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小澤勝徳氏の<アナリティカル・マルキシズム批判>を読んで、

16:Re: 使用価値と交換価値
田中 03/01 09:29
(1)「ある特定の商品、たとえば一クォーターの小麦は、x量の靴墨、y量の絹、z量の金などと、要するにきわめてさまざまな比率で他の諸商品と交換される。だから、小麦は、ただ一つの交換価値をもっているのではなく、いろいろな交換価値をもっている。しかし、x量の靴墨もy量の絹もz量の金なども、どれも一クォーターの小麦の交換価値であるから、x量の靴墨、y量の絹、z量の金などは、互いに置き換えうる、または互いに等しい大きさの、諸交換価値でなければならない。それゆえ、こういうことになる。第一に、同じ商品の妥当な諸交換価値は一つの等しいものを表現する。しかし、第二に、交換価値は、一般にただ、それとは区別されうるある内実の表現様式、「現象形態」でしかありえない。」(新日本新書『資本論』1、p.62〜63)

(2)カウツキーなどの解釈では「交換比率に表示される共通者が価値とされています。そこから必然的に、価値の実体は、超歴史的な人間的労働力の支出に求められています。」(小澤勝徳氏の<アナリティカル・マルキシズム批判>を読んで、)

(3)「だから、諸商品の交換関係で使用価値の質的関係を捨象した量としての交換価値が見出され、商品の自然的関係でなく社会的関係としての交換価値が、その共通者としての同等な人間労働に還元され、その凝固が価値と規定されたのでした。」(小澤勝徳氏の<アナリティカル・マルキシズム批判>を読んで、)

megumi さんは交換価値概念を二重化して考えているようですね。諸商品の量的比率としての交換価値とは使用価値の側面を捨象したものではありません。使用価値と価値との統一としての商品の関係であるから。使用価値を捨象していないからこそ、交換価値は諸交換価値として存在します。このような諸交換価値とは区別して「同じ商品の妥当な諸交換価値は一つの等しいものを表現する。」という記述における「一つの等しいもの」を「使用価値の質的関係を捨象した量としての交換価値」として理解しているのでしょうか。
 私はこの「一つの等しいもの」は価値であり、同時に抽象的人間労働であると考えています。対象的形態としてとらえるならば価値であり、その実体としての、あるいは活動的形態としてとらえるならば抽象的人間労働であると解釈します。マルクスの叙述にも次のように記されています。

(4)「諸商品の交換関係そのものにおいては、それらの物の交換価値は、それらの物の諸使用価値とはまったくかかわりのないものとして、われわれの前に現われた。そこで、労働諸生産物の使用価値を現実に捨象すれば、いままさに規定されたとおりのそれらの価値が得られる。したがって、商品の交換関係または交換価値のうちにみずからを表わしている共通物とは、商品の価値である。」(『資本論』p.65)

megumiさんの解釈は(1)における「第一に」文章と「第二に」文章のあいだにある「しかし」という訳語を厳密に解釈していることだと思います。この「しかし」は原語は確かにaberだと思いますが、榎原さんの引用における長谷部訳では「ところで」となっているようです。「ところで」という訳は不正確でしょう。別に話題を転換しているわけではないからです。私は「そして」と訳したいと思います。前文が否定文の場合であれば妥当する訳でしょうが、前文が否定文でないので、かなり強引だとは思います。しかし(4)などをみれば「一つの等しいもの」と「それとは区別されうるある内実」とはおなじ事柄を指していると考えられます。そのような文脈理解の下でわたしは「そして」と訳したいのです。
初版だけではなくフランス語版にも(1)の後半部分―「第一に」以下の部分―が存在しないというのは、マルクスがaberの誤解をさけるための措置だったのではないか、このようにマルクスの意図を斟酌すべきでは、というのはあまりにも穿った見方でしょうか。
現在草稿集のベイリー批判を検討中ですが、わたしはその本質は(1)に凝縮されていると思っています。したがって私とmegumiさんのわかれめは以上の点にあるのではと思い、瑣末な事柄ではありますが、提起させていただきました。
また、さまざまな使用価値で表現される交換価値がひとつの交換価値として表わされるというのは、一般的等価形態のことであり、価値実体論の段階では想定しえないのではないでしょうか。


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