩・森嶋の「マルクスの基本定理」が無意味であることを示した。たしかにアナリティカル・マルキシズムが主張するように、置塩・森嶋流の投入・産出の数量関係を前提とするかぎり、利潤の源泉をある特定の一生産要素の「搾取」によって説明する論理そのものが妥当性をもたないことは、当然といえる。だが、それはマルクスの労働価値説の無意味さを示しているのではなく、逆に、置塩・森嶋流の数理経済学に含まれている剰余概念の性格、投入・産出の数量関係の性格を明確に示している。

 置塩、森嶋などの数理経済学に前提されているのは、純生産可能条件と呼ばれる投入・産出の数量関係である。経済体系が「生産的である」こと、つまり再生産が可能であるように剰余が生まれる、「各財の生産に直接・間接に必要な各財の投入が産出よりも多くなってはならない」という純生産可能条件である。「生産よりも投入が多くなってはならない」という純生産可能条件から出発するかぎり、任意の商品について「マルクスの基本定理」が成り立つことは当然といえる。「任意の商品kの1単位生産に直接・間接に投入される商品kの総量が1よりも小さい事と正の利潤の存在が同値である」ということになる。

(2)「一般化された商品搾取定理」の本質1)

 置塩・森嶋の「マルクスの基本定理」、あるいはボウルズ=ギンタスの「一般化された商品搾取定理」の何が誤っているか。じつに単純な取り違え、錯覚である。生産の素材的側面をみれば、投入と産出の関係は素材的、技術的に規定された条件のもとで、たんに物量的に比例するだけである。投入された以上のものが産出されるわけではない。鉄を1トン産出しようとすれば、それに見合っただけの鉄鉱石とコークスを投入しなければならない。ICチップを100万個生産しようとすれば、それに見合ったシリコンウエハー、ガリウム、砒素などの生産要素を投入しなければならない。

 たしかに、投入された物は、加工・生産され別の有用物に変形されてその価値は増大するが、その素材的側面、物質的側面でその物的数量が増大することはない。投入・産出体系の中にあらわれる各財の物量をあらわすベクトルが増大することは素材的に成立しないのである。

 素材的にみて投入された以上のものが産出されることはない。鉄0.8トンの投入から1トンの鉄が産出されることは、現実にはありえない。その素材的要因、物量的な関係を無視してどのような有用物も生産されることはない。置塩や森嶋、あるいはボウルズ=ギンタスなどの数理経済学が想定するように、投入よりも、より多くの財が産出されるという投入・産出の数量関係は素材的に成立しないのである。1トンの鉄を産出しようとすれば、その物質量として1トン分の鉄原子を含んだ化合物を生産過程に投じなければならない。無から有が生まれることはないのである。

「『一般化された商品搾取定理』は、任意の商品kの1単位生産に直接・間接に投入される商品kの総量が1よりも小さい事と正の利潤の存在が同値である事を主張するが、この事は換言すれば正の剰余生産物の生産可能性が正の利潤の必要十分条件であるという極めて自明な結論を意味する。」(吉原直毅 同上)

 ここに置塩をはじめとする投入・産出の数理経済学的方法の本質が示されている。数理経済学にとって、剰余生産物の概念は、直接・間接に投入される総量よりも大きな生産物が物量的に生み出されることを意味する。つまり、 鉄1トンの生産に直接・間接に必要とされる鉄が1トンよりも少ないとき、正の剰余生産物が生まれるのである。これは生産の素材的要因を無視した考えである。数理経済学にとって、投入と産出の関係はあくまでも、素材的に規定されない抽象物の数量関係のことを意味する。純生産可能条件と呼ばれる剰余の概念、投入よりも産出のほうが多いという架空の投入・産出の数量関係、これが70年代以降「マルクスの基本定理」をめぐって議論され、そして「一般化された商品搾取定理」に結末を迎える議論――物量相互の関係から商品の価値を規定する議論――の本質である。

 マルクスが指摘したように商品は価値と使用価値の統一であり、しかも価値と使用価値のあいだには何の関係もない。商品の価値は純粋に社会的であり、人々の労働の社会的関連以外の何も含まれていない。その商品の価値に物の使用価値、素材的要因を結びつけようする試みは、逆に商品が素材的に規定された具体的な有用物であることを否定する。すなわち、投入と産出のあいだに素材的、技術的に規定された物量関係以上の数量関係を想定することになる。

 投入と産出のあいだに素材的、技術的に規定された物量関係以上の架空の数量関係を想定し、それを商品の価値や価格を論じるために用いる。そうすることによって商品の素材的要因とは何の関係もない価値にその素材的要因を結びつける。それはアナリティカル・マルキシズムだけでなく、新古典派経済学がこれまで繰り返し行ってきたことである。

(3)新古典派生産理論の誤り――投入・産出の形而上学

 ここで新古典派経済学について簡単にふれておきたい。新古典派経済学は「限界生産力理論」を展開するために、投入と産出のあいだに一定の「数量関係」を想定した生産関数を構想しているが、それはすべて素材的要因を無視した架空の数量関係である。たとえば「規模の収穫性」や「生産性」は、新古典派にとって投入に対する産出の増大をあらわす概念であるが、それははじめから素材的に成立しない。

