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シュタイナーの社会理論に関する批判的検討(2) 田中一弘


シュタイナーの社会理論に関する批判的検討(2)


田中一弘



(1)はじめに


 

本稿ではシュタイナーの社会三分節化思想の具体的内容について、経済生活を中心に検討する。まずシュタイナーの資本主義分析をそれぞれの概念において検討し、ついでそれらの変革の内容について検討する。というのも、現状分析にもとづいて変革の方向性が打ち出されるほかはないからである。シュタイナーに特徴的な点は、経済生活から労働を除外する点である。まずその点から検討する。経済生活から労働を分離した結果、シュタイナーは経済生活に固有な分野として商品流通を規定している。したがって第二に商品・貨幣に関するシュタイナーの理論を検討する。ついで資本に関するシュタイナーの行論の検討を行う。そこでは賃労働がシュタイナーの方法によって廃棄されうるかどうかが、言い換えれば、シュタイナーの変革論に社会的諸関係の変革という視点が含まれているかどうかが中心的課題とされる。


 

(2)労働の位置づけについて



三分節化における経済生活に関して、シュタイナーは次のように規定している。



「人間と自然との関係ではじまり、天然の産物に人間の労働が加わり、それを商品化し、そしてそれを消費するに到るまでの全過程が、そして、これだけが、健全な社会有機体にとっての経済部分なのである。(ただし、人間の労働力は、精神生活である。)」(『核心』第二章)


天然の産物に労働が加わる過程が経済部分に含まれるとしながら、シュタイナーは労働が精神生活であると主張する。森氏は「貨幣経済を、自然から人間に流れ込む経済物資(商品)の加工流通に限り、労働と、生産手段や土地などの資本を、貨幣や経済を超えた精神(人間)領域に据える」(森1)と述べているが、加工とは労働のことにほかならないのではないか。私にはなかなか理解しがたいが、その理由についてシュタイナーは次のように述べている。



「労働は、人間個性から生じたものが、社会有機体の中に組み込まれるのに、必要とされるものであるから、経済生活ではなく、人間から外に流れ出る精神生活(人間活動)であるということである。どんな肉体労働でも、労働はすべて、精神生活(人間活動領域)である。」(『核心』第二章)


いまさら確認するまでもないが、やはりシュタイナーにとって人間とはまずもって精神的主体である。マルクスにとってすぐれて感性的・対象的活動である労働を精神活動と規定しているからである。

(森氏が再三強調する図式に、経済生活=自然→人間という流れ、労働=人間→自然という流れ、というのがある。しかし、労働とは労働手段(道具)と労働対象(原材料)を前提にするものであるから、人間のみから発する流れではないのでないか。つまり図式的にいうと自然⇔人間という相互関係として、労働を把握すべきではないだろうか。同じことは自然→人間という経済生活にも言える。ある生産物が生産されるのは人間の欲求があるからであり、自然のみが出発点ではないであろう。さらにいえば、森氏の図式は、人間も一つの自然的存在であることを見落としてはいないか。)


上の引用文をまともに受け取るならば、経済生活には商品しか存在せず、商品自体がひとりでに移動するという不可思議な事態を想定せざるをえなくなるのではないか。商品の生産・流通・消費のどの部面においても人間労働や活動を抜きには語れない。(その活動が精神活動であるか、感性的活動であるかは問わないとしても、である。)シュタイナーが言いたいことはそのようなことではない、ということは私にも分かってはいる。マルクス的に言うならば、ここで言う労働とは直接的生産過程における労働に限定して用いられているのであり、それこそが社会主義が問題とし、また実際大きな社会問題になっている労働なのだ、ということであろう。(それにしても流通における労働をどのように捉えているかは、私には謎である。)


このように労働を精神生活に分類しながら、シュタイナーにおいて生産は経済生活である。つまり生産と労働とは自立的に分離しうるものとされている。



「この経済領域(生活)は、商品(自然産品)の生産、流通、消費のすべてに関わっている。人間と、外界との物質的関係を、規制するのに、必要とされるすべてに関わる。」(『核心』第二章)


現実においては生産と労働とは分離し得ない。(通常の経済学において両者を区別する場合、生産の一契機として労働を規定するのであり、それはあくまでも認識上の区別でしかない。)したがって労働を経済生活から分離させるのはシュタイナー個人の主観的立場=恣意的なものでしかない。(恣意=自由な精神生活の産物と捉えるならば、首尾一貫しているともいえる。)このような生産と労働の分離は、生産手段と労働の分離のイデオロギー的表現に他ならない。後に見るように生産手段の私的所有としての資本を保存するシュタイナーにとって、生産と労働の分離はある意味必然なのであろう。


