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農の原理を求めて


農の原理を求めて


第1章 福岡正信の自然農法
 1)自然農法 2)砂漠緑化 3)神格化の問題
第2章 守田志郎の小農論
 1)農業に競争はない 2)農業は儲ける業ではない
第3章 玉城哲の水利社会学
 1)イエとムラと水利 2)資源保全的農業 3)農業集団化
第4章 多辺田政弘のコモンズ論
 1)コモンズとは何か 2)地域自給の論理

第1章 福岡正信の自然農法


1)自然農法


 農の原理を求めようとするとき、福岡正信さんの自然農法から入ることが自然です。福岡さんは、1976年に出版された『自然農法』(ダイヤモンド社)で米麦の作り方について次のように述べています。
「自然農法の作り方は、極めて簡単明瞭である。秋稲刈りの前に、稲の穂波の頭から、クローバーの種と麦種とをばら播いておく。数センチに伸びた麦を踏みながら稲刈りをする。三日ほど地干しにしてから脱穀。そこでできた稲ワラ全部を、長いままで田圃一面にふりさらしておいて、鶏糞でもあれば3~400ふりまいておく。次に稲の種籾を土団子にして、正月までに、ふりまいたワラの上にばら播いておけばよい。これで麦作りも籾播きも万事終わりで、麦刈りまで何もしない。作るだけなら10アール当たり1~2人の労力で十分である。
 5月の20日頃、麦を刈るときには、足下にクローバーが茂り、その中で土団子から籾が数センチの芽を出している。麦刈りをして地干し脱穀がすんだら、できた麦ワラを全量長いままで、田圃一面にふりまく。田の畦ぬりをして4~5日水を湛めると、クローバーが衰弱して稲苗が土に出る。あとは6~7月のあいだ無灌水で放任し、8月になってから10日か一週間毎に排水溝に一回走り水をするだけでよい。
 以上で、米麦作りのクローバー草生、米麦混播、速続不耕起直播という自然農法の概要は説明したことになる。」(『自然農法』3~4頁)

帰農して30年後にまとめられた福岡さんの自然農法は当時の高度成長のかげりと公害の拡大という70年代後半の時代背景もあって、脚光をあびました。ここにも述べられているように、福岡さんの農法は、無耕起、無化学肥料、無農薬、無除草で、当時の近代農法にはもちろん、有機農業の農法とも異なるものでした。福岡さん自身、「『一切無用』の立場から、ムダな技術、費用と労力を切りすててきた。それを30年積み重ねてきたら、最後は、種を播いてワラをふるだけになってしまったのである。」(4頁) と述べています。
 でも何もしなくてよいかと言えばそうではないのです。福岡さんは自然の営みをじっと観察し、例えば田圃にいつ水を入れてクローバーを弱らせるか、といった時期についての判断を的確にやっています。
「食糧を生産するというけれども、百姓が生命のある食物を生産するのではない。無から有を生む力をもつのは自然だけである。百姓は自然の営みを手伝うだけだ。
 農業の本来の在り方である自然農法は、無為自然-手も足も出さないダルマ農法である。八方破れに見えるが厳しい無手勝流で、土は土、草は草、虫のことは虫にまかす広大無辺・融通無凝の仏農法である。がしかし、決して放任ではない。」(6頁)

 福岡さんの農法の結論だけを読むと、簡単だし、誰にもできるように思われるのですが、本当のところは技術としてみても、なかなか難しいもので、福岡さん自身、自然農法を始めても3年位でやめてしまう人が多いと述べています。また、ここで例にあげた米麦二毛作も四国地方や近畿地方では可能ですが、冬に積雪のある日本海側や東北地方、北海道では不可能ではないでしょうか。

2)砂漠緑化


 福岡さんは、当初は自分が開発した自然農法の技術が、かなりの速さで普及していくと予想していたようでした。ところが研究者や試験場が注目し、また世界的にも有名になってしまったにもかかわらず、日本ではあまり普及しませんでした。逆に海外では、福岡さんの山小屋にしばらく居住をともにした人たちが自然農法の農場を始めていたのです。それで、その人たちに呼ばれることで、福岡さんの世界旅行時代が始まります。そして、一寸したきっかけで、地球の砂漠化防止のプロジェクトにかかわることのなったのです。
 福岡さんの自然農法は種は直播きですから、播いた種が鳥や虫やネズミに喰われてしまいます。それを防ぐ技術として、種を粘土団子に入れて直播きするという方法で対処していました。そこで福岡さんは、出来るだけ沢山の種類の植物の種を粘土団子に入れて、これを飛行機からバラまく、という提案をしています。福岡さんは、1991年から2年始めにかけて、この実験を始めようとインドに出かけますが、この時は実験は実現できませんでした。しかし、このときの訪問が機会となって、現在は中国政府が公式に取り組んでいます。