「もしも収穫逓増の状態が広汎に見受けられたのであれば、投入や生産の規模の拡大は生産性の上昇をもたらしたといえよう。ここで生産性とは、投入の加重平均に対する産出合計の比率を算定したところの概念である。たとえば、もしも典型的な企業での投入が100パーセント増加し、その結果、産出が120パーセント拡大すれば、生産性(投入単位あたりの産出)は20パーセント上昇したということになるだろう。」(サミュエルソン『経済学』下p501)

 サミュエルソンは生産性を論じるため、投入と産出のあいだの物量相互の数量関連をもちだしているが、生産性は生産要素の投入増加にたいする産出増加の比率(投入単位あたりの産出)をあらわす概念ではない。たとえば、製鉄企業が生産プラントの大型化、コンピューター化などによって超大型高炉を高効率操業で実現したとき、生産性が向上して鉄の産出量が大幅に増加するが、それは投入増加にたいする産出のより多い増加をあらわしているのではない。鉄の産出量の増加に見合って鉄の生産に必要な鉄鉱石、コークスなどの生産要素の投入量も同じ比率で増加しているのである。

 鉄をつくるためには鉄鉱石から酸素を取り除かなければならない。その還元の化学反応メカニズムを離れて鉄が生産されることはない。サミュエルソンが主張するように「鉄鉱石の投入が100パーセント増加し、その結果、鉄の産出が120パーセント増加する」ということは物理的にありえないのである。産出量を増加させようと思えば、それに応じて投入量も増加させなければならない。物質量として鉄原子を含んだ化合物を120パーセント増加させる必要がある。投入と産出は素材的、技術的に規定されたたんなる物量的な関係であり、その関係を離れて産出量が増加することはない。

 生産がより生産的になるとは、新古典派が想定するように生産要素のより少ない投入からより多くのものが物量的に生産されることを意味するのではない。そのことが当てはまるのは、すべての生産要素のなかでただ一つの例外的な生産要素である労働の場合だけである。たとえば自動車工場で規模の拡大とともに製造ラインが高度化され生産性が向上し、生産台数が増加したとき、生産要素のなかでただ一つ労働の投入量だけが他の生産要素にたいして減少するるが、それ以外の生産要素はすべて産出量の増加に応じて増加する。自動車を1万台生産しようとすれば、それに見合った部品を投入しなければならないのである。

 特別の無駄や、浪費、歩留まりの悪さがない限り、産出量は投入量につねに物量的に比例する。投入量と産出量を問題にする限り、それらはつねに素材的・技術的に規定された物量的な比例関係である。新古典派が想定するように投入にたいして産出がより少なくなる、あるいはより多くなるという「収穫逓減」も「収穫逓増」も成立しない。投入と産出のあいだにその素材的要因を無視した「投入・産出の数量関係」を想定することは、それだけで誤っている*1

 新古典派生産理論の基礎におかれる「限界生産力」の概念も同じである。有用物を生産するために必要な生産要素のなかで、他の生産要素を不変にしたままである一つの生産要素だけを変化させるという概念操作そのものが形而上学的である。それは素材的に成り立たない。商品は価値物であるまえに具体的な有用物である。

 たとえば半導体ICチップを生産するためには多くの投入物、高度の技術と管理制御された多くの作業工程を必要とする。それは物理、化学、電気、電子、工学、機械、計測、情報処理などの技術と知識の応用であり、さらにミクロ単位の生産技術が要求される。この素材的、技術的条件を無視してICチップが生産されることはない。それどころか半導体ICの製造にあたっては、微量なゴミや金属、各種イオン、有機物などの不純物が存在することは許されない。形状不良、性能、信頼性低下の要因になるからである。

 生産物は抽象的な「ある物」、「ある財」ではなく、具体的な有用物である。その有用物をつくりだすには素材的、技術的に規定された生産要素と一連の生産工程が必要である。この素材的、技術的関係を無視して生産要素の投入比率や投入量を変化させることはできない。「限界」概念の基礎にある他の生産要素を不変にしたままである一つの生産要素の投入量だけを変化させる、あるいは生産要素の投入比率の組み合わせをさまざまに変える、という考えそのものが素材的に成立しない。新古典派は、シリコンウエハーの投入量や不純物である砒素やホウ素の投入量の比率を変えてもICが生産できるような架空の経済を構想しているのである。

 このような経済理論のなかでは、生産物は素材的に規定されない抽象物、「ある物」として存在する。具体的、素材的に規定されたさまざま生産要素の投入比率をかえてもなお生産物が生産される、あるいは投入より多くの物が物量的に産出されるという、およそ素材的、技術的条件を無視した生産物としてあらわれる。商品の価値に使用価値、その素材的要因を結びつけようとする試みは、逆に、商品が素材的に規定された具体的な有用物であることを否定するのである。