さらに、シュタイナーは労働を精神生活に位置づけながらも、同時に法生活へも関連させている。精神生活とは個体的なものであるが、労働は他者との共同行為として行われるからであろう。



「労働は法の分野の中に存在しなければなりません。・・・この分野では、成人したどの人間も成人した他のすべての人間と同等の権利をもち、その労働の種類、時間、性格は人間相互の法的関係によってきめられます。労働は経済過程から引き離され、商品相互の評価の基準を決定することだけが経済過程のあとに残されます。」(『未来』p.133)


ここでまず注目すべきは、「他のすべての人間と同等の権利」が保障されるのは法生活のみである、という点である。経済生活における権利の同等性あるいは民主主義は、シュタイナーには拒否される(『未来』p.117参照)。ここでいうところの「人間相互の法的関係」とは、個人の一切の具体的な在り方=属性を捨象した抽象的主体としての個人にすぎないのではないか。その抽象化によって、法は社会的諸関係に基づく差別・不平等を隠蔽し、自由で抽象的に「平等な」個人を主体とする。抽象的に「平等な」個人とは、抽象的人間労働の対象化としての商品を生産ないしは所有する個人を表象するものである。マルクス的にいえば、単純商品流通の世界である。そこでは賃労働者も労働力商品の所有者として登場する。商品所有者としては、労働者は資本家と対等な関係(交換関係)にあると考えられている。しかしひとたび生産過程の内部に入ると、それは労働者を資本の一構成部分として資本家が支配する関係へと変化する。使用価値の処分権がその所有者にあることは商品流通の帰結であるが、労働力商品の場合、それは労働者の能力として存在しているがために、使用価値の処分権は同時に労働者への支配権として存在する。商品所有者という形式における対等な関係(法的契約関係)は経済的な支配関係をその具体的内容としているのである。


三分節化社会においては、法生活の働きかけによって、経営者と労働者は生産における対等の協働者の関係にあるとされる。したがって資本制社会のような支配関係はありえないとシュタイナーは考えている。しかし、後に見るように、三分節化された社会では生産における決定権は経営者にのみ認められている。それと法生活における労働に関する事項の決定は矛盾しているのではないか。矛盾ではなければ、現在の経済において、労働の権利関係は労働法の分野で定められ、実際の労働過程においては資本の権力が支配している、そしてそれを法が外的に規制するにすぎない、という現状を追認するだけではないか。



(3)シュタイナーの商品・貨幣論



次に労働とは区別された経済生活について詳しく見てみよう。先に見たように、シュタイナーは経済生活を商品流通の分野に限定して考えている。商品流通とは商品と貨幣との交換を媒介とする過程であり、貨幣経済として成立している。シュタイナーは貨幣経済と自然経済とを区別し、貨幣経済では一種のヴェールが存在すると見ている(cf.『未来』p.104)。それが意味しているのは、「人間の思考や観念の力では経済生活を支配できなくなった」(『未来』p.147)ということであり、「偶然的な市場」(同p.237)に人間が支配されるということである。シュタイナーはこのようなヴェールを引き剥がし人間の自主的管理の下での経済生活を主張するのだが、そのためには価値や貨幣がなんであるかを把握しなければならない。


シュタイナーの価値論は主観的価値論と客観的価値論との混合物であり、貨幣との関係では(当然のことながら)後者の立場に立っている。



「人間はそれぞれの財に特定の価値を付与します。それによって財は社会生活の内部で客観的な価値をも有することになりますが、その価値は人間が付与する主観的な評価と深く結びついています。」(『未来』p.105)


主観的価値=「まず身体上の要求と結びついており、それが物質的に財の価値を規定するのです。けれども物質生活に関わる財も人間がどのような仕方で教育され、どのような生活要求を持っているかによって、精神的にも異なる評価が与えられます。より精神的な財を評価するときには、さらに人間の全体的な在り方が問われます。その財のためにどんな精神活動が必要なのかを考えれば、人間の精神的要素が或る財の物質的価値を決定していることがわかります。」(『未来』p.203)


客観的な価値=「その価値は私たちの要求や、その要求から生じる主観的な評価によっては左右されず、むしろその財の本質を通して、どのくらいの利用価値があり、どのくらいの希少価値があるのか、またどのくらい堅固でどのくらい長持ちするかによって、客観的に定められるのです。そしてこの意味での価値が本来の経済的な価値なのです」(p.203)


