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「世界恐慌分析のための原理」(バラキン雑記)を読んで 田中一弘

1:「世界恐慌分析のための原理」(バラキン雑記)を読んで 田中一弘
ebara 10/26 16:26
 「世界恐慌分析のための原理」(バラキン雑記)を読んで
                     田中一弘

 榎原さんの「世界恐慌分析のための原理」において、信用資本主義は、変動相場制への移行および世界単一の資本市場の成立を条件として、成立・発展してきたことが述べられています。さらにその具体的な展開を次のようなものと捉えています。
 「現在の金融市場でのプレーヤーは銀行、証券会社、年金基金、保険会社などの機関投資家、投資ファンド(ヘッジファンドやミューチュアルファンド)であり、彼らが経済に対して大きな影響力を持っている。これらの資本家はみな他人のお金を現実資本に投資するのではなく、金融資産の売買に向けることで、投機資本としている。」
 この投機資本を実体経済あるいは現実資本との関係から考察したものが以下の部分でしょう。
 「貸付可能な貨幣資本は、産業資本の循環のうちで形成される遊休貨幣資本や、各種の収入(資本家が受け取る利潤や労働者の労賃など)が預金されることで銀行に集中される。・・・・この貸付可能な貨幣資本の蓄積は現実資本の蓄積からは相対的に独立しているし、また貸付可能な貨幣資本の運用については架空資本の売買という投機に向かいやすい。」
 ではどうして「貸付可能な貨幣資本」(以下では貨幣資本と略記)は投機へと向かうのでしょうか。残念ながら、この点について榎原さんは詳しく展開されていません。そこで自分が現在学習しつつある内容を紹介しますので、ご検討ください。
 まず原理的面から。利子生み資本の成立によって、すべての貨幣は資本とみなされるようになり、自己増殖運動を自動的に展開するものとして、人々の意識を支配している。貨幣は貨幣であるがゆえに、投資すれば増えるものだと意識されている。もちろん蓄蔵貨幣と貨幣資本との区別は日常意識でもなされているし、経済状況しだいでは自己増殖がなされない可能性があることも認識されている。しかしながら、生産過程における剰余価値生産が利子の現実的な根拠であることは意識から消失している。そしてその実現の場は、架空資本売買市場が最適である。というのはそこで投資される貨幣資本の出自は、現実の生産過程にさしあたりは投資されない遊休資本やさしあたりは支出されない通貨としての預金だからである。
 実証的な面、あるいは世界経済の歴史的発展との関係の面。この点について、『情況』2008・7月号に掲載されている二つの論文―河宮信郎 「サブプライム問題―その構造的分析の試み」(p.162〜184)、 長谷部孝司 「アメリカ金融システムの変容が意味するもの(下)」p.212〜235)―を紹介したいと思います。ただ(1)は私の仮説です。
 (1)全世界の商品市場としてアメリカは他国から膨大な輸入を行うことにより、資本主義を支えてきた。そのため世界最大の外国為替取引市場が発展した。これが変動相場制の導入およびオンライン化によって、決済の場から投機の場へと変質した。
 (2)70年代以降、欧州や日本との競争に敗れる形で、アメリカの工業は衰退あるいは空洞化していった。その結果、「米経済が金融業に特化し、米金融業が証券業に特化した」(『情況』2008・7月号、p.162)。また、「金融業に特化した米経済では、通常の製造業は『有望な投資先』にならない。結局、金融業が自前で『金融商品』を創出する以外に資金運用の方途がない。」(『情況』2008・7月号、p.165)
 (3)「一九六〇年代後半から機関投資家の資金の運用方法に変化が見られるようになった・・・・。経済成長の鈍化にともなう株価の低迷等を背景に、株式等の長期保有から回転売買を繰り返すようになったのである。」((『情況』200・7月号、p.212)
 (4)「そもそも株式の発行体である自動車、家電などの耐久消費型重化学工業は、・・・・もはや十分な収益を上げられなくなっていたのである。・・・・これら企業はM&Aなどを利用して事業の再構築に取り組まざるを得ないことになったが、この動きに機関投資家の積極的株主活動が重なったことから、事業再構築による収益性の重視という目標は、具体的にROEの重視など株主の利益を重視する、株主重視経営とか株価至上主義という形に結びついていったのである。」(『情況』2008・7月号、p.214)
 (5)「従来型の産業・企業でM&Aや自社株買いが盛んに行われると、これらを通して同産業・企業内に滞留していた過剰資金が吐き出され、それらの資金は家計、機関投資家を通して最終的に新産業・企業へ供給されることになった。」(『情況』2008・7月号、p.215)
 (6)「株式投資では、IT関連などの新興産業・企業向けの資金供給が増大したと考えられる。これを端的に示すのが、NASDAQ市場の急成長である。」(『情況』2008・7月号、p.218)
 (7)六〇〜七〇年代において、アメリカ「国民のほとんどが、自動車、家電など物財に対する欲求を充足させてしまった」、つまり「福祉国家体制を形成し豊かな社会を実現したことが、耐久消費財形重化学を中心とする産業構造から、ソフト化・サービス化産業を中心とするそれへの転換をもたらすことになり、九〇年代以降には、この転換はIT産業の発展を中心に進むことになったのである。」(『情況』2008・7月号、p.229)
 この点については、日本車の販売増大などによる貿易赤字の増大、あるいは住宅バブルから考えると違うような気がします。欲求が充足されたからではなく、従来型の産業がアメリカでは衰退し、ディズニーあるいはハリウッドとマイクロソフトだけが世界的企業あるいは産業として生き残った、というほうが正確ではないでしょうか。IT産業が現代資本主義において中心となっているという見解について、小松聰『世界経済の構造』第?部第四章で詳細な批判がなされています。IT技術がすべての産業において広範に用いられているということと、その技術を生産している産業が中心的な産業であるということとは区別されるべきでしょう。
 (8)「IT産業の世界では技術変化が大変急速なので、・・・・『選択と集中』によって、自らは得意分野に資金や人材を集中させつつ、それ以外については、優れた技術を開発した他企業をM&Aによって取り込んだり、業務提携によって共同で事業を行ったり、アウトソーシングのネットワークを広げたりすることで、『時間を買う』という戦略を展開せざるを得ないことになる。こうして、IT産業・企業ではM&Aや業務提携は日常茶飯事となる。」(『情況』2008・7月号、p.224〜5)そのための資金調達方法として株価時価総額主義がとられることになった。
 (9)七〇年代以降の「アメリカの金融システムの変容・改革の動き・・・・、これは以下のように意味づけられるのではないだろうか。すなわち、福祉国家体制の形成によって発展した耐久消費財型重化学工業は、一九六〇,七〇年代には成熟化を迎え、以後はソフト化・サービス化産業という新しい生産力を中心とする時代へと移行し始めた。こうした産業構造の転換、すなわち、新生産力の発展に対応して、金融システムも転換を迫られることになった。すなわち、耐久消費財型重化学工業に適合的な金融システムは、ITを中心とするソフト化・サービス化産業の発展に適合的な金融システムへと転換していくことになった。このような産業構造の転換、すなわち新生産力の発展に対応して金融システムが転換していく過程、これこそがこの時期のアメリカの金融システムの変容・改革が意味するものであったのではないだろうか。」(『情況』2008・7月号、p.231)
 ライブドア事件が日本における代表的な事例として理解できます。しかし、信用資本主義はIT産業によって発展したのではなく、長谷部さんも論文の前半で展開されているように、現実資本の行き詰まりから金融経済の構造変化が発生し、その後発生したIT産業へと行き場を失っていた貨幣資本が流入した、というほうが正確ではないでしょうか。そうでなければITバブルの崩壊以降も、信用資本主義が繁栄したことが説明できないのではないでしょうか。
 現在の世界恐慌を考える際に、架空資本と現実資本の関係の問題は、重要な論点をなすのではないかと、私は考えています。榎原さんの論文や大谷さんの考証によるマルクスのテキストを現在学習中ですが、これがなかなか難しい。とりあえずの方針、というか見取り図を書いている段階です。
 信用資本主義とは、現実経済とは表面的には無関係な運動を展開する架空資本の運動として、展開されてきたものでしょう。サブプライムローンなどの証券化商品とは究極の架空資本なのです。利子生み証券としての架空資本の架空性は、何よりもその価格変動に現れます。つまり、それがもたらす配当・利子の変動とは相対的に自立した形で、証券市場の需給関係で決定されるという点にです。榎原さんも次のように述べています。
 「信用資本は架空資本を投機的に取引することで蓄積して行く。それはバブルを形成し、バブルがはじければ金融資産の時価総額は暴落するが、しかしこれは現実資本にとっては直接のかかわりがない。実体経済の動向とは無関係に、バブルとその収縮、これを繰り返すことは投機・信用資本主義の宿命である。」
 しかし、それが「将来の利益に対する請求権」として成立している以上、現実経済において利益が生み出されることがなくなれば、たとえば住宅ローンの返済が滞れば、その価格は暴落する、というような形で、架空性が暴露され、現実経済との関係に引き戻される、このように言えないでしょうか。サブプライム問題は住宅販売の低迷・住宅価格の低下に端を発しています。この場合、住宅自体が金融資産であって、架空資本の一部をなしていたといえるでしょう。とはいえ、商品(資本)としての、使用価値の側面をも持つものとしての住宅の販売実績の低迷という観点から見ると、それは現実経済の一部であったとはいえないでしょうか。このようにいったとしても、その後の金融危機は現実経済の動向とは無関係であるのは確かですが。
 また、信用資本主義から協同社会への移行という革命的観点から見るならば、社会的富の抽象的・物神的形態としての貨幣資本を、どのような共同的あるいは直接に社会的な富として奪回することができるのか、あるいは、そのような貨幣資本の蓄積を使用価値的な観点=人間と自然の物質代謝過程の観点からみるとどのように把握されるのか、そのような問題を考えてみたいと思っています。個人的には過剰資本として現れているものを、自由時間として、享受の時間へと転換としてみたいものだと思いますが。