*1新古典派はすべての生産要素を同時に比例的に変化させたとき、産出量がどのように変化するかということを考え、その投入・産出の数量関係を「規模にかんする収穫性」と呼ぶ。いま新古典派にしたがって生産関数を
  y=f(x1,x2,x3,、、x )
とすると、生産要素x1,x2,x3,、、x の投入量をp倍したとき、産出量yがq倍になることは、
  qy=f(px1,px2,px3,、、pxn )
とあらわせる。p=qのとき、規模にかんして収穫不変、p>qのとき、規模にかんして収穫逓減、p<qのとき、規模にかんして収穫逓増である。
 新古典派は「規模にかんする収穫性」についてこのように主張するが、生産物は具体的な有用物であり、投入と産出のあいだには素材的、技術的に規定された物量的な数量関係しか存在しない。特別の不具合や歩留まりの悪さがない限り、産出量はつねに投入量に比例する。規模の拡大によって生産性が向上したときでも、産出量は素材的、技術的条件にしたがって、投入量の増大とともに同じ割合で増大するだけである。たとえば規模の拡大によって生産性が向上し、大量の半導体ICチップが生産されるようになったとき、産出量の増加に応じてICチップの生産に必要なシリコンウエハー、ガリウム、砒素などの生産要素の投入量も同じ割合で増加しているのである。
 このように規模の拡大によって収穫性が変化した場合でも、投入されたよりもより多くの、あるいはより少ない生産物が産出されることは素材的にありえない。p>qも p<qも成立しない。つねにp=qが成立する。(ただし、生産性が向上したとき、生産要素のなかでただ一つ労働の投入量だけが他の生産要素にたいして減少する。)

(4)置塩の価値方程式――「マルクスの基本定理」

 置塩信雄は、商品の生産に投下された「労働価値」を論じるために、社会的に標準的な条件のもとで投入係数を用いた連立方程式を考え、商品の価値はその解として決定されるとした。1単位の商品iを生産するのに投入しなければならない第j財の量をaji(i=1,2,・・・・・n)、直接に必要な労働をτとする。ajiはそれぞれの財の投入量をあらわす素材的に規定された技術係数である。さらに、1単位の商品iに直接・間接に投下されている労働量をtとすると、それは1単位の商品iを生産するために直接用いられる労働量と他の生産要素に投下されている労働量の合計に等しい。そこで次の方程式が成立する。

 ti=a1i t1+a2i t2+a3i t3+・・・・+ani t+τi  (i=1,2,・・・・・n) (1)

 置塩は、この連立方程式を解くことによって、1単位の商品iに投下されている労働量t、つまり各商品の「労働価値」、その財の生産に間接・直接に必要な労働量が決定されるとした*2

 (1)を行列であらわすと次のようになる。

  t=tA+τ    (2)

 さらに、(2)は次のように変形される。

  t(I-A)=τ   (2)'

 Aは投入係数ajiを成分とする行列であり、tは各財を生産するために、直接・間接に必要な労働量を要素とする行ベクトルt=(t1,t2,・・・t)、τは直接に投入される労働量を要素とする行ベクトルτ=(τ12,・・・τ)であり、Iは単位行列である。tAは投入する財の「投下労働価値」、すなわち「死んだ労働」をあらわし、τは「直接投入労働」、すなわち「生きた労働」をあらわす。この両者を加えたものが生産物の「労働価値」ということになる。

 価値方程式に前提されているのは、投入・産出の数量関係であり、この数量関係がどのようなものであるかは、純粋に技術的な投入係数である行列Aのもつ性質が示している。それは(2)'が有意味な解(t>0)をもつ条件であり、純生産可能条件を満たすことだとされている。数学的には、I-Aがホーキンス・サイモン条件を満たすことである。それはI-Aからつくられる首座小行列が正であることであり、このとき、(2)'はτ>0のもとでt>0が成り立つ。なお、これはレオンチェフの投入・産出分析における非負価格の条件をマルクスの価値体系に適用したものであり、それを最初に適応したのが置塩信雄であると、森嶋通夫は指摘している。

 純生産可能条件とは、経済体系が「生産的である」こと、再生産が可能であるように剰余が生まれること、つまり「生産よりも投入が多くなってはならない」という条件である。この条件がなければ、経済は縮小を続け、世の中が成り立たたないし、また、資本主義生産の存在が可能である利潤もなくなってしまうとみなされほど、数理経済学にとって重要視される条件である。

 純生産可能条件、すなわち剰余をともなって再生産が可能であるという条件は、数学的には次のようにあらわされる。

  x=Ax+y   (3)

 この式は再生産可能な投入と産出との物量関係をあらわしている。xは各財の総生産量をあらわす列ベクトル、yは各財の純生産量をあらわす列ベクトル、Aは先ほどみた各財の投入量をあらわす投入係数行列であり、純粋に技術的である。

 (3)は、次のように変形される。

  (I-A)x=y    (3)'

 ここで財の投入・産出関係を表すAが満たさなければならない条件は、「生産よりも投入が多くなってしまうことはない」、つまり「各財の生産に直接・間接に必要な各財の投入が産出よりも多くなってはならない」という純生産可能条件である。数学的には、x、yの各要素がゼロ以上で、少なくとも一つの要素が正であるように、つまり y>0 に対してx>0 が成り立つように投入係数行列Aが満たす条件である。それは先ほどみたことと同じようにI-Aがホーキンス・サイモン条件を満たすことであり、そのとき、x>0 かつ y>0 が成り立つことが数学的に示される。

 (3)' が有意味な解(x>0 かつ y>0)をもつ条件と、(2)'が有意味な解(t>0 かつ τ>0)をもつ条件は同値であり、それは純生産可能条件、数学的には行列I-Aがホーキンス・サイモン条件を満たすことである。