このように主観的価値と客観的価値とを区別することは、使用価値と交換価値の区別を直観的に把握していると言えよう。それは後者を「本来の経済的な価値」と呼んでいることから理解しうる。しかし、その内実を検討してみると、交換価値はなんら概念的に把握されていないことが明らかである。


第一に、価値を説明するのに利用価値とか希少価値を用いていることは一種のトートロジーであり、シュタイナーの価値概念の没概念性を示しているといえる。


第二に、利用価値を客観的な価値としているが、たしかに利用価値とは商品の自然的・物質的属性に基づくものであり、そのかぎりでは客観的なものであろう。しかし、同時にある属性が人にとって利用価値をなすのは、人がそれを欲求するからであろう。つまり利用価値ないしは使用価値とは商品の属性と人間の欲求との関係に他ならず、主観と客観との総合としての関係を実体としている。結論としていえば、シュタイナーの価値論は使用価値を主観的側面と客観的側面とに自立化させ、後者を経済的価値としているものである。様々な異なる使用価値が同一の価格であるということが、このような価値概念からは理解しえないであろう。


ただ、希少価値についてはこれだけでは割り切れない。シュタイナーの価値論は使用価値あるいは需給関係論として述べられているのがほとんどであるから、主要な問題点とはいえないが、この点についてもコメントしておく。


希少価値とはダイヤのように原料自体がごく少量としてのみ存在するか、特殊で相当な労力の産物である、ということを根拠としているのであろう。後者の意味では労働価値論が想定されうるが、労働を経済生活から消去したシュタイナーにはありえないのであろう。実際彼は労働価値論を「理屈に合わない価格決定」(『未来』p.137)として斥けている。したがって希少価値の場合でも、あくまで自然的属性の観点から把握されうるにすぎず、社会的関係を実体とする価値論ではない。


交換価値や価格とは、なんら商品の自然的属性に関係のない、純粋に社会的な形態規定である。つまり、特定の歴史的な社会関係によって規定されているものである。そのようなものとして価値を把握するためには、労働生産物を単に産物として=物質として把握するのではなく、対象としての労働=対象的形態にある労働として把握する観点がなければ、なしえないのである。労働とその生産物とを異なる生活分野に区別するシュタイナーには、そのような観点は存在しない。したがってシュタイナーの価値論からは、当然のことながら商品と貨幣との関係=価値形態の秘密=貨幣生成の必然性を解明することはできない。



「ちょうど思考過程の中で思考内容を抽象化するように、経済過程の中で貨幣を抽象化します。けれども抽象的な思考内容からどんな種類の現実表象や現実感覚をも作り出せないように、貨幣から現実的な何かを生じさせることもできないのです。貨幣が生産された財のための単なる記号にすぎないこと、貨幣がいわば一種の簿記、流動的な簿記であって、個々の財がそれぞれ貨幣によって表示されているにすぎないことを、人々は見過ごしています。」(『未来』p.139~140)


貨幣が抽象化によって成立するという正しい直観をえながらも、その抽象化がどのようになされるのかについては、何も述べられていない(『未来』の叙述は大体において結論を断定的に述べるにとどまり、具体的な論証がなされていないのではないだろうか。)。それゆえ貨幣は単なる記号として把握されるにとどまる。記号とは人間の思考産物であり、思考の抽象作用に関係している。もちろんそれは個々人の主観的ないしは恣意的な産物ではなく、社会的な関係によって成立するものであり、個々人にとっては外的前提として現れるものである。しかし、一部の人によって始められたある言葉の使用法が社会的に通用するものとなるように、それは人間の意志によって改変しうるものでもある。


マルクスは価値形態論によって、商品の価値とは諸商品の交換関係に基づく事態抽象の産物であることを明らかにし、商品という社会的な物=物象の本性・法則に基づき、価値形態の発展は貨幣形態へと必然的に向かうこと―最終的には交換過程における人々の無意識的な共同行為を媒介とするが―を示した。またそのような商品・貨幣に人々の意志が支配されていることを示した。それが物象の人格化といわれる事態である。シュタイナーが指摘するヴェールとは、この物象による意志支配を直観的に把握したものであろう。しかしこのヴェールは商品関係を根拠とするものであるから、人びとの意志のみでは―法律や政治的制度などによる―剥がすことはできない(榎原均『価値形態・物象化・物神性』を参照)。