3)神格化の問題


 自然農法の技術開発から砂漠化防止の技術へと進んで行った福岡さんの技術の神髄は自然の身になって人の営みを規制しようとするところにあります。福岡さんはそれを「一切は無」というように哲学的に表現しています。福岡さんの哲学と宗教批判は独特のもので、ここで立ち入るわけにはいきませんが、科学知に対する批判を見る限り、分別知への批判であり、人知の限界を自然との一体化の見地から指摘しています。
 福岡さんが、自然には原因も結果もない、というとき、原因も結果も、科学知が自らの枠組みとしているもので、自然そのものはこの人間がつくった枠組みとは無関係だ、と見なしているのです。
 ところで福岡さんは、自らが開発した自然農法が普及していかない原因を、人々が無の哲学を体得していないことに求めています。無の哲学がないから、自然農法がやれない、というのですが、これには疑問があります。というのも、農業の技術のあり方は、人々がどのような社会を形成しているか、ということと密接にかかわっているからです。
 自然農法の技術は人々が自分の食料は自給することを前提にしています。一国の国民全員が帰農し、それぞれが自給しつつ、剰余を交換しあっている。このようなモデルのもとで始めて自然農法は一般化するのではないでしょうか。精神労働と肉体労働とが分離し、都市と農村とが分離している今日の社会では、この技術は、世間のシステムに背を向けて、一人で自給の道を追及することにならざるを得ません。だから福岡さんは、無の哲学でこの孤立した自己を支えようとしているのでしょう。でも、この要求は神ならぬ生身の人間を神の化身にしようとすることに他なりません。

第2章 守田志郎の小農論


1)農業に競争はない


 話が横道にそれたので本題にもどしましょう。守田志郎は、資本主義が発展するにつれて小経営が多数であった農民層は、企業化された大規模経営と農地を失った農業労働者とに両極分解していく、という当時一般的だった理論は間違っていることを力説しています。守田は、この理論は日本の農業の現実を捉えたものではないと考え、日本の農業は小農(小経営)によって担われてきたし、将来もそうなるだろうという見通しを明らかにしています。
 守田の見解は長い間のフィールドワークに裏付けられたものですが、この見通しを、工業と農業との根本的な違いを明らかにすることで証明しています。
 まず、守田は、農民層は分解するか、農業は企業化するか、農業に競争はあるか、という三つの問をたて、そして通説に逆らって、分解せず、企業化せず、競争はないという見解を打ち出します。守田はこの三つのことは実は一つのことで、それは農家の生活という現実のことだとみています。この見地から、農家にとって企業化と競争との関係について次のように述べています。
「企業化しないならば競争は起きないのである。そして、競争しないのなら企業化は存在しないのである。」(『農法』農文協、1972年)

 この競争について、守田は工業のもとでの競争の原動力を考察するところから論をおこしています。そして工業では人を雇い人を働かせて、それで儲ける、このやり方が企業間に競争を起こさせていく重要な原動力だと見ています。工業は人の働きで儲けようとするから、企業は競争しなければ生きていられず、競争したくなくともやめるわけにはいかない、というのです。
 これに対して、農業では例えお金を払って人に仕事をしてもらう場合があっても、それは工業の場合のように、人の働きで儲けるのではなく、単なる手伝いであり、手間替わりだから、農家の間には競争を起こさせる原動力がない、と守田は見ています。
 もちろん、青果市場では競りがあり、また、個々の農家は売れ筋の作物をつくろうと競争していますがこの競争も、工業の場合のように相手を落後させるようなものではないのです。というのも、工業の場合には市場占拠率があり、企業はこれを拡大しようとして競争していますが、農業の場合にはそもそも市場占拠率といった概念が成立する余地はありません。
 例えば秋のある時期に高原キャベツが東京の市場を100パーセント占拠したとしても、せいぜい一週間かそこらのことで、やがて別の産地にとって代わられてしまいます。さらに市場占拠率をあげようと努力すればキャベツの需要を超えてしまい、値崩れを起こしてしまって、かえって大損してしまいます。農作物は貯蔵に適さないものが多いうえ、さらに収穫時期を調整することにも限度があります。
 このように守田は、人の働きで儲けようとする工業には、競争が成立し企業化も起きますが、この原動力をもたない農業には、競争はなく、従って企業化も起きないと述べています。

