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「世界恐慌分析のための原理」(バラキン雑記)を読んで 田中一弘

5:金融資本論と宇野の「資金」について メグミ
ebara 11/16 21:44
金融資本論と宇野の「資金」について     メグミ

田中さん、長い返事を有難うございます。
境さんの提案される――金融資本から信用資本主義の時代へ――に、どうかお付き合い願いたいと思います。次に書いたのは「コモンズ掲示板」で、「コモンズ掲示板が目指すもの」との題で書いたものの一部です。どうかそちらもお読み願います。
またおなじく「コモンズヘようこそ」というホームページを開き「労働運動研究会」も開いてくださることをお願いします。私も参加しています。

?資本論3巻24章「利子生み資本の形態における資本関係の外面化」で、剰余価値を作り出す生産資本と利子生み資本との関連がこうまとめられている。

「利子生み資本において、資本関係はそのもっとも外面的で物神的な形態に到達する。ここでわれわれが見いだすのは、G−G`、より多くの貨幣を生み出す貨幣、両極を媒介する過程無しに自己自身を増殖する価値、である。」(資本論3巻原P404)

「現実に機能する資本自らも、すでに見たように、機能資本としてではなく資本自体として、貨幣資本として、利子をもたらすという表れ方をする。」(同上P405)

「次のこともまた歪曲されている――利子は利潤の、すなわち機能資本家が労働者から搾り取る剰余価値の一部に過ぎないのに、いまや逆に利子が資本の本来の果実、本源的なものとして現れ、利潤はいまや企業者利得の形態に転化されて、再生産過程で付け加わる単なる付帯物及び付加物として表れる。ここで、資本の物神的姿態と資本物神の観念とが完成する。G−G`においてわれわれが見いだすのは資本の没概念的形態、生産諸関係の最高度の転倒と物象化(長谷部訳)であり、・・・」(同上P405)

このように「価値を創造し、利子をもたらすことが貨幣の属性になる」(同上)現象があるのですから、物である貨幣や物である機能資本の本源的要因としての<自己増殖する価値たる利子生み資本>という観念が生まれる・・・のです。だから、そこには、生産関係の転倒による資本の物神性とそれ、をもたらさずにおかない物象化を見いだす――とのべていると思うのです。しかし、つぎのヒルファーディングの『金融資本論』には「資本の物神的姿態と資本物神の観念」への拝跪があると思うのです。

?ヒルファーディングは『金融資本論』第五章 銀行と産業信用のなかでこうのべている。
「だが、流通信用そのものによっては、一生産資本家から他の生産資本家へ貨幣資本が移転されるのでもなければ、他の(非生産的)諸階級から資本家階級へ貨幣が流入して、この階級がこれを資本に転化するのでもない。だから、流通信用は現金のかわりをする。だが、これに反し、どんな形態の貨幣であるにせよ、したがって現金であるか信用貨幣であるかに関係なく、これを休息貨幣から機能貨幣資本に転化させる機能をもつ信用を、われわれは資本信用とよぶ。これを資本信用とよぶのは、この移転が、つねに生産資本の諸要素を買うことによって、貨幣を貨幣資本として充用する人への移転だからである。」(ネット版)

このように彼は、マルクの言うところの「商業信用」を「流通信用」と規定している。そして、この記述の前に「銀行信用」を押さえた上で、「資本信用」という彼独自の概念を登場させている。
そして「資本信用」の規定をこう与えている。

「流通信用は、かれの商品資本に貨幣資本の形態をあたえるにすぎない。資本信用はこれとちがう。それは、所有者が資本として充用しえない一貨幣額をば、それを資本として充用すべき人に移転することにほかならない。そうされることは、その貨幣額の宿命である。というのは、もしそれが資本として充用されないならば、それの価値は保持されることができず、還流することができなかろうからである。だが、社会的にみれば、貨幣を安全に貸し出しうるためには、それが債務者に還流することがいつも必要である。ここでは既存の貨幣が移転されるのであって、貨幣一般が節約されるのではない。だから、資本信用とは休息貨幣資本を機能貨幣資本に転化する貨幣の移転のことである〔*〕。この資本信用は、流通信用のように流通費用を節約するのではなくて、おなじ貨幣基礎のうえで、生産資本の機能を拡大するのだ。」(ネット版)

