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「了解」と「把握」の違いとは?

1:「了解」と「把握」の違いとは?
田中 08/05 17:51
先の投稿で一から勉強しなおしてから問題提起すると書きましたが、やはり途中でも疑問が生じます。そのままにしておいては自分がなかなか前に進めないので、榎原さんや恵さん、あるいは他の読者の方に教えを請うしだいです。 
 「根源的他者と価値形態論」のなかで、榎原さんは次のように書いています。「思考の論理で把握しきることの出来ない事態については、それが別種の仕方で抽象し判断している概念的存在であることを了解することが唯一の途である。他者の論理を思考が展開することは不可能だが、他者がどのように抽象し、判断しているかを知ることは可能である。」分析的抽象と事態抽象は他者であり、その限りでは事態抽象は思考の外部にある、と言えると思います。しかし、榎原さんが提起する文化知という思考にとってそれは他者なのでしょうか。価値形態論において商品という「他者がどのように抽象し、判断しているか」が展開されているのは、マルクスの思考が事態抽象の論理を展開したとは言えないのでしょうか。「了解」と「把握」はどのように違うのか、私には判然としません。従来の哲学的思惟における存在と認識の一致としての真理論を批判するための戦略なのでしょうか。社会を意識の対象とすることによって、逆に意識のなかの社会を現実の社会として措定してしまう哲学を批判するための戦略なのでしょうか。しつこいようですみませんが、榎原さんのコメントをお願いします


2:Re: 「了解」と「把握」の違いとは?
megumi 08/09 02:16
田中さんの提案された了解と把握・・・の問題について、私は次のようなことではないかと思いました。

「商品Bに対する価値関係に含まれている商品Aの価値表現を立ちいって考察してみると、この価値表現の内部では、商品Aの現物形態はただ使用価値の姿態としてのみ意義をもち、商品Bの現物形態はただ価値形態または価値姿態としてのみ意義をもつ、ということがわかった。」(四版註22後段落)

上記では、マルクスさんは、価値形態と価値姿態とを分けている。
「価値姿態」の意味は次の表現に明らかです。

「商品世界の一般的な相対的価値形態は、商品世界から排除された等価物商品であるリンネルに、一般的等価物という性格を押しつける。リンネル自身の現物形態がこの商品世界の共通な価値姿態であり、したがって、リンネルは、他のすべての商品と直接に交換されうるものである。リンネルの物体形態が、いっさいの人間労働の目に見える化身、一般的社会的蛹化、として通用する。リンネルを生産する織布労働という私的労働が、同時に、一般的社会的形態で、他のすべての労働との同等性の形態で存在する。」(四版「一般的価値形態」「1価値形態の変化した性格」)

感性的なものと超感性的なものとの関連を見て取れますよね。
これを基礎に、榎原さんの提起する問題の文章解析に挑戦できますよ。

「使用価値上着は、等価形態にあることによって、上着という使用価値のままで、リンネルとの直接的交換可能性という経済的内容をもつ。抽象的人間労働という労働の社会的性格が、ここでは上着物質に体化する。この価値関係の内部では、綜合による抽象化が行なわれ、商品価値の実体はまぼろしのような対象性に還元されるが、同時にこの価値実体は両極化され、上着という具体的なものが抽象的なものの体化物とされることで、リンネルが自らの価値を上着物質で表現し、判断を下している。ここで思考にとっては理解不能であった、抽象的で普遍的なものが現実に個物としてある、という事態があらわれる。観念論が展開した形而上学における思弁はたしかに、普遍的なものの化身として個を措定することができた。だが、それは思考の枠内でのことであり、思考が価値形態を了解していたわけではなかった。」(「根源的他者――思考と価値形態」)

「普遍的なものの化身として個」これは実は資本論での次の提起を受けているのではなかろうか?

「同一の事物の現実に存在するすべての種類をそれ自身の中に包摂する単独者は、動物、神、等々のような普遍者である・・・リネンは全商品に共通の価値の現象形態として、一般的等価物、一般的価値身体、抽象的人間労働の一般的顕現体となる。したがって、リネンの中に物質的に顕現した特殊な労働は、いまや人間労働の一般的な顕現形態として、一般的労働として通用する。」(初版「?相対的価値の第三の、逆転した、あるいは逆関係になった第二の形態」筑摩書房P300)

さらに、『初版』を読み進んでいくと
「逆にいうと、すべての他の商品の価値の現象形態としてのリネンに自分を関係させることによって、リネンの実物形態は他のすべての商品との直接的な交換可能性の形態になり、、したがって直接に商品たちの一般的に社会的な形態になる。」(同上P304)
と、述べてあり、感性的な姿態と、超感性的な形態の関連が明らかにされたのでした。具体的なものとして把握する内に超感性的なものを了解できないと、我々労働者はどうにもちんぷんかんぷんになってしまいます。

得手勝手な思い込みかもしれません。もしそうであれば、榎原様訂正願います。



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