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旧稿の掲載: 『共産主義』21号(1994年発行)巻頭論文 C 文化を基準とした政治
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『共産主義』21号(1994年発行)巻頭論文 C 文化を基準とした政治

1)提案

 労働者階級が資本家の下に働きに行かない、という、もう一つの革命の戦略を採用すると、政治は自己変革しなければならない。

 資本主義社会のただ中で、この戦略にもとづく新しい経済圏が一つの文化圏として形成されるとき、改良と革命という、従来の運動がかかえていたジレンマは解消する。これは、大衆運動が最大限綱領レベルの要求で自己を組織していることの帰結である。しかし、最大限綱領レベルの要求といっても、もはや社会革命を展望しなければ、解消しようもない課題をかかげている、といった消極的な意味では、まだ伝統的政治の枠組みから抜け出せてはいない。

 経済圏の形成を自己目的化することは、本能的共同行為によって成立している商品、貨幣を意志の力で廃絶しようとする政治につながり、現実性を持つことができない。そうではなくて、経済圏の形成を文化的勢力の形成のための情報のネットワークづくりと捉えると、新たな文化圏をシステムとして形成するという課題が日程にのぼってくる。

 そうなると、文化的勢力を拡大していくために、政治を奉仕させることが可能となる。最大限綱領レベルの要求にもとづく運動の主体形成が可能となる。この文化を基準とした政治こそが、プロレタリアートの独裁の下で花開かねばならなかったものであり、そして、今日共産主義者に求められている目的意識性である。

2)社会的無意識と主体の形成

(1) 今日の課題

 今日の環境間題は、資本主義の終末の到来を告げている。人々が資本主義のシステムに忠実に従って働くことによって、取り返しのつかない環境破壊が進んだからだ。今後はこのシステムがながらえようとするなら、資本の論理とは別の論理を導入せざるを得ないのだが、資本にはこの別の論理を使いこなすことができるわけはない。というのは、この別の論理とはおそらくオルタナティブな文化のことだろうから。

 終末が訪れているにもかかわらず、引導を渡すべき主体が形成されていないという認識が左翼の間で一般的である。はたしてそうだろうか。そのような認識は、左翼が試みてきた伝統的な主体形成の方法の破産を意味しているだけではなかろうか。

(2) 政治のパワーの相対的低下

 たとえば、1989年から始まった東欧とロシアにおける旧体制の崩壊において、意志行為としての政治はどのような役割をはたしたであろうか。反体制派がもっとも組織されていたポーランドでは、〈連帯〉の政府が形成されたが、これは、プロレタリアートの独裁が復活されたこと以外の何物をも意味してはいなかった。しかし、この独裁を担った〈連帯〉は、過去の反体制派の時代に掲げてきた政綱を実現することができず、また、それに変わる新たな政綱を明らかにすることもできずに立ち往生してしまった。

 こうした事態は、出現している政治的勢力の能力の間題に帰すわけにはいかない。今日の社会では、政治、つまり意志の力で動かすことのできる領域が縮小してきているのだろう。民主主義的政治制度、(逆説的だが、ソ連・東欧の旧システムは、実は民主主義であった)が形成されてしまえば、政治の持つパワーは相対的に低下していくのだ。

 今日の杜会は、日々変動していっている。政治のパワーが低下しているとすれば、日々の変動はどのようなパワーに基づいているのだろうか。

(3) 無意識の力の増大

 政治のパワーは保守にしろ革新にしろ、意志的な力である。社会を動かす力で意志的な力の領域が縮小してきているとすれば、無意識的な力の領域が増大していることになる。

 無意識的な力については、フロイトを始祖とする精神医学によって取り上げられてきたが、ここで間題にするのは、個々人の個的な無意識ではなくて、歴史的、社会的な無意識である。それは今日の新興宗教がテーマとして取り上げているが、左翼が運動上の問題として捉えたことはなかった。

 歴史的、社会的に形成されるもの、と規定してみても、それが「無意識」であってみれば、個々人の内面の問題と捉えられる。内面の問題、心の間題は、従来、観念論や宗教がテーマにしてきたことで、左翼は主体性論を掲げている小グループを別にして、それを運動上の大間題とは考えてこなかった。また、主体性論も意志の領域であって、無意識については無関心であった。

 社会の変動にかかわる無意識の力が増大してきているとき、意志の力のみに頼ってきた左翼が力を失ってきたのは当然の帰結であった。左翼は左翼の見地から、増大してきている無意識の力をどう捉えるか、ということが問われているのである。

(4) マルクスの可能性

 今日歴史そのものによって破産を宣告された左翼の運動も、その始祖マルクスにまでさかのほると、そこに新たな可能性を見いだすことができる。というのもマルクスその人こそ、歴史的、社会的に形成される無意識について解きあかしているからである。