 この純生産可能条件、すなわち数学的には行列I-Aが満たすホーキンス・サイモン条件は、価値体系と価格体系を結びつける重要な役割を果たし、この条件のもとで「正の利潤の存在条件と正の剰余労働の存在条件が同値である」ことが数学的に示される。これが「マルクスの基本定理」である。置塩、森嶋の数理経済学、その価値体系、価格体系の基礎におかれているのはこの純生産可能条件であり、「マルクスの基本定理」もこの純生産可能条件、つまり「生産よりも投入が多くなってはならない」という投入・産出の数量関係のもとで成立する命題である。

*2置塩の価値方程式は、生産財生産部門と消費財生産部門に分けて論じているが、投入係数を利用した物的投入・産出の数量関係から価値を規定しようとする数理経済学的方法の本質は変わらない。

(5)「マルクスの基本定理」の誤り――誤った剰余の概念

 置塩・森嶋流の「マルクスの基本定理」に前提されている投入・産出の数理経済学的方法の本質はなにか。それは本当は何を論じたものであるか。その数理学的方法の基礎に据えられる純生産可能条件が、実際は何を意味しているか。そこに70年代以降「マルクスの基本定理」をめぐって議論され、そして「一般化された商品搾取定理」に結末を迎える議論の本質が存在する。

 (3)を変形すればよい。純生産可能であれば、y>0 であるので次式が成立する。

 x>Ax    ( ただし x>0 ) (4)

 (4) の不等式は何をあらわしているか。とくに素材的にみて何をあらわしているか。注意しなければならないのは(4)は素材的な物量関係をあらわす不等式であって、価値をあらわすものではないということである。xは各財の価値ではなく、物的な大きさをあらわす物量ベクトルである。そのxに投入係数行列を乗じたAxは各財の物的な投入量をあらわすベクトルである。(4)は、xが、Axよりつねに大きいことを示している。各財の物的な投入量Axから、よりいっそう多くの各財の物量xが産出されることを意味している。

 問題は、「剰余の存在」を、投入に対する産出の物量的な増大、投入・産出相互の数量関係と捉えている点にある。つまり8000個分の部品しか投入していないのに、10000個のICチップが産出されるような投入と産出の数量関係、0.8トンの鉄の生産に見合った鉄鉱石しか投入していないのに1トンの鉄が生産されるような投入・産出の数量関係が想定されていることである。簡単にいえば、「バナナ1単位生産するための直接・間接投下バナナ量が1より小さいこと」「鉄1トンの生産に直接・間接に必要とされる鉄(鉄の鉄価値)が1トンよりも少ないこと」を意味している。

 先にサミュエルソンが生産性の向上について、鉄鉱石を100%しか増加させていないのに、鉄が120%も増加するような架空の経済を論じていることをみた。新古典派にとって生産性の向上とは、投入にたいする産出の増大をあらわす概念である。それと同じように、ここでも投入・産出のあいだに素材的に規定された物量的な数量関係とは無縁の架空の経済が構想されている。数理経済学の投入・産出分析によれば、鉄が0.8トンしか投入されていないのに、1トンの鉄が産出されるのである。

 剰余生産物というのは、年々生産される生産物のうちで、人々の直接の消費に入らない部分をいう。生産された物がすべて消費されてしまえば、何も残らないことになる。消費されずに残った部分の多くは、次の生産の生産手段として機能する。この生産手段の蓄積は、資本主義社会のもとでは資本をあらわし、よりいっそう大きい生産力の物質的基礎である。

 年々生産される生産物のうちである一定部分が労働力の再生産のために消費される。逆にいえば、年々生産される生産物のうちで、人々によって直接消費されない部分が剰余としてあらわれる。これは生産された財の一部分である。この剰余が再生産可能であるような「純生産可能条件」として、つまり投入と産出の数量関係として、左辺と右辺を等値する連立方程式体系としてあらわされると、剰余は別の概念に転化する。素材的には決して成立しない投入・産出の数量関係――投入されたよりも大きな産出が得られるという架空の「投入・産出の数量関係」――が生まれる。なぜなら、この等式の両辺にあらわれる素材的要素は、ある投入係数を掛けることによって、必ず左辺のほうが大きくなるからである。

 剰余とは年々生産された生産物の一部分であり、数理経済学者が考えるような投入に対する産出の大きさをあらわす概念ではない。だが、この剰余が、投入にたいする産出の増大という投入・産出の数量関係として扱われ、理論の基礎に据えられる。置塩、森嶋、あるいはボウルズ=ギンタスなどの数理経済学者があつかう剰余とは、「投入に対してより多くの産出が得られる」という架空の投入・産出の数量関係のことを意味する。この剰余概念が投入と産出の物量関係から商品価値を、あるいは商品の価格を決定しようとするすべての数理学的方法の本質である。

 この形而上学的ともいえる剰余の概念、純生産可能条件と呼ばれる剰余の概念――「各財の生産に直接・間接に必要な各財の投入が産出よりも多くなってはならない」、つまり「投入よりも産出のほうが大きい」という剰余概念――が成り立つとき、経済体系は「生産的である」といわれる。これを数学的にあらわしたものがホーキンス・サイモンの条件であり、行列I-Aがこの条件を満たすとき、

  x>Ax  (ただし x>0)  (4)

