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上記内容抗議文に対する境氏のご返事に対する再返答


 ご多忙の中、ご返答どうもありがとうございます。 けれども、その内容は、納得の行かないものでしたので、再度対話続行する事をお許し下さい。 以下、貴ご返事の内容についての記述です。

●境氏『労働問題の解決についてシュタイナーは「共同体生活へ正しく組み込まれた労働関係」(55頁)と述べているわけですから、それは現実の経済過程から労働者を引き剥がして、共同体生活へと導きいれることを意味していて、「当時の社会システム」には手を触れずにその外に共同体を作ろうとしていたと考えるしかありません。』

★シュタイナーの言う「共同体生活へ正しく組み込まれた労働関係」と言う言葉が何を意味するかに ついて、全く誤解なさっています。まず「共同体生活」と言うのは、私達の社会そのものを含んでいます。それが部分的な共同体であれ、国であれ、人類全体であれ、人間の協同集団を指しています。 「正しく組み込まれた労働関係」が、何を意味するかは、シュタイナーの社会三層化思想を正しく理解しなければ理解出来ません。
 シュタイナーは、社会というものを、三つの領域に区分する時に、従来の区分ではなく、事柄の本質の相違によって区別しようとしました。だからシュタイナーにとって経済領域とは、自然を人間が加工して経済物資を生産する商品の加工流通の流れだけを言います。 また精神文化領域(人間活動領域)とは、人間から発し、社会や自然に働きかける活動を指します。 簡単に言えば、自然→人間の流れが経済であり、人間→社会→自然の流れが精神文化です。 そして、シュタイナーは、貨幣のふさわしい適用範囲を、自然加工品の商品のみがふさわしいと考えたのです。ですから、シュタイナーでは、人間のどんな労働も、精神文化領域であり、経済ではなくしたがって、貨幣という数値価値尺度(損得勘定)を適用するのは望ましくない。そこ(労働)では数値価値ではなく道徳的価値判断のみがふさわしいと考えるのです。ですから、人々への貨幣の支払い は、労働の対価(賃金)としてではなく、すべての人への分配としてなされるのです。シュタイナーが悲惨の最大の原因としてあげているのが、賃労働制度の持つ自給自足的(自分と自分の家族の為)分配が生む家族間生存競争なのです。ですから、シュタイナーが経済問題の解決法のひとつとしてあげているのが、労働と分配の分離なのです。わかりやすく言うと、財布をひとつにし、分配の時には、労働量を持ち出して損得勘定するのではなく、分配の事だけ、すべての人々の必要だけを、 考えて分配すると言う事です。
 ですから、貨幣は商品(経済物資)の価値のみをあらわすもので、 ある集団の収入は、その集団全員の協働によって得た貨幣であり、人々への貨幣の支払いは、その分配(分かち合い)なのです。今日の分業と言うものは、すでに利他主義で、人々は他の人が使う ものを皆で生産しているのだから、分配は、自分と自分の家族の為にと言う自給自足時代の慣習で奪い合うのでなく、共同体の互助精神、分かち合いの精神でするべきだと言う事です。 共同体では、自分の労働によって日々生きながらえるのではなく、他者の労働によってすでに生かされているはずなのです。それに対するお返しが労働なのです。 以上の説明から分かる様に、「共同体生活へ正しく組み込まれた労働関係」とは、労働と分配の分離であり、財布をひとつにする事であり、私的賃金ではなく分かち合いであり、労働は商品として経済に組み込まれてはならず、労働は貨幣の外にあり、経営者と労働者は対等な協働者であり、 両者の労働と人間精神が協働する事によって、理性によって経済を制御するのです。経営者と労働者 のみならず、すべての人がその様な協働者なのです。

●境氏『「当時の社会システム」には手を触れずにその外に共同体を作ろうとしていた』

★もうすでに書いた様に、シュタイナーは、労働が商品の様に経済に組み込まれているが故に、 経済に人間が支配されざるを得ないのだから、労働と分配を分離し、労働動機から貨幣獲得動機を 切り離し、労働の目的を本来の行為そのものの目的だけにしようとし、分配を、労働量による損得 勘定に基づくものではなく、すべての人の分配の必要に応じる目的に基づくものに移行させようと した訳です。ですから、「当時の社会システム」には手を触れずにその外に共同体を作ろうとして いた訳では全くないのです。