ヒルファーディングは『金融資本論』で「資本信用」という彼独自の概念を登場させることで、流通での貸付資本家と生産資本家ではなく、「生産資本の機能」での関係を考察している。
だが「休息貨幣資本を機能貨幣資本に転化する貨幣の移転」は、貨幣資本が「生産資本の機能」を受取る前段で、「休息貨幣資本」(遊休貨幣)の貸付資本への転化を必要とするのではないか?産業資本家は銀行業者に手形の割引をさせることで、貸付可能資本を<貨幣資本>に転化させているのではないか?あるいは、株式の債権を銀行で現金化させる同様なことで、<貨幣資本>を得ているのではないか?
このことがあって始めて,次の過程としての貨幣資本の産業資本への転化が可能ではないのか?この二つの過程が、ヒルファーディングには分離されていないのです。
これでは「価値を創造し、利子をもたらすことが貨幣の属性になる」(同上)事態への批判ができないのではないでしょうか?資本物神を批判するためには、利子生み資本の運動と生産資本の運動での二つの過程での「貨幣資本」の二つの異なる規定が分離されなくてはならないのです。ヒルファーディングには物神性への批判がなく、「貨幣資本」の二つの異なる規定が混同されていたのです。

?「休息貨幣資本を機能貨幣資本に転化する貨幣の移転」とヒルファ―ディングが述べたのは、何故だろうか?
彼はこう述べた。
「だが、社会的にみれば、貨幣を安全に貸し出しうるためには、それが債務者に還流することがいつも必要である。ここでは既存の貨幣が移転されるのであって、貨幣一般が節約されるのではない。」(同)
「貨幣を安全に貸し出しうるためには、それが債務者に還流すること」であれば「貨幣が移転」したのではなくG−G−W−G`―G`の運動を経過し出発点へ回帰したのだから、貨幣が資本として貸し付けられ、利子を伴って還流したのです。貨幣のこの貸付―利子を伴っての回帰が、資本の商品化でありその価格は利子であり、「資本として機能するという使用価値」(資本論3巻原P351)を持つ貨幣を貸し出したのです。商品の二要因に論及せず、「資本として機能するという使用価値」を持つ貨幣とその価格を、彼は無視しているのです。
この点を、
>「資本としての使用価値」においてはじめて貨幣は商品となる
――と次の松崎氏は見事に了解されて、宇野の「資金」説を批判しています。


