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文化知の提案―新しい社会運動の原理―第2章 社会科学の機能不全


文化知の提案―新しい社会運動の原理―第2章 社会科学の機能不全


第1章 科学技術と現代社会
 科学と技術 科学技術発展の帰結 持続可能なシステムの模索 キメ手を欠く運動体
第2章 社会科学の機能不全
 社会科学は期待はずれ 科学の論理性への批判の限界 社会運動論の最前線 見のがされている事態
第3章 科学知の限界
 商品による意志支配 科学的思考と商品の思考機能
第4章 文化知の方法
 見えるものと超感性的なもの
第5章 文化知の応用
 労働価値説の再考 超感性的な社会関係の解明 概念的存在としての商品
第6章 物象化論の新展開
 商品による意志支配の様式 貨幣生成のメカニズム 無意識のうちでの本能的共同行為 もう一つの意志支配としての物象化
第7章 現代社会批判
 マルクス主義の総括と新しい社会運動 脱物象化の大道

社会科学は期待はずれ


 科学が発達したにもかかわらず、私たちは身近な事柄についての知識に欠けています。商品やお金や言葉、このような日常私たちがそれなしでは生活できないものついて、確実な知識が与えられていないのです。げんに、これらについては学校教育ではとりあげられていません。では大学や研究者の場合はどうでしょうか。商品やお金や言葉について書かれた研究書は尽山ありますが、しかしその内容は一人一説となっています。
 商品やお金や言葉は、人と人との関係のなかで成立するものであり、人間の社会性とかかわっています。本来人間の社会性については社会科学が解明していけるはずでした。しかしながら近代哲学から自然科学とともに分化してきた社会科学はその期待を裏切っています。
 何故期待が裏切られるのでしょうか。努力不足でしょうか。それともイデオロギーにとらわれているからでしょうか。唯物論の命題に存在が意識を規定する、とありましたが、そうであれば大学などの研究者はともかく、何故運動を担っている人たちからも、確実な知識が提案されないのでしょうか。

科学の論理性への批判の限界


 自然科学にしても社会科学にしても、その論理は近代哲学に負っています。そして論理学の歴史をさかのぼれば、古代ギリシャのアリストテレスにゆきつくでしょう。このアリストテレスに端を発し、近代になってデカルトによって仕上げられた科学の論理、この論理には限界があり、この論理に従うだけでは人間の社会性は解明できない、といった見解はこれまでにも表明されてきました。しかし対案としては理性に対する感性の復権であったり、意識に対する無意識であったり、言語の限界についての認識だったりで、現実の社会運動との関連が切断されたままでした。
 現実の社会運動が大量生産、大量消費、大量廃棄のシステムを批判し、商品や貨幣や資本の制御を提起しようとしていることを考慮すれば、商品や貨幣や資本として存在している人間の社会性、人と人との社会関係を解明することを通して、科学の論理の限界を克服していくことが問われているのではないでしょうか。

社会運動論の最前線


 今日社会運動について最も進んだ分析をしているのはメルッチをはじめとする一連の社会学者と、ドウルーズ=ガメリやデリダにつながる社会批評家たちです。彼らの共通認識から出発しましょう。
 今日の社会システムが、人間による理性的な制御を受けつけない、という認識がまず前提にあります。というのも、商品や貨幣や資本が単なる物ではなくて、人間の意志を支配する超人格的なモノ(物象)と捉えられているからです。こうして人間は社会生活にあっては、自己の責任において自己決定をしているという形式をとりながら、実は超人格的な物象に支配され、操られています。その際、生身の身体をもった生物種としての人間と操られている社会的人間との間に解決不能な葛藤が生じてきます。そこで生身の身体に依拠した感性にもとづく社会運動が多様なネットワークを形成しつつ展開されています。
 以上のような現状認識のうえにたってメルッチは現代社会における主体形成について独自の説を提起しています。従来の政治運動にあっては、大衆を動員する主体は大衆運動に先行して存在し、大衆はこの主体が動員する動員対象でしかありませんでした。ところが今日、そのような主体はあらかじめ存在せず、人々がネットワークを通じ、お互いに運動に動員し合うこの場が主体としてのアイデンティティを形成している、というのです。そこでメルッチの戦略は、国家や企業が形成している公共空間とは別に、多様な社会運動がそれぞれのアイデンティティを形成する場としての新しい公共空間を形成していくことで、今日の社会システムを変革する足がかりを獲得しようと、というようになります。

見のがされている事態


 では最新の社会学は、商品による人間の意志支配の存在については解明できているでしょうか。事実としての意志支配の存在については認めているものの、何故意志支配が生まれるかについては残念ながら明らかにしていません。
 意志が支配される、ということは一体どのような事態でしょうか。意志の支配があるところには意志の自由はありえない、これは政治学から見た見地です。政治とは、強制によるか、自由意志によるかを問わず、他人の意志の領有でした。封建制度は土地所有制を中心とした法的強制によって支配・服従の関係を決めるシステムでしたから、そこでは他人による意志支配が一般的でした。
 資本家的生産が発達し、市場社会が形成されるとともに身分制はゆらぎ、封建制度が打倒され、民主主義国家が成立しますが、ここで、万人の自由権が政治的権利として保障され、他人の強制にもとづく意志支配からの解放がなしとげられました。
 意志の自由が成立しました。もはや個人は他人の不当な意志支配を受ける義務はありません。しかし、意志の自由を謳歌しているうちに、この自由はある種の支配を内に含んでいることが明らかとなったのでした。人々は消費者として、市場で出会う限りでは自由でした。しかしひとたび生活のため生産の場に入っていくとそこには規律があり、それに従って行動することをせまられます。さらにこの生産の場は、そこに一たん入ると自らの労働は他人(資本)の下に帰属し、生活費をかせぐことが関の山で、また資本の下に働きに行かなければ暮らせなくなります。こうして人々は資本によって働き方をしばられ、経済的には服従せざるをえません。
 資本家の下に働きに行かなければくらせない。これはたしかに一つの支配関係ですが、しかし、他人の意思に従わされているわけではありません。また、別に社長の意思に従っているわけでもなく、ただ超人格的な資本家的生産様式に支配されているわけですから、政治的な意志支配ではなく、従って意志の自由を侵害しません。ただ、この種の意志支配は、経済的な支配として感知することができます。ところが、もう一つの意志支配の様式があります。商品・貨幣による意志支配とは資本による意志支配とは異なって、経済的な支配を超えたものなのです。




Date:  2006/1/5
Section: 文化知の提案―新しい社会運動の原理―
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