森氏もシュタイナーと同様な観点を保持している。「私は、貨幣とは数値価値判断にすぎないと考えています。それ以外の定義は、人間が貨幣と言う数値価値判断を、ある事に適用する事によって、あとから人間によって付与される性格にすぎない。」(森3、森氏に問いたいのは、どのような数値を、どのように判断するのか、また判断の主体は貨幣なのか、人間なのか、ということである。)このように貨幣を捉えるならば、商品価格の決定や貨幣の適用範囲を道徳的判断に基づいて決定することが想定されうるのである。「人間によって付与される性格にすぎない」のならば、それは人間の意志によって簡単に決定されたり変更されうるだろう。次にこの点について見てみよう。



(3)市場原理に変わる連合体の理念



シュタイナーには商品・貨幣を廃止しようとする変革プログラムは存在しない。それらを人びとの意識的管理の下に置くことを目指すにとどまっている。それは連合体を形成することによって可能であるとされる。



「まず事情に通じている人びと、専門知識と技術能力のある人びとがいなければならず、生産過程はそのような人びとによって定められねばならない・・・そのような実際能力や専門知識のある人びとが互いに結びつき、個人の自主性による生産を基礎にして経済生活を営まなければならないのです。」(『未来』p.125)


まず確認されるのは「個人の自主性による生産」というのは私的生産にほかならないことである。そしてその生産物が他人のためのものであることから、それは同時に社会的な生産であるといえる。社会的な生産が私的生産者によっておこなわれること、マルクスによればこれこそが商品や貨幣の発生根拠に他ならない。だからシュタイナーが商品・貨幣を廃止する観点を持たないのは当然の論理的帰結である。


また、ここで「実際能力や専門知識のある人びと」とされているのは、経営者であり資本家であろう。労働の問題が法によってさだめられるというシュタイナーの見解を受け容れるならば、彼らが決定する生産過程の諸事項とは、なにを生産するのか、それをどのくらい生産するのか、またどのように生産するのか(生産の技術的手段や原材料=生産手段の決定)、ということになるだろう。生産手段と生産量が決定されれば、充用されるべき総労働量も決まるが、それを何人で行うかは個人の労働時間の確定であるので、法によって定められるということであろう。


以上のことは現在の資本主義社会において行われていることと何ら変わりがない。(とはいえ三分節化社会ではその動機が利潤の追求ではない。この点は大きな違いではあるが、動機とは主観的なものにすぎず、動機がそうでなくとも剰余価値としての利潤は生産されうる。)経営者が生産過程の決定権を握っており、労働時間の法的規制の下で労働者がそれに従って労働するということだからである。どの職種で働くかは労働者によって決定されるということも同じである。ただ現在の社会では就職試験があり、労働者の自主性が完全には発揮されていないだけである。生産過程の決定権が依然として資本家に認められる三分節化社会では、職業選択における労働者の完全な自主性は担保されるのだろうか。

(『核心』第三章では、上述とは少し異なった見解が述べられている。以下に引用しておく。



「労働作業の為の話し合いが、規則的に、企業家によって用意されねばならず、労働者と経営者とが、共同のイメージを持てる様に、配慮されねばならない。このような、共同作業が健全な仕方で行われれば、資本の正しい運営が、その一分枝である、労働者にも納得の行くものになるだろう。 そのようにして、自由な相互理解が生じれば、企業家は、誰の眼にも納得の行く経営を、行わざるを得ないだろう。」


これは経済生活内部での民主主義的制度といえる。現在の資本制における経営者と労組との団体交渉と同様な制度であろう。しかしこれもまた生産手段が資本家に独占されている以上、当為=~ざるを得ない以上のものではない。支配―従属関係を前提とした話し合いの結果が実行されるかどうかは、支配―従属の力関係によって影響される面はあるだろうが、最終的には支配者の意志にすべてがかかっている。それゆえシュタイナーが精神生活を重視するのは当然である。すなわち生産手段を私有という形で独占している以上、経営者と労働者の対等な関係はひとえに経営者の自主的な道徳的判断にまかされざるをえない。)


このように生産過程が経営者「個人の自主性」を基礎に行われると、つぎにその生産物の流通が問題となる。それは主要には価格の決定である。この点についてシュタイナーは次のように述べている。



「労働は経済過程から引き離され、商品相互の評価の基準を決定することだけが経済過程のあとに残されます。そして生産者と消費者等の間で取りきめられる連合の組織から選び出された人たちだけがこの決定を行い、そのようにして価格が形成されるのです。」(『未来』p.133)