という、素材的には決して成立しない架空の「投入・産出の数量関係」が成立する。投入係数行列Aは、投入される生産要素と産出される生産物の素材的、技術的に規定された純粋に物量的な関係をあらわしているとされているが、実際には物量相互の関係として素材的・技術的には決して成立しない「数量関係」、すなわち、より少ない投入からより多くのものが物量的に産出されるという形而上学的な「数量関係」をあらわしている*3

 ホーキンス・サイモン条件は、数学的には意味があることであっても、経済的には何の意味をもたない。それは投入・産出の架空の数量関係をあらわす数学的表現にすぎない。置塩、森嶋、ボウルズ=ギンタスなどの数理経済学があつかう投入・産出体系とは、このような架空の「投入・産出の数量関係」を論じたものにほかならない。

*3投入と産出のあいだに素材的、技術的に規定される物量関係以上の「数量関係」を想定する点では、レオンチェフ型の正方行列をもちいた投入・産出体系だけでなく、フォン・ノイマン型の矩形行列をもちいた投入・産出体系も同じである。

(6)「一般化された商品搾取定理」の本質2)

 労働1単位を提供した見返りに手にできる財に直接・間接投入されている労働との比較によって、提供した労働よりも受け取った労働の方が少ないことを示すことができる。労働力を再生産するために必要な労働量(生活手段などの財を生産するために必要な労働量)は、その労働力が生み出す労働の量を下回る。この差が「剰余労働」であり、「剰余価値」としてあらわれる。

 この剰余が、再生産可能であるような投入・産出の数量関係として扱われると、剰余の概念は別のものに転化する。つまり、より少ない投入からより多くのものが産出されるという投入・産出の形而上学に転化する。ある財を生産するために「直接・間接に必要されるその財の量」が「その財量」を下回るとき、「剰余」が生まれるという考えが必然的に出てくる。この剰余概念が、再生産が可能であるような純生産可能条件として、また、経済が成り立つための基本的な条件として、あらゆる財について適用され、置塩、森嶋などの数理経済学による投入・産出体系の前提に据えられる。

 こうした置塩理論の性格については、すでに1966年に村上泰亮が述べている。この村上の指摘のなかに、置塩、森嶋による「マルクスの基本定理」に前提されている数理学的方法の本質がうまく表現されている。

「置塩氏の定式化をみればわかるように、労働と他の通常の財とは形式的にはまったく同資格である。したがって、労働以外のある特定の財をとり、他の財の価値をその生産に直接・間接必要なかの特定財の量として定義すると、労働以外の財を規準とした投入価値説が得られる。このとき資本制生産の必要条件として、この特定財について剰余部分が生み出されることが要求される。」(村上泰亮『季刊 理論経済』第16巻第3号 インターネット「松尾匡のホームページ」の『用語解説:マルクスの基本定理』より)

 つまり、「資本制生産のための条件は、労働を含むすべての財について剰余部分が作り出されることである」ということになる。そこで「剰余」が生まれるのは労働だけではない。成長する経済、再生産が可能であるような経済においては労働だけではなく、すべての財について「剰余」がなければならないことになる。このように「剰余の概念」を考えると、「搾取」されているのは労働だけではない。またこの意味での「搾取」のない経済などというのは存在しないという考えが当然のものとして生まれてくる。これが「一般化された商品搾取定理」である。

 「搾取」は文字どおり「剰余生産物」の意味に解され、ついでこの剰余は「投入に対する産出の増大」という意味に解される。「1トンの鉄を生産するために必要な鉄の量が1トンを上回るようでは、経済が成立しない。もしそうであれば経済は縮小を続け、やがて消滅することになる。」このような素材的には決してありえない投入・産出の数量関係が、資本が利潤を獲得する条件として、また、この世が成立するための条件として、まことしやかに主張されるのである。より少ない投入からより多くのものが産出されるという投入・産出の形而上学、素材的には決してありえない投入・産出の数量関係が、70年代以降「マルクスの基本定理」をめぐって議論された数理経済学の本質である。

 置塩・森嶋の「マルクスの基本定理」は、正の利潤率の存在は労働の搾取にあること、正の利潤率の存在と正の剰余価値率の存在が必要十分条件であることを、投入係数をもちいた投入・産出体系によって数学的に示そうとした。だが、それは誤った剰余の概念、すなわち投入より産出が大きいという誤った数量関係のもとで成立する命題である。

 それゆえ、この誤った剰余の概念、投入より産出が大きいという誤った数量関係を前提とするかぎり、「一般化された商品搾取定理」が主張するように、労働だけでなく、あらゆる財について「マルクスの基本定理」が成立するという結論が必然的に導かれる。どのような商品であっても、その商品1単位の生産に直接・間接に投入されるその商品の総量が1よりも小さいとき正の利潤が確認される。正の剰余生産物の生産可能性と正の利潤は必要十分であることが数学的に示される。鉄の価値、バナナの価値、何でもよい。それは各財の価値を表現するためのにニュメレール財としてどの財を選ぶかという問題にすぎないということになる。

