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社会的総労働の配分論としての商品論(5)

1:社会的総労働の配分論としての商品論(5)
田中 03/22 22:17
(5)現実の生きた労働と抽象的人間労働の関係についての補足
前回の投稿で次のように述べました。
「現実の生きた私的諸労働は、その質的規定性に応じたさまざまな熟練度と強度をもつ労働力の「生産的支出」です。そのような生きた労働が交換関係において社会的な度量単位としての抽象的人間労働=「単純労働力の支出」へと還元されるのです。・・・・還元の量的比率はそれぞれの諸労働の熟練度と強度に応じて決定されると考えられます。」
この書き方ではそれぞれの私的労働の具体的な相違が還元率の相違となるような印象を与えるかもしれませんので、少し補足したいと思います。
同一の商品を生産するさまざまな生産単位を考えてみます。そこでは生産手段や生産者の個人的能力など生産に関する諸条件は、それぞれにおいて異なっていると考えられます。したがって一商品を生産する時間も異なっていれば、その時間において支出される「生理学的な」労働力も異なっているでしょう。生産手段の相違は生産の効率性の相違であり、同じ一時間の労働でも要する労働力は異なる場合があるでしょう。それらの相違をある生産部門内で平均化したものがある商品の「社会的に必要な労働時間」を決定するのです。
この平均化は、まず生産条件の平均化が行われ、その平均的な条件での支出される労働力−平均と一致する生産単位が多数存在する場合でもこの支出量は、生産者の能力によって異なると考えられるので−の平均化が行われると考えられるでしょう。このように平均化された労働時間あるいは生理学的支出としての労働が、(それ自体平均化された労働である)単純労働と量的に比較され還元されることによって、価値実体量としての抽象的人間労働時間が決定されるのです。現実の生きた労働あるいは私的労働時間はこの平均化の要素である、このような意味で価値実体量の形成に関与するのです。したがって個々の労働の生理学的支出そのものが単純労働との比較で、量的に還元されるものではありません。同一の商品を生産するAの1時間とBの2時間とが同じ価値実体量になるということがありえるのです。
さらに生産条件の変動という要素があります。社会的平均化とはこの変動に応じて変化するものであり、以前は1時間の抽象的人間労働として評価されたものが、30分にしかならないことがありえるのです。この変動が意味しているのは、交換関係の内部での還元という場合の交換関係が、個々の交換過程ではなく、繰り返し行われる流通過程内部での関係であることを意味します(この点については小澤さんの『新古典派経済学の批判』に学びました)。
また生産条件の変動が価値実体量へ影響するということは、生産者たちの背後で行われる「一つの社会的過程」とは単に流通過程としての交換関係ではなく、生産過程と流通過程との統一としての再生産過程という意味でしょう。(拙文「アナリティカル・マルキシズム論争によせて」ではこの見地が不十分でした。『資本論の復権』を久しぶりに読んで、この点を学びました。)
二重の社会的性格あるいは必要性の一つである人間労働としての同等性=抽象的同一性としての抽象的人間労働についての解釈は、以上で終わりたいと思います。次回からはもう一方の社会的性格−他人のとっての使用価値について考えてみたいと思います。交換過程における価値と使用価値の矛盾から始め、さらに「商品の命がけの飛躍」の問題を社会的総労働の配分という観点から考えてみます。


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