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価値対象性としての等価形態

1:価値対象性としての等価形態
田中 07/21 13:55
 私の価値形態の理解は、恵さんがまとめられたものと相違しないと思うのですが、価値存在と価値対象性について補足的な説明をさせていただきます。
 最初に対象性についてですが、私はこの語句を感性的に把握されうるもの、と言う意味で理解しています。マルクスが価値を「まぼろしのような対象性」と述べているのは、価値はそれ自体としては超感性的なものであり、感性的に把握されうると言う意味で現実に存在するものではないことを示しているのではないでしょうか。
価値対象性とは、価値が感性的に把握されうる対象となっている、という意味で理解しています。それに対して価値存在とは価値物と同じ意味です。
 商品は単独ではただその現物形態=使用価値としての対象性をもつにすぎません。他の商品と交換関係(価値関係)を結ぶことによって、他の商品の現物形態=使用価値を自らの等価形態として規定する。そして等価形態にある商品の使用価値を自らの価値の現象形態=感性的に把握されうる形態になすことにより、自分の価値対象性を表すのです。ここで商品の二重性は、自らの現物形態としての使用価値と、他の商品の現物形態としてのみずからの価値形態という形で、対象的に分化して示されるのです。価値という超感性的な社会的質が、他の商品の使用価値という形で、対象的に表現されているということです。
 マルクスのベイリー批判は、他の商品の使用価値が等価形態として現れることをもって、価値を現象形態としての交換価値にのみ限定したことへの批判です。そのような限定をすればあとはただ交換比率のみが問題となるにすぎません。マルクスは交換価値として現れる交換関係を、相対的価値形態にある商品が主体として形成する反省の関係として捉え、その内実を価値形態論として展開した、このように私は理解しています。
 とここまで書いてきて、自分の「疑問」投稿文にもベイリーと同じような限定があったことを思い出しました。稿を改めて弁明したいと思います。


2:Re: 直接的交換可能性
megumi 07/25 07:14
田中さんの<価値存在と価値対象性>の提案は、明解ですばらしいです。

しかし、価値対象性を表す価値形態上着との規定は、上着が価値物上着としてリンネルに等置されたからでした。リンネルの価値存在は、価値物上着を、価値体・あるいは、榎原さんの言葉で言えば、上着を価値の化身・人間的労働一般の化身とするリンネルとの反省規定の関連による事態抽象のなかで現れたのでした。<価値存在と価値対象性>は、商品の価値関係を表す一対の概念だと思うのです。だから、わたしは、両者ともに超感性的なものを表す表現と思うのです。

ところが、田中さんはこう述べています。
「価値対象性とは、価値が感性的に把握されうる対象となっている、という意味で理解しています。」
「価値対象性」を巡る議論を、<物象たる商品の判断とは?>とわたしは考えてみたいのです。
榎原さんの、人々の理論的抽象ではなく、等価物上着の役立ちによる事態抽象・・・を明らかにしての物象化の明示は、すばらしいものでした。しかし、次の物象的関連による「判断」の提案は巧くないように思うのです。

「ところが商品が価値関係のなかで行う抽象作用は、単に抽象しているだけでなく、判断をも提示しています。1台のテレビは2着のスーツに値する、というように相対的価値形態にあるテレビの価値の大きさが、等価形態にあるスーツの量で判断されているのです。」(文化知の提案―新しい社会運動の原理―第5章文化知の応用・概念的存在としての商品)

初版ではこの問題がこう提案されています。
「ところで、リネンが自分自身の価値を一着の上着で表すのか、二着で表すのかは、ここでの前提のもとでは、ひとえに一エレのリネンの価値の大きさと、上着形態にその価値が表現されるはずのエレの数によって左右される。一つの商品の価値の大きさは他の商品の使用価値のなかでのみ、相対価値として自分を表現することができる。それとは反対に、一つの商品は、他の商品の価値が表現される材料としてのみ、、直接に交換可能な使用価値又は等価物の形態をまとうことができる。」(初版 『マルクスコレクション?』 筑摩書房P292〜293)
 等価形態には量的規定性がないことの注意なのですが、四版ではこう表されていました。
 「商品Aの価値は、質的には商品Aとの商品Bの直接的交換可能性によって表現される。商品Aの価値は、量的には、商品Aの与えられた量との商品Bの一定量の交換可能性によって表現される。」(四版原P74四単純な価値形態の全体)
 等価形態にある「2着のスーツ」は、1台のテレビとの関連を価値の化身とすることで表すのだから、スーツは価値形態でありテレビは自然的形態であるという二重の商品形態をうけとる。つまり、等価物スーツを反省規定とする両者の価値関係のなかでは、両極の商品は、自然的形態と社会的形態の対立的形態を自ずと受け取る。そこで、等価形態スーツは、使用価値の自然的形態のままに、商品の社会的形態である使用価値の直接的交換可能性の判断を受け取り、他方のテレビは、私的で自然的形態である使用価値との判断をうけとる。
 等価物スーツは、テレビとの交換比率1対2を表すのでなく、2着のスーツの、使用価値の姿のままに直接的交換可能性を表しており、社会的形態を持つことで、テレビの価値の現象形態になり、超感性的姿態となる。しかし、そこに使用価値の価値表現の材料の具体的・自然的姿態をのみ見るならば、相対的価値表現でのように、商品は手で掴みうる自然的形態でしかないのである。スーツは、テレビの価値表現の材料となることでのみ等価物としての役割、反省規定を成しうるのだから、スーツは、<使用価値として価値の現象形態>の新たな規定(超感性的)を受け取る。、つまり、これが価値形態の秘密だと思うのです。