(7)「純生産可能条件」の誤り
   ――素材的要因を無視した架空の投入・産出関係

 「各財を1単位生産するために必要な各財が1より大であれば、純生産はマイナスであり、人間社会は貧しくなっていく。」「経済に剰余が存在することが必要である。」「体系が生産的であるという条件を満たさなければならない。」数理経済学はこの剰余条件をくり返し述べ、それは人間社会が成立するためになくてはならない必要な条件であり、純生産可能条件だと強調する。さらに、剰余価値率が正であることは、資本の利潤率が正であり、それはまた経済が成長することと同値である。資本主義経済での資本蓄積は剰余生産物の生産が可能であるかどうかということから説明できる等々、という。このような主張の根拠に据えられるのは、すべてこれまでみてきた誤った剰余の概念、投入より産出が大きいという架空の数量関係である。

 生産物は具体的なあれこれの有用物、使用価値である。どのような生産物であっても、投入と産出の関係をみる限り、それは素材的、技術的条件に規定されたたんなる物量的な比例関係である。鉄をxトン生産するためにはその見込まれた生産量に応じて投入される鉄鉱石、コークスなどの投入量は素材的、技術的に決まっている。溶鉱炉の大きさもそれに適した規模でなければならない。くず鉄などを再利用する場合も投入と産出のあいだの物量的な数量関係は同じである。xトンの鉄を産出しようとすれば、その物質量としてxトン分の鉄原子を含んだ化合物を生産過程に投じなければならないのである。

 小麦や野菜などの農産物についても同じである。小麦の種子からより多くの種子が生まれるから(たしかにその意味で剰余ということが許される場合もあるだろう)、少ない投入からより多くのものが産出されると考えることが、妥当にみえる。だが、この場合も投入されるのは、種子だけではない。小麦の生産には、土地、種子、肥料、水、太陽光、二酸化炭素などの生産要素が必要であり、植物に特有な生命化学反応により、同一の種子が増加する。肥料、水、太陽光、二酸化炭素などは光合成により、別の有用物である種子に変化するが、素材的にみれば、ここでも投入量と産出量はただ物量的に比例するだけである。生産要素として水、太陽光、二酸化炭素などが自然の恵みとして投入されていることは意識されていないが、その素材的要因をみるかぎり、物質的要素として、投入より多くのものが産出されることは物理的、化学的にありえない。

 鉄であっても、小麦、バナナ、自動車、ICチップであっても、すべての生産物はあれこれの具体的な有用物である。それをつくり出すには、それに応じた生産要素を投入しなければならない。どのようなものであっても、素材的にみた場合、投入・産出の数量関係はたんなる物量的な比例関係である。生産物として左辺にあらわれるものは、その素材的な生産要素として必ず右辺に含まれている。もちろん有用物は生産過程で、別の種類の有用物に加工・変形され、その価値は増大するが、素材的、物質的に有用物がそれ自身で増加することはない。

 置塩や森嶋、ボウルズ=ギンタスなどの数理経済学者が考えるように、それぞれの財が剰余をつくり出す、つまり、投入より多くの産出が素材的に得られることはありえないのである。「剰余の条件」と呼ばれる純生産可能条件は、まさに少ない投入からより多くの物が物量的に産出されることを意味している。決して素材的に成立しえない投入・産出の数量関係が数理経済学にとって、経済の本質的な条件とされるものである。

 各財を生産するために直接・間接に必要な労働量(あるいは各財の量)を未知数とし、投入・産出の連立方程式を解く数理学的方法、投入係数を用いて左辺と右辺を結びつけ、投入と産出の物量相互の関係から価値を規定しようとする方法、物量相互の関係を連立方程式として論じる方法は、そもそもはじめから等式として成立しない。置塩、森嶋などの数理経済学が論じる方程式体系そのものがうちに矛盾を含んでいる。なぜなら、素材的にみれば投入と産出の双方にあらわれる素材的物質はつねに同一であるからだ。生産要素として投入される有用物は生産・加工され別の有用物に変わるが、物質的な要素として変化することはない。物質的に投入された以上のものが産出されることはないのである。

 だが、価値としてみれば左辺にあらわれる有用物の方が大きい。生きた労働が付け加わえられるからである。商品の価値はその素材的要因、つまり、投入と産出の物量的な数量関係とは何の関係もない。それを投入と産出の物量的関係として左辺と右辺を結びつけ、再生産が可能であるような連立方程式を考えるから、そこに誤った投入・産出の数量関係が必然的に生まれるのである。

(8)価値と使用価値の混同
   ――素材的要因を価値に混入させる試み

 生産の素材的要因を無視した架空の投入・産出関係を構想するのは、なにも置塩・森嶋の数理経済学だけではない。新リカード学派の代表であるスラッファによる「商品による商品の生産」もその素材的要因を無視した投入・産出の数量関係のもとで成立している。また、スティードマンなどによる物量体系と賃金率から商品の価格を決定する議論も同じである。再生産が可能であるような条件のもとに連立方程式をつくり、その方程式を満たす解として商品の価値、あるいは価格を決定しようとする議論は、すべて投入された有用物より、いっそう大きな有用物が産出されるというありもしない物量相互の関係、あるいは、生産物の有用物としての特性、その素材的要因を無視した物量相互の関係のもとに理論が組み立てられているからである。

