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『近代批判とマルクス』紹介(2)

1:『近代批判とマルクス』紹介(2)
田中 09/26 12:11
 「自己関係は社会的諸関係の第一次性からすれば派生的である。しかし、自己関係は社会的諸関係を生産する現実性でもある。たとえばA−Bという関係が存在するときに、AはBとの関係において反省的にしか存在しえないが、しかし同時にA−Bという関係をつくる関係項、関係の主体的根拠である。そして、AはA−Bという関係において対Bというパースペクティヴをもった関係を生成させる。ここに自己関係というエレメントの現実性を認めなければならない。」(p.21)
 レヴィナスとの関連でいえば、ここで述べられているのは「他者」との関係を前提にし、それに規定された「同」の存立構造=「主体的根拠」としての「同」ではないでしょうか。「絶対的に分離された」ものとしての「同」が「絶対的他者」の現前という「教え」を受けとる、これが倫理としての「社会的関係」である。このようにレヴィナスは論じていますが、そのような「教え」を受けた「同」はどのようなものなのか、「絶対的に分離」されながらも「他者」との関係に入った「同」とはなにか、そのようなものとしての「同」はどのように自分を意識するのか、そういった問題だと私は思います。レヴィナスにもそのような問題は意識されていました。「反省によってたしかに、この対面を意識することはできる。けれども、反省の「反自然的」な立場は、意識の生のうちにたまたま生じるものではない。反省には自己を問いただすことが含まれており、批判的な態度がはらまれている。これらは、じつはそれ自体<他者>の面前で、その権威のもとで生起する。このことはのちに示すことにしよう。対面がいずれにしても究極的な状況でありつづけるのである。」(『全体性と無限』(上)p.150~1)まだ読書の途中なので具体的な内容は読んでいませんが、レヴィナスにも自己関係知が問題として存在することは理解できました。
 反照の弁証法における自己内還帰の規定は、「同」にすべてを回収し、よって全体性を定立する契機ととらえることができます。ヘーゲルにおいてはそうでした。しかし、マルクスは人間を感性的存在として対象的に把握し、しかも現実の(歴史的)社会的関係に定位することによりそのような把握を行ったと考えれば、全体性の魔物をしりぞけることが可能ではないかと思います。この点についてはもう少し考えてから、書いてみたいと思います。


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