「消費要求の観察を通して生産を調整する人がいなければなりません。そうすれば、該当する組織の理性が正しく認識し観察したように、消費のための商品が生産されるようになるでしょう。」(『未来』p.237)


「生産者と消費者等の間で取りきめられる連合の組織」とは現在の生協をイメージさせる。需要と供給の均衡という形での市場における無意識的な価格形成とは異なるが、しかし両者とも生産にかかった費用+利潤(利潤を否定するのであれば、企業の構成員の生活費+生産拡大のための費用=事業体を拡大再生産するための費用と言い換えてもよい)という図式で価格が決定されるであろう。そうでなければ生産の継続・拡大としての再生産過程は成立しえず、共同体の存続は不可能となるからである。価値形態という社会的・歴史的形態を捨象しても、たとえばマルクスが目指した共産主義社会においても、同様のことがいえる。そこでは労働時間が価値量として現象することはないが、総労働時間をどのように種々の生産過程に分配し、またその産物をどのように成員の間で分配するかは、重要な問題であることに変わりはない。


「消費要求の観察を通して生産を調整する人」というのは、現在の社会では営業担当や仕入れ担当者が担っている。それを連合体の専門職の人間が行うといっても、現在の資本制となんら変わりがない。連合体において消費要求は数的に明らかである、というのであれば、注文生産という形態が全社会的に展開されているということになろう。そして注文生産の全面化とは、生産の場において社会化が確定していることにほかならない。したがって生産者単独での自主性は成立しない。生産の社会化が個人の自主性を否定することがシュタイナーは許せないのである。



「経営をどのようになすべきかは、その在り方を、すべての成人たちの民主的な判断によってきめることはできません。何らかの経済分野で働き、そこで見識を深め、そして経済分野の相互の関連をよくわきまえている人だけが判断できるのです。・・・したがって経済生活は法治国家と精神生活との両面から独立して、固有の地盤の上に立てられなければなりません。」(『未来』p.117)


国有化や労働者生産組合、「消費と生産の全体を自分で管理しようとする大組合の考え方全体に含まれる根本的誤謬がどこに存するのか、洞察できなければなりません。」(『未来』p.119)


シュタイナーが主張するように生産と消費における個人の自主性を起点とするならば、代表者による取り決めなど簡単に裏切られるであろう。今はやりの言葉でいえば、「そんなの関係ねー」と言われたらそれまでである。あるいはその取り決めが厳格に管理された精神生活に由来するものであり、厳守すべきものであるのならば、それはシュタイナーが忌み嫌う国家資本主義としての旧社会主義体制における計画経済とどのように異なるのだろうか。そのような意思形成はA・ヘラーがいうところの「欲求に対する独裁」にほかならないのではないか。(シュタイナーが主張する自主管理の危険性については後に触れるが、一言だけ述べておこう。自主管理が個々人ではなく管理機関によって行われる、というのは個々人の自主性の抑圧につながらないだろうか。そのような事態が旧社会主義諸国でみられたのではないだろうか。)



(3)資本と賃労働について



シュタイナーが労働を経済生活から分離させて精神生活として規定したのは、いかにして賃労働を廃止すべきかということと密接に関係している。そこで次にシュタイナーの賃労働論を検討してみよう。


マルクスは現実態=活動としての労働と、可能態=能力としての労働すなわち労働力を概念的に区別することによって、資本の自己増殖の秘密としての剰余労働・剰余価値を解明した。同時に労働力は労働者の能力として対象的に存在しているがゆえに、商品として存在しうる、また労働力の商品化とは労働と(生産手段としての資本および生産物としての資本の)所有の分離に基づくものであり、資本の生産過程はこの分離の再生産過程にほかならないことを明らかにした。(逆にいうと、労働と所有の分離があるからこそ、現実態としての労働と可能態としての労働との概念的区別を把握しえたともいえる。)


これに対して、シュタイナーには両者の区別が存在しない。まったく存在しないわけではないが、活動としての労働と対象としてのその産物との区別を行うに過ぎない。スポーツに費やされる労力と労働に費やされる労力とが生理学的にみて同一であることを指摘し、次のように述べている。


 
「労働力を費やすことは、それだけではまだ社会的に意味のある行為にはならない・・・社会生活にとって意味が出てくるのは、労働力を費やすことによって生じた結果です。・・・ですから経済生活の中では、労働力そのものではなく、労働力が作り出す生産物だけが問題になるのです。」(『未来』p.133)