2:利子生み資本は生産過程の内か外か?メグミ
ebara 10/29 10:16
利子生み資本は生産過程の内か外か?  
                         メグミ

田中さん
>ではどうして「貸付可能な貨幣資本」(以下では貨幣資本と略記)は投機へと向かうのでしょうか。残念ながら、この点について榎原さんは詳しく展開されていません。そこで自分が現在学習しつつある内容を紹介しますので、ご検討ください。

田中さんのこの質問に対して、すでに次の問いを立てることで榎原さんは答えていると思うのです。

バラキン雑記 「世界恐慌でケインズ復活か」
>それだから架空資本の売買で利益を上げる投機取引について、これを資本主義的な資本市場に付きものの事態として把握できず、現実資本にとって害悪をもたらすものとして、倫理的に排斥しているだけなのだ。
 だからケインズの理論からすれば、80年代以降に発達した投機、信用資本主義について、倫理的に非難することしかできない。しかしいま必要なものは投機、信用資本主義到来の必然性と、その克服の道を指し示すことだ。

>架空資本の売買で利益を上げる投機取引について、これを資本主義的な資本市場に付きものの事態

――との思いは田中さんに無かったのですね。

サッチャーやレーガンに示された次の新自由主義への転換についての認識を田中さんはどう思うのですかね・・・?

>従来大企業の経営者たちは、株主への配当を目的に事業を経営してきたのではなく、雇用している人たちへの生活権へも配慮し、また国民経済の成長にも貢献してきましたが、このような企業のあり方とはまったく別の、株式時価総額の極大化という目的で会社を支配しようという意志が働くようになっていったのです。そのために重役制度を改変し、信用、投機資本の利害を代表する勢力と企業側の代表(受任者)のCEOとの関係を調整していったのです。

(バラキン雑記「世界恐慌の分析を目指して(第一回)」金融資本主義から信用、投機資本主義への移行2)世界の株主たち)

>架空資本の売買で利益を上げる投機取引について、これを資本主義的な資本市場に付きものの事態

――であったものが、30年代的危機への反省としてのケインズ主義(ニューディ―ル政策)の放棄としての新自由主義・・・・という歴史的展開であって、

田中さんの

>4「そもそも株式の発行体である自動車、家電などの耐久消費型重化学工業は、・・・・もはや十分な収益を上げられなくなっていたのである。・・・・これら企業はM&Aなどを利用して事業の再構築に取り組まざるを得ないことになったが、この動きに機関投資家の積極的株主活動が重なったことから、事業再構築による収益性の重視という目標は、具体的にROEの重視など株主の利益を重視する、株主重視経営とか株価至上主義という形に結びついていったのである。」(『情況』2008・7月号、p.214)

――このような主張・・・つまり、

>事業再構築による収益性の重視・・・投下資本の利潤形成の効率からの・・

>株主重視経営とか株価至上主義・・・への転換――であったのだろうか?

>株式の発行体である自動車、家電などの耐久消費型重化学工業

――という認識こそが、第一次大戦前の対イングランドの路線をとったドイツの株式による巨大企業統合による重化学工業の形成を示すものであり、『金融資本論』、ヒルフアーディングの採用したものでした。

ところが榎原さんの提起は、以下でした。

>当時はイギリスの金融市場に比べ、アメリカの金融市場は規制がなく、投機家が株式市場でバブルを演出し、恐慌に至った。これを反省して、銀行と証券会社を分離する、グラス・スティーガル法で規制がかかった。ケインズも1936年に出版した一般理論で、「金利生活者の安楽死」を経済政策として考えた。(世界恐慌分析のための原理 投機・信用資本主義の原理)
>さて、資本主義の新たな段階規定を行おうとする限りで、第二次世界大戦後の歴史的過程を簡単に整理しておこう。東側は中国での毛沢東の勝利が大きく、民族解放戦争が激化した。熱戦から平和共存、冷戦への以降後、西側は福祉国家体制をとり、産業資本が中心となって経済成長を成し遂げた。ケインズが期待したインフレによる金利生活者の安楽死が実現した。国連、IMFの固定相場制、GATによる自由貿易交渉、世界銀行による開発融資これらが戦後世界の枠組みであった。(同上)

>福祉国家体制をとり、産業資本が中心となって経済成長――であって、最大限の利潤の追求という資本の要求=経済法則からの追求ではなかったのです。

私はこのような歴史的経験を採りたい。しかし、このような経験をヒルフアーディングの『金融資本論』

に示された思想からは学ぶことが出来ないと思うのです。

>金融資本は銀行と産業との癒着と定義(同上)――

と考えるところにこそ、ヒルフアーディングの誤りがあったのではないでしょうか?

