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小澤勝徳氏の<アナリティカル・マルキシズム批判>を読んで、

8:Re: 「ペテロにとっては・・そのパウル的肉体のままで、人間という種属の現象形態」
megumi 02/17 11:34
田中さん、すみませんが次のことにおこたえ願います。
『価値形態 物象化 物神性』の、三章「回り道」とは何か?の中で、榎原さんはこう述べています。

資本論4版のいわゆる事実上の抽象を解説していう。

「リンネルが上着に等価物という形態規定をを与えることそれ自体が、リンネルの価値表現なのだが、このことはリンネルが価値物としての上着を自分に等置することでなされ、そしてこの関係のなかで、リンネルは上着を自分をつくる労働と上着をつくる労働に共通な抽象的人間労働に還元して上着を抽象的人間労働の単なる実現形態とするが、そのことが同時にリンネルの上着による価値表現となっているのである。」(同書P110)

あるいは、こうにも述べている。

「このように見てくると、いわゆる廻り道は、・・・価値表現のメカニズムとしては述べられてはいないことが明らかとなる。それは文字通り、「価値を形成する労働の独自な性格を現出させる」メカニズムにほかならない。(同書P113)

久留間さんは、価値存在の表現を、「価値表現のメカニズム」と理解することで、具体的労働の「事実上の抽象」を、理論的抽象と見誤ったことで、宇野の、リンネル価値の上着への等値の錯誤批判としての「回り道」の、正しい問題意識に関わらず、ここでのマルクスの提案を受け止めきれなかったのだと、私は思うのです。

註17aでの、マルクスのフランクリンの諸労働の還元を批判しているところなぞ、田中さんに是非ともご検討願いたいところです。

「(17a) 第2版への注。ウィリアム・ペティの後、価値の性質を見ぬいた最初の経済学者の一人であるあの有名なフランクリンは、次のようにのべている。「商業は総じてある一つの労働を別の労働と交換することにほかならないから、あらゆるものの価値は労働によって最も正しく評価される」(『B・フランクリン著作集』、スパークス編、ボストン、一八三六年、第二巻、二六七ページ〔『紙幣の性質と必要についてのささやかな研究』〕)。フランクリンは、あらゆるものの価値を「労働によって」評価することによって、彼が、交換される諸労働の相違を捨象していること、したがってそれらの労働を等しい人間労働に還元していること、を自分では意識していない。にもかかわらず、彼は自分ではわかっていないことを語っている。つまり、彼は、はじめにまず「ある一つの労働」について語り、次に、「別の労働」について語り、最後に、あらゆる物の価値の実体という以外に何の限定ももたない「労働」について語っているのである。」(四版原P65)

「最後」の「価値の実体という以外に何の限定ももたない「労働」・・・
は、抽象的人間労働であることは論を待たないですよね。その前の「別の労働」とは何でしょう。「人間労働一般」あるいは、「人間的労働力一般の支出」のことであり、そして、はじめのある労働とは、具体的姿態の労働でしたね。
つまり、ここには<「価値を形成する労働の独自な性格を現出させる」メカニズム>など無かったのです。

反省規定は、見出せますよね。左辺の具体的有用労働に対しての、右辺の「人間的労働力一般の支出」としての等値は、価値関係を形成するものでした。その結果としての最後の労働の、抽象的人間労働――という判断なのです。「抽象と判断」という価値関係のもたらす概念的作用が描かれていたのです。

榎原さんの<「価値を形成する労働の独自な性格を現出させる」メカニズム>という理解は、価値関係のもたらす概念的作用――への理解を鈍らせるものではないか?・・・とふと思った次第です。

「註18」はじめはまず他の人間に自分自身を映してみる。人間ペテロは、彼と等しいものとしての人間パウルとの関係を通じてはじめて人間としての自分自身に関係する。だが、それと共に、ペテロにとってはパウルの全体が、そのパウル的肉体のままで、人間という種属の現象形態として通用するのである。」(同上原P67)



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