2)農業は儲ける業ではない


 次に守田は、農業の働き方は、儲けるという言葉になじまない点に注意をうながしています。儲けるというより稼ぐという方がふさわしい、と見ているのです。というのも、儲けるという言葉には、人の働きで得をするという意味が含まれるようになっているので、この意味をもたない農家の働き方を表現するには、稼業に精を出すという意味をもつ稼ぐの方がぴったりくるというのです。
 こうして、農業は儲けの業ではないから、儲ける業にしようとしても結局うまくいかないということになります。もともと工業も、村の鍛冶屋がメインの頃は稼ぐ業だったのでしょうが、人の働きで儲けるようになって工業の方が変わっていったのです。もっとも工業が儲けの業だといっても、経営者や大株主についてのことで、そこで働いている人たちは儲けられている方で、決して儲けている方ではないのですが。
 日本の基本法農政は、このように儲けの業ではない農業に大規模化を期待するという点で根本的な誤りをおかしていると守田は見ています。
 そして、小農が小農として持続していくための農法として、多品目少量生産で自給し、余りを売るという方法を提案しています。小品目大量生産で市場むけの作物をつくる、という当時の国の支配的な農法に従って行っても、結局は農家の得にはならない、と見ているのです。

第3章 玉城哲の水利社会学


1)イエとムラと水利


 玉城哲はアジア灌漑農業の経済論理をさぐり、非西欧のモデルを構想しようとしました。農業水利論が専門の玉城は晩年の作品である「水と日本人」(玉城『風土の経済学』増補新版、新評論、1984年所収)で稲作の水利の分析から、日本の農民の精神構造までをも論じています。
「むらの中で、水は最終的に個々の農民によって利用されるものであったが、それは個人の自由に委ねられるべきではなかった。分散錯圃が存在していたからである。分散錯圃とは農民の耕作する小さい水田圃場が各所に分散し、相互にいりくんでいる状態である。隣接する水田の水は相互に干渉しあうから、個々の圃場での作物選択、水利用の自由は原則として成立しえない。しかも多くの場合は、『田越し灌漑』が普通であった。この方式は、いったん水路から水をとると、あとは田から田へ水を落としてゆくもので、多くの水田圃場群が、水をつうじて運命的に結合されてしまうのである。この水田圃場群を耕作する農民はもちろん複数であるから、当然、農民たちも運命的に結合されてしまうことになる。むらの集団主義は、このような基盤をもつことによってたえず再生産され、濃密化されるのである。 このように、むらは農民たちの運命的結合を基礎にして外敵と対抗する。対抗する敵は、やはり同じような村であり、用水組合である。そこで、村落社会は水の強迫観念を内在化し、濃縮された集団主義社会となるのである。農民のむらへの帰属が強烈に規範化されたゆえんも、この点にあったと見ることができるだろう。むらを、たんなる村落共同体とイメージするわけにはゆかないという意味がここにある。」(10~11頁)

 イエとムラ、他の国の人々と比較したときの日本人の特有の精神構想を指すキーワードであり、そして、これは日本人の権威主義や集団主義や企業への忠誠心、さらには隣の不幸を喜ぶ、といった心精を説明するツールとされてきました。
 玉城はイエとムラとしてキーワードとされている心精を近世のムラで成立していた日本独自の灌漑の様式にもとづくものとして説明しています。そして、この心精は明治時代以降次々と農村から都市に出てきた都市の市民にも受け継がれている、とみています。
 農村のイエとムラの中での生活は、たがいに身を寄せあい、よりかかりあう生活であったが、都会に出てくると、冷たく無関心で孤独な生活を強いられます。そこで都会で求める「イエ、ムラ」が企業であったり、労働組合であったり、革新政党だったり、宗教団体だ、というのです。
 都会で求める「イエ、ムラ」は農村とちがって土着性がありません。この基盤は弱いことでかえって、都会では農業社会的統粋の消極面だけが受け継がれ、都会の集団が個人の共感に基礎をおくものとならず、排他的な派閥や、互いにあまえて寄り添いあおうとするイデオロギー集団となって、なれあいの人間関係の中に安住し、集団外の人たちにはよそよそしい冷たさで接する、ということになりがちだと玉城は見ています。
 他方でこのような現実は日本のエリート層に独善の境地をもたらすことにもなりました。明治時代以降都市に出て、市民になりあがった農村出身者たちは、自立的な個人、自由な市民たりえようとして、農民たちはまだまだおくれた市民社会以前の存在だとみなしていながらも、彼ら自身が権威主義、同族意識、集団志向などを実はひきづっていたというのです。(玉城哲『稲作文化と日本人』現代評論者、1977年参照)この見地から、玉城は、いわゆる戦後民主主義も独善的なエリートの立場からする民衆蔑視の思想で、内部から腐食せざるをえなかったと述べています。