榎原さんが示された次の記述がそのことを批判しています。

>「・・・これらの請求権の蓄積は、前提によれば、現実の蓄積から、すなわち商品資本等々の価値が貨幣に転化することから生じる。とはいえ、これらの請求権そのものの蓄積は、それの源泉である現実の蓄積とも違うし、貨幣の貸出によって媒介される将来の蓄積(生産過程)とも異なるのである。」(同書、旧版553〜4、全集版524〜5頁、訳文、大谷訳、269頁)

>請求権の蓄積――とは、貸し付け資本であり、貨幣資本家が債権の形で産業資本家へ貸し付けたものだからです。

>「これらの請求権そのものの蓄積は、それの源泉である現実の蓄積とも違うし、貨幣の貸出によって媒介される将来の蓄積(生産過程)とも異なる」

利子は、剰余価値の生産を前提するとはいえ生産資本から生じるのではなく、「請求権」である「貸し付け資本」から生じるものだからです。

ところが、「利子生み資本」を「利子生み資本とは、貸付けたお金が産業などの現実資本に投下される資本の形態」――では、現実資本の運動の中での「利子生み資本」であり、生産過程の中に入る利子生み資本という理解になっています。

しかしマルクスは、「利子生み資本」(資本論3巻21章)を踏まえて、23章「利子と企業者利得」でこう述べています。

「資本の使用者は、例え自己資本で仕事をしても、二つの人格に――資本の単なる所有者と資本の使用者とに――分裂する。彼の資本そのものは、それがもたらす資本所有すなわち生産過程外にある資本と過程進行中の資本として企業者利得をもたらす生産過程内にある資本とに、分裂する。」(原P388)

貨幣貸付資本・利子生み資本は、「生産過程外にある資本」なんですね。

あるいはこうにものべています。

「利子は、他人の労働の諸生産物を取得する手段としての単なる資本所有を表す。しかし、利子は、資本のこの性格を、生産過程の外部で資本に帰属し、この生産過程そのものの独特な規定性の結果ではけっして無いあるものとして表す。利子は、このあるものを、労働に対する直接対立においてでは決してなく、逆に労働とは無関係に、かつある資本家と他の資本家との単なる関係として表す。・・・利子は、二人の資本家の間の一関係であって、資本家と労働者の関係ではない。」(原P395〜396)

私が、生産過程の内と外の二つの資本について学んだのは次のブローグからです。是非とも参照願います。

(?) 信用の崩壊論(恐慌・一大破局の現状分析)
ホームページキャピタルネット

宇野批判として素晴らしいものです。資本論25章から35章の紐解きとしても素晴らしいものです。

*ホームページアドレスは現在掲載できませんので消去しました。(境)










3:取引か投機か?メグミ
ebara 11/04 21:19
銀行業者と手形による預金を行う資本家との関係は、取引か投機か?メグミ

田中さんの質問について再考してみます。

>ではどうして「貸付可能な貨幣資本」(以下では貨幣資本と略記)は投機へと向かうのでしょうか。
榎原さんはその記述の前に、定義をしています。
>貸付可能な貨幣資本は、産業資本の循環のうちで形成される遊休貨幣資本や、各種の収入(資本家が受け取る利潤や労働者の労賃など)が預金されることで銀行に集中される――

そこで注意願いたいのが、「貸付可能」の意味です。それは、銀行にお金を借りにきた資本家が振り出す手形を割り引いて、預金通帳に金何円と数字を書き込む決済手段(貨幣貸付資本)に成り得るもの――ということですよね。

私達が注意しなければいけないのは、ここに銀行業務に対するある先入観があることです。手持ちのマルクス経済学の解説本にこう書いています。
「一般的に言えば、金融は実体経済の補助的存在である。」(『金融論』関根猪一郎他著青木書店P51)宇野経済学の「資金」も同じです。
>金融資本は銀行と産業との癒着――
と同じ内容ですね。トラスト・カルテル・コンツエルンに示されるように株式による金融寡頭制支配は、独占であり、競争を排除した経済的仕組み・・・という私達の常識とする先入観があると思うのです。投機が、管理された独占とは矛盾しているが自明なことなのか?・・・・・ということかと思うのです。

しかし、銀行券は、手形流通を基礎としているのであり、商業信用とは異なる銀行信用のなかで生成していて、資本制的生産様式の上部構造の内でのことなのです。3部25章で、ギルバートの「取引をも容易にするものはすべて、投機をも容易にする。両者(取引と投機)は多くの場合に極めて密接に結びついているので、どこまでが取引でどこからが投機であるかを言うことは困難である」(三巻原P420)――をマルクスは紹介しています。そして、手形にとの銀行の前貸しという取引が、「同じ1000ポンド・スターリングの貨幣は、一連の移転によって、絶対に確定できない何倍もの預金額になることが出来る。それゆえ、・・全預金の十分の九が・・・銀行業者たちの帳簿上の記帳以外には何ら実存しない・・・」(同)
と、マルクスの他の草稿からの引用が示しています。帳簿上の記帳である<仮空の存在>に、貨幣貸付可能資本がなるから、銀行業者と手形割引の資本家の間柄は<取引であり投機>になるのですね。商品と貨幣の交換関係という実体的な存在ではないのですし、仮空の資本を銀行は記帳することで資本家に貸し出すのです。
だからこそ
>架空資本の売買で利益を上げる投機取引について、これを資本主義的な資本市場に付きものの事態――と読んだ次第であったわけです。

田中さん 「資本主義の終わり論」でネット検索してみてください。でてきた項目で、「三巻の論理と構成」「信用の崩壊論」を開けば、この間紹介しました資本論三巻の21章〜32章の案内がある次第です。
「金融資本」という思想をこそのりこえましょう。



