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小澤勝徳氏の<アナリティカル・マルキシズム批判>を読んで、

10:Re価値関係とは概念的存在の表現
megumi 02/20 01:15
田中さん
>価値関係とは同量の価値量としての商品の関係ですから、そこにおける差異はもっぱら使用価値の差異であり、私が言いたかったのはそういうことです。

?価値関係とは、同質の価値関係でなく、価値存在の表現ですし、それ以外の表しようはありません。
「同量の価値量としての商品の関係」の意味することは、同量の社会的必要労働の凝固した価値――の存在としての同質の諸商品の関係であります。この主張の意味は、使用価値による価値の表現を規定する価値法則の立証――と言うリカード理論をしか、残念ながら意味しません。
 価値存在の表現とは、諸商品の交換関係にて、商品=物象による<抽象と判断>の明示を、?使用価値・価値の二要因であり、具体的有用労働・抽象的人間労働の二重性として示すこと、そして、?使用価値・価値形態、使用価値・交換価値として現象することを示すことです。
まとめると、「価値概念」の存在を立証することである・・・と、田中さんの回答を見て自分でも、新ためて考え直しています。

?次の、資本論四版「相対的価値形態の内実」の展開は、初版と初版付録での叙述を前提にしたハショッタ展開と思えるのです。

「しかし、質的に等置された二つの商品は同じ役割を演じるのではない。リンネルの価値だけが表現される。では、どのようにしてか? リンネルが、その「等価」としての上着、またはリンネルと「交換されうるもの」としての上着に対して関係させられることによって、である。この関係の中では、上着は、価値の存在形態として、価値物として、通用する。なぜなら、ただそのようなものとしてのみ、上着はリンネルと同じものだからである。他方では、リンネルそれ自身の価値存在が現れてくる。すなわち、一つの自立した表現を受け取る。なぜなら、ただ価値としてのみ、リンネルは、等価物としての上着、またはそれと交換されうるものとしての上着に関係するからである。」(『資本論』原P64)

「上着は、価値の存在形態として、価値物として、通用する」というのは、上着のリンネルとの同一性は、上着自身の中にある「価値物」で示されるからでした。
これは両者の具体性が抽象されることで、「価値物」上着と共通性が規定されたのです。

?しかし、「他方では」他者である「等価物としての上着」と、価値としてのみ関係することで、「リンネルそれ自身の価値存在」が、自ずと具体的姿態の下に「現れてくる」――と述べています。
 次の例のとおりです。
「今酪酸に蟻酸プロピルが等置されるとすれば、この関係の中では、第一に、蟻酸プロピルは単にC4H8O2の存在形態としてのみ通用し・・」(同上P65)
 そのことが、労働の例ではこう表されました。
「織布労働との等置は、裁縫労働を、両方の労働のうちの現実に等しいものに、人間労働という両方に共通な性格に、実際(事実上)に還元する。」(同上P65)
 そして、重ねて述べた。
「種類の異なる諸商品の等価表現だけが――種類の異なる諸商品に潜んでいる、種類の異なる諸労働を、人間労働一般に、実際(事実上――長谷部訳)にそれらに共通なものに、還元する」(同上)
 ここにあるのは、「価値物」としての諸商品の共通性の抽出とは区別された
「事実上の還元」・事実上の抽象あるいは、「現実的抽象」であります。マルクスは、二つの抽象を対比させているのです。

 次のように、理論的抽象を批判していたのです。
「価値抽象に還元」とは、商品形態が二要因の対立的規定において成立することの否定であるのですから、諸商品の具体的労働に共通者を求める理論的抽象批判でもあったのです。
「われわれが、価値としては諸商品は人間労働の単なる凝固体であると言えば、われわれの分析は諸商品を価値抽象に還元するけれども、商品にその現物形態とは異なる価値形態を与えはしない。一商品の他の商品に対する価値関係の中ではそうではない。個々では、その商品の価値性格が、その商品の他の商品に対する関係によって、現れでるのである。」(四版原P65)