 その理論は物象化論(といっても、今日流布しているものは、無意識を解明できていない)なのだが、マルクスの生きていた時代には、意志の力の領域が大きかったため、彼は、物象化論に基づく政治理論を打ち立てる必要性を感じることができなかった。こうして、無意識の力を解明する物象化論に基づく政治理論を打ち立てることは後世の人々の役割となっているのである。

(5) 物象化と社会的無意識

 物象化論の見地からすれば社会的な無意識の行為を生成するものは、個人の内面にはない。個人の外にある物象が人格の意志を支配し、個々人に無意識の行動をとらせるわけだから、無意識を形成するものは、対象的世界の方にあることになる。

 だから、対象的世界は二重化している。眼に見える世界と、意志支配のシステムとしてのそれと。眼に見える世界にも、例えば法則のように、直接眼に見えないものもある。しかし、それは眼に見えるもの同士の関係であり、眼に見えるものを手がかりに論理的に把握することができる。意志支配のシステムとしての世界は、眼に見えない世界ではない。眼には見えているが、それは実は仮象であり、眼に見えない関係を表現しているのだが、しかもその関係が人々の社会関係をとりもっているのだ。

 眼に見える世界は認識の対象として成立し、人々はその認識から判断を導き、意志行為を行う。政治の世界はこの領域にある。

 眼に見えない世界は、意志を支配するものとして、人々の内面に介入している。従ってそれは認識の対象として、主体と切り離して措定することができない。認識主体としての意識と無意識を媒介にしてつながっているものを認識する認識論は未開発である。

 労働者階級が資本家階級のもとに働きに行かない、というもう一つの革命戦術を考えるとき、この無意識の問題は避けて通れない。ここで身近な実践の問題をとりあげよう。それは今の資本のシステムから抜け出す具体的な方法である。

3)多文化時代の政治

(1) 多文化時代とは

 新しい価値観にもとづくライフスタイルの変更、これが、今日の環境問題を解決するためには不可欠のものであること、問題に関心のある人々ならば、このことをだれもが認める時代となった。だが、間題は提起されてはいるものの、実践的な解決方法については不透明なままである。どうしてだろうか、だれもが新しい価値観の必要性を主張するが、しかし、皆それぞれが異なった内容の価値観をもっている。だから、ライフスタイルの変更といっても、無数の提案が生まれてしまう。そこには統一的な、あるいは総合的な、価値観がなく、統一的あるいは総合的計画が作り出されてはいない。

 この事態はいったい何を意味しているのか。一つの価値観があり、それにもとづくライフスタイルがあれば、そこには一つの文化圏がある。このように捉えると、現代はすでに多種・多様・多重の文化圏によって構成されている多文化時代であることがわかる。

 多文化時代が始まってから久しいときが流れているのだが、文化ほど今日共通意識が獲得されていないものはない。というのも、政治運動とは異なって、文化運動は意志の統一でもって組織できるものではない。だから文化は従来の政治理論の手におえない領域にある。仮に理論がそれを解明しようとしたことがあったとしても、大した成果をあげることができなかった。

 例えば政治運動であれば、多様な見解があったとしても、ある時点で運動全体を一つのスローガンでまとめることが可能であり、そして、そのスローガンでもって力を結集することができた。だが今日の多様な価値観と無数にあるライフスタイル変更計画をどうやって一つにまとめればよいか。伝統的な政治がその生命力を失いつつある根拠の一つはここにある。

(2) 多種・多様・多重の文化圏

 旧い価値観とは何であったか。それはカネ万能の価値観であり、企業社会における会社中心主義であった。この旧い文化はたしかに人間の頭脳があみ出したものであるとはいえ、その思考はモノやカネに支配されていた。旧い文化のルーツは人間の頭の中にあったのではなく、商品や貨幣や資本にあった。

 旧い文化にも多様性はあった。しかしそこにはカネ万能という統一原理があり、なおかつ、この原理は人々の生活の関係を支配していた。だから旧い文化が栄えていた時代の多様性とは.一つの文化の多様性にすぎず、多様なものは決して独自の文化圏を形成しえていたわけではなかった。したがって、文化圏は民族や国家として出現していた。

 では新しい価値観のルーツはどこにあるのだろうか。そしてその多様性がなぜ、文化圏を形成しえるのだろうか。これは今日の環境問題を根底から提えることから判明してくる。

 今日の社会システムが、役立たないものとして、その社会の外部に排出したものが、自然の諸循環サイクルから脱落して大量に蓄積し、それが独自の生命力をもって今日の社会システムをしめつけてきている。今日の社会システムが人間社会存亡の危機を招来させるほどに環境破壊を拡大させたことによって地球を「ガイア」(地球生命体)として目覚めさせた。こうしてカネ万能の価値観にかわる「ガイア」の価値観が多種・多様・多重に生み出される時代が到来した。

 新しい価値観のルーツは「ガイア」にある。それは旧い文化自体が作り出しながら制御できないものをルーツとしている。だからそれは依然として生活の関係では支配的な旧い文化のただなかに、新しい文化圏を生み出すことができる。その価値観はその内容を伝統的社会のシステムやイデオロギーから得ているかも知れない。