●境氏『「経済の影響が圧倒的」と考えているエンデとの対比』

★シュタイナーはおよそ100年前に生き、社会三層化思想の発表はおよそ1919年ですから、その間にシュタイナーの指摘した『経済への一方的な偏重と暴走』はますます進みました。 しかしシュタイナーの社会思想は固定したドグマやイデオロギーを説いているのではなく、 現時点の現実の深い根源的な観察から出発する為の実践的な道具と成り得るものですから、今日でも通用するのです。しかし、その道具によって導きだされる現状解決の手段は、当然の事ながら 時代と共に変化するでしょうから、時代に応じた解答を、私達は自分で見出さなけ ればなりません。ですから、シュタイナーは原則的な配慮すべき条件や根源的な理解を促す事を述べているだけで、具体的な解決法の提案は、『経済学講義』以外ではあまり提示されていません。ですから、シュタイナーはむずかしいけれど、自分で考えて答えを見出す事を私達に要求してきます。そしてシュタイナーの社会三層化思想を理解して、それを自分の思考の道具として活用し、さらにエンデ独自の思想を展開したのがエンデだと言えます。 ですがエンデの思想の核心には、シュタイナーの社会三層化思想が生きています。 シュタイナーの生きた時代は、今日ほど「経済の影響が圧倒的」ではなかったにもかかわらず、シュタイナーは、『経済への一方的な偏重と暴走』の誤りに気付いていました。エンデの言う様に、社会が癌にかかっている様なものだと見ていました。 だからこそシュタイナーは、経済の過大な力(貨幣の適用範囲)から、人間労働を切り離そうとしました。それだけでなく、土地も、生産手段も、商品として単に損得勘定で扱っていい ものではなく、それらは精神文化(人間活動)や法政治(人間の平等な権利を守る)に属し、人間の自由意志に基づく広い道徳的判断によって運営すべきものとしました。また、貨幣は商品になってはいけないとし、貨幣の循環を妨げる資本の利己的蓄積が経済を病気にすると言いました。 さらに、貨幣は老朽する商品の等価物であるはずなのに、貨幣だけが永続的なの で人々は蓄財に走るので、貨幣は老朽し、最後には、再生産の為の投資以外は、精神領域に贈与されて死ななければならないとしました。シルビオ・ゲゼルに通じる発想をすでに持っていました。ですから、エンデと比べて、経済を軽視していた訳では決してなく、その点では エンデもシュタイナーも、経済と精神は、互いに絶え間なく影響を及ぼしあっており、 互いが互いの結果であると同時に原因でもあると考えていましたし、経済や法政治の制度の構造の変化につながる様な根本的な解決が必要だと考えていたのです。
 
●境氏『「実行しうる事柄」(112頁)といえばさしあたり、共同体の形成とシュタイナー教育でしょう。』
 
★シュタイナーは、あるべき社会の姿を徹底的に考えました。その結果は現行の社会の構造からはずいぶんかけ離れたものでした。だから現実ばなれした理想家だと多くの人に思われました。 しかし、あるべき社会の姿、健全な社会とはどんな社会を言うのかがわからなければ、 現実への正しい対処も出来ないのです。本当は、あるべき社会の姿からかけ離れて見えれば見えるほどなんとかしなきゃならない危機的状況だと言う事です。 確かにシュタイナーは、100年前の人ですし、現時点での処方箋を詳しく書いていてくれていないので、実践と言う事になるとむずかしいのですが、本当は、もし多くの人が、社会を本当にあるべき姿にしようと本気で望みさえすれば、実践出来る事なのです。ですが、簡単な事が一番難しいと言いますか、多くの人間がそれを自分で妨げている事、現実的である事と妥協する事は違うのだと言う事に気付き、なりゆきに委ねてきた因習的生き方からぬけて、意識的な永遠の改善への行動を開始する事が必要です。
『実行しうる事柄は、共同体の形成とシュタイナー教育だけだ。』と言う指摘は、ですから、ある意味かなり当たっているとも言えるけれども、ある意味間違っているのです。なぜなら、私達がなすべき事は、深い心の奥底の目指すべき目標、理想、真善美と、現実の社会をつなぐ橋の建設であり、現実の日常生活の只中に、私達の魂の奥底にあるものを実現する事だからです。そう言った生き方だけが、私達の人生を創造的な生き生きしたものにしてくれる はずだからです。だからたとえ実現しそうになくても、決して理想を追求する人を馬鹿にしてはいけないと思います。けれども、改善の為に実践できる事を一歩ずつ実践する事は必要でしょう。 共同体の形成とシュタイナー教育にとどまっている理由は、そんな事理想だと笑い何もしない現実的保守的人間にあります。現実に起こっている事と言えば、そう言う事を言う大人ぶった実際家達とそれに従うだけの人達(私も含めて)が、ことごとく前進を妨害しているのです。 しかし、また今すぐにいきなりではなく、徐々に改善する事も出来ます。 閉鎖的な小集団の共同体しか今は出来なくても無駄な事ではないでしょう。
 けれども、一言追記したいのは、日本は特にシュタイナーの三層化の実践に関しては遅れているのです。ヨーロッパでは、名前は表に出て来なくても、三層化に基づく運動は、人々に大きな影響を与えていると言って良いと思います。人々の進歩的社会意識と実践と言う点では、ゆうに100年は遅れていると言うのが私の感想です。そのヨーロッパにして、ニュースに聞く状況ですから、 日本はちょっと絶望的かも知れません。なぜなら理想を語ってももはやなかなか受け入れられない硬直と忘却の時点に来てしまっているからです。 シュタイナーの三層化に関係がある施設などは、GLS共同体銀行や、自然食品のナトゥーラタやWALA薬品、バイオダイナミック農場やデメーター連合、医療拡張協会、ハウザー基金、第三の道運動、緑の党のアッハベルガークライス、キャンプヒル、などがありますし、シュタイナーのヴァルドルフ学校も世界各地にあります。確かに、それは散在する点にすぎないかもしれません。
 しかし、物質世界の現実のほんの表面だけでなく、シュタイナーの名の出てこない至る所、さらに人間精神も世界の現実の半分と考えるならば、アメリカ一辺倒の日本にはあまり情報は入ってきませんが、エンデをはじめとして様々な所で影響力を表わしており、ワイマール憲法や協同組合などにもその精神の影響が及んでいる事でしょうから、日本も決して例外ではないかも知れません。 しかし日本はヴァルドルフ学校にしてもようやく端緒に着いたばかりです。教育は非常に大切です。 物は跡形もなく消えても人は引き継がれるからです。