「労働力を費やす」その仕方、つまりどのような社会的関係においてそれがなされるかが、マルクスにとっては問題であった。それにたいしてシュタイナーは労働の生産物のみが「社会的に意味のある」ものであり、賃労働の問題は社会的な生産関係の問題=経済生活上の問題ではなく、倫理的な問題でしかないのである。労働一般を精神生活とみなすことによって、賃労働の問題を経済的関係から消去することに成功したのである。これは先に見たように貨幣を生産関係の産物と見る方法がシュタイナーに存在しないのと相即的である。


またシュタイナーにとっては、資本とは単なる自然的・物質的形態にあるものでしかない。経済的形態規定の問題はまったく考慮されない。「生産手段または代表的生産手段である資本」(p.118)と述べていることから、それは明らかである。シュタイナーは資本それ自体が資本―賃労働関係であることを理解していない。したがって資本―賃労働関係は単に分配の問題とされ、その変革は否定される。



「もし、人間の労働力を、経済過程から引き離せないならば、人間の労働力は、商品となるより他はないのである。故に、経済過程を変化させて、その中で、人間の労働力が、正当なあり方をするようにしようとしても、無駄である。」(『核心』第一章)


ここで「経済過程から引き離す」というのは、商品流通の分野から労働力を引き離すということであろう。労働は精神生活であるから、商品としてその対価を支払ってはならない、ということであろう。しかし、現実の生産過程から労働力を引き離すことはできない。後にみるようにシュタイナーは資本の私的所有を認める。生産手段から分離されたままの労働者はみずから生産することによって生活手段を獲得することはできないのだから、資本家のもとで働かざるをえない。また、商品生産が前提となっている以上、生活手段の獲得は貨幣を媒介とする商品交換によらざるをえない。そして労働者はみずからの労働力以外売ることのできる商品を所有していないのだから、労働力は商品化せざるをえないのである。このような事態をシュタイナーはいかに克服し、賃労働を廃止しようというのだろうか。


シュタイナーは労働者が貨幣を受け取ることを否定しない。商品経済を前提としている以上、貨幣が支払われなければ労働者は生活できないからである。では労働の対価ではない支払いとはなにか。それは全体の利益あるいは業績の分配として表現されている。



「営業収益の中の、労働者に渡される分が、出来高賃金に思えたとしても、この出来高賃金は、本来、賃金なのではない。労働者が、一面的に、経済的に条件付けられた階級的支配から脱して、これまでとは全く異なる社会生活が、行える様に、業績の価値(=全体の成果の分配)として、表現されているのである。労働者が受け取る利益が、業績の価値(=全体の業績)から、算出されるならば、階級闘争を行う根拠が、無くなるだろう。)」(『核心』第三章)


労働者の「業績」とは労働あるいは労働の結果ではないのか。ただ呼び名を変えただけのことではないのだろうか。シュタイナーの構想では労働者が受け取る貨幣量は増大し、労働者の生活状態は改善されるだろう。しかし、それはやはり労賃であり、労働力の商品化を廃絶するものとはいえない。労働した結果貨幣を獲得するからである。


資本家の収入については、「資本の利子収入に見合った程度の」ものとされる。このような分配の仕方は、現在の資本制となんら異なるものではない。「資本の利子収入」とはそもそも剰余価値の搾取にほかならない。また現在でも賃金水準は企業の業績に左右される。もっとも業績の上昇が賃金の上昇になかなか結びつかないという問題が、とくに近年において見られる。シュタイナーの改革案はこの点の是正に役立つだろうし、賃金闘争としての階級闘争は減少するかもしれない。しかし、階級は残るのであるから、先にみた支配関係をめぐる対立はなくならないであろう。環境問題が焦眉のものとして浮上している現在においては、生産の仕方や生産物の種類といった経営者の判断に委ねられている問題に対する闘争は不可避であろう。すなわち生産過程の決定権をめぐる闘争は、シュタイナーの未来社会でもありえる。というのも、シュタイナーにとっては資本の所有はあくまでも私的なものでなくてはならないからである。


 
「資本そのものが経済を運営するのではなく、仕事を通して必要な能力を精神生活から受けとった人物こそが資本を運営すべきであり、資本を蓄積した当の人物が、経営能力のある限り、この仕事に従事すべきである、と社会有機体を三分節化しようとする衝動は要求します。」(『未来』p.219)


