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「世界恐慌分析のための原理」(バラキン雑記)を読んで 田中一弘

2:利子生み資本は生産過程の内か外か?メグミ
ebara 10/29 10:16
利子生み資本は生産過程の内か外か?  
                         メグミ

田中さん
>ではどうして「貸付可能な貨幣資本」(以下では貨幣資本と略記)は投機へと向かうのでしょうか。残念ながら、この点について榎原さんは詳しく展開されていません。そこで自分が現在学習しつつある内容を紹介しますので、ご検討ください。

田中さんのこの質問に対して、すでに次の問いを立てることで榎原さんは答えていると思うのです。

バラキン雑記 「世界恐慌でケインズ復活か」
>それだから架空資本の売買で利益を上げる投機取引について、これを資本主義的な資本市場に付きものの事態として把握できず、現実資本にとって害悪をもたらすものとして、倫理的に排斥しているだけなのだ。
 だからケインズの理論からすれば、80年代以降に発達した投機、信用資本主義について、倫理的に非難することしかできない。しかしいま必要なものは投機、信用資本主義到来の必然性と、その克服の道を指し示すことだ。

>架空資本の売買で利益を上げる投機取引について、これを資本主義的な資本市場に付きものの事態

――との思いは田中さんに無かったのですね。

サッチャーやレーガンに示された次の新自由主義への転換についての認識を田中さんはどう思うのですかね・・・?

>従来大企業の経営者たちは、株主への配当を目的に事業を経営してきたのではなく、雇用している人たちへの生活権へも配慮し、また国民経済の成長にも貢献してきましたが、このような企業のあり方とはまったく別の、株式時価総額の極大化という目的で会社を支配しようという意志が働くようになっていったのです。そのために重役制度を改変し、信用、投機資本の利害を代表する勢力と企業側の代表(受任者)のCEOとの関係を調整していったのです。

(バラキン雑記「世界恐慌の分析を目指して(第一回)」金融資本主義から信用、投機資本主義への移行2)世界の株主たち)

>架空資本の売買で利益を上げる投機取引について、これを資本主義的な資本市場に付きものの事態

――であったものが、30年代的危機への反省としてのケインズ主義(ニューディ―ル政策)の放棄としての新自由主義・・・・という歴史的展開であって、

田中さんの

>4「そもそも株式の発行体である自動車、家電などの耐久消費型重化学工業は、・・・・もはや十分な収益を上げられなくなっていたのである。・・・・これら企業はM&Aなどを利用して事業の再構築に取り組まざるを得ないことになったが、この動きに機関投資家の積極的株主活動が重なったことから、事業再構築による収益性の重視という目標は、具体的にROEの重視など株主の利益を重視する、株主重視経営とか株価至上主義という形に結びついていったのである。」(『情況』2008・7月号、p.214)

――このような主張・・・つまり、

>事業再構築による収益性の重視・・・投下資本の利潤形成の効率からの・・

>株主重視経営とか株価至上主義・・・への転換――であったのだろうか?

>株式の発行体である自動車、家電などの耐久消費型重化学工業

――という認識こそが、第一次大戦前の対イングランドの路線をとったドイツの株式による巨大企業統合による重化学工業の形成を示すものであり、『金融資本論』、ヒルフアーディングの採用したものでした。

ところが榎原さんの提起は、以下でした。

>当時はイギリスの金融市場に比べ、アメリカの金融市場は規制がなく、投機家が株式市場でバブルを演出し、恐慌に至った。これを反省して、銀行と証券会社を分離する、グラス・スティーガル法で規制がかかった。ケインズも1936年に出版した一般理論で、「金利生活者の安楽死」を経済政策として考えた。(世界恐慌分析のための原理 投機・信用資本主義の原理)
>さて、資本主義の新たな段階規定を行おうとする限りで、第二次世界大戦後の歴史的過程を簡単に整理しておこう。東側は中国での毛沢東の勝利が大きく、民族解放戦争が激化した。熱戦から平和共存、冷戦への以降後、西側は福祉国家体制をとり、産業資本が中心となって経済成長を成し遂げた。ケインズが期待したインフレによる金利生活者の安楽死が実現した。国連、IMFの固定相場制、GATによる自由貿易交渉、世界銀行による開発融資これらが戦後世界の枠組みであった。(同上)

>福祉国家体制をとり、産業資本が中心となって経済成長――であって、最大限の利潤の追求という資本の要求=経済法則からの追求ではなかったのです。

私はこのような歴史的経験を採りたい。しかし、このような経験をヒルフアーディングの『金融資本論』

に示された思想からは学ぶことが出来ないと思うのです。

>金融資本は銀行と産業との癒着と定義(同上)――

と考えるところにこそ、ヒルフアーディングの誤りがあったのではないでしょうか?

榎原さんが示された次の記述がそのことを批判しています。

>「・・・これらの請求権の蓄積は、前提によれば、現実の蓄積から、すなわち商品資本等々の価値が貨幣に転化することから生じる。とはいえ、これらの請求権そのものの蓄積は、それの源泉である現実の蓄積とも違うし、貨幣の貸出によって媒介される将来の蓄積(生産過程)とも異なるのである。」(同書、旧版553〜4、全集版524〜5頁、訳文、大谷訳、269頁)

>請求権の蓄積――とは、貸し付け資本であり、貨幣資本家が債権の形で産業資本家へ貸し付けたものだからです。

>「これらの請求権そのものの蓄積は、それの源泉である現実の蓄積とも違うし、貨幣の貸出によって媒介される将来の蓄積(生産過程)とも異なる」

利子は、剰余価値の生産を前提するとはいえ生産資本から生じるのではなく、「請求権」である「貸し付け資本」から生じるものだからです。

ところが、「利子生み資本」を「利子生み資本とは、貸付けたお金が産業などの現実資本に投下される資本の形態」――では、現実資本の運動の中での「利子生み資本」であり、生産過程の中に入る利子生み資本という理解になっています。

しかしマルクスは、「利子生み資本」(資本論3巻21章)を踏まえて、23章「利子と企業者利得」でこう述べています。

「資本の使用者は、例え自己資本で仕事をしても、二つの人格に――資本の単なる所有者と資本の使用者とに――分裂する。彼の資本そのものは、それがもたらす資本所有すなわち生産過程外にある資本と過程進行中の資本として企業者利得をもたらす生産過程内にある資本とに、分裂する。」(原P388)

貨幣貸付資本・利子生み資本は、「生産過程外にある資本」なんですね。

あるいはこうにものべています。

「利子は、他人の労働の諸生産物を取得する手段としての単なる資本所有を表す。しかし、利子は、資本のこの性格を、生産過程の外部で資本に帰属し、この生産過程そのものの独特な規定性の結果ではけっして無いあるものとして表す。利子は、このあるものを、労働に対する直接対立においてでは決してなく、逆に労働とは無関係に、かつある資本家と他の資本家との単なる関係として表す。・・・利子は、二人の資本家の間の一関係であって、資本家と労働者の関係ではない。」(原P395〜396)

私が、生産過程の内と外の二つの資本について学んだのは次のブローグからです。是非とも参照願います。

(?) 信用の崩壊論(恐慌・一大破局の現状分析)
ホームページキャピタルネット

宇野批判として素晴らしいものです。資本論25章から35章の紐解きとしても素晴らしいものです。

*ホームページアドレスは現在掲載できませんので消去しました。(境)










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