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「世界恐慌分析のための原理」(バラキン雑記)を読んで 田中一弘

8:利子生み資本の一般的規定について メグミ
ebara 12/01 20:47

利子生み資本の一般的規定について  メグミ

田中さんの疑問点

>貨幣資本家は生産過程の外部に存在する資本家であり、したがって利子生み資本とは生産過程の外部にあるというのは正しいと思われますが、利子生み資本は機能資本家によって現実資本に転化して初めて自己の価値増殖を可能にするのです。
>生産過程の外部にあるとはいえ、貸し付けられた資本が生産過程における現実資本として機能することが利子生み資本の前提なのです。したがって「貸付けたお金が産業などの現実資本に投下される資本の形態」というのは、利子生み資本の一般的規定として正しいのではないでしょうか。
>利子生み資本は機能資本家によって現実資本に転化して初めて自己の価値増殖を可能にするから、
>したがって「貸付けたお金が産業などの現実資本に投下される資本の形態」というのは、利子生み資本の一般的規定として正しい

――この田中さんの疑問点は、至極もっともな事だと思うのです。
マルクスさんは、この疑問についてすでに答えているといったら皆さん驚くと思います。
 マルクスさん、プルードン批判として述べることで、その疑問を想定し回答していたのですね。
註56のあと4段落目にまず冷たくこう書きはなっています。
 「・・・貸付資本家が資本を手離すことは、決して資本の現実的な循環過程内に於ける行為ではなく、産業資本家によって達成されるべきこの循環を導入するものでしかない。貨幣ののこの第一の場所返還は、何らの変態の行為も、すなわち購買も販売も表すものではない。所有権は譲渡されない。なぜなら何らの交換交換も行われず、何らの等価物の受取られないからである。産業資本家の手から貸付資本家の手への貨幣の復帰は、単に資本の第一の手離す行為を補完するものでしかない。」(3巻原P359〜360大月新書版P588)
そして次のように、同じことを再び繰り返して述べています。
 「貸し付けられた貨幣の資本としての現実の運動は、貸し手と借り手との間の諸取引の外部にある操作である。これらの取引そのものにおいては、この(現実の運動の)媒介は消えうせており、目に見えないし、直接そこには含まれていない。独自な種類の商品として、資本にはまた特有な譲渡の仕方がある。それゆえその復帰も、ここでは、ある一定の一連の経済的過程の帰結及び結果としてではなく、買い手と売り手との間の特殊な法律的取り決めの結果として現れる。」(同上原P361同上P590)

>それゆえその復帰も、ここでは、ある一定の一連の経済的過程の帰結及び結果としてではなく、買い手と売り手との間の特殊な法律的取り決めの結果として現れる。
 これでは全くとり付くしまがありませんから、
 「売ったり買ったりするのではなく、彼は貸し付ける。したがってこの貸付は、貨幣を貨幣または商品としてではなく資本として譲渡するのにふさわしい形態である。だからといって貸付は、資本制的生産過程と無関係な諸取引のための形態ではありえない、ということには決してならない。(同上原P362同上P592一部長谷部訳)――と述べて、理解できない点を次のように続けたのです。
 「貨幣が資本として彼(貨幣資本家)によって譲渡されるということはそれがG+ΔGとして彼に返還されなければならないということである」(同上原P363同上P593)
 貸付のなかで生じるΔG、この「利子を研究しなければならない」この点こそが焦点なのですね。
 その研究を、?譲渡?購買ではなく貸し付け?価格――資本の価格としての利子・・・という範疇を再度丹念・執拗に探索して、プルードンの過ちの原因をこう結論付けています。
 「それゆえ価格が商品の価値を表現するとすれば、利子は、貨幣資本の価値増殖を表現し、それゆえ、貨幣資本に対して貸し手に対する価格として現れる。
 このことからも、プルードンがそうしているように、貨幣によって媒介される交換すなわち売買という単純な関係をここに直接に適用しようとすることがもともとどれほど愚かなことであるかが、明らかになる。
 根本的前提は、まさに、貨幣が資本として機能するということ、それゆえまた即時的資本として、潜勢的資本として、第三者に引き渡されるということである。」
 「貨幣または資本が即時的、潜勢的に資本であるのは、労働力が潜勢的に資本であるのと全く同じである。」(同)
 「労働力が潜勢的に資本」の意味は、資本制的な拡大再生産のなかでの資本制的取得法則の転変で、労働と所有の分離が拡大再生産されることで、商品労働力は資本関係のもとで、自己増殖する価値を生成することを前提された存在――ということであろう。資本関係の生産は、剰余価値の生産でなされるけれども、取得法則の転変の下では、それが結果ではなく前提されるということなのですね。これは、搾取論や労働力の商品化論の見地からは理解できない事柄なのです。この点への着目と反省が無くては、「貨幣または資本が即時的、潜勢的に資本」であることはとても了解、認識できない点なのですね。
 この点を、マルクスさんこう続けて、次のように結論付けています。
 「素材的富の対立的な社会的規定性――賃労働としての労働との、素材的冨の対立――は生産過程からは切り離されて、資本所有権そのものの中にすでに表現されている。この一契機(資本所有権)は、資本主義的生産過程そのものから切り離されて、次のことの中に自らを表現する。すなわち、貨幣は、同じくまた商品は、即時的、潜勢的に資本であるということ、それらは資本として販売されうるということ、またそれらは、この形態においては、他人の労働に対する司令権であり、他人の労働を取得する請求権を与えるものであり、それゆえ自己を増殖する価値である、ということがそれである。」(同上原P368同上P601〜602)
 「貨幣は、同じくまた商品は、即時的、潜勢的に資本」であり、
「この形態においては、他人の労働に対する司令権であり、他人の労働を取得する請求権を与える」
――という利子生み資本の範疇を、
 「利子を代価に貨幣が貸し付けられ、『貨幣が商品になる』ということが、『資本が資本として商品になる』ということと同じことになるとしているところも性急にすぎ」(『資本論を読む』P388伊藤誠 講談社学術文庫)
――と、読解される経済学者がいる。
 「利子を代価に貨幣が貸し付けられ」――これが、商品交換での商品の代価としての貨幣の範疇への批判が不在している見本ですよね。
 もっとも、貨幣貸し付けを等価交換とみていたのがこの学習以前のプルードン批判が不在の私でしたが・・・・なんともむずかしいものです。
 「利子生み資本の場合には、すべてが外面的なものとして現れる」のですから、利子と利潤の関係も質的分割から、内在的な質的規定から与えられるのではなく、量的分割という規定的現実から質的分割が与えられる――というのにも驚かされました。頭をマルクスにぶん殴られた・・・そういう思いがしました。



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