4:メグミさんへの回答 田中一弘
ebara 11/09 12:16
 メグミさんへの回答 田中一弘

 長いあいだ回答しなくてすいませんでした。日々の仕事や雑事に追われるとともに、紹介してくださったサイトや資本論の読解に時間がかかり、なかなか考えがまとまりません。とりあえず、過剰な貨幣資本形成の必然性については資本論の論理で原理的な部分は理解できました。しかしまだそれが投機に向かう必然性は判然としません。マルクスを読んでも、信用制度の発展とともに投機の余地が増大する傾向の指摘はありますが、その根拠は明示していないようですが、どうでしょう。もしかしたら問い自体が意味のないものかもしれませんね。過剰性は現実資本へ転化する場面にたいしてのものであるから、という理由なのでしょうか。
 実体経済との関係という点、あるいは金融資本概念の克服という点についてですが、私の引用が片手落ちであったかもしれません。4の文章の前に次のように書いてあります。
 「ところで、ここで注意しておきたいのは、一九八〇年代のアメリカで株主重視経営への転換がなされた理由として、上述のように、機関投資家からの圧力が重要な役割を果たしたことは事実であるが、それだけでこの転換がなされたわけではないということである。むしろその背後では、すでに実体経済のあり方自体に変化が進んでいたという点が重要である。」(『情況』2008・7月号、p.214)
 この文章に続いて、4の引用文があります。再度引用しておきます。
 「そもそも株式の発行体である自動車、家電などの耐久消費型重化学工業は、・・・・もはや十分な収益を上げられなくなっていたのである。・・・・これら企業はM&Aなどを利用して事業の再構築に取り組まざるを得ないことになったが、この動きに機関投資家の積極的株主活動が重なったことから、事業再構築による収益性の重視という目標は、具体的にROEの重視など株主の利益を重視する、株主重視経営とか株価至上主義という形に結びついていったのである。」(『情況』2008・7月号、p.214)
 実体経済の変化のほうを重要と見るか、機関投資家の圧力を重要と見るか、この点で見解が相違すると思います。メグミさんは後者を重視していると思います。私も信用制度の展開が重要だと思いますが、架空資本と現実資本との関連という点で、実体経済の変化をも考慮することは必要ではないでしょうか。不況から脱出するための事業再構築の方法として、合併・買収による規模の経済の追及が、金融市場の変化に乗じる形で行われ、その仲介役として信用資本が自らの蓄積を行ったのではないでしょうか。もちろん信用資本の活動は仲介なしの株式売買が中心かもしれませんが、実体経済との関係ではこのように言っても間違いではないと思います。
 新自由主義についてですが、階級闘争と資本蓄積あるいは経済過程という二つの観点を総合的に把握したいというのが、私の考えです。この二つの観点について、戦後の福祉国家体制、あるいは国家独占資本主義の成立をどのように捉えるか、という問題を考えてみます。
 支配階級の労働者階級への譲歩という側面から見ると「福祉国家体制」と規定できますが、国家の経済過程への介入による資本蓄積の維持・向上という面から見れば、いわゆる「国家独占資本主義」とも規定することができると思います。ケインズ主義による有効需要の創出とは、資本投下場面の創出という面と、失業対策という面の両面があるのではないでしょうか。この二つの側面とは、資本主義経済の変化の原因を、資本蓄積の危機・変化という面と階級闘争による影響という面に区別すると同時に、両者の関連を考察しなければならないということを意味していると思うのです。どちらか一方だけの理解では不十分ではないかと思われるのです。この点に関して、「福祉国家体制」への移行に関する以下の二つの見解を検討してみます。
 階級闘争を重視するものとして、ネグリ『さらば、“近代民主主義”』より
 「『労働』は長いあいだ、物質的な財の生産活動に還元されてきた。しかし現在、『労働』は、社会的活動の全領域を意味するものになっている。この変化を理解するためには、一九一七年のロシア革命からはじまった労働の組織化にかかわる闘争と変革のサイクルを考察しなければならない。
 それは、組織化された労働全体を、長期にわたって(これを『短い世紀』と呼ぶものがいるほどの期間)持続的に危機に陥れた労働者の反逆的挑戦によるものだった。資本主義システムに対する生きた労働の側からのこの攻撃への最初の応答は、まず『ニューディール』というかたちで提示され、ついで、地球上の中心的地域における『福祉国家』の創設の展開というかたちをとるところとなった。つまり、国家や社会が、生政治的な組織化と搾取の形態を課すという方向に向かったのである。」(p.31〜2) 
 このような把握の仕方は資本の蓄積様式の変化という客観的構造を理解しない一面的なものである、という批判が、小松聰からなされています。なお、小松の批判はネグリを対象にしたものではなく、大内力などのマル経学者を直接の対象としています。少し長いですが、まず、小松自身の見解を紹介しておきます
 「以上みたように第一次世界大戦後に特有な具体的諸条件のなかで、世界的規模で金融資本が経済的過程として蓄積展開できなくなったのであるが、今一度まとめてみると次のとおりである。
?戦後アメリカは、第一次大戦の戦時利得でカサ上げされた高国民所得水準による広大な国内市場を基盤にして、耐久消費財と大量生産方式を導入して、生産力を一挙的・飛躍的に高めた。そのアメリカの量産型重化学工業が、戦後資本主義世界の支配的な産業構造と生産力水準になった。
?資本主義の牙城であったヨーロッパの工業がアメリカの工業生産力によって圧迫され、ヨーロッパ諸国は経済停滞に陥り大量失業を累積した。そのためにヨーロッパ諸国が国内に農業を抱え込むという異常な事態が起こった。
?その結果、伝統的な農工国際分業関係の崩壊と世界的な農産物を中心とする第一次産品不況が発生した。
?しかも戦前における対後進地域・鉄道部門投資のばあいのように、広範な未開発地域にたいして戦後に機軸産業になった耐久消費財関連産業投資をして、新規に世界市場を創出することもできなかった。後進・未開発地域では現地民の所得・消費水準がきょくどに低く、比較的高価な耐久消費財市場が全く存在しなかったからである。・・・・
こうして、世界的規模で金融資本は経済的自立的に蓄積拡大する条件を喪失してしまった。」(小松聰『世界経済の構造』p.27〜8)
 1929年の世界恐慌が端的に現しているように、第一次大戦後においては、「対内的にはもちろん対外的にも資本家的にいかんとも処理しえなくなった結果として発生した、文字通り構造的な大量の過剰資本・過剰人口が現実的に累積した。・・・こうして資本主義は、自らの経済形態を通して社会成員を包摂・扶養できなくなって、経済過程からハミ出る膨大な過剰人口を排出し、かつ世界農業恐慌を引き起こしたのであるが、それは社会体制としての物的な存立根拠の喪失を意味した。二十九年世界恐慌の勃発に伴う未曾有な社会的・政治的動揺と体制崩壊の危機の高まりは、その政治的反映にほかならなかった。」(小松聰『世界経済の構造』p29).
 小松さんが言いたいのは、つぎのようなことでしょう。階級闘争が高まる背景には経済過程に根拠を持つ社会不安があるということ。そして階級闘争の高まりに対応して資本主義の構造が変化するとしても、その変化の仕方は経済過程における危機に対応したものである。世界恐慌以降の資本主義を小松さんは「国家による組織化」としてとらえているが、それは国家の介入による過剰資本の解消、すなわち有効需要創出政策に基づく経済運営のことでしょう。
 ネグリのような把握を「現代資本主義化の根拠を、資本主義経済過程にとって外的な政治的要因に求めている」(小松聰『世界経済の構造』p.38)理論としたうえで、それを「第一次大戦後の経済過程の変化が無視され、現代資本主義化の経済根拠が全く看過されてしまっている」(同)と、小松さんは批判します。このような小松さんの批判は、ネグリの一面性の指摘としては正当なものでしょう。しかし、階級闘争の高まりなどの社会不安を「資本主義経済過程にとって外的な政治的要因」というのはいきすぎでしょう。資本とは資本−賃労働関係の物象化されたものだからです。経済構造の変化が階級構成などの主体的要因にどのような影響をおよぼしているのか、という問題は小松からは感じられません。経済構造の分析であり、政治的分析は私の研究対象ではないと言われればそのとおりではあるが、それでは政治経済学批判としては不十分でしょう。
信用資本主義への移行についても、同様なことがいえると思うのです。支配階級の側からなされた階級闘争として新自由主義を捉えることは重要ですが、そのような階級闘争がなされなければならない経済的根拠とは何か―70年代のスタグフレーション―、その打開策としての新自由主義はなぜ信用資本主義へと展開したのか、この点を考えてみたいのです。国家の介入が嫌われ、その結果として市場万能主義としての新自由主義が展開したというのはわかりますが、信用資本主義との関係がはっきりしないということです。




5:金融資本論と宇野の「資金」について メグミ
ebara 11/16 21:44
金融資本論と宇野の「資金」について     メグミ

田中さん、長い返事を有難うございます。
境さんの提案される――金融資本から信用資本主義の時代へ――に、どうかお付き合い願いたいと思います。次に書いたのは「コモンズ掲示板」で、「コモンズ掲示板が目指すもの」との題で書いたものの一部です。どうかそちらもお読み願います。
またおなじく「コモンズヘようこそ」というホームページを開き「労働運動研究会」も開いてくださることをお願いします。私も参加しています。

?資本論3巻24章「利子生み資本の形態における資本関係の外面化」で、剰余価値を作り出す生産資本と利子生み資本との関連がこうまとめられている。

「利子生み資本において、資本関係はそのもっとも外面的で物神的な形態に到達する。ここでわれわれが見いだすのは、G−G`、より多くの貨幣を生み出す貨幣、両極を媒介する過程無しに自己自身を増殖する価値、である。」(資本論3巻原P404)

「現実に機能する資本自らも、すでに見たように、機能資本としてではなく資本自体として、貨幣資本として、利子をもたらすという表れ方をする。」(同上P405)

「次のこともまた歪曲されている――利子は利潤の、すなわち機能資本家が労働者から搾り取る剰余価値の一部に過ぎないのに、いまや逆に利子が資本の本来の果実、本源的なものとして現れ、利潤はいまや企業者利得の形態に転化されて、再生産過程で付け加わる単なる付帯物及び付加物として表れる。ここで、資本の物神的姿態と資本物神の観念とが完成する。G−G`においてわれわれが見いだすのは資本の没概念的形態、生産諸関係の最高度の転倒と物象化(長谷部訳)であり、・・・」(同上P405)

このように「価値を創造し、利子をもたらすことが貨幣の属性になる」(同上)現象があるのですから、物である貨幣や物である機能資本の本源的要因としての<自己増殖する価値たる利子生み資本>という観念が生まれる・・・のです。だから、そこには、生産関係の転倒による資本の物神性とそれ、をもたらさずにおかない物象化を見いだす――とのべていると思うのです。しかし、つぎのヒルファーディングの『金融資本論』には「資本の物神的姿態と資本物神の観念」への拝跪があると思うのです。