資本主義の終わり論 松崎五郎
?巻の構成と論理
(3) 利子生み資本について
<宇野の資金説のデタラメさ>
>ところで 宇野弘蔵は、『経済原論』で
 「貸付資本は … 資本を貸付けるものとして資本なのではない。何時でも資本として機能しうる貨幣を貸付けるということは、それ自身資本を貸付けるわけではない。貨幣を貸付けることが そしてそれによって利子を得ることが、かかる貨幣の所有者にその貨幣を資本たらしめるのである。… 利子は 資本の価値ではなく 貨幣の一定期間の使用に対する対価にすぎない。ここでは貨幣自身が商品となるのであって、なお資本が商品となるのではない」
と展開していますが 全くデタラメな論理です。
 「貨幣自身が商品となるのであって 資本が商品となるのではない」について。
流通手段としての貨幣それ自身は 1万円を売って1万円の代金をもらっても意味はないので 売る人はいません(両替・為替をのぞく)。そもそも商品は 使用価値をもっているから商品になれるのです。流通手段としての貨幣は商品になりえないのです。だからマルクスが規定しているように 「資本としての使用価値」においてはじめて貨幣は商品となるのです。「この属性において貨幣が商品に 同じことに帰着するが 資本としての資本が商品となる」の規定は 全く正しいのです。しかも 普通の販売では 貨幣は流通手段でしかないので 資本としての貨幣の販売は 特殊な販売つまり貸付形態をとるのです。
 ところで 資本は「自己増殖する価値」と規定されます。宇野の述べる「貨幣の一定期間の使用に対する対価」とは何なのですか。貨幣は一定量の価値であり、対価が入るということはその価値が増殖したということなのだから 資本そのものではありませんか。また流通手段としての貨幣は、売買つまり商品と交換する時に一度限りで使用するもので(使うと自分のものでなくなる)「一定期間の使用」とは流通手段としての使用とは異なる使用方法です。つまり「資本としての使用」なのです。よって資本制生産では、貨幣は流通手段と資本という2つの規定をうけます。宇野は そのどちらでもないとして「資金」と名づけていますがその概念規定は何なのかということです。宇野の「資本ではなく資金だ」という主張は、「値札をつけて陳列棚に並べたら商品で棚が一杯で棚の下に置いていたら、いずれは商品になるがまだ商品ではない」というのと同じ屁理屈以外のなにものでもありません(概念規定を状態説明にずらしています)。
 つまり宇野は、資本としての貨幣が商品となるとは規定したくないのです。

?資本である<貨幣の使用価値と価格>の意味は、通常私達の抱いている商品の使用価値と価値の概念からとても了解しがたいものです。
そこでマルクスはこう述べています。
「またここですぐに想起されるように、資本は流通過程においては商品資本及び貨幣資本として機能する。しかしそのどちらにおいても、資本は資本として商品になるのではない。」(資本論3巻原P354)
「現実の流通過程においては、資本はつねに商品または貨幣としてのみ表れ、資本の運動は一連の購買と販売とに帰着する。要するに流通過程は、商品の変態に帰着する。再生産過程を全体として考察する場合には、事情が異なる。・・・貨幣は貨幣として支出されるのでも商品として支出されるのでもなく、それが貨幣として前貸しされる場合にも商品と交換されるのではなく、また商品として前貸しされる場合にも貨幣と引き換えに販売されるのではない。そうではなく、貨幣は資本として支出されるのである。」(同上P357)

上記の「それが貨幣として前貸しされる場合にも商品と交換されるのではなく」――この説明はとても理解できない事柄です。

この説明について、マルクスさん、われわれが混乱するのを見透かしていたのか、プルードンの説を題材にレクチャーしています。
「利子をとっての貸し付けは、『売るものについての所有権を決して譲渡せずに、同じ物品をいつも再び販売し、いつも再びその代価を受取る能力である。』
・・・しかしプルードンは、貨幣が利子生み資本の形態で手放される場合にはそれに対する何らの等価物も受取られないということを見ない。」(同上357)
私なぞ、
「利子をとっての貸し付けは、・・・いつも再びその代価を受取る」――ので交換とおもうのですが、マルクスさん――「等価物も受取られない」と言うのです。

これでは私なぞプルードンとおなじではありません・・・・困ってしまいます。

何故、間違えてしまうのか?マルクスはその理由をこう述べています。
「それ背は、利子生み資本に特有な運動において、プルードンにとって依然として説明のつかない点はなんであろうか?購買、価格、対象の譲渡というカテゴリーと、ここで剰余価値が現象する無媒介的形態とである。要するに、ここでは資本が資本として商品になっており、それゆえ、販売が貸付に転化し、価格が利潤の分け前に転化しているという現象である。」(同上原P359)

そしてマルクスさん「利子を研究」するところで、「譲渡」(同上原P363)「貸し付け」(同上原P365)「価格」(同上原P367)と、私達が「説明のつかない点」へのレクチャーしています。

また思い立ったら、宇野さんも顧みなかったマルクスのレクチャーを読み込んでみます。



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