2)資源保全的農業


 次に、玉城は、農業自体がもともと自然収奪的な性格をもっていますが、それが日本のむらと水田耕作にあっては収奪的な性格が非常に小さいことに注目しています。まず、むらの役割については次のように述べています。
「日本の農民が過度に資源収奪的にならなかった直接の原因は、どうやら、むらにある。むらは、土地や水ばかりでなく、山林や採草地にいたるまで、厳格な慣習法的秩序をさだめ、競争的利用を抑制したのである。その秩序は、基本的に資源保全的性格のものであった。希少化した資源を永続的に利用してゆくためには、保全が必要であることを、むらの人は知っていたのである。……--この事実をやや経済学的な用語におきかえて理解するならば、日本の農民はかなりはやくからストックの意義を理解していたということになる。大きなストックがゆたかなフローとしての生産を生みだすという因果関係を認識していたといってよいだろう。」(『風土の経済学』15頁)

 このむらの資源保全的性格が作用していけた大きな要因は農業の中枢が水田稲作農業だったことのあるのですが、水田稲作について、玉城は次のように述べています。
「水田稲作という農業方式は、土壌と水という農業にとっての基本的な資源について、どうやらもっともすぐれた保全的機能をともなっているようである。世界的にみても、水田農業地帯は、土壌のアルカリ化(塩害)の弊害をともなっていない。また水田農業地帯は、よく耕作されているかぎり、重大な土壌浸食によって悩まされているといえないだろう。農業そのものが、自然力収奪的性格をもっているにもかかわらず、水田稲作農業方式は、その点で最小であり、いいかえれば、もっとも保全的だということである。」(19頁)

 このように水田稲作はストックさえきちんと維持しておけば、資源と環境とを保全していける非常にすぐれた農法です。ところが、玉城は、この日本の農耕社会も、1970年代に入って始められた米の生産調整によって農民の心が荒廃させられ、終わりを迎えていると見ています。

3)農業集団化


 そこで玉城が期待しているのは「部落ばなれ」をした経営者としてのセンスをそなえた農民の登場です。「少数ではあるが、自立的な経営者として育ってきた人々と、多くの労働者的土地所有者とへの分化が生み出され、両者のあいだに請負耕作とか経営受委託とよばれる関係が形成されてきた」(『稲作文化と日本人』226頁)のです。玉城はこの経営委譲方式をどのように育てていくかに、日本農業の再生の可能性がかかっていると見ています。
 他方で農村でも農民の市民化が始まってきました。これまでの農村がムラに属する農民によって担われてきたとすれば、いまは、統合能力を失ったムラに、市民が登場した、というのです。この市民は兼業農家であったり、ムラの外から入ってきた新住民であったり色々です。でも玉城によれば、すぐれて資源保全的な日本の水田稲作を続けようとするならば、従来ムラが果たしてきた役割を市民が代替できるシステムが創出されねばなりません。それはもはやムラの再生ではなく、イエ連合的なムラを超えたところに、個人の人格的自由を基礎にした市民的な共同社会をどのようにつくりあげるか、という課題として設定されています。これは他方では日本農業の集団化を意味します。玉城は農業集団化を小経営を寄せ集めた集団化ではなく、市場経済化によってほりくずされていっている部落の機能を代替するシステムをつくりながら、なおかつ市場の契約関係に依存しながら生産集団を組織するという方向性をもつものとして捉えています。
「このような生産の組織化は、さしあたり少数であるが活動的な農業者たちを中心に、市場機構に依存しながら契約的関係として展開されるべきものであろう。しかし、多面的な相互依存関係の網の目を地域的にはりめぐらしてゆくことは、最終的には何らかの農村協同体を確立し、それが生産の主体になっていくことを意味する。それは、新しい農業集団化の一形態と言ってよいのである。」(『風土の経済学』170頁)

 守田の小農論とはちがい、玉城は、個別経営の自立的完結性の喪失を前提にし、その上で農業生産・土地利用の地域的再結合をどうはかるか、という方向性で集団化を展望しています。この方向性が提起されたのは1975年のことでした。以降25年、日本の農村はどのように変化していたのでしょうか。この変化をあとづけることが問われています。