?ヒルファーディングは『金融資本論』第五章 銀行と産業信用のなかでこうのべている。
「だが、流通信用そのものによっては、一生産資本家から他の生産資本家へ貨幣資本が移転されるのでもなければ、他の(非生産的)諸階級から資本家階級へ貨幣が流入して、この階級がこれを資本に転化するのでもない。だから、流通信用は現金のかわりをする。だが、これに反し、どんな形態の貨幣であるにせよ、したがって現金であるか信用貨幣であるかに関係なく、これを休息貨幣から機能貨幣資本に転化させる機能をもつ信用を、われわれは資本信用とよぶ。これを資本信用とよぶのは、この移転が、つねに生産資本の諸要素を買うことによって、貨幣を貨幣資本として充用する人への移転だからである。」(ネット版)

このように彼は、マルクの言うところの「商業信用」を「流通信用」と規定している。そして、この記述の前に「銀行信用」を押さえた上で、「資本信用」という彼独自の概念を登場させている。
そして「資本信用」の規定をこう与えている。

「流通信用は、かれの商品資本に貨幣資本の形態をあたえるにすぎない。資本信用はこれとちがう。それは、所有者が資本として充用しえない一貨幣額をば、それを資本として充用すべき人に移転することにほかならない。そうされることは、その貨幣額の宿命である。というのは、もしそれが資本として充用されないならば、それの価値は保持されることができず、還流することができなかろうからである。だが、社会的にみれば、貨幣を安全に貸し出しうるためには、それが債務者に還流することがいつも必要である。ここでは既存の貨幣が移転されるのであって、貨幣一般が節約されるのではない。だから、資本信用とは休息貨幣資本を機能貨幣資本に転化する貨幣の移転のことである〔*〕。この資本信用は、流通信用のように流通費用を節約するのではなくて、おなじ貨幣基礎のうえで、生産資本の機能を拡大するのだ。」(ネット版)

ヒルファーディングは『金融資本論』で「資本信用」という彼独自の概念を登場させることで、流通での貸付資本家と生産資本家ではなく、「生産資本の機能」での関係を考察している。
だが「休息貨幣資本を機能貨幣資本に転化する貨幣の移転」は、貨幣資本が「生産資本の機能」を受取る前段で、「休息貨幣資本」(遊休貨幣)の貸付資本への転化を必要とするのではないか?産業資本家は銀行業者に手形の割引をさせることで、貸付可能資本を<貨幣資本>に転化させているのではないか?あるいは、株式の債権を銀行で現金化させる同様なことで、<貨幣資本>を得ているのではないか?
このことがあって始めて,次の過程としての貨幣資本の産業資本への転化が可能ではないのか?この二つの過程が、ヒルファーディングには分離されていないのです。
これでは「価値を創造し、利子をもたらすことが貨幣の属性になる」(同上)事態への批判ができないのではないでしょうか?資本物神を批判するためには、利子生み資本の運動と生産資本の運動での二つの過程での「貨幣資本」の二つの異なる規定が分離されなくてはならないのです。ヒルファーディングには物神性への批判がなく、「貨幣資本」の二つの異なる規定が混同されていたのです。

?「休息貨幣資本を機能貨幣資本に転化する貨幣の移転」とヒルファ―ディングが述べたのは、何故だろうか?
彼はこう述べた。
「だが、社会的にみれば、貨幣を安全に貸し出しうるためには、それが債務者に還流することがいつも必要である。ここでは既存の貨幣が移転されるのであって、貨幣一般が節約されるのではない。」(同)
「貨幣を安全に貸し出しうるためには、それが債務者に還流すること」であれば「貨幣が移転」したのではなくG−G−W−G`―G`の運動を経過し出発点へ回帰したのだから、貨幣が資本として貸し付けられ、利子を伴って還流したのです。貨幣のこの貸付―利子を伴っての回帰が、資本の商品化でありその価格は利子であり、「資本として機能するという使用価値」(資本論3巻原P351)を持つ貨幣を貸し出したのです。商品の二要因に論及せず、「資本として機能するという使用価値」を持つ貨幣とその価格を、彼は無視しているのです。
この点を、
>「資本としての使用価値」においてはじめて貨幣は商品となる
――と次の松崎氏は見事に了解されて、宇野の「資金」説を批判しています。


資本主義の終わり論 松崎五郎
?巻の構成と論理
(3) 利子生み資本について
<宇野の資金説のデタラメさ>
>ところで 宇野弘蔵は、『経済原論』で
 「貸付資本は … 資本を貸付けるものとして資本なのではない。何時でも資本として機能しうる貨幣を貸付けるということは、それ自身資本を貸付けるわけではない。貨幣を貸付けることが そしてそれによって利子を得ることが、かかる貨幣の所有者にその貨幣を資本たらしめるのである。… 利子は 資本の価値ではなく 貨幣の一定期間の使用に対する対価にすぎない。ここでは貨幣自身が商品となるのであって、なお資本が商品となるのではない」
と展開していますが 全くデタラメな論理です。
 「貨幣自身が商品となるのであって 資本が商品となるのではない」について。
流通手段としての貨幣それ自身は 1万円を売って1万円の代金をもらっても意味はないので 売る人はいません(両替・為替をのぞく)。そもそも商品は 使用価値をもっているから商品になれるのです。流通手段としての貨幣は商品になりえないのです。だからマルクスが規定しているように 「資本としての使用価値」においてはじめて貨幣は商品となるのです。「この属性において貨幣が商品に 同じことに帰着するが 資本としての資本が商品となる」の規定は 全く正しいのです。しかも 普通の販売では 貨幣は流通手段でしかないので 資本としての貨幣の販売は 特殊な販売つまり貸付形態をとるのです。
 ところで 資本は「自己増殖する価値」と規定されます。宇野の述べる「貨幣の一定期間の使用に対する対価」とは何なのですか。貨幣は一定量の価値であり、対価が入るということはその価値が増殖したということなのだから 資本そのものではありませんか。また流通手段としての貨幣は、売買つまり商品と交換する時に一度限りで使用するもので(使うと自分のものでなくなる)「一定期間の使用」とは流通手段としての使用とは異なる使用方法です。つまり「資本としての使用」なのです。よって資本制生産では、貨幣は流通手段と資本という2つの規定をうけます。宇野は そのどちらでもないとして「資金」と名づけていますがその概念規定は何なのかということです。宇野の「資本ではなく資金だ」という主張は、「値札をつけて陳列棚に並べたら商品で棚が一杯で棚の下に置いていたら、いずれは商品になるがまだ商品ではない」というのと同じ屁理屈以外のなにものでもありません(概念規定を状態説明にずらしています)。
 つまり宇野は、資本としての貨幣が商品となるとは規定したくないのです。

?資本である<貨幣の使用価値と価格>の意味は、通常私達の抱いている商品の使用価値と価値の概念からとても了解しがたいものです。
そこでマルクスはこう述べています。
「またここですぐに想起されるように、資本は流通過程においては商品資本及び貨幣資本として機能する。しかしそのどちらにおいても、資本は資本として商品になるのではない。」(資本論3巻原P354)
「現実の流通過程においては、資本はつねに商品または貨幣としてのみ表れ、資本の運動は一連の購買と販売とに帰着する。要するに流通過程は、商品の変態に帰着する。再生産過程を全体として考察する場合には、事情が異なる。・・・貨幣は貨幣として支出されるのでも商品として支出されるのでもなく、それが貨幣として前貸しされる場合にも商品と交換されるのではなく、また商品として前貸しされる場合にも貨幣と引き換えに販売されるのではない。そうではなく、貨幣は資本として支出されるのである。」(同上P357)

