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社会的総労働の配分論としての商品論―その一

2:Re:>社会的総労働の配分
megumi 03/13 02:15
田中さん、森さんの共同体と物象的依存の体制との混同を書いているうちに、田中さんの述べる
>社会的総労働の配分
の問題を、マルクスは、「商品の命がけの飛躍」の問題として、次の点を批判しているのではないかと思えたのです。

「交換過程が、諸商品を、それらが非使用価値である人の手から、それらが使用価値である人の手に移行させる限りにおいて、それは社会的素材変換である。ある有用な労働様式の生産物が他の有用な労働様式の生産物に取ってかわる。商品は、それが使用価値として役立つ場所にひとたび到達すると、商品交換の部面から脱落して消費の部面に入る。ここでわれわれが関心をもつのは、前者だけである。

したがって、われわれは、全過程を形態の面から、すなわち社会的素材変換を媒介する諸商品の形態変換または変態だけを、考察しなければならない。
 この形態変換の理解がまったく不十分なのは、価値概念そのものがよくわかっていないことを別にすれば、どの商品の形態変換も、二つの商品の、すなわち普通の商品と貨幣商品との、交換において行われるという事情のせいである。

もしも商品と金との交換というこの素材的契機だけに固執するなら、人は、まさに見るべきもの、すなわち形態の上に生じるものを見落とすことになる。すなわち、単なる商品としての金は貨幣ではないこと、そして、他の諸商品は、それらの価格において、諸商品自身の貨幣姿態としての金に自分自身を関係させているということが、見落とされるのである。」(資本論三章原P119)

「社会的素材変換を媒介する諸商品の形態変換または変態」
の問題を、
「社会的分業の一分肢であることを実証」つまり、社会的労働の配分の問題として語っていたのです。

以下のところですね。
「しかし、彼の生産物が、社会的に通用する一般的な等価形態を受け取るのは、ただ貨幣においてだけであり、しかもその貨幣は他人のポケットの中にある。貨幣をそこから引きだすためには、商品は、何よりもまず、その貨幣所有者にとっての使用価値でなければならない。したがって、その商品に支出された労働は、社会的に有用な形態で支出されていなければならない。言いかえれば、その労働は、社会的分業の一分肢であることを実証しなければならない。しかし、分業は、自然発生的な生産有機体であり、その網の目は、商品生産者たちの背後で織られたものであり、また引き続き織られつつある。」(同上P121)

これは「商品の命がけの飛躍」の問題ですね。『経済学批判』でもおなじく
「商品の変態」の説で述べられていました。


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