 だが伝統的社会のシステムやイデオロギーは、旧い文化の中に溶解させられた。何故ならそれは生態系にルーツをもってはいたが「ガイア」(生態系の新段階)にルーツをもつものではなかったから。

 現在、人々の頭の中には「ガイア」(環境問題)をルーツとする新しい価値観が多種・多様・多重に芽生えて.いる。ところが生活の関係で支配的なものは、依然として旧い価値観に基づく旧い文化、旧い社会システムであり、人々はこれにとらわれている。こうして新しい文化圏に基づくライフスタイル変更の提案は旧い社会システムから生活の関係を脱出させようという試みにならざるを得ない。ところが、この試みが一つの困難を抱えている。

(3) カネ万能の文化圏からの脱出

 もともと人間の社会は人間の身体と自然の関係から生じてきた外的強制によって形成された。杜会の形成によって人間ははじめて人間たりえるようになったとしても、この社会を構成員の自由意志によって形成することはできなかった。

 旧い価値観に基づく今日の社会システムも例外ではない。カネ万能の社会が自由な社会に見えるのも、人と人との生活上の地位と役割とがモノとモノとの関係で決まってしまっているからである。だから今日の人間は人と人との政治的関係では自由を主張できるがモノとモノとの関係から決まってくる所有の問題には平等を主張することができないのである。

 さて、新しい価値観にもとづくライフスタイルを実行しようとすれば生活の関係の場にあるモノとモノとの関係から生じている拘束を断ち切らなければならないが、そこに困難が顔を出してくる。この拘束を部分的に断ち切ることは簡単であるが、しかし部分的切断が決して全体的な切断へと波及しては行かないのである。だから、部分的に断ち切ったことによってかえってより強固に拘束されてしまうといった事態があらわれてきたりもする。

 カネを万能とするシステムはモノの側の共同行為によって成立している。他のすべてのモノがカネだけをたててやるから、カネが万能となるのであり、このような共同行奄に加わるモノが商品なのである。モノの側の共同行為を成立させるためには人間の関与が必要である。人間はモノに引きずられて、この共同行為に参加する。そこでは人間はモノの関係に自分の意志を宿す。だから人間は頭の中では共同行為に参加したとは考えていない。この共同行為は人間にとっては、無意識のうちになされる本能的な行為である。

 自分ひとりがモノの側の共同行為に加わらなければ、この拘束は部分的に切断される。このことは個人の決断によって、実現しえる。ところが、個人は他者との生活の関係を結ぶことなしには生きて行けないのだから別種の生活の関係を共同行為として形成しなければならない。そのとき、この文化圏は、無意識のうちになされる本能的共同行為を排除できるだろうか。本能的共同行為は意志の力によっては排除しきれない。意志の力によって維持される新たな共同行為は、本能的共同行為に浸透されることはあっても、それを排除しえない。部分的切断が決して全体的切断へと波及しない原因がここにある。

(4) ネットワークの共鳴をさそう政治

 モノとカネのシステムを部分的に切断できても全体的切断へと波及させていくことができないとすれば、迂回作戦が必要となる。新しい価値観に基づく文化圏は生活の関係の場で本能的共同行為を排除しえないとすれば、それはモノとカネのシステムを受け入れざるをえない。では何故それが文化圏たりえたのだろうか。それが文化圏たりえたのは、モノとカネとのシステムとは別種の情報のネットワークを形成してきたからである。

 情報伝達自体についていえば、旧い文化の方がマス・コミをはじめとして大規模な手段を.もっている。だがそれは、参加者のだれもが中心となれるという意味でのネットワークにはなっていない。従って、今日は新しい価値観にもとづいて、情報のネットワークをつくりだせば、それが文化圏となれる時代なのである。

 論理的に考察すれば、本能的になされるものであるとはいえ、共同行為をなくすことができるものは、やはり全員参加の共同行為である。そして何らかの共同行為が成し遂げられるためには情報のネットワークが発達していなければならない。ここで本当の困難があらわれてくる。情報のネットワークは本来共同行為を組織するためのものではない。

 それは旧い政治が考えるような、宣伝、扇動の場でもない。ところがそれが情報の発受を行う場であることは自明としても、それが文化圏を形成しえているという側面からみると、新たな内容が浮かび上がってくる。

 主体間の共鳴を実現する場、これが情報ネットワークがもっている新たな意味である。ここから、共鳴が積み重ねられることによって、ついには共同行為へと到るという新しい政治力学が見いだされ、新しい政治の使命が生まれてくる。

 多文化時代の今日、旧い文化と社会のシステムに対抗する数多くのネットワークはすでに形成されている。それらが新しいタイプの政治集団として確立されるかどうかは、それが他の数多くのネットワークの共鳴を誘う共鳴板として形成されるかどうかにかかっている。



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Author: admin Published: 2006/8/2 Read 2779 times   Printer Friendly Page Tell a Friend