あるいは初版付録でこう述べられています。
「したがって、一つの商品がそもそも等価形態を持つという事態は、ただ次のことを意味するだけである。――価値表現によってそれ自身の実物形態は他の商品にとって価値形態として通用する、あるいは、それは他の商品との直接的交換可能性の形態を持つのである。このように、それが他の商品にとって価値として現れ、価値として通用し、他の商品にむけて価値として働きかけるためには、わざわざそれ自身の直接的実現形態から区別される形態をまとう必要はないのである。」(初版付録 筑摩書房P332〜333)

質問をしたり、他の考えを提案したりすることはすばらしいことです。そのなかから、今まできずかなかったことを思考できるからです。


3:Re: 非直接的交換可能性
megumi 07/26 19:56
田中さんの<価値存在と価値対象性>について次の主張がありました。
「商品は単独ではただその現物形態=使用価値としての対象性をもつにすぎません。他の商品と交換関係(価値関係)を結ぶことによって、他の商品の現物形態=使用価値を自らの等価形態として規定する。そして等価形態にある商品の使用価値を自らの価値の現象形態=感性的に把握されうる形態になすことにより、自分の価値対象性を表すのです。」(価値対象性としての等価形態)

わたしは、<商品の判断>についてへの設問と思えたので、榎原さんの主張を紹介しました。

協同組合運動研究会の術語集 (7)判断形式の特質・・・には先の紹介が次のように訂正されていました

「話を商品に戻しましょう。商品にある種の抽象化がそなわっていることは了解したとして、次に問題になるのはそれがどのように判断をするか、ということです。抽象化の能力があるだけでは意識を支配できても、意志を支配することはできません。判断が示されることによってはじめて、人間の意志が発動されることになります。
 この点では、商品は極めて巧妙に立ちまわります。テレビは自分の社会性が2着のスーツであると主張しているのですが、この判断の形式は、テレビが社会的なものそれ自体を示すのではなくて、一定分量の物でこれを示すことを特徴としています。
 そこで人間は不可避的に錯覚に陥ります。テレビの社会性は等価形態にあるスーツの自然的な性質であるかのように見えるのです。
 判断の形式がこのようなものですから、人間は商品の本質とは何か、とか、それがどのようにして抽象しあっているか、といったことは何も知らなくとも判断の内容だけははっきりと理解できます。
 こうして、商品が抽象し、判断することのできる存在であることが示され、人間の意志を支配しうる存在であることが証明されました。ところが人々は、このことを認めません。」

商品形態――自然的形態と価値形態あるいは、使用価値と直接交換可能な使用価値(交換価値)の2重の姿態は、商品の判断を明示している――と榎原さんに同調したのです。資本論四版では、使用価値と価値形態の二重の姿態の「意義」についてこう述べられていました。

「商品Bに対する価値関係に含まれている商品Aの価値表現を立ちいって考察してみると、この価値表現の内部では、商品Aの現物形態はただ使用価値の姿態としてのみ意義をもち、商品Bの現物形態はただ価値形態または価値姿態としてのみ意義をもつ、ということがわかった。したがって、商品のうちに包みこまれている使用価値と価値との内的対立は、一つの外的対立によって、すなわち二つの商品の関係によって表され、この関係の中では、それの価値が表現されるべき一方の商品は直接にはただ使用価値としてのみ意義を持っており、これに対して、それで価値が表現される他方の商品は直接にはただ交換価値としてのみ意義を持つ。したがって、一商品の単純な価値形態は、その商品に含まれている使用価値と価値との対立の単純な現象形態なのである。(原P75〜76)

この段落の意味について、今まで理解できていませんでした。
商品は、商品の価値関係を構成する上で、自然的形態と価値形態が、両極の二重の姿態として「意義をもつ」と判断しているのですね。価値形態は使用価値の直接的交換可能性の形態であり、直接に社会的性格を有すると判断されることから、「単純な商品形態は貨幣形態の秘密である」(初版付録第三節)と、マルクスが喝破したのですね。初版で註33・四版で註34の、プルードンの労働貨幣論への「一般的直接的交換可能性」と「非直接的交換可能性」の「不可分離性」の無視という批判は、商品の判断の存在を暴露するものだったのですね。
 おかげさまで、新しい読みに挑戦できました。



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