 二つの抽象の存在の提示は、了解できますよね。
後者の事実上の抽象とは、リンネルの等価物上着に与えられる形態規定なんですね。上着は、リンネルの等価形態であることから、使用価値であるのに直接的交換可能性の姿態を受け取りました。同じく、等価物上着の表す裁縫労働は、人間的労働力一般の実現形態として、リンネルの価値実体の共通者を現しているのです。
 
 初版でも、「人間的労働力一般の実現形態」が、具体的有用労働である裁縫労働に関して述べられていました。
「だから裁縫労働は目的が決められた生産活動、有用労働であるからではなくて、目的が決められた労働でありながら人間労働一般の顕現形態、対象化様式であるかぎりでのみ、リネンにとって重要になる。」(『初版』原P19今村訳)
 これは『初版』の註18aにある等価物上着の価値鏡の例示なのですが、このような反省規定であり、形態規定と同じことが四版の「事実上の抽象」として述べられていたのです。

?ところで、なぜ理論的「抽象」批判という形式で、価値実体の論証をおこなっているのか?というマルクスの意図ですね。

 次の「まわり道」の提案の意義ですね。
「しかし、織布労働との等置は、裁縫労働を、両方の労働のうちの現実に等しいものに、人間労働という両方に共通な性格に、実際に還元する。このまわり道を通った上で、織布労働も、それが価値を織りだす限りにおいては、裁縫労働から区別される特徴をもっていないこと、すなわち抽象的人間労働であること、が語られるのである。」(四版P65)

 人間的労働力一般の実現形態としての裁縫労働に、自らを反照(反省)させる(「まわり道を通った」)ことで、「織布労働も、それが価値を織りだす限りにおいては、裁縫労働から区別される特徴をもっていないこと、すなわち抽象的人間労働であること、が語られる」と述べたのです。ここに、商品が価値関係を結ぶことでの、事実上の<抽象と判断>が明示されたのです。(「ペテロにとってはパウルの全体が、そのパウル的肉体のままで、人間という種属の現象形態」(資本論四版註18)とあるように、反照させる相手が、人間的労働力一般であるからこそ、織物労働は、「両方の労働のうちの現実に等しいもの」を見出すことが出来、「抽象的人間労働」と、我が身を判断することができるのではないでしょうか?)

このように、「まわり道」を通ることでのリンネル織り労働の抽象化を主張し、具体的有用労働の抽象化による価値実体の論証を、<商品は概念的存在>と批判していたのです。
<人間的労働力一般の実現形態としての裁縫労働>とは、抽象的人間労働の現象形態としての裁縫労働の等価形態での表し方ですから、「まわり道」を、反照とすることで、リンネル織り労働の価値姿をそこに見て(反省)、リンネルの価値実体が抽象的人間労働と自ら判断しているのですね。価値の現象形態としての使用価値上着に、価値リンネルを反照させて、使用価値リンネル――との規定が語られる・判断されるのですね。(親子関係と同じく反照させているのだから、メカニズムでもなく、使用価値による価値の表現とも異なっていたのです。)

 一対の商品の二要因が、諸商品の関係では、等価物に反照されることで諸商品に対極的に表現されるのですし、等価物上着が、価値形態をとるならば、反対極でリンネルは使用価値と判断されるのです。価値関係はこのように概念的存在であり、等価物が三つの独自性をしめすことで、そこに反照するそれぞれの対の他方を、反対極で使用価値・具体的労働・私的労働と判断していたのです。商品を、使用価値・価値の二要因と規定し、使用価値・価値形態(交換価値)と二重の姿態で判断するので、私たちは、物象の意志支配の下で、自らの判断と思い込みながら商品交換ができるわけですね。(このような等価物上着の役立ちでの抽象の説明が、「価値抽象」批判であったのです。そして、鉄を重さの現象形態とすることでの砂糖体の重さ表現での役立ちの文化知)

 そこで、使用価値が価値の現象形態となることで等価物上着の役立ち、あるいは、まわり道の対象――を果すのですから、具体的有用労働と抽象的人間労働などの商品の二要因を混同していたら、商品の価値関係による<抽象と判断>は形成されず、それを物と物の関係と理解し、人間の意志諸関係が商品関係を形成することになり、社会革命は、政治革命に全てを託すことになります。


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