上記の「それが貨幣として前貸しされる場合にも商品と交換されるのではなく」――この説明はとても理解できない事柄です。

この説明について、マルクスさん、われわれが混乱するのを見透かしていたのか、プルードンの説を題材にレクチャーしています。
「利子をとっての貸し付けは、『売るものについての所有権を決して譲渡せずに、同じ物品をいつも再び販売し、いつも再びその代価を受取る能力である。』
・・・しかしプルードンは、貨幣が利子生み資本の形態で手放される場合にはそれに対する何らの等価物も受取られないということを見ない。」(同上357)
私なぞ、
「利子をとっての貸し付けは、・・・いつも再びその代価を受取る」――ので交換とおもうのですが、マルクスさん――「等価物も受取られない」と言うのです。

これでは私なぞプルードンとおなじではありません・・・・困ってしまいます。

何故、間違えてしまうのか?マルクスはその理由をこう述べています。
「それ背は、利子生み資本に特有な運動において、プルードンにとって依然として説明のつかない点はなんであろうか?購買、価格、対象の譲渡というカテゴリーと、ここで剰余価値が現象する無媒介的形態とである。要するに、ここでは資本が資本として商品になっており、それゆえ、販売が貸付に転化し、価格が利潤の分け前に転化しているという現象である。」(同上原P359)

そしてマルクスさん「利子を研究」するところで、「譲渡」(同上原P363)「貸し付け」(同上原P365)「価格」(同上原P367)と、私達が「説明のつかない点」へのレクチャーしています。

また思い立ったら、宇野さんも顧みなかったマルクスのレクチャーを読み込んでみます。



6:利子生み資本と架空資本(1) その1 田中一弘
ebara 11/25 21:55
利子生み資本と架空資本(1) その1
―利子生み資本の一般的規定について  田中一弘

1.今回の検討課題
 『資本論』第3巻第5篇の学習がだいぶ進み、この間提起してきた疑問がある程度解決すると同時に、なお了解できない点が残っています。今回は私の『資本論』解釈を提示し、それに基づいて再度問題を立ててみたいと思います。
最初に榎原さんの文章の引用から始めます。
 (1)「金融資本は銀行と産業との癒着と定義されていたように、その本質は、利子生み資本であった。利子生み資本とは、貸付けたお金が産業などの現実資本に投下される資本の形態である。他人のお金それ自体を資本化する信用資本は現実資本に投資されるわけではないので、利子生み資本の形態すらとっていない。」(「世界恐慌分析のための原理」)
 (2)「貸付可能な貨幣資本は、産業資本の循環のうちで形成される遊休貨幣資本や、各種の収入(資本家が受け取る利潤や労働者の労賃など)が預金されることで銀行に集中される。・・・・この貸付可能な貨幣資本の蓄積は現実資本の蓄積からは相対的に独立しているし、また貸付可能な貨幣資本の運用については架空資本の売買という投機に向かいやすい。」(同)
 「貸付可能な貨幣資本」とは利子生み資本の一形態であることは了解できます。最初の投稿で私は次のように質問しました。「ではどうして『貸付可能な貨幣資本』は投機へと向かうのでしょうか。」この質問を(1)の引用文に即して述べるならば、次のようになります。
 「どうして貨幣資本は現実資本に投下される形態で貸し付けられるのではなく、架空資本の売買へと投資されやすいのだろうか?」言い換えるならば銀行資本は企業への融資=金融仲介ではなく、株式や債券、外国為替取引という投機取引へと向かうのだろうか、ということです。よくニュースなどで、銀行はお金という経済の血液を循環させる役目を果たすなどと言われますが、このよう物言いは金融資本あるいは利子生み資本としての貨幣資本を意味しています。
そこで問題となってくるのが利子生み資本と架空資本のそれぞれの内容、および両者の区別をどのように理解すべきかということです。そこで今回は資本論第3巻第5編の解釈という形で、この問題を考えてみたいと思います。あわせてメグミさんの紹介してくださった論文の検討も行ないます。(最初からこのような方法で議論すればよかったのですが、私の学習が中途半端だったせいで、議論がかみあわかったようです。すいません。)

2.『資本論』第3巻第5編の構成について〜大谷禎之介さんの解釈
 まず最初に、資本論第3巻第5編の文献学的な考証作業を詳細に行った大谷禎之介さんの解説を紹介したいと思います。大谷さんは第5編を三つの部分に分けて考えています。
 21章から24章までは、「利子生み資本の最も単純な姿態を対象に据え」たものであり、「一言でいい表わすとすれば、『利子生み資本そのものの一般的分析』と呼ぶことができるであろう。」(『経済志林』第56巻 第3号、p.3)
 25章から35章は、「資本主義的生産様式一般の特徴づけのために必要なかぎりで、利子生み資本の具体的諸形態・諸姿態を明らかにしようとしている。資本主義的生産様式のもとにおける利子生み資本の具体的諸形態・諸姿態とは、信用制度のもとにおける利子生み資本の諸形態にほかならない。だからこの部分の内容は、『利子生み資本が信用制度のもとでとる諸姿態の分析』と要約することができるであろう。」(同、p.4)
 「このことを、資本の姿態そのものに即してさらに具体的に表現するならば、ここでの分析は、貨幣市場における利子生み資本の一般的形態である『貨幣資本(monied capital)』の諸姿態―その最も大量的かつ典型的な存在形態は銀行に集積された貸付可能な貨幣資本(loanable monied capital)の分析である、ということができる。」(同)
最後の36章は、「利子生み資本の前資本主義的な形態である高利資本が、すでに明らかにされた近代的な利子生み資本の概念を前提して、それとの対比において分析され、さらに、産業資本がこの高利資本を、とりわけ信用制度の創造によって、自己に従属させ、近代的な利子生み資本を生み出すにいたる歴史的過程の基本的筋道が述べられている。」(同、p.5)今回はこの部分には触れません。
 この大谷さんの区分で重要と思われるのは、利子生み資本の一般的規定とその「具体的諸形態・諸姿態」=「信用制度のもとにおける利子生み資本の諸形態」との区別です。というのは私の問題提起はこの区別を基礎とし、なぜ架空資本の売買という投機が、利子生み資本の現代的特殊形態としての信用資本の中心的な運動となるのか、ということだからです。

3.利子生み資本の一般的・抽象的規定について
 (つづく)


7:利子生み資本と架空資本(1) その2 田中一弘
ebara 11/25 22:00
利子生み資本と架空資本(1)その2
―利子生み資本の一般的規定について  田中一弘