 素材的にみて左辺にあらわれるものは必ず右辺にあらわれる。化学反応式でいえば右辺にあらわれる物質は形を変えても必ず左辺にあらわれるのと同じである。化学反応の過程で新たな物質が合成されても、それは無から生じるのではなく、その素になる物質はかならず存在する。この単純な事実が、物量体系から商品の価値や価格を論じようとするスラファやスティードマンなどの数学的議論をすべて否定するのである。

 さらに価値としても左辺と右辺は等式として等値されているから、左辺にある価値も右辺にある価値も等しい。そして再生産が可能なような等式として、剰余を含んだものとして方程式が立式される。つまり、一定の価値額は生産過程に投入されると剰余を伴って、価値増殖するものとしてあらわれるという資本概念が当然のこととして前提されている。その価値増殖を物量相互の関係という素材的要因に結びつけようとすれば、そこには必ず、形而上学的ともいえる投入と産出の数量関係が想定されることになる。

 経済全体の生産技術がわかれば、労働投入係数ベクトルと商品の投入係数行列から、商品の「労働価値」を計算できる、とサミュエルソンやスティードマンは主張する。つまり、生産と賃金についての物的データから商品の「労働価値」を計算できるし、同時に価格や利潤率も計算できる。重要なのは生産と賃金についての物的データである。どのような生産技術を選択するかは、価格、利潤によって決定される。財的データと賃金率(物量体系と賃金バスケット)から商品の価格と利潤は説明できるのであって、労働価値論の必要はない。このようにサミュエルソンやスティードマンが価格とは別に価値概念をもちだすことは「無用の回り道」だといって、労働価値論を否定するとき、そこに前提されているのは、この投入係数行列、つまり投入より産出が多いという投入・産出の架空の数量関係である。

 レオンチェフの投入・産出分析も同じである。連立1次方程式体系によって最終需要と産出量の関係を分析したレオンチェフの投入・産出分析は、現実経済のさまざまな場面で実際に利用され、その有効性があるようにみえる。しかし、この分析もやはり投入より産出が多いという架空の数量関係を前提としている。投入・産出分析の基本方程式は

  x=Ax+y

である。変形すれば次のようになる。

  (I-A)x=y

  x=(I-A)-1

 これが最終需要を実現する産出量を与える方程式である。Aは投入と産出の物量関係をあらわす投入係数で、純粋に技術的に規定されたものであり、行列(I-A)-1はレオンチェフ逆行列と呼ばれている*4

 レオンチェフの投入・産出分析は、投入と産出のあいだの技術的条件にもとづく、投入と産出の物量的な数量関係をあらわしたものであるが、それは投入と産出の物量関係としては素材的には成立しない。これまでくり返しみてきたように物の有用物としての側面、その素材的な側面から投入と産出の数量関係をみれば、投入された以上の有用物が増大されて産出されることはないからだ。

 だから、レオンチェフの投入・産出分析が現実経済に適用されるとき、投入係数は「技術的係数」から「価値投入係数」に取り替えられる。「投入係数は価値投入係数、すなわち投入量と産出量の物量比ではなく投入金額と産出金額の価値比」(『体系経済学辞典』第6版、p483)なのである。この取り替えはデ-タ処理上の技術的問題ではなく、レオンチェフの投入・産出分析がもつ理論的性格の必然的帰結である。投入量と産出量の物量比をあらわす技術的係数は、はじめから素材的に成立しないからである。

 新古典派の成長理論も同様である。新古典派にとって経済成長とは、財の投入より、より大きい産出が得られるという投入・産出の数量関係を意味している。ノイマンの均斉成長をあらわしたノイマン・モデルも例外ではない。均斉成長のもとでの成長率gは、各財の産出量の増大比率に結びつけられた概念であり、各財の産出量の増大は、文字どおり各財が投入に対して物量的に増大するという決して素材的にはありえない数量関係のことを意味している。

 フォン・ノイマンほどの自然科学に通じた数学者であっても、ひとたび経済学の世界に入れば、自然科学の初歩的な事実でさえ忘れてしまう。投入された物より、より多くの物が産出される、つまり、物質は生産過程に投じられるとそれ自身で自己増殖するという、およそ自然科学の世界では容認されない投入と産出の物質代謝が想定されているのである。

 資本の観念とは恐ろしいもので、資本はそれ自身の属性として価値増殖するという観念は頑強である。生産要素が生産過程で果たすその機能、つまり生産要素として素材的に生産に役立つというその理由によって、生産手段はそれ自身で価値増殖する資本とみなされる。この観念が投入と産出のあいだに素材的には決してありえない投入・産出の数量関係を生み出すのである。

 前提されているのは、資本はそれ自身で価値増殖するという観念である。ある生産要素が生産に投じられる。それは有用物として別のものに形を変えて、しかもよりいっそう大きな価値をもった生産物としてあらわれる。それを労働にかかわらない生産過程の性質として、つまり資本の価値増殖を生産要素の素材的要因に関連させて示そうとする、そのため、投入よりも、より多くの産出が素材的に得られるという投入・産出の数量関係が構想されるのである。

