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森さんの文章への田中さんのコメント

1:森さんの文章への田中さんのコメント
境 毅 10/16 20:01
論争のページ、「モモと考える時間とお金をめぐって」に掲載した森さんの抗議文などへのコメントが田中さんより寄せられ、「論争のページ」に掲載しました。意見のある方は境宛メールを下されば「論争のページ」に掲載します。少し時間がかかりますのでお含みください。

2:Re: 森さんの文章への田中さんのコメント
名無しさん 10/17 10:02
拙文の掲載ありがとうございます。あらためて読み返してみると、断定的で論証が不十分な点があるようです。皆さんの批判・疑問をおまちしています。
一つだけ補足させていただきます。拙文のなかで商品生産というのは全面的な商品生産という意味であり、資本制的生産と同義です。なぜ全面的な商品生産が資本制なのかという点について、今の私には論理的説明をしえません。したがって賃労働が支配=搾取関係であることの説明も不十分かもしれません。歴史的事実としてのみ述べうるだけです。旧社会主義諸国における商品生産の存在についても同様です。資本関係が廃棄されていたにもかかわらず、生産単位どうしの独立性が残存しそこに商品生産の必然性があったところまでは、榎原さんの諸論文から理解できました。しかし計画化が官僚の支配に結びついた論理的必然性が理解できていません。労働者による生産手段の所有が形式的なものにとどまり、事実上は国家所有だったこと、そこから官僚による支配が成立したと理解していますが、そこに論理的必然性があるのかどうかが判然としないのです。開き直ってそのような必然性はないのだといいたいところですが、それではあまりにも独断的かなと思います。それとも、森さんの言葉を借りるならば、官僚の道徳的判断の欠如に求められるのでしょうか。人間の行動は最終的には倫理的・道徳的判断に委ねられるほかはないのでしょうか。
以上の点を含めて、皆さんからのご意見をお待ちしています。言いっぱなしではなく、議論を修練させるための経験がつめればとおもいます。よろしくお願いします。


3:Re: 森さんの文章への田中さんのコメント
megumi 10/18 03:49
田中さんの 森さんへの意見を呼んで  megumi
(これは提案なので、掲示板に投稿しました。)
榎原さんは、「文化知の提案」の第4章「文化知の方法 見えるものと超感性的なもの」のなかで次のように述べていた。

「鉄は鉄と重さの尺度という、自然物と社会的なものとの二重物となりました。
 関係の両極が、眼に見えない現象形態によって、本来の質の他に別の新しい社会的質を受けとること、このことを理解することが決定的です。二重性は二枚重ねのフトンのようにあるのではなく、それぞれの両極がある種の同一性の関係のうちで規定しあい、基準の位置におかれた極をその同一性の化身とすることで、それぞれが二重物となったのでした。この関係による両極の規定をマルクスは形態規定と呼びました。
 関係とは比較であり、異なる質のものの等置でした。関係のもとには等しい質があり、これが比較されたのです。それで関係によって表現されている同一性の質を社会的実体として捉え、その質によって両極がどのように形態規定されているかを明らかにすることが、眼に見えない関係をわがものとする方法だ、ということになります。この方法は従来の科学知によっては解明しえなかった人間の社会関係を分析しうる手法であり、従来の科学知と区別して、文化知とでも呼ぶことにしましょう。」

私は次のようにこのことを受け止めたいのです。
「等価形態の第一の特質」でマルクスはこう述べていました。
「棒砂糖を重さとして表現するためには、われわれはそれを鉄との重量関係におく。この関係の中では、鉄は、重さ以外の何ものも表さない一物体として通用する。だから、鉄の諸分量は、砂糖の重量尺度として役立ち、砂糖体に対しては単なる重さの姿態、重さの現象形態を表す。」

この重さの表現での役立ちの例を、マルクスは商品の二重の姿態として次のようにまとめたと私は思うのです。

「商品Bに対する価値関係に含まれている商品Aの価値表現を立ちいって考察してみると、この価値表現の内部では、商品Aの現物形態はただ使用価値の姿態としてのみ意義をもち、商品Bの現物形態はただ価値形態または価値姿態としてのみ意義をもつ、ということがわかった。したがって、商品のうちに包みこまれている使用価値と価値との内的対立は、一つの外的対立によって、すなわち二つの商品の関係によって表され、この関係の中では、<それの>価値が表現されるべき一方の商品は直接にはただ使用価値としてのみ意義を持っており、これに対して、<それで>価値が表現される他方の商品は直接にはただ交換価値としてのみ意義を持つ。」(「簡単な価値形態の総体」)

ところが、通説は、交換価値、つまり「価値姿態」=「直接交換可能な使用価値」としての現象のままに感性的姿態を捉えて、「物」として捉えたところに誤りが生じたのではないでしょうか?ところが、上記のように、「商品Bの現物形態はただ価値形態または価値姿態としてのみ意義をもつ」のですね。
 通説は、この価値姿態にのみ注意が行き、物と物の関係として表れる商品関係の「幻影的形態」に惑わされることで、商品が、使用価値と交換価値の二重の姿態を持つものとして経済的形態規定される等価物上着の役立ち・・・の意義を見落としたと思うのです。

 等価物上着の役立ち・・・であれば、それは使用価値上着の感性的役立ちではなく、超感性的なものであり、物ではなく物象の社会関係を見出すと思うのです。

田中さんの森さんの文章へのコメントを見るとき、マルクスの労働過程と価値増殖過程という資本制的生産の「経済的形態規定」という問題意識がないのが残念です。

マルクスはこうそのあたりの問題意識を述べている。
「たとえば、ラムジは、原料と労働手段とが資本をなすものだ、という。ロッシは、厳密に言えば用具だけが資本なのだという。この場合に考察されるのは、どんな特殊的な経済的規定性のうちにもおかれていない、労働過程の諸要素である。(形態規定のこのような消滅が労働過程の内部においてさえも外観に過ぎないことは後に明らかになるだろう。)労働過程(資本の生産過程)は、その単純な形態に還元されれば、資本の生産過程としてではなく、生産過程そのものとして現れ、また労働と区別された資本は、この場合には、原料及び労働用具という素材的規定性において現れるに過ぎない。」(『資本論草稿集』4P237)

資本論五章ではこう述べている。
「(16) 私は、この点について『経済学批判』、特にその14ページで次のようにのべた〔『全集』、第13巻、23ページ〕。「人は、『役立つ』(service)というカテゴリーが、J・B・セーやF・バスティアのようなたぐいの経済学者たちにどのように『役立つ』べきかを、理解するであろう」と」

もっとも、手付かずの未解明の分野では在るけれども・・・ぜひとも田中さんに取り組んでいただきたい分野なのです。


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