3.利子生み資本の一般的・抽象的規定について
 21章「利子生み資本」の冒頭で、貨幣の資本への転化および平均利潤の成立に伴い、「貨幣は、それが貨幣としてもっている使用価値のほかに、一つの追加的使用価値、すなわち資本として機能するという使用価値を受け取る。このような、可能的資本としての、利潤を生産するための手段としての属性において、貨幣は商品に、といっても一つの独特な種類の商品になる。または、同じことに帰着するが、資本としての資本が商品になるのである。」(大谷訳『経済志林』第56巻 第3号、p.22〜3、全集版p.422)とマルクスは述べています。この商品化した資本が利子生み資本です。ではこのような商品化とはどのようにしてなされるのか?ある貨幣額を所有している貨幣資本家Aが、それを必要としている機能資本家Bに貸し付ける、という形でなされるのです。一般的規定を取り扱っているにすぎない21章では、Aの手にどのようにして貨幣額がもたらされたのか、貸付はどのような形態で行なわれるのか、Bがそれを必要とする具体的な理由などは、いっさい考慮されていません。Aが貸し付け、Bがその貨幣資本を生産資本へと転化させる、という単純な規定だけが与えられています。ここで注意しなくてはならないのは、Aは貨幣を貨幣として支出するのではなく、資本として=自己増殖する価値として支出するということです。したがってAの手にはBが実現した剰余価値の一部が利子として支払われなければならないのです。
 「Bは、資本額のほかに、自分がこの資本額であげた利潤の1部分を利子という名目でAに引き渡さなければならない。というのは、AがBに貨幣を渡したのは、ただ、資本として、すなわち運動のなかで自分を維持するだけではなく自分の所有者のために或る新価値を創造する価値として、渡しただけだからである。」((大谷訳、p.30、全集版、p.426)
 この点に関連して、メグミさんは次のように述べています。
 (1)>利子は、剰余価値の生産を前提するとはいえ生産資本から生じるのではなく、「請求権」である「貸し付け資本」から生じるものだからです。
 ところが、「利子生み資本」を「利子生み資本とは、貸付けたお金が産業などの現実資本に投下される資本の形態」――では、現実資本の運動の中での「利子生み資本」であり、生産過程の中に入る利子生み資本という理解になっています。
 しかしマルクスは、「利子生み資本」(資本論3巻21章)を踏まえて、23章「利子と企業者利得」でこう述べています。
 「資本の使用者は、例え自己資本で仕事をしても、二つの人格に――資本の単なる所有者と資本の使用者とに――分裂する。彼の資本そのものは、それがもたらす資本所有すなわち生産過程外にある資本と過程進行中の資本として企業者利得をもたらす生産過程内にある資本とに、分裂する。」(原P388)
 貨幣貸付資本・利子生み資本は、「生産過程外にある資本」なんですね。」(「利子生み資本は生産過程の内か外か?」)
 (2)>ヒルファーディングは『金融資本論』で「資本信用」という彼独自の概念を登場させることで、流通での貸付資本家と生産資本家ではなく、「生産資本の機能」での関係を考察している。
だが「休息貨幣資本を機能貨幣資本に転化する貨幣の移転」は、貨幣資本が「生産資本の機能」を受取る前段で、「休息貨幣資本」(遊休貨幣)の貸付資本への転化を必要とするのではないか?産業資本家は銀行業者に手形の割引をさせることで、貸付可能資本を<貨幣資本>に転化させているのではないか?あるいは、株式の債権を銀行で現金化させる同様なことで、<貨幣資本>を得ているのではないか?(「金融資本論と宇野の「資金」について」)
 (1)についてですが、架空資本あるいはその一形態である信用資本を問題とするかぎりでは正当ですが、利子生み資本の一般的規定の観点から見れば、あるいは一般的規定を本源的規定として読み取るならば、言い過ぎではないでしょうか。貨幣資本家は生産過程の外部に存在する資本家であり、したがって利子生み資本とは生産過程の外部にあるというのは正しいと思われますが、利子生み資本は機能資本家によって現実資本に転化して初めて自己の価値増殖を可能にするのです。生産過程の外部にあるとはいえ、貸し付けられた資本が生産過程における現実資本として機能することが利子生み資本の前提なのです。したがって「貸付けたお金が産業などの現実資本に投下される資本の形態」というのは、利子生み資本の一般的規定として正しいのではないでしょうか。もちろん機能資本家に貸し出された段階で利子生み資本は、現実資本に転化するのであって、「生産過程の中に入る利子生み資本」というのは、メグミさんが言うように誤った理解でしょう。(さらに現実資本に転化せずに単なる貨幣として消費に回されたり支払いに当てられる場合もありますが、そのような事例は当面の問題―現実資本と利子生み資本・架空資本との関係―に関係ないので、考慮の外においておきます。)
 以上のように利子生み資本の一般的規定をおさえたうえで、現実経済との関係について見てみます。本稿の冒頭で述べたように、銀行資本の運動としても投機以外に企業に対する貸付というのは、重要な業務として存在しているのではないでしょうか。それは株式などの架空資本の売買としての投機とは区別されるものとして、存在しています。具体的な例は経済実務に詳しくないので正確かどうかわかりませんが、手形の割引という形態だけでなく、預金創造による貸付や新規発行株式の引き受けなどがそうではないかと思います。前者は信用貨幣の貸し付けであり、企業はそれを現実資本として利用する、ということです。(手形の割引自体は架空資本の運動とは言えないと思います。割引された手形が証券化して売買されるようになって初めて架空資本化が成立するのではないでしょうか。この点については、後で再度検討したいと思います。)また証券=請求権としての株式自体は架空資本として転売可能なものとなりますが、株式の代金は現実資本へと転化し生産過程へと向かうのです。(なお銀行の預金自体が持つ架空性と証券における資本還元の架空性とは区別されるべきだと考えますが、この点も後ほど検討したいと思います。)
 このように信用資本主義とはいえども、「貸付けたお金が産業などの現実資本に投下される資本の形態」としての利子生み資本の側面は存在し、それゆえ金融恐慌が産業恐慌へと転化する可能性は存在するのです。金融危機が実体経済にあたえる影響とは、このような利子生み資本の一般的規定抜きには理解できないのではないでしょうか。架空資本の売買が主役だとはいえ、資金の融資という形態での利子生み資本が存在するがゆえに、貸し渋りが問題となるのです。金融資本という規定は以上のような意味においてであれば、なお現実性・妥当性を有するものであり、捨て去ることはできないと思われます。
 (2)のついてですが、「貨幣資本が「生産資本の機能」を受取る前段で、「休息貨幣資本」(遊休貨幣)の貸付資本への転化を必要とするのではないか?」というのはまったくそのとおりだと思います。メグミさんや松崎さんも強調しておられるように、ここで注意しなければならないのは、資本の流通過程における形態としての貨幣資本―生産資本や商品資本との区別と関連のなかにある貨幣資本と、利子生み資本としての貨幣資本―貸付可能な貨幣資本とを区別しなければならない、ということです。大谷さんによれば、マルクスは前者をドイツ語表記のGeldkapital、後者を英語表記のmonied capitalとして区別しているようです(大谷禎之介「『信用と架空資本』(『資本論』第3部第25章)の草稿について(下)」、『経済志林』第51巻 第4号、p.21〜27)。つまりAがBに貸し出すという場合、Aにとってはmonied capitalである貨幣資本は、資本として譲渡されるにすぎない(この行為は交換あるいは流通に属するものではないがゆえに、何の等価物をも受け取るものではない)のに対して、同じ貨幣が、Bの手においてはGeldkapitalとして生産資本に転化すべき=生産手段および労働力の購入に支出される貨幣となるのです。
 (1)の後半でメグミさんが引用しているマルクスの叙述、「資本の使用者は、例え自己資本で仕事をしても、二つの人格に――資本の単なる所有者と資本の使用者とに――分裂する。彼の資本そのものは、それがもたらす資本所有すなわち生産過程外にある資本と過程進行中の資本として企業者利得をもたらす生産過程内にある資本とに、分裂する。」(原P388)は、日常意識においては両者が混同されることに基づいているのです。同一の貨幣が利子生み資本と現実資本という区別されるべき二重の規定のもとで貨幣資本として現れます。この区別は貸付という利子生み資本の運動を前提としているのですが、利子生み資本の成立による外面化によって、すべての貨幣資本が二重化するものとして日常意識には捉えられるのです。すなわち「資本主義的生産過程を全体および統一体として見れば、資本は自分自身にたいする関係(=G−W−G′あるいは投資されるGと還流してくるG’との関係−田中)現れるのであるが、この自分自身にたいする関係が、ここでは媒介的中間運動なしに単純に資本の性格として、資本の規定性として、資本に合体されるのである。」(大谷訳『経済志林』第56巻 第3号、p.39、全集版、p.431)あるいは機能資本家が支払う利子は、「資本所有そのものに帰属する部分として現れるのである。」((大谷訳『経済志林』第57巻 第1号、p.72、全集版、p.468)利子と企業者利得への「総利潤のたんに量的分割が、質的な分割に一変し」、その結果、「どの資本の利潤も、・・・・2つの質的に違っていて互いに自立的で互いに依存していない部分に、すなわちそれぞれ特殊的な諸法則によって規定される利子と企業者利得とに、分かれる、または、分解されるのである。」(同上、p.77、全集版、p.470)
 以上の分析をマルクスは総括して次のように述べているのですね。
 「資本および利子では、資本が、利子の、自分自身の増加の、神秘的かつ自己創造的な源泉として現われている。物(貨幣、資本、価値)がいまでは物として資本であり、また資本はたんなる物として現われ、生産過程および流通過程の総結果が、物に内在する属性として現われる。そして、貨幣を貨幣として支出しようとするか、それとも資本として賃貸しようとするかは、貨幣の所持者、すなわちいつでも交換できる形態にある商品の所持者しだいである。それゆえ、利子生み資本では、この自動的な物神、自分自身を増殖する価値、貨幣をもたらす(生む)貨幣が完成されているのであって、それは発生の痕跡を少しも帯びてはいないのである。」(大谷訳『経済志林』第57巻 第2号、p.63〜4、全集版p.491)
 貨幣としての貨幣と資本としての貨幣、この両者の区別がつけられないがために、すべて貨幣は利子を生み出すべきものである、という観念が生まれるのでしょう。(もっとも貧乏人は貨幣をもっぱら支出することができるだけなので、このような幻想から比較的自由な気がしますが。)メグミさんのヒルファーディング批判、あるいは宇野批判をこのような意味ではないかと、ようやく理解したしだいです。
 本題の架空本論については、ここまでが長くなったとともに、もう少し検討すべき点が残っているので、別の機会に投稿したいと思います。