資本所有すなわち経営者の「移行は、現在行われているような資本の譲渡ではなく、独立した精神生活、独立した法生活から来る衝動の結果であるべきです。精神生活の中には、資本の運営に従事している諸分野のすべての人との協力体制が存在しているはずです。」(『未来』p.220)


以上の引用からわかるのは、労働者の能力は単に肉体的なものでしかなく、生産過程を意識的に統御する能力がないことをシュタイナーが主張しているということである。労働者蔑視の思想をみてとれるのではないか。


商品・貨幣が廃絶され、生産手段が共有化される社会では、精神労働と肉体労働の分離は消滅しうる、と私は思っている。今日経営者が判断しているような事柄(販売戦略や損益分岐点の算出に基づく価格の設定など)は、商品の物神性に翻弄されているにすぎず、商品が廃止されれば全く必要のないことだからである。生産の技術的側面について言うならば、コンピューターによる管理が主流である現在では、個々の労働者が生産過程の全体を把握することはそれほど高度な知識がなくても可能であろう。コンピューターの知識が必要であるといわれるかもしれない。確かにシステムエンジニアをすべての労働者がやれるわけではない。しかし経営者にもそのような知識はないのである。逆に言うとシステムエンジニアも賃労働者にすぎない。技術的な分業は必要であり、精神労働と肉体労働の分離をただちになくすことが可能だとは思わないが、それだからといって生産手段の私的所有が必然であるとは言えない。


精神労働と肉体労働の分離は、単に労働の種類の相違を意味するだけではない。資本制においては、労働の指揮・監督と実行の分離をも意味する。すなわち資本の労働者に対する支配である。シュタイナーの未来社会においては、話し合いが行われるとはいえ資本と労働の分離は存続するのだから、資本の労働に対する支配は残存する可能性は残る。生産過程内部での制度的な担保が存在しないからである。法生活による規制が遵守されるかどうかは、資本家の道徳的判断や労働者との力関係に委ねられるほかはないだろう。


また資本を一つの社会的生産関係として把握しないシュタイナーにとって、利潤を剰余労働の搾取として把握する視点はない。



「一体利潤の中には何が示されているのでしょうか。・・・今日の市場の利潤は、利益をもたらした産物を生産することができた、ということの指標以外の何ものでもありません。」(『未来』p.134)


「労働が経済生活の中に組みこまれてしまうならば、労働の報酬を資本から支払わねばなりません。そうすれば近代生活の中に単なる利潤の追求が生じます。なぜなら経済生産物を供給しようとする人は、最後に市場にまで到るひとつの過程の中に完全に入り込んでいるからです。」(同p.133~4)


前者の引用が単なるトートロジーであることは指摘するまでもないだろう。ここで問題としたいのは後者の引用文である。労働の報酬を貨幣で支払う、つまり賃労働こそが利潤追求の根拠をなしているということだが、これはある意味正しい。労働力が商品化していることが利潤の追求体としての、すなわち自己増殖する価値としての資本の条件だからである。しかし、労働力の商品化という表現は、単純流通の立場に限定したものであり、生産手段からの分離の仮象的な表現である。賃労働を労働の対価(正確には労働力の対価)としての賃金の支払いに限定して考えることはできないのである。資本を保存するシュタイナーは、賃労働の廃棄を生産関係の変革としてではなく分配の問題としてのみ捉えている。それは賃労働の問題を労働力の商品化という単純流通の立場に限定しているからである。


結局シュタイナーの社会変革論は分配論につきることが、以上で明らかになったと思う。そこで最後に、分配のしかたは具体的にどのように決定されるのか、という問題を検討する。それはやはり精神生活における道徳的判断であるとされる。シュタイナーは自らが構想する未来社会を「共同利益社会」と名づけている。そこではどのようにして「共同利益」が確認されるのだろうか。



「共同利益社会の経済秩序においては逆に、個人意志の集まりが一種の全体意志を生むようになるでしょう。」(『未来』p.225)


「全体意志の中には、一体何が含まれているのでしょうか。・・・この全体意志の中には、個人の魂が受け容れることのできるような何かが含まれているのです。・・・ひとりひとりは我欲を捨てて、自分の霊、魂、体における能力のすべてを供犠を捧げるように全体意志の中に流し込まなければなりません。」(同p.225~6)


「この全体意志の形成に参加する人は誰でも、人間的なものを無視する自然科学の立場によって人生を割り切るようなことは許されません。霊学の立場によって人生に働きかけなければなりません。・・・・霊学の立場に立って、精神を生命ある存在として把握できた人は、社会生活上のすべての行動において実際的になるのです。」(同p.226~7)