●境氏『人智学と社会三層化思想とを切り離して、後者に依拠しようとするものですね。』

★私が切り離すのではありません。社会三層化思想が、人智学の精神文化機関と、経済管理機関と、法政治管理機関のそれぞれに、対等の自主的管理の自律性を与え、互いが互いを自分の役割以外の専門領域に支配干渉しないで自主管理を尊重しあって、助け合い働く事の必要性を述べているのです。 経済、法政治、精神文化の三領域のどの領域にも、その三つが働いています。 なぜなら、人間は、その三つの結束体であり、個々の人間の中でこの三つが統一されて一つになるからです。 たとえば、経済領域には、 経済の中での精神(人間からの働きかけ)の働き(すべての労働、資本、生産手段、土地など) 経済の中の経済=純粋経済(自然からの商品の加工流通の流れ) 経済の中の法政治(物質生活における人間の権利の平等) の三つが働いている事が分かります。 他の、精神文化領域でも、法政治領域でも同じ事が言えます。 ここでシュタイナーが三領域の対等な自主管理独立と互いの不干渉と言う時、それは、 経済の中の経済(純粋経済)、精神の中の精神(純粋精神)、法政治の中の法政治(純粋法政治執行行為)において、それぞれの自主管理を尊重すると言う意味です。 例えば、精神領域である教育の場合、授業の内容やすすめかたなどが、精神の中の精神(純粋精神)の活動です。そこには、国家権力や経済権力が干渉してはいけない。自主管理を尊重せよ。 でないと個人の精神の自由が抑圧支配される。しかし、教育活動には、経済物資も必要ですし、不正や権利の平等を守る為にのみにおいて法政治の保護も必要な訳です。しかしそれは、シュタイナーの三層化思想に反する事ではありません。 シュタイナーの三層化思想は、そのそれぞれの領域で尊重されるべき必要な理念として、 経済における友愛、精神における自由、法政治における平等をあてていますが、それも純粋経済、純粋精神文化、純粋法政治においてと言う意味です。 それによってはじめて、すべての領域での、友愛と、自由と、平等の両立共存が可能になるのです。
 ですから社会三層化思想と、人智学思想は社会においては、セットにされてはいけません。 すなわち、社会三層化運動団体で、人智学思想を学ぶ事を必須条件にしてはいけないと言う事です。それは望ましい事のひとつとは言えるでしょうし、個人的に勧める事は必ずしも 悪い事ではないでしょうが、個人の自由意志が尊重される必要があります。 三権分立や政教分離と同じ様に、それぞれの運動機関は独立して自主管理されなければなりません。だから、一人の人間が自由意志で、その両方を受け入れる事も出来ますし、社会層化思想は受け入れるが、人智学思想は受け入れないと言う事も自由です。 しかし、また人智学思想はシュタイナーの精神論であり、社会三層化思想はそのシュタイナーの精神から生まれて来た事は事実です。だから密接な関係があります。 それでは社会三層化思想を知らず、また実践しようとせずして、人智学思想を極めたと言えるでしょうか?そうする事は個人の自由ではありますが、矛盾しており、それは人智学思想を習得した人智学者とは言えないでしょう。なぜなら社会全体の事はすべての人に責任のある事だからです。 けれども、当然の事ながら反対意見を持つ事は自由です。しかし、シュタイナーの三層化思想に共鳴し、人々に普及したいと思う事もまた自由なのです。それは強制ではなく訴えかけだからです。