8:利子生み資本の一般的規定について メグミ
ebara 12/01 20:47

利子生み資本の一般的規定について  メグミ

田中さんの疑問点

>貨幣資本家は生産過程の外部に存在する資本家であり、したがって利子生み資本とは生産過程の外部にあるというのは正しいと思われますが、利子生み資本は機能資本家によって現実資本に転化して初めて自己の価値増殖を可能にするのです。
>生産過程の外部にあるとはいえ、貸し付けられた資本が生産過程における現実資本として機能することが利子生み資本の前提なのです。したがって「貸付けたお金が産業などの現実資本に投下される資本の形態」というのは、利子生み資本の一般的規定として正しいのではないでしょうか。
>利子生み資本は機能資本家によって現実資本に転化して初めて自己の価値増殖を可能にするから、
>したがって「貸付けたお金が産業などの現実資本に投下される資本の形態」というのは、利子生み資本の一般的規定として正しい

――この田中さんの疑問点は、至極もっともな事だと思うのです。
マルクスさんは、この疑問についてすでに答えているといったら皆さん驚くと思います。
 マルクスさん、プルードン批判として述べることで、その疑問を想定し回答していたのですね。
註56のあと4段落目にまず冷たくこう書きはなっています。
 「・・・貸付資本家が資本を手離すことは、決して資本の現実的な循環過程内に於ける行為ではなく、産業資本家によって達成されるべきこの循環を導入するものでしかない。貨幣ののこの第一の場所返還は、何らの変態の行為も、すなわち購買も販売も表すものではない。所有権は譲渡されない。なぜなら何らの交換交換も行われず、何らの等価物の受取られないからである。産業資本家の手から貸付資本家の手への貨幣の復帰は、単に資本の第一の手離す行為を補完するものでしかない。」(3巻原P359〜360大月新書版P588)
そして次のように、同じことを再び繰り返して述べています。
 「貸し付けられた貨幣の資本としての現実の運動は、貸し手と借り手との間の諸取引の外部にある操作である。これらの取引そのものにおいては、この(現実の運動の)媒介は消えうせており、目に見えないし、直接そこには含まれていない。独自な種類の商品として、資本にはまた特有な譲渡の仕方がある。それゆえその復帰も、ここでは、ある一定の一連の経済的過程の帰結及び結果としてではなく、買い手と売り手との間の特殊な法律的取り決めの結果として現れる。」(同上原P361同上P590)

>それゆえその復帰も、ここでは、ある一定の一連の経済的過程の帰結及び結果としてではなく、買い手と売り手との間の特殊な法律的取り決めの結果として現れる。
 これでは全くとり付くしまがありませんから、
 「売ったり買ったりするのではなく、彼は貸し付ける。したがってこの貸付は、貨幣を貨幣または商品としてではなく資本として譲渡するのにふさわしい形態である。だからといって貸付は、資本制的生産過程と無関係な諸取引のための形態ではありえない、ということには決してならない。(同上原P362同上P592一部長谷部訳)――と述べて、理解できない点を次のように続けたのです。
 「貨幣が資本として彼(貨幣資本家)によって譲渡されるということはそれがG+ΔGとして彼に返還されなければならないということである」(同上原P363同上P593)
 貸付のなかで生じるΔG、この「利子を研究しなければならない」この点こそが焦点なのですね。
 その研究を、?譲渡?購買ではなく貸し付け?価格――資本の価格としての利子・・・という範疇を再度丹念・執拗に探索して、プルードンの過ちの原因をこう結論付けています。
 「それゆえ価格が商品の価値を表現するとすれば、利子は、貨幣資本の価値増殖を表現し、それゆえ、貨幣資本に対して貸し手に対する価格として現れる。
 このことからも、プルードンがそうしているように、貨幣によって媒介される交換すなわち売買という単純な関係をここに直接に適用しようとすることがもともとどれほど愚かなことであるかが、明らかになる。
 根本的前提は、まさに、貨幣が資本として機能するということ、それゆえまた即時的資本として、潜勢的資本として、第三者に引き渡されるということである。」
 「貨幣または資本が即時的、潜勢的に資本であるのは、労働力が潜勢的に資本であるのと全く同じである。」(同)
 「労働力が潜勢的に資本」の意味は、資本制的な拡大再生産のなかでの資本制的取得法則の転変で、労働と所有の分離が拡大再生産されることで、商品労働力は資本関係のもとで、自己増殖する価値を生成することを前提された存在――ということであろう。資本関係の生産は、剰余価値の生産でなされるけれども、取得法則の転変の下では、それが結果ではなく前提されるということなのですね。これは、搾取論や労働力の商品化論の見地からは理解できない事柄なのです。この点への着目と反省が無くては、「貨幣または資本が即時的、潜勢的に資本」であることはとても了解、認識できない点なのですね。
 この点を、マルクスさんこう続けて、次のように結論付けています。
 「素材的富の対立的な社会的規定性――賃労働としての労働との、素材的冨の対立――は生産過程からは切り離されて、資本所有権そのものの中にすでに表現されている。この一契機(資本所有権)は、資本主義的生産過程そのものから切り離されて、次のことの中に自らを表現する。すなわち、貨幣は、同じくまた商品は、即時的、潜勢的に資本であるということ、それらは資本として販売されうるということ、またそれらは、この形態においては、他人の労働に対する司令権であり、他人の労働を取得する請求権を与えるものであり、それゆえ自己を増殖する価値である、ということがそれである。」(同上原P368同上P601〜602)
 「貨幣は、同じくまた商品は、即時的、潜勢的に資本」であり、
「この形態においては、他人の労働に対する司令権であり、他人の労働を取得する請求権を与える」
――という利子生み資本の範疇を、
 「利子を代価に貨幣が貸し付けられ、『貨幣が商品になる』ということが、『資本が資本として商品になる』ということと同じことになるとしているところも性急にすぎ」(『資本論を読む』P388伊藤誠 講談社学術文庫)
――と、読解される経済学者がいる。
 「利子を代価に貨幣が貸し付けられ」――これが、商品交換での商品の代価としての貨幣の範疇への批判が不在している見本ですよね。
 もっとも、貨幣貸し付けを等価交換とみていたのがこの学習以前のプルードン批判が不在の私でしたが・・・・なんともむずかしいものです。
 「利子生み資本の場合には、すべてが外面的なものとして現れる」のですから、利子と利潤の関係も質的分割から、内在的な質的規定から与えられるのではなく、量的分割という規定的現実から質的分割が与えられる――というのにも驚かされました。頭をマルクスにぶん殴られた・・・そういう思いがしました。



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