*4 レオンチェフの基本方程式が経済的に意味をもつ条件は、非負の最終需要yに対して非負の解xを得ることである。すなわち、y>0に対してx>0となる条件であり、数学的にはI-Aがホーキンス・サイモン条件を満たすことである。置塩の価値方程式の原型がここにある。置塩の議論は、このレオンチェフの非負価格の条件を適応したものであるが、この条件そのものが、そもそも素材的に成立しない投入と産出の物量関係、すなわちレオンチェフの基本方程式のなかで考えられたものである。

(9)結語:数理学的分析の終焉

 70年代以降の「マルクスの基本定理」をめぐる議論、80年代に提示された「一般化された商品搾取定理」、さらにそれ以降のアナリティカル・マルキシズムの議論、すなわち投入・産出にかんする物量相互の関係から商品の価値を規定する議論、これらの議論を支えるのは、剰余に対する誤った考えである。剰余とは年々生産された生産物の一部分のことであって、投入に対する産出の増大をあらわす概念ではない。だが、この剰余の概念が投入・産出の数量関係として扱われると、「投入されたものより、より多くのものが産出される」という素材的には成立しない剰余概念、すなわち、投入と産出の形而上学が生まれる。

 置塩、森嶋、サミュエルソン、スティードマンなどは、このような架空の投入・産出関係を前提として議論を進めてきたのである。マルクスの労働価値説は、このような投入・産出体系のなかで意味する学説に改作され、そのうえで、マルクスは正しいとか正しくないとか論じられてきたのである。そして最後にはアナリティカル・マルキシズムがいうように、「利潤が存在するのは、労働の搾取が存在するからだというマルクスの主張は成立しない」、「利潤の源泉としての労働の搾取という考えは成り立たない」ということになるのである。

 商品の価値と使用価値のあいだには何の関係もない。商品の価値は純粋に社会的であり、人々の労働の社会的関連以外の何も含まれていない。そこに素材的要因を入りこませようとする試みは、すべて商品が具体的な有用物であることを否定する。価値との関係のない使用価値や物量関係という素材的要因を価値に結びつけようとするため、投入と産出のあいだに架空の数量関係をもち込むことになるからである。

 本来関係のない価値に素材的要因を結びつけようとするから、どうしても生産物という具体的な有用物が抽象的な「ある物」に転化してしまう。素材的にみれば、投入と産出は素材的、技術的に規定されたたんなる物量的な関係であり、「使用価値の生産」と「価値の生産」のあいだには何の関係もない。生産の技術的条件が向上すれば、その商品を生産するのに必要な労働時間が短縮され、その価値は低下する。そして、投入量と産出量は素材的、技術的に規定された条件にしたがってただ物量的に比例するだけである。

 技術的に規定された投入係数をもちいて商品の価値を論じようとするどのような議論も成立しない。それは物量相互の関係によって商品の価値が規定されるとしながらも、実際には、物量相互の関係、投入される生産要素と産出される生産物との素材的要因を無視しているからである。数理経済学による投入・産出分析は、技術的な物量的体系を問題にするところで、まさに商品が素材的技術的に規定された具体的な有用物であることを否定している。

 新古典派は生産関数をもちいて、投入・産出のあいだに架空の数量関係を想定し、商品の価値に素材的要因を混入させようとしたが、それと同じように置塩、森嶋をはじめとする70年代以降の数理経済学は、投入係数をもちいた投入・産出体系において再生産が可能であるような投入・産出の形而上学的な数量関係を想定することによって、商品の価値と使用価値を混同させる方法をつくりだしたのである。置塩は、投入と産出のあいだの物量的な数量関係のなかに、商品価値を規定しようとして、素材的要因と価値を混同させる数理学的方法をつくりだした。それはすでにレオンチェフの投入・産出分析のなかに含まれている誤りである。

文献

P・サミュエルソン、都留重人訳『経済学』13版、岩波書店 1992年
高橋泰蔵・増田四郎編集『体系経済学辞典』第6版、東洋経済新報社 1984年
置塩信雄『マルクス経済学―価値と価格の理論』筑摩書房 1977年
森嶋通夫、高須賀義博訳『森嶋通夫著作集7 マルクスの経済学』岩波書店 2004年
カテフォレス・森嶋通夫、高須賀義博・池尾和人訳『価値・搾取・成長』創文社 1980年
佐伯尚美・侘美光彦・石川経夫編『マルクス経済学の現代的課題』東京大学出版会、1981年
高須賀義博『マルクス経済学の解体と再生』御茶の水書房、1985年
ア・ユ・チェプレンコ、竹永進・染谷武彦・原伸子訳『現代「資本論」論争』大月書店、1989年
中谷武『価値、価格と利潤の経済学』勁草書房 1994年
高増明・松井暁『アナリティカル・マルキシズム』ナカニシヤ出版 1999年
高増明「アナリティカル・マルキシズム」『アソシエ』第6号 2001年
「吉原直毅のホームページ」より
『マルクス派搾取理論再検証~70年代転化論争の帰結~』 2001年
『榎原均「アナリティカル・マルキシズム」への疑問へのコメント』 2002年
『再論:70年代マルクス派搾取理論再検証』 2004年
「松尾匡のホームページ」より
『用語解説:マルクスの基本定理』 2001年






Date:  2008/2/5
Section: 08年新たな論争の提起
The URL for this article is: http://www.office-ebara.org/modules/xfsection03/article.php?articleid=62