●境氏『「現代社会の諸問題を取り上げるとき、これまでも私は常に、霊学の観点から論を進めてきました。」(7頁)と述べています。私としてはシュタイナーの思想は人智学の観点を除外できないという評価軸を立てるしかありません。』

★この言葉は、すべての社会問題は、精神問題であると同時に、経済問題であると同時に、法政治問題である、三つの側面を持っている結束体である。なぜなら人間がその三つの結束体だからである。だから、すべての社会問題は、すべからく第一に精神問題である。精神の観点、道徳問題を抜きにしては、社会問題は語れない。とシュタイナーが考えていると言うのがその第一の意味です。 さらに言うならば、ここの霊学が人智学を指しているとするとしても、人智学はシュタイナーの精神観です。シュタイナーの社会三層化思想は、彼の深い霊学の観点から論を進めてきた事は間違いない事でしょう。なぜならそれが彼にとっては、最大限の深い理解に至る方法だからです。 しかし、だからと言って、彼は社会三層化思想の中で、人智学を学ぶ事を人々に必要な条件として求めていませんし、人智学者以外の外部の人に、その二つをセットにして押し付けたりはしていません。あくまで、個人の自由意志を尊重しているのです。 あなたの様に人智学の観点を除外できないと思う人は、人智学も学べばいいし、 人智学は好きになれないと思う人は、社会三層化思想だけでいいのです。
 しかし社会三層化思想は、人智学の最大の実践思想=社会全体のすべての人にかかわる思想に他なりません。ですから、もし社会三層化思想に共鳴できるならば、人智学にも共鳴できる部分があるに違いありません。けれどもそれは強制されている訳ではありませんし、またされては いけないのです。
 以上の様な訳ですから、私は人智学のすべてに共鳴出来る訳でも理解できる訳でもありませんが、強制された訳でなく自分からすすんで人智学の本にも関心を持っていますが、社会三層化思想はそれ単独でも立派に充分に生きる事が出来るし、それ自身が人智学のひとつの重要な結実になっています。 ですから、それ単独で独立して扱い、人にも人智学とセットですすめる様な事はしない様にしています。あなた様が、社会三層化思想において人智学の観点を除外出来ないからと言って、それを強制したりはしていないはずで、その点については、人々の全くの自由意志の判断に委ねられています。 さらに蛇足で言うならば、人智学は、たとえどんな宗教や世界観に関心を持っている人でも、また無宗教や唯物教と言う宗教の人でも、同時に並行して学ぶ事が出来、自分の世界観を深める事に役立つ様なふところのきわめて広い精神観です。人には好き嫌いがあるでしょうから、シュタイナーの人智学がどうも性に合わない人も居るかも知れません。 しかし、彼は自分の世界観も、ある観点から世界を描いて見せた絵のひとつにすぎず、 ドグマにしてはいけないと言っています。シュタイナーはすべての世界観や思想の相違は、途方も無い真理をひとつの球体とするならば、その球体をどちらの方向からどこを見、またどの程度の広い視野で見ているか、という相違から来る描く絵の個性にすぎないと考えています。 エンデとシュタイナー、あるいはマルクスとシュタイナー、唯物論と唯心論の相違も、各宗教の相違も、そういったものにすぎないと考えていると言えるでしょう。 シュタイナーは、自分の全思想についても、もちろん社会三層化についても、ドグマにするなと言っているのです。
 シュタイナーは西洋人ですからキリスト教の影響が色濃く出てますが、しかし シュタイナー自身は、万教帰一の観点に立って、精神や宗教を対立闘争の道具とせず 人々を結ぶ力にする事を、最も重視しているのです。




Date:  2007/10/9
Section: 『「モモ」と考える時間とお金の秘密』をめぐって
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