結局精神生活=霊学が社会形成の基準であり、原動力なのである。社会関係の変革ではなく精神の変革がシュタイナーにとっては重要なのである。森氏は「賃労働制度から、生活保障制度への、主たる分配制度の転換がどんなに資本家をはじめとして人々の意識の転換に有効かをよく考えていただきたいのです。」(森4)と述べているが、そのような制度の転換は、精神の転換による資本家の自発性か、あるいは権力関係の転換による強制的措置に基づくものであろう。資本の温存を主張するシュタイナーにとっては前者の方法によるほかはない。それゆえ教育という精神生活が重要な問題となる。


最後に、精神生活における自主管理の問題を、教育を例に見ることにしよう。



(4)シュタイナー流自主管理の危険性



「精神生活は、その本質上、社会有機体の中で、完全に独立した分野として形成されることを求めている。すべての精神生活が、そこから発する所の教育制度、学校制度は、教育する人達の管理下に置かれなければならない。国家もしくは経済の分野で働く人が、この管理に介入することがあってはならない。どの教師も授業の為に用いる時間を、自分が教育分野の管理者でもありうる程度に留めておくべきである。教師は、教育と授業に心を使うのと同じ様に、管理にも心を使う事が出来るであろう。誰でも、生きた教育実践をしていない人は、指図してはならない。かって教師であったとしても、今はそうでない人も、そうしてはならない。」(『核心』まえがきと序論)


シュタイナーにおける教育における自主管理とは、教師にすべての決定権を与えるものである。現在の日本における指導要領をという形での国家による支配に比べれば、格段優れているように、一見思える。しかし、経済生活と同様にここでも民主主義は否定されている。教師としての管理者以外は教育に口を出せないからである。これはちょっと危険なのではないか。専門化が官僚化につながる危険があるから。官僚化は容易に権威主義的な体制へと変化しうる。あまりにも突飛な飛躍かもしれないが、イランにおける革命評議会を連想してしまった。イランは精神生活の指導者(イスラム教の宗教指導者)がすべての社会問題を決定している社会である。私は社会全体の合意を形成する過程がどの分野においても必要であると考える。(そのような過程が社会化であり、その過程を通じて協同主体が形成される。)教師だけではなく、親や生徒あるいは地域社会の成員を含めた形で、教育問題は決定されるべきではないか。


精神生活のその他の分野でも同様の管理機関が置かれるのであろうか。個人の自主的な管理は機関の管理にすり替えられてはいないか。そのような疑念が払拭しえない。経済における管理は甘受しえたとしても、思想・信条の管理など私は認めたくない。精神生活を第一義とする三分節化社会は、抑圧的な管理社会に転化する危険があるのではないだろうか。


 

(5)個人の自主性について



最後に個人の自主性について若干のことを述べて、本稿を終わりたいと思う。シュタイナーの社会論、特に社会変革論は自主的な個人を出発点としていることに特徴がある。精神を魂あるいは内的なものとして考えるのも、そのような視点からなされているのではないだろうか。それに対して私はマルクスにならい、人間を協同存在・類的存在として、社会的諸関係の総体として把握する方法が有効であると思う。ここまでの検討もそのような観点から行ってきたつもりである。


シュタイナーにもそのような観点がないわけではない。



利己主義は「肉体的要求と共に始まっている」が、それは「高貴なものになりうることを忘れてはなりません。」(p.232)すなわち「人間の利己主義はすべて、他の人たちと共に生き、共に働き、共に協調しあうことによってはじめて存在することができます。利己主義そのものが他の人びととの共同生活、共同活動を求めているのです。」(p.233~4)


個人の自主的な判断とは原子的に孤立した存在としての判断ではなく、社会的諸関係による様々な規定性を無意識的/意識的に反省したものとして成立するのである。したがって社会的諸関係のほうがより根源的であろう。経済的・法的な事柄も単に物的なあるいは個体的観点から把握するのではなく、人間の社会的関係=他者との共同的な活動として把握することが必要ではないだろうか。マルクスの物象化論とその展開としての榎原氏の文化知の方法をそのようなものとして、私は理解している。シュタイナー批判の結論も端的にいえばこのようなものである。ながながとおつきあいいただいてどうもありがとうございました。






Date:  2008/1/21
Section: 『「モモ」と考える時間とお金の秘密』をめぐって
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