第4章 多辺田政弘のコモンズ論


1)コモンズとは何か


 多辺田政弘はコモンズをキーワードに既成の経済学の批判を行いました。既成の経済学は開発や経済成長の問題を扱いえても、公害や環境の問題を扱うことは失敗し続けている、その原因は何か、という問が多辺田の問題意識です。まず多辺田のコモンズについての考え方を引用しておきましょう。
「(コモンズ)という耳慣れない言葉について、まず説明しておかなければならないだろう。英語のコモンズという言葉には、『共有地』『入会権』『共同の食事』という意味が込められている。ここではそれらの意味を含めながらも、より広い意味で使おうと思っている。すなわち、商品化という形で私的所有や私的管理に分割されない、また同時に、国や都道府県といった広域行政の公的管理に包括されない、地域住民の『共』的管理(自治)による地域空間とその利用関係(社会関係)を、コモンズと呼ぶことにしたい。地域内の水(河川、湖沼、湧水)や森林原野、海浜、海を含む土地空間、相互扶助システムとしての労働力、サービス、信用などを含む地域の『共同の力』と言ってもよい。」(多辺田政弘『コモンズの経済学』学陽書房,1990年)

 多辺田は今日の産業社会を貨幣的生産部門と非貨幣的生産部門とにわけ、後者をさらに自然の層と社会的共同対抗経済の二層にわけたヘンダーソンに依拠し、この非貨幣的生産部門をコモンズと捉えました。多辺田によれば、このコモンズには市場や経済とは別のルールがあり、そしてそれに従うことで、住民は環境破壊をまぬがれてきた、というのです。
「この自然的経済の部分を、強くコントロールしているのは、市場や経済のルールではなく、後に考察を加える入会(コモンズ)のルールであることに注意を促しておきたい。与えられた(与件としての)地域の自然環境の許す範囲で、その資源に大きく依存して永続性をもって暮らすために、その環境資源を更新的に利用できるための保全のルール(約束ごと)を地域ごとにもうけてきた。それに従っていれば、住民は環境とともに生き続けることができるからである。
 このような『共』(コモンズ)の領域が広がっているところでは、環境破壊をもたらす乱獲・乱伐・乱掘などの発生する資源の生産過程へのインプット部分と、廃棄物の投棄などの発生する生産を消費過程からのアウトプット部分とを地域や共同体が自らの力でコントロールすることができる。そのために、自然層を健全に保つことができるのである。」(52~3頁)

 多辺田は社会的費用論や外部不経済の市場への内部化の理論に対して、コモンズの観点がない、という見地から批判を加えていますが、それにはふれず、ここでは「コモンズの関係のなかにこそ、環境破壊から自らを守る社会システムが内在されている。」(54頁)と考えている多辺田の農業論を検討してみます。

2)地域自給の論理


 多辺田は農業問題を地域自給の論理から捉らえようとしています。多辺田は日本の有機農業運動の調査で「個別農家あるいは地域内で農業生産資材の循環する有畜複合経営へと向かうにつれて、農家経済そのものも市場依存型から自給型へと向かっている。」(99頁)ことが明らかとなったとし、輪作、多田品目作付を評価している。そして安田志郎の小農論をふまえ、次のように述べています。
「この〈小農〉は、〈部落〉のなかで生きてきたということが大切である。農業のもつ循環システム(その背後にある入会=コモンズとしての山と海)こそが共同体を支えており、生産と消費(生活)の場がその内部に組み込まれているからこそ、共同体と農業は更新性(永続性)をもつのである。〈小農〉と〈部落〉を結んでいるものは、非市場的な生活基盤の共有である。」(125頁)

 このような見地から、多辺田は、守田の小農論を補強しつつ、地域自給を次のように提起している。
「現代の危機の突破口を見出すための一つの方法として、『地域自給経済』の再構築という課題を設定すること、そして『共同体』の再検討を出発点にして脱市場経済(脱商品化)への道を探ろうとするのは、果たして『歴史的必然』とやらを無視した無謀な試みなのだろうか、と。」(130頁)

 この見地は、はたして、その後10年の経験で、その正しさが証明されたでしょうか。ポランニーは市場を社会に埋め込むことを提案しましたが、逆に、社会を市場にのせて行って、市場を変えてしまう、という道もあります。どうやら市場論をきちんとたてることが問われているようです。




Date:  2006/1/5
Section: 協同組合運動研究フォーラム
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