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お久しぶりです、旧ハンドル「川魚」の、臨夏と申します。

1:お久しぶりです、旧ハンドル「川魚」の、臨夏と申します。
臨夏 09/15 02:41
榎原さん、みなさん、お久しぶりです、表三郎師の門下の臨夏と申します。
古いほうの掲示板では、川魚、と名乗っておりました。

わたしが2000年1月に台灣に来てから、もうだいぶ立ちます。
その間、主に、中国語、中国史、台湾史の勉強をしており、
あまりマルクスその他の社会思想の勉強や、英語の勉強などは怠って参りました。

いまは、「植民地時期(日治時期)における、日本人社会の生活誌」
のようなテーマで、修士論文を書き始めているところです。
首尾よく行けば、2009年6月に、修士を貰て、
その後は、また日本に帰って住むかも知れません。


さて、今日失礼ながら、久しぶりにここを拝見し、その中の
「紹介『価値形態・物象化・物神性』」の要約を読んでみました。

じつは榎原さんには、以前、『価値形態・物象化・物神性』の本の本体を頂いておりまして、いまだに書架に置いたまま、という欠礼を為しております。

ついでに言うと、わたしは『資本論』自体、1巻はじめの価値形態論と、
続く物象化論のとこ、あとさらに少しだけ読み進んだ、というだけで、
しかも肝心の「価値形態論」の意味を読み解けないままで、
弁証法自体についても、聞きかじり、生煮えの状態が、
もう20年続いている、という按排です。
(わたしは、以後は、理論方面は、分を守り、わたしらしく、少しだけ理解し、
それで専門の東洋史の世界との小規模な媒介者になろう、と考えております。
いかがなものでしょうか)

それでも、マルクスの、貨幣成立までに至る、さまざまな物の操作を見ていて、
それに対しての感想は、
当時、先輩から「論理歴史説は間違うとるで」と聞きつつ、
却って「このマルクスの記述の通りに、貨幣は歴史的に成立したのではないか」と、
常識的・具体的な見方しかできぬ頭でのものでした。

ここで、今日、榎原さんの著書の要約、
「商品の価値形態は、概念的存在である」との句を見て、
おもしろうて心が小躍りした、という次第です。

なるほど、人間は、貨幣を理解し、使用するのに、
頭の中で、概念操作をしているんですね。
それのレシピが、『資本論』価値形態論や、という訳でしょうか?
すると、動物は、貨幣を使えないんですね!
これも当たり前ではありますが、交換というものの人間性をかいま見ました。

最近、やっと貨幣を、硬貨や紙幣の実体でなく、生活のなか、人と人との間、手から手へ渡って行く途中に、価値を発揮する、という理解、
運動として、現象としての貨幣、あるいは価値、という理解にもたどり着きました。

この余勢も借り、修論試行錯誤中ではあるのですが、できれば、わたしの躓きの石、
『資本論』を読み返したい気が出てきました。

以上、まったく我流で考えたことですので、
皆さまから見れば、はなはだ幼く、筋違いのものかも知れません。
できましたら、なにか批判を加えていただければ幸いです。


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